今、これまでの修行の成果を未完成ながら、拓心武道メソッドとして残したい。そのために、野垂れ死にを覚悟で最期の準備をしている。願わくば、私の考える武道完成のための協力者、同志を求めている。以下に、再考を要するものだが、思索メモを掲載したい。
【拓心武道哲学〜ある日の呻吟】
【武道とは】
武道とは、体系化された修練体系を有する武術の総称であり、かつ人間形成のための普遍的哲学が示されているもの、と私は考える。
ゆえに武道を学ぶ、武道の門をくぐるということは、修練体系を我が物とすること、そして理念を体現する人格を創り上げるという意志がなければならない。ところが、そのような意志、心構えを有する武道人は僅かだ。その原因は、武道というものが正しく理解されていないからであろう。
今一度、武道を掲げる人達は、武道とは何か?を見直すべきだと考えている。そして、我が国の文化が生み出した、武道という「人間道」を大切に扱うべきだと思う。ここで断っておく。武道には古典武道もあるが、私のいう武道とは、古典武道ではない。今、古典武道は技を保存することに意義を見出しているかのように見える。もちろん、それは必要なことだ。しかし、私の考える武道とは、時代の変遷の中、形を変えたとしても、我が国の魂の継承がなされているものを言うのだ。
その魂とは何か?私の考えは、「自他の対峙を極める」と言うことである。自他との対峙は、他国にもあると思われるかもしれない。だが、対峙の仕方が我が国の場合、特異だ。詳しく述べることは機会を待ちたいが、我が国に真骨頂は、自他の対峙を極めようとする指向性だ、と私は考えている。その思想の糸口を少しだけ述べれば、「自他が別ではない」という感覚である。
【武道は勝者を最上としない】
さて、武道においては、まず武術における自他の活用法(自己と他者、自己と道具も含めて)を極めることが重要だ。次に人間形成に影響することとして、稽古に対する態度、試合に対する態度、他者に対する態度、勝利に対する態度、敗北に対する態度を重要とする。言い換えれば、事に際し、己に対する態度を天に恥じないものとすることだ、と私は考えている。
ここで言う「天」とは、自然の道、自然の理法のことだ。そして、天に恥じないとは、決して人の考え方は多様だなどという考えに妥協することではない。増田流に言えば、自然の理法の方から見て文句の言えない事、すなわち真理の方から見て正しいと思えるものである。言い換えれば、何百年の歳月を経ても、人間が認めざるを得ない生き方をすることと言っても良い。そのような生き方を先達は「誠」と言った。そして誠を実践し、かつ具現化するのが人間の道、すなわち人間の理想的生き方であると喝破した。これは、増田流の「誠は天の道なり。之れを誠にするは人の道なり(大学)」の解釈である。だが、それを見極めるには、数百年の歳月を必要とする。
まず、我々に出来ること。それは、武道を志す者は、すべからく、今の態度をより深く見つめ、戒めるべき、と言う事だ。特に我々は、一時の感情に左右された態度を戒めなければならない。そのため作法を大事にする。なぜなら、作法によって自我を抑制することが、自然の理法と自己とを合致させつつ己を活かす方法だからである。自我を恣意的、かつ奔放に発散することは、自然に飲み込まれた状態だ。武道は自然の理法と合致し、それを活かすことを目指すが、飲み込まれることを戒める。なぜなら、自我の尊大な主張は自然ではあるが、それは自我と言う自然に自己(真己)が飲み込まれ、暴走した状態だからである。以上は私の深く反省するところでもある。
私は、武道の究極は自己と他者が一体となる境地に立つことだ、と考えている。それでこそ不敗の境地に立てる。武術は勝者を目指す。その目標設定とその追求によって、最上の技術を生み出す。しかしながら、武道は勝者を最上としない。武道の最上は、絶えず相手を尊重しながら自己を不敗の地に立たせるものだ。だが、我々の作法を武道の社会独特のものだとして訝しく思う人もいるかもしれない。しかし、形には心が宿る。否、完成された形は、心が研ぎ澄まされ、高まらなければ顕れない。我々の目指す形は、そのような形である。また、皮相的な形だけを見るのではなく、その奥にある心の次元で形を見なければならない。
【武道とは武術の理法と人間形成のための普遍的哲学を備えたもの】
実用的な武技、武術の中には、機能美とでも言えるような形を創り上げたものもある。また、そのような形を表現する者の武技、武術は卓越した職人芸のようでもあり、かつ芸術の部類に入れても良いと思えるほどの独創性も内在していると思う。ゆえに武人を評価するには、まず武術の次元から見て、その能力が卓越しているかどうかが重要になると思われる。だが、私は優れた武人になれなくても、人間の道と併行した「武」を見つめる「武道(拓心武道)」と「武道人」を追求していきたい。なぜなら、私にとっての「武」は「文」を支えるための支柱のようなものだからだ。とはいうものの、私が歩んだ「武の道」も「文の道」も中途半端で話にならない。だからこそ、私はいつも呻吟する。己の人生のあまりの不甲斐なさに…。
とにかく、武道は武術をルーツとするが、武術とは次元を異とする「道」なのだ。ここで言う「道」とは、技術の面から言えば、「原理」と「応用」が構造化されているものである。言い換えれば、「理法」が内在するものである。また、人間形成の面から言えば、普遍的哲学、そのものだ。つまり、「武道とは武術の理法と人間形成のための普遍的哲学を備えたもの」なのである。
私は、なんとしてでも生きている間に本当の武道を開きたい。残された時間はもう多くないだろう。誤解を恐れずに言えば、私の後をついてくる人はほとんどいないだろう。あまりにも山奥に分け入っているから(遭難の可能性もある)。ゆえに、お世話になった人達のために、一日も早く、道場の後継者を育成したいと思う。そして最期の修行を全うしたい。
2020-7-25:一部加筆修正