【フリースタイル空手プロジェクトの総括】
誤解を恐れずに述べれば、私がフリースタイル空手プロジェクトを休止しているのは、全面的な見直しのためだ。もちろん、当初は資金不足による活動の困難もあった。だが、本質的な問題は、私が一つ目の課題をクリヤーするために意識した、極真空手人の協力が得やすいようにとの思いに挫折したこと。もう一つは、顔面突きなしのフリースタイル空手競技では、二つ目の課題が解決しないと判断したからである。
具体的に言えば、フリースタイル空手プロジェクトに協力してくれた人たちのほとんどが「組み技に対処するにはどうするか」「相手を倒す(投げる)にはどうするか」と言うような方向に意識が向かったと思う。
フリースタイル空手競技を考案した当初、まずもって顔面突きなしの極真空手愛好者に競技を理解、参加してもらおうと考えていた。要するに一つ目の課題の解決を意識していたからである。だが、その期待は無残に裏切られたと思っている。それは、多くの人が私の呼びかけに協力してくれた有難い人たちであったが、ほんの数人ながら、試合に参加し勝者の評価を得たいという、極めて個人的な名誉欲で動いていたように感じた。確立された競技なら、全くもって悪いことではないが、私が構想したプロジェクトは、そのような目的で始めたものではなかったのだ。その意義を理解しない人達を見た時、私は夢から醒めた気がした。極真空手を一つにしたい。空手を一つにしたい。空手人の心を一つにしたい。その思いがとても愚かなことに思えた。これ以上は書かないが、兎にも角にも、極真空手を高めるという理想を追い求めてみたかった。しかし資金も続かず、同志も集まらなかった。私は撤退を決め、しばらくは考えを深めるためにプロジェクトを休止とした(私の脚の血管や腰等に障害があったこともあるが)。その後、研究を進めて行く中で、極真空手の偏向の原因、そして一番の課題は、二つ目の課題にある確信した。
【極真空手の原点に立ち戻り】
端的に言えば、まずもって、極真空手のような競技法をむやみに続ければ、やがて「間の理合」や「機先を制する」意識が希薄になって行くだろう。そのような感覚、そして認識では、より正しい判断など望むべくもない。そこで、私は武術、そして極真空手の原点に立ち戻り、修練法を再構築したいと考えた。ただし、極真空手の基本には空手術の原点的な技が残されている。また、中国武術や日本の柔術、柔道、鎖鎌まで、またムエタイやボクシング、レスリングまで、古今東西、様々な格闘技術(武術)が極真空手には取り入れられている。そのことは大山先生の武術に対する熱意と努力の賜物であり、極真空手が武道として飛躍する可能性の核だと思っている。だが、その核を我々門下生はなおざりにし、かつ活かしきれていないてだけだと思う。私はその極真空手の核を活かし、極真空手を再構築したい。
極真会館が分裂したことの原因は、大山先生にもあるだろう。だが、私は師の恩に報いるためにも、方向性はただ一つ、極真空手の修練体系をより高めていくことだと見定めている。もしかすると、そんなことより門下生を増やせと言われるかもしれない。しかし、そんなことを言っているから、極真空手の門下生は喧嘩をして分裂した。これからもそれは続くに違いない。私はそんな生き方はしたくない。生意気だが師には許してもらいたい。極真空手を基盤にその根を深く張り、かつ枝葉を伸ばし、この志を残しておきたい。これ以上、言葉で説明することは機会を待つ。私は、そのことをようやく理解できた。そして、私が考える極真空手の一つ目の課題の解決法としてのフリースタイル空手の創設は心に秘めることとする。一方、極真空手の二つ目の課題の解決に注力したい。そして、心眼が拓かれた、一人でも多くの武道人を育て、仲間となっていきたい。それが拓心武道(メソッド)を確立し伝えることだと考えている。さらに私の理想とする空手武道について以下に述べておきたい。
【私が考える武道〜本当の強さの追求】
私が考える拓心武道における各種理法とは、剣術のように「刀剣(日本刀)が身に当たれば斬られる」という意識が前提にあってこそ、理解できる。また、刀剣(日本刀)という絶対的な道具を前提としなければ理解できない。
一方、極真空手の技には日本刀のような絶対性はない。その代わりではないが、「打たれ強い」の肉体と精神の獲得がそれに変わっているように思われる。また、その面が極真空手の「特色」、かつ「良さ」「強さ」となっている。だが、その面によって、大事なことが忘れ去られているように思う。確かに極真空手の競技者が有する肉体的なスタミナや打たれ強さ、そして技の破壊力は凄まじい。だが、人間の肉体は絶対ではない。個人差もあり、老いもある。私は、それら肉体の強さが本当の強さなのだろうか、と疑問を持っている。また精神面から見ても同様である。私は武道という究極の境地を目指す修行の到達地点は、そのような「強さ」ではないと思っている。武道が目指す「強さ」とは、もっと高次の強さであると思っている。
私は拓心武道を通じて「本当の強さ」を追求していく。「本当の強さ」というような極めて抽象的な概念を言葉で伝えることは困難である。私は、しなやかで強固、また絶えず変化しながらも、本質は変わらないようものだと直感している。それを精神というと違う気もするし、感覚といっても違う気がする。おそらく、それらの概念よりも、さらに根源的な事柄、領域の働きだとの推論を持っている。不適切ながら、あえて表現を試みれば、精神と身体を繋げる領域の働き、仮に本体の働き、と記しておきたい。
最後に、日本武道と言えるものは、技の修練において理合(拓心武道では理法、道筋という)の体得を目指し、本当の強さの境地に到達すること。同時にその「御-地(み-ち)」への到達を目指す道筋、修練を武道というのだと考えている。
そのような武道は術の探求をゆるがせにしないだろう。そして鍛錬ー研鑽ー求道を一体とする修行の中には、人間形成の力があると思う。気をつけなければならないのは、修練のための試合を勝利を求める競技としての面だけで捉えるならば、道から逸れる可能性は高い。だが武道の修練とは、すべからく事理を照合し一致させるべき修行だ、と捉えるならば、人としてのあり方、生き方と繋がるような修行となるだろう。また、その事を体認させることが、武道における人間形成と言っても良い。私は、理合の修行と術の探求により、心の眼が拓かれ、その輝きが増すような武道を創りたい。