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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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日本について〜令和元年の憲法記念日に

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【日本の社会システム】

 憲法記念日の今日、新書を1冊、斜め読みし、大仰なことを考えた。本日の午前中、テレビでは、政治家の憲法論議が行われていた。それを見ながら、政治家の前提に疑念を持った。私の前提は、日本は立憲民主主義の国ではない。我が国(日本)の文化的基盤(思想的基盤)は立憲君主制によって形作られている、ということだ(立憲君主制に議会民主制を付加している)。

 これまでの私は、我が国の社会体制は、立憲民主主義による共和制が良いと考えていた。だが、我が国は皇紀2679年の伝統を有する、立憲君主制の国体を保つのが良い、と現在は考えている。私が考える我が国の立憲君主制とは、良い君主が国民と協働し社会を形成する、と言うものだ。もし、社会に良い君主などいらないとすれば、どうなるか。君主に変わる国民を統合する権威を作らなければならないだろう。しかし、それは権威ではない、実態は権力なのだ。そしてその権力の正体は暴力装置である。憲法の本質は国家権力の道具である。それは、私の考える権威にはならない。人は権力を規定するのが憲法だと言うが、その正体は権力と一身胴体のものだと思う。ゆえに憲法は権力を規定しつつ、絶えず微調整をしなければならないと思う。一方、私が言う権威とは、社会に長い年月をかけて醸成された、文化的かつ内発的な良心の威光、そして力なのだ。

 私の言う「良い君主が統治する立憲君主制」の国家権力は、権威が背景になければならない。その権威が錦の御旗である。つまり、わが国の天皇制は、暴力を背景にした王政や国家の権力を正当化する国家主義や社会主義とは異なると思う。さらに言えば、他国に発祥した民主主義とは異なり、人間の人間(神ではないが神に近い君主という)による権威、そして日本的な民主主義的統治と言っても良いような社会システムなのだ。その社会システムが機能しているのが我が国だと思う。我が国においても、一時、欧米諸国と対抗するため、国家社会主義化した時期がある。その体制は、やがて国家主義的な指導者によって崩壊の道をたどった(私見だが、国家社会主義を提唱したのが安倍首相の祖父である岸首相であり、国家主義を提唱したのは、東條首相だろう)。

 いうまでもなく、暴力革命により誕生した民主主義は、我が国民の望むところではないだろう。これ以上は、とても急いで論を展開しているので、端折りたい。頭の悪い空手家の戯言だと、一笑に付されるかもしれない。それでも結構だ。だが、武を考え続けてきた者の哲学だとだけは言っておきたい。しかしながら、天皇陛下自体が、そのように考えていないかもしれない。そう言えば、不敬なことだとは思うが…。

 

【平成天皇の退位】 

 さて、私は今回の平成天皇の退位に感銘を受けた。天皇自身が将来の我が国のあり方を示したと、思ったからだ。そして、その本質は、若い人に夢を託すという、至極当たり前のことなのだ。それが権力者ほど、できていないように思う。

 そんな直感を得て、政治家の日本の未来への危惧を語る政治家の姿自体にも危惧を感じた。私は少子高齢化の社会に向けてなどという政治家やエセ知識人の常套句を信じていない。もし、そのことに本当に危機感を有しているなら、多くの人が若い人に道を譲っているはずだと思うからだ。今、重要なのは、若い人を育てる社会システムへの転換とその準備である。例えば、選挙制度や昇進制度などなどである。さらに言えば、若い人、有能な人にリーダーをやらせてみることだ。失敗しても良い。そう、失敗を許容する社会、失敗しても再チャレンジできる社会機能は重要である。

 国家という組織、そして社会システムの中で、メディアや知識人は、年老いた権力者に忖度することなく、若いリーダーを暖かく、時に厳しく見守らなければならない。断っておくが、若い人の登用と同時に老齢の人の再登用もシステムも重要である。これは、私の言っていることに矛盾があるのではない。むしろ、私は矛盾を内包するできるシステムが重要だと、直感する。私の言いたいことは、老年が良くないということではなく、若い人にチャンスが少ない社会は良くないと言うことである。

 

【若い人にチャンスを与える】

 若い人にチャンスを与える、そのような理念を核とする、ある種の社会運動により、国民全体が考え始める。そのことが永続的な社会システムには重要なのだ。ただし、それが革命主義やポピュリズム的な民主主義ではいけない、と私は考えている。例えば、他国の民主主義を見てみるが良い。立憲君主制でないところは、すぐに権力に不満を言い、権力に対し暴力(革命)を振るう。同時に暴力が連鎖する。それは戦争状態の発生の原因と同質のものなのだ。民主主義を謳っていてもである。

 そのような国は、古の王政、封建的独裁政治の時代が余りにも酷く、それが立憲君主の社会を遠ざけたのかもしれない。しかしながら、それは封建主義と悪しき君主制が一体となっていたからだ。民主的な憲法を掲げ、それをもとに民主的に運営する立法府と行政府、さらに憲法の権威を担保する司法が、社会システムの中で機能している社会。そのような機能を有しつつ、その社会機能に正当性を与える君主(天皇)が存在する社会が、我が国の立憲君主制だ。

 

【社会機能に対し多数決で正当性を与える民主主義】 

 私は、国民が社会機能に対し多数決で正当性を与える民主主義はよくない、と思っている(イギリスの国民投票が良い例である)。なぜなら、ポピュリズム(衆愚政治)が跋扈し、メディアを含む、自己の組織を拡大することが目的の者達が、そのことを煽る。もちろん、国民の自由を奪う、国家主義や国家社会主義を、私は好まない。

 私は今、社会システムの中で、大家族的な伝統を承継する君主(天皇)という権威の存在とその承継を願う、強い国民意識が必要だと考えている。そして、その国民意識がポピュリズムによる暴力革命という、民主主義がもたらす最悪の状況の抑止となる。何を隠そう、かのヒットラーを擁したナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)は民主主義のルールを基盤に誕生したのだ。では、天皇の権威が政治利用されたらどうなるかと言われるかもしれないが、そのような状況を回避するために憲法が重要である。また、行政府と立法府の機能が重要なのだ。天皇が政治利用される状況はすでに国家主義になった状態である。私の考える我が国の立憲君主制とは、国家主義とは異質のものである。

 

【かつての私】

 繰り返すようだが、かつての私は、民主主義を基盤とした共和制への移行を支持する、リベラル派であった。だが、考えを改めた。なぜなら、経験的に欧米的な民主主義が、日本の文化という土壌には適さないことを実感したこと(それが悪いと考えているわけではなく、日本人には合わないということ)。また、私自身が家族の存続を強く願う、保守層の人間となったからであろう。同時に現在のリベラル派の有すると思われる国家モデルには、我が国の良点を喪失しかねない、思想的瑕疵が伺える。また、昨今のリベラル派(左派)ほど、改革を好まない傾向がある。私は何を隠そう、安倍首相支持派である。もちろん、ご飯論法の面も否めないし、一部、考え直していただきたい点もないことはない。また、国家主義的な方向に進んでいる面を、危惧もしている。さらには、新たな選挙制度が生んだ、近視眼的な政治家が自民党には多いのも事実である。しかしながら、それは野党も同じである。また、安倍首相の良い点として、失敗を経験して、再び首相に返り咲いた点をあげたい。そして、少なくとも安倍首相の誕生が、戦前、戦後を考え直す、きっかけになっていることは評価したい。だが、そのことをポピュリズムの代表であるメディアが、オープンに取り上げないことが問題である。否、ポピュリズムの先導者だからこそか。また、あまり難しいことを考えたくない、国民性に原因があるのかもしれない。

 今、世間では参院戦では自民党が不利などと煽る人達もいるようだが、民主主義の綺麗に見える面だけを強調する、頭は良いが人間洞察に甘く、本当は冷たい政治家を私は支持しない。やがてボロが出るに違いない。もし、何かの間違いで野党が政権をとれば、移民が跋扈し、我が国の国民は子供を産まなくなり、自己の安定を図るようになるであろう。それがフィンランドのような高い税負担を課し、その代わりに社会福祉政策を安定させるような国家を目指すのならば、それも良いかもしれない。国民が受け入れられるのならばだが…。また、外国の人達に対する偏見は無くすべきである。そして、開かれた国家として、ある程度の移民は受け入れなければならないであろう。

 しかしながら、移民の安易な受け入れは、大変なことになるような直感がある。労働力の確保に端を発する諸問題は、全体のシステムに影響するだろう。また、一歩間違えば、日本の伝統や社会システムの良い面を崩壊させるかもしれない危険性がある。このことは政治家が真剣に考えなければならない問題だろう。

 

【暴力】

  もう一つだけ言っておきたい。「対立するものへの実力行使による意志の強要」、それが暴力である。かなしいかな、武術、格闘技の本質には、そのような側面を内包している。しかし、経験が浅く、能力も低い、全ての人間には、そのような行動を選択する傾向があるということを知らなければならない(経験が浅く、能力が低いとは、一人の人間があらゆる経験をし、全ての能力を有することは不可能だということを意味している)。同時に、理性による合意、対立関係の解消が、かけ離れた思想を有する人間同士には困難だと言う現実がある。だからこそ、科学技術が発展した現代においても啓蒙思想が必要なのだ。また、全世界的な社会システムが必要かもしれない。同時に、個々人の武に対する心構え並びに国民を守る意味での武力(軍事力)が、国家には必要なのだ。

 ただし、一人の人間に、それを行使する権限を与えるのは危険である。また、個人や他国に対する武力による意志の強要は、絶対にしてはならない。禍根を残すからだ。しかしながら、他者がそれをしてきた場合には、毅然として立ち向かい、その状態を切り抜けるという能力と勇気を持たなければならない。それが現実である。そして、その覚悟を持って、国として最善の道を真剣に模索し続けることが、将来の国民には必要なのだと言いたい。

 もし、我が国に再び、困難が降りかかったら、我が国の国民はどのように行動するのだろうか。無抵抗で暴力的な国家に従うのであろうか。それとも…。安倍首相に留意していただきたいことは、国家が決めたことに「NO」をいう権利だけは保証していただきたい。それがなくなれば、悪しき国家主義そのものである。

 

【私は戦争を行うことには絶対に反対である】

 だが、私は武を学ぶ者として、有事を想定せずにはいられない。断っておくが、私は戦争を行うことには絶対に反対である。だからこそ、女性や子供、前途ある若者を苦しめる戦争を絶対に回避するとの覚悟を有しつつ、あらゆる対応策を準備しておく。それが国家と国家のリーダーには必要なのだ。また、そのような想定をすればこそ、伝統ある君主の存在が物言う、イギリスのような国家モデルが参考になると思っている(ただし、現在のイギリスは混迷しているが)。

 もう一度言う。わが国は、こらからも理想の立憲君主制を目指すのだ。ただし、立憲君主制に、民主主義の立脚点である、基本的人権の尊重の思想を取り入れ、その国の文化的伝統に適した民主的な行政、司法、立法をはじめ、教育や地方自治体などなど、あらゆる社会システムを構築していくのだ。それには、たゆまぬ社会システムの見直しと更新、そして微調整が必要であることは間違いない。

 

 

2019-5-5:一部加筆修正


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