Quantcast
Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
Viewing all articles
Browse latest Browse all 480

伝え方

$
0
0

伝え方

 

 月日が経つのも早いもので、今年から始めた、月1回、開催する月例試合も6回目を終えた。参加する人達には敬意と感謝だ。だが、高い理想を追い求める私は、イメージが伝わっていないという焦燥感に襲われる。もちろん、なるべ、良いところ、良くなったところを見つけ、そこ部分を称える様にはしている。だが、どうしてもイメージが伝わっているとは思えない。

 先日も月例試合の評に厳しいことを述べた。しかし、すぐに反省し、その評を若干訂正した。脱線するが、是非はともかく、空手の世界は、巷でいうところのパワハラが常識の様な感がある。もちろん、それは文化が異なると言っても良い面があるが、伝え方という点で考え直した方が良い面もある。そのためにはスポーツと武道、或いはスポーツとは何か、武道とは何か、をもっと掘り下げて考える人間が多くなければならない。そうでなければ、スポーツや武道が人を傷つける手段となることもあるかもしれない。

 百歩譲って、打たれ強くなければ生きていけない、と開き直るなら私は言をやめる。そもそも、スポーツや武道界の人間の勝負に対する認識が貧困、かつ未熟であると思っている。そして、勝負の本質を考え尽くさなければならない、と私は考えている。その上で、人が人と共に磨きあい、高めあうには、どのような認識を獲得すべきか、を考えたいのだ。かくいう私の認識も貧困、かつ未熟だ。ゆえに伝え方を反省した。

 

自分を失わないために

 話を戻せば、参加者は頑張っている。悪いのは私の伝達能力が劣っているからだろう。また私の違和感と焦燥感は、世間の有している空手や組手に対する認識と私の認識が異なっていることに、全ては起因するのかもしれない。さらに、「お前の一人相撲だ」との嘲笑が脳裏をよぎる。

 それでも、新たな道を行きたい。今から20年以上も前、これまでいた場所が悪い場所だと思っているのではないが、その場所では、人々が気持ちの悪いお世辞を言い合い、本当の欲望を隠し、調整しあって生きている。私は、そのような場所では、自分が保てない、と思った。そして、ある日、「自分を失わないために」と、新たな道を歩み出した。


 その時の私は、世間でいう「自分探しの旅」に出ていたのであろうか。私の場合、そうではなかった。私が「自分がない」と感じる時は、思考停止せざる状態に置かれる時やそのような人間に対してである。つまり、外部の暴力的とも言える力で、自らの思考を遮断される状況、それが私の一番嫌うことである。もちろん、自分の未熟を自覚せず、自分を主張するのも如何なものかと思うが、指導者なら、それを容認しなければならない、と思っている。

 私が自分を大切にするために、良いと思う状況とは、各々がその考えを交流できる状況である。だが、自分の感情を基盤に発した利己的な欲求だけが交流する場がほとんどで、その利己的な欲求を調整しあって生きているのが人間だ。そうなると、より強力な欲求を充足させる力、権威を有する者の力が強くなる。そのような状況は、一人ひとりの考えが交流できているとは言い難い。それを我々が容認しているのだから仕方ないのであるが…。

 

 感情が認知の契機であってはならない

 

 私は常々「考える」ということは文化的な行為であり、かつ人間的な行為だと思っている。また、その様な行為を活発にさせる仕組みが社会システムに必要だと思っている。

 一方、世間では、社会の基盤が感情であるかのような理論が評価されている。その是非は述べない。だが、感情が人々の「認知ー判断ー操作」の契機だという風に理解すれば、一理あるかもしれない。だが、私は感情が認知の契機であってはならないと思っている。

 

 その感情がどこから来るか、考え、見極めるのが人間の人間たる所以ではないか。私は、21世紀においては、より一層の「考える」という行為が必要だと考えている。言い換えれば「認識」の整理と活用の仕方の変換が必要なのではないかと考えている。

 

 感情は認知の契機であってはならない。感情は、「認知ー判断ー操作」の基盤である認識を変革する契機(考え方を変える契機)でなければならない。また、認識を基盤とした「認知ー判断ー操作」は快や不快の感情を生み出すに違いない。だからこそ、認識を掘り下げる必要がある。なぜなら、社会的に与えられた認識が、自分を支配しているなんて気持ち悪いと思うからである。私は、もっと積極的に感情を活用し、「認知ー判断ー操作」という人間に与えられた行為システムを活用したいのだ。

 

 私が構想する「拓心武道」とは、空手を使った、「考えるシステム」も言い換えても良い。目指すゴールは心身、そして自他の認識を変革することである。ここまで述べて、寂寥感が襲ってきた。もう筆を置きたい。


 最後にもう一言。私は死ぬまで考え続けようと思っている。それが「自分を失わずにいる」ということに他ならないと思うからだ。そして、それができなくなったら、私の人生は終わる。

 

 

 【蛇足】

 以下に第6回月例試合を観て、繰り返し伝えなければならないと思った「応じ」の理論について道場生向けに書いたものを記載しておく。

 

 

 

 

「応じ」とは?

 

 

自己を活かし、かつ他を活かす道を目指す

武の修行が拓心武道である。

【「応じ技」とは】


 相手の仕掛けてきた技に対し防御技を用い、その効力を無力化、または弱体化して攻撃を行う技術のこと。受け返し技ともいう。なお、弱体化とは、相手の攻撃力を直接的に弱めるのみならず、相手の体勢を崩すなど、間接的に攻撃力を弱めることも含まれる。
拓心武道における「応じ」とは相手の攻撃に対し応じ技を用いて対応することといっても良い。だが、より本質的に言えば、相手の技と自己の技との攻防、すなわち自他の戦いは「自他との応じ合い」である。拓心武道においては、相手との戦いを自己を活かす理法を学び取る契機として捉える。そのためには、自他の対峙、その戦いにおいて、自己の「認知ー判断ー操作」の能力を高めることが肝要である。

【「応じ」とは】


 「応じ」とは、自己の心身を用いた「認知ー判断ー操作」による武の行為を意味する。そして、その行為を巧みに行うためには、事前の予測が必要となってくる。言い換えれば、武の行為における、予測が貧困、かつ未熟ならば、その判断と操作も貧困、かつ未熟なものとなるということだ。

 つまり、「応じ」とは、その認知力、判断力を高め、磨くために必要な予測力を高めるために必要な認識なのである。もし、戦いにおいて、「応じ」の認識がなく、恣意的、かつ曖昧な「認知ー判断ー操作」によって戦いを行うならば、100戦して、全ての戦いにおいて危うい。一方、「応じ合い」との認識を有し、「応じ」を極めようとするならば、戦わずして負けない状態に至ることもできるはずである。

 最後に、相手と対峙し自己と戦う中から、真の自己を見究め、自己を活かし、かつ他を活かす道を目指す「武の修行」が拓心武道である。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 480

Trending Articles