【極真空手の偏向〜武道とは何か】
【はじめに】
実は、私の道場における組手法の改定(TS方式の実施)は、7年前に始めた「フリースタイル空手プロジェクト」の延長線上にある。だが、極真空手の組手法を基盤に組み技も認めるフリースタイル空手競技と顔面突きあり、かつ防具を使った組手法は別物と思うに違いない。
それでも、私の意識内では同一線上にある。その事を理解してもらうためには、フリースタイル空手競技を考案した核心を伝えなければならない。
フリースタイル空手の核心は、極真空手の偏向を修正するためだった。「極真空手の偏向」と言えば、誤解や反論を招くかもしれない。だが、あえてそういうのは、その事実を認識できなければ、私の感覚、考えは到底理解できないと思うからである。ただ、少し語気を和らげ、「偏向」ではなく、「改善すれば、さらに良くなるという課題」と言い換えれば良いかも知れない。以下、「極真空手の課題」として、並びに「フリースタイル空手プロジェクトの総括」として小論を書いてみたい。
【極真空手が永続的な発展を遂げるために】
私は極真空手が永続的な発展を遂げるためには、重要な課題が二つほどあると考えている。課題の一つ目は、統括組織がバラバラになり、かつ極真空手の組手法を真似た空手集団(団体)が乱立していく状況をどうするかと言うことである。この課題を解決しなければ、極真空手の価値が低下していき、決して高まることはないだろう。このことは、大山倍達師範が極真空手として世界中に広めた独自の直接打撃制の空手競技の価値が下降の一歩を辿って行くと言うことだ。もちろん、私は過去における極真空手の価値が最高だったとは思っていない。だが、弟子の努力により、さらに高めて行くのが本来の道であろうと思っている。
フリースタイル空手プロジェクトの開始当初、私は極真空手の普及度と人材(選手)のをもってすれば、オリンピック競技、あるいはそれを凌ぐ競技として確立できると考えていた。それには競技ルールおよび競技を統括する組織の修正が必要であると考えていた。そして、詳しくは書かないが、私は協力者を求め、様々なことを試みた。たが、その試みは失敗に終わり、かつ、ほとんどの人が共感しなかった。否、私の構想を理解できなかったのであろう。
課題の二つ目は、実効性が高い打撃系格闘技、また武術、さらに武道として、その技術と技能、および理念、思想(武道哲学)が高い次元で体系化されていないと言うことである。現在、多くの人が目先の利益、要するに勝利、強さを追い求めている。言い換えれば、剣道のような日本思想の精華とも言えるような理合・理法の体系がないことである。当然、優れた技術や技能、そして哲学としての心法が存在しないと言っても過言ではない。
だが、考えてみれば、剣道の創設は、日本刀の創出された平安時代あたりから始まる剣術諸流派の形成まで遡り、それを含めれば、1000年以上もの歳月を経ている。また、江戸300年の時代には、剣の術と思想は、武士の教育手段、かつ文化的なものとして昇華されたと考えている。その剣道から比べれば、空手の誕生は、ごく最近と言っても過言ではない。また、ごく最近、社会の時流に乗り、急激に拡大普及した近代武道と言っても過言ではないだろう。そんな空手に剣道と伍す修練体系を求めるには無理があるかもしれない。
【課題を解決するために】
さて、先に挙げた二つの課題を解決するために、私は以下のような考えを持った。まず、一つ目の課題を解決するために、極真空手愛好者が協力し、文化的公共財として、すなわち武道スポーツとして再構築することを構想した。それは空手をオリンピック競技化するということでもある。(その後、空手はオリンピック競技となったが確定的ではない)。もちろん、空手のオリンピック競技化には、極真空手の組織ではないWKFという空手組織がオリンピック競技化を先行していたことは知っていた。だが、それが実現しないのは、空手がオリンピック競技にふさわしいものに未だなっていないからだという仮説を持っていた(ただし、必ずしもオリンピック競技ににふさわしいということが良いことであり、ふさわしくないということが悪いことだというわけではない)。
また、私は一つ目の課題を解決すると同時に二つ目の課題も解決したいと考えていた。具体的には、現在行われている極真空手の修練法に希薄になった、「理合・理法」の意識を取り戻したいと考えたのである。
【理合・理法の意識】
前述した「理合、理法の意識」というのは、剣道では基本とされる「間合い」の意識、また、「機先」を制する意識のことである。もちろん戦いの理合・理法は他にもあるが、まずは、それらの意識を取り戻したかった。そうでなければ、レベルの高い武道として発展しないと考えていた。そして、その課題を解決するために新しい組手法、競技法を考えたのである。それがフリースタイル空手であった。
私は極真空手の創設時には、多少だが「理合・理法」の意識はあったと思っている。だが、競技が人気を博する中、愛好者達は、競技の勝ち負けを優先し、かつ勝利に拘泥していった。そんな中、どんどんと「理合・理法」の意識は希薄がなっていった。本当は武術としてさらに研ぎ澄まして行かなければならなかったのだ、と私は思う。だが、人間の欲望の追求が理念の高次化を妨げた。また、勝負を判断する側の眼力(認識力)がなかった事、そして試合法にも瑕疵があったのだと思う。
以上のことをもっと早くに、そしてストレートに唱えればよかったのかもしれない。だが、当時の私には、極真空手を大事にするあまり、それを認識させるための良い手法が思いつかなかった。それゆえ、核心から逸れてしまい、フリースタイル空手プロジェクトの目的が的確に伝わらなかったように思う。
もう一つ、伝わらなかったことの原因は、組織を作ろうとしたことにあると思っている。また、周りのレベルに合わそうとしてしまう私の気弱な性格にあると思っている。だが、その失敗を経て、かつ年老いて、より一層の「理合・理法」の意識を把持する事の必要性を感じている。なぜなら、どんなに体力を補強し、破壊力を求めても、身体の老化は進み、やがて死滅する。そのような身体を用いる武術にあっては、肉体的な強さなど、たかがしれている。ゆえに「理合・理法」の探求、すなわち「道」を求める志がなければ、本当の強さには至らない、と私は考えている。なぜなら、道(天の理法)との一体化こそが人間にとって、最も強い在り方だと直感するからである。
実は、このことを全日本大会で優勝した、20代の頃から痛感していた。だからこそ、100人組手という非合理な修行に望んだのである。いずれ100人組手論についてはまとめてみたい。おそらく、ほとんどの人が100人組手に関して浅い理解しかしていない。否、間違った解釈をしている。
【拓心武道の「理合・理法」について】
ここで、我が拓心武道の「理合・理法」について簡単に述べて見たい。「理合」とは日本の古典武道で使われる概念用語である。また、国語的に言えば、理合の理とは、「ことわり」「物事の道筋」「道理」と辞書にある。私は「理合」とは「理に合わせること」だと考えている。つまり、自己の心身を理に合わせる術が、武術の術である。ゆえに武術の修練には型稽古が重要なのである。ただし、「理に合うこと」となると異なってくる。繰り返すが、「理合」とは「道理」に合うよう自他を制御すること。そのような主体的な意識のことを「理合」というのだ、と私は考えている。また、私の研究している拓心武道では、「理合」を「理法」と呼び、事物が具現化するための道筋として定義している。例えれば、言葉を組み合わせ多様な意味を構築するために必要な文法のようなものだといっても良い。つまり、一つ一つの動作を組み合わせ、一つの意味ある技を具現化するための法則・原理と言っても良いかもしれない。いうまでもなく、紙に書いたり、発話したりする言葉と武術の技は異なり、武術の技は、自己の身体を用いて、その意味を相手に伝えなければならない。そのためには身体に意味を作り、かつ動きに意味を産みだすような技能が必要なのである。さらに言えば、心身を用いる技に必要な理法には、人間を中心にした理法と自然界を中心とした理法、二つの理法があると考えている。つまり、武道の修練とは、武の修練を通じ二つの理法を総合すること。すなわち、人間の理法を究めると同時に天地自然の理法を究めることになる。それら二つの理法を究めんと志すことが「道を求める」と言うことである。
ここで脱線すると、「理」とは中国語、中国哲学に語源があると思われるが、「ことわり」は大和言葉ではないかと思う。そして、「ことわり」の意味とは、「ことーわり」ではないだろうか。つまり、「事を割っていく」。すなわち物事を細分化する事であると思う。そして理合となると、その細部化したことを総合し、活かしていくことだと思う。これは、私の「寄り道癖(脱線癖)」である。子供の頃から寄り道をしては時間に遅れた。寄り道の性壁を治したいのだが治らないようだ。なぜなら、寄り道がとても好きだからだ(このような論考も寄り道かもしれない…)。とにかく、この部分は寄り道なので忘れてもらって結構である。御免。
【「間の理法(間合い)」と「機先の理法」】
話を戻せば、相手を打撃技で殺傷する空手術の修練で基本としたい「理合・理法」は、「間合いの理法(間の理合)」と「機先の理法」の二つである。ここで私の言う二つの理法について大まかに述べておく。
先ず、「間の理法」の「間」とは、打撃技が有効となる空間的、彼我の距離的な意味合いでの「間合い」のことである。また、間には心理的な面も影響するが、そのことに何して、ここでは割愛する。剣道では、一歩踏み込めば相手が打てる「間」、一歩退けば打を避けられる「間」を一足一刀の間、打ち間と呼び、基本の間合いとしているようだ。私は、空手術には突き技と蹴り技があるので、「突きの撃間(うちま)」と「蹴りの撃間(うちま)」を設定し、それを基本としている。その他、接近し相手の突き蹴りを封じる「近間」、それ以外に、離れて安全圏に身を置く「遠間」も設定している。それらの間を認識し、かつ活用して自己の攻撃技を活かすことを考える。以上が「間の理法」の大まかな意味合いだ。
そして「先の理法」とは、自他の距離的(空間的)な「間合い」を了解した上で、さらに時間的に優位になるように、いかに攻撃するかの理法である。これも大まかに説明すれば、機先の原則に「三つの先」を設定する。その一つ目の「先」は、相手が攻撃を仕掛けるより早く、自己の攻撃を仕掛けることを「先」の攻撃という。二つ目は、相手の攻撃にいち早く察して、それに応じて攻撃をすることを「後の先」の攻撃という。これを「応じ」と呼んでいる。また、我が空手では、相手の攻撃に合わせて攻撃する方法を「合撃(あいげき)」として、高度な「応じ」としている。三つ目は、相手の攻撃を飲み込むかのように相手の攻撃を読み取り、それに応じることを「先々の先」と呼ぶ。以上の「間の理法」と「先の理法」を念頭に、攻撃技と防御技、そして運足を駆使して攻防を行う。それが拓心武道における組手修練法なのである。
さらに、拓心武道においては「運足の理法」「心の理法」「位置取りの理法」「体の理法」、その他を分類整理し、体系化したいと考えている(検討中)。以上のような「理法」の体得を目指してこそ、空手が道の追求の手段となるのだ、と思っている。
【戦いの原則・理法】
人間の世界には様々な戦いがあると思うが、どんな戦いであれ、よく戦いを制するには、戦いの原則・理法の把握が必要だと私は考えている。そのような原則・理法の中で、彼我(相手と自己)における「間合い」の制し合い、そして「機先」の制し合いは基本原則ではないだろうか。ところが、極真空手では、そのような意識が皆無に近いと言ったら言い過ぎかもしれないが希薄になってきている。これは極真空手の組手競技が突きで顔面を打つことを想定しないことに起因する。その欠点を先ず持って認識しなければならない。
断っておくが、極真空手の組手法の長所もある。だが、私がもっともよくないと考えるのは、競技の優劣の判断をダメージの与え合いを基盤に有効打突を無視した、単なる手数重視としたこと。またボクシングでいうランニングスコアによる勝負判定(試合全体の有効打、防御技術、攻勢を判定すること)ではなく、試合終了間際の選手の印象重視の勝負判定となってしまったことにある。そのような認識レベルと判断基準によって、スタミナ重視、打たれ強さ重視の競技に変質したのだ。
技の精度、技能ではなく、見た目のダメージとも言える、印象重視の判断基準の元で競いあえば、競技者が「理合」軽視になるのは当然である。要するに、極真空手の試合競技に勝利することに拘泥し、理想的な理合の追求よりも、より勝つための近道である、肉体的なスタミナ増強や打たれ強さの強化、修練に傾倒するのは必然なのだ。だが、そこに極真空手人の誤解の原因があると思う。おそらく武術を知らない人たちから見れば、極真空手の選手たちの体力と精神に驚きを禁じ得ないに違いない。また、それが憧れになることもあるかもしれない。もちろん極真空手の競技者の努力は凄まじいものがある。しかしながら、そのことに満足し、それを至上とするのでは、本当の意味での日本武道の精華のような精神性、文化性には近づかない。あえて断っておくが、かつて我が国が軍国主義だった頃、その指導者達が利用し、かつ喧伝した武士道精神は、私が考える日本武道の精神とは次元が異なると言っておきたい。また、私はここで極真空手以外の武術、武道に極真空手よりも優れた精神性があると言いたいのではない。他の流儀(武術・武道)については今回、言挙げせず、あくまで自身の流儀(武道)について反省しているのである。
これまでの私は極真カラテの魅力と純粋性を大事にしながら、なんとか精神レベルを向上させたかった。しかし、私のような未熟な空手家がこんな事をいえば、噴飯されるに違いない。また、この部分はもっと丁寧に解説しなければならないと思っている。まとめると、極真空手の偏向を修正し、本来の武道にふさわしい方向性に軌道修正する事。これがフリースタイル空手プロジェクトの目的であった。
その2に続く