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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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増田章の武道観〜昇段審査において

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増田章の武道観〜昇段審査において

 

 

 11月26日、昇段審査を行った。現在、昇段審査はジュニアと一般、さらに昇級審査と分け、年に数回実施している。ゆえに一般の昇段審査の受審者は多くない。また最近は、一般の受審者の年齢は壮年の方が多い。

 

  当然のことながら、壮年で社会人の審査では、怪我に気をつけながら審査を行っている。しかし、残念ながら組手審査で怪我人がでた。やはり、体には強度に個体差がある。昔の極真会では、体の強度がある者でなければ、道場に残れなかった。それほど稽古は荒く、激しかった。しかしながら、年月が経ち、様々な年齢、職業の人たちを迎え入れるような体制に道場を変化させてきた。おそらく、どこの極真空手の道場も同様であろう(中には昔ながらの激しい稽古を行うところもあるかもしれないが)。 

 

【ルールの強化】

  怪我をされた方には悪いが、そこまでの激しいことはしていないにもかかわらず、ゲガをされたということは、今後、一層のルールの強化をしなければならないと考えている。例えば、体力を年齢、体重、試合実績など、一定の基準(物差し)を元に数値化し、それによって防具の強度を決めるなどである。私の考え方は、「なるべく明確なルールを設定し、それを守り行動する」。そして、「ルールに不具合があれば、すぐに修正する」ということだ。そういうと、とても堅苦しい感じがするし、ルールがコロコロ変わるのか、との意見が出るかもしれない。しかし、私のような頭の悪いものは、一定のルールに従って行動しなければ、間違いを犯してしまう。また、同時に完全なルール、物差しはあり得ないので、必要に応じて、修正することは、最善の考え方だと思うのだ。

 

  私は、以上の考え方を、あらゆることに採用している。実は、私生活においても、である。さらに言えば、もっとルールを徹底したいと考えている。断っておくが、そのようなルール、もの差し、プロトコル(修練形式)と言っても良い、それを活用するのには理由がある。それは堅苦しいイメージとは逆で、皆がより自由に、そしてリラックスして行動するためだ。その核心がないと、似て非なるものとなる。ルールを絶対視して、人にルールを守れと、言わんばかりに対峙する。そうすると、心と行動の自由自在が妨げられる。同時に皆をリラックスさせない。また、自分自身もリラックスできない。そのようなあり方は、私のルール(原則)主義とは、にて非なるものなのだ。

 

  それは空手修練でも同じである。私が稽古において型を重視するのも、本質的には同じである。この意味が、まだ道場生には理解されていない。今後はさらにその考えを伝えたい。また、黒帯に私の考えを理解してもらい、道場の運営管理に協力してもらいたい。それが黒帯の責任であり、同時に自分達の価値を存続させる方法なのだから。

 

【基本修練項目の全ては型】

  さて、今回の審査では、伝統型と組手審査のみならず、IBMA極真会館の基本修練項目の中から抜粋した技の審査も行った。昇級審査に合格し、昇段に臨むみなさんではあったが、ほとんどの人が昇級審査において満点の皆さんではない。それをいかに改善してきたかを見なければ、黒帯の認可をしたくない。以前はそこの部分が大雑把過ぎた。

 

 何十年も言い続けているが、私は伝統型のみならず、基本修練項目の全ては型であり、より正しい形がある。また、その習得を目指して稽古を行うことで、自己の心と体に向き合い、それが磨かれる、と私は考えている。

 

【基本の形は皆、同じとなる〜「武の花」〜増田の稽古論】

 ゆえに「基本の形は皆、同じとなる」。もちろん各々の体の違いによって、多少の違いはあるだろう。また、初心者の場合、技の角度や位置に何ミリかのズレがある、というようなレベルで審査はしない。あくまで大枠の形ができているかである。そのような尺度では、ほぼ基本技は同じになるのというのが、私の考えである。もちろん上段回し蹴りや後ろ回し蹴りは、高度な体力(柔軟性やバランス感覚など)が必要であろう。そのような技は、私も減点されるだろう。しかし、まずは、正確な技とイメージし、自分の体を通じて、それを考える(稽える)ことが稽古の基本姿勢である。そして、段階を経て、技、特に組手型においては、相手との関係性において、その技が何ミリかのズレがあるとの視点と感覚を醸成していくことが、真の武道である。ただ荒々しく、相手をぶちのめせば良いというような心構えでは、日本武道の真髄に絶対に到達しない。そのような稽古延長線上に、各々の心身を通じ「武の花」が咲く。言い換えれば、各々が対峙する局面において、その基本型をどのように活用するかによって、個性の花が咲く。

 

【まず型を意識し、その上で組手や稽古を行う】

 私はこれまで多くの空手愛好者を見てきた。その中、形を整えるという点で、伝統型の稽古はしやすいようだ。一方、私の道場で行われる組手技や組手型の稽古の意味が伝わっていないようだ。おそらく、伝統型のみ、型というものを正確に覚えようと考えているのであろう。しかし、考えて見て欲しい。伝統技はもちろんのこと、組手技や組手型(約束組手)も型なのだ。しつかりと物差しを意識し行えば、誰もが同じになるはずである。断っておくが、まず形を同じくする。しかし、初めのそれは(形)は、皮相的な形である。まず型を意識し、その上で組手や稽古を行うことで、型に内在する普遍性が体認される。その段階に達して、初めて型の稽古の本質が少し見えたということなる。

 

 これ以上は理論書の中にしたためたい。しかし、これまでの黒帯は再度、自分の技と稽古法を見直して欲しい。私の及び腰が責任であるが、これまでのほとんどの黒帯が理解していない。私は単に技の巧拙を言っているのではない。運動神経の良いもの、体力のあるものは、見た目、技を身につけているようにも見えるが、おそらく武道の心には達していないということである。

 

 私はこれが我が道場生に理解されないのであれば引退したい。言い換えれば「老兵は死なず、消えゆくのみ」の心境である。また、武蔵のように霊岩堂に籠りたい。

 

【イギリス人のラリー(ファーストネーム兼愛称)】

 これまで厳しいことを書いた。しかし昇段審査において嬉しいことがあった。それは、イギリス人の”ラリー(ファーストネーム兼愛称)”がとても上達したことである。

 

 彼について少し書きたい。ラリーは私の道場で空手を行う前、ムエタイを練習していたそうだ。加齢と目を悪くした関係で、私の道場の門をくぐった。初めは、蹴り技(キック)や突き(パンチ)はともかく、伝統基本や伝統型などは全くと言っていいほどできなかった。正直言えば、空手のように型(形)を重視する稽古は続くだろうか、と思っていた。しかしながら、彼は先述したような稽古に対する基本的考えを全て受け入れたようだ。

 

 彼の心の深いところは知る由もないが、「極真空手の黒帯に高い価値を感じている」「空手の技を正確に覚える」という意識があることだけは確かである。それが彼の行動から理解できる。この事実を違う方向から眺めると、「彼のバックボーンであるムエタイとは文化は異なるが、その異なる文化(体系)を受け入れ、習得するのだ」との覚悟が見て取れる。補足すれば、バックボーンが異なるからこそ、その文化(体系)を受け入れる覚悟が必要だったのであろう。通常は、それが嫌で入門しないか、途中でやめてしまう。これまで、そのような心構えが、これまで多くの道場生に見られなかった。それは私の伝え方が拙く、かつ及び腰だったからであろう。責任は私にある。

 

 私の武道観のポイントの一つは、武道とは「文化(体系)を我がものとする」ということだということである(そこに内在される武術は、武道に包含されてはいるが、役割が異なる)。彼とはフリースタイル空手プロジェクトや審査で稽古を共にした。その都度、日本人以上に、我が道場の考え方を伝えた。誤解を恐れずに言えば、日本人よりも、文化に対する合意ができている。この意味をこれ以上説明するのは時間を要するのでやめにしたい。乱暴に言えば、基本、すなわち型に対する認識が甘いというか、学ぶ(真似ぶ)ということに対する認識が、学校教育や家庭教育において、自由を謳いすぎて、消滅しかかっているのではないか、とも思ってしまう。そして、僭越ではあるが、私も含めて戦後の日本人は、技、型に関して認識が甘くなってきているように思うのだ(私もダメだ)。その部分は、大山倍達先生は、「技に走る前に、精神力だと」著書で喝破した。しかし、その真意が誤解されているかもしれないと、危惧している。大山倍達先生は、決して技を否定し、精神力を重視したのではないと思う。もし、そう考えている人がいたら、それは間違いだ、と言えば、大山先生の逆鱗に触れるかもしれない。ただ、私が言いたいのは、技を徹底的に磨くことの中に体力的修練、そして、精神力というより、心的鍛錬が包含されているのだ。おそらく、その部分は、師と丁寧に話し合えば、納得していただけると思う。

 

【師の真似をすることが最も良くないことである]

 最後に、今年からスタートしたIBMA極真会館研究科の受講生に、私の考え方を伝え、それを明文化してもらいたい。私が明文化するのではない。研究科生が明文化することが必要である。それを私が承認したい。また、そこからのフィードバックを得て、考え方を修正し、より完成度の高い修練体系を創出したい。以上のことが理解できないようなら。研究科を落第とさせていただく。今後の私の方向性は、大山倍達先生が人生をかけた方法とは、若干異なる。具体的には、拡大より、より個別の、より少数対応の伝達方法を基本としたい。当然のことながら、私と大山倍達先生は異なる。一時期、大山倍達先生の真似をすることが良いことだと言わんばかりに、拡大を目指さなければならないとも思ったが、今はそう考えない。なぜなら、「師の真似をすることが最も良くないことであると直感している」。誤解を恐れずにいえば、「師がやれなかったこと、やり残したと思われることを追究するのが良い弟子である」と言いたい。私の能力は非力で、極真空手に何も貢献できないかもしれないが、大山倍達先生の深い愛情と求道的なロマンチストの面を継承したい。

 

 

 


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