先日、昇段審査の後、道場生へ向けて稽古論を書いた(増田章の武道観〜昇段審査において2017-11-26)。
しかし、あまりに急いで書いたので、わかりにくい部分があった。ゆえに重要な部分だけ書き直した。
私は”せっかち”な性格である。しかし、それは良くないところだと反省している。なぜなら、私はいつも次の事に進みたいと思いつつ、事に処するのであるが、それが仕事が雑になる原因である。結局、やり直しに時間が取られ、遅れることとなる。もう少し、無心で事に当たりたい。また本来、ブログのような形で発信するのは好きではない。ただ、空いた時間に言葉を発するには良いツールである。また、現場で伝えても、時間を浪費し、徒労感が強い。ゆえに、わが道場生が、各々の時間の空いた時で良いから、私の考えを頭に入れてくれればと念願しながら書いている。これも徒労かな…。
【基本の形は皆同じとなる〜「武(BU)の花」〜増田の稽古論】
「基本の形は皆同じとなる」。もちろん各々の体の違いによって、多少の違いはあるだろう。また、初心者の審査会では、技の角度や位置に何ミリかのズレがある、というようなレベルで審査はしない。あくまで大枠の形ができているかである。そのような尺度では、ほぼ基本技は同じになるのというのが、私の考えである。ただし、後ろ回し蹴りのような技には、高度な体力(柔軟性やバランス感覚など)が必要である。誤解を招くかもしれないが、そのような特殊な技は、知っておくだけで良い(私の流派では)。しかしながら、伝統的かつ基本的な空手の技は別だ。まずは正確な形を理解、イメージし、自分の身体(からだ)を通じて、それを再現することを目指す。そして、より良い表現を目指して、自己の身体(からだ)と向き合い、技と身体(からだ)を考えていく、その過程が稽古である。さらに次の段階は、組手型(組型)の稽古により、技の精度と使い方が理にかなっているかを判断する感覚を醸成していくことだ。そうして初めて、「今の技には、何ミリ、何秒かのズレがあるので、微調整しよう」というような感覚を得るのである。そのような感覚で行うのが真の稽古である。ただ出鱈目に荒々しく、相手をぶちのめせば良いというような心構えでは、日本武道の真髄に絶対に到達しない。先述したような稽古の延長線上に、各々の心身を基盤とする「武(BU)の花」が咲く。言い換えれば、各々が対峙する局面において、その基本型をどのように活用するかによって、個性の花が咲く。