心眼を開く組手
先月の18日と今月の2日、組手講習会を実施した。これは空手においては最後の挑戦となるかもしれない。その挑戦とは、技術を磨き技能を高めることを目的とする、新しいソフトウェアの様な増田式空手メソッド(拓心武道メソッド)の普及である。その手始めとして、わが道場の黒帯と上級者に伝えるための講習会を実施した。まずは、私の組手に対する考え方を自分の道場生に伝えておきたいと思っているからだ。
断っておくが、増田式空手メソッドは、これまで40年近くにわたり、私が伝えてきた組手法、空手とは異なるものに思えるかもしれない。しかし、あえて言っておこう。TS方式を理解できないものは、過去に遡り、増田の教えてきた極真空手を理解していない者と言っても過言ではない。TS方式は、増田が人生を賭けて行ってきた極真空手の修行の延長線上にあるのだ。ゆえに「基本」は、ほぼ同じである(若干の追加、補足をしなければならないが)。私自身には、40年前から、その基礎となる認識があった。なぜなら、柔道やレスリングの経験を通じ、相手を攻略する技術と技能の重要性が嫌という程、身にしみていたからである。例えば、40年ほど前になるだろうか、多くの柔道家が愛読した、バイタル柔道は、私の愛読書でもあった。私は、柔道に挫折した。その体験の中で、技術と技能がいかに重要かが、骨身にしみたのである。その様な体験を経て空手を行なっている、私の認識と単に最強ブームに乗って極真空手を始めた者との認識は当然異なるものだったに違いない。
今、その認識を共有するためのソフトウエアの様な増田式空手メソッドを考案できたと思っている。その内容を大雑把に言えば、これまでの「基本技」の運用ルール、プロトコルが増田式空手メソッドでは異なるということだ。当然、組手に対する理念、価値観が異なる。
さて、講習会は時間は4時間ぶっ通しであった。本当は午前2時間、休憩を挟み午後4時間ぐらいの時間が必要である。そんなに長時間で大丈夫かという意見もあるだろうが、初めは講義と軽い練習。
次に詳細な技術練習とゲーム(組手)体験。さらに、その組手を解説し、組手の理法を学び合う。そのような内容を通しで体験して、初めて私の考えていることを頭と体で理解できるようになるだろう。
そうなれば、それ相応の準備が必要である。それなりの対価が欲しい。今回は、道場生の感覚に妥協して実施した。ただ、今回は私の講習会の練習だと思っている。同時に中途半端で50点だと反省もしている。本当は、私の空手哲学を本当に学びたいと思う人に対し、決して妥協せずに、かつ100点の内容を目指して実施するのが理想である(身内を対象にしているうちはダメかな)。
だが、多くの人は「新しい組手法など必要ない」。「そもそも組手に難しさなどあるのか」「あるのは体力や経験の違い、センスの違いがあるだけではないのか」というような思いを持つのが現実であろう。また、そこまで思わなくても、新しい組手法、すなわち組手法の研究に関して、興味がないな、との反応が各々の身体から湧き上がってくるに違いない。もちろん、そのような反応になるのは、私のプレゼンの仕方が悪いからであろう。しかし、皆何を求めて空手の稽古をするのだろう。
私は空手を始めた時から「強くなりたい」と念じ続けてきた。その結果が、極真空手のみならず、柔道やレスリング、防具空手やボクシング、キックボクシングの研究や体験だった。また、極真空手の選手としての挑戦だった。
脱線するが、私は体力のピークに向かう途中で、選手を引退し、写真家になろうと写真の学校に通った。それは「強さ」の獲得に極真空手の選手であり続けることが、必要でないと思ったからだ。その感覚は、半分正しく、半分間違っていると、いまでも思っている。なぜなら、本当の強さとは、試合に勝つことやチャンピオンになることではなく、自分が価値あると思った目標に向かって努力し続けること。その過程の中で、「自分とは何か」「他者とは何か」「努力し続ける意味」などの命題との格闘、困難と向き合いながら、自分のバランスを保ち続けることではなかったかと思う。私は、困難な目標に対し挑戦しながら、局面的な挫折や目標に到達できないかもしれないという不安の中で自己のアイデンティティを保ち続けることができた。そして、そのような生き様の中で周りにいる人たちへの感謝を知った。私は、その感謝の体験の中にこそ、人間の真の強さの本質があると、私は直感している。それを自著では「やさしさ」と定義した。人間の「やさしさ」とは、人間のみの「やさしさ」である。
話を戻せば、私は今、選手生活を引退してからの20数年間、単なる自分の空手の理想を追い求めてきたのではない。現実に改革に挑戦してきた。つまり、具体的に時間と労力、資金を投入し、改革を計画し実行をしてきた。その結果は散々なものだった。換言すれば、私の理想への挑戦は敗戦ばかりだったかもしれないと思っている。かもしれないというのは、敗戦の経験により、見えなかったことが見えるようになったのではないかと思うからである。もちろん、敗戦の原因を色々と考えることもある。例えば、「私の計画に無理があった」「資金が足りない」「私に能力がない」。「大衆のニーズがない」などなど、考えれば考えるほど、私の無謀と非力を思い知らされる。
だが、私の理想の底流にある、より高いレベルの空手、そして真を追及したいという思いからすれば、それも良い経験であった。その経験があればこそ、今、新しい境地に立っている。
おそらく、初めは理解者、共感者は少ないかもしれない。しかしながら、私が身近で接している者には理解するものも出てきた。問題は、大々的にプロモーションすることができないことが悔しい。だが、今回の講習会然り、今はまだ準備の時期だと考えようと思っている。不安なのは、私の体が日に日に壊れてきていることである。十分なのは髪の毛だけだ(笑い)。もう少しだけ「私の夢」に付き合ってくれと、私の最大の協力者である身体に、お願いしつつ感謝する毎日である。
最後に、私の考える組手法、試し合い法は、フイジカルチェスと呼ばれるようなものにしたい。具体的には、「なぜ?に向き合い、それを自己の心身に取り込むような組手にしたい、ということである。そのように言えば、すでにクエスチョンが出ているだろう。もう少し具体的にいえば、「なぜ、技が正確に当たったか」を正確に理解できる様にすること。例えば、組手の結果をチェスや将棋、囲碁の感想戦の様に、互いの手(戦い方)を検証できる様にすることである。もちろん、理解を超えた「妙手」の存在に気づかされることも含めてのことである。また、「妙手」を自覚することで、人間はより謙虚になれる。そしてより高みに挑戦できるのである。
私は講習会の第1回目の講義で「武道の目指すところは、究極、心眼の養成だ」と述べた。その直感に迷いはない。ただ、消えない孤独感を制する道を知りたいと、新たな目標が見えている。
【蛇足】
2回目の講習会の講義では、増田式空手メソッドの組手法(TS方式)の理念を武道人精神、ブドウマンシップと仮に伝えた。武道人精神と武道精神は異なる。また、武道人とは私の造語である。ちなみに極真空手は武道精神と掲げるが、意味がよくわからない。また柔道の講道館は講道館精神を掲げ、試合を行う様だ。私はそのあり方に共感する。
スポーツにおけるスポーツマンシップや柔道における講道館精神と同様なものの必要性を感じた私は、そのことを急ぎ伝えたかった。さもないと、「画龍点睛を欠く」ということになってしまうと考えたからだ。
私は、土曜日、付箋のついた「ホイジンガのホモ・ルーデンス」や「嘉納治五郎著作集」を手に取っていた。講習会の前日、いけないと思いつつ、読書をやめなかった。否、やめられなかった。
そして、武道人精神を「尊敬」「公正」「智慧」とした。その様な心構えで競技(プレー)をすることを新しい組手法、競技法の眼とするためである。同時に試合ルールも理念と合致する様、「尊敬」「公正」「智惠」を基盤に創設され、かつ、その様な徳目が醸成される様にしなければならない、と考えている。ただし、再考はしたい。
※感想戦とは:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
感想戦(かんそうせん)とは、囲碁、将棋、チェス、麻雀などのゲームにおいて、対局後に開始から終局まで、またはその一部を再現し、対局中の着手の善悪や、その局面における最善手などを検討することである。なお、「感想戦」は本来将棋用語であり、囲碁では通常「局後の検討」という言葉が使用されることが多い(NHK杯の司会者もそのような言い方をしている)。