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「フリースタイル空手とは何か」と呻吟する〜その1

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「フリースタイル空手とは何か」と呻吟する 

これから、FSK(フリースタイル空手)の構想につい、数回に分けて、書き記したいと思う。

これまで、ルールブックから、哲学、小論文など、数多く、FSKについて書いてきた。しかし、雑務に忙殺され、それどころではなかった。

急に書く気になったのは、友人の紹介で空手を全く知らないM氏と知り合い、フリースタイル空手の構想を久しぶりに語ったからだ。

私は、なるべく短い時間で、要点を伝えようと熱弁を振るった。本音を言えば、もう語りたくない。ほとんど習性で語った。また呻吟に近かった。

M氏は、面食らっただろうが、貴重なフイードバックをいただいた。とても誠実な人柄だった。

M氏は、「構想は面白いが、ひとつだけ気がかりがある」「それは、構想が完結していること」「ゴールは決まっていても、そこに至るプロセスが色々あるはずだが、そこが見えない」というように言ってくれた。

さらに、「構想を実現するための戦略を組み立て、実行する人間が必要だ」とも言ってくれた。

その通りだ。しかし、そんなことは、とっくに解っている。だから苦しい。
また、書きたくない私自身の欠点がある。それを書けば、誤解を招く可能性が高いので、控えたい。

私が今、しなければならないことは、仲間を作ることである。しかし、設計図と模型作りだけで、かなりの労力を使ってしまった。おそらく、皆さんの想像をはるかに超える労力だ(狂ってる・・・・)。

誤解を恐れず言えば、私はフリースタイル空手の設計者だ。そして、その設計図を基に、建築物を創り上げるのは、私以外の協力者の力による。しかし、私は協力者の集め方を知らない。

例えるならば、大きな建築物を建てるには、先ず、施主(資金提供者)と施行を受け持つ建設会社が必要だ。そして、鉄骨屋、鳶、重機屋、左官屋、電気屋、水道屋、内装工事屋等々、様々な能力を持った人達が力を合わせなければならないだろう(実は、建築について考えたのは、今回が初めてだ。今度、建設関係の仕事をしている友人に聞いてみたい)。

手っ取り早いのは、資金力を有する建設会社が施主になることだ。ここでいう建設会社は大きな空手や武道団体(組織)と言っても良いかもしれない。残念ながら、今の私には、設計図しかないと言っても良いような状況だ。先述した、M氏の言うことも、そういうことだと思う。




●FSK(フリースタイル空手)の設計図を作る・・・



【得点制】
先ずは、FSK(フリースタイル空手)の特異点について述べたい。FSKは、得点制の武道スポーツである。すなわち、技を得点で表す。

そのことにより、試合の優劣がボールゲームのようにわかりやすくなっている。

また、技を数値化することで、価値観が異なる選手や観客も勝敗に納得できる。また、合理的な戦略を組めるようになる。

(続く)





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「フリースタイル空手とは何か」を呻吟する〜その2

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【戦略遂行能力による評価~戦闘力を奪う】
それによって、審判の主観的な勝負観で選手を評価するのではなく、心・技・体のすべてを含む、戦略遂行能力による評価が可能となる。ここでいう戦略遂行能力とは、個々の戦闘局面を連係し、成果に結びつける能力を意味する。

尚、フリースタイル空手における、戦略遂行能力の核心となるのは相手の“戦闘力を奪う”という概念、価値、方向性である。

私は、戦闘力を奪うという概念、価値、方向性を得ることで、試合とは何かが明確になると考える。また、既存の審判による判定方法は、乱暴な言い方をすれば、審判の美的感覚や印象、価値観を基準とした、美人コンテストのようなものになる可能性が高い(つまり共通認識の部分が不明瞭だということだ)。


さらに、戦闘力を低下、また喪失させる手段は、打撃技による、KOやダメージによるギブアップ(ローキックによるKOは、ギブアップに近いかもしれない)を目指すことだけではないと気づくであろう。例えば、相手のバランスを奪い、倒した瞬間にも、戦闘力は低下する。

そして、相手を倒した瞬間に間髪を入れず、“打撃技による止め”をさすことは、打撃技の効果を高める有効な手段であることが理解できるはずだ。

FSKでは、そのような攻撃方法を連係技(倒し技と打撃技の)という。そして、戦闘力を奪う有効な攻撃方法として、高い得点を与える(FSKでは、止めが有効な倒し技だけに高得点を与える)。


また、そのような連係技を、打撃技の範疇に加えても良いのではないかと、私は考えている。

さらに、連係技を加えることは、判定材料の少ない、フルコンタクト空手の試合に判定材料を加え、勝敗を決めやすくなる。

また、フルコンタクト空手の普及のために排除した、組み合い”や“倒し技”を空手に再登場させることに関しては、こう考える。

組み合いというと、見た目が悪いと考える向きが、フルコンタクト空手の指導者の考えにあるようだ。しかし、苦し紛れに相手を掴んだり、倒し技や投げ技を知らないから見た目が悪くなるのだ。フリースタイル空手を続けていけば、倒し技と打撃技を連係させた、優れた技が生まれて来る(続けていけばの話だが・・・)。

また、“中国拳法や伝統空手などに見られるような、接近戦の技法を創出し、その接近戦に意味と価値を付与していきたい。そうなれば、柔道やレスリングにはない、独自の倒し技も生み出されるにちがいない。

そうなれば、試合のための練習や試合自体が、自分の技術力を試すという意味で、楽しいものとなっていくだろう。

【相手の背後を取る】
もうひとつ重要なFSK(フリースタイル空手)の技術がある。それは、“相手の背後を取る(テイクバック)”という技術だ。この技は、組み合いを多用する向きに、それに抗する手段として、相手の背後をとるという選択肢を与えること。

また、フリースタイル空手の技術を護身術に役立たせたいと考えたからだ。例えば、複数の敵を相手にする時、相手を傷つけずに制圧することを考える時に、相手の背後を取る技術は役立つと思う。

それを位置取りという。勿論、背後を取ったと認めるには、相応の条件設定をしてある。

以上のような、新たな概念、価値、方向性の創出により、異なる価値観を有する多様な人達との交流が可能になる。そして、その交流は、個々に新しいアイディアをもたらし、新技術を創発すると考えた。


既存のフルコンタクト空手を行なう人の中には、組手を複雑と感じる向きもあるかもしれない。

【既存のフルコンタクト空手ルールの問題点】
しかし、既存のフルコンタクト空手ルールには問題点がある。それでは、すべてをOKにすれば、問題がないのかと言えば、そうではない。つまり、どのようなルールでも問題が生じるのは、当然なのだ。

我々にできる最善は、問題点を分析し、何を重要とするかを考え、決めることだと思う。

フリースタイル空手とは何かを呻吟する〜その4

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そこで、相手を倒してからの攻撃、すなわちグランドでの攻防と、突きによる頭部打撃を除外した。なぜなら、頭部打撃は安全性を担保し、反復試合を可能とするためである。

また、スタンド状態に試合を限定したのは、2つの戦闘ステージを設ければ、技の幅が拡がり過ぎ、技術を試し合い、技を磨くために必要な集中が困難になる可能性がある(フリースタイル空手は、倒されたら負けるというぐらいの危機感を持ち、スタンディン状態における技術に集中することを目標としている)。以上が、先述したフリースタイル空手のルールに限定がある理由である。

ここで指摘される問題点がある。それは、頭部打撃禁止のフルコンタクト空手は、安易に接近戦になり過ぎ、ロングレンジやミドルレンジからの直線的でスピードある攻撃や体捌きが発達しないということである。

フリースタイル空手は、安易に接近戦を挑めば、道着を掴まれたり首を取られたりなどして、崩される。また、ミドルレンジで油断していれば、体当たりや脚取り(タックル)などで攻撃される。

そのような想定が為されることで、ミドルレンジ(中間)での攻防に緊張感を取り戻すだろう。

それは、先述したように、相手の動きを予測し対応する、すなわち眼の養成という効用を、試合に取り戻すことになる。

勿論、伝統派空手やボクシングに見られるような、直線的でスピードのある打撃技を使用するには、困難がある。

しかし、首を取る攻防やタックル等による攻撃を認めることで、ミドルレンジからの相手の攻撃の予測と対応(防禦と反撃)のための足さばきは、格段に向上するはずだ。

補足すると、首取りの防禦と対応の練習は、突き技による頭部打撃に対する、手による防禦の練習と連係する。また、脚取り(タックル)などの防禦と対応の練習は、頭部打撃に対する防禦と対応に必要な足さばき(体捌き)の練習と連係する。

(続く)




フリースタイル空手とは何かを呻吟する〜3

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私の考えはこうだ。既存のフルコンタクト空手の試合には、頭部打撃もなく、接近戦での組み合いもできない。ゆえに、そのルールで勝敗を競えば、間合いを制する眼と足捌きの養成が困難になる。

その状況を稚拙な例えで説明する。既存のフルコンタクト空手の試合は、カーレース(車のレース)でいえば、道が狭過ぎて、すぐにクラッシュする状態だということだ。それは、車の性能、ドライバーの能力を発揮ないということでもある。また、それは車の性能やドライバーのドライビングテクニックを向上させるフイードバックを得られないということだ。ここでいう車とドライバーとは、空手家のことである。そして、道というのは試合ルールのことだ。



私は極真空手の選手時代から、空手の本道について考えてきた。そして、既存の試合方法だけでは、空手の本道を掴めないと常々考えてきた。そのことについて少し話したい。打撃技格闘技の特性のひとつに、相手と離れた間合いからの機動性(足さばき・体捌き)を活かした、攻撃力が挙げられる。

また、そのような攻撃力は、離れた間合いから、相手を見切り、そしてロックオンする能力が含まれている。言い換えれば、相手の動きを予測し、それに対応する。そして、その状況で一瞬の隙を見極め、照準を合わせる能力だ。それを私は、眼と言いたい。そして、試合の本道は、それらの能力の向上にあると思うのだ。

つまり、空手の試合を本道に戻すには、頭部打撃を入れるという声が上がるのも当然である。
しかし、頭部打撃をフルコンタクトで入れれば、安全性を担保できなくなる。

では、寸止めならば良いかといえば、寸止めルールにも問題点はある。それは、技の判定がわかりにくくなるということだ。確かに寸止めからての足さばきには、空手の独自性を醸成する効果がある。しかし、フェンシングのように、デジタルで、正確にどちらの攻撃が当たったかを伝えられるのならば、わかりやすくなるが、現在はそうなっていない。

私の構想(フリースタイル空手)には、一旦、フルコンタクト空手、伝統派空手という枠を取っ払い、空手の本質、本道を考えることから始まった。

その結果、空手の本道を活かすためには、寸止め空手(伝統派空手)が有する機動力、すなわち、「間合い感覚と足さばき」、フルコンタクト空手が有する、「わかりやすさ」を融合する試合方式に至った。但し、頭部打撃は禁じている。

その理由は後で述べる。勿論、頭部打撃の修練は重要である。しかし、頭部打撃の直接的な修練は、それぞれの流派が、独自の方法で行なえば良いと考えている。なぜなら、フリースタイル空手の目的は、最強を決める手段を目指すのではなく、より格闘技や武道を楽しめるものとすることだ。言い換えれば、より多くの人に役立つ武道を目指している。

例えば、ボクシングから得られる能力、レスリングから得られる能力が、MMAで有効なように、FSKで得られる能力が、他のジャンルの役に立つようにすることだ。

私が想定する、FSKで得られる能力とは、柔軟で対応力のある、間合いの調節能力だ。私は、打撃技と組技の両方を使用可能とすることで、そのような間合い感覚が生まれると考えている。


【武術の本道は眼(心眼)と足さばき(体捌き)の養成】
繰り返すが、私は、打撃系格闘技の試合の本道(主眼)は眼と足さばき(体捌き)の養成である。私はそのように考えている。しかし、既存のフルコンタクト空手の試合ルールだけを行なえば、蹴り技や突きの威力や体力は向上しても、空手や武術の本道を見失うだろう。


車に余り興味のない私が、再度カーレースに例えて、状況を説明したい。
既存の試合ルールは、試合のための道路が狭過ぎ、直線距離でのスピードや制動能力が試せないような状態に例えられる。また、コーナーでのハンドリング技術やブレーキングというようなドライビングテクニックのような技術・能力が発揮できないような状態ではないかと思う。

そのようなルール設定(枠組み)の中、選手(車)は、抜け道を見つけだし、ゴールに到着するタイムだけを問題にしている状況である。

そうなれば、本来の道路でみせる性能ではなく、抜け道を活用する能力、裏道を活かし勝つ方法を、競い合うことになっていく(例えるならば、ラストの手数アップというような戦い方や間合いを詰めて、直線的な技を無効にするような戦い方を指す)。


おそらく、カーレースの場合、直線道路でのスピードアップと、コーナーの攻め方等の絶妙の配分が、レースの勝利に影響するのではないかと思う。

つまり、私は、車本来の能力を、発揮できないような状況の根本原因を考え、それを改善したいと考えたのだ。

【安全性の担保】
ここで頭部打撃を禁じた理由について述べる。先ずは、安全性の担保である。私は、FSK(フリースタイル空手)を武道スポーツとしたいと考えている。その理由は、誰もが武道を体験できるようにしたいからだ。また、誰もが体験できるようにしてこそ、武道が社会に貢献するものとなると思うからだ。
また、運動能力に劣等感のある人を、武道の体得者にしてこそ、本物の武道だと私は考える。
そのためには、複雑さと安全性を絶妙のバランスで配合しなければならなかった。

(その4へ続く)

フリースタイル空手とは何かを呻吟する〜その5

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再度、カーレースの例えを用いたい。

おそらく、カーレースは、直線での加速力もさることながら、コーナーの攻め方が重要なのではないかと思う。それは、早い動きの中で、自己の動きを制御し、かつ相手の動きを見切る能力だと思う。

本来、打撃技による格闘技者もそのような能力が必要である。

フリースタイル空手の試合では、カーレースでいえば、F1レースのようなスピード感はでないが、その代わり、コーナーでの駆け引きの能力のような、体捌き、接近戦での細かい技術の向上は見込めると思う。

また、スピードが制限されているので、安全性が担保され、繰り返しドライビングテクニックを練習できる。


断っておくが、直線でのスピードが制限されいると述べたが、直線での加速力は、オプションで練習すれば良いと思う。それでも、スピードとドライビングテクニックの限界に挑戦したければ、プロになれば良い。

繰り返すが、フリースタイル空手は、誰もが長く楽しめる、武道スポーツを目指している。


【MMAのような試合ルールについて】
少々脱線するが、格闘技や武術の世界では、いつの時代も、最強の武術は何かという命題が問われる。それは、武術や格闘技が、現実の戦闘(戦い)で身を守るものとなるのか、と云う問いでもあるだろう。

昨今、MMAが社会に誕生してから、少し変化が見られる。
私の考えでは、どのような格闘技がMMAで有効かという問いに変化しつつあるのではないだろうか。つまり、世間は、MMAを最強の格闘技者を決める“物差し”として認識しつつあるということである。

私は、最強の格闘技は何かというような命題と真っ向から勝負を挑むことはしない。

ただ、確かにMMAの場合、1対1の徒手格闘としては、よりリアルな感じがする。
また、見るスポーツとしてはエキサイティングなものだ。しかし、誰もがやれることではないし、やりたいことでもないだろう。

ゆえに、より価値が高まるのかもしれない。そして腕自慢達の気持ちがよりMMAに傾くのかもしれない。少なくともそのような循環が生まれているようだ。私はMMAとは異なる格闘技スポーツを構想しているが、それとは競合するつもりはない。また、プロフェッショナル格闘技スポーツとしてのMMAに関わることはあっても、対抗する気は毛頭ない。

初老の私の目指すことは、武道や格闘技界の裾野を広げることである。ゆえに誰もができる組手法と試合法を考えている。それが武道スポーツとしてのFSKだ。

しかし、それは、MMAの技術とは近似性がある。異なる点は、立ち技に限定していることや得点制を採用することだ。

誤解を恐れずにいえば、フリースタイル空手は、限定を設けた格闘技スポーツ、ゲームである。ゆえに、最強というような命題は掲げない。しかし、「格闘技を楽しむ」という命題を追求する。
勿論、そのゲームの枠内で最強のプレーヤーを追求することは、良いことだろう。

【武道における戦い】
また、武道が想定する、究極の戦いは、1対1、「初め!!)」で始まるような戦いとは限らない。

そのような多様で不確定な状態を、真の戦闘として想定するのが武道の究極だと私は考える。そのような戦い(戦闘)に対処、対応するには、どうするか?ここでは考察しない。

あえて言えば、人間洞察、すなわち行動分析と言って良いような、科学的な態度が必要とだけ言っておく。(続く)

フリースタイル空手とは何かを呻吟する〜その6

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【FSK(フリースタイル空手)は】
話を戻せば、FSK(フリースタイル空手)は、より反復練習を可能とするルールと枠組みを有する。そして繰り返しになるが、若い人ばかりではなく、あらゆる年代の人達が、組手試合を楽しめるように考えている。

考えてみて欲しい。技術の体得には時間がかかる。また、個人差もある。しかし、時間をかけて、反復練習を行なえば、より多くの人に、ある程度の技術の体得を可能とする。


つまり、安全性の確保の重要な意味は、反復練習の可能性を広げることにあるのだ。また、戦いの検証可能性を拡げ、戦略的な視点を養成する意味がある。

補足を加えれば、スピードやテクニックを限界的状況で磨くことも重要だ。しかし、そのようなことを求め続ければ、身体を破壊する可能性もある。

そのような限界的状況を何度も繰り返すのは、常人には不可能に近い。

フリースタイル空手が大事にしたいことは、より多くの人に武道の試合体験を繰り返し可能にすることだ。


勿論、頭部打撃の訓練や寝技や関節技、レスリング、柔道、相撲など、他の武道、格闘技の修練も奨励する。

なぜなら、背後取り倒し技が得点になる、FSK(フリースタイル空手)では、相手の首を掛けたり、首を取る攻撃を見切る眼を養うためには、ボクシングなどの練習が役に立つからだ。つまり、頭部打撃をかわすような、打撃技を見切る眼が必要になるのだ。

また、レスリング、相撲、柔道などの技術は、相手を倒すためのみならず、接近戦(組み合い)の状況でのより幅広い展開を可能とするために必要になるからだ。


その上で、FSKの組み技に慣れ、楽しくなっていけば、寝技などの技術も自然に学びたくなるはずだ。なぜなら、FSKの組技は、密着した状態における身体感覚を重要とする。

そして、グランド状態における寝技も、スタンディング状態同様、相手との間合いや位置取り、防御法、崩し等の原理を学べる。それらの原理は、スタンディング状態における戦いにも役立つはずだ。

また、何より密着して戦うことの面白さ、格闘技の奥深さを学ぶには有効である。



【最後に】
最後に、私は人生の大半を空手に賭けたと言っても過言ではない。しかし、最後に望むことは、空手が人と社会により広く受け入れられること。そして、より役立つものとなることである。そのためのキーワードは、人間教育以外にはない。そのための方法は、様々あるだろうが、私が考える最善は、より多くの人が長きに亘り、楽しめるようにすることだ。

現在は、画餅と笑われるかもしれないが、心の底から、そのようになることを願っている。



【蛇足ながら】
蛇足ながら、私は柔道が大好きである。レスリングも素晴らしいと思う。
私は、フルコンタクト空手が柔道やレスリングのように学校教育に認められるようになればと、兼ねてから考えてきた。正直にいえば、私が中学生、高校生のときからである(ゆえに誰にも負けたくなかった。おそらく、負ければ、誰も私の意見など聞かないだろうから・・・)。

そして、空手を好きになった子供達が、空手を“てこ”に、高等学校に推薦で入り、大学を推薦で入り、学生生活を謳歌し、企業に受け入れられていく、そして、社会人として社会に貢献し、自分自身の人間性を高めていく。それを持って、斯界(空手界)に恩返しをする。そのような循環が生まれればと思い続けている(その思いを実現するために、フリースタイル空手プロジェクトはある)。

さらに、スポーツのみならず基礎学問(勉強)も必要性も伝えたい(若い頃の私は、練習ばかりに熱中し、勉強を疎かにしたが・・・)。
なぜなら、いつの日かFSKが機能し、膨大なデータが蓄積されれば、どのような戦い方をすれば良いかを、合理的に考察できるようになるだろう。そして、そのようなデータを活用し、自己の戦いに活かし、よりFSを楽しむためには、最低限の基礎学問は必要だからだ。

私は、FSKのプレイヤーならば、必ず心身を鍛えるのみならず、基礎学問の必要性も理解すると考えている。



私は、失敗だらけの人生を送った、アウトサイダーだ。しかし、アウトサイダーを自覚しているからこそ、後に続く子供達には、大道を歩んでもらいたい。

(終わり)



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IBMA理事長 増田 章から皆さんへ

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IBMA理事長 増田 章から皆さんへ

【あらゆる格闘技術を試せる新しい試合ルール】
私は5年前から、少数の仲間と共に、空手のみならず、あらゆる格闘技術を試せる新しい試合ルールを模索して参りました。そして、出来上がったものがフリースタイル空手です。

フリースタイル空手の目指すところは、多様な格闘技の特殊性(特異性)を活かすと共に、そこに内在する普遍性を発見することです。言い換えれば、多様な格闘技術を交流させ、多様な武術・格闘技を活かし合い、尊重し合えるようになることです。


【他者と共感し合う感情(こころ)】
さて、いまだ人類には、相互理解の困難や暴力の現出という問題があります。

それらの問題は、自他を客観的に見ることの困難に起因するのではないかと私は考えます。また、自他を区別する意識、さらにテリトリー意識などの影響も考えられます。

他方、人間は、他者と共感し合う感情(こころ)を有していると、私は考えています。

【暴力性(攻撃性)を昇華する手段】
私は、それらの意識や感情の存在を前提に、他者と交流し、理解し合うためのより良い手段を創りたいと考えました。また、人類の意識や感情が生み出す暴力性(攻撃性)を昇華する手段を持ちたいと考えたのです。

その手段がフリースタイル空手という新しい武道、格闘技スポーツなのです。

【明確性、受容性、創造性を生み出すシステム(構造)】
その手段には、世界中の誰もが納得できるような“明確性“が必要だと考えました。また、多様な技術を受け入れ、融合できるような「受容性」が必要だと考えました。更に、受容した事物に対し、新たな技術と価値を創り上げるような“創造性”も必要だと考えました。言い換えれば、「明確性」「受容性」「創造性」を生み出すシステム(構造)が必要だと考えたのです。そのようなシステムを目指すものが、フリースタイル空手です。

我が国の先達のひとりが、そのようなものを武道と命名しました。
また、西欧の先達は、それをスポーツと命名したのではないかと考えています。

異論はあると思いますが、私の眼にはそのように映ります。

【人間性回復の手段、人間教育の一助となること】
私は、東西の先達が目指した理想を融合させた、新しい武道スポーツの誕生を夢見ています。

また、新しい武道スポーツが、21世紀以降を生きる人達の人間性回復の手段、人間教育の一助となることを切願しています。

【2014年2月、東京、代々木にご参集ください】
しかしながら、我々IBMAは非力です。ゆえに、より多くの仲間を求めています。もし、IBMAのフリースタイル空手プロジェクトに賛同頂けるのでしたら、来たる、2014年2月、東京、代々木にご参集ください。そして、このプロジェクトに参加していただきたいと思います。

参加形態は、選手としてのみならず、大会ボランティアスタッフとして、また、大会後には、数日間のフリースタイル空手セミナーを予定しています。
そこでは、フリースタイル空手の審判員の資格や指導者資格認定を行ないたいと思っています。また、IBMAの各地域の代表を任命するための会議をもちたいと考えています。

会議の内容や申込み方法等、詳細については、後日、発表いたします(IBMAへの加入は、随時受け付けています)。

是非、新しい武道スポーツの仲間に加わって下さい。日本でお待ちしています。


$増田章の『身体で考える』

N君、ありがとう!

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いつも自分の非力を嘆くことが多い私だが、実は、私の回りには、とても優秀な人間が多い。そして、味方してくれている。

いつか、そのすべての人の名前を挙げ、御礼を言いたいところだが、機会を待ちたい。

にもかかわらず、私が望む結果を出せないのは、私の夢があまりにも大き過ぎるか、荒唐無稽ゆえか・・・。

そんなことは、ひとまず横に置いて、あらためて私を支えてきてくれた人達に感謝すると共に、今回はその中の一人、N君の自慢をしたい。

私の道場制のN君は、帰国子女で某企業の翻訳業務に携わっている。

その彼が、前回のブログに掲載した、フリースタイル空手の大会に向けたメッセージの翻訳をしてくれた。業者に頼むよりはるかに早く、翻訳が的確である。なぜなら、彼は空手の有段者であり。武道の理解者だからだ。

しかしながら、忙しい仕事の合間をぬっての翻訳である。
正直、心苦しい。道場生には、お願いはしたくはない。しかし、私は必死だ。

実は、私は数年前から、ある覚悟を得て、仕事にあたっている。必ず、私は全力を尽くす。

これまで生きてこられた責任として、また、生きた証として・・・。

N君、ありがとう。


以下は、彼の翻訳です。

A message to you all from Akira Masuda (President of IBMA)

Freestyle Karate was first conceptualized 5 years ago by myself along with a small group of like-minded martial artists a style where techniques from a wide range of martial arts as opposed to just karate could be effectively used.

Freestyle Karate aims to be a universal platform of sorts which gives practitioners of many styles of martial art to use their techniques. In other words, it is a concept which pays respect to the many styles of martial arts and allows them to showcase their strengths.

On a sobering note, mankind also possesses the drive to commit endless violence and the effects of that are prevalent in our world today.

I see this as a manifestation of one’s inability to see themselves and others objectively as well as a sense of territory and the need to differentiate themselves from the rest.

On the other hand, man possesses empathy and the ability to share the emotion held by others (This is what I call Kokoro).

I was left wondering if there was any way for one to interact and gain an understanding of others whilst bearing those emotions in mind. Also could there be a way to channel the inherent violence and aggression caused by man’s own emotions and conscience to something more positive?

The answer I reached was Freestyle Karate. A new sport / martial art.

In such a sport, I felt that a level of transparency and clarity where all parties can be happy with. It also needed to be receptive of techniques from other styles which would be fused into it as well as a form of creativity that would allow such techniques to be given value and even become the cause for one to come up with new techniques. So, it is a system that requires “Clarity”, “Receptiveness” as well as “Creativity”. This is what Freestyle Karate is about.

Once, a compatriot of mine named such an entity budo.
The west named the same thing a sport.

This may raise a few objections, but that is the way I see it.

What I envision is the creation of a new budo-sport which will see the fusion of those two different ideals held in both the east and the west.

My greatest wish would be for this new budo-sport to help in the process of humans living in the 21st century reclaiming their humanity as well as being a form of character building.


However, IBMA as an organisation are weak and we are constantly in the lookout for new partners. If you agree with the principles of our IBMA Freestyle Karate project, then we would dearly like you to come to the Yoyogi gymnasium in February 2014 to be a part of it.

You may come as a competitor or as a volunteer and help the running of the event. After the competition, there will be seminars held over a few days which are designed to certify referees for Freestyle Karate as well as potential instructors. There are also plans to hold conferences where national IBMA representatives will be appointed.

Details of the conference as well as applications to for attendances will be announced at a later date (IBMA memberships are accepted all around the year)

Please become our partner in spreading this new budo-sport. I will be waiting for you all in Japan.




オリンピック2020年開催地は何処か?

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本日、2020年、オリンピック開催地が決まる。

我が国は、政官民が協力し、オリンピック招致に向けて頑張ってきた。
私は、日本国でオリンピックが開催して欲しい。

しかし、理論的に考えれば、日本開催は難しいと思う。
ここで矛盾がある。オリンピック並びにIOCは理論的に動いているのかと言う疑問である。

正直、理論的と言うと大袈裟ではある。しかし、ここで私が言いたいのは、オリンピック開催地の決定は、数値で決まるわけではないのでは?ということだ。
なぜなら、最後は委員の投票で決まる。つまり、投票ということは、委員による旗判定のようなものなのだ。つまり、委員の気持ちひとつで変わる可能性があるということだ。

ゆえに、旗判定、すなわち投票の基準は何なのか?

私は、そこから考えなければならないと考える。

審判に旗を揚げさせるには(投票させるには)、極端な例を挙げれば、委員に金を渡し、懐柔することである。さすがに、そのようなことはないとは思うが・・・。

さて、私が考える判定基準(決定の基準)は単純だ。

どの国で開催すれば、オリンピックのブランド価値を、一番上げるかである。

しかし、そう考えると、イスタンブールになってしまう(私の考えでは)。

つまり、安全性とか経済基盤とかは、絶対の基準ではないと思うのだ(インフラ的なことは、クリヤーされて当然だと思うからだ)。

また、マドリードがEU全体の経済効果を考え、有力視されているとの話もあるが、どうだろうか?

一方のイスタンブールは、東西融合の拠点、そしてイスラム圏の中で、最も西欧諸国に親和性がある地域のひとつだ。

その政治的意義は大きい。勿論、経済効果もあるであろう。

現在、トルコには問題があるようだ。

しかしながら、現状では難しいが、本日のトルコの代表のプレゼン次第でその問題を乗り越えることも可能かもしれないと思っている。つまり、代表のプレゼン次第で、イスタンブールの有する問題点を払拭する可能性はあると考えるのだ。

他方、我が国(日本)は、経済的側面ばかりを強調すれば、自国の利益ばかりを追求するようにも取られかねない。

また、福島の問題に対する考え方を明確にしなければ、オリンピックの人類の平和共存というようなテーマ、また、ブランド・イメージにそぐわないと判断される可能性がある(あくまで、トルコに比べて)。

ゆえに、福島の問題に関しては、我が国が、原発に対する明確なビジョンを示す必要があると思う。東京は安全だというだけでは、不十分のような気がする。なぜなら、福島の問題、原発の問題に、もっとビジョンを示したほうが良いと思うからだ。

私の考えは、2020年までに、原発を半分以下にし、更に新たなエネルギー政策を実現するモデル国となるというような政策を打ち出すのもひとつだと思っている(勿論、ことは簡単ではないことはわかっているし。私は自民党支持者だが)。


繰り返すが、IOC委員が理論的に判断、判定しているとは限らない。また、IOCの判定基準(判断基準)と私の判定基準と同じとは限らない。

しかし、ある一定の基準はあるよう思うのだ。
蛇足ながら、一番重要なのは、恒常的なロビー活動と金であろう。みもふたもない言い方になるが・・・。つまり、絶えず外国と親身な交流をし、IOCにお金をもたらす国が、一番強いということだ。

さらに言えば、そのような本体を隠すためにも、普遍的かつ理論的な判定基準が必要なのだ。そして、その判定基準が、先述した私の判定基準なのだ。

私は、今回のオリンピック開催国決議を、無謀なプロジェクトを行なっている変人として、自分の理論を試す試金石、また、修整の機会にしたいと考えている。



また、蛇足ながら、スポーツの価値を日本でもっと理解されるようにしなければならないと考えている。日本は、確かにスポーツが盛んだが、真にその精神と効用が理解されているとは言い難いと感じるからだ。


以上、恥ずかしながら、私の愚かな頭の中をさらけ出した。









$増田章の『身体で考える』

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私が云いたかったこと

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オリンピック招致のプレゼンのテレビ放送を見て、竹田会長、猪瀬知事、安倍首相を初めとした、関係者全員の頑張りに、私も感動した。

テレビを見た多くの人が、日本にオリンピックが来ることを信じ、それを期待していることだろう。私も同じだ。日本が選ばれることを祈って眠りにつきたい。



しかし、私が云いたかったのは、思想、哲学を以て世界に貢献するという信念を持っても良いのではないかということである。また、正直に言えば、現代日本のリーダーや知識人には、卓越した思想を有する人が少ないと考えている(勿論、中に卓越した方もいる)。

確かに日本は世界に誇れる文化を有する。しかし、思想、哲学という形では、あまり自我を表現しないようだ。そこが良い点だという人もいるかもしれないが、私はそうは考えない。

我が国には、世界に誇れる自我を形成し、それを表現した先人がいる。
そして、その先人達の「おもい」は、古今東西を越えて通用する、普遍的な思想だと、私は考えている。


おやすみなさい。


$増田章の『身体で考える』

猪瀬知事、本当にお疲れ様でした

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2020年のオリンピックは、東京に決まった。良かった。
本当に猪瀬知事を始め関係者の頑張りは凄かった。

今回、我が国の首相の雰囲気が良かったと思う。安倍首相は強運なのだろう。
また、高円宮妃久子様のスポーチも素晴らしかった。

ここで改めて、東京オリンピックを推進した石原前都知事に、謝意を述べたい。「石原さん、頑張ってくれて、ありがとうございます」と。

さて、これから、日本は盛り上がるような気がする。スポーツを起爆剤に、経済、学術、文化、すべての面において、新たな成長に繋がるような気がしてきた。

また、オリンピック開催が安倍首相の政策である、国土強靭化計画の後押しとなるだろう。

兎に角、我々国民の願いは、日本が良くなることだ。

一方、イスタンブールやマドリードは残念だろう。
特にイスタンブールは、国内情勢の不安材料や中東情勢の不安材料が大きかっのかもしれない。また、次回のヨーロッパ開催に向けた下準備か・・・。

今回、私は理念を重視した。しかし、先ずは、選手のみならず、観客の安全生、快適性を確保できるという現実的な事が重要なのではないかと再認識した。しかし、そのことも理念の反映であり、理念のひとつと考えても良いかもしれない。

繰り返しになるが、「竹田理事長、猪瀬知事、本当にお疲れ様でした」「招致成功、おめでとうございます」と言いたい。

また、私の悪い癖だが、東日本の復興のみならず、東西の融和にも繋げて欲しいと考えている。そして、日本の思想を世界に伝えて欲しい。そんな、大きな願いを抱いている。



$増田章の『身体で考える』

オリンピック招致が日露戦争の勝利のようにならないように

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2020年、東京オリンピック招致が決まった。そして、これが好機とばかり、消費税が上がるようだ。

私はこれまで、消費税を上げることは、近い将来、必要だが、その導入のタイミングが重要だという意見に与していた。

今回、2020年の東京オリンピック招致が決まり、東京都には、これで日本が良くなるという空気が醸成されつつある。

しかし、地方ではどのように感じているのだろうか?


さて私は、今回のオリンピック招致は、長年の政治家や関係者の努力の賜物だと思っている。それを最終プレゼンですべてが決まったかのような考え方を植え付ける報道は、如何かなものかと、若干思っている(もちろん、プレゼンの報道自体は良いことだ)。

確かに、今回のプレゼンや、招致チームの頑張りは、私達が想像するより、素晴らしいものだったに違いない。勿論、私も感動した。

【最後の1手にあるのではなく、寄せの創造にこそある】
しかし、戦いの意味は、「最後の1手にあるのではなく、寄せの創造にこそある」と、私は考えている。「寄せ」とは、将棋の用語であり、大雑把に云えば、将棋の終盤における、相手を詰ませる(勝つ)過程(戦い方)のことだ。

つまり、今回のオリンピック招致には、我々の知らない、そこに到達するまでの「寄せ」の過程があったのだと思うのだ。言い換えれば、詰み(結果)に至るための準備、情勢(状態)が現出する過程があったのではないかということだ。
すなわち、日本が行なってきた、「様々な1手(見えない1手)」を結集し、それを強みとして活かしたということである。

私はそのような「様々な1手」と「寄せ」に思いを巡らせてみたい。

例えば、長年、日本政府が行なってきた、アフリカ諸国に対する、ODAも、今回の「寄せ」に繫がったと思う。

今回、安倍首相は、IOCの会議前、アフリカに飛んでいる。その行動は、オリンピック招致のみの仕事ではないかもしれないが、少なからず、オリンピック招致への執念を秘めていたと、私は思っている。

また、これまで我が国には、少なくないメダリストがいる。その存在やその方々と外国との誠実で礼儀正しい交流も、「寄せ」の1手だったのではないだろうか。

また、数年前までは、東京都における、オリンピック支持者は多くなかった。
しかし、ロンドンオリンピックの女性アスリート、金メダリストの活躍があった。更にそれを見て、銀座パレード等を実施した、石原前東京都知事の1手、リーダーシップも大きいと思う。

更に、日本体育協会を長年率いてきた、森喜朗元首相の日本スポーツ界への尽力も見えない1手のひとつかもしれないと思っている。

また、アスリート出身の政治家を政界に送り込むこと等もそれに含まれるかもしれない。さらには、森喜朗元首相のラグビー支援も加えても良いかもしれない。

聞くところによれば、森喜朗元首相は、ラグビーワールドカップ招致に向け、政官民へのネットワーク作りを行なってきたようだ。

私はラグビー関係者に友人がいるのと、森元首相の意をキャノン会長が組む形でできた日本一とも言えるラグビー施設が住まいの近くにあるので、それを知っている。その尽力も、見えない1手のひとつかもしれない。

更に付け加えれば、日本のレスリング協会のリーダーの活動も見えない1手に繫がったかもしれない。

その理由はこうだ。今回のIOCの会議に先立ち、レスリングをオリンピックの中核競技から外すという提案があった。その提案を受け、日本のレスリング関係者は、レスリング競技がオリンピックに止まれるよう、ものすごい努力をしたようだ。

そのような活動も見えない1手のひとつとなったのではないかと思う。勿論、それぞれの1手が、それぞれの目的で存在することはわかっている(当然、それぞれの利害が存在するであろう)。

私が言いたいのは、そのような様々な1手、要因の相互作用で、今回の結果が生じているという視点で見るということだ。


【戦いに勝利する本質】
ここで私が武人として考える、戦いに勝利する本質について述べたい。私は、戦いに勝利する本質は、自分が素晴らしい技(1手)を持っているからと云うことではないと考えている。

私が考える戦いに勝利する本質は、各々が自己の利得を得ようとする過程の中、相手がミスをすることだ。言い換えれば、相手が「悪手」を指したり、「最善手」を積み重ねる努力を怠った結果、相手の情勢(状態)が悪化するのだ。そのような過程では、最強の1手を手に入れたいと思うことや、それに拘ったりすること自体が悪手(ミス)を生み出す原因になる。

さらに、矛盾すると思われるかもしれないが、自己の強みに拘ることも、そのようなことに含まれる。戦いに勝利する究極は、情勢を俯瞰することである(自己の俯瞰と言うと勘違いが生じるであろう。あくまで世界・存在自体を俯瞰する)。それを受け入れた上で、全力を尽くす。私は少々不遜かもしれないが、それが人間の生き方の最善ではないかと考えている(一撃必殺から心撃必活へ・・・そして、無心必勝である)。

今回のオリンピック招致においては、マドリード関係者にミスがあったようだ。また、イスタンブールには、近隣諸国も含む、政治情勢の不安定の影響が大きかったのではないだろうか。
そういう意味合いでは、オリンピック招致の「寄せ」の素晴らしさ評価しつつも、相手がミスをしたのではないかという視点を除いてはいけないと思う。そして、イケイケドンドン的な感覚を戒めなければならないと思う。

また、話が飛躍するように思われるだろうが、我が国における日露戦争の勝利も、日本が素晴らしい技をみせた結果のみならず、ロシア国内の情勢が不安定だったことの影響が大きいと聞く。

しかし我が国は、日露戦争の勝利を日本の軍人と日本人の優秀さ故だと喧伝し、イケイケドンドン的に軍事大国を目指し、ついには戦争に突入したと云う見解がある。
異論もあるだろう。
おそらく、現代のリーダー達が同様の轍は踏まないとは思うが、充分に情勢を判断して進んだ方がいと思う。

ここで私が云いたいのは、眼に見える技を、いかに素晴らしく眼に映ったとしても、絶対視しないということだ。また、武道でいうところの「一撃必殺」などというような、考え方を余り重要視してはしいけない。

私は、先述のような考え方が嫌いである。更に云えば、そのような考え方が国を滅ぼすと考えている。但し、自己を鼓舞する手段としては認めたい。一方、それが自己を虚飾する手段に思えてならない。また、それを目指すあり方は、私の理想とする武人の目指す道ではない。


話をオリンピックに戻せば、確かに、今回のプレゼンは素晴らしかった。また、私もパラリンピックの佐藤選手のスピーチには落涙しそうになった(ひたむきな思いが溢れていたから)。

しかし、重要なことは、世界中の人達に益をもたらすという理念を核にすることであろう。そのような理念を有する国、そしてスポーツこそがオリンピックにふさわしい。

また、それを踏まえた上で、これまで先人が積み上げてきた強みを冷静に把握し、それを活かすこと。最後の最後まで、注意を怠らず、全力を尽くしたことが、今回のオリンピック招致に繫がったと考えている(所詮オリンピックは金だというような批判的な味方に、たとえそのような面があったとしても、私は与しない)。


【最後に】
最後に、以上のようなことを前提にすれば、安倍首相の福島原発問題に対し、強く断定したことは、当然だと思う。あそこで、あのような役割を演じきった安倍首相は、政治家として大したものだと考えている。

一方、誤解を恐れず云えば、安倍首相を嘘つきという人もいるだろう。しかし、政治家として、その言を真実にするという覚悟を持って、大胆に発言したのだと信じたい。

また、くれぐれも眼に見えることに一喜一憂し過ぎて、それが過信とならないようにしなければならない。また、絶えず自己を戒め、その陰で動いている何かに眼を向けることを忘れてはならないい。

マス・メデイアは、大衆の支持を得るために、時に眼に映る、わかりやすいものを誇張し、喧伝する。これは、私が最も嫌いなことのひとつだ・・・。


私は、2020年のオリンピックが過去の歴史の繰り返しではなく、新しい日本の歴史のスタートになるように、こころから願っている(合掌)。







$増田章の『身体で考える』


レスリング界とその関係者は柔軟だ!!

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レスリング界とその関係者は柔軟だ!!

オリンピック実施競技の残り1種目にレスリングが残った。
先日の2020年オリンピック開催地を決定する会議の後、投票でそれは決まった。

私は、レスリング競技のオリンピック中核競技からの除外を聞いた時、とても驚いた。関係者によれば、その兆候、警告があったようが、それに対する対応を国際レスリング連盟が怠っていたようだ。

私が今回、レスリング界に敬服したのは、その対応の迅速さと柔軟性である。
国際レスリング連盟は、IOC理事会から中核競技からの除外を宣告された後、
すぐに、会長を退任(解任かもしれない)させ、新会長を立てたらしい。

そして、観客へのわかりやすさ、アピール度という「オリンピック競技に、よりふさわしくなるためには?」という部分にテコいれした。私は、競技の普及度もさることながら、そのような部分を充たすルールの創設がオリンピック競技には、重要だと考えている。

また、競技のインフラを含め、今後も競技が継続、発展可能かということも、オリンピック競技にふさわしいかどうかの判断材料であると思う。

一方、競技者や指導者はルールが変わるということを嫌う。なぜなら、ルールの変更に伴い、練習法などの変更を余儀なくされることがあるからだ。

しかし、レスリングはそれを断行した。勿論、それができたのは、競技の基盤が確立されているレスリングだからだという人もいるだろう。しかし私には、そこがレスリング関係者が本物のアスリートの証明であると思っている。ここではこれ以上、このことについての論及をしない・・・。

さて、レスリングルール、改正点の第1は、2分3ピリオドの2ピリオド先取制から3分2ラウンド(ピリオドと言うらしいが、ラウンドという言い方の方が良いと思う)の総得点差制にしたことだ。

次に、相手のバックを取れば2ポイント(?)与える。また、タックルから相手を持ち上げると3ポイント(?)等々、レスリングの技の中でも、観客にわかりやすく、特に優れたものにポイントを与えるということだろう。そして、3分2ラウンド、6分の中で、レスリング技術を競い合う。また、7ポイントを先取すればテクニカルフォールとなる。詳しいルールは、これから調べたい。

また、レスリング関係者は、アメリカやロシア、そしてイランを初めとするミドルイースト(中東)の人達と、協力し合ったらしい。
これは、現在のアメリカとミドルイーストの国々との緊張関係を考えれば、とても素晴らしいことである。

書けば、「はあ」という話かもしれない。しかし、この柔軟性と行動力は各界のリーダーも見習って欲しい。リーダーを解任したり、ルールを大胆に改正したりするということは簡単なことではない。

私には、レスリングの第一人者と交流がある。私のレスラーに対する印象は、他のジャンルの人達に比べ、柔軟な感じがしていた。今回の件で、更にその印象を強くした。


レスリングは、格闘技として考えた時、相手の身体、動きを支配し、フォールを奪うと云う戦略的ゲームである。一方、剣道や空手は見事な一本を目指すと言う戦術的なゲームだ。言い換えれば、前者は枠組み、全体を眺める視点が生じやすいのに比べ、後者は、技術の巧緻性や局面・細部に拘る視点が生まれやすい。補足を加えれば、同じ空手でも、顔面を打ち合わないフルコンタクト空手は、ゴールがとても不明瞭な構造になっているので、判定が多くなり、細部に拘るというより、印象に拘り、かつ重要視される。そのような観点で、武道を含めた格闘競技の構造を私は見てきた。

レスリング競技は、数ある格闘競技の中でも最も戦略的なゲーム性を持っていると思う。
一方、見る側としては、ルールがわかりにくいと思っていた。

レスリング界が今回のような難局を切り抜けられたのは、最も格闘技としてプリミティブな構造を有し、かつ戦略的視点を有する、レスリング競技を生き抜いてきたレスラーが頑張ったからに違いない。また、そのようなリーダーが存在するレスリング界だからこそだと、思う。

さらに、オリンピック競技にふさわしいか?という価値基準には、女子選手の存在が重要だ。そういう意味では、女子レスリングを育てた、日本レスリング協会・福田会長の功績は大きいと思う。また、吉田を始めとする日本の女子レスリング金メダリスト達の存在、活躍がレスリングのオリンピック競技存続に影響したことは間違いない。

蛇足ながら、レスリングが採用した、相手のバックを取れば、ポイントを与えるというルールは、私が普及するフリースタイル空手のルールと同じである。

私は幼少の頃、レスリングと接したことがある。その時、素晴らしいと感じたレスリングの技術のひとつが、相手のバックポジションを取るということであった。この技は、スタンディングの状態、立ち技の格闘技にも使えると、兼ね兼ね考えてきた。また、相手の動きを支配し、戦闘力を奪うという価値基準から考えれば、テイクバックは、もっとも観客にわかりやすい技だと考えた。また、優劣がつけやすい技のひとつだと思う。ゆえにフリースタイル空手に取り入れ、得点を与えることにしたのだ。

私は、これまで星稜高校の馳先輩の師匠にあたる金沢の高村コーチや早稲田大学の太田章先生、国士舘大学の朝倉先生と縁をいただいた御陰で、レスリングの素晴らしさを身体で感じている。本当にレスリングがオリンピック競技に残って良かった。

蛇足ながら、先週の日曜日、国士舘大学レスリング部監督の朝倉先生と祝杯をあげた。朝倉先生は、いつも私にやさしい。本当は朝倉先生のところでレスリングも勉強したいところだ。しかし私は、新しい武道スポーツの創出と云う、途方もない夢を描いてしまったので、皆さんが想像している以上に、すべてに余裕がない。もう少し、頑張らなければならないが、もそろそろ限界がきている。まあ、人間は必ず死ぬ。悔いのないよう締めくくるつもりだが・・・・。



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闘心会主催、九州空手道選手権大会に参加!!

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闘心会主催、九州空手道選手権大会に参加!!


私の道場で極真空手を修行し、黒帯を取得した藤崎氏が主催する、闘心会主催の空手大会に呼ばれ、参加してきた。


藤崎氏の出身は北九州市の門司である。地元に帰り就職し結婚もして、現在、空手道場「闘心会」を主催している。

その彼から、九州で道場を主催する空手道場主仲間の協力を得て、初めての大会を主催するから、観に来て欲しいとの連絡があった。


私には、先約があり、ギリギリまで迷ったが、大会を観て良かった。

なぜなら、二度と戻ってこない、若い時期・時間を共有した仲間が、今も空手を愛し続けていることが、うれしいからだ。

また、彼の息子(試合にでた)や奥様、道場生やその保護者が力を合わせて頑張っている姿を見て、うれしかった。

さらには、大会には、いろんな流派・道場の先生方や選手が参加していて、その人達が仲良く大会を共有していたのが良かった。また、規模がそれほどでもなく、1面で実施されていたこともよかった。なぜなら、そのような小規模の大会の方が、こころが伝わってくるように思えたからだ。ようするに、初めて会った先生方や、選手達の一生懸命さが伝わってきたのだ。

その中に、25才で自分の流派を興して頑張っている、天道会館、水見館長もいた。若い館長は現役選手でもあるらしい。

また、水見館長のところは、日本式の礼法を採用しているようだ。私の道場も極真式と日本式(剣道、柔道、日本武道の礼法と同じ)の両方を採用している。
私はいつも、頑張っている若者を見ると、とても懐かしいような、うらやましいような、うれしいような・・・、とても不思議な思いがこみ上げて来る。そんな感覚が皆さんにもないだろうか・・・。

藤崎氏曰く、今回参加した他流の先生方は、彼が大会を主催したいと話した時、すぐに協力を申し出てくれたらしい。他人事ではあるが、本当に有り難いことである。そのような人は大切にするべきだ。

今回、藤崎氏に協力してくれた先生方には、これからも藤崎をお願いしますと伝えてきた。

最後に、フルコンタクト空手愛好者の人口は、日本のみならず、世界的にもかなりの数になるに違いない。その愛好者のこころが、本当にひとつになれば、オリンピックだって夢ではないはずだ。しかし、簡単にひとつにならないのが、人のこころである。また、簡単にひとつになることは危険でもある。

しかし、勇気を奮い起こせば、フルコンタクト空手界、否、空手界の大同団結は可能だと思っている。キーワードは「勇気」と「冒険心」だ。

蛇足ながら、北九州市を訪れたのは初めてだ。小倉の食べ物はおいしかった。藤崎氏の高校時代の友人、岡寛氏が経営する、癒猿(ユエン)というところで食事をしたが、満足した。

岡氏は、とてもハンサムな社長で、高校時代、とても女性に人気があったらしい。藤崎氏とは正反対のキャラクターである(失礼、これは冗談・・・)。

また今回、近くに私が敬愛する、作家の是本先生がいらっしゃるので、久しぶりにお会いしたかったが、調整が上手く行かなかった。残念である。
その代わりに、中津の福沢諭吉の生家・記念館や次回のNHK大河ドラマの主役、黒田官兵衛が築城した、中津城を見ることができた。

福沢諭吉は、私が好きな偉人の一人だ。その記念館では、良いインプレッションを頂いた。近いうちに書き記したい。




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いつも・・・。

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いつも・・・


10月6日、私の空手道場の支部長である、小川哲也氏が社長を努める、小川建設工業の40周年記念式典があった。

私は審査会と重なり参加はできなかった。彼の会社は彼の父(現会長)が創立したものだ。彼の父は、彼の母親(現取締役)と二人三脚で会社を切り盛りしてきたらしい。

いつも小川哲也氏は、私のような頼りない男を、空手の師匠として立ててくれる。彼はとても真直ぐな人間だ。私は彼の性格は、北海道、十勝の自然が育んだものだと思ってきた。また彼の父母の愛情が育んだものだと思ってきた。

小川氏の父は中卒で現在の地位を築き上げた。また、そのルーツはアイヌらしい。昔、小川哲也氏が、自分の父の境涯をさりげなく語ってくれたのを憶えている。その話を聞いて、私は彼の父に敬意を憶えた。その敬意は、自分が会社や家族の長となること、人生の辛酸を味わうことで、以前にも増している。

今回、小川哲也社長のお父様、お母様でもある、小川建設工業の会長と取締役に対する尊敬の念から、私にはあるイメージが湧き上った。それを一編の詩で書き表した。


私はその詩を会長と取締役にお送りしようと思い、先ずは自分の家族にその詩を聞かせてみた。

家内には、「寒い?」「詩なんて送らなくて良い」「止めておきなさい」と一渇された。
ゆえに私は送るのを止めた(賢明だったと思う)。

少し脱線するが、娘が学校で詩を書き、それがみんなの前で朗読されたらしい。それを聞いて私は喜び、「どんな詩か教えて」と娘に尋ねると、「お楽しみ」と言って教えてくれない。傍で聞いていた家内が娘に、「頼んでもいないのに聞かせる人とは違うよね・・・」と言うと、娘はケラケラと笑った。

私は家では、漫才のぼけ役よろしく、みんなから突っ込まれる。正直、私は腹が立つが我慢している(突っ込まないと増田章とはやってられないよね・・・)。
私の家でのイメージは、漫才師の「やすきよ」のやっさん。或は、「あしたひろし&順子」のひろし師匠だ。逆に言えば、私の家内がきよし師匠や順子師匠のようにきつい突っ込みタイプだということでもある(笑い)。正直、普通の夫婦なら、とっくに離婚するような関係だ(笑い)。

話を戻せば、私はこれまで、小川氏のみならず、彼のお父様、お母様に大変お世話になった。私はいつも、小川哲也氏への感謝のみならず、そのお父様とお母様への感謝と敬意を表したいと思っている。中々、ご恩返しはできないが、今回、私の心の中に涌き上った思いを素直に書き記しておきたい。

蛇足ながら、私は幼少の頃、本好きな少年だった。いつも、寝る前に「良い夢を見られますように」と祈って眠りについていた。また、朝起きたら「夢が実現しますように」と祈っていた。大変軟弱な少年であった。そんな私が武道を続けているのは、私の場合、身体的な才能があったからであろう。 

また幼少の頃の私は、人間が有する矛盾や葛藤、また世の中の理不尽や不条理に対し悶々としていた。考えても、私には良い答えを見つけられなかった。(私の悪い頭では・・)。兎に角、動かなければと考えていた。その思いが仇になったこともあるかもしれない。私は心の奥底で煮えたぎっていた、マグマの爆発を抑え昇華するために、武道やスポーツを利用した。もし、あらゆるものに答えを出せるような優秀な頭脳があったら、武道は続けていないであろう(笑い)。



『いつも・・・』

小川信男会長と小川睦子取締役へ
小川建設工業創立40周年記念

                          


時々、厳しい寒さが私の心を凍らせようとした。
私は負けてたまるかと、懸命に働いた。

いつも、凍えた心を暖めてくれたのは、あなたのぬくもりだった。
そのぬくもりが私の心に勇気を涌き上らせた。
振り返れば、いつも私の人生は、あなたと共にあった。



時々、人生は私に辛さや厳しさ、そして寂しさを感じさせた。
私は負けてたまるかと、懸命に働いた。

いつも、疲れた心を癒してくれたのは、あなたのやさしさだった。
そのやさしさが私の心に信じる力を与えてくれた。
振り返れば、いつも私の人生は、あなたと共にあった。

時々、人生は私に恵みを与えてくれた。
私は恵みを喜び、懸命に働いた。

いつも、恵みを家族で分かち合えたのは、あなたがいたから。
振り返れば、いつも私の人生は、あなたと共にあった。


いつも私の心の中に言葉がある。
その言葉を今、あなたに伝えたい。

愛をありがとう。


$増田章の『身体で考える』

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原宿で・・・

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【原宿で・・・】

水曜日の午後、原宿を訪れた。原宿には私の好きな明治神宮がある。若い頃、空手の試合を行なった代々木体育館もある。
またその昔、原宿には知人の飲食店や行きつけのブティックがあった(ブティックとは無縁なイメージの私だが、知人の信用で、その店ではツケが聞いたのだ)。

無骨な私には似合わない町だが、実はよく通った街だ。かといって、知っている場所しか行かなかった私は、原宿のことをほとんど知らない。


その原宿にあるゴールドジムにおいて、元キックボクシングのチャンピオン青木亮選手と総合格闘技の菅原選手とフリースタイル空手について語った。ファイト&ライフという雑誌の企画取材でのことである。


青木選手は、私がトレーニングをするゴールドジムのトレーナーで、いつも仲良くしている。彼は子供の頃、極真空手をやっていたらしく、キックのみならず空手に対して愛情を持っているようだ。すでにプロのキック選手としては引退しているが、新たなチャレンジとして、フリースタイル空手プロジェクトに賛同してくれている。フリースタイル空手プロジェクトに彼が参加してくれたことで、私はとても勇気をもらった。また試合場もとても明るくなった。彼は来年の東京オープンにも参加を決めている。本当に勇気100倍だ。同時に責任も感じている。


他方、菅原選手は、まだ20歳代前半と若い。マスタージャパンという総合格闘技のジムに所属しプロの総合格闘家を目指している。第1回東京オープンでは、キックチャンピオンの青木選手を破り、見事金メダルを得た。

今回、初めて彼と話をしたが、とてもよく物事が見えている。以外にも私と話がかみ合った(51才、初老の男と21才の若者の話がかみ合った)。また、とても実直な人柄を感じた。私は、「フリースタイル空手はプロ選手の練習の場として考えてもらっても良いですよ」「是非参加して下さい」と強引に出場要請をした。勿論、ジムの会長などに許可を得なければならないだろう。しかし彼の所属ジムの会長とはつながりがあるので、来年の東京オープンへの参加のお願いするつもりだ。


詳しい内容については来月発刊のファイト&ライフを手に取って頂きたいが、兎に角、楽しかった。

「誰の心の中にも壁はある」「人間は言葉で考える、ゆえに心の中に壁ができる」「だからこそ、体験でその壁を乗り越えるんだ」
「フリースタイル空手はいろんな人達が交流するシステムとして、壁をなるべく低くしたい」「大事なのは一人ひとりがどのように判断し行動するかだ」
「空手のルーツは間違いなく、クンフー(中国武術)だと思う」
「私はクンフーが今、面白いと思っている」
「日本人格闘家がムエタイの技(首相撲やテイクダウンのための技)を使わないのは不思議だ」
「多様な武術、文化を尊重し、その良い点を取り入れ融合していく」
「いろんな人達が自由に交流できる方が良いと思わない?」
「いろんな技術を試すことは楽しいでしょ?」


取材後、二人と原宿でお茶を飲んだ。そして先述のような「言葉」をマシンガンのように彼らに投げかけた(笑い)。青木選手は接客業(?)をしているのでおとなしく聞いていた。一方の菅原選手は、さすが総合格闘家だ。自分の考えを投げて来る。異種格闘技戦(?)は望むところのようだ。楽しかった(言葉のキャッチボールが・・・)。


蛇足ながら書き留めたい。フリースタイル空手の構想は、私の人生の中から、また魂から内発的に湧き上ったものだ。

口の悪い友人からは、「お前は頭が悪い」と馬鹿にされた。更に畳み込むように、「人の意見を先ずは受け入れろ」と。私は「聞いた風なことを抜かすな」と思ったが心の中で封印した(なぜなら徹底的にやり込めなければならなくなるから・・・。口は悪いが私はその友人が好きである)。残念ながら、そんなことを言う者には、死ぬまで私の考えは理解できないであろう(残念ながら)。

身内には申し訳ないが、フリースタイル空手の構想は利害、損得抜きだ。端なっから・・・(皆さん、私の友人の云うことは正しい?)。
思い起こせば20年程前、「極真空手を最高の空手にしたい」と、私は師の前で宣言した。

極真空手が最高の空手となるには、日本のため、極真会のためということに止まってはならない。空手や武道を手段・道具に四海(世界中)のため、斯界(武道会全体)のため、社会全体を益するという志、思想が必要だと思っている。以下は私の尊敬する先達、吉田松陰の言葉である。私が絶えず傍らにおいておきたい言葉だ。

【吉田松陰の言葉】

『かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂』
『世に認められるかそうでないかは、天命による。自分にとってはどうでもいいことである。自分が楽しいことをして楽しむ。それだけで満足なのだ』

『何事においても出来ないということはない。それは行動していないだけだ』


最後に、25年来の知己である、イー・ファイトの熊久保さんの代役で、スポーツライターの布施剛治さんが記事を書いて下さると言う。
布施さんは優れたスポーツノンフィクション?(何というかわからない)の著作がある一流のライターだ。出来上がりが楽しみである。布施さん忙しいところ、ありがとうございました。



【追伸】
昨日の稽古後、インテリの道場生と話をして考えたことがある。
「良い体験」を得ることが、「悪い体験」による心の壁、心傷を更新し、癒すのではないか。
フリースタイル空手のルールと理念は、多様な歴史を有する人間の心を解き放ち、人間は皆、仲間なんだという認識を与えられるように考えてある。私は格闘技の愛好者に良き体験を与えたい。それが斯界の発展に貢献するはずだ。
そのために私は、日々、すべてを更新し続けるだろう。




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