「論語」に帰ろう
「論語に帰ろう」このタイトルは、著述家の守屋淳氏が2009年に上梓した書籍(新書)のタイトルである。
守屋氏と私は勉強会仲間である。中国古典のみならず、古今東西の兵法(戦略論)等を勉強する会で、守屋氏は、先生格である。「格」とつけたのは、口ごもった感じだが、それには理由がある。
会において守屋氏は、「先生と呼ばないでください、勉強会はみんなの意見を聞きたいので・・・」と謙虚な姿勢を貫いている(本当は私の中国古典の先生である)。
それが、論語の教えからきていることに、改めて気付いた。
私が『「論語」に帰ろう』というタイトルで書いているのには理由がある。
一言で言えば、私の道場、また空手修練の「ど真ん中」に、今後は、人間形成・人格形成の柱を据えようと考えているからである。
「これまで、そうではなかったの?」と思われる方もいると思う。なぜなら、私の道場の盟友である岡山・アスリナ(アスリート改め)道場の中川幸光師範は、2年前ぐらいから「徳育」を掲げ、論語の素読を中心とした、人格形成・人間形成の塾活動を行なっているからだ。
私は中川氏の考えを認めながらも、どうも形式ばった、人格形成や道徳教育を掲げることに、アレルギー反応があった。また、私の脳裏に「論語よみの論語知らず」という言葉が浮かんでいた。
しかしながら、ここ数年、様々なことを体験し考え直すことがあった。その中で、やはり私の仕事は、「カラテや道場を通じ、少しでも道場生の役に立つこと」だと再認識している。同時に、「これまで世話になった、先祖や社会に恩返しをすること」だと考えている。さらに、それが「自分を活かすこと」だと考えている。その底流には、「修身斉家治国平天下」(大学)という考えがある。
その辺りを、守屋氏は孔子の教えの根本を仁とし、「仁は愛の思想」と定義している。また、「修身治国平天下」を「身が修まると家庭がととのう」「家庭がととのうと国が治まる」「国が治まると天下が平和になる」と意訳している。さらに、それは愛(仁)を拡張する順番として、「自分→家族→国→天下」と細かく規定されているものだと解説を加えている。
守屋氏は、その辺りを「愛を押し拡げていく」という意味合いで孔子の教えを捉えているようだ。また、孔子の教えには、時間的な観点が含まれ、自分たちの世代のみならず、子々孫々の世代への観点が含まれているとする。
私もそう思う。確かに、我が国の多くの思想家に、そのような観点があると私は考える。私の知る限りではあるが・・・。
また 守屋氏は、宗教の意義を肯定しながら、孔子の教えと宗教を分ける部分として、あくまでも孔子の教えは、より良く生きるための実践に重きをおいたものだと喝破していた。
実は、私が「論語」を手にしたのは、中学生の頃だ。私の書棚には、昭和50年8月15日初版の講談社文庫の「論語(木村英一訳)」がある。
論語購入の経緯は僅かながら憶えている。自信はないが・・・。
おそらく、国語の授業で論語が取り上げられ、それに感銘を受けたからであろう。また、大山倍達先生の著書に、論語の引用があったからである。
中学生の頃、国語の授業で知った「論語」は、「師曰く、古きを温めて新しきを知らば、以て師たる可し(温故知新)」だと思う。さもなくば、「師曰く、吾十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って、矩をこえず」だったように記憶する(定かではない)。
私が10代の頃に好きだった言葉は、「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」である。これもまた、定かではないが、大山倍達先生の著書に引用されていたと記憶する。
当時中学生の私は、「自分自身が本当に納得できる生き方ができれば、今すぐ死んでも構わない」と考えていたからである。裏を返せば、それほど悩んでいた。
そのストレスを解放させるために、いつも夢を描き、その実現に向けて努力した。その一つが極真空手である。勉強の時間もすべて空手に費やした(笑)。正直言えば、「時間配分を失敗した」と、後悔している(戦略の失敗である)。
それから、40年近くの歳月が流れたが、1勝99敗の戦歴、100戦錬磨(笑い)の増田が、孔子の境涯、教えに再び、支えられている。
補足を加えれば、現実の孔子は、どうも成功者ではなかったらしい。もちろん、名誉や経済力等の価値観で計れば、の話である。しかし、賢明な方なら気付くと思うが、そのような価値観だけが成功ではない。
私は今、本当に兄弟のような付き合いの中川幸光氏と守屋淳氏という盟友を得て、孔子の教えの影響にあらためて気付かされている。
おそらく、我々日本人には、孔子の教えがミーム化(文化的遺伝子)しているかもしれない(人の言葉を借りるのは好きではないが、ミームという言葉を借りた)。
また、孔子の教えの影響が未だに続いているように感じる。
それは、守屋氏との出会いを通じ、書棚にある数十冊以上の論語や四書五経に関する著作を再読し、感じたことだ。
補足すれば、儒学は武士道にも影響を与えている。ブログでは、これ以上書くことはしないが、主に近世(?~学会の定義は知らない)の武士道の底流には、儒学の影響が色濃く見える。
例えば、日本の古典兵法書の「常静子剣談」には、「孔子は剣術の達人」という章がある。
儒教・儒学については、様々な考えがあるとは思うが、今日の我が国の繁栄を築き上げた基盤には、江戸時代の人々の教育への情熱があると思う。周知のことだが、江戸時代、日本の至る所で、寺子屋や藩校等による青少年への道徳教育が行なわれていた(寺子屋は読み書き、算盤を教えたと聞くが、その中にも道徳教育の役割はあったと推測する)。
勿論、その江戸時代の社会制度にも短所はある。しかし、今なお続く日本人の良さ、強みは、孔子の教えを深く理解し、実践してきた歴史にあるのではないかと、私は考えている。
今後は、盟友の中川氏と共に、「論語と武道」というコンセプトで頑張ってみたいと思う。また、そのようなタイトルで書籍をまとめたいと考えている。「論語読みの論語知らず」の誹りを受ける覚悟で・・・。
さらに、私を可愛がってくれた祖父母、父母、師の恩に報い、将来世代(子孫の世代)に良いものを残すためにも、「仁」を中心に据えて、「論語に帰ろう」と考えている 。
〈補足〉
我々日本人は、江戸時代以降、そのような儒学の影響、孔子の教えの影響を色濃く受けているのは周知のところであろう。
私の考えでは、日本の教育の良い所は、それが官吏、武士等の権力層のみならず、商人や職人、農民まで、あらゆる層に共通の価値観が浸透していたことだ。それが我が国で道徳と認識されているものではないだろうか(それが段々と変質しつつある)。
もう一冊紹介したい書籍に、我が国の近代の経済界を牽引した、渋沢栄一氏の「論語と算盤」をお勧めしたい。私は、守屋氏の著作と一緒に一気に読んだ。
渋沢栄一翁は、拝金主義に傾きがちな財界人に対し、「道徳・徳育」の重要性を説いた。
守屋氏の著書にも、渋沢栄一翁の話が紹介されている。
兎に角、守屋氏の書籍の特徴は、学術的なことを平易に、かつ親しみ易く、書いていることだ。
新書、『「論語」に帰ろう』をお勧めしたい。
蛇足ながら、現在私は、武道理論書と武道哲学に関する著作を考えている。しかし、その執筆がはかどらない。本日は、執筆のための資料読み込みをした際、どうしても書き留めたかったので書いた。伝えたいことの中心は、祖先や国、先人への報恩を念頭におかなければということ。また、友人への感謝(中川幸光氏、守屋氏、その他多くの友人達)だ。さらには、将来世代への貢献を目標としていくということである。
これまで、失敗だらけの人生だが、おかげで様々な気づきを得ることができたと考えている。その経験を生かし、最期が来る前に、何としてでも山に籠り、武道哲学をしたためたい。
(朝、急いで書いたので、誤字等が多く見つかりました。ゆえに若干の修正をいたしました。8日の夕方)
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「論語」に帰ろう
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「護身」「健康」「徳育」「スポーツ」
製作中の修練の手引きの2014年版・稽古カリキュラムのページの草稿です。
黒帯、指導員の皆さん、確認しておいて下さい。
次回の指導者講習で詳しく説明をいたします。
増田 章
稽古カリキュラムについて
~ココロとカラダを強くするカラテ~
「健康」「護身」「徳育」「スポーツ」
IBMA極真会館増田道場は「健康」「護身」「徳育」「スポーツ」等のキーワードを基に稽古体系が組まれています。
稽古の効果と目標は以下の通りです。
《健康》
▶空手の伝統技の稽古は、全身をバランス良く動かし、健康のために役立ちます。
▶また、キックミットを使った組手技の稽古は、適度な運動量で、筋力や心肺機能を程よく鍛えます。
※稽古は、いきなりハードなことは行ないません。体力のない方も充分に行なえる程度から始まります。
《護身》
▶さらに増田道場独自の組手型の稽古は、護身のための技が含まれており、いざという時の心構えの養成に効果があると思います。
※組手型や伝統型等の難しい稽古は、基本をある程度習得した道場生を対象とするものです。尚、それらの稽古は主に、定期的に実施する、講習会や特別稽古の中で行ないます。
▶空手の稽古は難しいものもあります。しかしながら、増田道場の稽古法は、独自の組手技・修練法を通じ、安全に組手稽古(相手と技を出し合う稽古)を行なえるように考えております。
※他者と相対して行なう組手稽古は、自分の心身、技のレベルを知る、良い手段であり、ある種、他者とのコミュニケーションでもあります。
※尚、本道場では、組手稽古を真剣に行なうのみならず、楽しみながら行ないます。
《徳育》
▶また本道場は、武士道にも包含される、「仁・義・礼・智・信」などの日本古来の徳目を継承したいと考えています。ゆえに本道場は、武技(空手技)を磨くのみならず、仲間と共に人格を磨き、人間性を高める場です。
▶我々は、空手道の修練を、自己の可能性を拓き、心を磨き高めるのみならず、他者と共に、より良い社会を創る一助としたいと考えています。
《スポーツ》
▶さらに我々はNPO法人国際武道人育英会(IBMA)を通じ、「フリースタイルカラテ」という新しい武道スポーツの普及を行なっています。
このフリースタイルカラテとは、危険を伴う格闘技を、安全を担保し、公平なルールを創出することで、「世界中の誰もが楽しめる武道スポーツを、みんなで創る」ということを目標としています。
それでは、厳しい稽古もあるかもしれませんが、共に空手武道を楽しんでいきましょう!
《稽古の流れ》
◎一般稽古は以下のような流れで行なわれます。
準備体操
↓
基本稽古
(伝統基本/組手技基本/基本移動)
↓
打ち込み稽古
↓
組手稽古
↓
型稽古
↓
鍛錬稽古
(少しだけ)
整理運動
●稽古参加の仕方について(道場作法)
稽古時間には、原則、遅刻しないで参加して下さい。
※講習会や特別稽古へは、遅刻参加はできません。
但し、一般稽古(通常の稽古)は、事情があれば、途中参加も構いません。
その場合、
①先ず更衣室で道着に着替え、道場に入り、指導員に見える位置で正面を背にして正座してください。
②1分ぐらいして、指導員からの「入って下さい」等の呼びかけがあってから参加して下さい。
③その際、「押忍、失礼します」と言ってから、稽古に合流して下さい。
※その他の詳細は、道場生の心得の章をご覧下さい。
2014/6/9修正しました。
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IBMA会員の皆様へ〜行動指針の一部修正
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IBMA会員の皆様へ
我々の理念にあわせ、その実践に必要だと思われる行動指針を一部修正しました。
私達を→我々に
その6と7の見出しを修正。
その他、一部の文言を削除しました。
内容は全く変わりません。表記の修正です。
是非、再度、ご覧下さい。
追伸
脱字が見つかり、修正しました。6/10/16:00
■武道人の行動指針
その1)自分自身を磨くようにします
自分自身とは《良心》のことです。武道人は心を深く見つめ、良心の自覚とその働きをより高めるようにします。我々は人間には良心(良知良能)があることを信じます。
その2) 人と人、物事と物事、人と物事など、全てを活かすようにします。
我々の生きる世界はあらゆるものが相互に補い合い、また、互いに依存し合っています。我々は、そのことを理解し、それを活かすことを考えます。
その3)自分の事と他者の事、両方を理解するようにします
物事を一つの面からしか見なければ、正しい判断は困難になるでしょう。なぜなら、一つの面からの情報に囚われ判断したことは、多くが臆見です。もし、より善い判断をしようと思うならば、物事を多面的に見るようにしてみましよう。更に物事の時間的変化を予測し、眺める視点をもつと良いでしょう。
その4)自分のみならず他者に役立つようにします
自分だけが良くなろうとすることは、物事を一つの面からしか見ていない証拠です。ゆえに相手も良くなるように考えることで、より正しい判断と行動ができるようになるでしょう。
その5)絶えず考え方を吟味し、最も善いと思われることを選ぶようにします
人生の結果とは、災難、困難と思える状況のみならず、良いと思われる状況も含め、それをどのように判断し考えるか、また、その考え方を基盤とする行動の選択によるものだと考えます。ゆえに些細な事の判断・選択もゆるがせにせず、絶えず自分の考え方を反省し、より善い判断と選択ができるようにしましょう。
その6)目標を持ち続けます
我々は人生において、意識的、無意識的に関らず、絶えず自分のあるべき姿をイメージしているはずです。つまり、自分のあるべき姿、イメージを目標とし、段階的に実現していくことが、すなわち人間的成長だと思います。また人間は、目標を持ち続ける限り成長し続けるものです。ゆえに、我々は目標を持ち続けます。
その7)自分から(能動的に)行動します
自分の人生が自分の判断と選択の結果だとするならば、自分の行動に責任を持たなければなりません。しかし、責任を持つことを恐れ、自分で判断と選択をしない癖がつけば、他者に振り回される人生を送ることとなるでしょう。ゆえに我々は、自分自身、すなわち良心からの指示に従(したが)い、自分から(能動的に)行動する勇気をもちます。
稽古とは(メモ書きで御免)
稽古とは(メモ書きで御免)
本日、私の道場の指導員講習会がある。ここ数週間、出張等も有り、ブログを各時間が捻出できなかった。今も、講習会の準備中である。
その中で、指導員に伝えたいことをメモ書きしている。その中のひとつを掲載したい。
ある時、私の道場の指導員が初心者に伝統技の意味を聞かれた。
指導員は、それなりに答えたらしい。後日、「○○技の意味を聞かれたので、このように答えました」「それで良かったでしょうか」と尋ねて来た。
私は、「意味を安易に尋ねたり、誰かが唱えた意味(概念)を安直に取り入れるのも、本来の稽古から外れていると思う」と応えた。
また「先ず、自分で考えろ」と応えた。応えた瞬間、ちょっと乱暴な応え方だと反省した。そして補足を加えた。
私は、「稽古とは、技の意味を深く掘り下げることだ」と補足した。ひとつ一つの技を丁寧に反復し、その中から新しい意味を発見する。
その過程で、ひとつの意味が段々とより高次な意味に変化し、より普遍的な意味、より本質的な意味に辿り着く。
そこに到達した処が「一即多、多即一」の境地だと考えている。
誤解を恐れずに、平易に言い換えれば、ひとつの技が応用の効く、汎用性の高い技に変換する。しかしながら、その汎用性の高い技は、初めのひとつの技とは同じように見えて同じではない。そのひとつの技はより高次な技、質の高い技として生まれ変わっている。
更に云えば、その技を体得しそれを応用し、新しい技の意味を創造していくことが稽古なのだ。
あえて付け加えるならば、道場稽古とは、教える側も教えられる側も同時に学び合っているのだ。つまり、指導する側も学び、稽古をする同志なのだ。
ただし、その意識、質が初心者とは異なることが望ましい。
口ごもったが、本道場の指導員は、技の巧拙はともかく、意識においては一般の稽古性より高く持たなければならない。そのように伝えたい。
そして、仲間がより善い方向性に向かうよう尽力、貢献するのが指導員、リーダーである。
私はそのように考えている。
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早めの避難に必要な知識や日頃からの備えなど、命を守るために必要なポイントをご紹介 |
指導員の皆様、お疲れ様でした!
指導員の皆様、お疲れ様でした!
今回の指導員講習会、正直言えば、師範代の秋吉と打ち合わせ不足が否めませんでした。
原因は、私の多忙による、準備不足と体調不良です。
忙しい中、お集まり頂いた指導員の皆様には、本当に申し訳なく思っております。
具体的には、新しい稽古メニューの基本稽古の足技の稽古を忘れました。
基本稽古では、伝統の足技稽古を必ず行ないます。ご免なさい。
稽古メニュー並びに稽古法の詳細については、速やかに会員専用サイトに掲載したいと考えています。さらに映像教本の製作を急ぎます。
今回の講習会の眼目は、道場の方向性を明確にし、それを指導員へ伝達することです。
今後、本道場は定期的に、勉強会としての講習会を実施し、指導員の質の向上に努めます。
これは、本道場の指導員にリーダーになって頂くためです。
また優秀な指導員には、段位を上げていただくためです。さらに、より良い空手道、そして道場を、共に創っていきたいと考えているからです。
ゆえに、今回の講習の理解度を、メールを使い、確認の意味で試験したいと考えています(簡単な小テストです)。
私の道場におけるリーダーとは、道場の方向性に向かって、会員(仲間)を牽引していくの徒のことです。本来、そのようなリーダー=黒帯だと考えています。
少なくとも、我々の道場は、そのような価値観を持っています。
また今後は、そのような価値観を明確にしていきます。
残念だったことは、新しい方向性並び稽古メニューの紹介のみならず、本道場の特色である、護身技の披露、体験をしていただけなかったことです。
一方、良かったことは、懇親会において、指導員の熱い思いを聞けたことです。
繰り返しになりますが、指導員の皆様、お疲れ様でした。また、ありがとうございました。
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これからの時代を生きる子供たちへ〜
ホームページの修正部分をお知らせします。
以下の一文は、私の主宰する空手道場のホームページの修練カリキュラムのページに記載されている一文です。
これからの時代を生きる子供たちへ
日本では、兄弟が多く、また隣近所が助け合って生きていた時代があります。しかし、現代社会では、そのような生活環境は失われつつあります。そして科学技術などの進歩、文明の発展により、「人のことを気にしなくても、個人のことをやればそれで良い」と、私達は考えるようなってきたように思います。しかし、人間社会で生きていくためには、様々な人達と付き合うことが必要です。私は、2011年3月11日の「東北関東大震災」の後、そのようなことを強く感じています。さらに、私達はここで今一度、人間性の根本に立ち返る必要があるのではないかと考えています。
私の考える武道とは、人間探求であり、その目的は人間を真に生かす道です。
ゆえに武道家は、社会において他者との「共生」を意識する必要があると思います。なぜなら、他者に強い影響を与え、他者に貢献する個が、真に強い個だと考えるからです。また「武道とは強い個の確立の手段」に他ならないと考えるからです。
我々は武道を通じ、将来の社会を担う子供達の人間的成長に少しでもお役に立ちたいと考えています。また、そのために武道を高め続けます。
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ワールドカップサッカーに思う〜孫子から学ぶ・・・
『ワールドカップサッカーに思う~孫子から学ぶ・・・』
土曜日、親しくしている友人との会合が2件、入っていた。
昼間、4時間超、夜は3時間超とハードであったが、中身の濃い重要な会合だったので満足している。本当は、もっとゆっくりと話をしていたかった。
でも、気難しい増田章との付き合いは、そのぐらいが限度かもしれない。私はテンションが高く、相手は疲れると思う(笑い)。
友人との話の中で、サッカーの話になった。
私は日本人論と日本のサッカーについて論じた。
「日本代表は頑張った、しかし・・・」
「問題の本質はフイジカルではない」「サッカーの本質を理解していない処にある」「つまり思考法の問題だ」と私は断じた。
さらに以下のように熱弁をふるった。
「サッカーはまぎれもなく格闘技(格闘ゲーム)だ」
「格闘技(格闘ゲーム)の本質とは、自分を殺しにきた相手をKOするか、ギブアップさせることだと思う」
「つまり、如何に相手の戦闘力を奪うかが、格闘技(格闘ゲーム)の本質的目的でしょ!」
「日本人は、そこを理解していない」
「更に云えば、チームワークも理解していないのでは・・・」
さらに「私はオールジャパンを応援するものとして・・・」と前置きし、こう熱弁を振るった。
「日本人、また日本のサッカーには、今まだ可能性がある(今後はわからない)」
「そのためには監督は日本人にして、将来のための布石を打て」と。
そのように述べたのには理由がある。すべてに通じることだが、自分自身(日本人一人ひとり
)が内発的に自己変革をなすのでなければ、本物にはならないと思うからだ。
そういう意味では、外国でプレーする日本人が増えて来ていることは良いことかもしれない・・・。しかしながら、私が理想とする日本人は、決して外国かぶれではないと、あえて言いたい。
実は、同様のことを、私は言い続けてきた。「サッカーと格闘技は共通の本質を持つ」と(もちろん、全く同じではないが・・・)。
噛み砕けば、如何に自分を殺しにくる(ゴールを奪いに来る)相手から自己の戦闘力を奪われずに、相手の戦闘力を奪うかが格闘技なのだ。
さらに、そのような視点で見れば、サッカーが面白くないという武人が存在することには、ため息がでる(もしかすると日本人は戦いが苦手???)。おそらく、日本人は個人戦が得意なのだろう・・・(世間の常識とは反対だが)。
そこで、友人が返す。「戦いは守りが大事だ」「今回の敗因は前回のようにデイフェンダー?が機能(活躍)しなかったところにある」と。
その友人と私の勝負論は共通している。友人の考え方はこうだ。要するに勝負の基本は、「いかに負けない態勢をつくり、それを維持するか」にかかっていると。
私もそのように考える。その上で、いかなる態勢(状況)にも対応し、獲物を捕るという目的を確実に遂行していく。それが戦いなのだ。
要するに、「命を賭けた戦いとは、先ず、絶対に負けない態勢をつくり、その上でリスクを掛けて予測不能とも思える状況に、果敢に挑戦していくもの」でなければならない。補足を加えれば、「挑戦とは、創造性に富んだもの、否、新しいものの創造そのもののこと」である。これが増田の戦略論の眼目である(しかしながら、自身の境涯を見つめれば、気付くために、時間がかかり過ぎたこととダメージを負い過ぎている・・・私は駄目な男である)。
参考~戦いは正をもって合し、奇をもって勝つ(孫子)
話は脱線するが、武道という概念は、日本発祥の概念である。さらに武道とは、武術、格闘技という共通項で繋がっていると見るのが一般的であろう。しかし、剣道を始め、我が空手道も格闘技という面で見ると、致命的な弱点が見える。この辺りはいずれまとめたいが、これまでの私の論を読むことで理解できるだろう。
そもそも日本武道は、共同体(社会)の中でいかに自己を際立たせるかという技芸の一種に変遷したと見る。ゆえに多様化し、それぞれが体系化されたのだろう。だからこそ、社会的な価値があるとも言える。
しかし、私は真に実戦的な格闘技スポーツ及び実戦には、ゲーム性が内在すると考えている。また、そのゲーム性の中に、予測不能な戦いを生き抜く力を湧出させる「キー(カギ)」が隠されていると考えている。
私は日本武道に包摂された倫理性という武道の良点に回帰しながらも、格闘技の本質を取り戻したいと考えた。なぜなら、現在の武道は、武道という皮相的なパッケージや技術という価値を護持することに汲々とし過ぎていると感じたからだ。また、武道により個の力を真に強くするためには、格闘技に内在する、ゲーム性の認識が必要だと考えたからだ。
但し、私はその部分を空手や武道に求めるのをあきらめかけている。なぜなら、私が述べていることを武道愛好者は理解できないからだ。
補足を加えれば、スペクタクル性を重んじるプロフェッショナルスポーツの場合は、若干の考え方の相違があると思う。
例えば、負けないことを重視し過ぎれば、プレーヤーや競技の有するエンターテインメント的価値(ドラマ性)を奪うかもしれない。そのことは、プロフェッショナルスポーツの目的(ゴール)と齟齬をきたす可能性が高い。
その他、プロフェッショナルスポーツと実戦(負けを許されない戦い)には、相違点があるだろう。しかし今回は、これ以上は考えない。
話を戻したい。
ワールドカップサッカーのような、命を賭すような戦い(戦争も含む)、言い換えれば、絶対に負けてはならない戦いの場合、先述のような戦略が必要である。日本人に欠けているのは、戦略性である。私はそのように考えている。
とはいえ、日本と日本人は、世界の中で充分、胸を張れる存在だ。それは、先人のお陰、仲間のお陰だと、私は考えている。だからこそ、今を生きる我々の責務として、絶えず将来に向けた戦略的生き方という観点が必要だと思うのだ。さらに言えば、究極の戦略は、「戦わずして勝つ(孫子)」であろう・・・(理想論だが)。
また、臆見と言われるのを覚悟で記してみる。
私はかねがね、「日本人が考えているチームプレーと、諸外国で言われているそれとは意味が異なる」と考えている。
私は、外国でいうところのチームワークとは、「性格や考え方の異なる個人が、多少の相違があっても目的を合意し、その遂行のため、協力して獲物を捕る、あるいは外敵から自己を守る」ということ。一方、日本人がいうチームワークとは、「性格や考え方の異なる個人が、考え方を同じくして、協調して獲物を捕ろう、あるいは外敵から自己を護ろう」だと考える。
私が重要だと思うポイントは、どちらの思考連係モデルが目的遂行能力が高いかである。状況によってもことなるかもしれないが、基本的には目的遂行のためには考え方に相違があっても良いと考えている。つまり、チームプレーとは本来、考え方の異なる人間が纏まることだと、私は考えている。
同様の相違は、日本における民主主義と外国における民主主義の違いにも同様の傾向を私は見る。
これ以上はブログでは書かない。また、この件については再考しなければならないと考えている。
最後に、本日は私の主宰する空手道場の昇級審査会だった。熱心な道場生と保護者を目の当たりにして、責任感を持たずにはいられない。
なんとかして武道を高めたい・・・。また、武道を通じて、道場生や社会の役に立ちたい・・・。そのための手がかりは、「我が武道の目的を明確にすること」同時に「理念を高め続けること」だと、今考えている。
ここ数年、私はオリンピックゲームを真剣に視野に入れた、新しい武道スポーツの創出プロジェクトに奔走している。そのプロジェクトのゴールは、武道修練により、『「道場生」一人ひとりを輝かせたい』という思いの延長線上にある。
しかし、私のパスが受けられないと言うなら(空手界の仲間達が)、私はピッチをさろう。また、私の歩み方が速いと言われるのなら、一度、歩くのを止めようとも思っている。そして、一度立ち止まり、腰を屈め、皆に語りかけたいと考えている。
「武道とは何か・・・」「空手とは何か」「人間とは・・・」と。その後、再び、旅立とうと考えている。
2014年6月29日深夜
【蛇足】
ブラジルチームの監督は「孫子」を愛読しているらしい。
「ブラジル代表選手にも読むように勧めている」と友人から聞いた。
私は「それは素晴らしい」と応えた。
私達の共通の愛読書も「孫子」だからだ。
調子に乗り、私はサッカーの門外漢だが、ノンアルコールビールの勢いを借り、一サッカーファンとして大胆予測をした(私は、お酒を飲めません。時々無理して飲みます・・・笑い)。
決勝はブラジルとオランダである。
優勝はオランダだろう。ただ、私の好きなチームはアルゼンチンとドイツだ。
勿論、遊びと捉えて欲しい。
本来、勝利の予測等できないというのが私の理論である。
【追伸】
土曜日に話をした友人からメールが届いた。「個人的にはブラジルの優勝を望んでいると」
ワールドカップの主催国、ブラジルは現在、幾多の問題を抱えている。しかし、ブラジルが優勝すれば、すごい感動が沸き上ると想像する(ワールドカップ反対者は別として)。
ゆえに私もブラジルを応援することにしよう!!
残念ながら、ゆっくりサッカー観戦をする時間はないが、ニュースや録画等でサッカー観戦を楽しみたい。
6月30日夜
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どうしたら上手になる?
どうしたら上手になる?
今月から毎週土曜日の午前中、特別稽古を実施する。場所は多摩本部道場だ。
稽古の内容や対象は、月毎に決める予定だ。今月の対象は、上級審査を控えた道場生である。内容は、昇級審査項目にある、伝統型や移動稽古、組手型や打ち込みの補習だ。
初回は15名程の参加者があった。多摩本部道場は環境こそ良いが、東京の郊外である。遠路、朝早く稽古に合流した参加者には、頭が下がると同時に、責任感が湧いてきた。
稽古の始めに、
「道場(我々の)の目標は、皆さんに黒帯になってもらうことです」
「しかし、本道場の黒帯は空手の技が上手いだけでは駄目です」
「本道場の黒帯は、自分のことのみならず、下のものや周りの人の世話ができることが必要です」
「皆さんは自分のことで精一杯だと言われるかもしれませんが、上級者になれば、周りの人に少しでも貢献するんだ、という気持ちを持ってください」
「そのような人が黒帯になる人です」
私は、以上のように、なるべく少年部にも解るよう、道場の方針を伝えた。
脱線するが、話は、5分以上話してはいけない。できれば、3分以内。私が長年の失敗の中で心掛けていることだ。まだまだ、徹底されていないが、少しずつ改善されて来たと思う。本当は言いたいことが山ほどある。伝えたいことが山ほどある。しかし、その気持ちを抑え、要約して話すのだ。私には大変なことだ。実はこのブログは、考えを掘り下げ、長い話を頭の中でまとめる作業の一環だ。
頭の中で考え、それを文字に落とす。さらにその中から、本質的なことを見つけだす。その見つけだした事柄を理論とシステムに落とす。そのような作業が、私の毎日であると言っても過言ではない。現在はそこに、現場での実験作業が加わっている。大変忙しくなってはいるが、この作業を乗り越え、本物に近づいていくと考えている。
話しを戻せば、今回、熱心で真面目な道場生を相手に秋吉(師範代)と共に稽古指導を行なった。誤解を恐れずに言えば、とても充実した時間だった。
みんな、少しずつではあるが、上達した。
稽古の最後、私は、以下のような質問を道場生に投げかけた。
「空手の上手に(本当の)なるには、どういうことが大事ですか?(質問は、空手が上手になるには・・・と問いかけたが、意味は空手の上手である)」
あえて断っておくが、私の道場では、空手の技を人と比較し、上手いと言っているのではない。勿論、人と比較しなければ、学びもないと思う。しかしながら、私が重視しているのは、より自分の技のレベルをあげることである(伝え方がなかなか難しい・・・)。
平たく言えば、「昨日の自分より、今の自分が、より上手になっているか」「それを問え」と言っているのである。そのような目的意識がなければ、人間的成長もあり得ない。
また、本当の上手とは、目標、目的意識を持ち、自己の個性、良点を発揮する者のことである。また、自己を他者との関係性の中で最高に活かす者と言い換えてもよい。
少なくとも、空手修行を、個々の人生に役立つようにするためには、指導者側のみならず、やる側にも、明確な目的意識が必要だと思う。
勿論、多様な考え方があって良いだろう。しかし、世の中のすべての人を相手にできる訳ではない。
我々は、これまで不明瞭だった道場の意義・目的、我々の考える武道の目的を明確にしていくつもりだ。それが、私自身の責任を果たすための手だてだ。増田流ではあるが・・・。
さて、私の質問に対し、数人の少年部が手を挙げ、それぞれ意見を述べた。
「先生の話を聞くことです」(少年部)
「それは大事だね。○○はそれを心掛けてね」(増田)
「他に大事だと思うことはない?」(増田)
「努力することです」(少年部)
「それはとても大事なことです」(増田)
「では、どのように努力する?」(増田)
私が先述のように切り返したとき、一般部の人が手を挙げた。
「反復練習です」(壮年部)
「私も反復練習が大事だと思います」(増田)
「何百回、何千回と反復練習を繰り返すこと」(増田)
「それが、上手くなる秘訣です」(増田)
「しかし、ただ繰り返すだけではなく、上手くなろうとする意識がないと駄目です」(増田)
「皆さん、上手くなろうという気持ちを持って、これからも反復練習をすれば、必ず上手くなると思います」
「頑張ってください」
私は、そう締めくくり、稽古を終了した。
蛇足ながら、私の座右の書、世阿弥の「風姿花伝」から、「上手」についての見識をひとつ紹介したい。
「上手は下手の手本、下手は上手の手本なりと工夫すべし。下手のよき所を取りて、上手の物数に入るる事、無上至極の理なり。人のわろき所を見るだにも、我が手本なり。いわんや、よき所をや。「稽古は強蹴れ、常識はなかれ」とは、これなるべし。
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サッカーと孫子の兵法
サッカーと孫子の兵法
~「凡そ戦いは正をもって合い(合し)、奇をもって勝つ」(孫子)
【ワールドカップサッカーのドイツ対ブラジル戦】
攻守の要、2人の力がよほど卓越していたのだろう。しかし、これほどの結果を招くとは・・・。
ワールドカップサッカーのドイツ対ブラジル戦の私の感想だ。結果は、7対1でドイツの大勝である。
今回、ブラジルは開催国かつ優勝候補ということもあり、この結果がもたらす、落胆は想像を絶する。
私は決勝をオランダ対ブラジルと予想した。
しかしながら、勝負には予測不可能な部分が多々ある。
我が愚息の高校のサッカー部の連中の予想は、「ドイツ対オランダ」だと聞いた。
確かにドイツも優勝候補である。また、ドイツは私の好きなチームである。前回のワールドカップでは、ドイツの優勝ではないかと、予測もした(外れたが・・・)。
しかし、今回はブラジルに頑張って欲しかった。ブラジルには知人もいるし、社会に様々な問題を抱えている。少しでも明るい話題があった方が良いと思っていたからだ。
私がここで書き記したいことは、「戦いの原則」のことである。
勿論、主力選手を欠くというアクシデントによる影響が大きいことは解っている。その上で、戦いの原則論に立脚して、勝負論を展開したい。
ブラジルの監督は「孫子」を愛読するという。また選手にも読ませているらしい。しかし、選手は孫子の真髄を理解していなかったように思う。また、日本の敗因もブラジルと共通点がある。
【凡そ戦いは正をもって合い、奇をもって勝つ(孫子)】
さて、私が考えるブラジルの敗因の一番は、「防御を疎かにしたこと」である。
孫子に「凡そ戦いは正をもって合い(合し)、奇をもって勝つ」という一節がある。
訳としては、「凡そ戦闘は、正攻法で敵を食い止める直接的な力(正)をもって構成し、勝敗は敵の意表を衝く間接的な力(奇)をもって決せねばならない」(戦略論体系/杉之尾宣生)を紹介したい。
しかしながら、この訳は戦争を前提として書かれているので、一般の人には解りにくいと思う。
ゆえに不遜だが、空手家やスポーツ選手用に超訳をしたい。
私の超訳は、「およそ戦いは、基本的な戦闘力を以て相手に対峙し、相手の予想外の戦術を駆使し勝つ」というものである。
これは格闘技的な要素を持つ、スポーツ全般に応用できると思う。
補足すれば、基本的な戦闘力とは、相手を攻撃する力のみならず相手の攻撃を防御する力、その2つである。そして、相手の予想外の戦術とは、自己の基本的な戦闘力を把持(防御)しながら、相手のそれ(基本的な戦闘力)を奪い、時にはそれを崩して弱くすること。その上で、相手の予想外の戦術(技術)を創出して勝つということだ。
つまり、「防御」を基本にしながら、「勝利を創出する」ということである。
孫子は「先ず不敗の態勢をつくれ」と教える。孫子は、その上で、勝利のための決定的要因となるような戦術を創出(創造)するのだと示唆しているように私は思う。又は、勝利は予測不可能であるから、勝利が手中になるよう、態勢を整えよと教えているのかもしれない。
ブラジルは、そのような勝負の原則を忘れたのかもしれない。
今回のブラジルチームが心掛けるべき点は、点を取ることではなく、守りを固め、相手の失策を待つことではなかったか。少なくとも、主力2人を欠く状況ではそのような戦術が最善だと思う。
私が、もうひとつブラジルの敗因に挙げたいことは、ブラジルの「打たれ弱さ」である。
下手な例えだがブラジルは、いつもちやほやされ、口説かれる美人のようなものである。ゆえに、振られることに慣れていなかった。「誰にちやほやされ、誰に振られるの??」と思うであろう。それは誰か?「勝利の神様」である。勝負事には、勝負の神様が存在するのではないかと、感じるような時が多くある。
しかし、私の考えでは、そんなものは存在しない。存在するのは、ゲーム性(偶然性と創発性)と現在の状況(情況を含む)だけだ。ゆえに勝負師は、現在のそれ(状況)に最善を尽くすしかないのだ。
具体的には、ブラジルは1点を先取され、その後、審判がファールを見逃したことに焦った。そして、2点目を入れられたとき、勝負の神様に嫌われていると感じたのではないだろうか。その「こころ」の隙(油断と失望)をドイツに衝かれた。3点目以降は、もう語る必要がないであろう。
最後に、戦いは防御と防御から反撃(デイフェンス&カウンター)が基本だとおもう。勿論、防御だけでは駄目であるのは言うまでもない。
またまた稚拙な例えで恐縮だが、空手でいえば、ハイキックなどの蹴り技がどんなに上手くても、攻撃技だけでは駄目だと言うことである。つまり、ハイキックが上手くも、ハイキックの防御ができなければ、結果は自明である。
また、ミドルキックやローキックなど、蹴り技は多様である。それらの攻撃技の防御ができていなければ、戦闘力を奪われるのは自明である。長丁場のトーナメント戦では、戦闘力が低下する(ダメージにより)。また、下段(ローキック)という地味ではあるが、確実に戦闘力を奪うような攻撃技の防御を想定していなければ、最強のチャンピオン(負けないチャンピオン)にはなれないのだ。また、トーナメント戦のような複数の敵を相手にする時は、戦いにおいてダメージを負わないようにすること。また、ダメージを負っても、それをカバーするような臨機応変(柔軟)な戦い方ができることが必要である。
今回、私はオランダの優勝を予測した。しかし、いわずもがな、勝負は予測できない。もし、ドイツがオランダの強くて速い、デイフェンス&カウンター戦法をしのぎ、体力を消耗させれは、ドイツの勝利もあるだろう。一方、オランダも、自軍のフイジカルの強さを過信せず、守りを固め、その上で、ドイツの戦闘力をじわりじわりと奪えば、勝機は訪れるであろう。
さらに補足すれば、ドイツが今回の戦いで自軍の力を過信し、決勝戦において、「その時々において最善を尽くす」という戦いの原則を忘れるならば、勝利は相手の手中となるに違いない。
【蛇足ながら】
蛇足ながら、私が大好きなのはアルゼンチンのメッシーだ(身体は小さいが、冷静沈着でサッカーが上手い)。勿論、アルゼンチンにも優勝の可能性がある。また私には、サッカーを見たり、ブログを書く時間はないのだが、2時間だけ、兵法の研究に時間を費やした。私は、すべての時間を道場が良くなるように使わなければと思ってはいるが、何卒、私の道楽(兵法研究)をお許しいただきたい。
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サッカーと孫子の兵法2〜追伸
【サッカーと孫子兵法2~追伸】
ブラジルは守備固めをしようとしていたという情報があるが、もしそういう作戦を立てていたとしたら、そもそも守備の仕方が良くないのではないか。補足すれば、ドイツの攻撃を防ぐような守備の仕方ができていなかったのではないか?例えば、カラテでいえば、デイフェンスの方法が様々ある。例えば、「下段回し蹴りをフットワークでかわす」と「下段回し蹴りをすね受けでブロックする」は同じ下段回し蹴り(ローキック)の防御だが、どちらが最善、最高の効果をあげるかは、相手の戦い方や状況によって異なるのだ。要するに、サッカーにもデイフェンスの仕方が色々あると思うのだ。
また、守備固めをしてどのように勝つのかのイメージが選手達に共有されていなかったのではないか。結果、選手の動きがバラバラとなった。以上は、サッカー素人の私の意見だから、間違っている部分もあるかもしれないが、私にはそう思える。
一般的に考えれば、主力2人、ネイマールとチアゴシウバを欠くという状況が、やはり大きかったのだろう。しかし、敗因をそれで済ませば、超一流の選手の戦いのレベルの考究、兵法の考究にはならない。そのような状況でも勝つ道、生き残る道を示唆するのが兵法だからである。
それともうひとつ重要なことを思い出した。ドイツ戦の前の試合、PK戦で勝利したとき、キーパーが感極まって泣いていた。キーパーの責任だとはいわないが、トーナメントの途中で泣くということは、相当な精神的プレッシャーがあるということなのだ。私には経験的にそれが解る。しかし、そのような精神状況では、厳しい戦いを生き残れない(残酷なことを言っているようだが・・・)。
最後に言いたい。ブラジルが主力2人頼みのへぼチームのような言い方は選手に失礼だと思う。私はブラジル代表になるような選手にはみんな、それなりの技術とプライドがあると思う。みんな頑張っていた。私はそう思う。また、監督も「敗因はすべて、私の選手起用、采配にある」と述べていた。人の良さそうな監督ではないか・・・(それがいけない?)
しかし、あまり言いたくないことだが、監督が「私の選手起用、采配・・・」と述べている裏には、選手の「戦い方」に問題があったという考えがあるのだと思う。
ともあれ、想像を絶するプレッシャーだったに違いない・・・。
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弱い人にこそ武道を・・・
弱い人にこそ武道を・・・。
7月14日(日)、IBMA極真会館・岡山県支部が主催する岡山県ジュニア選手権大会に役員として参加した。
大会は、岡山の中学生、高校生、道場生、先生、多くのボランティアスタッフで運営されていた。私はその姿に感動した。誤解を恐れずにいえば、道場は選手のためではなく、イベントを手伝う人のためにこそあるべきだと思う・・・。
さて、今回の岡山県の大会では、従来の組手クラスに加え、ライトコンタクトのクラスを新たに設け、クラス数が2倍になった。
ライトコンタクトのクラスとは、頭部、肘、すね、胴のプロテクターを装着して組手を行なうクラスだ。
そのようなクラスを設けるのは、体力が充分ではない子供達にも、組手試合の経験を積ませるためだと思う。
組手の経験は、武道空手の稽古のすべてではないが、稽古の一環として、充分に意義のあるものだと、私は考えている。ただし、組手試合が、ただ強者を決めるためだけもものであってはならない。そのような考えが中川氏と私の考えの共通点だ。
中川氏の考えと私の考えの異なる点は、競技を楽しむことも、空手の活かし方だと、私は考えているところだ。
しかしながら、そのような考え方は、武道本来の良さ、すなわち人間教育的側面を弱める可能性があるとも思っている。また、武道の有する武術的側面を喪失する可能性もある。
そのような憂慮に関し、中川氏に迷いはない。なぜなら、中川氏は「空手はスポーツではない」という立場だからだ。しかし、私の方には迷いがある(迷いと言えば迷いだが、考究し続けているとも云える)。
この部分は丁寧に書かなければ誤解されると思う。
あえて誤解を覚悟で述べるならば、「スポーツも武道も現代社会においては、融合されつつある」と、私は考えている。
少なくともルールを設定し、選手と観客を集め、競技を行うということ自体がスポーツではないかと思う。また、スポーツにも充分に人間形成的側面があるとも思っている。
それは、私が長年にわたり、空手競技で鍛えられ、それによって悟ることも多々あった経験による。また、その悟り(普遍性)を活かせば、空手武道はもっと有益なものに生まれ変われるとの「夢」を見ているからだ。
更に云えば、武道を声高に掲げる、我ら極真空手の姿を観て、一体、どこが武道だと胸を張る部分なのだろうと、思うことがある。
しかし・・・。
【弱い人(体力的に)にこそ役立つ武道を広めたい】
今、強く思うことは、道場生の人格形成に少しでも役立つ、空手道の実践を行なわなければならないということである。なぜなら、善き仲間と空手道を通じ、仲間となりたいからである。そのような思いをもちながら、岡山県大会を観た。そして、中川氏との意見交換をする中、「弱い人(体力的に)にこそ役立つ武道を広めたい」ということで意見の一致があった。
具体的には、「健康」と「護身」に役立つ空手だ。私は今、その準備を進めている。問題は、私の能力が足りないこと。そして身体が持つかどうかである。
最後になるが、私の盟友の中川氏を始め、岡山の藤島代表、池本師範代、片山先生、岡山の黒帯の人達の頑張る姿に勇気をもらった。
【蛇足ながら】
蛇足ながら、新幹線の車中、何冊かの本を読んだ。その中に、松濤館空手の先達の一人、久保田紹山師範の本がある(再読)。この本は、久保田師範のご子息から頂いたものだ(実は、その他の貴重な資料も拝領した。早く、研究に没頭できる時間が欲しい・・・)。
久保田師範のご子息とは、私の友人の恩師(高校の英語の先生で空手部顧問)ということで紹介された。現在、某有名予備校の講師で、数百万部の発行部数を誇る、英語参考書の執筆者の一人でもある(我が愚息も使っていた)。
その久保田先生(紹山師範のご子息)には、拙著「フリースタイルカラテ」を献本した際、「増田さんの空手理論は親父の空手理論と似ている」と言われた。
確かによく似ているかもしれない。久保田師範の空手は、相手を倒して極めたり、掴んで関節を極めたりして、相手を制圧する空手だ。
私の空手も相手の制圧(なるべく瞬時に相手の戦意を喪失させること)を目標としている。また私は、船越義珍師範の考えと同じく「空手に先手無し」と考えている。言い換えれば、「応じ技こそが空手の真髄」というものだ。
異なる点を上げれば、空手に内在する武術性の考究と承継に専念しているかどうかの違いであろう。私には、オリンピック・スポーツの創出というテーマで論を展開しているという手前がある。
しかし、論は論として、私の役目を終えたいとも考えている。なぜなら、もう時間がないと思うからだ。後は、先述したように、空手を、人間形成(人格陶冶)、健康、護身に役立つものとしたい。
できれば、久保田師範とお話をしたかった。ただ、不遜ながら、空手に内在する武術性を復興するならば、伝統型を絶対視するだけでは不充分だと言いたい。
私の意見は、先ずは、新たな型の創出とその応用を考えること(久保田師範流に言えば、隠された技を見つけだすこと)。さらに、その実験の手段として、新たな組手法を創出するべきだと・・・。それが久保田師範の云う「完封の技」を体得するための基礎、空手を行ずる基礎となると、私は思う。
これ以上の論の展開は、時期を待ちたい。
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