【組手とは何か】
空手における「組手」とは柔道でいう「乱取り」、剣道でいう「地稽古」のことである。 ところで、極真空手を学ぶ人たちは、どんな目的で組手を行なっているのだろうか。
ここで急ぎ頭に浮かんだのは、⒈「相手に勝つ」 ⒉「自己の技の破壊力を試す」 ⒊「空手の技を試す」と、 3つの組手稽古の目的である。他にもあるだろう。一度、みんなに聞いてみたい。
では、その意味を掘り下げれば、⒈の「相手に勝つ」という目的はあまりに抽象的過ぎ、具体性に乏しい。そもそも、修練者のレベルによって、勝つために身につけなければならない要素が異なる。もし、すべての要素をひっくるめて、ただ組手を行うのであれば、言語道断としか言いようがない。 ⒉の「自己の技の破壊力を試すため」も、異なるレベルの修練者がそれを行うには、具体的な目的と意識、手段を伝えなければ、言語道断といえるであろう。
また、破壊力のある者が、技術的未熟者に、その技を強く用いれば、相手の技術の習得に悪影響を及ぼすのみならず、怪我をしてしまうことはいうまでもない。 ⒊の「空手の技を試す」はどうだろう。これは、多少、妥当性を有する目的と言えるかもしれない。ただし、そこに空手の上達への道筋が明確である場合、最も有効かつ有益となる。さらにいえば、相手のレベルなどを考慮し、傷害などによる稽古の継続に支障をきたさない様、技の破壊力を制御しながら行う必要があると、私は考える。
もう一つ、上達の道筋の明確さとは、的確な分析、検証、再構成を行うだけの知識と能力を有していることである。それがなければ、単なる自己満足に終始し、結局、何年稽古しても上達はできないであろう。蛇足ながら、先述した自己満足はやがて、相手に自己の技の破壊力を試すという様な安直な行為につながることは必至である。
【私の組手に対する考え方】
さて、ここで私があげたことは、多くの道場生、空手愛好者の組手に関する認識、すなわち技の試し合いに対する認識レベルの低さを自覚して欲しいからである。おそらく、 多くの空手愛好者が、先述した程度の認識しかないと、私は思っている。
一方、私の組手に対する感覚ならびに考え方は、長年一貫している。それを一言で言えば「技が上手くなりたい」「技術を極めたい」との強い思いといっても過言ではない。もしここで、 増田は技術のみを追求するのか。人間形成は関係ないのか。という様な声があったならば、最後まで我慢して読んでほしい。
私が若い頃、技術と考えたのは、「⒈破壊力のある技を作り出す技術」「⒉有効な技を相手に用いる(空手なら当てる)技術」「⒊相手の破壊力ある技を弱体化(無力化)する技術」である。 ⒈には、筋力や部位の強化が必要であろう。⒉と⒊には自己のみで行う鍛錬ではなく、他者と相対で行う練習が必要でと考える。その様な練習を私は組手型の稽古と呼び、長年にわたり、自分の道場で指導してきた。ただ、「受け返し練習」や「約束組手」という軽い名称がいけないのか、全ての道場生にその有用性が伝えられたとは考えていない。また組手型と呼んで、「応じ」の感覚を理解させようとしても、その本質をつかませることができない状態である。 では、私の考え、認識と道場生の認識がどの様に違うのか書いてみたい。
私は、10代の後半から20代の初めにかけて極真空手の全日本チャンピオンや世界チャンピオンと組手の手合わせをする機会に恵まれた。それからというもの、その先輩との試し合いをイメージしながら組手練習を行なっていた。そのことの意味は、私にとっての組手稽古は全日本チャンピオン、世界チャンピオンになるためのものであった、ということである。そのことをもう少し掘り下げれば、その目標を実現するには、あらゆる者と組手ができ、かつ負けてはならないということであった。ゆえに、想定できる、あらゆる戦い方に対応できなければならないと、考えていた。その様に明確な目標を持ちながら、私は組手練習をおこなっていたのである。 しかし、現実の稽古を見てみると、相手は白帯、初心者ばかりであった。 その初心者を相手に、先述した「3つの組手稽古の目的」の⒉の「自己の技の破壊力を試すため」を実践すれば、将来、自分の組手練習の相手となるかもしれない稽古生もいなくなる。私はそれではいけないと、直感していた。初めは稚拙でも、しっかりと指導すれば、いずれ練習相手ぐらいにはなる、と考えていたのだ。
また、⒊の「空手の技を試す(試し合い)」をより意味あるものとするには、「相手の技術レベルをあげる」ということを成した上でなければならないと、私は考えていた。なぜなら、先述した様に、自己の技術の上達を検証するために、よりレベルの高い技を前提にした、自己の対応力(より精度の高い仕掛けとより高い応じの技術)を分析、そのレベルを検証するためである。換言すれば、それが練習(組手稽古)からのフィードバックによる技術の構築ということである。さらに、相手(道場生)のレベルをあげなければ、技の試し合いによる、高度なフィードバック制御の能力向上や技術の再構成ができない。
ゆえに、私の道場生に対する組手法は、ほんの数件の例外を除き、破壊力をコントロール(寸止め)したものであった。さらに相手の能力をなるべく引き出した上で、それに対応するというものであった。そうすることで、相手(道場生)の技術的成長を待ちつつ、自己の技術のレベルをあげるためである。自慢ではないが、私が若い頃、猛稽古に付き合わせた道場生の多くが、組手技術に上達したとの自負がある。ただし、その構造の理解がなされていないために、私の指導を受けなくなってからの上達はなくなったと思う。もちろん、体力面の向上はあったかもしれないし、その様な面も組手には必要である。しかし、私はその面の向上は、組手稽古とは分けて考えるのが良いと思っている。
【元来は不器用な私が】
さらに言えば、元来は不器用な私が、その様な組手法を心がけることにより、自己の身体のみならず感情や知性をコントロールする術を学ぶことになったと、確信している。換言すれば、心身のみならず、感情をもコントロールするということは、非常に効果的なフィードフォワード制御の能力向上に役立ったと考えている。ちなみにその意識は、柔道で挫折し、極真カラテを初めた高校生の頃から続いている。そのおかげで、不器用な私が、なんとか人並みの器用さで心身を使える様になったと考えている。そして、身体能力向上と破壊力のある技を相手により正確に、より効果的に当てる技術のみならず、相手の破壊力ある攻撃を弱体化してから攻撃する技術(応じの技術)を身につけさせてくれた。その技術が、身長177㎝、体重90kg程度の私に対し、身長2m、体重110kgを超える相手に対し、自己の体力をより効果的に使うことを可能としてくれた(まだまだ理想には程遠く、未熟ではあったが)。
【これまでの空手界では】
これまでの空手界では「寸止め派」と「フルコンタクト派」に分類するのが一般的であった。しかし、両方を見てきて、私が思うことは、どちらも寸止めではない様に見える。他方、かくいう私は、「寸止めの意識」で組手を行なってきた、と言いたい。また、「TSスタイル」で行なってきたと言っても良いだろう。その具体的な説明は、現在進めている、T Sスタイルの組手法(ヒッティング)の普及過程で伝えたい。一つだけ、自己の心身を制御する意識が武道修練には重要だとだけ書いておきたい。
【高齢化社会に役立つ、心身創出のための武道】
2018年5月4日、記念すべき第1回の TSスタイルの競技会が開催された。審判法の修正や審判員や競技者の育成、防具の改良と制作などの課題はあるが、短い時間、大まかなプレゼンで、みんなよくやってくれたと思う。あとは私の気力、体力が続くかどうかである。
私も5月で56歳となる。もう若くない。最期には極真空手と出会って、本当に良かったと思いたい。また極真空手の先輩や仲間と和解したい。すでに松井氏とは和解した。松井氏とは、長い年月を経て、互いに様々な経験を重ねたこといより、互いを理解、尊敬できるようになったように思う。さらには、じっくりと話をしてみれば、一番の理解者かもしれないとも思うぐらいである。これ以上は、これから進める実験と検証後に書き記したい。
最後に、TSスタイルの組手法(試合法)を、「ヒッティング」と命名した(通称)。ヒッティングは、空手技を用い、老若男女が一緒に組手で技術と意識を交換し合って、互いの心と身体を高め合う、良い方法だと、私は確信している。それが引いては自他を尊敬し合う感覚を養うことになる。そしてその要素こそが、武道に最も重要な要素、そして人間形成に必要だと、私は考えている。調子に乗り、さらに語れば、「ヒッティングこそ、高齢化社会に役立つ、より良い心身創出のための武道だと言える様にしたい。
補足を加えれば、その様な方法が剣道の様に80歳になっても地稽古、すなわち組手を行うことが可能となるということに繋がっていく。また、生涯続けられる、試し合い武道の創建となる。そして、その時が極真空手が新しく生まれ変わる瞬間である。
追伸:これから企画書を作成しようと考えている中に、今回の”試し合い”武道のすすめに関する、重要なキーコンセプトがある。
これをわが道場生に理解してもらいたい。「試し合いは、型稽古ように、型稽古は、試し合いのように」である。これが増田の組手稽古と型稽古の極意である。ただし、ここでいう型とは組型であり、組手型のことである。型は本質的に自他を想定した組手型でなければならないと、ここで断言しておきたい。