22日のフランス・フリースタイル空手セミナーのために特別にフリースタイル空手の基本原理を公開します。
この概念は、BABジャパンから出版する書籍の中心概念です。
フランスの空手は、松濤館が本流です。
しかしながら、私は、本流も亜流もない、独自の武道哲学を伝えたいと思います。難しいとは思いますが・・・。
尚、フランンス語の翻訳は、早稲田大学のフランス人留学生、ルーカス、英語翻訳は中台君が担当してくれました(両者ともTOEIC満点のようです)。
彼らは、私の道場のインテリチーム?です。急な依頼に応えてくれて、本当にありがとう。
思うような結果を出せないかもしれませんが、私は自分に降りてきているものを信じています。いつかそれは、みんなの中にある何かを、必ず動かすでしょう。
[French version]
Le concept du « Retournement » (Tenji)
Il existe deux types de « Retournement », l’un étant Macro et l’autre Micro.
Un Micro « retournement » peut être définit comme étant la forme la plus basique de stratégie utilisée en combat comme par exemple : frappes contre frappes, saisies contre saisies, et saisies contre frappes. En ce sens sa définition serait « le fait de rendre les attaques de l’adversaire inutiles et de riposter avec une efficacité maximale ».
Un « retournement » dit Macro quant à lui s’adresse au même type de situation avec toutefois une approche plus générale. Il peut être définit comme étant: « l’acte d’établir un avantage durant le combat grâce à l’utilisation de techniques variées dans l’optique finale de remporter la victoire ». Ces 2 concepts font entièrement partie du domaine de la stratégie et il est donc possible d’affirmer que le Freestyle Karaté qui requiert à la fois un raisonnement tactique et la connaissance d’une large palette de techniques de saisies et de frappes peut être considéré comme étant un« Sport de stratégie».
Ce qui serait considéré comme « Retournement » en Freestyle Karaté serait le « Micro retournement» dans sa majeure partie (ce qui est technique/l’acte à proprement parler). Le « Retournement Macro » peut être vu comme étant purement de la stratégie (approche/raisonnement).
[転じの概念」
「転じ」には、「小局的・転じ」と「大局的・転じ」があります。「小局的・転じ」とは、打撃技対打撃技、組技対組技、打撃技対組技という3つの戦闘(組手)局面における、戦術の基本原理です。それを戦術の領域における「転じ」とします。その定義は、「対手の攻撃を無力化し、反撃の効力を最大化する状況をつくること」です。また、「大局的・転じ」とは、「戦術の運用により、対手と自己の関係における自己の優位性を確保し、最終的な勝利を得るための状況をつくること」です。この領域は戦略の領域です。この2つの転じの原理をもって、打撃技と組技を駆使する、フリースタイル空手が、戦略的格闘スポーツとなるのです。
但し、フリースタイル空手おいて、転じの原理と言えば、先述の小局的・転じのことと考えて下さい。また、大局的・転じとは、戦略と考えて結構です。
[English version]
「The concept of Tenji(the Turn-around)」
There are 2 types of "Turn-around", one being Macro and the other Micro.
A Micro Turn-around can be seen as the most basic form of strategy used
in combat which are strikes vs. strikes, grappling vs. grappling and
grappling vs. strikes. It's definition would be the act of "rendering
one's opponent's attacks useless and striking back with maximum effect".
A "Macro Turn-around" takes a look at the same situations with a more
overall view and can be defined as "The act of establishing an advantage
in combat through the use of various strategies with the final objective
of winning the fight." These 2 concepts both belong well and truly in
the realm of strategy and it can be said that Freestyle Karate which
requires tactical thinking in the use of its wide range of striking and
grappling techniques can be referred to as a "Strategic Sport".
What is referred to as "Turn-around" in Freestyle Karate would be "Micro
Turn-around" for the large part (which is technical). The "Macro
Turn-around" you can say is purely strategy.
転じの概念
フリースタイル空手の重要概念
Important consepts of FreestyleKarate
フリースタイル空手の重要概念 その1
敵(他者)を知り己(自己)を知れば、百戦(人生)危うからず(孫子)
If you know your enemy and know yourself, in a hundred battles you will never be defeated.(Sun Tzu)
追伸
"空手は、突きと蹴りだけで良い”
"空手には、頭部打撃は必要ない”
"空手には、組技はない”
すべて間違っていると、私は思う。
空手は本来、自由である。
また、自己の自由を奪おうとするものに対する手段(護身術・武術)である。
その空手家が不自由を良しとしているとしたら、それは矛盾だ。
但し、断っておく。
私は、戦術(戦法)や技術が最も重要だと考えるのではない。
私が考える、最も重要なことは、戦略を創りあげることである。それは、哲学を創りあげることでもある。
於 フランス・リール
増田 章
技と知性の相互作用による、価値ある創造物
フリースタイル空手は打撃技と組技が使えるため、戦術が多様になります。
ゆえに戦略の必要性が高まるのです。
それを難しいと考えないで下さい。
例えば、私達は言葉を使います。言葉は単語と単語を、法則に基づき組み合わせ、意味を創出します。
ここでいう法則とは、文法と考えて良いです。
先ずは、単語のように多様な技術を憶えて下さい(言葉より、はるかに少ないですが、皆さんが思っているより多いかもしれません。また、技は身体の形態によって多様になると考えれば、言葉同様多様かもしれません)。
とりあえずは、憶えるだけなら、誰でもできるはずです(その技の効力を高めることは、難しいですが・・・・)。
次に、その単語のような技を法則に基づき組み合わせて意味を創出します。
つまり、それが戦術です。
フリースタイル空手のめざすことは、自他が織りなす組手を、技と知性の相互作用による、価値ある創造物(芸術)にすることです。
先ずは、基本を見直して下さい。立ち方、動き方、突き方、蹴り方、組み方、バランスの奪い方、隙の見つけ方等など・・・。
自由の意味?〜自由を最も大切にする国、フランスから
人間は、皆同じ。でも、一人ひとり異なります。
言葉として考えると、非論理的だと思います。
しかし、真実の世界は、言葉による、論理的な世界とは異なります。
その意味は、人間は通常、腕があり、足があり、眼があり、耳があり、鼻があり、口があります(勿論、例外もあります。それは悪いことではありません。そのような人も人間です)。
つまり、私が言いたいことは、フレーム(枠組み)は同じだということです。
また、腕は肘の反対に曲げることができますが、肘側には曲がりません。つまり、ルールは同じです。
ようするに、人間は同じ枠組み、ルールを共有しているのです。そのことが、人間は皆、同じということの意味です。
しかし、その人間が一人ひとり異なるのは、なぜでしょうか?
もう、ご理解頂けたと思います。
それは、使い方が異なるのです。
使い方が異なることが文化の創造のルーツかもしれません。それでは、なぜ使い方が異なるのでしょうか?
そのようなことを考えていると一日がすぐに過ぎてしまいます。短い時間で考えてみます(直観的に)。
私は、それは哲学の違いだと思います。哲学と言うと難しく感じるでしょうが、それでは、“ものを思うこと”と考えてみて下さい。
私は、人間は、身体という枠組みとルールを使い、ものを思うことによって、自分を作り上げるのです。世界で唯一の・・・。
しかし、その哲学は、他者の影響を受けます。
ここでいう他者とは、自分が所属する(自分を護ってくれていると考えられる)、社会構造や既存文化の体系(伝統的文化)、自然環境等々、自分の身体が感じ取る、すべてのものを指します。
ゆえに、人間は自分の意志で自由に行動等できません。必ず、他者の影響を受けています。それが、不自由という感覚を生み出すのではないかと思います。
また私は、人間とは本来、不自由ではないかとも思っています。
しかし、自分の身体から、何かを生み出す時、人間は自由を知るのです。
それが、自由の意味だと、私は考えます。
ゆえに、例え、眼が一つ無くても。足が一本無くても、自由の本質とは関係ありません。もしかすると、その方が本当の自由を知る可能性が高いかもしれません(普通は不自由だと考えるでしょうが)。
私達は、新しい何かを、絶えず生み出さなくてはなりません(独自の)。それが、喜びであり、自由の獲得だと思います(もしかすると、人間は自由にはなりたくないと考えているようにも見えます。自由の獲得には、自分との戦いが必要だから・・・)。
51才の誕生日の朝、少し風邪気味で調子が悪い中、考えてみました。
日本に帰ったら、再考します・・・。
自己を進化させる手段として
【他流との交流により、他流の良点を身体感覚として取り入れ、自己を進化させる手段として、フリースタイル空手を確立したい】
5月22日、私の51才の誕生日、大事なセミナーの一つが終了した。
このセミナーには、松濤館、極真空手、フランスIFK・魂道場、フランス真道会、合気道、柔術、フランス拳法新会など、多様な流派の人達が集まった。
ホスト役は、拳法新会である。拳法新会の師範は、フランス極真空手の出身である。
拳法新会は、突き蹴りのみならず、投げ技や関節技、寝技など、様々な格闘技術を取り入れ、新しい武道流派である。
拳法新会からの参加者の多くは、すぐにでもフリースタイル空手の試合を行なえるだけの能力があった。
それは、師範自らが、突き蹴りのみならず、投げ技を技術体系の中に取り入れ、弟子に教えることができるからだ。また、弟子達もそのスタイルが当たり前であり、違和感なく、取り組んでいるからだろう。
セミナーの途中、休憩を入れようとしたら、拳法真会の人達の多くから、休みは取らなくて良いから、もっと技を教えてくれと言ってきた。
私はうれしくなって、通常の倍のスピードでセミナーを進めた。
これまでのフリースタイル空手セミナーは、私の性格の欠陥?から、初心者にはスピードが早く、難しかった。ゆえに今回は、少しレベルを下げて、説明もゆっくりと話すようにと、考えていた。
ところが、ふたを開けてみると、彼らは、飲み込みが早く、貪欲にフリースタイル空手の技を吸収していった。結果、日本で行なうよりもスムーズにセミナーが進行できた。しかも、通訳が必要にもかかわらず・・・。
今後、10月に行なわれる、フリースタイル空手セミナー・フランスオープンに開催に向けて、フランス魂道場と協力して行くことになるだろう。帰国後、正式にIBMAへの加盟の手続きをする予定である。
更に、今回うれしかったのは、松濤館の人達が参加したことだ。
フランスでは、空手と言えば、松濤館空手のことだと言っても過言ではないらしい。組織的にはWKFという組織だ。WKFは世界最大の空手組織である。また、WKFの空手は、新しいオリンピックゲーム、残りひとつの種目の有力候補である。
現在、出版予定の書籍にも書きたいと考えているが、私が伝統空手や松濤館空手の技術や哲学に尊敬の念を抱き、研究してから、実は30年以上も経つ。
ゆえに、フリースタイル空手の基本としている、拓真道の基本概念の中に松濤館空手の基本概念と同じものが数多くある。
例えば、空手における、最も大切なもののひとつに、足さばき(運足)、目付、リズム、呼吸等があること。また、”相手との調和”、“後の先”、更には“出会いを取る”など、10代の頃から、馴染んだ概念だ。
なぜなら、私の先輩に空手協会で空手を学んでいた人がいたことや、恩師である浜井先生が大学で松濤館空手のクラブに所属していたこと、また、伝統派大会で上位入賞のキャリアのある、先生と10代の頃(駆け出しの頃)手合わせをしたことがあるからだ(もちろん顔面有りだ)。
ゆえに極真空手には、「間合い感覚のないこと」「直突きがないこと」等々、また、それらが空手には重要であるということが解っていた。
補足を加えると、先述した”相手との調和”とは、拓真道の独自概念かもしれない。なぜなら、松濤館における調和という意味を私は良く知らないからだ。私が考える、相手との調和、その意味は、「相手とよく調和できるものが、調和を破るものの本質を、いち早く見破り、それを制圧することができる」という戦闘哲学によるものだ。
フリースタイル空手の構想は、私のバックボーンである、極真空手の進化ということに、実は繫がっている(技術のみならず、思想的進化も含めて・・・)。これ以上は、書籍に掲載する関係上、書けない。
今回、セミナーに参加したフランス松濤館の人達は、年齢的にも私と同年齢ぐらい、初老の紳士といった感じの人達だった。しかし、身体は大きく、ひとりは、身長190センチ程あった。
態度は素晴らしく、技も動きも良かった。彼らは日本空手協会の人達だと思う。
なぜなら、彼らの礼法は、日本式の立礼だったからだ。因に、フリースタイル空手拓真道の組手型の礼法も日本式の立礼にしている。
今回、WKFからは2名だけの参加だったが、フリースタイル空手に少しは理解をしていただけただろうか?
私は、フリースタイル空手のルールなら、松濤館に人達も、一緒に組手ができる可能性が高いと考えている。また、松濤館の足さばき等を活かせば、充分にフルコンタクト空手の得意技である、下段蹴りに対しても対抗できるとかんがえている。
このブログを、お読みの方は、なぜ、増田は松濤館の空手に肩入れしているのだと思われるかもしれない。
それは、多くの空手家が自己の流派のみを絶対視し、他から学ぶことをしなくなっているように思うからだ。
さらに私は、他流との交流により、他流の良点を身体感覚として取り入れ、自己を進化させる手段として、フリースタイル空手を確立したいと考えている。
そうして、多様な流派が、公正にオープン(開放的に)に交流すれば、そこに創造性が生まれ、空手が進化すると、私は考えている。
The Essence of Freedam・自由の本質
The Essence of Freedam・自由の本質
人間とは本来、不自由である。
ゆえに、自由を求めるのだろう。
我々は、自由を制約や抑圧からの解放だと理解した。
それはまだ、自由の本質に至ってはいない、と私は思う。
また、自由の理解を、「自分の望むままに行動すること(選択の自由)」とするのは、まだ不充分である。
さらに、自由への希求は、人間にとって、とても危険だ。
その理解を間違えば、人間を破壊する。
私が考える、自由の理解は、
人間の身体が有する原理を前提に、
人間をより善い状態に転じる(変える)ための新しいルールを創り上げることだ。
言い換えれば、
新しい時代における、自由の理解とは、
自分の身体、そして自他の関係、そこに内在する原理を活かし、
自分の身体と自他の存在への感動と感謝を創造することである。
それが、真の自己の解放であり、
自由の意味だと私は思う。
【蛇足】
以下の写真の左側、志村けんのような人を、変身した増田章だと、勘違いしないでください。
どんなに疲れていても、以下のように変身は、しません(笑)。
素直に?
【素直に?】
今回のフランスセミナーには、秋吉栄史郎という門弟を同行している。
彼は、空手の技術が優れているのみならず、拓真道の組手型の“受け”が上手い。拓真道では、剣道や柔道、合気道のように相対で組手型を行なう。
その際、重要なことは、正確に技を出せることや呼吸を合わせることの前に、
我を無くすことが重要である。また、打撃技のみならず、倒し技がある拓真道の型の修練には、受け身ができることが必要だ。
その理由は、技術の修練のためには、反復練習が必要だからだ。
また、取り(後の先を取るもの:メイン)の修練のみならず、受け(攻撃側:サブ)側が、対手の技を受け、その技(組手型)の理法を、裏側の面から見る(感じる)ことが、技術の理解には、必要だからである。
秋吉は、組技の経験はないが、受けが上手である。それは、彼が誠実で、我を絶えず抑制する性質を持っているからだ。勿論、運動神経も良いのだろう・・・。
私は、相手の技を受け、そこから、学ぼうと思うなら、我をなるべく抑えなければならないと考えている。かといって、技が理に適っていないのに、倒されてあげるのは、私のいうところの、我を抑えるということではない。
それを言い換えれば、”なるべく素直に“ということになるだろうか・・・。
しかし、その“素直に”ということが、我々には、とても難しい。
また、多くの人が、“人間は素直が一番”とか言うが、本当に素直ということを理解しているのであろうか。
私は、“素直”という意味をそれ以上にもそれ以下にも考えてはいない。自然体という言葉も同様だ。
それらの言葉は、絶えず自分自身の真の状態・状況を見つめ直すための、キーワードだというのが私の考えだ。
「お前は今、本当にものを感じているか」「お前は今、本当に、ものをみているか」というように。
我々は、そのようにして、絶えず自分に問いかけ、自己を見つめ直すことが必要なのではないかと思っている。
フランスセミナー報告〜拓真道とは何か?
フランスセミナーでは、言葉の関係上、フリースタイル空手で統一したが、
最終日には、少し拓真道について触れてみた。
おそらく、フランスの仲間は、拓真道について理解していないだろう(日本でも理解されていないと思うが・・・)。
拓真道とは、私が極真空手をベースにあらゆる武術を取り入れ、体系づけていく、武道の名称である。
フリースタイル空手は、その技術の一部の実験場のようなものだ。
つまり、拓真道も、フリースタイル空手を中心として存在する、武術流派のひとつだと考えて欲しい。しかし、その理念は、フリースタイル空手と同じだ。
解り難いとは思うが、拓真道もフリースタイル空手も人間と武術に内在する、普遍性を追求する。更に、その普遍性を活かし、自他の融合と和解を目標とする。
また、フリースタイル空手の目的は、新しい格闘技スポーツ(新武道)を創ることである。言い換えれば、公共的文化財としての格闘技・武道を作ることだ。ゆえに、その目的が実現されれば、私的な流派は、他の流派とフラットな立場になるのは当然である。
フランスでは、大小4回程のセミナーを行なったが、フランスの人達に、フリースタイル空手はどのように映っただろうか?
これから、第1回フリースタイル空手・フランスオープンに向けての打ち合わせに入るが、先ずは、同行した荻野IBMA審判長、秋吉参段には感謝したい。
お疲れ様でした。
これから、セミナー等で感じたことや今後の課題等、時間を作り、報告したい。
柔よく剛を制す
【柔よく剛を制す】
フランスセミナーの全予定が終了し、秋吉参段が1日早く、帰国。
彼は、素晴らしい仕事をした。
フランスの人達は、彼の技と人柄に、「素晴らしい武道家だ」と評価してくれた。私もうれしい。
今朝、彼を駅で見送った。
彼は、シャルルドゴールまで、ひとりで移動する。
日本まで辿り着くかどうか心配だ(笑い)。
途中、何があるかわからない。
一方の私は、フランスのプロジェクトリーダー達とフランスオープンに向けて、打ち合わせを行なう。
活動資金があれば、大会前に再度、渡欧したいところだが、そのような余裕はない。
他の空手団体が見れば、せせら笑うような、小さい活動状況だが、小さい運動・活動が、やがて大きな運動に変化する。
そのようなイメージで、私は動いている。ゆえに、武術の術理同様、理に適った動きをしているつもりだ(そこまで考えて行動しているとは、外からは、理解できないだろうが)。
戦略の領域に、“柔よく剛を制す”というものがある。
私は、その究極の理解を、相手と一体となって動くことだと考えている。
また、私が体得した術理のひとつ、「最小の動きで最大の効果を」ということがある。
私は、いつもそれを意識している(まだまだ体得まで、至ってはいないかもしれないが)。
では、「最小の動きで、最大の効果を」、ということを実現するにはどうしたら良いか?
先ずは、相手との最短距離を理解しなければならない。その最短距離には、相手の抵抗(防禦)がない場合の最短距離がある。
言い換えれば、直線的な最短距離である(目的に対し、無駄な動きを極力無くすということ)。
補足を加えれば、この距離は、論理的かつ合理的に計測できる距離だ(簡単に思うかもしれないが、それを先ず体得することが一番難しい)。
さらに、相手の抵抗がある場合は、直線的な最短距離を絶えず回避するような、螺旋的な動きが、私の考える最短距離だ。これも大変難しい。
私流に言い換えれば、相手の反作用を回避、また、絶えず作用と反作用の関係を微調整、変化させながら動くようなイメージだろうか。時間がある時に言葉に置換したい。
次に、究極の最小の動きで最大の効果を挙げられる最短距離がある。
それは「距離を無くす」ということだ。言葉にすると、?マークが出るだろう。言い換えれば、「相手と一体となる」ということだ。
私は、この術理を、フリースタイルの組手や人生に応用することが重要だと考えている。
果たして、私にそのような術理の応用ができるかどうかは解らないが、それを目指したい。
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信念
【信念】
これから帰国する。
約2週間、8倍速で考え、行動し続けた。
日本のことを考える余裕は無かった。
私の人生の中でも記憶に残る貴重な体験をした。
それを言葉にするには、少々時間を要する。
帰国後、書き記したい。
私の考えと行動は、おそらく皆には理解されていないだろう。
いつも、そんな思いをもって生きている。
しかし、それは当然だと思っている。
私の行動は、ある信念に突き動かされているからだ。
意地の悪い人達は、そんな私を、増田章は自己肯定が過ぎるとか、思い込みが激しいと、揶揄する。
確かにそうかもしれない。
また、偏った信念が、人生を狂わすこともあるだろう。
しかし、私の信念は、ほんの僅かの人達にだが、理解されつつある。
フランスのビンセント・サイモン、ビンセント・サルサ(俗称)、ティエリー・ノートン、セルジュ・カール、ヘニー・ウェーデル。
彼らは、私が人生を賭けた、極真空手を進化させたいという、信念を理解している。
その信念は、まだほんの僅かの人にしか受け入れられてはいないが・・・。
私は、眼が曇った人達には見えないだろうが、厳しく自己を客観視している。その上で、行動しているつもりだ。それが、外から見た場合、奇異に映るのは、その人の眼が曇っているからであろう。
フランス・魂道場のティエリー・ノートンは、現在、腰が悪く(ハイキックの練習による傷害)、歩くのがきつそうだった。しかし、今朝、駅まで見送りにきてくれた。
彼は、私にガンジーの言葉を送ってくれた。
私は、ガンジーの足下にも及ばない、馬鹿でクレージーな空手家だ。
しかし、彼の知性と、暖かい友情が、約30年程の歳月をかけて伝わった、今回だった。
本当に、ありがとう。
蛇足だが、同行した荻野審判長は、日本に帰りたくないという(笑い)。
よほど、日本に嫌なことがあると察する(笑い)。
荻野審判長の友情とにも感謝する。
ガンジーの言葉
First they ignore you,
then they laugh at you,
then they fight you,
then you win.
最初は彼らがあなたを無視する。
つぎに、あざ笑い、それからあなたに戦いをいどんでくる。
そのとき、あなたは勝つ。
You are part of my Life. /あなたは私の人生の一部だ
「You are part of my Life. /あなたは私の人生の一部だ」
しばらく抱き合っていたかった。
しかし、このままヘニーと抱き合っていれば、涙が溢れ出て、止まらなくなるのが解った。
私は、必死に涙をこらえた。
仕事前でなければ、落涙したに違いない。
実は、フランス・リールのセミナーに私の大好きな女性、ヘニーが、わざわざオランダから尋ねてきてくれたのだ。
彼女は、極真空手のオールドファンの間では、極真空手最強ともいわれている、ミッシェル・ウェーデル氏の元奥方である。
まさしく、サプライズというような瞬間だった。
彼女は私の人生の一部だ。
また彼女は、ルック・ホーランダー率いる、オランダ極真の歴史の一部である。
さらに、ミッシェル・ウェーデルのみならず、ピーター・スミット、アンディー・フグ、マイケル・トンプソン等、極真空手を代表する戦士達の良き理解者であった。
彼女はいつも明るく、そして知的だ。また、他者に寛容で控えめだが、自分の意見はしっかり持っている。
勿論、彼女もまた、極真空手家であった。
私が初めて渡欧したのは、ミッシェル・ウェーデル氏とヘニーの尽力によるものだった。
それから私は、3回程、オランダを訪れている。その内の一回は、若き日の手塚社長(ゴールドジム)と一緒だった。
ヘニーとミッシェルは、我々を自宅に招き、親切にしてくれた。
また、ヘニーとミッシェルが、日本の私の家に泊まったこともある。
その時のことは、今でも忘れてはいない。
最後に、彼女に会ったのは、極真会館が分裂した直後の第6回世界大会の時だ。
分裂直後の私は、ヨーロッパ、オーストラリアを回ったり、様々な政治活動をしていた関係で、練習不足だった。私には、全盛期のスピードもスタミナも無かった。正直、私が最も悔しかった大会のひとつだ。
彼女はその時、「あなたは私達の誇りだと」言ってくれた。感激した私は、ヘニーと抱き合い、涙した。
それが英語による慣用的な表現だと、当時知らなかった(笑い)。
振り返れば、21才の時、初出場した第3回世界大会で、当時ヨーロッパ最強だったミッシェル・ウェ-デルと3回の延長戦を戦った。自分でいうのもなんだが、あの試合程の死闘を、私はみたことが無い(極真空手で)。
その時ことは、拙著、「増田 章 吾、武人として生きる」にも書いたが、ミッシェル・ウェーデルも悔しかったに違いない。なぜなら、本戦では、彼が勝っていたのだから・・・。後半、私が持久戦で盛り返した(しかし、本当は極真空手の判定方法に問題があるのだ。ヘニーは私の考えを理解した)。
また、アンディやマイケル、ミッシェルの出場した、第5回世界大会の組み合わせの不公平さは、眼を覆うぐらいだった。誰もそれに異議申し立てをしないと言うことが、外国人同様、それまで、アウトサイダー的に生きてきた私には、とても哀しく、そして息苦しく感じた。
みんな、長いものに巻かれるんだなと。
そんな思い出のすべてが、ヘニーと再会し、抱き合った瞬間、喚起された。
その夜、同じく、そんな時代からの友人である、フランスのティエリーと食事をした。その時、あらためて私は、これからもその関係を大切にしようと思った。
また、ヘニーとティエリーは、私のプロジェクト(新しい夢)に協力を約束してくれた。
願わくは、私の人生最後の夢の実現へ向けて、共に歩めたらと考えている。
なぜなら、彼女は英語、フランス語と堪能で、ヨーロッパの古い極真空手と知己がある。
また、日本とヨーロッパ諸国の人達の考えの、ファシリテイター役もできるだろう。
プロジェクトを手伝っていただけると、本当に有り難い。
同じく、私の人生の一部である、岡田氏や手塚氏も、その感覚を理解してくれるはずだ。
残り時間が少なくなってきている。早く、その夢を実現したい。
伝説の空手家とオリンピック??
【伝説の空手家とオリンピック??】
伝説の極真空手家。
私のことではない(時々、私もそのようにおだてられるが・・・)。
極真空手の第一回全日本選手権大会優勝者の山崎輝朝先生のことだ。
本日、IBMAの審議委員の大森氏と一緒に、山崎照朝先生と食事をした。
実は、フランスから帰国してすぐ、大森氏から、極真空手の大先輩の山崎先生とご一緒するが、「増田も一緒にどうか」と山崎先輩(山崎先生は大森氏の大学キックボクシング部の先輩にあたる)からご指名がある、との連絡が入った。
極真空手の大先輩の山崎先生とIBMAのスポンサーの川瀬先生も一緒であり、断るわけにはいかない。
川瀬先生は、大道塾の東塾長と一緒に早大極真会を創設したメンバーにひとりで、IBMAの荻野審判長の先輩あたる。ゆえに荻野氏も同席した。
山崎先生とご一緒するのは、3度目である。
今回は、ゆっくりとお話しを伺うことができた。
山崎先生の話は、いつも歯切れが良い。
さすがに、空手家でありながら、一般企業(マスコミ)で働き、様々な業界の人達とお付き合いをした経験からか、そのご意見は、常識的で納得のいくものだった。
更に山崎先生の知己の日刊スポーツの細谷氏も同席した。ゆえに話題は豊富だった。私達は、空手の話のみならず、様々な話をした。
その中で、山崎先生は次回のIOCの会議で、オリンピック競技に採用されるのは、空手とスカッシュだと、仰っていた(聞き間違いだったら、御免なさい)。
山崎先生はオリンピック競技には、「普及度」「安全性」「政治力(競技団体の)」と仰っていた(最後の政治力の部分がよく憶えていないので、確認する)。
仰る通りだが、私は「ルールが解りやすく、面白い」と言うことも重要ではないかと、意見を述べた。
もし、山崎先生が挙げられた、3つの条件から見れば、空手はオリンピック種目になるだろう。スカッシュも同様かもしれない(私はスカッシュのことは知らないが)。
私はレスリング競技の復活を望んでいる。なぜなら私は、最大級の尊敬の念をレスリング競技に持っているからだ。
しかし山崎先生は、IOCが除外を宣告した手前、その訂正はしないだろうとのことだった。
それも、ごもっともな意見だ。
しかし、私はチャレンジャーなので、あえて大穴を狙いますと、述べた。
私が、IOCの会議で選出されると予測する競技は、空手とスポーツクライミング、叉はスポーツクライミングとレスリングである。
日本の現状から見れば、スポーツ・クライミングは普及度や政治力の点で無理があるかもしれない。これは、大穴狙いだ(不謹慎ない方だが)。
また、私の勘は、いつもあたらない(笑い)。
しかし、当たらない方が良いと思っている(笑い)。なぜなら、私の勘が当たると、嫌なことが多くなるし、困ったことが多くなる。また、早く死んでしまう(私は悲観主義者だ)。
ただ、フリースタイル空手を構想するにあたり、オリンピックやスポーツの本質について、随分考えた。
特にスポーツについては、時間を作り、纏めていたい。
私が今回、日本人として望むのは、空手とレスリングの復活である。
その他の競技を応援する方々、ごめんなさい。
その理由を先ず、空手に関して述べれば、普及度と安全性、そして政治力(フランスを中心とするロビー活動と言っても良い)が充分だ。
次にスポーツ・クライミングに関して述べる。スポーツ・クライミングに関して、本当は良く知らない。ただ、韓国のTVドラマでスポーツ・クライミングらしきものを行なっているシーンをみたことがある。
以前から私は、日本より韓国の方が、世界に対し、真剣に眼を向けていると考えていた。ゆえに、日本で流行っていない競技が実は世界では流行っている可能性もあるのではないかと考えたのだ。また、スポーツ・クライミングは知的なスポーツに見える(何度も言うが、大穴狙いです)。
さらに、知的なゲームと言う面が、オリンピック競技に必要なのではないかと私は考えている。
おそらく、陸上や水泳は知的か?と疑問を呈される向きもあるかもしれない。
しかし、陸上や水泳は、知的のかわりに、「人類がここまでやれるのか」という意味での観客の知的好奇心を満足させる。そこが、実はオリンピック競技では、重要なのだ。
ゆえに、先述の「ルールが解りやすく、面白い」と言う条件が必要だと考えるのだ。
レスリングに関しては、競技ルールの修整という課題をクリヤーしなければ、復活は難しいと思う。
勿論、レスリングの除外が、ロビー活動の問題だと言うのは理解しているつもりだ。
しかし、そのようなレッテル(オリンピック競技にはふさわしくないという)を一度でも貼られたら、そのイメージを払拭するには、どんなロビー活動も効力を失うだろう。
また、ここでIOCが転べば、世間から、金で(ロビー活動)転んだと言われるのは、明らかだからである。
ゆえに、抜本的な改革を示し、もう一度、オリンピックにおける伝統を武器に、IOCを動かすと言うのが、私のシナリオだ。
実は、ルールの修整をレスリング協会関係者に、私は提言した。僭越だが、ルールの変更は先ず、必要だと言うことを改めて、言っておきたい。
今回も随分と好きなことを書いた。
私はチャレンジャーなので、あえて人の考えない意見を述べておく。
外れても、あしからず。これも人生の勉強である(笑い)。
また、私自身の思考の訓練、また実験であると、大目に見て欲しい。
それにしても、身内から不細工だと、からかわれる私とは違い、山崎先生は男前でかっこいい。
先ずはおめでとう!レスリング
先ずはおめでとう!レスリング
残り一枠のオリンピック競技の選考が行なわれた。選考されたのは、レスリング、野球・ソフトボール、スカッシュである。
これは、最終選考ではない。
これから、9月に行なわれる、最終選考会で1種目に絞られる。
前評判が高かった空手は、非常に残念だった。
しかし、私が応援していたレスリングが、最終選考に残った。
先ずは、おめでとうと言いたい。テレビで、女子レスリングの吉田沙保里女史は、最後まで気を引き締めて、頑張りたいと述べていた。
さすが、オリンピック3連覇のアスリートの言葉である。
一方、「一体、オリンピック競技の選考基準とは何だろう」と言う声が、ジャーナリストの声からあがるのではないかと思う。
「普及度」「安全性」「わかりやすさ」等、選考基準があるのは、わかっているが、本当にそれに該当するオリンピック競技だけが残っているのだろうか?
また、本当にそれがすべてなのだろうか?
私は、競技のわかりやすさと面白さが、オリンピック競技の重要な要素だと考えているが、そのような競技だけが、オリンピック競技に残っているのだろうか?
以上のような疑義から、オリンピック競技に一番必要なのは、「政治力」ではないかと、あらためて考えている。その政治力には、資金力も含まれる。また、ロビー活動はそれに付随するものである。
また、正直言って、IOCの決議方法は、不透明な部分がある。
ゆえに、眼に見えない政治力が、重要なのだという感が否めない。
しかし、レスリング連盟の政治力はかなりあるようだ。
また、レスリング界の人達の頑張りは、ものすごいものがあるようだ。
この感じなら復活だって夢ではない。
しかし、あえてルールの「わかりやすさ」を改善してもらいたい。
そして、レスリング関係者以外の人達(観客)に「レスリングは変わる」とのイメージを与える戦術が良いのではないかと思っている。
大事なことは、オリンピック競技としてのみならず、格闘技としての伝統とその素晴らしさを、レスリング関係者以外の人達に伝えること。
また、それらの良点をより多くの人達と共有する言う方向になれば、「雨降って、地固まる」と言うようになる可能性もあると思っている。
交流試合・フリースタイル報告
【交流試合・フリースタイル報告】
IBMA極真会館、2013前期交流試合が終了しました。
選手、サポートスタッフ、審判員の皆様、お疲れ様でした。
本交流試合では、昨年に続き、極真スタイルの試合に加え、フリースタイルの試合も行なわれました。
参加者は多くありませんでしたが、うれしいことが多くありました。
そのすべてを書くことはできませんが。
そのうれしいことの中に、黒帯のY君が1勝を挙げたことがあります。
Y君は、フリースタイルのために柔道まで習い始めた前向きな男です。
しかし彼は、仕事が忙しく、練習時間」が余り取れません。ゆえに、これまで、フリースタイルで1勝もしていませんでした。
今回、その彼が勝ちました。私は、とてもうれしく思っています。また、その勝利が彼に力を与え、今後増々、上達することを期待します。
また、選手について少し書きたいと思います。
今回、昨年の第1回フリースタイル空手オープンに出場したK君も出場しました。K君は、本来、身体能力が高く、打撃力もあります。
彼は、組技に対応する技術さえ身につければ、かなり有望だと思っていました。今回、フリースタイルの技術にかなり進歩が見られました。
今後の課題は、フリースタイルに有効な戦術の知識がまだまだ足りません。平たく言えば、技が少な過ぎます。このことは、他の選手にもいえます。
フリースタイルは、打撃技の戦術(戦法)と組み技の戦術(戦法)が掛け合わされることによる、多様な戦術が生まれること。また、組み技に関しては、道着を掴んで投げる技、レスリングや相撲のように組んで投げる技、ムエタイのように首を取って攻撃する技等、戦術が多様です。
勿論、多くの戦術、技を持っていれば、勝てるというように安直なものでもありませんが、
少なくとも、得意な打撃技3~4種、倒し技3~4種は、必要だと思います。また、相手は多様ですから、その多様な戦術や技に対応するために、それら戦術や技に対する理解も必要です。
私は、K君のセンスなら、1年くらい集中して、フリースタイルを練習すれば、かなりのレベルになると思います。
今後のFKPの予定の詳細は、別の機会に告知するつもりですが、2年後にフリースタイルの世界大会を予定しています。現在、急ピッチで普及の準備を進めています。これから、本腰を入れれば、間にあうと思います。
今回、優勝したのは、早稲田大学の留学生でフランス人のルーカス君です。
彼は、フランスで新極真の道場に1年程、通っていたそうです。
彼は、入門当初から、フリースタイルがとても好きだと言っていました。また、彼がフランスで通っていた道場のスタイルは、打撃技のみならず、掴みや投げもあり、フリースタイルと同じだと言っていました。しかし、私の道場で練習を初めて、半年程です。今回、これほど頑張るとは思っていませんでした。
やはり、若い人は、スピードやスタミナがあります(もちろん、個人差はありますが・・・)。今回、ルーカスの相手は、おじさんばかりでした(すみません、ジョークです。むしろ、40才をこえたおじさん達が20才半ばの選手とよく戦っていたと言うべきでしょう)。
また彼は、とても優秀です。
実は彼はフランスの会社から派遣されて留学しており、学業の合間は、マーケティングリサーチの仕事もしています。
その空いた時間に、さらに彼は、空手の練習をしているのです。
練習中の彼は、とても集中しています。
彼には、フランスに帰ってからも、フリースタイルを続けてもらいたいと思います。そのためにも、フリースタイルの教本と指導マニュアルを、早く完成させなければなりません。
もうひとつ、うれしいことがあります。イギリス人道場生のラリーとO君がフリースタイルの試合がとても楽しかったと語っていたことです。また、韓国人留学生の韓君が、とても頑張ったことです。
韓君は、留学生の中でも、特に日本語が上手で、真面目な学生です。私は彼を通じ、韓国の若者は素晴らしいと感じています。
また、O君は、小柄ですが、拓真道の組手型の首投げの型を教えたところ、それを見事に得意技にしたようです。彼は、その首投げを得意技に見事に勝ちあがりました。その姿は、歴戦の勇姿のような感じでした。彼は、打撃力がより強化されれば、更に強くなるはずです。私も、彼の今後が楽しみです。
もうひとり、イギリス人のラリーも頑張りました。彼は、試合には負けたましたが、御礼のメール(ファイスブックで)を私に送ってくれました。そのメールには、今回、戦略を間違えたと、書いてありました。その点を反省し、更に練習を重ねて、次回も参加したいと書いてありました。
ラリーが言うように、フリースタイルは戦略の必要性が高まります。言い換えれば、戦略が有効ならば、戦術や技の面で劣っていても勝つことが可能です。しかも、それが、誰の眼にも明らかになること。また、フリースタイル空手は、審判の好みや政治的な部分等を考慮に入れた戦略といった、不透明な要素をなるべく排除し、選手に競技に集中できるように考えられています。
言い換えれば、ルールを理解できれば、誰でも判定できるように考えてあるのです。
但し、断っておきますが、現場で瞬間的に、技術判定を行ない、試合を裁く、主審は大変です。
また、フリースタイル・ルールは、副審より主審の権限が重くなっています。ゆえに、主審には、ルールに対する深い知識と、審判経験が必要なのです。さらに、昨年のフリースタイル空手オープン後、若干のルール修整が行なわれた。主審が対応できるか心配でしたが、ほぼ難なく対応できました。
1回だけ、間違いがありました。それは、場外注意を効果として、宣告したことです。試合の結果には問題はありませんが、フリースタイル空手のコンセプトを選手や観客に伝えるという意味では、重要な点です。
具体的には、場外のポイントは、相手の攻撃により場外に押し出された場合は、押し出した選手に1ポイント(効果)を与えます。しかし、自らの過失(体捌きのミス)で場外に出た場合は、注意(イエローカード)を宣するというものです。このルールは、実は、昨年からルールブックには、記載されていましたが、審判の理解が曖昧だったので、より明確に記載の仕方を修整しました。
蛇足ながら、フリースタイル空手の目標設定は高いので、私の仕事は山積しています。本当はブログを書いている時間も貴重です。しかし、このブログも重要な仕事のひとつなのです。
願わくは、空手の経験が無い方にも、フリースタイル空手プロジェクト(FKP)に注目していただければと思っています。
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FKPのサイトをリニューアルしました!
FKP(フリースタイル空手プロジェクト)のウェブサイトをリニューアルしました。
English サイトも開設しました。是非、ご覧下さい。
最近は、私のようなIT音痴でも、簡単にウェブサイトが制作できます。皆さんもウェブサイト作りに挑戦してみては・・・。時間がないか・・・。
かく言う私も、そんなに暇なわけではありません、正直、泣きが入っています。
しかしながら、「もう止めよう」、そんな声が聞こえる時、友人や道場生のやさしい声が聞こえてきます。
今回の内容は、新しいウェブサイトのブログにもアップしています。あしからず。
【IBMA会員、FK会員等、FKPの仲間を募集しています!!】
IBMAは、日本国内のみならず世界中の人達と空手や武道を通じ、交流したいと考えています。
フリースタイル空手(FK)とは、その交流ための道具のようなものです。
私は、その道具を使い、相互理解を進展させ、互いに尊敬し合えるような、基盤作りをしたいと考えています。
知性のみならず、感性や感情、そして身体を使う格闘技スポーツや武道は、新しい文化として再創造すれば、人間の進歩に少なからず、貢献すると考えています。
勿論、私達人間にとって、科学、医学、経済、政治等の更なる進歩・発展と並べれば、武道の進歩・発展等は、瑣末なことかもしれません。
しかしながら、人類の最も原初的な心身の活動に依拠する、武道や格闘技は、人間教育に活かせば、先述の諸分野を補完する役割を担えると私は考えています。
その役割を自覚するためにも、今一度、我々武道家が、武道について、深く考える必要があるのではないでしょうか。
IBMAの目的は、武道並びに武道を愛好する武道人について深く考え、その上で、新たな発展を目指そうというものです。
その目的実現の核となるのは、新しい武道人の育成だと、私は考えます。
IBMAは日本を中心に、世界に向けて、新しい武道の創出を目指す仲間を募集しています。
FKPとは、武道を考え、再構築するための試みであり、武道の一環だと私は考えています。
是非、より多くの人達がFKPの仲間に加わっていただけることを願っています。
IBMA 増田 章
ibmaフリースタイル空手ドットコム(ドメインまだ変更していませんのでご了承の程を)
PR: プレジャーボートの事故を防ぐために-政府ネットTV
参議院選挙について
参議院選挙について
恥ずかしい話、ブログを書く、精神的な余裕がない。しかし、たまにはメモ程度に感じたことを書いておきたい。
本日、参議院選挙があった。
朝のあるTV番組で、日本在住の外国のジャーナリスト達が、今回の参議院選についてコメントを求められていた。皆、日本の将来を担う選挙だと、口を揃えていた。
また、ある新聞では、政策面での議論が活発にならないまま、選挙が行なわれることに対する懸念が述べられていた。
周知のように、現在、原発問題、TPP、憲法改正等等、我が国には問題が山積している。
にもかかわらず、議論が白熱しなかった。私は今回の選挙の判断基準は、好きか嫌いか(政党や政治家が)、否、嫌いなところには投票しないということになると思っていた。
日本国民は、そのような消極的で受動的な考え方によって、物事を決める傾向があると思う。かく言う、私にもそのような傾向があるかもしれない・・・。
結局、メデイアの予測通り、与党の大勝という選挙結果だった。
これで良いのだろうか?先ずは、メデイアの及び腰を批判したい。
勿論、大衆を間違った方向に煽動しろと言いたいのではない。しかし、深く本質を追及し過ぎることによる、リスクを回避しているかのように見える。そのような、大衆迎合的、ジャーナリストの姿勢が、日本国民のポリシー(政策)の無さの遠因かもしれないと思っている。
勿論、メデイアだけの責任ではないだろう。しかし、選挙速報では、有権者には支持政党がないという、アンケート調査を挙げていた。ちょっと待て。ジャーナリズムは、そこのところをもっと追及しなければならないのではないか。
確かに日本国民は、物事の徹底的な追及をしない傾向があるようだ。また、それを好まないのかもしれない。ゆえに何事にも責任を追及せず、曖昧にしておく。
そのような日本人の傾向が、知識はあるが、見識が脆弱な国民を醸成する。また、胆識のある政治家を育成しない原因だと思う。
先の都議会選挙のことである。私が政策面で一目を置く、ある野党の党首が、選挙結果を受けて、「風が欲しい」と言うような意味合いのことを述べていたと、新聞に書いてあったのを記憶する。
私は、その言葉にその党が躍進しない原因を垣間みた。もし、この国の政治を変えたいのなら、風を待つことではなく、日本国民に政治への関心を持たせる努力をし、党員を増やしていくことではないだろうか。
それは、他の党にも言える。この国の政治を変えるには、党員をしっかり確保した政党が、競い合っていく形が良い。政治には党と党員(同志)が必要である。なぜなら、単独では何もできないからだ。それは政治の基本である。
今回の選挙、他国の人達には、日本国民のポリシーの無さを感じさせたであろう。もう少し、丁寧にいえば、そのような生き方ででも、秩序が保たれ、幸福で自由に生きていける、有り難い国だからだ。政治を意識しなくても良いということは、幸せな事かもしれないと脳裏をよぎる・・。しかし、それは間違いだ。政治に関与しないということは、究極的に自分のことしか考えていないということに他ならない。さらに、日本人は権力に対し従順で、勤勉だが、利己的であると言わざるを得ないということになるのではないだろうか・・・。
脱線するが、私は日本国には2大政党制は適さないと考えている。日本国が目指すべきは、3党以上の政党が、時代状況により、連立を組みながら、政策を実現していくような政治体制だ。
ここで私には疑問がある。なぜ、国民にポリシーがないのだろうか。考え方が多様であるということとと関係するのだろうか?また、我が国に、宗教団体が多いことと関係ががあるのだろうか?
私は、この姿が日本本来の姿ではないと考えている。大きな変質は、戦後のような気がする。戦後の高度成長がよくも悪くも、日本国民の考える力を奪ったように思う。また、戦後処理の仕方がまずかったのではないかと思う。しかし、戦争により、優秀な人間の多くを失い、国が疲弊した状況下で物事を判断せず、曖昧にしておいたことが良かったのかもしれないが・・・。
話を戻せば、私は与党の見識に期待をするが、基本的には、日本国民の在り方を変えなければならないと考えている。しかし、それには、もう少し時間が必要のようだ。
馬淵さん、ありがとうございました!
月曜日の昼、懇意にしていただいている馬淵さんと早稲田大学の留学生のハン君とを、東京駅で引き合わせた。ハン君は、早大極真会に所属している。
馬淵さんは、創業67年、年商200億近く、経常利益3億強の商社の会長である(すみません。記憶力が弱く、確かではありません)。その馬淵さんから、ハン君に会いたいと連絡をいただいた。韓国人留学生のハン君のことを、私のフェイスブックで知ったそうだ。
馬淵さんの会社には、中国や韓国にも支社(?)があるらしい。
おそらく、ハン君が書いた、日本語の感想文(フリースタイル空手の体験感想文)を読んで、その人柄や語学力に惚れ込んだのだろう。
馬淵さんとは、久しぶりにお会いしたが、本当に周りの人の気持ちまでを明るくするような素敵な人だ。ハン君も日本に留学にきて、馬淵さんのような会社経営者に会えたということは、とても貴重な体験になったはずだ。
ハン君は、これから本国(韓国)の大学に戻り、進路を決めるようだ。元々の彼の希望進路は公務員とのこと。おそらく、コリア大学の優秀な学生である、彼の言う公務員というのは、官僚のことだろう。私はずけずけと彼に、「あなたは外交官になり、日本と韓国の架け橋になるような仕事をしたいんだな」と言うと、「仰る通りです」と返してきた。
私は調子に乗り、「それなら、更に勉強をして、外交官になれ」と捲し立てた。
しかし、彼は謙虚で、調子には乗らない。以前、韓国では、競争が激しいのだと言っていたように記憶する。
彼を社員として迎え入れたい、馬淵さんからすれば、私の発言は、KYな発言かもしれないが、私は、彼の価値を最大に高めるためのエールのつもりなのだ。
馬淵さんは、とても懐が深い。大袈裟に言うと、私がこれまであった人間の中でも、トップクラスの懐の深さだ。また、馬淵さんはとても善人に見える。だが、馬淵さんは決して、善人ぶらない。馬淵さんは、ハン君に韓国でまた会おうと、香港へ向かった。
馬淵さん、ありがとうございました。御陰で良い思い出ができました。くれぐれも、お身体にお気をつけ下さい。馬淵さんのことを大好きな人が家族のみならず、世界中に大勢いると思いますので、長生きして下さい。「バカヤロー」「俺はまだ元気だ、大袈裟なこと言うな」とお叱りになると思いますが(笑い)。
成瀬ヨーガ哲学に共感
成瀬ヨーガ哲学に共感
【秘伝の対談】
本日は、BABジャパン出版局の『秘伝』という雑誌に企画で、ヨーガの第一人者である、成瀬雅春先生と対談があった。
実は今回、私に対談の相手としての指名があったのは、成瀬先生には、縁有って、普段から懇意にしていただいているからだ。
但し、断っておく。私はヨーガについては何も知らない(ヨーガの勉強をしたいとは思っている)。これまで、成瀬先生のヨーガについての著書を何冊か読んだ程度だ。しかし、ヨーガについて何も知らなくても、たまに会合でご一緒し、成瀬先生の哲学、思想に触れると、毎回、共感と学びを得る。
今回の対談は、武術雑誌の対談であるから、もっとふさわしいテーマはあったと思う。しかし、本日は哲学的な話が多かったように思う(かといってそんな難しい話ではない・・笑い)。一応、出版社の方がリードがあるが、半ば強引に私がそういう話に引きずり込んだ。
【自分自身をしっかり見つめる】
私の中で鳴り響くテーマは、成瀬先生が著書、「最高の死に方&ヨーガ秘法」の中で挙げたヨーガの哲学思想である。それは、「自分自身をしっかり見つめなさい。これ以外にヨーガの極意はない』『自分自身を磨き上げる上げることが世界を救うという行動より,人類にとってははるかに重要だ」というものだ。
初めてその言葉を聞いた時、私は、自分が考える武道哲学と同じだと思った。
但し、後者の「自分自身を磨き上げることが世界を~」という言葉には、丁寧な説明が必要かもしれない。対談では、成瀬先生の口から補足説明を受けた。それは、納得できるものだった。
私流に翻訳すれば、一人ひとりが自分自身を幸せにすることに尽力すれば、世の中は良くなるということだ。おそらく、そういってもまだ納得しない人が多いかもしれない。
【積極的に生きる】
ゆえに補足を加える。
例えば、人生は苦しいことや困難がつきまとう。しかし、どのような状況であれ(成瀬先生は、明らかに暴力的な圧力を加えられる場合等、例外はあると仰っていた・・・?)、生きることを楽しむことを目指すということだ。言い換えれば、積極的に生きるということである。
それが、自分自身の幸せにつながる。さらに、一人ひとりの積極的な生き方が、他の人の幸せにも繫がるのだと、私は理解している。
【正しく向き合う】
そのような積極的な生き方には、物事と正しく向き合うことが必要だと思う。言い換えれば、他者と正しく向き合い、その実体を知ることである。また、それを裏返せば、自分を知ることに繫がるのだと私は考えている。
さらに言えば、自分を知るということは、他者との和合、和解が為されることでもある。以上は、私の解釈であり、成瀬先生の考えとは異なるかもしれない。
また、先述の「正しく向き合う」とは、物事に対し、より多面的、詳細(細かく)に向き合い、その中でも最も本質的と思われることを選ぶということだ。また、選べる状態を作ることだと言っても良い。
【瞑想】
聞くところによれば、成瀬ヨーガでは、瞑想を大切にするらしい。瞑想とは、自分が感じていること(意識していることを含めて)をなるべく細かく、俯瞰してみることらしい。
私は、そのような手段が物事と正しく向き合うことを可能にすると考える。同時に、こころを安らかに保つ、有効な手段になると思う。さらに、そのような瞑想法は、そのまま武道家にも有効なものとなるであろう。
再度断っておきたい。私はヨーガについては何も知らないし、ここに書き記していることは、メモのようなものである。次回,成瀬先生にお会いした時に、私の理解に問題がないか聞くつもりだ。何卒ご容赦いただきたい。
【解脱の哲学】
少し長くなるが、私がヨーガ哲学で、最も気に入っているのは、「解脱」の思想である。
「なんのこっちゃ??」「増田は何か変な教えにはまっているんじゃないか?」と思われるかもしれない。
私の父なら間違いなく、「あきら、お前、頭がおかしくなったか」と言うであろう。
少々脱線するが、私は昔、「鈴木大拙」(私の地元、石川県金沢市出身の世界的仏教学者)の思想に傾注した時期がある。帰省の際もその著作を何冊も抱えていた。その時、私の父は、私の頭がおかしくなったのではないかと心配した。その数年後、地元の北国新聞で鈴木大拙に関する連載があった。それで鈴木大拙が地元金沢の出身で、その生き方がとても素晴らしいということを知ってから、父の対応は変わった。また、その連載記事をスクラップにして取っておいてくれた。
話を戻せば、ヨーガ哲学では、生を受けるのは修行のためであり、その修行により覚醒、すなわち悟ることができないもののみ、輪廻転生があると考える(間違っているかもしれません)。
そして、修行を完成したもの、すなわち解脱したものには、輪廻転生はないというものだ。つまり、解脱とは、本当の生を全うするということだと思う。
私は、その考え方に共感する。否、それを理想としたい。しかしながら、凡夫の私は、輪廻転生を繰り返すだろう。
【生き方のイメージ】
おそらく、解脱などと言うと、多くの人は首を傾げるに違いない。
私は哲学的には、インド哲学のような立場を取らないが、思想的には、インド哲学に惹かれる。
これは明らかに矛盾ではある。言い換えれば、理論的には納得しないが、ひとりの人間として、そのような生き方を目指すのは、構わないのではないかということだ。
例えば、苦しいことや嫌なこともある人生だが、それを自分自身(魂)の修行と受け止め、積極的に生きる。それが幸せを掴むことに繫がる。私は、そのように思うのだ。
そのような物語的な生き方のイメージも、人が生きる上では、大切なのではないかと思う(再考する)。
ここで繰り返し、私の生き方のあこがれのイメージを象徴するものとして、佐野洋子先生の「100万回死んだ猫」を挙げたい。以前にも、私のブログで感想を書いた。
読後、しばらくして、絵本作者(佐野洋子)の思想とインド哲学が、私の中で繫がった。勿論、作者の考えと私の考えとは、異なるかもしれない。
しかし、そんなことはどうでも良い。私の中にそのような思想が芽生えているということが重要なのだ。また、それを私は、育てていきたいと思っている。
あらためてお伝えすれば、「100万回死んだ猫」の主人公は、100万回輪廻転生を繰り返した。それが、最愛のパートナーと出会い、人生を供にすること(供に暮らし、それが亡くなるまで)により、真の愛を知ったのだ。すなわち、僭越ながら、佐野洋子先生流に言えば、真の愛を知ること、それが真の生なのである。
私には、そのように感じる。
【蛇足ながら】
蛇足ながら、ここ数カ月、フリースタイル空手の大会の企画と、自分の道場の整理について、私は頭を痛めていた。秘伝を出版している、BABジャパン出版局と話を進めていた、出版企画も手が付けられなかった。私は、集中タイプなので、構想がまとまり、書き始めれば,おそらく2ヶ月位で出来上がるはずだ。
構想は、ほぼ纏まっていた。しかし、頭を悩ますことが多いのだ。きっと、空手の練習をやり過ぎて、勉強で頭脳を鍛えるのを怠ったからだと思う。
盆休み中も、道場やフリースタイル空手プロジェクトを運営するための、データベース作りのめどが立った。
大きな夢を実現するには、労力が必要な事は言うまでもない。しかし、労力はコストであり、資金が必要だ。私はずっとその悩みを抱えている。
そこで、データを合理的に管理し、活用する仕組みを作りたいと思っていた。その念願がようやく適いそうである。実は、私のような頭の悪い人間でも、安価で簡単にデータベースを作れる仕組みが、世の中には出回っていた。
とは言うものの、そのカスタマイズ(変更)には、30時間はかかったが・・・。
おそらく、これから実際にデータを入力し、問題点を修整したり、機能の追加などに、1ヶ月位かかるであろう(せっかちな私には、とてもストレスだ)。
そんな中、成瀬先生との対談は、こころのマッサージ、ストレッチと言っても良い、身体にエネルギーが充電された感じがする。
成瀬先生、ありがとうございました。