ドイツとアルゼンチン、どちらが優勝する?
アルゼンチンフォルクローレの日本人ギタリストの大竹史朗氏から新しいCDがアメリカで発売されたとのメールがあった。
ちょうど、岡山への出張へ向かう前のことだ。
私は、アルゼンチン代表のメッシのファンだと返信に添えた。すぐに「アルゼンチンの健闘を祈って」と結んだ、返信が届いた。
「アルゼンチンの優勝・・・」、普通に考えたら、ドイツが優勝だろうな・・・。
岡山から東京へ戻る、新幹線の車中、女性達がドイツを応援すると語り合っていた。
確かにドイツのスピード、得点力は半端ではない。確かにドイツの方が数字的に良い。
しかし・・・。
アルゼンチンがオランダ戦で見せた、気迫あふれるプレイ、そして完璧なデイフェンス。ドイツにも通用しないだろうか・・・。
問題は、メッシが得点に絡めるかどうかにかかっていると私は思う(もちろん徹底的にマークされるのは解りきっている)。
しかし、メッシはポジショニングが良い。サッカー素人の私にも解る。
また彼はいつも、将棋で云うところの「寄せ」のようなアプローチに絡む。まるで彼が演出しているかのように。
後は、詰められるかどうかだが、ここ何戦か、アルゼンチンチームは、相手の隙をつく、鋭い寄せから、詰め将棋のような、すばらしい攻め(シュート)を試みている。なかなか決まらないが、段々精度が上がってきている。
私流に云えば、サッカーにおいて、ゴールが決まるまでの数秒の局面は、さながら詰め将棋のようである。ゆえに、ストライカー?は、寄せのイメージと詰め将棋を素早く解くようなアイディアの冴えがなければならない。もちろん、それはフィジカルな面に支えられているのは云うまでもない。そう言う意味でも、ドイツ・ストライカーの方に数字的な分がある。
しかし、ここ何戦かで片鱗を見せた、メッシをはじめ、アルゼンチンの選手達の詰め将棋をとくようなイマジネーション(読みとひらめき)の冴えがあれば・・・。
もしかすると、ドイツに1点差ぐらいで勝つ可能性もある。
難しいかな・・・。2—0ぐらいでドイツの勝ち?
否、0-1でアルゼンチンの勝利と予想しておこう。
私はいつも夢を見る。そして、夢破れるかのように予想が外れる(笑)。
ドイツとアルゼンチン、どちらが優勝する?
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ワールドカップサッカーと孫子の兵法〜その3
ワールドカップサッカーと孫子の兵法~その3
ワールドカップサッカーを観戦しながら、私の脳裏には「孫子の兵法」があった。そして、各チームの戦いを孫子の兵法を物差しにし、観ていた。
以下は、サッカー素人の私見である。あくまでファンの戯れ言だと思って、大目に見て欲しい。
先ず、およそ戦いは攻撃のみが大事なのではなく、守りながら攻める。攻めながら守ることである。守りと攻めを2分するかのような考え方には、正直、首を傾げる。また、個の力が弱いからチームサッカーで、強い個の存在するチームは、チームプレイはできない??というような考え方に囚われているのではと感じた。
これからは、日本人も強い個を育てるべきだ。そして、その上でチームプレイだ。そもそも、組織力(チーム力)がなければ、サッカーは勝てない。この辺は「これからの日本人論」として展開したいところだ。
また、アルゼンチンがメッシ頼りのチームと言うが、私にはそのように見えなかった。チームプレイもできていたではないか(私には、メッシがアルゼンチンチームの連係プレイの演出者のような存在に見えた)。
具体的には、決勝では、アルゼンチンチームはメッシだよりではなかった。むしろ、メッシに相手チームの意識が向かうことを利用したようにも見える。もちろん、予選リーグでは、メッシの得点がなければ、勝ち上がれなかったかもしれない。しかし、アルゼンチンチームを「メッシ頼みのチーム」と言えば、それは選手に失礼だ。今回のアルゼンチンは、そんな消極的なチームではなかったように思う。
さて、孫子の兵法の引用に対し、友人から質問があった。その質問の内容は、「孫子の兵法で云うところの「正」と「奇」の循環についての見解を」というものである。
以下は、その質問に対する私の見解である。正直言えば、私の見当違いかもしれないので、今後も再考を続けたい。あくまで、現時点での見解である。
【私の正と奇に対する見解】
「凡そ戦いは正をもって合し、奇をもって勝つ」
「戦勢は奇正に過ぎざるも、奇正の変は、賭けて窮む可からざるなり」
「奇・正の相生ずるは、循環の端無きが如し。たれか能く之を窮めんや」
孫子は戦いの理法を説くにあたり、「正」と「奇」という言葉を用いた。
正と奇という言葉を理解するにあたり、私は以下のように理解したい。
正とは、戦闘力のこと。奇とは、戦術のこと(奇襲ではなく、高い創造性を有する戦術のこと)。
つまり、戦闘力を基盤として戦術は生み出される。ゆえに、自己の戦闘力を基盤にして相手に対峙し、相手の予想外の戦術を創出して勝つことを目指すことが、戦いの原則である。
また、戦術を用いた戦闘力は、その効果により、新たな戦闘力を生み出す。つまり、基本・基盤的な戦闘力(正)と応用・創造的な戦術(奇)とは、互いに相補的かつ相互作用的な関係にある。
ゆえに、正、即ち基本的な戦闘力が基盤となり、奇、即ち創造的な戦術が生まれる。
また、創造的かつ優れた戦術は、基盤としての戦闘力に影響し、その基盤を倍加することもある。
その倍加、強化された基盤には、さらに高次な戦術を創出する可能性が広がり、またそれを生み出す。「奇・正の相生ずるは、循環の端なきがごとし・・・」の意味とは先述のような構造を指していると私は思うのだが・・・。
ただし、創出された戦術を絶対視すれば、時間の経過とともに戦術は、「創造的な戦術」という位置を喪失する。そこが重要である。ゆえに戦術は同じように見えても絶えず、変化させなければならない。そこも孫子の兵法の意味するところであると、私は考える。
私の戦略の定義は、戦闘力と戦術の組み合わせによってもたらされる態勢(全体における自己の位置取りと自己内部の情況)を如何に運用するかということを考えることである。
ゆえに、その時々の彼我の情勢、戦闘力、戦術の創出可能性を勘案し、戦略は修正されなければならない。また、それこそが戦略である。
さらに補足すれば、戦いの準備とは、戦略を物差し(?もっといい例えがないかなあ・・・)にした、戦闘力の形成と戦術の創出でなければならない。
以上のように正と奇を定義すれば、理解し易いように思う。
最後に孫子の兵法について重要なことを書いておく。
孫子の兵法指し示す、戦略とは勝つことではない。そもそも勝つと言うことをスポーツのように単純に捉えてはいない。あえて言えば、孫子の兵法は、如何に生き残るかの理法を説いている。
ゆえに、スポーツにおける戦いに、活用しようとすれば、やや無理があるのは否めない。
しかしながら、スポーツにおける真に偉大なチャンピオンは、長期にわたり、負けないチャンピオンであると私は思っている。また、戦いに勝利するための準備として、戦略を持ち、戦闘力を強化し、創造的な戦術を生み出し続けるという考え方は、スポーツにも活用できる。
先人に大変失礼だが、旧日本軍は、その解釈を間違えた(僭越至極、御免)。
そのようなことを念頭において、孫子の兵法を考えたら良いと、私は考える。
【蛇足ながら】
イスラエル、パレスチナの情勢が動いている。
私にはどうすることもできないが、簡単に片付けることもできない。
今後、我々を取り巻く世界に何が起こるかわからない。ゆえに日本も戦闘力(軍事力のみを指すのではない)を強化し守りを固めなければ・・・。経済、外交、軍事の面のみならず、教育、社会制度の整備等、あらゆる面で。
孫子の兵法
孫子の兵法についてサッカーに絡めて書いたものを、孫子の兵法に関するものだけを抜粋、加筆修正して、掲載しておきたい。
私の孫子からの引用に対し、友人から質問があった。その質問の内容は、「孫子の兵法で云うところの「正」と「奇」の循環についての見解を」というものである。
以下は、その質問に対する私の見解である。正直言えば、私の見当違いかもしれないので、今後も再考を続けたい。あくまで、現時点での見解である。
【私の正と奇に対する見解】
「凡そ戦いは正をもって合し、奇をもって勝つ」
「戦勢は奇正に過ぎざるも、奇正の変は、賭けて窮む可からざるなり」
「奇・正の相生ずるは、循環の端無きが如し。孰か(たれか)能く之を窮めんや」
孫子は戦いの理法を説くにあたり、「正」と「奇」という言葉を用いた。
正と奇という言葉を理解するにあたり、私は以下のように理解したい。
正とは、戦闘力のこと。奇とは、戦術のこと(奇襲ではなく、高い創造性を有する戦術のこと)。
つまり、戦闘力を基盤として戦術は生み出される。ゆえに、自己の戦闘力を基盤にして相手に対峙し、相手の予想外の戦術を創出して勝つことを目指すことが、戦いの原則である。
また、戦術を用いた戦闘力は、その効果により、新たな戦闘力を生み出す。つまり、基本・基盤的な戦闘力(正)と応用・創造的な戦術(奇)とは、互いに相補的かつ相互作用的な関係にある。
ゆえに、正、即ち基本的な戦闘力が基盤となり、奇、即ち創造的な戦術が生まれる。
また、創造的かつ優れた戦術は、基盤としての戦闘力に影響し、その基盤を倍加することもある。
その倍加、強化された基盤には、さらに高次な戦術を創出する可能性が広がり、またそれを生み出す。「奇・正の相生ずるは、循環の端なきがごとし・・・」の意味とは先述のような構造を指していると私は思うのだが・・・。
ただし、創出された戦術を絶対視すれば、時間の経過とともに戦術は、「創造的な戦術」という位置を喪失する。そこが重要である。ゆえに戦術は同じように見えても絶えず、変化させなければならない。そこも孫子の兵法の説くところであると、私は考える。
私の戦略の定義は、戦闘力と戦術の組み合わせによってもたらされる態勢を如何に運用するかということを考えることである。
ゆえに、その時々の彼我の情勢、戦闘力、戦術の創出可能性を勘案し、戦略は修正されなければならない。また、それこそが戦略である。
さらに補足すれば、戦いの準備とは、戦いの原則・理法を基にした戦略を物差し(?もっといい例えがないかなあ・・・)にした、戦闘力の形成と戦術の創出でなければならない。
以上のように正と奇を定義すれば、理解し易いように思う。
最後に孫子の兵法について重要なことを書いておく。
私は、孫子の兵法が指し示す戦略とは、勝つことではないと思っている。そもそも孫子は、勝つと言うことをスポーツのように単純に捉えてはいない。あえて言えば、孫子の兵法は、如何に生き残るかの理法を説いているのだ(だからこそ、ワールドカップサッカーのような生き残り方式、即ちトーナメント戦では参考になるのだ)。
ゆえに、すべてをスポーツにおける戦いに、活用しようとすれば、やや無理があるのは否めない。
しかしながら、スポーツにおける真に偉大なチャンピオンは、長期にわたり、負けないチャンピオンであると私は思っている。また、戦いに勝利するための準備として、戦略を持ち、戦闘力を強化し、創造的な戦術を生み出し続けるという考え方は、スポーツにも活用できる。
先人に大変失礼だが、旧日本軍は、その解釈を間違えた(僭越至極、御免)。
そのようなことを念頭において、孫子の兵法を考えたら良いと、私は考える。
〈参考文献〉
孫子(守屋洋/三笠書房)孫子(守屋淳/日本経済出版社)孫子(浅野裕一/講談社学術文庫)
孫子(杉之尾宣生/芙蓉書房出版)孫子・戦略・クラウゼビッツ(守屋淳/プレジデント社)
最強の孫子(守屋淳/日本実業出版社)孫子・呉子(守屋洋/プレジデント社)
戦略論~間接的アプローチ(リデルハート/森沢亀鶴訳/原書房)
精神と自然(グレコリー・ベイトソン/佐藤良明訳/新思索社)/その他
【蛇足ながら】
私には、孫子の解釈で有名なリデル・ハートの「ダイレクト・アプローチ」「インダイレクト・アプローチ」という概念が念頭にあった。ゆえに先述のような、独自解釈を展開するにあたり、苦しかった(間違っていたら恥ずかしい・・・)。
しかし、「抛瓦引玉(拙い意見を投げ出し、優れた意見を出させる)」のつもりで意見を述べた。
孫子の兵法については勉強会仲間と再考を続けたい。
また、イスラエル、パレスチナの情勢が動いている。
私にはどうすることもできないが、簡単に片付けることもできない。
今後、我々を取り巻く世界に何が起こるかわからない。ゆえに日本も戦闘力(軍事力のみを指すのではない)を強化し守りを固めなければ・・・。経済、外交、軍事の面のみならず、教育、社会制度の整備等、あらゆる面で。
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サッカーの限界?〜「W杯の限界」に対する異議申し立て、その1
朝日新聞の1面記事に対する、私の意見である。
スポーツとワールドカップ・サッカーが面白いと思う一人として、どうしても看過できなかった。
長い意見なので、2回に分けて推敲、掲載したい。
これから、山梨で行なわれる友人の結婚式に参列する。
その後の掲載としたい。
【サッカーの限界?~「W杯の限界」に対する異議申し立て、その1】
今回のワールドカップサッカーが面白くなかった?
「はあ?」
7月19日の朝日新聞の13面、オピニオンに、日本のトップレベルのインテリゲンチャと思われるH氏のオピニオンが1面に掲載されていた。
H先生のオピニオン(意見)は、「岡田監督的な守り重視のサッカーは駄目だ」と言うことである。さらに「今回のワールドカップ、すべてのチーム(ドイツ、オランダも含め)が防御中心で面白くない」と展開する。さらには、「W杯は限界、今後、期待できない」とも述べていた。
H先生の論旨を要約すれば、「スポーツとは、国家を背負って、必死にやるようなものではない」ということだと思う。
H先生はさらに、こうも述べていた。
「サッカーはゲームで、ゲームとは本来、運動することの爽快感や驚きが原点点のはずだ・・・。W杯は『命懸けの真剣勝負』に見えてしまう。お互いもう少しリラックスしなければ、やっている選手も、見ている側も楽しめない」
右傾化する世界を憂い、せめてスポーツはというH先生の思いなのであろう(私にもその傾向に対する憂慮はあるが、だからこそ、である・・・)。
H先生の気持ちは解る。しかし・・・。スポーツに対する認識も間違っているし、サッカーや選手のことも解っていない。また、新聞の一面すべてを使い掲載する価値があるのかも、正直言って疑問である。さらには、ゲームの本質も解っていない。
あえて断っておくが、私は20年以上にもわたる朝日新聞の愛読者である。他紙も同時に購読していた時期もあるが、経済的、時間的な余裕がないので、現在は朝日のみである。
また私は、岡田監督のサッカー解説が好きである。岡田監督は前回のW杯では、良い仕事をしたと思っている。
兎に角、私の見解とH先生の見解は、かけ離れていた。そして、私はそれを受け入れることができない。そして、なぜそれを批判しているかと言えば、そのような考え方では、この国のみならず、この世界がより悪くなると考えるからだ。
さて、私の見解は以下である。
まず、今回のワールドカップサッカーのレベルは上がっていると思う(一部の国を除いて)。また、サッカーワールドカップは、オリンピックの存続にも影響するぐらい、しばらくは発展するに違いないと踏んでいる。
次に、ワールドカップは「国対国」だから面白いのだ。氏は、それをスポーツ文化の堕落と言いたいのであろう。
しかし、このように考えられはしないだろうか。
【ワールドカップ・サッカー論】
以下に私のワールドカップ・サッカー論を展開したい。
ワールドカップ・サッカーの存在意義は、「理性を基盤とする、様々な抑止力や暴力性の昇華手段」である。
以下にその意味を説明したい。
はじめに、ワールドカップサッカーはチャンピオンスポーツと定義したい。
チャンピオンスポーツの最終目的は、人間教育手段であると私は考えている。勿論、プロ的なスポーツは、スペクタクル性を重視し、人間教育とは相容れない部分があるのは解っている。ゆえに、スポーツ選手の中には、私の理想とするスポーツ選手(アスリート)のあり方から逸脱するケースも間々あるのは解っている。
しかしながら、優れたゲーム(スポーツの)には、身体と知性を協働させる効用がある。例えば、単なる知識の暗記力を競うような、現在の学科試験のようなものではなく、全知全能を刺激し、その協働を要請する。
また、優れたゲームは、数学のような法則性が見いだされる面もあるが、全く予測不能な面もある。ゆえに、ゲーム(遊び)のプレーヤーは、想定外の情況に対応しなければならないのだ。
また、サッカーのプレーヤーは、相手の戦術を瞬時に理解しなければならない。同時に自己のチームのプレーヤーとの情報伝達と共有を計り、瞬時に最善の対応策を実行しなければならない。
このことは、サッカーが高いコミュニケーション能力を必要とするということである。
私は、チャンピオンスポーツとしてのサッカーが有する、そのような面を活かせば、人間教育に役立つと思っている。また、駄目なチームに足りないのは、フイジカルや技術面のみならず、コミュニケーション能力ではないかと、私は思っている。さらには、一人ひとりのメンタルタフネスが足りなかったのかもしれない。
脱線するが、私の直観では、今回の日本代表の惨敗の要因のひとつは、選手間、あるいは監督と選手のコミュニケーションが上手くいかなかったことがあるように思えてならない。なぜなら、日本のサッカー選手には、もう少し上を狙える力があったように思うからだ(厳しいかな・・・)。
サッカーの限界?「W杯の限界」に異論あり〜その2
サッカーの限界?「W杯の限界」に異論あり~武道家のサッカー論~その2
(前回の続き)
話しを戻したい。
【ワールドカップ・サッカーは、愛国心を刺激し、人々を熱狂させる力がある】
「国(ナショナルチーム)」対「国(ナショナルチーム)」のワールドカップ・サッカーは、愛国心を刺激し、人々を熱狂させる力がある。
おそらく、そこがH先生の忌み嫌うところであろう。
一方、ワールドカップ・サッカーの存在意義は、「理性を基盤とする、暴力性の昇華手段」だと、私は先述した。
おそらく、読者に?マークが出ているに違いない。
「スポーツは感性に訴えかけるものではないのか?」と。
ゆえに補足を加えたい。
私の考えは、スポーツとは、身体、感性を刺激しながら、最後は理性を動かすからこそ面白いと考えている。ゆえに厄介でもある(幾重にもフィルルターがかかり、本質の透視が困難になる)。
【私の直観】
また私は、「感情が戦争を起すのではない」「理性が戦争を生み出すのだ」と直観している(未発達の理性のみならず、発達した理性も含めて)。「感情」とは戦争の「トリガー(引金)」に過ぎない。
私は、スポーツにおける理性の働きを、自己の情況・態勢をどのように判断し勝利するための行動をとるかだと考えている。また、その情況・態勢を転化・活用し、勝利を獲得するための技術を駆使、あるいは創出する(そこに感性の働きが協働されなければならない)。それがスポーツの構造だと考えている。
さらに、特にチャンピオンスポーツに重要なものを加えるとすれば、「勝利へのパッション(情熱)」である。その情熱は、勝利を得るための技術の体得・創出を目指した、不断の努力に必要なものだ。また、その情熱は、チーム内の選手、一人ひとりになければならない。
H先生の直観は、「自己の勝利のために必死になる」ような理性のあり方に、言い換えれば、偏狭な愛国心の発露とその操作に「ワールドカップ・サッカーの限界」を感じたのであろう(あまりサッカーのことを深く考えていない可能性が高いが・・・)。
【健全な愛国心】
しかし、健全な愛国心は、家族愛の延長線上にあるもので、それを拡大していけば、人類愛に繋げられると、私は思っている。また、先述のような構造をスポーツが有するからこそ、理性のあり方を問い直すことができるのだ。そして、「より健全な理性」「より善い理性」の醸成に役立つ可能性が生まれるのだ。
今回のワールドカップ・サッカーは、前大会3位のドイツチームの「勝利への情熱」と「技術力」と「理性」を感じさせた大会であった。また、厳しい国内情勢の中、必死に汚名返上に努力する、アルゼンチン国の「勝利への情熱・渇望」をも感じた。
私はスポーツの勝敗を分けるのは、「技術力」「知力」「メンタル力(情熱・闘争心)」だと考えている。体力面に関しては、そもそも、チャンピオンスポーツにおいて、体力を強化しない選手は話しにならない(日本人サッカー選手には、その意識が低いかもしれない・・・)。
さらには、時に浸食、葛藤を生じるような、先述の3つの力と機能を自己制御する訓練がスポーツなのだ。それが観るものの感性のみならず、理性に訴えかけるのだ(私のスポーツ論)。
【H先生の憂慮の核心】
おそらく、H先生の憂慮の核心は、ワールドカップ・サッカーの疑似戦争化ではないかと考えている。その気持ちは解らないでもない。しかし、それは見当違いである。そもそも、スポーツには、攻撃衝動の昇華・転化手段としての事実にこそ、真の存在意義があると私は考えている。また、微力かもしれないが、その事実は戦争を回避する力の醸成に貢献していると思う。
また、H先生がいわれるような不快な緊張感、即ち非人間的で過度な緊張や空気をつくりあげる元は、サッカーそのものではなく、また選手でもないと思う。そのような緊張や空気をつくりあげているのは、マス・メディアによる「煽り」なのだということをなぜ見抜けないのだろうか(もちろん、マスメディアの良い意味での役割もあると思う)。
実は幼少の頃の私は、友人の影響で、軍艦や戦車、戦記が好きであったが、軍国主義は嫌いである。
勿論、私には軍国主義の実感はない。しかし、極限状態において、人間とその集団が、どのように変質するか、書籍を通じ、考えさせられたことが多々ある(多少の経験もある・・・)。一方、軍隊は極限状態を想定しなければならない。そのような状態を日常的に想定せよと言わんばかりに、行動を規制されたら、一般人は不快なのは当然だ(しかしながら、軍事行動には、そのような面が必要になるであろう)。
当然のことながら、戦争や暴力行為は、人間が選択、実行してはならないことだと、私は思っている。しかしながら、常時、戦争や暴力行為(テロを含む)の現出の可能性に対峙している状態が、我々が生きる現代社会であり、現実だ。
それが抑制されているのは、「理性を基盤とする、暴力性の昇華手段」や「多様な抑止力」が機能しているからに他ならない。
私が観た、ワールドカップ・サッカーは、軍事力の格差のある国と国、その国の人間同志が、ひとつのルールを共有し、真剣に遊んでいた(遊ぶというと、誤解を生じると思うが)。
人間に内在する、自己保全の欲求・狡さ、暴力性(攻撃性)を前提の上で・・・(ルールの範囲内で承認した上で)。
だからこそ、人間の狡さや暴力性を昇華する訓練、また過度の暴力性(攻撃性)を理性で抑制、つまり、自己を制御し行動する訓練になるのだ。
私は、そのような訓練の中、誰もが素晴らしいというモデル(選手やチーム、そして観客も含めて)が現出したとき、大きくいえば、人類が進歩すると考えている(僅かかもしれないが)。
それがスポーツの価値のひとつだ。
【人類の平和共存に対する可能性や希望を見いだす場】
私は、ワールドカップ・サッカーの価値が、単なるサッカー愛好者の晴れの舞台ということであってはならないと思っている。
少々大仰だが、「人類の平和共存に対する可能性や希望を見いだす場」としての機能としての自覚を持って欲しいと思っている。
それは、サッカーが、宗教、言語が異なり、経済格差もある現代社会において、それらの影響を受けない公正なもののトップランクに属するものだからだ(勿論、スポーツに経済力の影響があるのは解っている)。
ここで、スポーツには身体的な格差が影響するのではないか。ゆえに公正とは言えないのではないかという方がいるに違いない。
【体格の格差による影響が比較的少ないスポーツのひとつ】
しかし、サッカーは、様々なスポーツの中で、体格の格差による影響が比較的少ないスポーツのひとつだと、私は思う。
つまり、サッカーにおける体格の影響は、他のスポーツとの比較で言えば、少ない方だと考えている(異論はあるだろう)。
例えば、「日本人は体格的に劣るので、ワールドカップでは勝てない」という意見がある。本当にそうだろうか。アルゼンチンチームと日本人選手の体格の差がそんなにあるだろうか?
考えてみて欲しい。バレーボール、アメリカンフットボール、ラグビー等のスポーツは、体格が優れていないと圧倒的に不利である(そのような中、ラグビーの日本代表が世界ランキング10位を獲得していると言うことは、凄いことかもしれない・・・)。
しかし、上半身を、ほぼ使用不可(ヘディングを除く)のサッカーは、他のスポーツに比べ、東洋人にも勝利する可能性が高いスポーツだと思う。
ゆえに、今後も恐れず、日本人の可能性を信じ続けて欲しい。
【サッカー選手とチームに必要な要素】
最後に、サッカーに必要な要素を考えたい。
私は、サッカー選手とチームに必要な要素は「技術力」「知力」「メンタル力(情熱・闘争心)」だと考える。
まず、優れた技術力には、体力的な基盤が必要である。
また優れた知性には、予測不可能とも思える戦いを予測し、優れた技術、戦術を創造する能力(創造性)が内在している。
さらに、ここでいうメンタル力とは、自分の可能性を信じ続ける力と言い換えても良い。また、挑戦する意志のことだ。
そして、そのような力を養成するには、H先生の言葉を逆の意味で転用すれば、「命懸けの真剣さ」が必要なのである。つまり、みんな「命懸けの真剣さ」が足りないから駄目なのだ。
【スポーツの崇高さ】
私は、スポーツの崇高さとは、「暴力性を内包しながらもそれを理性で抑制し、高次の知性の働きを発揮すること」。同時に「創造的な身体技術を生み出していくところ」にあると思っている。
また、あえて言おう。その3つの力とは、戦争にも必要な力である。しかしながら、国の繁栄と維持にも必要な力なのだ。
私は、そのような力を、戦争とは異なる手段である、スポーツという手段で醸成する。それは人間としてもコミュニティー(共同体)としても必要だと思っている。
できれば、FIFAが各国のサッカーコミュニティーの管理人として、サッカーを通じ、人類の発展と共存に貢献するという志を持って欲しい。
【日本のサッカーとアルゼンチンのサッカーの異なる点をひとつ】
蛇足ながら、日本のサッカーとアルゼンチンのサッカーの異なる点をひとつ。
「チャージの」仕方である。ディフェンスの仕方と言い換えても良いかもしれない。アルゼンチンチームの選手達のチャージ技術・方法は、我が武道、拓真道の極意技の理合いと合致する(ちょっとだけ宣伝・・・笑)。しかし、日本人のチャージの仕方は、上半身だけだ。あるいは、ボールを持った選手に壁となって立つだけである。もしかすると、危険を回避するために、チャージをししないのだろうか?
そんな消極的で逃げ腰のディフェンス方法では、体格に勝る選手には勝てないだろう。
私の考えは、チャージも用いたディフェンス方法こそが、体格に劣る(小さいもの)が有利なディフェンス戦術であり、攻撃戦術でもあるのだ(解るかな・・・)。
サッカー選手にヒントを与えたい。「密着(相手との一体化)こそが、柔よく剛を制すの基本だ」と・・・。
以上、サッカー素人の私が僭越至極である。しかし、今回のワールドカップサッカーは、私の戦闘理論を検証する、良い題材となったと思っている。
明日は我々にとっても審査だ
明日は、上級審査と昇段審査がある。
審査会前日も、熱心な道場生が、多摩本部道場で行なわれた特別稽古に集まった。
中には3時間もかけて通って来た人もいた(高速が混んでいた関係だが)。
特別稽古とは、毎週の土曜日の午前中、対象や内容を限定し、通常の稽古を補足する稽古のことである。
特別稽古は指導する側も楽しい。なぜなら、みんな熱心だからだ。
正直言えば、余り上手でない者もいた。しかし、そんな道場生でも、少しずつ上手になっていくのを目の当たりにした。
やはり、上達には反復練習が必要だ。しかし、ただ適当に身体を動かすのでは上手くならない。「上手くなるんだ」という強い気持ちがなければ駄目だ。
また、稽古と言うぐらいだから、自分の身体を使いながら「考える(検証や分析)」ことをしなければ、上手にはならないだろう。
そんな強い気持ちを持っている道場生は、あまり多くないが、それは当然である。みんな仕事や学業等、色々とやることがあるからだ。
しかし、特別稽古に参加している道場生は、先述のような気持ちがあると思いたい。また我々指導者側も、もっと工夫をしなければと思う。
特別稽古を毎土曜日に行なうようになってから約1ヶ月、明日は我々にとっても審査だ。もし、道場生が上手になっていなければ、更なる改善が必要だと思っている。
我々の目標は非常にシンプルだ。「単調な稽古を我慢させること」「その中で各々の上達を感じさせること」「努力すれば上達すると言うことを身体に覚え込ませること」である。
また、「自分の上達だけでなく、仲間の上達に貢献する」ということを教えることである。そこが難しい・・・。
さらに、それらの目標を達成すれば、一人ひとりの「自分を信じる力」を育むことに、少なからず貢献すると、私は考えている。
少し、体調が悪いので、どこまでやれるかは解らないが、道場生の上達を願い、全力で頑張りたい。ただ、そのために厳しい判断も必要になる時もあるだろう。
兎に角、信念を持って空手指導を行ないたい。
最後に、明日は師範代の秋吉も昇段審査に臨む。
彼の頑張りに期待したいが、「怪我をしないように・・・」と言うのが正直なところである。
みんなとても立派でした
2014年少年合宿が無事終わりました。
台風の影響で夜中は大雨でしたが、昼間は晴れていました。
少年合宿の際は、怪我や事故のないよう、とても気を使っています。子供達にはその気遣いは解らないでしょうが・・・。
今回は、親子で空手をやっている、フイリップ先生、宮村先生、大下先生がお子さんと参加してくれました。ゆえにこころ強かったです。
また、女子部サポートの曽和さん、鈴木さん、島田さん、少年部出身の道場生の佐々木君、富澤くん、松岡君もいてくれて、本当に助かりました。
さらには、一般道場生で映画製作関係の仕事をしている、大庭君もサポートに加わってくれました(大庭君は風貌も含めて、さながら現場監督でした・・・笑い)。
合宿スタッフの皆さん、ありがとうございました。
また、今年から師範代を務めている秋吉、お疲れ様・・・。
増田は少々、天然ボケですが、道場生が怪我をしないか、合宿中は心配しています。
ゆえにスタッフにはいつも、緊張させて悪いなと、思っています。
さて、今回の合宿は少人数でしたが、多くのスタッフに協力して頂きました。
また、空手道の原点に返り、空手の稽古を真剣に行ないました(台風の影響で海水浴を中止した関係もあり)。
稽古は、私と秋吉が陣頭指揮をしましたが、黒帯の指導員と協力して指導しました。
また、稽古内容は、途中、リトル(小学2年生以下)とジュニア(小学3年生以上)の稽古場を分けましたが、ほぼ同じ内容をこなしました(リトルとジュニアは練習量とペースが異なります)。
もしかすると、リトルやジュニアの中でも初級の人には、厳しい稽古だったかもしれません。
しかし今後は、さらに空手の指導を厳しくしていくつもりです。
実はこれまで、増田道場では、楽しく稽古をしようと唱えてきましたが、少々軌道修正します。「稽古は真面目に」ということを基本にして、それを徹底します。なぜなら、楽しいから真面目にやるのではなく、真面目にやるからこそ物事に楽しさを感じるのだと、私は考えるからです。
また、楽しさとは本来、各々が主体的に物事に取り組む中、つまり稽古の中から見つけだしていくものだと思うからです。言い換えれば、楽しさとは内発的なものだと思います。
ゆえに、楽しさは外から与えられるものと考えている人や後ろ向きな考え方の人、また正直でない人(真面目でない人)には、本当の楽しさは掴めないと思います(言い過ぎかな・・・)。
勿論、空手の上達の速度を比較し、云々言うことや稽古の無理強いはしないつもりです。
しかし・・・・。
私が空手と空手道場で与えたいものは、努力すれば・・・、反復練習をすれば・・・、「上手くなるという体験」です。そして、その体験とプロセスの中から、真の自信を育んでもらいたいのです。
そして「楽しさ」とは、そのプロセスで、各々が掴み取るものなのです。
また、私が考える空手の道場稽古は、チームプレーです。チームプレーというより、団体行動と言った方が良いかもしれませんが・・・。
つまり、空手の技術は、他者との関係性を開拓しなければ上達しません。平たく言えば、他者と共に稽古しなければ上達しません。異論はあるかもしれませんが、私はそう考えています。
但し、より高みに達するには、他者との関係性を掘り下げる、孤独な稽古(自分で考える稽古)をそれ(他者との相対稽古)と同じ程、こなさなければなりません。
今日私は、そんなことを考えながら、合宿を終えました。また、いくつかの反省点が頭から離れません。
今後は、秋吉師範代や黒帯指導員の考えを聞いていきます。特に極真空手の指導に関しては・・・(体調もよくないので)。
その上で、長年構想してきた新しい空手武道(拓真道流空手武道)を少しづつ、興味のある人に対してだけ、指導していきたいと思います(おそらく、場所や時間を私の都合にあわせられる人にだけにしか教えられないと思うので・・・、また教えるというより、研究するというという感じの稽古にしたい)。
新しい空手武道については、近いうちに、具体的な報告ができると思います。
最後になりますが、今回の合宿に参加した少年達は、私の地味な稽古指導に真面目に取り組んでいたと思います。みんなとても立派でした。
彼らの将来に私の空手武道哲学が少しでも役立つことを祈っています。
護身とは何か?
本日、黒帯対象の講習会を実施した。
相変わらずの遣っ付け仕事で、自分が嫌になる。
しかしながら、僅かながら前進がある。また私は、どんな状況でも、自己のやれることの最善を尽くしているという自負がある。誰もその姿を見ていなくても・・・(只、私は大雑把な性格のようだ)。
実は、久しぶりのブログの更新である。その理由は、8月の自然災害の被害に遭われた方々のことを思い、自粛していたのだ。また、体調が良くないのと、2週間前に歩けなくなった。
歩けないとは、膝に水がたまり、腫れ、真っ直ぐ伸びなくなったということである。どうも古傷の左脚の半月板の損傷が過労によりひどくなったようだ。
それ以来、膝を冷やし続けている。本日は、強力に膝を固定するサポーターを使用し、なんとか指導をした。膝の具合は少しずつ良くなって来ていると思っている。
以前私は、右膝の手術をしたことがある。今回と同じ、半月板の手術だ。しかし、もう手術はしたくない。なぜなら、術後、1ヶ月以上、膝が曲がらなかった。
もし、手術をするようなら、3~5日程の入院と稽古指導が大変になる。
また、9月は身体の他の部分の検査もある。これまで数多くの失敗や障壁を乗り越えて来た私だが・・・。少々きつい。今は良くなることを信じたい。
さて、今回の講習会のテーマは、護身技ということだった。師範代の秋吉と相談し、そのように決めたのだが、先述のような状況なので、準備が思う様にできなかった。拙著「フリースタイルカラテ」の執筆の際、泊まりがけで研究に付き合ってくれた、道場生の福岡氏の協力のお陰で、僅かながらの前進ができたと思っている。彼は、弟の様にかわいい(笑い)。
私が考えている新しい修練体系、武道に関しては、発表の機会を待ちたいが、
今回、遣っ付け仕事だったが、護身について考えを纏めるために書いた、メモを掲載したい(今後、細部を含め再考し、文字に落としたい)。
【護身とは何か?】増田メモ
護身とは何かを考えてみる。護身とは、徒手による暴力から自己の心身を守ること。言い換えれば、暴力による自己の心身の危機を回避することと言っても良いと思う。
正直にいえば、「護身術」という、曖昧で抽象的な表現を理解できない自分がいる。しかし、暴力による危機に遭遇した場合の対応について、少しだけ考えてみることは無駄ではあるまい。
もし、暴力による危機に遭遇したら・・・。
対応の仕方はいくつかあると思われる。ひとつ目は、「話し合いで和解する-①」2つ目は、「相手を制圧する-②」。3つ目は、「相手の隙を見つけ逃げる-③」である。
先述の中では、①が望ましいが、その場合、背景に相手と交渉するための何らかの力(武力も含む)がなければ、困難だと私は思う。2つ目の「相手を制圧する」とは、相当な徒手格闘の訓練が必要となる。おそらく一般の人は、護身術と制圧の違いを理解していないに違いない(もしかするとカラテ家も)。
具体的に言えば、護身術と制圧術とは分けて考えなければならない。
私がいう「制圧」とは、「自他の被害を最小に抑えて、相手の戦闘力を奪うこと」である。一方、護身術とは、「自己に向けられる暴力を弱体化すること」である。
「弱体化」という言葉を使用したのには理由がある。それは、暴力を完全に封じるには、「一時的な弱体化」だけでは、不充分だという意味を含んでいるのだ。
言い換えれば、暴力の無力化(?)が制圧だと言うことだ(但し、私の言う制圧は「捕り」なので、他を殲滅的に痛めつける手段は用いない)。
つまり、護身術の効用を大きく見積もってはいけないと言っても良い。
私の考えでは、護身術というものは、3つ目の「相手の隙を見つけ逃げる」レベルのことを指すものだと考えている。決して、制圧のレベルと同じに考えてはいけない。
具体的には、「防御技を駆使し、相手の弱点を見つけそこを攻め崩す」ことである。そして、「相手を崩し、逃げる機会を作ること」ともいえる。
補足を加えれば、私は普段、護身術と言わず、護身技という用語を用いる。
草創期の極真空手(大山道場空手)は、護身術を前提とした修練が中心だったと聞くが、そのような修練は現在、消滅したと言っても過言ではない状況である。
勿論、極真空手と言っても、道場によって修練方法は異なる。しかし、おそらく、多くが形骸化、体操化した伝統基本や型の修練と、武術の本質から逸脱した、組手法との修練に終始していると思う(これまでの私の道場もそうだ。誤解を恐れずに言えば・・・)。但し、それは全否定されるものではない。また、効用も充分にある。
しかしながら、私が新しく創る、空手武道の修練システム(OS)には、極真空手の基本を活かしながらも、その基本を応用し発展させる機能を持たせたいと考えている。
その修練システムの中で、「護身技」は重要な役割を果たす。また、極真空手の基本の応用を可能とするために必要な概念のひとつである。
さらには、新しい修練システムは、古今東西の多様な格闘技術の良点を取り込んでいける。また、極真空手の基本を真に使えるものとするためのオペレーティング・システム(OS)となるだろうう。
繰り返すようだが、護身技とは、相手とその攻撃を崩す技である。だからこそ、護身技(=崩し技)は、「制圧法」の中で重要な役割を持つ。
以上、メモ書きはこの辺で終わりたい。
最後に、これからの数ヶ月は正念場だと考えている。なんとか、私の武術理論及び武道論、武道修練システムを完成させたい。
時間とは、あると言えばあるが、ないと言えばない。私にとっては、そんなことはどうでも良いのだ。生きているうちに、身体が動くうちに、どうしても創りあげたいものがあるのだ。生み出したいものがあるのだ。それを、お前の欲だと揶揄したければするが良いと考えている。
私は、なんと思われようとも、いつも百尺竿頭に一歩を進めるがごとく、生きていくだけだ。
追伸
今回の講習会は、極真空手の稽古と分けて採用、実施することが前提の新しい修練システム(拓真道流・空手武道)のデモンストレーションのようなものだ。
よって、稽古内容は広く浅く、なるべく体系を説明、体験してもらえるように務めた(それでも時間の関係で半分ぐらいしかできなかった)。今後、具体的なインフォメーションをしていきたい。
(少々被害妄想気味の私は、顔の表情の変化やリアクションに乏しい道場生の反応を、いつも気にかけている。正直に言うと、もう伝えるのは止めようといつも考えている(笑い)。因に私の家族に対する愛情表現は、ストレートでオーバーだ。家族はうるさいと言うが・・・)
最後に、「どの稽古が一番、興味があったか?」と尋ねた。
一番、多かった回答が「頭部打撃の練習」と「小刀(ナイフ)捕り」だった。
その中で、「半棒術」と「腕回し(制圧法の稽古の中の基本原理)」という回答があった。
前者は、一般的な回答だと思う。一方、後者の「腕回し」に興味を持った者は、おそらく術理的なことに興味を持ったがゆえだと、直観している(その者は、術理という言葉を知らないと思うが)。
因に、私が拓真道流空手武道に込めた魂は、「理合(道理)の探求」「普遍性の探求」である。
それを「知的好奇心」と言い換えても良いだろう。
また、半棒術(杖術、ステッキ術を含む)は私が個人的に最も好きな修練となると思う。
実は、脚が動かない間、棒を諸手と片手で振っていた(操法の基本と型を研究していた)。すると、ここ数年の50肩の症状が改善されて来た。肩の変形も改善された様に思う。また、身体が動かせず、身体のラインがかなり緩むと想定されたのだが(加齢もあり)、それほど緩んでこない。
棒振りを懸命に行なっていたからだと思っている。正しい振り方をすると、体幹も使っているようだ(腹筋、背筋を瞬間的に締めているのだと思うが・・・)。
私は武器術については、僅かの知識しかない。しかし、ここ数週間、脚が動かないことで、以前から研究をしたいと思っていた、武器術について考えていた。
私は、武器について知識を深めることは、理合の探求、普遍性の探求に少なからず貢献すると考えている。ただし、道場の稽古では多数派の要望に応えることを優先するが・・・。
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護身とは何か?その2〜補足
護身とは何か?補足
昨日の護身についてのメモ書きに補足を加えたい。
昨晩は、ブログを書くのに時間がかかり過ぎたので、途中で止めた。
しかし、重要なことをメモしておかなければならない。
私が考える、護身を考え、護身技の修練の意義は何か?なぜ、護身技を修練するか?
【なぜ、護身技を修練するか?】
極真空手は、誰にも解り易い、シンプルな稽古体系を有する(大雑把すぎるくらい)。
一方、我々が伝統基本と呼ぶ基本技の種類はかなりの数になる(非常に多様である)。
例えば、正拳、裏拳、手刀、肘、中足、背足、足刀、膝等々、人体の様々な部位を用いる。そしてそれらの部位を、突き、打ち、蹴り、蹴り込み等、様々な操法で技を創る。そして、それらの技を基本として稽古する。
ボクシングなら、ストレート、フック、アッパー、ジャブ等のパンチとそのデイフェンス等の訓練が基本となる。空手に置換えれば、正拳という部位を用いた突き方とその受け技の訓練のみを基本として訓練するということだろう。ボクシングは良い意味で空手よりシンプルだ。
また少々脱線するが、ボクシングは、フットワークを重視するので、そこにフットワークと体さばき(武道でいう)の訓練を重視する。極真空手が弱いのは、そこである。私の流派では、運足(フットワーク)と体さばきを基本修練に入れている。しかしながら、組手法に瑕疵があるのでそこが意識されない。
話しを戻せば、極真空手の伝統基本の稽古は、すべて実施すれば、30分程の稽古時間を有する。また、初心者が全力で行なえば、それだけでふらふらになるだろう(良いエクササイズだということでもある)。
私が初心者だった頃、基本稽古からすべてを全力で行なっていた。私が手を抜かなかったのは、基本稽古が強い技を創るための身体操法の基礎を作ると考えていたからだ。また、体力があったからかもしれない。
さて、もし現在、伝統基本の修練意義をとわれれば、「普遍性の探求」というキーワードを私は用いるだろう。また、極真空手が多くの伝統基本を有するのは、本来、護身を意識して空手修練を考えているからだと、補足を加える。
にもかかわらず現実は、極真空手が普及すればする程、伝統技の修練は隅に追いやられた。そして、技を限定し勝負判定も曖昧な試合、組手を稽古の中心に据えるようになっていった。
乱暴な言い方になるが、そんな稽古なら、いっそ伝統技をなくし、伝統型もなくしてしまえば良いという考えが生まれてくるのは当然だろう。
【組手法の改善~フリースタイルカラテ】
しかし、私は伝統技を大事に考え、伝統型も活かしたいと考えてきた。また、武術の訓練としては、瑕疵がある組手法を改善したいと考えて来た。
そのような思いの萌芽、結実が「フリースタイルカラテ」という新しい組手法、競技法の確立であった。しかしながら、その木は、小さく、果実も見た目が旨そうには見えない??。ゆえに誰も手に取ろうとはしない。
私は、「フリースタイルカラテ」という新しい組手法・競技法を、空手が本来重視した、倒し技や関節技への対応の基盤となると確信している。
しかし、「フリースタイルカラテ」という、徒手格闘の技を用いた自由攻防の訓練法を充分に機能させる基盤の確立には、かなりのコストがかかるだろう。
ゆえに、「フリースタイルカラテ」の確立に全力を注ぐとなると、相当な無理をしなければならない。実際、私はかなりの時間と資金を投入した。
本来は、ランニングコストを生み出すような仕組みを考えてから、プロジェクトをスタートするべきだったが、急ぎ過ぎた(実は理由はあるが・・・)。
ゆえに、新しい武道競技としてのフリースタイルカラテは、ひとまず棚に置こうと考えている。断っておくが、来年の9月に大会をフリースタイルカラテの第3回目の大会を予定している。だが、わたし独りの力では続けられないと考えている。今わたしは、大会規模を、さらに小さくしても良いとから、本気でプロジェクトに取り組んでくれる同志を求めている。誤解を恐れずに言えば、それ以外の人とは絡みたくない。また、私は粘着質な面もあるが、実はあきらめが早い。実は、他者を3回以上、口説いたことがほとんどない。(営業マンやストーカーではあるまいし、当たり前か・・・笑。私は充分にしつこい性質かもしれない・・・笑。只、例外のひとつに、我が子供達への「勉強(学問)のすすめ」がある。本当はすべての道場生に言いたいが、我慢している・・・うるさがられると思うから・・・)。
なぜなら、人を口説く、そんな面倒くさいことは私の最も嫌いなことのひとつだからだ。また、瞬間的な閃きを共有する感性と、勇気がない人とは心友にはなれないと思っている(だから、時々人に騙される・・・笑)。私の心友は皆、勇気がある人達ばかりだ(私のようなゲテモノを食べる人達だから・・・笑)。ゆえに、新しい武道のアナウンスをし続けるのは、私の趣味ではない。はっきり言おう。苦痛でしかない。しかし、それを愚かだと思いながらも、やり続けているのは、極真空手をもっとレベルの高いものにしたいという思いと、私には、それを実現する能力と可能性があると信じているからである。
とは言うものの、道は茨だらけだ。ゆえに、ひとまず原点に返り、現在のカラテ愛好者(私の道場生を含む)に「カラテ修練の本来の姿とは何か?」という問いかけを行いたい。言い換えれば、空手修練の意義・意味を考え直そうというアプローチを行なうということだ。
そのようなアプローチをしながら、その答えを生み出す手段、仕組みをつくりあげることを、1秒でも速く成し遂げなければならないと私は考えている(宝くじが当たればなあ・・・笑)。
【新しいアプローチ手段~拓真道流・空手武道】
新しいアプローチ手段、それが拓真道流空手武道(TSK)の創出である。そして、その鍵概念のひとつが「護身」なのだ。しかし、新しい武道は「護身」の大看板を掲げはしないだろう。
新しい武道の鍵概念(キーコンセプト)は、「捕り」である。ここでいう「捕り」とは、「自他の損傷を最小限に抑え、相手の戦闘力を奪う」ことだ。
私は、「捕り」という鍵概念(コンセプト)は、日本武術として最高レベルの概念だと思っている。それを超える概念には「相抜け」や「無刀」というような概念もある。しかし、カラテ家として、先ずはより多くの人が、実践、共有できるレベルの修練基盤を確立したい。
正直、身体が持つかは解らないが・・・。これで果てても臨むところだ。むしろ、このまま自分の内側から沸き上っている問いに、誠実に向き合い、それを昇華するのでなければ、今までの人生が無のように思えてくる。
私は今、「制圧」や「護身」という目標を見据えた、空手武道の修練基盤の創出を目指している。しかし、制圧のプロ、武術のプロを養成することを大目標にする訳でないということを断っておく。
あくまで、制圧・護身を目標とすることで、様々な格闘技術に内在する「普遍性」を探求するということが拓真道流空手武道の眼目である。
言い換えれば、「理合(道理)の探求」を通じ、自己の心身、自他の関係性に内在する「普遍性」を感じ取ろうというものだ。
但し、極真空手の伝統技そのものを変えることはしない。なぜなら、そうすれば、現在の弟子達は戸惑い、ついて来られなくなるのは眼に見えているからだ。ゆえに、極真カラテ伝統の修練体系は、なるべくそのままにする。その上で、それらの技を応用し発展させられる、新たな修練システム(OS)を創るということだ。
つまり、極真空手の伝統技をそのまま引き受けられ、かつ他の有益なものを包摂・融合していけるようなシステム(体系と基盤)を創りたいのだ。それが柔軟で開放的な新しいOS(オペレーティング・システム)としての拓真道流・空手武道(修練システム)だ。
拓真道流・空手武道には限定された乱取り修練はあるが、試合修練はない。もし、試合や格闘スポーツを体験したければ、アプリーケーション・ソフトのように、フリースタイルカラテ(武道競技)を個々人が選択、導入すれば良い。
私は、道場生が、OSとしての拓真道流・空手武道を採用してくれれば、極真空手を活かしつつ、様々な格闘技、武術を取り入れていくことができると考えている。
それに伴い、各々のハードディスクの増量のような面がでてくることは必然だ。おそらく、そのような体力や時間の余裕はないと思う者もいるに違いない。しかし、私が考えているOSを導入すれば、これまでの半分以下の労力と時間で様々な格闘技のエッセンスを学ぶことができるようになるはずだ。
また、私の考えでは、あらゆる人にまだまだハードディスクの容量は残されていると考えている。只、空手武道を本当に面白いと感じていないのと、武道の奥深さを知らないだけだ(容量はあっても、他のことに使いたいと思っているだけだと思う)。
補足を加えれば、大山先生の空手は護身技のみであった。その著作の秘伝極真空手、続秘伝極真空手の2冊を見て頂きたい。そこには、頭部打撃、掛け、倒し、関節技、ステッキ術、さらには寝技まで。あらゆる徒手格闘術が網羅されている。
私は、それらの技の修練を実践できる修練体系(OS)を確立することが、我が極真空手道を活かす道だと考えている。
但し、時代の雰囲気は変わっているから、昔のようなアプローチや手段では、敬遠されるに違いない(例えば最強の○○とか・・・)。また、そんな訳の解らない記号に踊らされる人達(お前もそうだと言われるに違いない)と絡むのは、少々きつい・・・。
ゆえに、安全を確保し、5才から90才までが、ワンラインで実践できる手段でなければならない。そしてその核心は、知的好奇心の充足だ。難しく言えば、「個々の心身に内在する知性の開拓と充足」である。
私がワンラインと例えるのは、5才から90才まで基本は統一しつつ、修練の量や強度に緩やかな漸進性を持たせることだ。そして、時間をかければ誰でもすべての修練を無理なく体験できる様にしたいということである。例えば、初心の時は極真空手、極真空手の基礎が身に付いたら、少しづつに「捕り」や「護身技」を習得していく。
また、その修練プロセスにおいて、「護身とは護心である」ということを伝えたい。言い換えれば、稽古に取り組む姿勢、心構え、生活の仕方まで、常の心の状態を整えることが「護身」裏にあるということを感じ取ってもらいたい。また、私の考える護身には、健康管理も含まれる(その点について私は、これまでの生き方を反省、改善しなければならなかもしれない)。
また、自我の非力を知ること。そして、一方的な力の追求ではなく、自他と連関している「真の自己」の力を開拓すること。言い換えれば、自他の関係における、力の動きや働き(眼には見えないが)を感じとり、それを活用するような武道修練システムを確立したい(拓真道流・空手武道の武道理論はこれから纏めたい)。それが人格形成の地盤・基礎となるはずだ。
【護身の極意】
最後のメモ書きになるが、暴力になるべく遭遇しないようにすることが護身の極意だ。つまり、自他の関係性のみならず、自然に内在する暴力の臭いや音、気配などようなものを、感じとる感覚を研ぎ澄ますことが、一番大切である。
また、そのような感覚を、書物からではなく、心身の修練によって育むこと。さらには、人間社会における暴力の抑制に多少なりとも貢献していくことが武道人の本義であると思っている。
私は、そのような武道を、一人でも多くの人に伝ええていきたい。
2014-9-9誤字等、一部修正
合抜け→相抜け
2014-9-10 一部修正
他
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ほんとうのものが見えてくるのは〜「踏み足」
【ほんとうのものが見えてくるのは】~メモ書き1「踏み足」
明日は、兼ねてから具合の悪い部分の検査がある。検査の結果がどうあれ、新しい出発にしたい。そして、お祝いをしたい。
また、2週間前に動かなくなった左脚の具合が今ひとつだ。
なんとか歩ける様になってきてはいる。しかし、蹴りはできない。
稽古指導ではイスに腰掛け、指導している。ゆえに稽古指導の調子が出ない。また自分で手本を示せないと手間がかかる。
私は、手術をしたくないと、アイシングをしながら様子を見ていたが、このままだと手術をした方が良いかもしれない。この判断は、もう少し待ちたい。
私は、先日の全米オープンテニスで錦織選手のみならず、車いすテニスの国枝選手に勇気づけられていた。脚が悪いからかもしれない。ゆえに私も、足が動かなくても、やれることはあると、色々やっている。ステッキ術、杖術、半棒術の研究は、そのひとつだ。
半棒の使い方研究のお陰で、で50肩がほぼ直って来ている(笑)。
【どの様に歩けば、膝に負担をかけないか】
また、本日は歩き方を考えていた。「どの様に歩けば、膝に負担をかけないか」と。そして、ある直観を得た。この直観はこれから突き詰めたいと思っている。
その直観をメモ書き程度に記録しておきたい。
「より膝に負担をかけない踏み方が、運足には大切ではないか」
「前に進むだけではなく、方向転換をする時には、特に踏み足(脚の踏み方)が大切だということ」
「伝統カラテの前屈立ちの歩法、特に転身の仕方・運足法は、間違っているのではないか」等等。
以上の直観は、私の武道理論の参考となっている、スキーの操作理論とも繋がる。また、陸上の2軸走法の理論も参考に考究したい(但し、陸上は転身がないが・・・)。
「踏み足」・・・。この概念は私の武道理論書に必要かもしれない。
しかしながら、武道理論の本の企画を出して、早くも1年近くが経とうとしている。出版社の人には、あきれられているかもしれない。言い訳がましいが、本当に忙しかった(時間がとれなかった)。ゆえに、身体が本当にぼろぼろになってしまった(もっと早く手を打つべきだったかもしれない)。
このままいけば、益々、回りに迷惑をかけることになるかもない。おそらく、道場生は、私の武道理論等求めてはいないだろう。だが、高いレベルの空手道を確立し、レベルの高い武道人を育成することが、私の悲願である。
そんな苦悩の中、ようやく閃きを得た。執筆の時間も捻出できる予定だ。私は、この兵法も持って、我が道場生が将来、胸を張って、増田から空手を習った言ってもらえる様にしたい。
【私の武道理論・兵法の大枠の概念】
ここでメモ書き程度だが、私の武道理論・兵法の大枠の概念を書き記したい。
それは4つの領域に分かれている。その一つ目は「位置取り①」。その2つ目は「転じ②」。3つ目は、体重利用③」。さらに、その中心的な概念として「心法④」がある。
①から③は、技術のみならず、勝つための戦い方の原理原則である。そして、④は、技術を創出する主体の意識レベルを指すものとして、原理原則の中心に位置づけている。また、表向きの修練テーマは、「自他の損傷を最小に、相手戦闘力を奪うこと」であが、修練の眼目は、先述の原理原則を体得すること。それが「捕り技」の修練システムである。
実は、道場生の理解を得たいがゆえに「転じ」の部分は、「崩し」としようと考えていたが、やはり「転じ」の方が深い理合を表現し易い気がする。
また、今日閃いた、「踏み足」の重要性も、転じの概念の中に包含できる。つまり、「転身」を掘り下げる際、「転じ」の概念があると、踏み足の重要性が説明し易いかもしれない(この部分は再考しよう)。
因に①~④の概念は、互いに連関している。それと同時に、それぞれの概念の中にも、「位置取り」「転じ」体重利用」「心法」と相似するような法則性が見られると推測している。言い換えれば、原理原則の原理原則のような法則性がある様に思うのだ。「増田の言っていることは、何がなんだか解らん」と思われるに違いない。
これはメモ書きなので許して欲しい。同時に、この私の直観に共感、或いは明確に否定してくれる同志を求めているからこそ、メモ書き公開している。
おそらく、これから剣の理合いを研究すれば、その答えが得られるような気がしている。私は剣術に関しては無知であるが、松濤館の久保田紹山先生の家族の方に(久保田先生)沢山の剣術の資料をいただいた(勿論、私の書棚にも剣術の本はある)。久保田紹山先生との縁は、とても貴重だと思うので、久保田先生の足跡を追う様に、これから剣術の研究を急ぎたい。
先日、我が愛する道場生の一人、武芸十八般の福岡氏に剣の振り方の手ほどきを受けた(実は数年前から剣術の修練を勧められていたが、時間が捻出できなかった)。
それ以降、棒や剣を振り続けている。そして、段々と振り方の要領がわかってきた。
正しい振り方を意識すると、心身が引き締まる感じがする。
最後に、ほんとうのものが見えてくるのは、あって当然と思っていた「もの」がなくなる危機を感じ、それを乗り越えようとする時のような気がしている。
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編集後記
昨日、うれしいことがあった。検査の結果、深刻な問題は無しとのことだ。
今後は、人になんと思われようとも無理をしない様にしたい。いつも身近にいる秋吉には、心配をかけたと、すまなく思っている。しかし、家族は全く心配していない(笑)。私が脚を毎日冷やし、ひきずってっているのを気にもかけていない様子だった。
心配事が一つなくなり、良かったが、膝の具合は今ひとつだ。痛みと腫れがある。2週間以上動かさないことで、機能が落ちてきている。せっかちな性格なので、連休の間に、試験的に動かしてみたい(実験的に)。過去、腰が悪くなり、2ヶ月程、運動ができないことがあった。その時も回復期に、腰にチューブを巻いたり、さらしを巻いたりして、動かすことにより、回復が促進された。その方法が良いかどうかは解らないが、同様にやってみる。おそらく、かなり血行が悪くなているので、それを良くするために運動する。
さて、製作が遅れていた道場の会報の仕事が終わった。後は印刷を待つだけだ。
しかし、製作が遅れたので、表紙の画像と編集後記とを事前に掲載したい。
中身は、道場生の声が中心になっており、道場生の方々には、楽しみにしていただきたい。
また、次号の準備に取りかかりたい。
編集後記
先日、護身技講習と銘打った講習会を実施した。黒帯の反応は、まずまずだったようだ。今後、武道の核心でもある「護身」について指導できるインストラクター(指導員)を有段者の中から育成していきたい。
さて、護身の意味を、武をもって他者を威圧(いあつ)することと理解するならば、私が求める武道には到達しないであろう。
私が求める武道とは、「自他の損傷(そんしょう)を最小に止め、相手戦闘力を奪う力の養成」だからである。その具体的手段、キーワードは「捕り(とり)」である。
「捕り」を実現するには、自他の動きを注視(ちゅうし)する心構えが肝要(かんよう)である。また、不断に自己に対峙(たいじ)し、自己の変化を我がものとしなければならない(それが自分に負けないということである)。
さらに、「愛」と言うキーワードを加えたい。私は陳腐(ちんぷ)だとの謗り(そしり)を免れなくとも、武道の中心には愛がなければならないと唱えたい。(増田 章)
身体を考える〜50才からの空手武道
膝の具合は、もう少しかかりそうだ。明日、大きな病院で再度、MRI検査をする。
余り動けないのと、少し時間に余裕ができたので、修練テキストの製作を勧めると同時に、1年間、放置していた執筆の仕事にも取りかかっている。
本日は、1年前に書いた原稿(序文)に手直しを入れたものを掲載する。しかし、意味がわからないと、家族に「駄目だし」を食らった(10時間以上PCとにらめっこしていたんだけどなあ・・・、才能がない?・・・とほほ)。
簡単に骨子を説明しただけだったが、私のレトリックがピンとこないとのことだった。
ゆえにボツ原稿である。しかし、仲間から意見をいただきたいがゆえに掲載する。
方向性は理解して欲しい。それでは・・・。
序文
【身体を考える~50才からの武道を志して】
「五十にして四十九年の非を知る」
「六十にして六十化す」(遽伯玉/きょはくぎょく/淮南子より)
冒頭に挙げた言葉は、中国古典の思想書である淮南子の中に残された、遽伯玉(きょはくぎょく)の言葉です。
私は、その一つ目のフレーズを、これまでの人生を消極的に反省する句ではないと思っています。おそらく、これからの人生を積極的に変えていこうと言う決意の表れの句であると受け取ります。
なぜならその後、「六十にして六十化す」という句を、遽伯玉は残しているからです。
その意味は、六十才になっても、六十回変化するかのごとく、絶えず自己変革を行うということだと思います。そのような考えの萌芽を、前の言葉「五十にして四十九年の非を知る」から見て取れます。
遽伯玉という人は、自分のこれまでの生き方を積極的に否定し、さらに自己変革していくという意識、生き方をした人なのでしょう。
私は、そのような生き方こそが、老いを楽しみ、人生を楽しむ生き方のコツではないかと思っています。
私が本書で伝えたい事は、すべての人の人生の基盤である、自分の身体を捉え直し、大切に扱い、そこから新しい自分を発見、創造していこうということです。
【身体の役割を捉え直そう】
私は今、人生とは自分が監督、主演する映画製作のようなものだと考えています。
その映画製作では、「自分の身体」は、演技者(表現者)としての自分の基盤としてのみならず、カメラ&メディアの役割も担います。また、身体の一部である脳は、脚本(シナリオ)を作成したり、映像の編集等の役割を担います。つまり、人生とは、監督、脚本家、演技者、カメラ&メディア、カメラマン、編集等、多くの役割を自分の身体が担い、製作される映画のように思うのです。
異論は必至、理解不能との声が上がるでしょう。しかし、そんな風に人生を捉えてみたいと思っています。
補足を加えれば、自分以外の演技者(他者)や背景としての被写体は、自分の身体を通じて認識されるものだと思います。つまり身体には、他者との関係性を認識する装置としての役割もあるのだと思います。だからこそ、身体の機能を大切に磨き、活用することが重要だと思うのです。また、脳による編集を楽しむということが、自分という存在とその人生を楽しむことではないでしょうか。
ここで例える映画製作(人生)のための映像(素材)は、自分の身体を基盤とした体験により得られます。また、その体験とは、他の演技者(他の表現者)との関わり合いを素にするのみならず、ときは自然現象を素にすることもあるでしょう。また、映像を撮る際、映像の切り取り方や光の捉え方が重要です。
但し、映像の切り取り方や光の捉え方には、センスが必要です。そのセンスとは、普遍性を観る力とその活用力と言っても良いと、私は考えています。
さて、これまで長々と稚拙な例えを展開してきたのには理由があります。それは、人生と身体をそのように例えるならば、自分という存在や人生の捉え方が、大きく変わると思うからです。
また、自分の身体には、カメラ&メディアの役割、編集の機能があると、捉え直すことで、誰もが感動的で多様な人生を編集・創出していけると思うからです。
私は、空手武道を身体を捉え直すきっかけ、感動的で多様な人生の創出に役立たせるものとして、生まれ変わらせたいと考えています。
そのために繰り返しますが、先ずは身体の役割の一つを、映画製作における、カメラ&メディアに例え、「身体の役割を捉え直そう」と、私は言いたいのです。また、撮影と映像編集、そして脚本づくりに必要な「哲学を求めよ」と付け加えたいと思います。
武術は、身体が有するカメラ&メディアとしての機能を捉え直す上で最適です。それは、武術は自他(人間)の身体の機能、関係性を掘り下げ、その相互作用を体験できるからです。また、それを深く掘り下げて往くあり方が武道だと思います。しかしながら、「競技に勝つ」というような目的を追い求め過ぎれば、そのような面を多くの人に伝えることはできない様に思います。また、武道としての方向性を見失うことにもなりかねません。なぜなら、勝ち負け(勝負)や競技(名誉)という価値観のバイアス(偏見にとらわれた状態)がかかり、身体と脳の働きの最も素晴らしい部分・機能を見落すからです。ゆえに、新たな空手武道のあり方としては、競技や試合は、あくまで手段の一つとします。ゆえに武道スポーツと空手武道は、源を同じとしながらも分けて整理します。
【50才からの空手武道のあり方】
私が考える、50才からの空手武道のあり方は、型稽古を重視します。但し、皮相的な形を憶えたり、それを良く見せたりするような稽古ではありません。絶えず、相対型(組手型)の稽古を反復し、技術の理合を考え、その応用を意識します。そのような手段・方法によって、身体の有する可能性を拡げるのです。そのプロセスにより、カメラ&メディアとしての身体の機能が向上します。例えるならば、レンズが明るくなり、画素数が増加します。また、シナリオ作成や編集機能の足かせとなるバイアスを除去します。そして新たな映像やアイディアが生み出される基盤をつくります。そして、新しい情報(映像)の発見・獲得と再編集が人生の喜びに繋がるのです。
【普遍性の探求と道理の探求】
最後になりますが、50才からの空手武道のテーマを一言で申し上げれば、「普遍性の探求」と 「道理の探求」です。但し、普遍性と道理は、若干、意味を異にします。あえて言うならば、普遍性は科学的、道理は倫理的な面が強い概念です。
また、私は武術の眼目である「真剣勝負」「勝負」という概念を踏まえながらも、それらを超越する概念を探求したいと考えています。なぜなら、勝負といった物事も一つの概念にしか過ぎず、そこに囚われれば、真に創造的な想像力を働かせることができないと考えているからです。
そして今、あらたな空手武道の目標を、「人間としてより善く生きる」ということと見据えています。換言すれば、一人ひとりの人生のより善い瞬間を、人間が有する素晴らしい「身体」によって掴むこと。同時にその編集を楽しんでいくということです。
本書は、そのような手段としての空手武道の修練体系の大枠と一部を示すものです。まだまだ道半ばですが、是非共、最後までお付き合い下さるようお願いいたします。
著者
永劫の鳥
永劫の鳥~極真空手と大山倍達先生の志を思いながら・・・
【草壁熖太先生のこと】
極真空手の黎明期、地に臥した龍のような大山倍達先生を、空高く舞い上がらせた、雲のような存在の一人、草壁熖太先生のことを思っている。草壁先生は詩人である。現在は五行歌の会を主宰され、その普及と後継者育成のため、全国のみならず、世界中を奔走されている。草壁先生は東京大学の哲学科を卒業され、新聞社に一時期務められていたそうだ。その後、出版社に入り、大山先生の本を手がけることになった。その書籍の中には、極真空手のバイブルと言っても過言ではないものがある(今、その本の存在すら知らない道場生が90%以上を占めているのが極真会の現状だと思う)。
その草壁先生の若き日には、少なからぬ苦悩と苦難があったようだ。だからこそ、その思想には人と社会の本質を捉えるものがあるのだと私は考えている。
草壁先生に初めてお会いした時、「草壁先生が代筆された大山先生の著書と出会わなければ、極真空手をやっていなかったと思う」と、私は伝えた。
私は漫画や映画を素晴らしい文化だと考えているが、書物には、漫画や映画に勝るとも劣らない力があると思っている。おそらく大山先生に思想的な著書がなければ、少なくとも私は、極真空手を始めなかっただろう。
大山先生の評価は様々だと思う。勿論、私は師の批判をする立場ではない。だが、その至らなかった部分、時間が足りないがゆえの未完成な部分をも絶賛する程、脳天気な人間、立場でもない。
おそらく、大山先生の描いた極真空手発展のシナリオ(思い)は、単なる勝ち負けや優劣を比較する手段に空手道を止めるようなものではなかったはずだ。また、単なるビジネスでもなかったと信じたい。
【「弱きを助け傲慢なものを挫く」~大山先生の描いたシナリオ】
私は、大山先生の描いたシナリオは、空手武道を日本のみならず世界の人達の人間教育に役立たせることだと信じたい。また、極真空手を世界の至る地域で「弱きを助け傲慢なものを挫く」、そんな人間を育むための手段として発展させたかったのだと思っている。
また、そのシナリオの中の空手家には、3つのゴールがあると考える(きれいごと過ぎる目標だが・・・)。一つ目は、「善き家庭人」2つ目は「善き社会人」である。さらに3つ目は、「社会の善きリーダー、政治家」である。政治家といういうと、異論や批判がでるとは思うが、社会のリーダー、社会の変革者と考えて欲しい(勿論、バカと煙は高いところを好む・・・と言うような類いの政治家は論外だ)。
ここで少し話しが脱線するが、大山先生は政治家に興味があったのではないかと、私は考えている。しかし本人も自覚していたのではないかと思うが、大山先生は政治家タイプではない。ゆえに大山先生は宮本武蔵に憧れたのだ。しかしながら、宮本武蔵がそうであったように、本当は政治家(武蔵の生きた時代は将軍だと思う)になりたかったのだと思う(一度、参議院に勧められたが、誰かの助言で断ったようだ)。また補足を加えれば、社会人の中には、カラテの先生も含め、教育者や公務員、学者等、社会で仕事をする、あらゆる者を含んでいる。
【極真空手家の目標】
話しを戻せば、その晩年、大山先生が自身で言われていたように、極真空手家の目標とは、他を益する善き人間なのだ。
さて、極真空手はそんな空手に近づいたのだろうか?
一面的に見れば、組織の分裂により、カラテ家の数は増えた。しかし、空手道やカラテ家の質は、その数に見合うだけの質を兼ね備えているだろうか?
人に問う前に、自分にその問いを向けてみれば、あまりの恥ずかしさに、頭を覆い、逃げ出したくなる(自虐的だが、おそらく尻は隠れないだろう・・・実に間抜けな姿だ・・・)。
【現実はうつろい易く儚いものだからこそ】
私は最近、人生も終わりに近づいていると、いつも考えている。また、随分と好き勝手に生きてこれて、親や友人、社会や天に感謝しなければと思っている。だからこそ、こんな状態、生き方では死ねないとも思っている。勿論、後どのくらいの時間が自分に残されているかを知らない。しかし、1ヶ月あれば、いや1週間あれば、否、1日あれば、最高の生き方ができる可能性があるはずだ。
他方、元気で過ごせる300年程の時間が、人間に与えられていれば、かなりのことができると思うことがある。その真意は、理想の実現とは、それほど困難なもの、かつ時間がかかるということである。また一方では、長い年月をかけて形成された事物も、些細なことから瓦解するようにも見える。つまり、事物とは、長い時間かけて形成されながら、同時に破壊の時限爆弾が作動しているようなものではないだろうか(ゆえに、絶えずつくり直すことが必要だと思うのだが・・・)。
また、現実はうつろい易く儚いものだからこそ、人間はその思いを深くするのかもしれない。さらに、例え短い一生でも、人間の普遍性に気づき、それを活かすならば、人間として高い境地に立てるのではないかと思う。私の好きな黒沢明作品・映画のひとつ、「生きる」の主人公のように・・・。
【私は今】
私は今、渾身の力を振り絞る準備を始めている。その「思い」を、草壁先生に敬愛の念を込め、五行歌として記しておきたい(形式は五行連歌という私が勝手に創作した五行歌の形式である。それは五行歌ではないと、草壁先生に叱られるかもしれない・・・)。
~TSマークは、理想の空手道と想像上の鳥、そして拓真道のTSの3つを掛け合わせてイメージしている。再び、空手に高い理想を持って・・・。
【永劫の鳥】
その鳥は
古今東西の時空を
飛び越え
叡智を
運んでいく
その鳥は
人と人との心間を
行き交い
良心を
結んでいく
私は
カラテ武道が
叡智を運ぶ鳥に
なることを
望みたい
私は
カラテ武道が
良心を結ぶ鳥に
なることを
夢見たい
私は
人間には
良心(良知良能)という普遍性が
あることを
信じている
2014-10-13一部加筆
2014-10-13さらに加筆
2014-10-13再再加筆
●イメージ図
写真と五行歌に記した鳥とは、想像上の鳥であり、理想の空手武道の比喩です。写真はイメージ。
護身とは何か?
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護身とは何か?その2〜補足
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