サッカーと極真空手
ここ2ヶ月間弱、「試し合いとは何か?〜技と技能(仮題)」という論文を書いてきた。原稿用紙で70枚ぐらい。その論文を基調に、新しい試し合い方法(組手法)の入門書を作りたいと考えている。
私は、知る人ぞ知る、「せっかち」である。本来は倍の日数を要するのを、一気に仕上げようとする。おそらく、それが原因で、ヘルニアの影響が出て、腰痛が悪化した。現在はリハビリ中である。快方に向かっているが、他の傷病も含めて、このままでは、身体が動かなくなる。もっと丁寧に使わなければと思っている。
そんな中、サッカーのワールドカップが始まった。サッカーのワールドカップは面白い。もちろん、私はオールジャパンを応援している。初戦は、予想に反し、日本が南米のコロンビアに勝利した。試合開始早々の相手レッドカードによる欠員と得点が勝利に影響したとは思うが、ディフェンス陣の気合いやフォワード陣の集中力には目を見張った。「日本もやればできる」、そんな印象を全国民に与えたのではないだろうか。次の試合が正念場だが、私は期待したい。
勝利のポイントは、より正確なディフェンスと、なるべく少ないタッチによるボール回し(パス回し)だろう。また、ディフェンス陣のとフォワード陣の連携である。さらに、ゴールエリア付近での針の穴を通すような集中力である。また、ドイツが苦戦したように、縦のカウンター攻撃によって生じる、崩れや隙をつくことかもしれない(にわかサッカーファンが何を言うと言う感じだが…)。
サッカーの素人の戯言と一笑に付されるのは必至だろうが、言っておく。いつも私が言うように、メジャースポーツになる要因の一つには、観客が評論に参加できるような判定基準の明確さがある。もう一つは、見る者に感動を与える、ゴール(一本)が設定されているか、どうかだ。言うまでもなく、サッカーはスポーツの王様である。
ここで、あえて言いたい。我が極真空手も第4回世界大会時、サッカーのようにメジャー競技に生まれ変わるチャンスであった。その意味は、当時の極真会には、単なる試合に勝つではなく、メジャーな格闘競技になるために重要な、身体能力と破壊力を有する選手が多く在籍していたという事である。アンディ・フグ、マイケル・トンプソン、ミッシェル・ウェーデル、ジェラルド・ゴルドー、大西靖人、松井章圭、全てあげれば、あと数十人はいるだろう。今夜、サッカーに日本代表と対戦するセネガルの選手も素晴らしかった。みんな本当に素晴らしい才能を持っていた、と思う。それらのタレントを活かせば、極真空手は、サッカーにだって凌ぐものになる可能性もあった、と私は確信している。しかし、極真空手のリーダー達は、そのチャンスを逃した。タレントを活かせなかったのである。このことについては、いずれ書いてみたい。もし、今書いている論文が日の目をみるなら、補足として書こう。命を削りながら…。
兎にも角にも、今夜は多くの日本人がサッカーに熱中するに違いない。そこで、私が考える新しい組手法(試し合い)の目指すところを述べてみたい。
【私の考える空手の理想形】
現行の極真空手のみならず空手の組手法では、サッカーのような感覚(技能)そして、芸術的な一本(ゴール)は生まれないだろう。
空手をサッカーの構造にたとえて言えば、左右の手、左右の脚、その他、禁じられていない身体の部分を使い、技を創り、その技を協力させ、相手をノックアウトすることだ。その構造は、まるで、各身体と各種技がチームメイトとして、一つの身体のようになることを志向しているかのようである。また、私の考える空手の理想形は、チームスポーツの理想形と近いのではないか、とも思っている。つまり、一つの身体のように、組織体を駆使することが、最高のチームだと言う事だ。そして、そのようなチームの監督には、勝ちたい、という欲望のみならず、チームを生かし、高めるという意識が必要だ。つまり私は、極真空手の組手にも、各種技が意識という監督に統合され、協力し合う、チームプレイの感覚が必要だ、と思っている。
また、パスワークからゴール(ノックアウト)を決めるには、上段、中段、下段の蹴り技と突き技との連携が重要である。具体的には、空手の各種技を一本(ゴール)のための準備(崩し)として、運用するのだ。要するに、極真空手がサッカーの試合のようになるためには、パスワークのような、技の攻防がなければならない、ということである。
今、サッカーを観て、私が「試し合いとは何か?」という論文で伝えたかったこと、その中の応じ(技)の重要性は、サッカーのパスワークに例えられる、と思っている。つまり、サッカーのパスワークのように応じ技を駆使して、組手を行えるように競技規定(ルール)を変えれば、もっと素晴らしい一本が生み出されるようになる、ということだ。換言すれば、新しい競技(試し合い)システムの構築が新しい組手法の目指す処なのである。
具体的には、相手を出鱈目に近く、蹴り、打つのは、サッカーでいうパスワークではない。相手の攻撃を受け、それをなるべく少ないタッチ、かつ瞬時にスペースを見つけてパスを出すこと。それが、現行の極真空手にはないが、私の極真空手にはある感覚である。しかしながら、私の道場生にも、その感覚がない。否、技自体ができていないのかもしれない(技ができていないというのは破壊力が乏しいということ)。
原因は、私が伝えられなかったこと、と現行の極真空手の構造によるものだ。すでに時期を逸したかもしれない。なぜなら、私の心身はくたびれてしまっているからだ。ただ、私が気力を振りしぼっているのは、最期に生きた証を残しておきたいと、強く思っていること。また、かつての組手の好敵手だった、松井章圭、極真会館館長が私の考えに理解と協力を約束してくれていることである。勿論、約束と言っても、契約書を交わしたわけではない。また、彼の下の門下生の反対があれば、それは実現しないかもしれない。それでも、私には松井氏の言葉がとても嬉しい。できれば、このような気持ちで最期を迎えたい。
【私が実践し伝えてきた空手の修練】
これまで、私が実践し伝えてきた空手の修練は、応じ(技)の修練、つまり相対での型稽古と、組手修練である。ただし、その組手修練には、サッカー同様の感覚がある、と想像している。換言すれば、機を捉え、先手をとること。そして、全ての技を連携させる能力を体得することだ。繰り返すが、私のいう応じ技からの一本とは、サッカーのおける、パスワークからのゴールと同じなのだ。
補足を加えれば、相手の攻撃を、時にインターセプトし、間髪を入れずに、スペースを探し、パスを出す。それが、ゴール近くであれば、そのままパスをせずにシュートすれば良い。いうまでもなく、ボールを蹴る力に威力(空手でいう破壊力)があれば、そのようなプレーの可能性が拡がる。ゆえに、身体能力並びに技の精度と威力を鍛え上げることが重要なのである。
また、私の新しい組手法では、技と技能とを分け、サッカーでいう、ボールを蹴る力とパスワークにより、ゴールを生み出す技と、その技を運用する感覚を体得する修練とを分けている。つまり、空手技の破壊力をつける修練と技を運用し、一本を生み出す修練とを分けているということだ。詳しくは書籍で説明したい。一言で言えば、攻防一体の組手である。
現行を眺めれば、全てではないが、多くの極真空手、フルコンタクト空手の組手では、相手の攻撃を受けないでただ自分の攻撃技だけを駆使している。また、防御をしたとしても、それは防御のための防御である。それではいけないと、私は40年近くも教えてきたのに、誰も理解できなかった。身体が衰え、気力のみとなって、初めて、私の伝え方、手段に難があったと気付いている。
繰り返すが、サッカーを見て欲しい。フルコンタクトの極真空手の組手競技は、サッカー競技と共通項が多い、と私は思う。ただし、私が考える極真空手であればではあるが…。要するに、サッカーのパスワークの基本は、まずはボールをトラップする、そして間髪を入れずに、スペースを見つけパスを出す。これが、私のいう応じ技である(トラップしないで蹴る場合もあるだろう)。
もちろん、極真空手においても、受け返しを行う者はいる。そのような者は、上等の者だ。しかしそれは、私のいう「応じ(技)」とは異なる。私の応じ(技)とは、絶えず一本を目指すものだ。
不遜ながら、サッカー選手にも聞いて見たい。「パスをするのが目的ではないでしょ」「ゴールをどのように創造するかの意識が、パスの中に内在していなければならないでしょ」と。
その意識がなければ、空手で言えば、防御のための受け、そしてサッカーでは、判断能力と想像力の乏しいプレーなのである。
【松井章圭氏と増田章の組手には】
最後に、私の新しい組手法において、第一義とする、技能とは、職人的な技芸の要素で、芸術の要素とは対極にあると、これまで言われてきた。しかし、競技においては、芸術が生まれるための基盤となるものなのである。
また、空手もサッカーも、様々なパーツ、技、そして個性とも言える部分が連携された、総合力が必要な競技だ。そして、対戦相手というパートナーとしのぎを削るかのようにプレーすることで、生み出される芸術作品でもあると、私は考えている。私が経験した、松井章圭氏との組手には、そのような感覚があったと、今、改めて考えている。そして、相手は敵ではなかった。むしろ、自分の能力を引き出し、高めてくれた協力者(パートナー)だと、私は実感している。このことを、さらに詳細に書きしるしておきたい。そして、いつの日か、魂を磨き高めるために極真空手を続ける者に伝われば良い、と考えている。
スポーツも武道も相手を尊重し、かつ互いが自己を高め合い、認め合うものにしなければならない。もし、武道はそうでないというなら、それは正しく高次化した姿ではなく、「変態」である。そして、私はその世界から去りたい。
2018-6-24:一部修正
2018-6-25:一部修正