新しい組手法をスタートした。唐突に思われたり、流行を追っているのだと勘違いされると心外なので書いておこう。私は決断力のない男である。その証拠に、ほぼ極真空手の修行をしてきた40数年間も悩んできた。こんな空手で良いのかと。誤解は必至だろう。極真空手が嫌なわけではない。なぜ変えないかが理解できなかった。私は変える方法はあると思ってきた。しかし、多くの人が変えられない。否、変えたくないと思っているのかもしれない。また、何も考えていないのだろう。考える人は、極真空手(極真会館)を去った。また、隠れ〇〇として極真空手とは異なる稽古をしているのかもしれない。語弊があるが、私は、もっとオープン、かつ包括的な修練体系を作るべきだと考えている。だが、現在の組手法を採用している限り、様々な問題点があるだろう。だからこそ、代表的な組手修練法を伝統的な極真スタイルの組手法と顔面ありのスタイル(新しい組手方式)の組手法の二つを可とするのだ。そうすれば、細かい相違点は、各人の創意工夫として包摂できる可能性が拡がる。
ストレートに言う。私は極真空手を変えたい。なぜなら、極真空手は私にとって最高の空手だからだ。帰る方法は難しくない。それは極真空手の伝統を変えることではない。具体的には、伝統的な極真方式の組手と私の考案した防具を使ったヒッティング方式の二つの組手法を行えうことだ。この二つの組手法は直接打撃制と言う点、極真空手が取り入れてきた、ムエタイやキックボクシングの技をほとんど使える。加えて、伝統的な空手の技をヒッティング方式では試せる。また、互換性というと語弊があるが、防具を使えば、空手の打撃技のほとんど全てを使うことが可能だ。ただし、エンターティンメントスポーツとしての面をヒッティングは追わないというのが基本線だ。そのことに関しては、必要とあらば詳しく説明するが、今はその時ではない。もう一つ、提案のための補足を加えたい。伝統的な極真スタイルは攻撃技の威力とスタミナ、などを重視する組手法、そして競技とすれば良い。一方、防具を使ったヒッティングは防御技と攻撃技の使い方(応じ)とその感覚を重視する組手法、競技とすれば良い。また後者(ヒッティング)は女性や年配の人達にも安心して組手稽古をさせられるむ組手法となる(指導者として考えた場合)。さらに、難しく言えば、ヒッティング方式は「機」を重視し、それを捉える組手稽古である。
以上のように稽古の観点(目標)や意義(目的)を分けて考えれば良い。そのように考えれば、極真方式とヒッティング方式の二つは補完しあい、両方の組手法の意義を高め、かつレベルを上げるということがイメージできるはずだ。さらに言えば、防御を考えるということは武道としてのレベルをあげる。また、攻撃の意味と意義を極めることができる。
現状は私と他の人との空手観に相当な開きがある。どうしてだろう?私は極真空手が最高の空手になり、そして伝統の武道となり、そして文化となる可能性を明確にイメージできるのに…。
【顔面突きありの空手と私との出会い】
振り返れば、顔面突きありの空手と私との出会いは、今に始まったことではない。私は極真空手を始めた40数年前から、すでに顔面突きありの空手の稽古を始めていた。それは極真空手の手ほどきを受けた先生が伝統空手の出身だったことに起因する。また、私が初めて習った空手が伝統派空手だったこともある。もう一つ重要なことは、私は、高校生の時に伝統派の全日本のトップクラスの先生と防具空手の他流試合を行なった(私は極真空手の代表)。私は、その他流試合に敗れた。その時から、私は空手には多種の流派があること。他流派にも素晴らしい空手家がいること、様々な技術があることを知った。同時に、もし再び手合わせをしたなら、負けないように、と研究と準備をした。ゆえに高校生の時以来、私の研究はボクシングやキックボクシンに及んだ(私は10数年前にボククシングジムを経営したこともある)。その間、私は、道場では顔面突き有りの空手は封印してきただけである。
ゆえに、時に極真空手にはマイナス(邪魔になる)になるような稽古を行なったりした。問題は、その意識が絶えず私を苦しめたことだ。それは近い間合いで戦うことに対する違和感と嫌悪感だ。おそらく、極真空手しか知らない者が、負けることの嫌悪から近い間合いで戦うように、極真空手以外を知っている私には、安易に近づくことが負けにつながると感じるからだろう。また、中学と高校で柔道とレスリングを少し経験した私は、接近戦でのどつき合いは、どうしても次の展開が見えてきてしまうのだ。断っておくが、接近戦は有効な戦術を展開する可能性を含んでいる。接近戦は、組み技のみならず、組み技と打撃技を組み合わせた高度の技を生み出す可能性もあるだろう。ゆえに、私は接近戦を否定しないし、接近戦の可能性は追求したい。しかし、そのことと組手稽古の理想的在り方とは次元が異なる。現時点では、あまりにも安易な戦術と組手術が蔓延っているように見えることは否めない。
【親鸞や武蔵のように】
4、5年前から私の身体は、加齢と傷害でダメになってきた。そんな中、どうしても自分の研究してきた空手を後世に残るような武道にしたいとの思いが強くなってきた。もう残された時間がない、そんな思いで毎日を生きている。
そんな中、数年前から昔より扱いやすい防具ができたことや極真会館の松井館長と長年の確執を越えて、和解した。先述したような後世に残るような武道の創出は私の道場の規模では困難を極めるのが実情だ。しかし、松井館長と私の極真空手観に共通するところがみられたことで気持ちが変わった。現在の私には、極真空手の技術が変質、偏向してきたのを見て、一石を投じなければならないとの思いが強くなっている。つまり、私を育ててくれた極真カラテに恩返しをするために、極真空手家のレベルをあげること。流派を残すことは困難かもしれないが、意識レベルをあげることはできるかもしれないと思っている。たとえ、表向きが私の思想への嫌悪感や批判であっても、私は構わない。少しでも意識レベルが変われば良い。 私が死んでもやりたいことは、極真空手を本物の武道にすることだ。偉そうだが、親鸞や武蔵のようになりたい。だが、荒野をひとり往くような人生になるだろう。否、野垂死にかな…。
【本当の伝統とは何だろう】
ここで断っておくが、私は決して極真空手の伝統を否定するわけではない。だが、本当の伝統とは何だろうか?私は今、それを考える。私が考える、本当の伝統とは社会に価値あるものと認められ、未来に向けて、その価値を永続していくことである。難しく言えば、新しい価値を創出していく、意味の生成システムとしての機能を維持し続けることだ。
換言すれば、それが文化というものなのだ。つまり、極真空手が文化になること。それが未来を託されたものの役割と責任だと思う。これ以上、難しいことを言っても理解されないだろう。しかし、私の言うことが、きっとわかる日がくると信じている。わが斯界に、リーダーと言える人物がいるとすればの話だが…。
【蛇足】
ならば、極真をやめれば良い、と思う人もいるに違いない。実際に言われたこともある。だが、それをするには、あまりにどっぷり極真空手にのめり込んでしまったようだ。極真空手を自分のように考えている。同時に極真会の仲間を家族のように思ってしまう。仲は良くないが…。これから、名ばかりの極真空手人が増えていくだろう。しかし、極真空手人が武道人として、もっと高次元になれば、私のいうことが理解できるに違いない(偉そうだが)。
以下に稽古風景をアップした。まだ数回しか稽古していない。しかも3ヶ月ぶりの組手稽古である。上手くはない。しかしながら60代半ばの人、50代半ばの人、20代の者達が安全に組手稽古を行えた。もちろん、私の稽古法が確立されているからであるが。上達には、1年ぐらい、この稽古法を続けること。もう一つ、試し合い(試合)を行うことだ。この試合法が、上達の重要点である。果たして、拓心武道メソッドが我が門下生に伝わるだろうか…。