緊急提言〜日馬富士を再び土俵に
日馬富士が引退を表明した。
多くの人が、「当然だ」「残念だが仕方ない」「潔い」などと、評価している。
私は日馬富士の引退表明を受理せず、協会側から処分を伝えるべきだと思う。そして、その処分は引退ではない。一定期間を経て、力が落ちたとしても、日馬富士を再び土俵にあげたら良いと思う。その後の引退なら話は別である。
なぜなら、引退を受理すれば、結局、問題の本質は“藪の中”となるからだ。また、貴ノ岩の復帰も考えての上である。以下は下手なシナリオの提案だが、日馬富士と貴ノ岩が対戦し、土俵の上で手打ちをするのだ。そうでなければ、遺恨を残す。
無論、暴力は横綱でなくても、許されるものではない。しかし、私は再発防止という面で考えて、むしろ禁足などの処分により、一定期間を与え、心の面を見直す期間を設けることが良いと思う。それを日馬富士の問題としてのみならず、全ての力士の心の問題として見つめ続ける。そして、みんなが問題の本質を理解することができる。さらに同様の問題の再発を防止するための免疫力、抗体のようなものを醸成することができると思うのだ。
これでは結果、問題の本質の隠蔽と変わらない。日本人は、すぐに「潔い」などの言葉を使うが、私は嫌いな言葉だ。なぜなら、思考停止と同じだと思うからだ。平和をどの国民よりも尊ぶ、日本人にかけているのは、物事を徹底的に考えることだと思っている(もしかすると、日本が平和なのは、あまり考えなくても良かったこと、かつ”考えないこと”が極意なのかもしれない…直感)。
私の考えは失敗を犯した者に寛大になれという意味ではない。失敗に対して再チャレンジの機会を与える意味は、誰もが失敗をする可能性があるとの前提に立ち、再発の抑止方法を考えなければならないということである。また、その抑止方法を創出する機会、同時に問題の本質を考える機会を得ることになるということである。
要するに、引退をしない方が日馬富士によっては辛いことになるかもしれないということを含意している。しかし、それこそが横綱としての義務だと思う。辛いことだが、みんなに己の心が磨かれる過程を周りに見せなければならない。
そのような社会のあり方が、真に寛容なあり方だと思う。私は愛国者だが、同胞から「お前バカか」と誹りを受けたとしても言っておきたい。日本人は、本質からすぐに逃げるというという感じがしてならない。日本人同士なら、いずれ浄化され、水に流れると、思っているのかもしれない。それは、文化的信念のようになっているようだが、世界はそうではない。これからの日本人が持たなければならないのは、問題の本質を探求し、それが悪く作用しないように抑止する、”抗体の開発を目指すような意識”なのだ。
以上のことは、貴乃花親方にも言いたい。正義を振りかざすのは良いが、真の正義とは何か、考えて欲しい。
私の愛国者としての信念は、日本の国体は日本人全体が家族であるという信念に基づき行動するということである。それを現代においては世界の中の日本という視点において転化し、世界の家族を尊重し、それらと協調していく信念とすること。ただし、私も含め、日本人の心情も変化している。そんな中での信念や正義を理解するには、人間が人間らしくあり続けるために、正しさを追及することのみならず、悪の本質を見直しが必要である。そして、悪の本質を受け取り直したならば、その正しさの次元はより高くなると思う。同時に心の次元も高くなると思う。
私のような貧乏で非力な空手家が偉そうなことを書いているが、私はそのようなことを考えながら生きてきた。ゆえに、これからも貧乏で非力のままだろう。私はそれで良いと思っている。むしろ、非力のまま語らなければならないと思っている。なぜなら、私は「何も持たない者の武術」に人生を賭けた人間だから。読者の方には意味不明だと思うが…。