たっぷりと睡眠をとった。そして、いつものことだが、偉そうに憎まれ口を叩いてしまった。だが、このまま行く。ほんの僅かだと想像するが、理解する人間がいると信じているから。
2021/5/2
この評論はマイルドに遂行してから掲載しようかと思ったが、体調が悪くなってきたので、とりあえず、私のサイトに興味を持っている人だけに公開しておこうと思う。そして少し休みたい。
2021/5/1
【空手についての評論】
空手についての評論をしておきたい。私は、一流のテニスプレーヤー達が置かれている状況、見ている状況、そして実践する作業は、本来、格闘技における状況と共通の面があるはずだと私は考えている。だが、多くの空手家にはテニスや将棋と空手が共通するなどとは了解されていないように思える。その原因は、極真空手の場合、顔面という急所に攻撃を当てないところにあるという考えに至った(だからと言って極真空手が他の空手より劣ると言いたいのではない)。言い換えれば、顔面を手で攻撃できないということは、相手の攻撃への反応を鈍くする。もちろん上段への蹴りが有効でないということではない。
ここで、これまでの極真空手における試合の歴史を俯瞰してみたい。これまでの極真空手の試合とその判定基準では、相手の上段への蹴りの攻防を避けるために近間での乱打戦に持ち込む傾向が強くなる。その方が、勝つための判定基準に適するからだろう。その結果、至近距離からの蹴り技の名手が誕生したことは極真空手の独自性であろう。だが、接近しての乱打戦(手数を優先する)や接近戦での蹴り技にどれだけの武術的合理性があるだろうか。私は甚だ疑問だ。極真空手の草創期の試合はそうでもなかったが、試合経験が増えてくるに従って、だんだん接近戦での蹴り技対乱打戦術との戦いが基本形となっていった。言い換えれば、剣による戦いや手による頭部打撃が認められている武術の試合の基本形である、撃間(一足一刀の間/中間)の戦いが基本ではなくなっていった。なぜ、撃間を組手や試合の基本形とするかといえば、増田流に断言すれば、武術稽古は予測と反応の操作の訓練だからである。もちろん、突きに対する受けが皆無ではなかもしれない。それでも、私から見れば、一撃に対し、予測、かつ、より善い反撃を行おうとする意識が希薄になっている。その証拠が乱打戦である。その結果、相手の突きを受けなくても良いという認識が常識となってゆくのだ。反論として、そのような意識を無視することが試合に勝つためには有効なのだと言われれば、私は閉口せざるを得ない。それはある意味正しい。そして試合法とその判定法に問題があると言わざるを得ない。しかし、そのことが意味するのは、武術の組手修練が見世物に堕落することである。そして、もはや武術の修練ではないということを意味する。おそらく、剣術の世界も似たようなものだと思っている。私は、そのようなものを武道だとは考えていない。そのような空手や武道を掲げる者達が大手を振っている。それを民衆が是認している。歴史はそのようにして、変化、堕落していくのだといったら言い過ぎだろうか。ここまでいえば、私の門下生ついてこれないかもしれない。ゆえに、私の本当の修行は、民衆の感性を少しでも高めるために「憎まれ口」を叩きながら、孤独な修練を続けることしかないのだろう。
【武術に必要な感覚を奪っていくという弊害】
要するに、現時点の極真空手の試合においては、上段への蹴りのみを気をつければ良いという認識になっている。それで武道と言えるのかと言いたい。繰り返すが、接近戦にける上段への蹴りというのは、繰り返すようだが、格闘技としては特殊な攻撃法である。もちろん有効でないということではない。むしろ使い方が巧みであれば有効であろう。だが、それのみに頼ることは弊害があるということである。
それでは、極真空手の組手試合に関する評論を始めたい。まず、人間の頭部には目や脳がある、人間の最大といっても良い急所だと思う。ゆえに目へのアプローチ(攻撃)に人間は一番敏感に反応する。また、人間は目から情報を得る部分が多いので、武術においては、目からの情報を活用し、様々なアプローチを行うと思う。ももちろん、目からの情報以外の情報が重要なことはいうまでもないが。あくまで通常のレベルでの話だ。ここで、空手は顔面を攻撃するでは?と訝しげる向きがあると思う。しかし、空手の組手法、試合法には大きく分ければ数種あって、一つは当てない、一つは蹴りのみ、となっている。そのどちらも、頭部への直接的アプローチに制約を設け、及び腰だ。その理由は安全性の確保であることは十分理解している。しかしながら、そのことによる弊害対策を考えなかったと思う。我が極真空手の組手法は突きによる頭部打撃を認めない、さらに掴んでの投げ技も禁じた。その代わりではないが、蹴りによる頭部打撃は認め、なおかつ伝統的な空手流派が禁じた直接打撃を認め、かつ下段への蹴りも認めている。その組手法は当てない組手が主流だった頃は、民衆(大衆)には斬新、かつ、画期的だった。だが、頭部という急所を手で攻撃させないで蹴りと突きのみで打ち合いをさせるという枠組みは修練者の体力を画期的に向上させた。それは極真空手の良点であり、極真空手の強みでもあるだろう。だが、私は未熟な判定法と勝負偏重主義が間違っていたことにより、武術に必要な感覚を喪失して行くという弊害を生じてしまったと思っている。一般の人には経験と情報量が少なすぎて理解できないだろうが、私の身体感覚ではそう感じている。
【グローブ空手】
少々話を脱線し、補足を加えたい。グローブ空手というものがある。端的に言えばグローブ空手はキックボクシングになると言っても良いだろう。実は、私はムエタイやキックボクシングが好きなので、グローブ空手については、丁寧に書かなければならないとは思う。だが、大まかに述べることを容赦していただきたい。
頭部への突きに対応する感覚を養うならば、グローブを使った組手は有効である。だが、感覚を養うために必要な練習量の確保は、頭部へのダメージという問題が生じる。つまり脳のある頭部への直接打撃は、脳の損傷の危険性が高くなるのだ。そのことは技能の体得と引き換えに人間活動に支障をきたす可能性が高いということであり、武道としては避けなければならない。それゆえ、私は頭部を保護する面防具を使うことが武道稽古には良いのではないかと考えている。面防具の着用は面倒であり、見た目も悪いと思うかもしれない。だが、その反面、グローブで手を覆う不自由さはない。また、空手には目潰しや裏拳、手刀、背刀などの技があるので、そのような技を使う場合、グローブを使えば不可能となる。また、投げや関節を決める態勢に移行すること考えるならば、手をグローブで不自由にしないほうが良いと思っている。私は、空手武術とは徒手による打撃のみならず、武器を使った打撃武術、または投げや関節技、などを駆使する武術だと規定している。ゆえに、そのような技術の使用を想定しない稽古は、空手の武術としての独自性がなくなると思うからである。また、後述する武道における安全性の確保の意義を鑑み、熟考すれば答えは出ると思う。ただし、技能の体得できた者同士で、威力を制御、コントロールできるなら小さいグローブを用い、素面での打ち合いの稽古法の一つとして取り入れることは良いと思う。
【極真空手の試合における弊害の対策】
話を戻し、既存の極真空手の試合における弊害の対策が全くないわけではないことを述べておきたい。問題は、空手を行う者達に、その弊害を感じるとる感性が低かったのか、それとも間違いを犯してでも「実」を取りたかったのか。その部分をどどのように考えるかである。先述した「実」とは、平たく言えば、道場経営、そして普及することを第一に考えることだ。だが、それは日本武術の精神を喪失していくことだった、と思っている。それを強く訴えてこなかった私にとっても、それは仕方のないことだった。また、我々は人間を殺傷する武術を必要とする社会を生きていない。だが、そのことを忘れてはいけないと思っている。そして、いま私は独り、狂気の世界を想定している。
それでは、以下に、私が考えた弊害への対策を書いておく。まず、判定基準にボクシングのような有効打という概念を設け、曖昧な判定に明確な基準を設ける①。次に接近戦のみに終始する向きには、ボクシングのようなクリンチワークを認める②。また投げ技を認める③。などの接近戦を回避する手段を認めること。さらに、トーナメント戦ではなく、実力上位者のワンマッチによるタイトル戦を行い、なるべく優劣がつきやすいように、試合は5ラウンドぐらいとする④。などなど、以上は、私は予てから考えている、一撃必殺を前提とする剣道のようにミドルレンジ(一足一刀の間/中間/撃間)の攻防の技術と技能を生み出す仕組み作りの案である。
私は①と②と④の案を合わせた改定が良いと思っている。だが、そもそも剣のような一撃必殺を前提とすること自体に無理があると考える向きもあると思う。それゆえ、先述した私の提案には必要性を感じない、もしくは実現が困難だという人がほとんどかもしれない。実は、③の投げ技を認めるというのはフリースタイル空手プロジェクトで実験済みである。悪くはなかったが、問題は、少年部が主体の現代の空手道場では、突き技と蹴り技に加え、投げ技まで教えることは労力的に無理があること。また、試合稽古にスペースが必要となるので難しかったと判断している。それゆえ、私は柔道とドッキングするくらいのことができるのなら面白いと思っていた。私は、一部の人に、そう語っていたが、あまりに荒唐無稽と一蹴されたに違いないと思ってやめた(幼い頃、柔道が好きだった私は、フリースタイル空手ではなく、フリースタイル柔道、または柔道・フリースタイルでも良いと思っていた)。
【まずは武道の骨格、背骨を作らなければならない】
さて、繰り返すが、人間にとって頭部は急所だ。それは目潰しとか金的とかを云々する皮相的なレベルのことではない。もちろん、そのような攻撃を用いた戦術は有効だろう。だが、そんなことを声高に言っている者たちの本筋の技術、技能のレベルはたかが知れていると思っている。まずは武道の骨格、背骨を作らなければならない。
再び、脱線を許して欲しいが、先述したような奇襲的なことを唱える人達は厄介な者達だ(時々、脱線しなければならないのは、失礼だが、私の情報量と読み手とが乖離していると思っているからだ)。私の直感では、旧日本軍の中にもそのような感覚の者がいたに違いない。確かにあらゆる奇襲を想定し、備えることは必要だと思う。また、相手に奇襲を意識させることは効果的だと思う。それでも、そのような奇襲を基本のように扱うことには反対の立場だ。また、奇襲の実行は、一時的な局面の打開には効果的かもしれないが、長期的に見れば、相手の狂気を引き出し、戦いを長期化させることも考えておかなければならない。そのような状況を想定した上でも奇襲ならば有効かもしれない。奇襲の名手はその部分を抑えていると思う。だが、そのことを抑えず、いたずらに奇襲を有効と唱えることは、基盤とすべき本体の技術と技能の養成を等閑にするに違いない。例えば、下手な奇襲は相手に武の本道から外れた、皆殺しの衝動を引き出すだろう。つまり、人間のやることではなくなってしまう可能性がある。私は日本武術の精神はそのようなものではないと考えている。もちろん、人間の狂気などについても想定しておかなければならないだろう。だが、そこまでの想定は、もはや民間の武道レベル、一般人のやることしては、無理がある。私が日本武術に対し着目する点は、その創造性(思考と身体操作の技能と言っても良い)が豊かな点、また創造性を育む枠組みがあるということなのだ。その枠組みが武道という感覚を生み出したと思う。
話を戻せば、頭部を損傷することはいうまでもなく、顔を打たれるということがどれだけ人間にとって本能的に嫌なことかを想像してほしい。もちろん、子どもがひっぱたくぐらいの打撃を顔面に受けても平気だということはわかっている。それでも一番敏感に反応するのが眼を含む顔なのだ。その反応を極めることが武術の基本だと思う。
【徒手の武道の基本〜総合武術の構想】
ここで述べていることは、徒手の武道を前提としている。ゆえに武器を使うとなると若干異なってくる。私は、徒手の武術家も武器の修練を徒手の武術と併行して訓練するのが良いと思う。だが、その部分について、今回は書かないこととしたい。まずは徒手を前提として、人間が本能的に嫌がる顔への攻撃技術を核に、その防御法、戦術、など様々な応用変化を生み出し、かつ、それらを高次に発展させていくということについて論及したい。また、そのような骨格、背骨を有して、より高次の打撃武道が完成するということ。そして打撃武術の価値も高まっていくということを言いたい。さらには、テニスや将棋の名人に勝るとも劣らない技能者を誕生させるということを…。また、私が目指す武道はそのようなものであるということを書き記しておきたい。
以前、柔道を創設した嘉納治五郎師範も、当初は当身(打撃技)と投げ技、関節技、寝技の全てを使う「総合武術の構想」をしていたと武道研究者の論文で読んだことがある。つまり、現在の組んでから始まる柔道も武術の本質を喪失した形態の一例なのかもしれない。それは打撃技を基盤とする空手の方が良いと言いたいのではない。むしろ柔道がは立ち技のみならず、関節技と絞め技を現存させている点をみると、武術的かもしれないと思っている。また、そのことは突き詰めれば、加納治五郎師範が、社会体育として武道を構想、提言するも、その根底には武術としての本質を意識していたからではないだろうか。
実は幼少の頃、私は柔道を修行し、今でも柔道を好み、かつ憧憬がある。そして柔道の凄さは、関節技よりも締め技があることだと直感している(子供だった私には怖くて苦手だったものだった)。だが、それをスポーツとして現代社会にも残している柔道とは、大変な武道だと思っている。そして、柔道が盛んな国が、柔道を採用しているのは、それらの国が唱える、柔道とは人間教育として有効だということは建前で、本当は、いざという時に武人として変身可能な人材の養成が本音として、社会体育の中に含意されているからだと考えている。もちろん、それを声高に唱えることは、現代社会の方向性に反すると反発を生じるので唱えないのだろう。だが、私はここまで述べたので、あえて書いておく。現代武道も、嘉納治五郎師範の生きた明治の時代のように、武人の心構えを養成するということが必要ではないかと思っている。また不遜ながら、嘉納治五郎師範が当初、構想した武道と私の理想とする武道も似ているかも知れないと思っている。
【武術修練の中心は予測と対応(活用)の能力を鍛え上げること】
繰り返すが、私は「武術修練の中心は予測と対応(活用)能力を鍛え上げること」だと考えている。その過程で精緻な技術が生み出されるが、本質は技能である。その点を間違えれば、使い物にならない武術、武人が誕生するだろう。また、我が国における剣術を中心とする、日本武術の精緻な技術、かつ高い技能、そして思想が我が国の歴史において、鎮護国家を目指す志士の養成に役立ったと想像している。
しかしながら、それら志士達の中心部分は技術を持っているということではない。私が考える彼らの中心は、武術の修練によって獲得した、予測と対応の能力、そして日本武術が醸成した精神(魂)だと思っている。その精神は、日本刀が誕生した平安時代の中期から1000年以上もの間、武人達の武術考究と我が国の精神風土に影響した。さらには、封建時代における道徳教育(リーダシップ教育、すなわち現在の道徳教育とは異なる)とが相互作用し、武人のみならず、我が国の民衆の精神を薫習し続けた、と私は想像している。
【日本武術の形成と発展の歴史は我が国の精神の歴史でもある】
要するに日本武術の形成と発展の歴史は我が国の精神の歴史でもある、と私は考えている。そして、私はその点に興味がある。もし、私に余剰な時間が与えられるなら、そのことを掘り下げたい。また、その点が昨今の武術愛好者と私の見解の異なるかもしれない点だ(私は、戦中の軍国主義者の唱えた武道精神や武士道は、頭でっかちな軍人と当時の知識人によって曲解されたと思っている。真の武人、志士はあんな戦い方をしないだろう)。
最後に、現在、ほとんどの空手、武道愛好者には、テニス愛好者にも劣るような予測能力と対応能力しかないと言っても過言ではない。なぜなら、試合の構造が良くないからである(もちろん試合が武術修練の全てではないが)。一方、多くのテニス愛好者もそのことを理解していないと思うが。あくまでも私が参考にしているのは、わずか数人の超一流のテニス選手だ。
断っておくが、安全性の確保は重要である。古の武術の稽古であっても同じであろう。なぜなら、頻繁に怪我人や死者が出るようでは、武人、兵士の養成にならないからだ。つまり、武術は生きる残るための術であり、かつ周りの人を益するものなのだ。そのような武術がより高次にシステム化(体系化)したものが武道というものなのだ。私はそう考えている。疲れたので評論はこのぐらいにしたい。もう一度、死ぬほどの修練を積みたいと思っている。そして、その修行の中から、より高いレベルの武術、武道論を残したい。だが、もう身体が衰え、壊れかけている。歩くことがやっとだ。だが、技で誤魔化している(周りにはわからないだろうが)。それでも、あと10年、立っていられるようにと願いつつ修練を続けたい。