悟りを形にしていく(その1)
- 道場稽古の基本原則
- 自己の中心を護る
- 組手型修練の原則の詳細
- 不動の中心への到達を目指して
- 組手型と試合の修練は車の両輪の如し
- 自己の中心を活かす対応
- 悟りを形にしていく〜100人組手の修行
- 拓心無限
もし、拙論の全文に興味がある方は、増田道場生専用の教本サイトを公開しています。そのページでお読みください。
以下は、デジタル空手武道教本・組手型(有段者)のページ
道場稽古の基本原則
私の主宰する空手道場では、白帯から有段者までの幅広い力量の道場生が一緒に行う一般稽古では、まずは基本技の稽古、そして極真空手の伝統型の習得が重要です。また、それ以上に重要なのが、組手型と組手の稽古です。ただし、初心者に対しては、修練項目が多く、習得に大変な労力と時間を要します。よって、組手型の稽古は、必修組手型を設定し数少なくしています。それら必修組手型の稽古は組手稽古を行う際、最低限、必要な項目です。しかしながら、黒帯になった後は、さらに深い修行をしていきます。
さて、初めて組手稽古を行った時のことを思いだしてください。おそらく、ほとんどの人が相手の攻撃技に戸惑い、また上級者の攻撃技の多様さに恐怖を覚えたに違いありません。そんな時、体力のあるものは「攻撃が最大の防御なり」とばかりに自分の技を出す。あるいは、体力に自信がないものは、適当に組手をやり過ごしたてはいなかったでしょうか。
一方、少し組手稽古に慣れた時、組手が組手に慣れていない者が相手の場合、自分の技を何も考えず、自分勝手に繰り出していたことがあったのではないでしょうか。そのような組手の仕方、稽古態度は全て良くありません。これまで、私にも同様の態度があったかも知れません。しかし、そのような態度は、私が最も忌み嫌うものです。そのような態度、考え方を持ち続ける者はいつか敗れ、そして上達はないと思うからです。また、相手の攻撃技に場当たり的に対応したりすることもよくありません。さらに言えば、相手攻撃を無視するかのように自己の攻撃技(仕掛け技)のみを乱暴に仕掛けるような組手稽古は一利はあっても多大な害があると思います。また、そのような組手稽古は日本武道が到達した高次の理念を重視する、私の空手道場(極真会館増田道場)では強く戒めるものです。
自己の中心を護る
私の主宰する空手道場において実施する組手型と試合修練について解説します。まず、一言で言えば、組手型と試合修練の意義は、「自己の中心を護る理法(道)を学ぶこと」です。しかしながら「自己の中心を護る」と言っても、抽象的すぎて理解できないと思います。ゆえに以下、より詳細に解説してみます。
ここでいう「自己の中心」とは物理的な中心のみならず心理的な中心を併せ持った中心です。そのような中心を拓心武術の修錬用語では「中心」とします。そのような中心から技が発せられると考えるのです。また、自己の生命を脅かすような技、すなわち自己の中心を取り(奪う)にくるような技に対し、自己は中心を取られず、逆に相手中心を取らなければなりません(奪ってしまうこと)。そのような認識で行う修練が本来の武道修練です。しかしながら、皆、その認識に立っていないと思います。その原因は、技のやり取り、そして目的が、単なる「当て合い」または「投げ合い」をゲーム化し、そのゲームの勝敗に価値をおいているからでしょう。そのような考えは日本武術が到達した武道思想を忘却していると言わざるを得ません。もちろん、そのようなゲーム化による効用はあるとは思います。しかしながら、同時にその弊害もある、と述べておきます。そして、その弊害を取り除き、本来の効用を取り戻すためには、組手型と試合修練を車の両輪の如く機能させるべきだ、と私は考えています。なぜなら、武術の修練とは、単なる試合の勝敗を目的とするのではなく、自己の命を奪いにくる技から自己の命を護るために、その技を制するためのものだからです。そして、武の基本は、相手の技を未然に正確、かつ、より迅速に予知することです。
そのような基本を見据てているからこそ、相手と対峙した時には、相手の中心を見極め、かつ自己の中心をそれと合わせることを組手型の修練(稽古)の基本とするのです。すなわち、相手と中心を合わせることができ、初めて、相手の技をより良く避け、かつ制する技を発現させることが可能となるということです。言い換えれば、相手と一体化して初めて、武のより良い技を創ることができると言っても良いでしょう。
その原則を理解するために組手型の修練では、相手と対峙した時にまずは互いの中心を合わせるということを重要とします。そこから、相手の中心の変化とその変化によりよく対応するための理合と技術を体得していくのです。
以上の前提に立ち、拓心武術における組手型の全ては、「自己の中心を護る」ということを武の理合の根本とするのです。さらに、組手型で学んだ理合を試合稽古において吟味すること。また、試合修練によって他(相手)の中心の多様な変化の形を学び、その変化に対し、自己の中心を奪われないよう、理法(道)を体得し、かつ不動の自己の中心を形成、育んでいくのです。このことが拓心武術の組手型と試合修練の意義です。また、私の主宰する道場では、空手や拳法の修練の他にも、相手を投げ倒したり、関節を決め、相手を制する「柔法」や棒などを使い、相手を制する「武器法」の修練を加えていきます。断っておきますが、私の能力と寿命により「拳法」以外の部分は未完成のまま終わるかも知れません。しかし、「拳法」の部分をより高いレベルにするために、柔法と武器法の修練が必要だと思います。なぜなら、柔法や武器法などの修練により、心身の働きや機能を、他の角度から見ることができるようになるからです。そして、他の角度から心身の理法を考えること(稽古)により、理法(道)の実相(じっそう)をより鮮明に見取ることができるのです。特に武器法の理解は重要だと思います。しかし、断っておきますが、私のいう武器法は古流空手の武器法を学ぶことではありません。その意義とは、日本武道の底流にあると思われる「太刀(日本刀)との対峙」による自己の中心との対峙と把握です。そのような認識を得て初めて「自己の不動の中心(心)」を掴み、育んでいける、と私は考えています。
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