悟りを形にしていく〜その2
- 道場稽古の基本原則
- 自己の中心を護る
- 組手型修練の原則の詳細
- 不動の中心への到達を目指して
- 組手型と試合の修練は車の両輪の如し
- 自己の中心を活かす対応
- 悟りを形にしていく〜100人組手の修行
- 拓心無限
組手型修練の原則の詳細
組手型修練の原則の詳細について述べてみたいと思います。まず組手型の修練(稽古)では、攻撃技を仕掛ける「受け」と攻撃技に応じる「取り」と立場を分けます。 その「取り」の側から見ると、「受け」とは、中心を奪うための攻撃技を仕掛けていく相手です。一方、「取り」とは、中心を奪いにくる「受け」の技から自己の中心を護る側です。同時に「受け(相手)」の中心を逆に奪い取る者のことです。つまり、型(組手型)の修練の意義とは、相手の攻撃から自己の中心を護るために、相手の技の中心を崩し奪い取ってしまう対応法(応じ)の原理を学ぶものなのです。そのために、攻撃技を原理的に細分化し、その細分化された攻撃技に対し、より良い対応法の型を規定しているのです。そして、その規定を習得することで、さまざまな攻撃や変化(相手の)に対し、自己の中心を崩すことなく対応できるようになるのです。また「受け」の側から見れば、他者の中心を奪い取るための攻撃技を仕掛ける場合の原則を学びます。その原則とは、自己の仕掛け方が粗暴で恣意的なものの場合、武の理法(道)を体得した者と対峙したなら、技は破れ、かつ自己の中心を奪い取られてしまうということです。平たく言えば、「取り」の応じの型を体感することで、斯様に攻撃技を外され、かつ崩され、反撃を受ける」という原則を学ぶ立場が「受け」の立場です。ゆえに「受け」の意識も、自己の中心を見極め、かつ技の精度を上げることを意識しなければなりません。また、中心に含まれる心の働きを純粋にすることが肝要です。さらに言えば、組手型の修練は、「受け」と「取り」、それぞれの立場における技の精度、意識の真(実相)を吟味することが必要です。
補足を加えれば、組手型における「受け」そして「取り」の意識の共通項は、自己の中心と対峙することです。そして、武術修練における組手型の修練では、自己の中心との対峙の意味は相手(他者)の中心との対峙となるのです。もう一つ大事なことは、組手型の修練(稽古)を初めて行う際は、「受け」の立場には、組手型の意義、目的、意味のわからない者ではない方が望ましいと思います。要するに、攻撃を適当に行う者ではなく、相手の力量に合わせ、時にゆっくり、また、より正確に攻撃技を出せる上位の者が行うことが原則です。
以上が組手型の修練(稽古)の意義と目的、そして意味の説明です。これまで私は先述した原則と原理を意識しながら、空手道でいう約束組手の稽古を行ってきました。しかしながら、40年以上も稽古指導をした中、その意義を理解した黒帯は皆無でした。その原因は私が以上の原則と原理を真に理解していなかったからだと反省しています。
「不動の中心」を掴み、絶対不敗の境地に立つ
その反省点に立ち、私は長年の修練・稽古法の研究と改善を思案してきました。そしてようやく新しい修練・稽古法を編み出しました。それが拓心武術の組手型と試合修練です。 そこに至った経緯、そして考え方を誤解を恐れずに述べれば以下のようになります。まず、空手の稽古が私が考えるような武の真髄に至らないのは、私が修行してきた空手における約束組手という概念が形骸化し、浅いこと。 また、徒手武術の基本である顔面(頭部)への打撃を基本としないことだと思っています。 そこし脱線しますが、剣術のような絶対的な威力を有する道具である太刀(日本刀)を扱う武術に対し、徒手を基本とする空手武術は、絶対的な威力を有する武器に対峙するという覚悟が希薄です。この絶対的な威力を有する道具(武器)に対峙し、それと一体化し自己を活かすという覚悟による理法(道)の希求が日本武道の中心だ、と私は考えています。
もちろん、空手の先達も絶対の技を追求したのだとは思いますが、肉体の力に頼る理法は、未だ道に到達してはいません。そのように述べることは、誠に不遜なのですが、あえて述べておきます。日本武道の先達が到達を目指した境地は絶対的な境地です。言い換えれば、「不動の中心」を掴み、絶対不敗の境地に立つことです。
話を戻して、空手の場合、剣術における「組太刀」とは異なり、相手の攻撃に対する技の稽古を約束組手とし、型を独り型においていることが挙げられます。その結果、約束組手の意義が単に受け返しを技を覚えたり、反射神経を鍛えるのみのものだ、とほとんどの人が理解しているのだと思います。同時に型は、武術の意義から逸脱した価値によって判断、評価され、修練されています。もちろん、型を編んだ先達には、武の技への認識があったとは思いますが、それが継承されているとは思いません。また、新しい価値を空手に付与し、修練することにも一定の効用はあるでしょう。しかし、そのような浅い技の理解、また意識の稽古は、武の稽古ではないと思います。
例えば、約束組手の稽古によって、受け返し技を覚え、かつ素早い反射神経で相手の攻撃に対応するとしましょう。そのような意識と動きには無駄な動きが多すぎるのです。いうまでもなく、武術の技術には、鋭い反射神経が必要です。しかし、もっとも重要なことは、反射神経、体の動きを無駄なく繋げ、相手の技の発動に対し間髪を入れずにそれを制する術と能力を養成し、同時に絶対の心(不動の中心)を育むことだと思います。そのような能力と心を体得するには、自己の動きや技の原理(理合)を突き詰め、それを活用する新たな原理を創出し、それを我がものとすることが必要です。かくいう私の能力はたかが知れています。しかし日本武術の先達が到達した技の理合や思想の片鱗に触れると、その深奥を尋ねてみたいという思いが湧き上がります。
再び脱線すると、日本の剣術は、1000年以上の長い封建制度の時代において生成化育された日本の身体文化であると共に精神文化だと思います。その剣術と比べれば、空手はまだまだ浅い歴史しか経ていません。もちろん、私の剣術に関する知識などはないに等しいものです。しかしながら、その哲学の片鱗を読み知ると、私は古の武人と技に最大の敬意を払わずに入られません。 話を戻して、私は不遜ながら、日本武道の思想を探求すると同時に我が極真空手に反映させようと模索してきました。そして改善点を多々見出していましたが、改善するには至りませんでした。しかし、ようやく50年近くたって、不動の中心への到達を目指して、稽古法の改善を試みています。その稽古法の改善が拓心武術・武道を基盤とする顔面ありのTS方式の組手法・試合法と組手型の稽古の実施です。しかし、私の考える武道、また日本武道の精髄が、物事を洞察するということ、すなわち哲学することだと誰も理解していません。
次へ
2022年8月24日:一部修正