【日馬富士関の引退表明】
日馬富士関の引退表明をテレビで見た。前回私は、日馬富士関が引退するのは良くないと述べた。そして、その理由を書いたつもりだ。
私はこの引退表明を見て、「もう大相撲に関して考えるのをやめよう」と思った(日馬富士がかわいそうだなという思いもあったが、同時にがっかりもした)。
これまで、大相撲の問題を、空手界や社会の至る所で起こりうる、普遍的な問題として見てきた。言い換えれば、その問題に内在する、普遍性を抽出し、空手界の発展や自分の人生に役立たせようと考えたからだ。
しかし、第一印象は「大相撲は特殊な世界で、カタギの世界ではないな」という印象だ。それは悪い意味だけではない。もしそうなら、それなりの理解をしなければならないということである。しかし、それで良いのだろうか。大相撲は我々大衆が見て、とても魅力的なものであり、これからも存続してほしいと思っている。ただ、日本の国技とするならば、日本の心を承継するものがなければならない。それは髷やまわしや土俵のみならず、美学である。ならば、本当に日本の心が力士に現れているのかと思ってしまう。相撲協会は、横綱の品格として、その美学を含めた全てを規定しているようだが、十分なのだろうか。
側から見て、横審や関係者のみならず、ファン、メディアも含めて、わかっていないのではと疑義を持ってしまう。部外者である私ごときが何をいうと思われるかもしれない。ゆえに、もう最後にしたい。
【国技としての大相撲の心】
まず、国技としての大相撲の心は、日本の国柄を表現するものでなければならない。その国柄をキーワードで表せば、「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」更に「尚武」「謙」「和」である。私が幼少の頃、流行っていた南総里見八犬伝を思い出すが、そのようなものが、大相撲の世界に包含されていることが必要なのである。そこに、力士としての技術を追究するという「求道心」が相俟って、優れた力士に神々しい風格が備わるのである。さらに、そのような境地を顕現する者の代表として、横綱という地位が存在する。私はそのように考えていた。もちろん、国柄のみならず、大相撲の心も相撲の長い歴史の中で、幾たびかの変遷があった中で醸成されていったエートスかもしれない。もちろん、心といっても抽象的で実体のないものだと、言われる向きもあるだろう。
しかし、どうも現実は、そうではないということが解ってきた(買いかぶりだったのだろうか)。そうなっていないのは、力士だけの責任ではない、親方のみならず、協会、そしてタニマチと言われる支援者も含めてそのよう意識がないのだろう。あくまで、部外者としての意見である。おそらく関係者からいえば、「知った風な口を聞くな」ということになる。ただ、外部から、そのような意見も言えないような斯界ならば、公益法人というのは、大したことはないなと思ってしまう。もちろん、大相撲は日本社会に大きな利益をもたらしているとは思う。しかし、それは日本社会があるからであって、日本社会を考える一人の国民が意見を言えないというのならば、日本国が民主的な国ではないということになってしまう。
【暴力は正義ではない】
結論を急げば、まず当事者の問題としては、暴力は正義ではないということ。これは絶対に追及しなければならないこと。そして、そこに至った原因を、決して感情論をベースにした慣習を前提に正当化してはいけないということである。これは、他の社会に良くない影響をもたらすからである。その部分を協会やメディアが追及しないのであれば、「カタギの世界ではない」ということで、話は終わりである。次に親方の問題であるが、もし貴乃花親方が組織の一員としての行動に問題があるとするならば、公明正大に処分をしたら良い。しかし、もしそうするならば、協会の理事たち全員にも、横綱がこのような問題を起こすに至ったことに対する責任があるのではないだろうか(例えば、理事長は辞任しなければならないのでは…)。
具体的には、勝負を競う力士たちが、協会以外に集団をつくり、所属する部屋の親方を飛び越して、何らかの影響を力士に与えることは良いことだろうか。大相撲には、賞金がかかった勝負の一面もある。引退したら所属するとか方法はいくらでもある。それを見逃していたから、このような問題が起こったとは言えないだろうか。この情念ドロドロの問題の解決のためには、日馬富士を引退させずに、もう少し土俵に上がってもらい、その上でなんらかの着地点を探す方が良いと当初から直観している。ゆえに私は日馬富士関にももう少し現役を続けてもらいたいのだ。
また、日馬富士関が「悌」の心から行ったことだと言うかもしれないが、ならば上が下の心を慮るというのも「悌」ではないかと、考えてもらいたい。誰もに若気の至りということがあるかもしれない。さらに言えば、問題発覚から現時点まで、何より高ノ岩関の扱いが民主的な感覚とは程遠い。このままでは、貴ノ岩関がどうなっていくのか心配になる。その部分は貴乃花親方になんらかの考えがあっての行動だと信じたいが…。
そのようなことを踏まえても、さらに大相撲界は特殊な世界だと開き直るなら、そう表明して欲しい。それが真に「潔い」ということである。そして、それを我々大衆がどう見るかである。そのことに私は興味がある。
【日本の国体】
ある時、白鵬関が言った。「私は相撲の神様から選ばれた」と。これは、実力でその座を奪いとった帝王が口にする、ある意味、共通の見解だと私は感じた。もちろん、私の考えすぎかもしれないし異論はあるだろう。また私は白鵬関は嫌いではない。また日本の天皇と比較するのは適切ではないと言われるかもしれない。しかし天皇陛下は、そのような感覚で国の象徴として君臨していない、ということ。そして私の言いたいことは、大相撲の象徴としての横綱のあり方に、天皇陛下のあり方が、参考になるということだ(横綱は勝てば良い、強ければ良いではないと、私は思うが…)。
日本の国体、国柄は天皇を親とする下々の者達が一体化している社会である。その意味は、天皇が暴力で下々を統制する帝王ではなく、ある意味、平等の立場の関係上の君主であるということではないだろうか(歴史的変遷により、だんだんと昇華された。これは本質的かつ直感を前提とする意見…)。そのように書くと、天皇信者の方からお叱りを受けるかもしれない。私がここで言いたいのは、天皇が「私は神様から選ばれた者である」と言うだろうか、ということである。もし、それを言ったならば、多くの国民の心が天皇から離れていくに違いない。
私が遠くから拝見する陛下は、国民の親のごとく、下々のことを考え行動していると思う。もし横綱が大相撲の象徴的地位ならば、そのような姿が参考になるのではないかということである。
不敬な発言だが、現在の陛下の心情的な系譜は明治天皇から始まる。その明治天皇は、徳川時代の幕臣であり、剣と禅の達人(書も)、愛国者の山岡鉄舟によって、その国王としての心を教育されたと、私は聞く。そして、その道統は、大正、昭和、平成と引き継がれていると、私は思っている。
昨今の平成天皇と皇后のその神々しい行動には、多くのものが心打たれたに違いない(私は平成天皇と皇后は最高レベルに達しているると思う)。この道統、そして感性が、日本の心、日本人の底流にあるエートスなのだ。そのエートスを大相撲の世界の者も表せと、私は言いたい。そういう意味では、貴乃花親方にも問題はある。
だからこそ、我々は所詮、芸能人だという謙虚な立場に立つことである。しかしながら、その上で、されど芸能人として、斯道に精進したならば、そこに「相撲道」が見えてくると思うのだ。もうこれ以上のことは書かない。私は、そんな偉そうなことを言える立場ではないし、やるべきことが山積している。
【あえて貴乃花親方を支持する〜「日本的な和」】
最後に、誤解を恐れず言っておく。
冒頭に大相撲に求められている日本の心、その中に「和」を挙げた。大相撲に求められているものは、国民の心を和ませる心である。また浄化するものである。同時にそれは祈りでもあると思っている。さらに言えば、「真に日本的な和」というのは、決して「談合的な和」ではなく、異種のものを、受け入れ飲み込んで行く「和」のことである。
言い換えれば、異論を唱える者を受け入れ、融合していくという「和」が、「日本的な和」だと信じたい(間違っているかもしれないが、そうあって欲しい)。ゆえに貴乃花親方の行動にも行き過ぎた部分があると思うが、私は、「あえて貴乃花親方を支持する」と言いたい。私にも同様の経験がある。話し合いの余地はないと、若気の至りで考えたことがあるのだ。具体的には書かないが、もしかすると共通点があるかもしれない…。
大相撲ファンの友人から聞いたことがある。貴乃花親方が横綱に推挙された時、記者が「これで親方の地位を超えましたね」と言うようなことを言ったらしい。それに対し貴乃花親方は「いえ、親方(先代の貴乃花)は絶対に越えられません」と答えたと言う。すばらしい「心構え」ではないか。