先日書いたものの中から武道芸術論だけを抜き出し加筆修正した。先日書いたものには、私の近況や先を見据えた思いが書いてある。それらが雑音と取られる可能性もあるので、論の核心部分だけを分けて見た。
武道芸術論〜自己の自由と個性を護る手段
ここでいう自由とは、勝手気儘な振る舞いを指していう概念ではない。「自分にとって自由にならないと思われる事物(不自由)を抑え、かつ従えつつ自己の内面を確実に表出すること」と私は仮に定義したい。芸術とは、まさしく筆、キャンバス、素材、などなど、自由にならないものを抑え、かつ従えて、技と術を以って自己の自由を表現することだ、と私は思う。
一般的な武道は、修練において規律を教え、型を重視する。それゆえ、自由な芸術表現と武道とは、相いれない感じがするに違いない。しかし、考えてみると写真芸術と共通する要素が見て取れる。
まず、改めて写真芸術について考えて見たい。現実の写真芸術と言う表現手段は自由を表出するものではあるが、現実は表現するために不自由とも思われる操作(技術)を抑え、かつ従えて我が物としなければならない。例えば、フィルムやカメラ、レンズ、光と影、などの特性を熟知し、それを自己に従わせるために、その理合い体得し、それを活用しなければならない。それが技術の部分だ。
さらに写真芸術には撮影者の哲学、そして生き方が反映する。撮影者の自由を表出し、かつ作品を芸術表現として昇華する。別の見方をすれば、写真芸術にも、まずもって技術が必要で、かつ、その活用には法則・理法を内在した「型」があるのではないか。しかしながら、写真家がその型(法則)をどのように使うかによって、本当の自由が見え隠れする。その自由を我が物とした作品が芸術表現と評されることになるのだろう。補足すれば、写真は「機(瞬間)」を捉えなければならない(特に昔のフィルム写真はそうだった)。
要するに、写真芸術も武道同様に「基本技術」を我が物とし、かつ理法の体得としての「術」を我が物としなければならないのだ。その部分が武道でいうところの「型」の体得の部分である。そして繰り返すようだが、撮影の際は、「武道の技」を実際に使う際、技を生かすための「機」を捉えなければならないのと同様に「機」捉えなければならない。
そのように見てくれば、武道と写真芸術との共通項が見えてくる。そして武道も単なる術の習得が目的ではなく、それを使う人間(自己)の自由を生かすために(表現)あるのだと思えてくる。また、自己の自由の表出が、即、魂(個性)の表現として成立すること。つまり、伝統的に形成された術を承継しつつ、自己の自由と個性を護る手段ともなる。それが私の考える「武道」である。それを換言すれば、「文化」ということになるかもしれない。
今から30年以上も前、私が学んだ写真学校の校長の「写真芸術論」という著書を読んだ。そこには、「すなわち芸術とは、人間個性の十分な刻印を残しているところの技術の一部である」「芸術創造における技術とは、常に個性そのものに他ならない」と書いてあった。私はその定義と照らしつつ、優れた武術が芸術と等しいものであるということのみならず、武道とは何かを考えざるを得なかった。私は優れた武術は芸術と等しいものであると考えている。では、武道となるとどうなるか?私は「武道とは武術の芸術性を内包しながら、人と社会により有益な価値をもたらすもの」と考えた。さらに、その価値とは、「武術の修練により、一人ひとりの尊厳を守ること」にあるのではないか、と考えた。そのことを短く定義すれば、「優れた武道とは、武術の芸術性を内包しつつ、一人ひとりの個性を引き出し、人間社会を護るもの」だ。そして、それが文化の本質でもある。
私の直感は、それこそが「人間形成」の究極だと言うことである。また、私は、「個性」とは写真芸術においても武道においても、精神性を内包した身体性そのもののことであると考えている。つまり、写真芸術と武道には通底する部分があるのだ。ゆえに私は、空手武道も芸術だ、と直感している。否、本当の人間形成とは、芸術によらなければできない、と私は言いたい。さらに言えば、より善い社会とは、そのような芸術活動を担保するものでなければならない、と私は考えている。言い換えれば、芸術活動の担保とは個人の自由と尊厳を担保するということと同義である。
私が考える芸術表現とは、そこに「それが魂だ」と言えるような個性、精神を表現するものでなければならない。そのための表現手段が、ある時は詩に、ある時は写真に、またある時は武道になるだけだ。