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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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武道と武道人〜横綱の暴行事件に対し その2

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【武道の現代社会における意義を考える】

私は、個と組織のあり方を考察することは、武道の現代社会における意義を考えることにつながると考えている。

まずは大相撲の横綱の暴行事件をもう少し見てみたい。

 

私は大相撲の横綱とは、スポーツで言えば、スター選手以上の存在であると、考えている。また、神事の一環としての大相撲の横綱とは、当然、神道の思想を受け継ぐものである必要があると考える。とはいうものの、プロスポーツにおけるチャンピオンやスター選手にも、社会的責任があると思われる。その社会的責任とは、社会全体に悪影響を与えたというようなこと以前に、組織の一員として、仲間に損害を与えないという責任である。例えば、チャンピオンや横綱が社会的な不祥事を行えば、その仲間、すなわち同じスポーツや相撲のイメージが悪くなるというようなことである。そんなことは当たり前のことであると、思われるかもしれない。しかし、そうではないから、こんな問題が起こるのである。

 

【技を極めることと人間性を高めることとは異なるのか】

危惧されるのは、プロスポーツも大相撲も「技を追求する者達の集まり」である。このような事件が起こることによって、技を追求する者達の心が低い次元だと、見限られることである。ここで、「プロスポーツや大相撲は技を追求する者たちの集まりではない」という向きがあろう。確かにそうとも言えるかもしれないが、私はそう考えていなかった。私は、プロスポーツや大相撲は、高い技術を追求する集団だと思っている。それでは、技を追求することと人間性を高めることとは異なるのか、と読者は思われるに違いない。

 

私は、武道を『勝負という価値の存在を前提に、たゆまぬ「技術探求と修練」とそれらと一体的に生じる「心の把握と創出(追求)」を通じ、勝負の認識が相対的な次元から絶対的な次元へと超越していくこと』が武道の本質であると、定義した。また、スポーツや相撲の道と武道、武の道とは、同一ではないが、共通部分もあると、私は考えてきた。しかし今回、武道を掲げる者として、その違いを明確にしておかなければと、考えている。

 

スポーツや相撲の原点を単なる勝負とそれに伴う技術として捉えた場合、私の考える武道とは似て非なるものとなる。その相違点は、「勝負の認識が相対的な次元から絶対的な次元へと超越していくこと」が意識されているかどうかである。そのようなことが現出するには、命懸けを想定しなければならないと、私は考えている。そういう意味では、多くの武道がその条件を満たしていない。ただ大相撲は命懸けのものに見えた。しかし、そのように見えたとしてもても、それを行う者に私が定義する武道の本質と同様な意識がなければならないのかもしれない。おそらく、多くの力士にはそのような意識はない。結果、斯界の存在意義は、単なる勝負とその技術の花が咲く、世阿弥が言うところの時分の花を見て楽しむ場となる。悪いことではないが、それでは単なる芸能になってしまう。

 

【武道の核心から武士道の萌芽】

 

そもそも、私が武道の核心として挙げた「勝負の認識が相対的な次元から絶対的な次元へと超越していくこと」とは、どのようなことか。それは、「命懸けの状況における自己の存立への道」である。補足すれば、命懸けの状況とは、まだ武道の次元に到達していない武術の次元でもある。ということは、私の武道の核心は、武術の次元に立つことを通過しなければ、到達しない次元であるということだ。さらに言えば、命懸けの状況状況においては、世間の相対的評価基準に右顧左眄するのではなく、絶対不敗の道を求めなければならいと、私は考えている。

 

古の武人はそのような観点から、自己というものを受け取り直したのではないかと思うのである。そして、その到達点として、「不断に自己のみならず家族に恥をかかせない」という覚悟に達したのではないかと想像する。それは武士道の萌芽である。また、その結果、武人として家族を持たないという極端な者も現れただろうことも想像できる。そのような武人の存在は、逆に私の推論を証明することになると思う。つまり、そのようなものは、「純粋に武人たらん」とした者であり、為政的な武士道や士道への追従を良しとしなかったのである。

 

先述した武士道の萌芽を、私なりにイメージすれば、たとえ経済的に苦労をかけても、否、だからこそ、それらが充たされなくとも信じる何かを伝えていく。それが、武術修練を基本とした古の武人の到達点であり、それが武士道につながっていると思う。さらに考えを進めれば、自己の立場がより多くの者と繋がった状況、すなわち組織的な状況に置かれている場合も同様である。つまり、自己を存立させる組織に恥をかかせないことが、自己存立の道として意識される。それを別の言い方をすれば、名誉を重んじるということになる。

 

そのような自己と他者と社会に極めて対峙的な感性が、武術修業や他の為政的な思想、宗教の教義に影響され、段々と進展して行ったものが、武士道だと私は考えている。そのような名残は、日本人の感性の中にまだ残っていると思われる。しかし、昨今のエリート達の不祥事を見るにつけ、その恥や名誉の感覚が、とても薄っぺらなものに思えてくるのは、日本人全体が猛省しなければならないところだと思う。

(さらに続く)

 

2017-11-19:一部修正


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