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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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武道と武道人〜横綱の暴行事件に対し その3

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3回にわたり武道と武道人について書いた。これは、横綱の暴行事件でマスコミが喧しいのに触発されて、芸を極める武道家のあり方を考えてのことである。私は武道とそれに関わる人間のあり方の理想を、現時点でこのように考えている。できればその1から3までを通しで読んで欲しい。

 

近況報告

腰のヘルニアによる右脚の痺れの具合は、ほんのわずかであるが改善に向かっているように思う。しかしながら、依然として蹴りはできない。特に右脚を軸にすることができない。周りには私の脚が不自由だということは、ステッキを見せなければわからないであろう。気をつけて歩いている。ちなみに右脚の力が左脚に対する3分の一である。脚の太さを測ったら3センチ強、細くなっていた。しかし、後2ヶ月ほど、脚の痺れ、不具合があるとすると、様々な故障から4〜5ヶ月間、稽古ができないになる。それでは、これから考えている、増田流の極真空手の集大成に向けた取り組みに、かなりの支障が予想される。ゆえに、痛みと相談しながら、機能保持を行い、その時に備えねばならないと考えている。休んで入られない。結果、健常な時よりも、手間がかかる。その分は、イメージトレーニングを行うしかない。私の得意はイメージトレーニングである。この能力をさらに伸ばすことが、必ず新しい発想を生むと信じている。

 

現在、あるひらめきがある。私はその道を行きたいと考えている。ますます道場生や既存の空手家から遠ざかり、離れていくが、その道は必ず、道場生や空手家に貢献するものとなると思っている。今、読みきれない書籍を前にしながら、まだ読みたい、まだ知りたいと思っているところである。

 

 

 

武道と武道人〜横綱の暴行事件に対し その3

 

少し脱線するが、世間でいう武道を掲げる者は、武士道の影響を連綿と引き継ぎ、武士道を叫び、人間形成や人格形成を謳う。それらには、徳川時代に謳われた「士道」の思想も入り混じっているようだが…。それに対し、私は一定の理解と支持はしたいと考える立場ではある。しかしながら、今は戦国の世や徳川の世ではない。私はそのイデオロギー性をそぎ落とし、もっと普遍性の高い思想に進展させるべきだと考えている。そうならないで、単なる古典として掲げられているのは、それが体得されていないか、それともすでに形を変えて引き継がれているかである。正直に言えば、何かと武士道という方の多くに私は疑念を持ってきた。ゆえに私は、何が武道の本質で、何が武士道や士道の本質かを見極めたいと、考えてきた。しかし、その果てに思うことは、廃れたと思っていた武士道の中に、現代にも応用できる普遍的な精神性があると、私は考えている。

 

【私が考える武道人】

 

話を戻せば、私は、武道とは心身を極めるための武術修業が核にならなければならないと考えている。なぜなら、武術修業でなければ、命懸けの状況を想定できないからだ。そして、そのような極限状況から、自己を取り巻く仲間たちや家族の存在を考えていくことが、真の人間修養になると考えているからだ。そのように武術修業を核とする武道を通じ、さらに自己を武道人として確立することを考えたい。

 

補足すれば、「仲間を家族として考える」とは、武士がその所属する家の一員として、自己のみならず家族に恥をかかせないという生き方を実践することである。それは「人の道」に適うものであった。その「人の道」を別の言い方で表した語が「義」であると、私は考えている。ゆえに私は、徳川時代、武士に叫ばれた義とは、家に奉公する者としての人の道の別の表現であったと推測している。

 

さらに言えば、家の単位が、自らの生家から、奉公する家、そして国家に拡大していける知力と度量がある者が、その道を拓き、時代を拓いたと考えている。更に言わせていただければ、現代は、自己のみならず他者の家族も、また自国のみならず他国の家族のことも慮れる知性と度量を有するリーダーが必要である。そのようなリーダーが世界平和にも貢献し、現代の武士道を拓いてくれると、私は夢想している。

 

今回、武道について補足したかった。その要点は、私の考える武道は、だんだんと武道人としての自己の確立につながっていくということである。

 

武道人とは、私が考える武道を追求する者のことである。また、自分自身の本体を自覚し、より善い社会の醸成に貢献していく。さらに、そのような社会を作るために必要な哲学が武道人哲学である。私は、それを現代の武士道としたい。

(終わり)

 

蛇足

私は武士道などと偉そうなことを言える人間ではないと思っているが、武道に関してどうしても見極めておきたかった。また、今回の横綱の暴行事件は、空手家であれば、身を守る以外に、その技を使った時点でアウトである。

 

相撲界のみならず武道などの世界には、弟子や後輩に体罰で指導するという慣習があるようだ。私は大嫌いだが、相撲界にはそのような慣習が、未だ残っているのだろうか?もし、その次元の俎上に載せるなら、現代社会ではアウトだろう。

 

このようなことが起こるのは、幼少時の体験。要するに、個々人の育った家の教育方法の影響もあるだろう。もしかすると、日馬富士の育ったモンゴルは、子供をしつける時、殴るのが当たり前だったのかもしれない。ちなみに私は子供を殴ったことはない。良い子だったというのもあるが、私の幼少の頃を思い出せば、相当な悪ガキだったにもかかわらず、殴られたことはない(一度ぐらいあるかな)。私の友人達は、親父からいつもぶん殴られていたと言う(笑い)。私の幼少の頃はそれが普通のようだ(知らなかった)。あるとき、私は父に、「私を体罰で殴ったか」と聞いた。父は「言葉では叱ったが、手を挙げたことはないよ」という。そのとき、「やはり、そうか」と思った。私の体の中に指導するときに体罰を使うという感覚がないのだ。私の空手の恩師である師範にもそのような暴力的な匂いが、全くなかった。だから、私は信頼して道場に通ったのであろう。そのあと、私が独り立ちしてから、その優しい師範が、どこかの師範の真似をするかのように、弟子にビンタしたとの噂を聞いた。親に対し生意気だが、「自分の良さを自覚していない」「心の迷いとしか言いようがない」と言いたい。また、暴力による強制は、必ず遺恨を残すだろう。ゆえに、よほどのことがない限り、やることではない(それで逆に信頼感を得るような、少々捻じ曲がった心の者もいるかもしれないが)。私は、テレビや漫画、映画のなどの影響で、他者に暴力を振るった幼少の頃の私の浅はかさと未熟さを強く恥じている(テレビや漫画、映画が悪いと言っているのではない。ただ、暴力に対する免疫のような教育が必要だったかな)。ただし、手を挙げなくても言葉を暴力と捉える向きもあるし、それとの比較で暴力の方がまだマシという考えも出てくるかもしれない。そうなると、どんどん問題がややこしくなっていく。一つだけ言えば、私は失敗を許していく社会システムが必要だと考えている。簡単に言えば、「人間の失敗をどのように許すか」。そして「失敗者に対し再チャレンジのチャンスをどのようにして与えるか」である。そのような面からマスコミや有識者が、今後のあり方をどうするか、考えて欲しいと思っている。

 

おそらく、甘いとお叱りを受けると思うが、横綱に引退の勧告をするとするのは良くないと、私は思っている。なぜなら、後々に様々な遺恨が残る可能性が高い。私は罰金(300〜500万ぐらい)と厳重注意ぐらいにとどめておいた方が良いと思う。なぜなら、相撲は所詮、芸能なのだから。さらに言えば、今回、いじめなどの事件ではなかったように思う。おそらく、身内同士の酒盛りで、酒の勢いが出たのだろう。また、民間人ではなかったとなども考慮し、一度に限り、失敗は許してあげる方が良いと思う。ただし何度も不祥事を起こすようでは、その時は別だ。

 

追加

ちなみに、私の組織でそのようなことを起こしたらが、即刻、破門とすると皆に伝えてある(原則ルールだが)。また、組手で強く相手を攻撃しても同様である。昔は昔。今は今。今は、私が道場の家長であり、師匠だから。私がルールを制定している(もちろん明文化し、仲間に承認を求めた上でだが)。また、師匠である私が暴行事件を起こしたら、即刻、現場から引退するだろう。

 

 

 

 

 

 


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