以下は、私の道場のデジタル教本サイトに掲載したある、私の学科審査に対する考え方である。だが、これまでは学科審査は実施したり、実施しなかったたりであった。審査時間の関係や審査方法に良いアイディアがなかったからである。それを大変に恥ずかしいことだと思っている。しかし、サイトを使うことで、時間をかけずに学科(理論的なこと)の審査ができるようにした。
また誤解を恐れずに言えば、これまでは組手法を含む修練体系に瑕疵があったので、理論的なことを明確に伝えられなかった。だが、現在は組手法を改定し、修練法を更新している。それに伴い、教本サイトの方向性が決まった。これからは粛々とコンテンツを追加・更新し続けることだけだと思っている。心配しているのは、現有段者の理解である。私は有段者を家族のようなものと考えているが、私の未熟ゆえ、共有すべく価値観や考え方をうまく伝えられなかったように思う。もちろん、組手において相手を極力、痛めない、などの考え方は伝わっているかもしれない。しかし、それでは不十分だった。なぜ、組手を乱暴に行ってはいけないか。では、どのように組手修練を行えば良いか、などを言葉で明確に伝える必要がある、と今は考えている。そして、そのような空手武道、そして修練に対する考え方や価値観を共有してもらわなければ、武道の修練にはならないと思っている。もちろん、異なる価値観や考え方を排除するわけではない。是非、今一度、有段者には考えてもらいたい。武道とは何か?を。
私は武道とは何かを考え続けている。そして極真空手を武道に高めたいと考えてきた。しかし現実はそうではなかった。ゆえに、絶えず自己を更新し続けている。武道とは、武術を基盤としているが、その核心は自己を活かすこと、同時に他者をいかす道(理法)を目指すことだと思う。それゆえ「身を殺して仁をなす」というような他道の教えを取り入れ、否、それと一致する境地にたどり着いたのだと思う。
繰り返すが、武道とは自己を活かすために、人として正しい道を踏み行いながら武術を活かしていくことだと思う。そう考えると、現代武道の哲学があまりにも幼稚であることは否めない。それゆえ、武道の原点に立ち戻り、武術を唱え、その技と哲学を再考しようとするものも多いのであろう。しかしながら、私は武道を開くことを諦めない。そして極真空手を活かすためにその修練法を更新している。
素人と同じ
学科審査の合格は、IBMA極真会館増田道場の空手道を修めた証明である。その証明には、IBMA極真会館増田道場の理念を始め、各修練項目の名称や意味、すなわち修練体系を理解しているということが含まれる。考えて欲しい。空手道を修練した者が、数種の突き、蹴りの名称しか知らない、また、腕を早く動かすことや脚を高く挙げることしか知らないとしたら、それは道を求める者(修行者)ではなく、素人と同じである。
例えるならば、少ない英単語と片言の英会話ができるからといって、英語が使える、と言えるだろうか。私は、英語が使えるということは、多くの英単語を理解し、かつ文法を知り、様々な相手と英語を使って対話ができるということだ、と考えている。特に対話ができるということが最重要である。私は、そのように考えるからこそ、組手型を編集し、組手法を改定したのである。現在、私が編集している拓心武道メソッドとは、英語で言えば、単語の発音や意味を正確に教え、そして文法を教えることといっても良いかもしれない。さらに、対話によって意味を創造していけるようにすることが、その眼目である。
はっきりと申し上げれば、これまでの修練方法は、体力強化と偏った精神を形成する手段に過ぎない。それでも、体力やストレス発散や「強さ」の実感による満足があったかもしれない。だが、そのような感覚で空手を修練しても「道」とはならないに違いない。少々脱線すれば、そもそも「強さ」という言葉は、あまりにも感覚的、かつ不明瞭なものだ。そのような言葉に迷い、彷徨い続けてはならない。強さという感覚は、例えば無の中にいながら有に囚われ、いつまで経っても無を自覚できないのと同じである。私は「無を知る」ということは、丁寧に有と対峙し、かつ生成流転の原理を学ぶ中で理解できるものだと考えている。同様に「強さを知る」ということも、丁寧に人間の弱さに対峙し、かつ生成化育の原理、命の偉大さを学ぶ中で理解できるものだと考えている。
最後に、空手の基盤は武術であり、武術の修練とは技の追究、つまり技の原理の体得だと思っている。しかしながら、技の原理を体得しても、それを広く活かさなければ意味をなさないと考えている。そのように考えるからこそ、私は原理の体得のみならず、自己を活かすために、他者を活かす道(理法)を求め、武術の修行を武道、そして人の道に繋がる空手武道を目指している。そのためにも、まず言葉の体系を覚えるように、技術の体系(全体)を習得させ、それを活かすような理解と展開を構想している。さらに言えば、道を拓く者は、絶えず技術を見直し、かつその体系を整えていかなければならないと思っている。(増田 章)