悟りを形にしていく〜その4
- 道場稽古の基本原則
- 自己の中心を護る
- 組手型修練の原則の詳細
- 不動の中心への到達を目指して
- 組手型と試合の修練は車の両輪の如し
- 自己の中心を活かす対応
- 悟りを形にしていく〜100人組手の修行
- 拓心無限
悟りを形にしていく~100人組手の修行
私が若い頃、挑んだ100人組手の修行を、私は自己の中心を掴むための修行だと認識し臨みました。それは、「悟り」の経験だった思います。ただ、そのような明確な認識を有する者はいないかも知れません。これまで、私は「自己の中心」や「悟り」という言葉は使ってきませんでした。なぜなら、誤解を与えると思ったからです。しかしながら、私の人生も最終章に近づいてきました。そして、新たな武道論を展開するにあたり、誤解を恐れずに書き記していこうと思っています。おそらく、歴代の100人組手修行者も私の思想を知れば、私の考えを理解してくれると思います。
私の場合、大事な組手の世界大会の前に100人組手の修行を行ったが故に大きな犠牲を払いました。それは100人組手の修行による腎臓へのダメージで1ヶ月ものベットレスト状態、また退院後も食事制限などを余儀なくされ、一時的ですが持久力、筋力などの体力を大幅に失ったことです。しかしながら、その見返りに、と言えば、語弊がありますが、「悟り」のような感覚を得たのです。それは相手の中心の変化を自己の中心で感じ、かつ間髪を入れずに技で対応すると言う「応じ(技)」の原理と原則があるということです。さらに、真の勝、そして不敗とは、誰かの作った価値によって判断されることではなく、中心を奪われずに破邪顕正を執行するならば、自然と得られるものだという認識です。私はそのような認識と覚悟で100人組手の修行の後の世界大会に臨んでいました。その結果、誰にも負けなかったと確信しています。しかしながら、その悟りも、人間の欲心、そして自己の間違った判断と選択ゆえの争いに身を投じたことにより、自己の中心が奪われてしまいました。その結果、私の心身は衰え、体得した「悟り」は消えました。しかしながら、それから数十年の人生の中における思索により自己の愚かさ、間違いを痛感しています。
その100人組手の修行から30年近くも経ち、私も還暦を越えました。残された人生もわずかでしょう。しかし、あの悟りを再び本物とするために最後の挑戦に挑むつもりです。確かに、体力や気力等は衰えました。障害もあります。しかしながら、今一度、私は自己の中心を信じ、それを活かしていきたいと思っています。
具体的には、かつて自己の心身に浮かび上がった「悟り」を形にしていくことに尽力します。また、その後継者の育成です。その形を表すための枠組みが組手型と試合修練を車の両輪の如く体系化した拓心武術なのです。
拓心無限
昨今、私は世界には多様な文化的背景による様々な差異があり、完全な理解はできないと思うこともあります。だからこそ、その現実を打破するために芸術家や文学者、などが新たな価値を提示しようとしているのだと思っています。同様に、他を殺傷するような武を根源とする武術であっても、その修行の核に「自己の中心を護りことは自己を活かすことであり、自己を活かすことは他者を活かすことである」という「悟り」を見失わないこと。もし、そのことが真に体得できtれいれば、敵対する者にも偏見を持たずに理解、そして対応できるはずです。そして、私は武術修練を「悟り」を得ることを目標とするならば、武術が人類が平和共存に向かうために有効な人間修行の手段となりうると思っています。
最後に、私の主宰する極真会館増田道場の修練体系に組み込まれた拓心武道は、極真空手のみならず、あらゆる武術を活かし、進化させるものです。その核心は拓心武道哲学の形成です。しかしながら、その哲学とは私のみの哲学を指しているのではなく、武術修行者の一人ひとりが自己の中心を自覚し、かつ活かす過程において形成されるものを指しています。
また、私が拓心武術のゴールとしているのは、拓心武術の修練により、心の無限の可能性と中心を悟り、自己の霊性に目覚めることです。そして、その霊性と自己の中心を活かして社会をより善くしていくことです。(2022年8月21日)
小論〜悟りを形にしていく
終わり
本小論は、極真会館増田道場の門下生に向けて、私の武道哲学、修練理論を伝えるために書きました。私の思いが届きますように…。