4月29、30、5月1日と山梨で合宿を行った。道場生対象の合宿ではない。研究と教本作りのための合宿である。その合宿は、秋吉への指導と黒帯指導員への指導と映像テキストの制作が主な目的であった。二泊三日で17時間ほど指導しただろうか。
それでも足りなかった。いつもながら無謀な行動に反省している。おそらく、私に優秀なプロデューサーがいたら、効率は3倍となるに違いない(それほど私にはプロデュース能力がない)。しかしながら、これまで、そんな人間に出会わなかった。ゆえに、合宿の前後、合宿以上の作業を続けている。「1日も早く、増田式空手メソッドを完成させたい」そう熱望している。そう思うのも、アイディアがまとまったからだ。
先日の合宿も全員の黒帯に参加して欲しかったが、宿泊場所の確保がわずかしかできなかった。ゆえに有志を選んだ。みんなクタクタになったに違いない。
合宿の前の4月20日には、金沢において体験会があった。本当に休む間も無い。道場の師範代の秋吉も大変である。また、金沢の体験会に続き、山梨の合宿にも車の運転と私の精神的リラックスのために付き合ってもらったO氏に感謝している。O氏は、そこにいてくれるだけで安心する。私にはそういう人が数人いる。その人が、そこにいてくれるだけで良いのだ。
【合宿の夜】
合宿の夜、平成天皇の退位式の模様を痛むヒザを折り曲げ、正座で拝聴した。そして令和元年のカウントダウンを見届け手から、皆で乾杯し、寝床に着いた。
就寝前、1時間だけと、皆と杯を傾けたが、その中、思いがけず、T氏の身の上話を聞いた。T氏は、非常に好奇心が強く努力家である。ただ、酒を飲むと気がとても大きくなる性癖があるようだ。その性癖により、家族との間に傷跡があるようだ。だが、彼には奥方や家族に対する愛情が溢れていた。正直言えば、私の家庭もあなたと同じだよ、と言いたかったがやめた。似ていると思ったが、それを言えば嘘になると思ったからだ。
T氏と私は、当然同じではないが、共通点は、自由を愛し、自分の力を思う存分に発揮したいという願望が強いことだと思う。その夜、T氏は奥様との軋轢を私に吐露したが、結婚を決めたきっかけは、彼が山下公園でのデート中、寝てしまい、起きると夜だったにも関わらず、奥様がそばに黙っていてくれたからだと言う。また、「今回の合宿は、家内に行って来いと背中を押されました」とも言っていた。また「家内はしっかり者で頭が良いんです」とも言っていた。私は疑い深いから、「奥様は、T氏に家に居て欲しくないからかもしれない」とも思ったが、「奥さん賢く、素晴らしい人だから、大事にしろ」と偉そうに言った。
さらに「君の良いところは正直なところだから、その正直さを相手に伝え続けた方が良いと」だけ言った。的確な言葉かどうかはわからない。何しろ、T氏の奥様に会ったことがない。しかし、彼と彼の家族との軋轢や傷跡は、生涯の戒めとすれば良い。何より彼には家族が必要だと思う。とにかく、この先、家族が大切だと心から思えれば、何もなかった人生より、生きている喜びとは何か、を知るに違いない。初心忘るべからず。私はそのような話もした。T氏が「悠恕」という深い愛、その初心を忘れなければ、必ず夫婦の関係は良くなると信じている。
【次の日】
次の日、午前中の稽古後、午後に近くの新倉山に参拝した。富士山の絶景スポットである。合宿中は、あいにくの雨だったが、かろうじて雨が上がった。四百段近くの階段を登り、絶景スポットに立ったが、富士山は見えなかった。
それから、山梨の合宿から東京に戻った。その日は、ふらふらになって寝床についた。次の日、痛む身体の治療に出かけたが、治療後、疲労感が出て、車を車庫にぶつけてしまった。おっとこちょいなのは子供の頃からだが、人に危害を加えなくてよかった。車の運転にはくれぐれも気をつけたい。連休中は、どこにも出かけず、読書と門下生を育成するためのデジタル教本作りに当てたいと思う。実は、明日のことを考えずにいられる連休は、とてもありがたい。また、私の家族は、私の性格と仕事を理解し、私と一緒に行動することを希望しない。正直、少し寂しいが、それゆえ全力を挙げて研究活動に集中できる。
【傲慢の極み】
先日の合宿では、秋吉に今後の方向性を大枠だが、伝えられた。空手の技術の面でも、理解していないところが多いと思っていたが、案の定だった。とにかく早く、教本を完成させたい。同時に、これまで私の道場で教えてきたことは、私の空手の10分の一にも満たないと思っている。私は極真空手の伝統を尊重するがゆえに、その稽古モデルを変えることができなかった。ゆえに十分な空手の技を教えてこなかった。しかし、従来の稽古法を極真空手とするならば、極真空手は十分な空手ではない。しかし、それは正しくない。これまでの指導者が、稽古法を変えなかっただけである。大山先生の意思ではない。私はその十分でないところを補って行きたい。それが増田式空手メソッドである。先輩たちに、傲慢の極みだと貶されるに違いない。しかし、大山倍達先生が学んだ空手の真髄と現在の極真空手は異なると思っている。現在、極真空手の基本技(伝統技)は形骸化している(意味を伝えられていまい)。また、極真会館が始めた、直接打撃制の試合中心の稽古法は、単にチャンピオンという価値観を掲げ、修練のモチベーションをあげるためだけのものである。しかし、そこに技術探求による「道」がなければ武道ではない。それを喜んで行って人が大勢いるのだから、それなりの価値はあるだろう。精力善用という面では、良い面もある。しかし、柔道の創設者である嘉納治五郎先生が述べた、精力最善活用だろうか。最善という意味が抜けては、「道」として高まらない、私はそう考えるだけだ。
私は、空手の修行を通じ、心を創り、身体を創り、技術を創る。そして真理を探求していくことが、武道であると考えている。同時に、それが極真空手だと、私は思っている。
蛇足〜でも、あんまり本物の武道を行うと、道場生は集まらないかもしれない…笑い。