悟りを形にしていく〜その3
- 道場稽古の基本原則
- 自己の中心を護る
- 組手型修練の原則の詳細
- 不動の中心への到達を目指して
- 組手型と試合の修練は車の両輪の如し
- 自己の中心を活かす対応
- 悟りを形にしていく〜100人組手の修行
- 拓心無限
組手型と試合の修練は車の両輪の如し
ここで、私の組手型と試合修練の指導法について少し述べてみます。私が稽古の際、心掛けているのは、「組手型と試合の修練は車の両輪の如し」「自己(取り)は「攻撃技を仕掛ける相手の中心を自己の技(対応)によって奪う(取る)」という原則を伝えることです。さらに伝えたいことは、本道場における武術修練とは、「自他の心身をより善く活かす理法(道)を求める修行」だということです。そのような修行のおける要点は、組手修練においては目先の勝ち負けに囚われず、その裏側にある道(理法)に目を目け、理合と一体化した技の体得を目指すことです。
そのためには、皮相的な勝ち負けに一喜一憂するような組手稽古、試合稽古をしてはなりません。あくまでも、「組手型稽古と試合の修練は車の両輪の如し」です。その稽古の目指すところは、道(理法)の感得という境地(目的地)です。そのためには道(理法)を地図のように意識しなければなりません。そのような武道が極真会館増田道場の空手道です。また、その地図が増田道場の修練体系に組み込まれた、拓心武術の修練体系であり、拓心武道の思想なのです。 もう一つ、先述した拓心武道の思想によれば、試合においてはたとえ規定(ルール)による勝ち負けが宣せられても、その勝敗に一喜一憂してはなりません。本道場が実施するTS方式の組手法は、「技あり」を点数に換算し、規定時間内における点数の多寡によって勝敗を決します。しかしながら、試合後は感想戦によって、その「技あり」を吟味すること、すなわち、全体の勝敗ではなく、「技あり」を取った局面における技のレベル(制心−制機−制力の一致)を吟味、分析することです。つまり、試合の勝敗よりも、試合の中で顕れた、技のレベルを判断、理解することが試合稽古の真の意味なのです。
補足すれば、そのような感想戦、吟味を行うために「組手型」は「物差し」として使うものだ、とも言えます。また、試合稽古は「生死を分ける局面」において理法(道)合致した技を使えるかを目指すために必要な稽古だ、と私は思っています。その生死を分ける局面は絶えず流れるが如く変化しています。ゆえに絶えず自己の中心を奪われないためにも、「制心」「制機」「制力」の一致した技の執行を心がけなければならないのです。 そのような思想によれば、組手型と試合修練の際、意識すべきことは、相手と対峙しながら同時に自己の中心と対峙することです。これが相手との一体化の意味です。同時に、自己の中心を相手の動きや形に引きずられ、崩し、奪われることのないようにすることです。言い換えれば、相手の中心を自己の中心と合致させ、、相手の中心のわずかな変化に気付き、かつ自己の中心の変化に心を配ることです。さらに言えば、私が考える武道の修行とは、その自己の中心を他(自己以外の全て)に決して奪われることなく自己を維持することを目指すことなのです。
自己の中心を活かす対応
武技と言わず、他によって自己に働きかけらる全ての技は、それによって自己の中心を奪われず、自己を失うことなく、「自己の中心を活かす対応」につながらなければならないと思います。もちろん、それができる人間は皆無かもしれません、しかしながら、私は人間には本来、そのような理法(道)を知っているはずだと思っています。例えば、生まれたばかりの赤子の中心は、その理法に則り、対応しているのではないかと思います。しかし、その無邪気でかよわい赤子に危害を加えようとするような行為に対し、自己の中心と心身を護るために創出され、かつ有事に発動される技と精神が日本武道と言えるものだ、と私は考えています。その精神と日本で育まれた神、仏、儒道の哲学が相まって醸成された武士の行動の原理原則が武士道だと私は思っています。もちろん、武士の全てが高潔で高い人格を有する人間だとは思っていません。しかしながら、武士道を体現するような武士も存在したと信じています。また、その武士道に現代の価値観にそぐわない部分もあると思います。それでも、遺したい普遍的な価値を有する部分もある、と私は思っています。残念ながら、その良い部分のほとんどが時代の荒波に飲まれ、変節していったように思います。
その原因は、自我の成長のさせ方に諸問題の因があると思っています。もちろん自我の成長が人間の成長であり、また優れた自我は社会を発展させたりもするでしょう。しかしながら、その自我が社会を統べるために権力を形成し、かつ優れた権力者となり、その権力者が権力構造の中で変節していくのも事実だと思います。その権力者の裏に働いている自我の決定、言い換えれば、判断と選択、そして行為が無邪気な赤子、すなわち弱者に対し、邪心に満ち、横暴なものだとしたら、皆さんはどう思いますか。よほどのことでなければ、「仕方ない」また「法に触れていなければ良し」というように判断するのですか。私は、そのような消極的な考えを肯定しません。もちろん、本当に仕方のないこともあるかもしれません。しかしながら、もし重大な判断と選択に偏見や好悪の感覚が混じっているとしたら、私の性質では納得できません。なぜなら、そのような判断と選択は、大袈裟かもしれませんが、赤子の心を踏みにじる行為と同等だと思うからです。ここでいう赤子の心とは、まだ可能性が残された弱者の心と言っても良いでしょう。そのような判断と選択、そして行為は、次世代と子孫に必ず、怨念と禍根を残すように思います。もちろん、私はそのような怨念や禍根を乗り越えていかなければならないとも思いますが、赤子の心を踏み躙られるような体験をした側からすれば、していない者がそのような上から目線で諭しても、果たして納得してくれるでしょうか。赤子の心を踏み躙られるような体験をした私には、納得できません。
随分と大げさな話になりましたが、私がここで述べたいことは、自我が成長し、優れた理性を発揮する大人であっても、今一度、その判断と選択を理法(道)に照らして、人間本来の中心を見失っていないか、見直す必要があると言うことです。また、繰り返しますが、自己の判断と選択が理法(道)から外れるのは、知識が増えたことによる損得勘定、そして偏見や好悪によって行われていないか見直すと言うことです。さらに言えば、百歩譲って、人間に偏見や好悪が生じるのは仕方ないとしても、それを自己の有する何らかの「力(権力)」を背景に押し付けるのはよくないことだと思います。かく言う私の論も私の偏見や好悪だと思われるなら、さらに私は耐え続けるだけです。ただ、そんな人間の在り方が、有史以来、さまざまな理不尽、争い、葛藤を生み出してきたのでしょう。そして、私は我が国が育んだ武の先達と時空を超えて対話し続けます。
私のバックボーンである極真空手は、組手の際、相手に突き蹴りを当てるという修練方法を唱えてきました。また、突き蹴りを一撃必殺のものとせよ、と教えてきました。そのことは、弱い身体と対峙し、それを鍛錬し強化するという意義はあると思います。しかしながら、技の威力を高めるために身体鍛錬のみが武術の修練だとは思いません。私は身体鍛錬も技の修練にも共通するのは、自己の身体の限界に挑みつつ、自己の中心を掴むことだと思っています。それは「自己が強い」と無理やり信じるためのものではなく、本当の強さを自覚することと言っても良いことです。言い換えれば、「自己(心身)は弱い」あるいは「自己はまだ未熟だ」と言う認識を超えでるためのものです。言い換えれば、自己の心が作る限界や壁を乗り越えることです。その乗り越えるとは、例えです。その例えの企図するところは、自分自身を他者から与えられた言葉によって限定して認識してはならないということ。そして自己の中心の自覚によって自己の可能性を感じることが大事だということです。
次へ続く
2022年8月24日:一部加筆修正