初心忘るべからず
【老年期こそ】
6月の大半、ぎっくり腰で稽古ができなかった。日記を見てみると、昨年の6月にもぎっくり腰になったようだ。5、6月は季節の変わり目、身体に支障をきたしやすい季節なのかもしれない。その間、コルセットを巻きつつ、休み休み、PCに向かい、教本作りを行っていた。腰を休ませる際は、読書をした(若い頃から読んでいる世阿弥に関する本を、新たに数冊読んだ)。
ぎっくり腰になった時、初めは、これまでも膝や腰のリハビリ、体力の維持に頑張ってきたが、もうだめかな、とも思った。今の私は、若い頃に酷使した膝や肩、腰に障害があるので、毎日が勝負だと思っている(若い頃からそうだったが)。また、老年期の入り口が見えている。だが、どんな人も生き続けていれば、やがて老年期を迎え、そして人生の最期を迎える。そんなことが実感としてわかる年齢となった。ゆえに、老年期こそ、若い頃よりも心を使わなくてはならないと思っている。これまでは老年期になれば、身体のみならず、心も使いたくない、と思うのが普通ではないかと思う(老人には失礼だが)。だが、そのような考え方は全くもってよくない考え方だと思う。
その老年期にこそ、重要なこと。それは「初心忘るべからず」だと思う。この言葉は、能の先駆者、世阿弥の言葉である。この言葉は、スポーツなどの技芸を行う、比較的若い人達向けの言葉に思われているが、そうではない。「初心忘るべからず」と言う言葉は、世阿弥が門下の弟子たちに門外不出として残した伝書、「花鏡(かきょう)」に示されたものである。
【万能一徳(まんのういっとく)の一句】
花鏡において、世阿弥は「初心忘るべからず」とは「万能一徳(まんのういっとく)の一句」だと述べている。
「万能一徳の一句」とは、「全てに効果のある徳を与える言葉」ということだろう。また、花鏡には、「初心忘るべからず」には3種の教えがあると書かれている。
その3種とは、
1)是非とも初心忘るべからず(是非によらず、修行を始めたころの初心の芸を忘るべからず )
2)時々の初心忘るべからず (修行の各段階ごとに、各々の時期の初心の芸を忘るべからず )
3)老後の初心忘るべからず (老後に及んだ後も、老境に入った時の初心の芸を忘るべからず )である。
要するに、世阿弥がいう「初心」とは、「物事を始めた時の謙虚な気持ちを忘れないようにすること」というような意味合いではないということだ。
【自己の未熟を感じる】
増田流に意訳すれば、世阿弥のいうところの「初心」とは、初めて物事を認識した時の状態を忘れず更新し続けなければならない、ということを示していると思う。もちろん増田流の解釈なので、少々補足を加えたい。
まず、認識とは意識の領域において生じる現象である。異論はあるだろうが、私は意識が心だ、といっても良いと考えている。その前提で言えば、その時どきの認識を忘れず、それを活かし続けること。つまり、観客に感動を与える芸を持ち続けるためには、過去の認識に留まらず更新し続けなければならない。同時に、過去の認識も忘れてはならない。なぜなら、よりよい更新とは、原点に立ち戻り、活かし続ける行為だと思うからだ。そして、そのような考え方、意識を有する者は、必ず自己の未熟を感じるはずである。しかし、人間は未熟を感じるからこそ発展するのだ。言い換えれば、人間は最期まで未熟ではあるが、それを自覚する限り、芸は発展し続けるものだから、絶えず未熟を思い、慢心せず芸(の道)を追求せよ、と世阿弥は述べているのだと思う。
【自分を活かす能力】
私には、花鏡において世阿弥の述べていることは、「絶えず初心を忘れず、修行において培った、全ての技を活かせ」と言っているように感じた。また、それができるほどの者なら、あらゆる技を使いこなし、かつ全ての観客との勝負に勝つことができると述べているのだと思う。私は、世阿弥の言うような能力(技能)と感覚こそが、自分を活か能力と感覚だ、と考えている。
補足すれば、自分を活かす能力、それは身体の可能性を開拓し、かつ心を高めていく能力のことである。その真髄は「初心忘るべからず」だ。それは、私の目指す拓心武道においても銘記したい。なぜなら、私は拓心武道において、空手を身心を基盤とする意識(心)のネットワークの構築並びに、その場所において、光(悟り)を生み出すこと、かつ光を感じる感性を創り上げる手段としたいからだ。
さらに言えば、身心とは、意識を鮮明にしていく道具であると同時に、その道具の活用と思索によって培った意識を保存しておく貯蔵庫でもある。それらを必要な時に生かしていくために、心の領域の訓練が諸事に必要なのである。
また、世阿弥の背骨である能は身体表現の世界である。そして、心を身体で表現することに意味と価値がある。ゆえに身体操作を型稽古によって究め、同時にあらゆることに処しつつ、心を究めるのである。
私は空手武道を伝えることを生業としているが、私の伝える空手武道は、世阿弥の考える「道」と同様のものを感じ取れるものとしたい。だが、多くの空手家が、そのような認識に至ってはいない。それは、未熟な勝負論と勝負法(競技法)にとどまり、技能(術)と心を磨くために必要な視点がかけているからである。
【人間修行の究極】
さて、私が拓心武道に込める想いは、初めてことを始めた段階、各修行段階、そして老境の段階における、土壌(基盤)を理解すること。同時に、その時分時分、季節季節において、自己に内在する成長の種子(人間的成長の可能性)を育て上げることといっても良い。そのような自己に内在する種子を季節季節(時分時分)において育てること。そして、自己の心身において「花(美しさ)」を咲かせる(表現すること)こと。さらに言えば、実を結実させる(精神や形を残すこと)ことが人間修行の究極なのである。
【古と今の「初心」を考えること】
先述した「花」という用語は、世阿弥の能学理論の概念用語だ。世阿弥のいうところの「花」とは、観るもの(観客)に感じさせる面白さ、珍しさ、感動を指している。また、それを「美」と言っても良いが、「美」についての説明は簡単ではないので、その言葉は使わない(またの機会の考究したい)。
いうまでもなく、世阿弥の追求した芸の構造並びに身体操作、技術と技能を理解していなければ、世阿弥のいうところの「花」の概念の深い理解は困難だと思う。さらに、その技術と技能に内在する「心(精神)」のあり方を理解する者でなければ、真に理解できるものではないだろう。
そう考えれば、修行に対する認識が浅いと、世阿弥のいうところの「初心」という言葉も真に理解されるものではないだろう。また、観客のレベルも様々で、その浅い認識、斯界の人達の「初心」の理解にも対応できるよう、芸を磨き高めることも、世阿弥の「初心忘るべからず」に含意されているに違いない。また、非常に困難なことだが、世阿弥が生きた室町時代の感覚と現代の感覚を想像してみなければ、本当の意味はわからないかもしれない。しかしながら、古と今の「初心」を考えること。それもまた、「初心忘るべからず」の言葉に内在する真理のような気がする。最後に、最期まで初心を忘れず、心の感動を活かし続ければ、人生はより豊かなもになるに違いない。
以下、花鏡の原文からの抜粋。
『しかれば、当流に、万能一徳(まんのういっとく)の一句あり
初心不可忘 (しょしんわするべからず)
此句、三ヶ条(の)口伝在。
是非初心不可忘。時々初心不可忘。老後初心不可、忘。
此三、能々口伝可」為』