前回の続き
【ある黒帯に私の理想を語ったとき】
還暦を迎える、ある黒帯に私の理想を語った時のことである。その黒帯が言った。
「還暦を迎えても、年齢を重ねても、相手を痛めつける組手ではなく、相手と共に組手が楽しめるような空手が良い」。
「これからの時代、そんな空手が求められるに違いない」そんな風に言ってくれる、黒帯もいる。私もそう思う。私も老い、やがて人生を終える。しかし、若い人たちも同様の道を行くに違いない。そうだとしたら、老いて行く人がいつまでも身体を楽しみ、老いを含めた人生を、なるべく人の手を煩わせずに、味わっていける可能性を空手によって高めたい。そうなれば、空手の価値は、勝者、強者のためのものに止まらないだろう。そのためにこそ、その価値基準を刷新しなければならない。
例えば、私は勝者敗者、強者弱者というような二項対立的な価値ではなく、人生をより長く、深く「味わう」という価値があっても良いと思う。おそらく、「人生の長短や深浅も二項対立的では」と思われるかもしれない。ただ、ここで私が言いたいのは、多様な価値観があっても良いという事だ。当然、夭折された方の人生も悪いとは言わない。また人生を浅く捉えている人を悪いとも言わない。ただ、「味わう」という感覚が大切だということだけは言っておきたい。そこが、先述した二項対立的な価値観と私の価値観を分ける部分である。当然、私の思想や価値観を好まない人がいても良い。
しかし、これだけは提案したい。若い、鍛錬の時期、青年、壮年の責任とストレスの多い時期、それらを終えた人が、老年の時期を積極的に迎え、かつ楽しんで生きることができること。また、そのような可能性を拡げる努力が重要だと思う。
更に言えば、そのようなことを社会・国家が担保し、かつ支援する事が、若者に希望を与えることにつなげると思うのである。今後、高齢化時代がピークを迎える。是非とも、各界のリーダーがそのような思想を念頭に置いて欲しい。
私は、老年を間近にした、心友でもある黒帯の言葉に確信を得たような気がした。ゆえに、伝統的な空手道を尊重しながらも、新しい概念の空手道を私は創り上げたいと思う。
その空手道とは、相手と技術を活かしあい、高め合うような組手メソッドを中心とするものだ。それが拓真道メソッドである。補足すれば、拓真道は空手流派の呼称ではない。
さらに言えば、そんなメソッドを、自分の流派以外の空手愛好者にも伝えるのも良いかと思う。一回限りでも良い。それで相手の認識が変われば、斯界の発展につながるかもしれない。ただし、できれば少数、あるいは個人レッスンが良いと思っている。なぜなら、人によって上達の妨げになっているポイントが異なると考えるからだ。補足すれば、私は、組手が下手な人の根本原因は、その人の認識(認知)を繋ぐ全体の一部に生じた何らかの問題だと考えている。言い換えれば、網の目のような認識(認知の)体系全体の部分に生じた歪みが、問題となっているということだ。推測の段階だが、今後の研究課題の一つでもある。
余談だが、修練会を終えて、黒帯に感想を聞いた。
「テニスの例えは理解できた?」
「ええ。わかりやすかったです」
「師範はテニスをやられるのですか?」
「一度、師範とテニスやってみたいです」
私は、「ダメダメ」
「僕はテニスやったことないよ」
「錦織が好きでテレビで見るだけ」
「僕は全てに不器用だから、テニスなんてできないし、やる時間がない」とにべもなく答えた。
酷い先生だ…。
【蛇足ながら】
書かない方が良いと思ったが記しておく。どこかで言わなければならないだろうから。
これまでのフルコンタクト空手の試合や組手の形ではなく、それを言葉に変換し、意味の受け取り直しを試みれば、以下のようになる。
A「どうだこの技は効いただろう」
B「効いてないぞ」
A「では、この技はどうだ」
B「効いてない」
B「俺の技の方が効いているだろう」
A「全然、効いない」
B「お前、もう力が残ってないだろ」
A「まだまだ、お前こそ力が無くなってきてるだろ」
B「俺が強い」「俺が勝った」
A「俺が強い」「俺が勝った」
相手のうまいところが評価されず、打たれ強さやスタミナ、悪しき根性だけが評価される。組手の結果、主観的かつ感情的なしこりだけが残る可能性が大。
こんな空手を誰がやるのか?
拓真道組手メソッドでは
A「この技、どう?」
B「了解、打ち返すよ」
A「では、この技はどう?」
B「やられた」「君、うまいね」
B「今度は、僕の技だ」「どう?受けられるかい」
A 「やられた」「君もうまいね」
A&B「今度もう一回、組手だ」「次回は、もっと上手い技を出すぞ」「楽しみにしておけよ」
こんな風になる。