11月に行われた昇段審査の結果が出た。私は全員が合格するだろうと思っていた。しかし、小泉さんが合格。朴さんは3種の型のうち1つは合格。2つを落としてしまった。ラリーは健闘したのだが、一つの型を落としてしまった。また、木村くんに関しては3種全てが再審査となってしまった。
私の道場の審査が特に厳しいのではない。教本で形が示されており、その形を正確に覚えていなければ再審査となるだけである。それを審査するのに、独自の審査シートを使う(最近改定した)。その審査では表現力といったことは審査しない。ただただ教本と照らし合わせ、正確に覚えているかどうかをチェックするだけだ。私の道場の審査方式を大掴みに言えば、教本と照らして、間違っていないか、チェックするだけと言っても過言ではない(そこまで簡単ではないが…)。おそらく、間違いが多かったのであろう。
おそらく再審査になった人は、さぞ落ち込んでいるに違いない。しかし、この方式は型審査のみならず、基本修練項目の審査、そして組手審査においても同様である。私の信念は理論と型を正確に覚え、それを再現することを稽古の基本形とすることだ。そのような形式と姿勢から、だんだんと技に内在する見えない技が見えてくる。同時に技術の世界の深淵に到達して行くのだ。
今後は、さらにその信念を強固にすると同時に、指導員や黒帯の意識を高めたい。私の空手は武道空手である。スポーツではない。ただスポーツを否定はしていない。スポーツもまた良しである。しかし、あえて武道空手というのには理由がある。武道空手というのは、武道が武術を核とするがゆえに、その技術に実用性を追求する。ゆえに、自己の体を徹底的に鍛錬し、その技術を磨かなければならない。そのような過程があるからこそ、心身のレベルがより高まる。その修練方法は、まず基本の反復を行う事だ。それは修行のようにも見える。
そのような修練方法は、初め難しいが、むしろスポーツや運動が得意ではない、体力も自信がない、というような人に適している。つまり、まず形の修練(ここでいう形とは基本技や組手型、伝統型、組手、すべての稽古を指す)を通じ、自己の心身と向き合い、それを作り変えて行く。それは他者との戦いというより、自己との戦いといった方が良いかもしれない。もちろん、優れたアスリートには、武道家に勝るとも劣らない面もあるかもしれない。しかし、大体が目先の勝負や勝つ楽しさに意識が向いてしまう。結果、自己の技術を深く探究しない傾向が多く見られる。
私はこれまで「このぐらいでいいや」「俺も上手くなった」などなど、自己の気持ちを緩める囁きと絶えず向き合い、そのような思いが芽生えるのは、怠慢によるものではないかと自らに問い、反復練習に挑んできた。私は、ずっとそんな考えで空手の修行を続けてきた。そのような中から作り上げた基本修練技の数々を道場生に教えている。
ただ、道場生が空手を好きになり、楽しんでいけるようにするためにはどうしたら良いかと、最近は考え続けている。現在はその変革の時期に当たる。私の手がかりは、「どんな人でも上達させるメソッドを作り上げる」ということだ。しかし、長年使ってこなかった心身の回路を、新たに構築するような作業は、大変な面もあるだろう。しかし、それが自己の心身が高まっていく喜びと同時に真に楽しいという感覚につながると私は考えている。また、それが健康増進にもつながると信じている。
私は言葉でフォローするのは得意ではない。そして、いま悶々としている。これまでも何度も経験してきたことである。まあ、人に理解されないのは覚悟している。1日も早く、より完成度の高い、空手道の体系と修練メソッドを作り上げたい。あと10年ぐらいかかるだろうか。それでは人生が終わってしまう…。
実は審査を受けた3人に向けて、合格した想定で手紙を書いていた。今回、みんな必ず黒帯となることを信じて、その手紙を掲載したい。
【武道人への仲間入りを…朴さん、小泉さん、木村くん、ラリーへの手紙】
朴さん、審査では真剣でしたね。もちろん、朴さんは稽古も真面目ですが。
小泉さん、地道に稽古を積んでいることが伺えました。
木村くん、道場まで遠距離ながら、稽古を続けたことは、道場を主宰する者として嬉しいです。私の道場に通ってくれて、ありがとう。
ラリー、イギリス人の貴君には、日本の文化をもっと好きになってほしいと思います。今回、みなさんが極真空手を大切に思ってくれることに感謝したいと思います。
今、労を労いたいところですが、いつものように口幅ったいことを言います。年長の人に対しても上から目線だと感じたら許してください。大切な道場生だからこそ、言っておかなければならないのです。
みなさんは、まだまだ上達します。そして、こんなレベルでは駄目です。私の空手道は武術を核とする空手武道です。言い換えれば、護身術を核とする武道空手です。護身術としての空手というのは、暴力に抗う、徒手の武力とも言えますが、それはまだ皮相的な事柄です。護身術の目的は命を護ることだと思います。そして、その核となる護身の極意は簡単なことです。それは「不断に気をつけること」です。
例えば、絶えず人から危害を加えられないよう、いつも気をつけておくこと。また事故にあわないよう気をつけること。また、その可能性をなるべく狭めることです。さらに、自己の体調に気をつけること。また、気力、体力の衰えをなるべく抑えるべく努力をすることなども含まれます。筋力や体の柔軟性は鍛えないと退化します。継続して体を鍛錬しましょう。言い換えれば、私は生きている限り護身に気をつけることが、人の理想だと思うのです。理想というと、何かでの届かないことのように聞こえますが、この場合の理想は、誰もがそう信じれば、できることです。
みなさんは良い大人ですから、黒帯になって肩に風きって歩くようなことはないとは思います。また、これまでも稽古に励み、健康に留意してこられたこと思います。どうか、これからも健康を始め、護身に気をつけてください。
最後に、護身の大敵は欲張ること、威張ること、格好をつけることなどです。また、もう一つ大事なことは、人や物事を侮ることです。私の理想とする武道人は、「生活貧しくとも心は気高い人」「一生、学びを喜びとする人」「良いものは独り占めせず、みんなと分かち合っていく人」です。是非、一層の努力をして、さらに上達し、後輩の手助けをしてほしいと思います。私のためではありません。私はやがていなくなりますから…。ここで書いていることは、人間の使命なのです。繰り返します。私も多くの人に助けられて生きてきたように、人を助けることが、人間の正しい生き方、そして使命なのです。