2017年が始まり、あっという間に1ヶ月が過ぎた。
2016年初めは高田馬場道場の引越し、2017年初めは八王子道場の引越しがあった。毎年慌ただしい年末年始である。
私は、いつも変化を繰り返しているようだ。本当は変化したくない。また、早く安定したいと願っているのだが、安定するためにこそ、変化を繰り返さなければならないとも思っている。
【経験から得た極意】
さて、「不安定な状態から不安定な状態へと変化し続けながら安定を得る」とは、私が若い頃に好んだスキーと組手を極めたいと夢想し続けた経験から得た極意である。
ここでいう不安定な状態から不安定な状態へと変化し続けるとは、バランスを取るためにある状態からある状態への「間」を意識的に制御している状態だと、拙い表現力で記してみたい。その状態(間)は、安定を喪失した状態ではない。だが、安定を絶えず志向している状態である。その絶えず志向している状態を維持、制御している状態のことを安定といい、そのような志向性が制御不可能になった状態が安定を喪失した状態だと、私は考えたい。
更に言えば、たとえ安定を喪失したとしても、さらにその先に安定を求める働きが生じるようにも思う。例えば、人が懸命に生きるということも、そのような様相をなしているように思うのだ。つまり、絶えず安定を求めて転ぶが、また起き上がろうとする。逆に言えば、たとえ安定した状態だと思っても、そこに安住しようとすれば、そこは何らかの不均衡をもたらしていく。そんな風にも思うのだ。とはいうものの、そのような営みにも限界があるだろう。
例えば、人間としての終焉がそれである。つまりその状態は、もう人間的に変化できなくなった時である。そんなことを随分前から考えている。
同時に、自分のあらゆる認識を経験と思索により、絶えず刷新していくこと。そのような意識が必要ではないかとも考えている。私が自著であらわした 「拓真道」とはそのような生き方である。それは、自分の認識を絶えず変化、刷新していくことと言っても良い。
【組手修練会にて】
本日は府中で組手修練会があった。寒風の中、子供から還暦間近の黒帯まで、多くの道場生が集まった。
私は当初、組手の修練の指導には、まず理論の共有が必要だと考えていた。しかし・・・。
道場生を思い浮かべてみると、私の組手理論を理解しているものは皆無だ。それは私の責任だろう。理論を伝えきれていない。言い訳をするつもりはないが、フリースタイル空手という新しい競技法を作ることに時間を取られ、基本的な空手の組手法の指導とその指導理論の確立を等閑にしていた。いつものことだが「穴があったら入りたい(ドジな)」ような反省である(いつも金にもならないことを優先している)。しかも、その間にも私の拓真道は進行し、空手家と私の認識との距離が増してきているようにも思う。
だからこそ、これまでの空手観と共存できる、新たな次元を開拓しなければと考えている。学問の世界なら徹底的に批判するだろう。それも必要かもしれない。現実、神話的な間違った組手理論が定着している。とにかく、無粋で不器用な私は、自分を偽ることでしか、伝統的かつ幻想的な組手法の世界に、戻ることができないのだ。あえて補足すれば、私の組手法は、現役時代から、既存の世界からはみ出ていたとも言える。ゆえに「世界を刷新しなければ・・・」。それには、より普遍的な事柄を中心に据えることが必要ではないか。そんなテーマを抱えつつ、思索に挑んできた。
哲学、歴史、経済、科学、スポーツ、さらに映画などのエンターテインメントまで、あらゆるジャンルにそのヒントを求めた。まだまだ、勉強が足りない。思索も足りない。時間が足りない。目も悪くなった。また脚の具合が悪く、椅子に長時間座ることが辛い。そんな中、一つの刷新があった。それは、脳科学の視点を得たこと。7、8年前から気になっていた、創発という概念が、複雑系の概念であることを知ったこと。数学を全く理解していない私が、数学的な発想をしていること。また、私が幼少の頃から興味があった宗教や哲学の世界が、科学の世界と近づいてきているようだ(もちろんそうでない学派もあるが)。因みに私は、空手に関しても科学的な理論を重視している。私は、様々なジャンルから、新しい学びがないか、探している。ゆえに時間が足りない。賢明な人は、「増田はバカか」
「そんなことは無駄だからすぐにやめろ」というに違いない。しかし、小説家は「何かを書かずにはいられないから書くのである。また、「画家は何かを描かなければいられないから描くのである」。
かくいう私は、真を求めずにはいられないから、勉強するのである。とはいうものの、空手を教え、上達させるのが、私の仕事である。そのための前提として、世界(認識の網の目)の共有が必要なのだ。つまり、先述したところの刷新した世界を、道場生に認識させなければ活かしあいと共創のゲームは始まらない。
まずは、簡単に組手修練における要点を伝えようと考えてみた。まずは、ノートの以下のように書き記した。
① 単技を知る
② 単技の使い方を知る
③ 防御と反撃の関係性(構造といっても良い)を知る
④ 実践・応用とその検証(フイードフォワードとフイードバック)
⑤ 多様な組手を知る(ルールの枠を越えた視点を持つ)
【話す時間は3分を超えてはいけない】
「全然だめだ・・・」「こんなことを話したら、理解させるまでに数時間がすぐにたってしまう」「子供たちはどうするんだ」私の脳裏に、「私が仕切るのはやめて、秋吉に任せようと」いう声が聞こえた。さらに「私がいない方が良い」という声が聞こえてきた。否、正確には、「私は、そこにいないが、そこにいるように意識させることがベスト」という考えだ。しかし、それを実現するにはどうしたら良いか、今はできないと思い直した。
私は、進行を師範代に任せようと思っていた。その中、まずは私も組手の輪の加わり、実地に組手の感覚を伝えようと思った。
しかし、「だめだ、これでは伝わらない」と直感した。人間は、自分に理解できるものしか理解しない。そして見たいものを予想しながらものを見るようだ。
私は、一旦組手の輪を外れ、考えていた。そして、「だめだ、絶対に伝えなければいけない」と直感的に思った。今ここで、このメンバーに私の組手理論を伝えなければ、また1年以上は遅れる(私の目標実現が)とも思った。
しかし、小学生も含む修練会である。「難しいことを言ってはだめだ」「話す時間は3分を超えてはいけない」など、キーワードが脳裏に浮かぶ。私の頭の中に電流が走る。
【人間は自分の理解できるものしか理解しない】
「人間は自分の理解できるものしか理解しない」当たり前のことじゃないかと思われるかもしれない。
「だからだめなのだ」と私は言いたい。
ある事物に内包される真理のような事柄を理解するときには、ある事柄とは別の事柄に置き換えたりしたレトリックを用いるのが効果的だと思う。もし、レトリックが的確ならば、人間はある事物を理解する際、自分の知識量が少なくても、直感的に理解する。それは、理論が理性で理解できなくとも、レトリックがイメージを喚起し、そのイメージが理性の代わりに感性の領域に働きかけ、理解したと錯覚させる(感性による理解)からではないかと私は考えている。更に言えば、真理と思われる事柄とは、実際は完全に言語化はできていないのではと思っている(仮に真理と言葉で断定している事柄があったら疑った方が良いようにも思う)。
例えば、「不安定の中から安定を得る」「変化の中から不変を掴む」というのもレトリックである。それを真理というには不十分である。しかし、その不十分だが、イメージでしか言い表せないことの中に真理があるようにも思うのだ。
さて話を、組手修練会の方の戻すと、私が伝えたことは簡単であった。
「組手の前に3分だけ時間をください」
「みんな、テニスを知らない人」「いない」「そうですか」「では、テニスは相手が打ち込んできたボールを受けて返よね」「そのボールを受けて返すのが組手なんですよ」
「だから、受けるだけでは、相手に点が入ります」
「ただ、ボールを受けて返しても相手コートに入っていなければ、だめです」
「わかりますよね」
「空手も相手の攻撃を受けて、しかも相手に正確に当てなければだめなんです」
「相手を攻撃するだけ」
「それは、壁打ちでもすれば良いんです」
「空手だったらミットやサンドバック練習かな」
「攻撃が効いてないから受けない」
「攻撃のことしか考えない」
「それは組手じゃないんです」
「先生は、空手でもないと思っています」と言ったところで「子供たちに、これは言い過ぎた」と反省した。
「それでは組手再開」。
すぐに反応がでた。多くの道場生が、攻撃だけだったのが、受けて反撃をするようになった。まだ体が動かない人には、声をかけて、技を限定し、受けて反撃をさせた。そして「それだ、上手いぞ」と励ました。
しかし、本当は言いたいことが。山ほどあった。私は、「真」を求めずにはいられないのだ。そんな状態であるから、相手とコミュニケーションが取りづらい。生徒を指導するという立場ながら、それではまずいと思っている。ゆえに、いつも自分にダメ出しをし、かつ歯を食いしばって自分の未熟さに耐えている。
このままではいけないという思いが、組手メソッドを構想させているのだと思う。その中身は、言葉の使用を極力控え、まずは実践(経験)を主にしたい。ただ、上達には修練の量と質が必要である。
その修練には、身体訓練のみならず、修練に関する多角度的な検証を含めた「思索」も含んでいる。
ともあれ、言葉をほとんど用いず、というよりレトリックによって、可能な限り単純化して伝えたことで、修練時間の確保(量)と理論の理解(質)が少し向上したようだ。
しかし、実はそんな簡単なことではない。その上達の構造を、理論化し、万人に効力のあるものとして確立するには、大変な労力が必要だと感じている。
【その先】
本日の指導には、「その先」がある。黒帯のひとりにその先を伝えた。
「テニスでは、フォアで返されたボールをフォアで返す、それがラリーの基本だと思う(テニスのことはテレビで見るだけなので正確には知らない)」。
「それを試合では、相手がフォアで返そうとしているところを、バックハンドでしか打ち返せないところにずらして(時間や空間を)返す」。
「つまり、相手が打ち返せない場所に反撃して得点するんだ」。
さらに
「相手がワンバウンドで打ち返すだろうと思い込んでいるところをボレーで打ち返し、相手の予測を外すことが、得点を得る基本手段となるんだ」。
「僕はそれと同じことを組手でやっているんだよ」と伝えた。
さらに、組手は下手だが、私のよき理解者である黒帯に、本日の感想を聞いた。
私はその黒帯に堰を切ったように組手理論を伝えてしまった。30分以上も話しただろうか。大変申し訳ないと思っている(本当はもうやめたい)。その人間には、私の理想をことあるごとに伝えている。しっかりと記憶にとどめて欲しいのだ。
その内容を、少しだけ記せば、「テニスが上手い人と下手な人がプレーすれば、下手な方はすぐに力み、疲れる。上手い人は絶えずリラックスしていて、無駄のない動き、効率の良い動きをするので疲れない」ただし「上手い人同士がプレーする場合、相手の裏を掻くような、心理的、身体的な「崩し合い」をするので、驚異的な身体的動作を必要とする場合があるが・・・」「僕は勝負を目的とする組手から離れ、相手と楽しむ組手を作り上げたい」「それには、組手を行う者が組手技と組手法を構造化できるような修練メソッドを作らなければならないんです」ここが難しい。大げさに聞こえるかもしれないが、特許を取れるような事柄なら、資金を集める。しかし、それは無理であろう。ゆえに家族と道場生を犠牲にしない範囲で、研究に人生を賭すつもりだ。ただし、身体が動かなくなったらやめるかもしれない。誰も付き合ってくれはしないだろうから。
その2に続く