Quantcast
Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
Viewing all articles
Browse latest Browse all 480

サッカーと極真空手  その2 昨日の補足

$
0
0

 

 

サッカーと極真空手  その2 昨日の補足

 

 【日本対セネガル戦】

日本対セネガル戦を見た。

「素晴らしい」

こんなサッカーができるとは思っていなかった。セネガル戦のようなサッカーができるなら、日本のサッカーもワールドクラスだ。

 

   にわかサッカーファンの私でも、日本チームの素晴らしさは理解できた。

 

  【“応じ(技)”の駆使がパスワーク】

 昨日、書いたように、私の空手理論でいう“応じ(技)”の駆使がパスワークに近い(たとえなので、完全に一致するわけ出はないが…)。また、サッカーのパスワークは、明確なゴールへのイメージ、そこへの連携が内在(意識)されていなければならない、と思う。そうではないパスは、空手でいえば、防御のための防御、また攻撃のための攻撃である。換言すれば、私が考える「応じ」とは、絶えず、ゴールをイメージしていなければならないのだ。ほとんどの空手家、そして、これまでの日本サッカーには、その意識がないのでは、と私は疑っていた。しかし、昨晩の日本チームのプレーには、正確で巧みな防御からの反撃、そしてパスワークがあった。何より、そのパスワークには、明確なゴールへのイメージがあった。その形は、武道の応じ(技)そのものだった。

 

【速い「寄せ」の感覚】

 昨晩、ゴールエリア内での針の穴を通すような集中力(と技)が大事だと書いた。それを見事に実践した。今一歩のシュートもあったが、そのシュートの多くは、攻撃のための攻撃、出鱈目な攻撃ではなかった。将棋でいう、相手を詰ませるための、速い「寄せ」の感覚が見えた。「寄せ」とは、将棋でいう、相手を詰ませるための準備、攻めと言っても良い。私は、将棋好きの友人から、そう聞いたことがある。

 

 私の空手理論も、応じは一本(ゴール)をイメージすること。さらにチャンス(機)あり、と見たら、速い「寄せ(準備の攻め)」が必須だ、と教える。

 

 その感覚が現行の極真空手にはない、と嘆いているのだ。判定勝利があるものなど、武道ではない。あるとしたら、それは悪しき権威主義的な武道である。ほとんどの武道の本当の姿は権威主義のお化けが、言葉の着物をまとっているようだ。そして、それを良しとする愛好者がいる。武道の本質がそうであってはならない。また、そんなものは本当の武術、武道の修練ではないと言っても良い、と私は考えている。

 

 

    さて、昨晩の日本チームの最もよかったことは、引き分けを意識していなかったことである。私は西野監督と選手に聞いて見たい。

 

 引き分けを意識しないで、勝ちに言った。勝ちに行く、と言ってもベテラン選手は勝つことの厳しさを理解しているので、闇雲に攻めるのではなく、攻守のバランスの重要性を知っていたと思う。ほとんど武道的である。

 

 繰り返すが、昨晩の日本チームには、サッカー素人の私が見ても、私の考える武道的な状況判断、そして応じ、さらに「寄せ」の素晴らしさがあった。将棋で言えば、想像力溢れる、寄せの連続、そして見事な詰み手を見せてくれたと思う。

 

【日本チームは美しかった】

 さらに言えば、日本チームはとてもフェアだった。換言すれば、日本チームは美しかった。柴崎、長谷部、長友は、私の好きな選手たちだ。もちろん、大迫、酒井、香川、昌子、岡崎、乾、本田、大迫、吉田、原口、川島、みんな素晴らしい。多くの人、特に相手国(セネガル)のサポーター達もそう感じたに違いない。本当に日本を誇らしく思った。昨晩の戦いは、将来を夢見る、若きサッカー選手に夢を与えたと思う。しかし、くれぐれも油断しないでほしい。まず、ファールをしないこと。全員が攻撃のみならず、防御のイメージを共有すること。とにかく、イメージ力、そして予測力が大事である。そして自分たちのサッカーに対する想像力を信じてほしい。

 

【最後に】

 最後に、ゴールエリア内での針の穴を通すような集中力と精度を、今後も維持して欲しい。もう一つ、サッカーは格闘技ではなく、ボールゲームだが、命懸けでプレーしてほしい。なぜなら、サッカーのゴールは極真空手で言えば、一本、技ありのようなものだからだ。ゆえにプレーには、どんな相手にも、またどんな状況でも気後れしない、闘争心が重要なのだ。

 ただし、感情的になりすぎてはいけない。そんなものはカラ元気、偽物の闘争心だ。そのような者のプレー(行動)は、試合巧者や実力者には、見透かされ、すぐに逆を取られるに違いない。つまり相手が見えなくなる。本物の闘争心は冷静かつ熱い。言い換えれば、最期まで希望と情熱に満ちているものなのだ。これは自分にも言い聞かせたい。

 また、感情的になり過ぎれば、想像力が発揮できなくなるだろう。サッカー日本代表の命懸けの仕事を、多くの人が見守っている。それを喜びとしてほしい。そして楽しんでほしい。極真空手に人生をかけた、増田 章がいうことだ。偉そうだが勘弁してほしい。

 私は、サッカー日本代表の戦いを、単なるスポーツではなく、武道の考究の一環として、私は見ている。そして、サッカー日本代表の次を期待したい。

 

【蛇足だが…サッカーアカデミーを作るぞ】

 蛇足だが、家族と日本サッカーの話をしていたら、中田選手の話が出た。彼は今、サッカーをしていないという。そしてカフェを作ったと言う。知的で才能溢れる中田選手のことだから、考えあってのことだと思う。悪いことではない。しかし、なぜ…。家族は、「日本サッカーに絶望したのでは?」と言う。もしそうなら、気持ちはわかる気がしないでもないが…。私も空手界に絶望しかかっているから。

 

 その時の私は、家族に対し、すかさず応じた。「バカモン」「俺なら、お金があれば、サッカーチーム、そしてサッカーアカデミーを作るぞ」。そして「日本の組織やサッカー選手の考えに惑わされず、増田の武道理論を選手にふきこむ」「まずはフィジカルだ」次に「応じ(技)からの極め(ゴール)の感覚を徹底的に仕込む」と、いつものように、まくし立てた。

 

 夢の中でも良いから、そんな仕事をしてみたい、と思っている。

 

 

 追記

昨日のブログは、極真空手をサッカーに例えた部分に書き間違いがあったので、加筆修正しました。道場生、極真空手に興味ある人は再読して見てください。

2018-6-27:加筆

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 480

Trending Articles