【組手稽古の目的、意義を明確にする】
10月18日(日曜)、コロナ問題により延期していた、第1回 月例試合を開催するための事前稽古としての組手講習会を実施した(1級と黒帯のみ)。講習会の前々日、私は事前学習用の映像を編集し、教本サイトにアップした。
だが、「映像を見ましたか」と講習会の冒頭に聞くと、挙手はゼロだった。内心、「帰ろう」と思ったが、当然、気を取り直し、講習を始めた。初めに試合理念について、短めの講義をした。
稽古ではなんども言うことだが、組手稽古の目的、意義を明確にすること。私は、そこからしか高い技術、そして優れた技能の体得はできない、と確信している。だが、多くの空手愛好者が、試合の目的を「試合に勝つこと」としているように見える。数歩譲り、「緊張感や痛さ、辛さの体験を通じ、自己の修練の足りなさを自覚し、日々の精進の糧とする」などの意味も見出せるかもしれない。また、「勝利、優勝という目標に向かって、日々努力することは人生の充実感や幸福感の醸成に役立つ」という意味も見出せるであろう。ゆえに、私はそのような体験を全否定はしない。だが、武道の修練はそうではないのだ、とだけ言っておきたい。武道修練とは、やはり、心技体を磨き高める修行なのだ。否、心技体などと大枠で例えるから理解できないのに違いない。ゆえに、まずもって、私は試合理念を明確にするのだ。ただ、私の説法の技術が未熟ゆえに、届かなかったと感じた。
【「制心」「制機」「制技」】
短めの講義の内容は、「制心」「制機」「制技」と言うキーコンセプト(鍵概念)についての説明だった。
「心、イメージを我が物とすること」「たえず変化する機を捉えること」「自他の力、技を活かすこと」と言う意味だ。そのコンセプトが組手の中で表現されなければならない。また、そのことに気づかなければならない、といった内容だ。
その後、急いで基本をチェックし、試合も行った。だが、基本技術が未熟な者が多かった。それは私の責任である。また組手の理を意識しているとはいい難かった。だが、全員に試合を経験させたほうがよかったと反省している。体験は重要である。
TS方式は防具を採用しているので、安全性を確保している(完全ではないが)。今後はもっと体験を重視したい。しかし、そう感じた時には講習会の時間を終えていた。時間がなかった。私は、頭を使わない意識の低い稽古は嫌いだ。ゆえに、基本をおろそかにすることが嫌いである。また私は、現役時代、心肺機能の限界を目指すようなトレーニングでも頭を使うようにしてきた。例えば、「心肺機能を追い込みながら計算問題をする」というようなトレーニングを行なったことがある。そのようなことを行なったのは、「肉体の限界点で、いかに思考するかが、格闘に必要な究極の能力だ」と考えたからだ。だが、そんな考え方をする者を空手の世界で見たことがない。もちろん、私の考え方が間違いである可能性もある。しかしながら、「苦しい時には力を出し切る」「あきらめない」、そんなことを誰もが金科玉条のように信じている。私はそう考えなかった。苦しい時にどのような思考をし、選択をするかの能力が、究極的に必要だと直感していたからだ(おそらくスポーツ競技である空手にはそんな意識は必要ないのだろう)。
だが、そのようなことを伝えようと思えば、最低1日は必要だ(1日でも難しいかもしれない)。本当は合宿で集中稽古を行いたい。私の心中には焦りの感情が出ている。「3年はかかる」、それが直感である(もっとかかるかもしれない)。しかし、それでは私の身体が持たないような気がする。また、道場生の理解も得られないかもしれない。そんな思いが交錯し、講習会の後はいつも体の具合が悪くなる。
講習会から1日経った今日、60歳代の古参の黒帯のSNSが目に入った。コメントには、先述した「制心」「制機」「制技」を例えに、『試合は自他の技を活かすこと、また絶えず変化する機を捉えること、そのためには自分の心を制していなければならない』『自分は当てよう、当てようと言う気持ちが先走って、心を制することができていなかった』という風に書いてあった。なるほど、少しは理解してくれているのだと思った。一瞬、疲れが癒される気がした。
【心を活かすために】
だが、黒帯からのフィードバックにより気づくことがあった。そして言っておかなければならない。私の考えは、心を制すると言うよりは、心を活かすために、「機を捉える技術と技能、理」「力、技を活かす技術、技能、理」の修練が必要だということだ。さらに補足を加えれば、ゆえに基本(原理)の理解と体得が最も重要だと言いたい。
換言すれば、「制機」と「制技」を意識した、弛まぬ修練を行うことで、おのずから心は定まってくるということである。残念ながら、既存の空手には単なる勝負だけがあり、それ(道)がない。
私は,心というイメージの場を活かすための技術とスキルの獲得により、より善く生きることが可能になる、と考えている。また、身体操作における、自在のスキル(技能)を創出する過程により、心という機能、作用の把握に至ることが、高いレベルの武道のあり方だと考えている。これ以上は書けば書くほど、読者を藪の中に迷い込ませてしまうだろう。
最後に、私のいう武道哲学とは、決して教える事柄ではない。ただ、自らの心と身体、そして体験を通じて、深く考えることを意味している。