13-2-11ブログ続き
さて、本題に入る。
柔道界の問題に関して、世間では、性的暴力は論外として、体罰を完全な暴力と認定することに、戸惑いがあるようだ。
事実、体罰の是非に関する、新聞、テレビのアンケートによると、絶対反対派と一部容認派で二分している。
また、「そもそも、五輪代表選手は、自分の弟子ではない、預かった選手を、自分の弟子のように扱うことが良くない」というような意見もある。
もっともな意見だが、そのような意見は、自分の弟子だったら、体罰は良いという考えであり、体罰一部容認派であろう。
【15名の女子選手の異議申し立ての意味?】
私なりに、女子柔道日本代表選手15名の異議申し立ての意味は、何であるか考えてみた。
これまで、幾多の困難を乗り越えてきた、アスリート達の尊厳・プライドの問題なのだろうか? 勿論、そのような個人のプライドも尊重しなければならないのは、当然である。
一方、「日本代表たるもの、金メダルを取るために、鬼とならなければならないのでは」と、あえて反対意見を挙げて見る。
つまり、日本代表選手が、もし、気の入らない稽古をしていたら、一喝したくなるのでは、という意見だ。
しかし、例え、そのような事が、仮にあったとしても、猿回しの猿であるまいし、暴力や恫喝は、良くないと私は思う。「猿回しだって暴力は使わない」と、猿回しの方にお叱りを受けるかもしれないが・・・。
【アスリートとは何者か?】
少し脱線するが、私は、「アスリートとは何者か」と考えてみた。
その結果、「アスリートとは、競技に集中する事で、心身の解放と人間の自由に到達し、かつ、それを表現する者である」となった。また、「アスリートとは、心身の限界に挑戦する事で、その不自由を乗り越え、真の自由を獲得する者である」という事が加わる。
そこには、自らが考え、行動し、掴み取っていくというイメージが浮かぶ。
つまり、他者から強制されたり、人に頼ったりする事は、アスリートとしての理想から遠ざかるということ。同時に競技スポーツの理想から遠ざかるという事でもある。
極論すれば、人からの評価さえ、気にしてはいけないように私は思う(人の応援や期待を喜びに感じる事は構わないとは思うが・・・)。
さらに突き詰めれば、もし、オリンピックゲームがスポーツとアスリートの理想を表現するものであるならば、その目的は、国や人のためではないはずだ。
しかしながら、その純粋に自分のための行為が、他者に対し、勇気を与える。さらに、選手同士、観客同士が人間の可能性と普遍性を共有することで、人類は仲間だという実感を与える。
そのような事が、オリンピックゲーム、そして、スポーツの理想ではないだろうか。
話を戻せば、オリンピック選手のみならず、スポーツ選手は、猿回しの猿ではない(猿回しの方、何度も例えに使って、すみません)。
但し、社会には、猿と同等の人間が存在するのも事実である。そのような者には、体罰と言う訓練方法も必要だという方もいるに違いない。
しかし、それはスポーツではない。また、人間教育という事とも異なる、私は、それを人間訓練と言って区別した方が良いと思う。
ここで、私の意見に少しぶれがあるように感じる方もいるかもしれない。
それは、最低限の社会生活もできないような人間に対する、人間訓練の必要性が念頭にあるからだ。しかし、そのような者に使う体罰も“愛の鞭”ではないと言っておく。それは、まぎれもない暴力なのだ。その場合の体罰は、暴力によって、「人間と社会をなめると大変な事になるぞ」という、ある種の注意喚起を暴力によって促している場合が多いと思う。
私の考えだが、残念ながら、人間と社会において、暴力が現出する可能性はなくならない。ゆえに、我々は、暴力の本質をしり、それが現出しないよう、暴力性の昇華に対する智慧を持たなければならない。
柔道の創始者、嘉納治五郎が唱えた、「精力善用」の意義も、暴力性の昇華にあると、私は考える。
今回、異議申し立てをした女子選手には、単に暴力やセクハラの問題としてのみならず、将来の柔道界やスポ―ツ界を見据えた、問題提起をして欲しいと願っている。
山口女史はそのような考えで行動しているはずだ。
ただ、繰り返しになるが、このままでは、女子選手と山口女史は、見殺しになるかもしれないと危惧している。
(長くなるが、さらにこの問題について、日本人論を加えた意見を述べたい)
アスリートとは何者か?〜柔道家、山口香女史を応援する、その2
柔道家、山口香女史を応援する〜その3
前回、「このままでは、女子選手と山口女史は、見殺しになるかもしれないと、危惧している」と述べた。
どうも日本人の判断基準は、情緒・感情をベースにしているように思えてならない。また、日本人は、それを日本人の美徳と思っているようだ。
例えば、過ちに際し、日本人的考え方の典型に、「罪を憎んで、人を憎まず」というものがある。この言葉に現れる、多分に情緒的な判断基準は、日本人のバランス感覚の現れでもあるが、私の好みではない。
先述の言葉の背景にある、思考パターンについて考えて見た。大体、以下のようなパターンになる。
その①「罪を憎み、人も憎むという考え」、その②「罪を憎み、人は憎まないという考え」、その③「罪を憎まず、人を憎むという考え」、その④「罪を憎まず、人も憎まないという考え」というように。勿論、4つの考え方のみならず、それぞれの中間的な考えの人もいるであろう。
何を言いたいかというと、先述の考え方、すべてが、感情を基盤にした判断基準であるということだ。
私も感情に左右され易い。例えば、心の状態が良くないときの判断基準は、①の「罪を憎み、人も憎むという考え」かもしれない。
しかし、心の状態が良いときは、先述の考え方、すべてを否定する。そして、先述の例に従えば、「罪を憎まず、人も憎まないという考え」で物事を考える。
その意味は、「感情をひとまず、脇において、なぜそうなったかを徹底的に考える」という事だ。つまり、自分の感情も相対化し、その上で、何が原因か突き止めるのである。
それは、二度と罪を繰り返さないために必要だと思うからだ。補足を加えれば、“罪”という概念の設定にも、問題があるかもしれない。そこも徹底して考えなければならない。
断っておくが、私もすべての問題に関して、そこまで考えるということは、しないかもしれない。しかし、事が重要だと思えば、徹底的に考えなければならないと思っている。
誤解を恐れずに言えば、今回の女子柔道選手、15名の訴えは、バスケットバール部の体罰の事件や女子柔道部員に対する、セクハラ問題がなければ、内々で話はもみ消され、うやむやにされたはずだ。
ただ、それは柔道界に限った事ではないだろう。
問題をオープンにし、事を大きくすれば、世間的評価が落ちる。誰もが避けたい事である。しかし、そのような傾向が続けば、必ず組織は、いつか腐敗する。
国も然りである。現在の平均人生は80年前後、その単位では、それが実感されないだけの事だろう。もし、人生が200年あれば、必ず、そこに原則のようなものが実感されるはずだ。
しかし、かく言う原則とは、絶対の法則ではないと思う。自覚さえあれば、調整可能な事だ。
私は、人間が如何に間違いを犯し易いかさえ自覚し、絶えず、それを意識できれば、かなりの過ちを回避する事ができるのではないかと思う。さらに、小さな問題が大きな問題に移行しないよう、その芽を摘み取り、軌道修正できるはずだ。
そのためには、物事を絶えず相対化し、論理的に考える事だと思う。
再度、アスリート論を述べさせていただくと、アスリートに求められるのは、身体能力や芸術的な身体表現だけではない。競技に勝利するためには、高度の判断力も必要とする。そして、それらを養成するためには、絶えず物事を相対化し、科学的に物事を考える事が重要であろう。その上で、それを超越するかのごとく、限界に挑戦していく。それが、アスリートのあり方だと思う。また、そのような挑戦を通じ、得られる人間的成長をスポーツによる人間教育というのだと、私は考えている。
【日本的メンタリティー】
今回、声を上げた人間は、今後10年は冷や飯食いとなるかもしれない。
私は部外者ではあるが、そんな理不尽を見逃せないという気持ちで、今、ブログを書いている。
同時に、「部外者ではあるが・・・」という前置きをして意見する、そんな日本的メンタリティーが、そもそも良くないと思っている。また、そのようなメンタリティーが、この日本社会に充満していることが、この問題の本質に繫がっているのではないかとさえ思う。
さらに言えば、「部外者は意見するな」「何もわからないくせに」、そのような感覚が日本人には強いのではないだろうか。
私は、そのような考え方を革めるべきだと考えている。なぜなら、公共的な組織は、絶えず外部・他者に開かれていて、それとの相互補完、相互作用で発展力を強化していかなければならないと思うからだ。
おそらく、日本人と日本社会に封建時代の刷り込みと偏見、排他性が、いまだ残存しているのではないだろうか。また、伝統や文化という言葉で、それらがカモフラージュ、美化されているからではないかと思っている。それを日本的メンタリティー(日本という地域生活者の心理的状態)と仮に言っておく。
しかしながら、そんなものと、本当に大事にすべき伝統と一緒にしてはならない。その正体は、村八分に対する恐怖と異端に対する排他性なのだから。そのように言えば、言い過ぎだろうか。
私は、伝統を継承するとは、伝統という概念がもたらす価値を、権威化し、利用するというようなことではないと考えている。
私が考える、伝統を真に継承するとは、古い言葉だが、百尺竿頭に一歩を進めるような覚悟で、絶えず自己変革と技術革新を行うことだ。そして、絶えず進化し、他者をリードすることだと思っている(伝統については、今後、再考したい)。
【山口女史の本音】
山口女史は、2月10日の読売新聞のインタビューで「アスリートの声が全く挙らないことが不思議だ」と、つぶやいていた。私は、その言葉に、彼女の本音を感じる。また、心を外部に開き、自分と異なる他者をリスペクトするという考え方に共鳴する。
おそらく、アスリートからの声が挙らないのは、私が長々と書いてきたように、アスリートも又、典型的な日本的メンタリティーの保有者だからだ。
もっと過激に言えば、日本のアスリート達の多くは、斯界という村から村八分にされるのが怖いから、言いたいことが言えないのだ。
我が国においては、為政者が秩序形成に利用した、儒教思想の中に存在する、上下身分の思想が、今も私達のこころに深く刻み込まれている。
「弟子が師に意見を言うこと」「身分の下のものが身分の上のものに意見をいうこと」「女性が男性に意見する事」等等、それらはすべて、してはいけないことである(本当は様々な儒教思想があるのだが、一般的なイメージとして)。
つまり、そのような意識による弊害とコミュニケーション能力の不足、それらを併せた信頼関係の不足等も原因の一つであろう。
数百年前の日本では、上下身分を超えて、意見をしようと思えば、命懸けであった。それを伝統、美徳だという考え方は、もう止めにしよう。かといって、自分の能力不足を棚に上げ、不平不満を回りのせいにして、すぐに不満を述べるのも良くない。
しかし、ひとつの提案として、画一的な教育方法や指導方法を見直し、多様かつ普遍的なアプローチ方法を考えること。同時に、他者との活発な意見交換を可能とするための、意見交換のルールを考えて見るのも良いと思う。
私は、知識人を含めたメデイアの方々に対し、実験的でも良いから、新しい試みを行なうという地点に、我々、大衆を導いて欲しいと言いたい。
柔道家、山口香女史を応援する〜その4
その4
【柔道界だけの問題ではない】
今回、女子選手達に、どれほどの覚悟があったかは、実際のところわからないが、男性には解らない、苦悩があったに違いない。だが、自分の娘の苦悩だと思って、応援したい。
この問題は、「柔道界だけの問題ではない」と・・・。
私は、今回の女子選手の行動の意味は、悪しき封建時代ような組織体質に対する違和感と意義申し立てなのだと思っている。しかし、時代劇のように、闇に葬り去られるに違いない。体裁だけ整えて。
【フランス柔道】
ところで、フランスの柔道人口は80万人、日本は20万人だという。その差を生み出す要因について、今回の問題と併せ、考えてみる。
先ず、フランスは社会主義の国である。つまり、人権思想が強く、個人の立場や権利を尊重する。そのような国では、暴力によって人を従わせるという事を、下等な事だと考えているのではないだろうか(先進国なら当然の感覚ではある)。
また、日本のような、上位の者しか意見を言えないという空気が無いのではないか。自然、組織のルールも日本とは異なってゆく。例えば、柔道の練習方法も選手自らが考え、選択するということを重要視するというように。
さらに、フランスにおける柔道指導は、子供から老人まで、まさしく生涯スポーツとしての指導を基本にしていること。また、フランスでは、柔道に人間教育の一環を担わせるという認識があるようだ。
以上のような要素が、4倍の差となっていると、私は観る。それは同時に、柔道が可能性に富む、魅力的なスポーツである証拠でもある。
ここまで言っても、「それはフランスでのことであって、日本には、日本のよい点がある」。また、「どの国も、その風土にあったやり方、文化がある」と言われる人もいるかもしれない。確かに、そのような面も否定はしない。
さらに、「人口が少なくてもメダルの数が我々の方が多い」「柔道精神は、目上の人を敬する事が重要であり、フランスより日本の方が、その精神が浸透している」等々。反論の声が上がるに違いない。
おそらく、日本側は、自分たちの不足点を認めないだろう。もし、私の想像どおりだったら、山口女史以下、15人は討ち死にだ。
この問題の本質は、柔道界や日本スポーツ界の人間育成システム(人間教育システム)のみならず、日本の人間教育システムの問題だと観ている。
【今回を機に~】
私は、今回を機に、日本における、スポーツのあり方を見直しをしてはどうかと思っている。
具体的には、チャンピオンスポーツ、学校スポーツとして、発展してきた日本スポーツのあり方を見直すということだ。
僭越ながら、もっと時代にあったスポーツの展開方法があるはずだ。更に云えば、大学教育を始め、学校教育も見直す時期ではないだろうか。教育は、国家、100年の計の支柱である。
具体的に言えば、地域社会における、生涯スポーツ(国民体育)、又、スポーツの世代間コミュニケーション・ツールとしての効用を考え直してみてはどうだろう。サッカー、Jリーグの展開方法等はとても参考になる。
しかし、そこに立ちはだかるのは、有力なスポーツの多くが、学校スポーツとして展開されてきてたことによる、様々な既得権益、利害が発生しているという現実だ。
よって、そう簡単に片付けられはしないこと、話を進める事の困難は、想像がつく。しかし、構造改革の第一歩を進めることぐらい、できるだろう。
【ホウセンインギョク~私の提案】
もう少し、「抛磚引玉(ホウセンインギョク、私が好きな中国の言葉で、意味は、自らの稚拙な意見を投げ出し、皆の優れた意見を引き出すという意味)」を行ないたい。つまり、私の提案を投げだす。
まず、フランスのスポーツ界のようにスポーツを一つの連盟で纏めること。現在、日本体育協会があるが、その組織も形骸化している感が否めない。ゆえに再編成するか、別のすべてを包括するような組織を創ったらどうだろうか。
さらにヨーロッパの国で採用されている、スポーツ省のようなものを日本でも創設することも一案かもしれない。それは、決して税金の無駄遣いにはならない。無駄な地方議員の数を削減すれば、すぐにでも実現できる。
そのようにして、細分化され、たこ壷化した各界の可視化を図り、連携できるようにするのだ。また、チェック機能の強化も必要だろう。なぜなら、スポーツや芸能の世界は、とかく権力構造を生じ、腐敗しやすいからだ。
それが、今一歩、スポーツへの理解が進まない原因の一つではないかと私は思う。
言うまでもなく、スポーツは重要な外交カードになり得る、また、国際貢献に繫がるだろう。
周知のように、我が国は、経済的には、世界のトップ水準である。又、文化レベルもトップクラスだと思う。しかしながら、スポーツやスポーツ選手に対する理解、リスペクトに関しては、世界標準に至らないように感じるのは、私だけだろうか。
私はまた、スポーツの価値を高めるための鍵として、スポーツを学校スポーツやプロの壁を取り払う事を提案したい。大変な作業になると思うので、政府がサポートしなければならないだろう(本当は民間だけでやれれば良いが、上下意識の強い日本人には民主的な活動は難しいだろうから)。
そのキーコンセプトは、「すべての世代が共に」というものだ。つまり、スポーツを老壮青少、子供から大人まで、生涯に渉るもの、あらゆる世代を繋ぐものとして考えるという事だ。
そのような組織や構造を構築すれば、スポーツは、社会にとって、無くてはならないものになるだろう。
最後に、今回、山口香女史が行なった柔道界に対する変革の提案は、大変、勇気のいる事だと思う。これまで、長々、書いてきたが、私の言いたい事は、一言で片がつく。
それは、「山口女史のような、真に斯界を愛し、志の高い女性(人間)を見殺しにするな」という事だ。そんな日本、日本人は、大嫌いだ。
東日本復興祈念日?
東日本大震災から、明日で二年が経つ。
震災当初は行方不明で、亡くなっているのだろうと思っていた、岩手の知人の生存が、最近、わかった。元気で頑張っているらしい。一度、岩手を尋ねたいと思っているのだが、時間が捻出できない(近いうちに必ず実現するつもりだ)。
メデイアからの情報によると、震災復興は、遅々として、進まないというのが現状らしい。実際のところはわからない。
しかし、被災地とのつながりのない私には、メデイアからの情報がすべてだ。
是非、テレビを含めたメデイアの方々には、せめて、毎年3.11の前後には、震災の特集を組んで欲しいと思っている。そうして、震災の事を忘れないようにした方が良いと考えている。
勿論、一部のテレビは、しっかりと特集を組んでいた。しかしながら、そのぐらいでは、すぐに風化するのが目に浮かぶ。それが世の常か。だが、それではいけない。まだ、震災の総括、反省も、今後の展望も見えてきていないのだから。また、原発の是非論争も、最近は下火になりつつある。と言っても、私に何かできる訳ではない。
それでも、日本国民の多くが、問題を共有する事が重要だと思う。更に、政府は、問題の総括をしっかりして、将来に備えなければならない。
3.11の震災では、我が国の知識人から、日本政府、自治体等の危機管理システムに対する疑義が生じていたように思うが、一体、どうなったのだろう。
また、事件に対する問題意識の風化の早さは、自然災害に対するもののみならず、日本社会の傾向、特徴なのだろうか・・・。
私は、東日本大震災のような未曾有の災害の場合、震災の日を何らかの記念日にして、そのすべてを忘れないようにするのはどうかと、提案したい。
もし、まだ復興がなされていないし、問題が山積しているというのならば、復興の祈念日としたらどうだろうか。そんな事を、3.11を前に考えた。
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大好きな絵本
大好きな絵本
連日、花粉症に悩まされている。目はかゆいし、鼻水はでるし、息苦しい。
現在、フリースタイル空手、ヨーロッパセミナーの準備、また、新しい武道に関する書籍の出版企画を進めているが、今ひとつ、アイディアが降りてこないし、纏まらない。
そんな中、幼い娘が私の本棚から絵本を見つけ、それを読んで欲しいという。
その絵本は、私の大好きな「100万回、生きた猫」という絵本だった。私は、「いいよ」と応え、絵本を読み始めた。
私は、絵本を手にしながら、知人を介して知り合った、志茂田景樹先生の事を思い出していた。なぜなら、志茂田先生は絵本の読聞かせをしているからだ。志茂田先生の絵本と読聞かせは、とてもやさしく、あたたかい。その志茂田先生の絵本の読み聞かせのように、やさしく絵本を読んでみた。
娘は大喜びだった。絵本では、最後のシーンで、猫が死んでしまう。絵本を読み終えた後、娘に「哀しくなかった?」と聞くと、哀しくないという。
この絵本の内容は、実はとても深い。
初めてこの絵本を読み終えた時、道に迷って、もう家に帰れないと、あきらめかけていたとき、目の前に家が現れたような、そんな気持ちにしてくれた。
同時に、作者が何を伝えたいかを私は考えていた。私の悪い性癖である。
私は、作者の伝えたい事が、愛だという見方には、与したくなかった。あまりにもありきたりだからだ。私は、もう少し深い世界観があるのではないかと、私は感じていた。
私が感じた、作者の世界観は、「世界の源は愛である」と言う事だ。そして、真の愛を知るまで、輪廻転生は行なわれる。この世に生を受けるのは、真の愛を知る、神から与えられた機会だ。作者の世界観の根源的要素は、愛である。それ(真の愛)を知らないものは、それ(愛)を語り、それ(愛)を求めて、輪廻転生を繰り返すが、それ(真の愛)を知った時、もう輪廻転生は行なわれない。それ(真の愛)と一体となるからだ。
それを仏教では、解脱、涅槃と言う。そんな世界観が描かれているのだと、私は考えた。考え過ぎ?勘違い?
拓真道とは
拓真道とは
拓真道理論の大枠は、心身を道具にして、有為転変の現実態を知り尽くす事。更に、その裏面とも言える、無為自然の実態を体得する事を目標とします。言い換えれば、自由自在の境地を目指す事です。そのための鍵概念には、居着きを無くすという事が上げられます。
居着きを無くすということは、絶えず、自己を転換(切り換え)できるということです。それは、絶えず、囚われのない境地、ニュートラルの境地に立てるという事でもあります。
拓真道には、体さばきの型、基本型、転じの型、応変の型、護身の型と分類された多くの型があります。
大まかに説明すれば、体捌きの型は、運足等を学ぶもの。基本型は、攻撃の基本となる技を学ぶもの。転じの型は、相手の攻撃を無力化し、自己の反撃の効力の最大化のために必要な、転じ技を学ぶものです。応変の型は、打撃技、倒し技、逆技など、様々な相手の攻撃を転じ、反撃するためのバリエーションを学ぶもの。さらに、護身の型では、競技組手で禁じられている頭部打撃などの禁じ手、対小武器の技を学んでいきます。その多くは、二人で行なう相対型です。
つまり、拓真道とは、型を通じて、技の理合と心身の理解を深め、自己の本体を探求するものです。尚、拓真道には、自由組手の修練は含まれていません。それは、あくまで、拓真道とフリースタイル空手は独立させるという事を意味します。換言すれば、役割を分担させるということです。
ただし、フリースタイル空手競技によって、技を試すことは可能です。
また、拓真道の修行は、なるべく長い期間、継続して行なう事が肝心です。そして、老いという現実も含め、武技の修練による、心身の受け取り直しを行なうのです。私は、その先に、真実があると考えています。
拓真道への道程
拓真道への道程
【拓真道の萌芽】
極真空手の修行は、いくつかの思索の契機を、私に与えてくれました。
その契機の一つは競技者としての経験、思索の内容は、心身の用法、格闘技術、勝負についてです。もう一つの契機は、大きな組織の権力闘争による分裂の過程を直に経験した事、思索の内容は、社会的、政治的人間についてです。
私は、それらの思索により、人間は理解し得ないのではないか、と思いました。言い換えれば、理解できたと考えるのは、誤謬であると。しかしながら、何か、共通するもの、共有できるものがないかとも考えていました。
ある時、理解し得ないとも思える人間を仲間だと認識させ、和解させる事が可能だと思い始めたのです。また、それを実現する鍵は、より多くの人が共有できる、新しい価値・文化の創造ではないかと考えました。
拓真道の萌芽は、伝統空手、柔道、レスリング、ボクシング、古流柔術などの経験、また、外国の人達や経済人との交流によるものです。私は、他と極真空手を比較する事で、極真空手の本質を考えました。その結果、極真空手を固定化して考えるのではなく、進化させる事が可能であると考えるようになったのです。
つまり、極真空手を進化させたものが、フリースタイル空手という新しい武道スポーツなのです。それが新しい価値の創造に繫がっていきます。
私が最初に行なった事は、極真空手の愛好者に対し、フリースタイル空手という、新しい競技(オペレーションシステム)を提案する事です。
しかし、私の提案は受け入れられませんでした。多くの極真空手家は、極真空手に満足しているか、変化を好まない人達です。それは、ある意味当然です。満足しているから、極真空手を習うのでしょうから。
新しいシステムの提案というのは、本当に大変なことです。私の行動は無謀と思われるでしょう。私には、自分の人生を賭けた極真空手が、このようなレベルで終わる事が、残念でならないとの思いが強くあります。しかし、他の人達は、このままで満足している。このギャップがいつも私を苦しめます。
私は、フリースタイル空手プロジェクトは、期限を決めて行なうと決めています。「成功するまであきらめるな」と言われるかもしれません。
しかし、フリースタイル空手プロジェクトで私が行なっている事は、すべてを投げ出すような事です。
もし、期限を決めずに、だらだらと行なえば、本当に回りに迷惑をかける事になる可能性があります。既に、かなりの負担を強いられていると感じている人がいるように、私は思っています(私は本来、悲観的な人間です)。私は、そのような人がいる事に耐えられません。
私の目的は、空手の社会的価値を高める事です。言い換えれば、より多くの人に長く愛される空手を創る事です。そのような空手にならないのなら、夢はあきらめます。
数年前、実業家でもある、某空手家が私に言いました。「フリースタイルには、マーケットがない」と。しかし、私は、やってみないと気が済まない質です。兎に角、やってみようと、行動し始めました。
当初は、みんなが納得するような形には、なりませんでしたが、少しずつ改良を加え、昨年ようやく、納得できる形になったように思います。しかし、普及するには、練習体系・技術体系の確立が急務です。
現在、フリースタイル空手と拓真道の入門書を企画しています。
正直に言えば、拓真道は完成していません。このまま未完成のまま終わるかもしれません。それでも、フリースタイル空手という武道スポーツを補足するために、拓真道という技術体系と理論が必要なのです。
【フリースタイル空手のコンセプト】
断っておきますが、拓真道は、新しい空手流派名ではありません。流派名だと考える人には、拓真道の本質を理解できないでしょう。
私は現在、極真空手を教えています。より正確に言えば、増田流の極真空手でしょう。
極真空手家の中には、極真空手は流派名ではないと主張する人もいます。そういいながら、強固な自他の壁を作ろうとしています。私は、そのような考えに与しません。なぜなら、もし、流派名でないと言うのなら、極真空手は、誰かの私有物ではなく、みんなのもののはずです。そして、皆で共有するのが、人の道というものでしょう。
拓真道は、流派名ではなく、稽古システムの名称と考えて欲しいと考えています。
例えば、パソコンを思い浮かべて下さい。極真空手とは、パソコンという名称のようなものです。そして、極真空手〇〇道場は、パソコンの機種名のようなもの。それが本来の流派名だと言っても良いでしょう。一方、拓真道は、そのパソコンで採用しているソフトウエアの名称のようなものです。
つまり、世界中で愛好されている、極真空手(フルコンタクト空手)は、世界中に普及しているパソコンのようなものだと考えます。
私は、そのパソコンを更に、人と社会に有益なもの、付加価値の高いものにするために、アプリケーションソフトの一つを作っている、技術者の一人に過ぎません。
勿論、アプリケーションソフトの使用者の集まりを流派と考えれば、拓真道も流派と言えなくもありません。しかし、現時点では、拓真道はただのアプリケーションソフトであり、それを学んでみたいという方々と一緒に、修練を楽しみたいと考えています。
また、フリースタイル空手のコンセプトは、絶えず進化を続けられる、オープンで自由な格闘技スポーツです。
その意義は、多様な格闘技術の交流を可能とすること。また、これまで理解し得ないと考えられた者同士が、仲間だという認識を有し、和解していくという物語、夢の実現です。
3−26日誌
昨日は、組手型の整理整頓のために、私の片腕の秋吉と朝から撮影を行なった。
実は、二日程前、左足の裏側に裂傷を負った。幅は3センチ、深さ7ミリで、結構な傷である。動けなければ中止にしようかと思ったが、一日も早く組手型を完成させなければならないと、無理をした。
8時間程、撮影を行ったにもかかわらず、30種類程しか撮影できなかった。
少々身体の調子が悪かった。8時間も付き合ってくれた、秋吉には、感謝している。
そんな中、良かった事もある。今後の課題である投げ技の基本を、秋吉に教えたところ、すぐに理解したことだ。組手型は、技の修得を理合先行で行なう。言い換えれば、技の構造やコツというような事を、意識、考えながら、練習できるようにするために、型はある。
そのような修練体系を創出する事で、多様な技を誰もが修得できるようになると考えている。勿論、空手には、高い身体能力を必要とする技もあるが、そのような技を、私は稽古の中心にはしない。
又、秋吉の献身的な協力により、最後に、新しい技が生まれた。「新しい転じ技ですね」と秋吉が言ってくれた。
この技は、現在企画している書籍で紹介したい。又、“転じ”という概念は聞き慣れないと思うが、簡単に説明すれば、「相手の攻撃を弱体化し、自己の反撃の効力を最大化する状況(状態)を作る事」である。状況転換と言った方がわかりやすいだろうか。
私は、実際に使える技、汎用性の高い技が好みだ。拓真道には、そのような実用的な技が集められている。
さて、ここ2週間程、書籍の企画や何やらで、頭の中がごった煮状態だったが、ようやく頭の中が纏まった。
本日、書籍の企画書を書き上げ、出版社に送った。まだ大まかなものだが、企画が通りそうだ。5月には、ヨーロッパでキャンペーンを行なうので、一気に仕上げるつもりだ。
私が、本を書くと言ったら、「売れない本に夢中になるより、やるべき事が他にあるんじゃない」と家族は、いつも冷水を浴びせかける。
お願いだから、もう少しだけ、私の好きにやらせて欲しい。最後のお願いだから・・・。
日本人が英語を話せない理由?
私が参加する勉強会の2次会で、日本人が英語を上手く話せない理由についての話になった。
外国語大学で学び、海外で活動していた音楽家の仲間は、日本人は文法だとかに拘り過ぎると話していた。
私は、その意見に反対ではないのだが、あえて、文法は大事だと切り返した。また、日本人が英語を上手く話せないのは、英語を話す機会が少ないという環境の問題が一番ではないかと話した。つまり、日本人がもう少し英語を使う環境、使う必然性が高まれば、日本人は英語が上手くなると言うのが、私の意見だった。
少々脱線するが、音楽家の仲間は、文法より大事なのは“息”だとも言っていた。また、彼は“音”が大切だと良く言う。私は、息から音が生まれ、音から伝えたい本質が相手に届くということだと、理解するが、間違っているかもしれない。ここは、もっと詳しく聞いてみたかった。
私は、彼の意見を聞いて、「本居宣長」を思い出した。私は、本居宣長は、日本流、本質論の先駆けだと私は考えているのだが・・・。その核心的概念は、「もののあわれを知る」と言う事である。つまり、本居宣長のいう、「もののあわれ」とは、息を知ること、また、その音を見る事(全身で感じる)ではないかと・・・。(”音を見る”と表現するのには、意味がある。音が聞こえない人にも音があるのではないかと思うからだ。それは、リズムだと言っても良い。様々なものに差異があり、それはリズムを生む。それが音を生み出す。私はそう直観するのだが・・・)
話を戻せば、音楽家の彼は、日本人が英語を上手くならないのは、文法が英語と異なるという事のみならず、日本語の構造的に問題があると言う。
例えば、日本語は上下、身分の差をとても意識していて、本質という事が等閑になるというような事を言っていたように思う。さすが、外国語大学で学び、外国で生活していた芸術家らしい意見である。物事をより多面的に観ているように思う。
それでも、私は、武道で言えば型にあたる、文法を学ぶ事は無駄ではないのではと、意見を述べた。さらに、使う経験を多く持つ事が、必要なのではと。
なぜ、文法を学ぶ事に拘ったかといえば、私の武道哲学で言えば、技を言葉、文法を型に置き換えるからだ。つまり、言葉は、多元的な意味のない、単なる記号かもしれないが、文法は、そこに無限の意味を包含し、それを表現するためのルールである。つまり、無限の意味を創出する仕組みが文法なのだ。
又、日本語にはひらがなと漢字がある。漢字は多元的な意味を包含する言語だと思う。そして、平仮名と漢字の組み合わせにより、かなり複雑な意味体系を生み出す。私は言語学に関しては無知であるが、そのような複雑な構造を日本語は有しているように思う。しかし、そこを知ることが、最終的に自他に対する、より深い理解を得られる事に繫がると、私は考えている。
要するに、英語の文法と日本語の文法の両方を受け入れ、その差異を知る事が、英語と日本語の両方を自在に駆使するために、必要だと思うのだ。
付け加えるならば、その差異を感じる網の目をくぐり抜けていくものが、本質だと、私は考えている。
しかし、彼の意見は正しい。私は、言葉足らずだったと、反省している。
帰路、日本語と英語について、少ない知識を駆使し考えてみた。
周知の事だとは思うが、日本語は文法的に、結論が最後までわからない。一方の英語は、結論を始めに述べる。
例えば、「私は本を買う」という事を言いたいとして、日本語の場合、本をどうしたのか、最後までわからない。例えば、最後の「買う」が「読む」になれば、全く意味が異なってくる。一方、英語は、「I buy a book」で、始めに“買う”という結論を述べる。ゆえに、最後まで聞かないと意味が分からないという事がない。また、英語は、男性、女性を問わない。一方の日本語は、文や会話の中に、自分が男なのか女なのかを示している場合が多い。つまり、自分の身分を相手に伝えているのだ。それは、文の中に情報を多くいれることができる事と同時に多くの意味が入り込みやすいという性質を有することを示している。
そのような日本語の形式、性質が、日本人に異質な者とのコミュニケーションをおっくうにしているのかもしれない。また、本質的論議を苦手とする原因でもあるかもしれない。彼の言いたかった事はそういう事だったのではと考え直している。
補足すれば、日本語は余計な情報に振り回され、囚われ易いという事だと理解する。具体的には、男や女とか、お互いの身分を示す言葉が含まれて来るので、それに囚われ、フラットで忌憚のない意見を述べにくい。
最後に、彼の意見と私の意見の共通するところは、もっと日本人はフラットに他者と交流するべきだと言う事である。そして、そのためにも先ずは、自分(日本と日本人)を良く知る事である。
フリースタイル空手練習試合報告!!
3-31フリースタイル空手練習試合報告!!
本日は、1部にフリースタイル空手の審判講習会、2部にフリースタイル空手昇段の講習会と型審査、3部に練習試合を行なった。
フリースタイル空手には、段位制度がある。その内容は、試合経験と型(組手型)の審査だ。試合経験は、試合による勝利がポイント換算してあり、そのポイントが基準を充たせば良い。型審査とは、フリースタイル空手の代表的技の型(組手型)を理解しているかの審査だ。
フリースタイル空手は、ルールを守ってくれれば、どのような格闘技者でも参加できる。しかし今後は、格闘技経験のない人や初心者にフリースタイル空手のルールや技術を伝える指導者を育成しなければならない。また、フリースタイル空手をなるべく正確に伝えられる人間を育成する必要がある。
つまり、フリースタイル空手の黒帯(有段者)育成の目的は、フリースタイル空手の指導者を育成するためと考えて欲しい。黒帯は単に試合に出場するのみならず、クラブを作り初心者にフリースタイル空手の基礎を教えたり、審判になって、普及の協力を行なう者と考えて良い。言い換えれば、真のFKPの同志だ。
勿論、初段ぐらいでは、経験も浅く、伝えられる量は、限られてはいる。しかし、少しずつ、ステップアップしていくしかない。
3部の練習試合は、新ルールで行なった。新ルールと言っても、試合時間を5分、延長戦が2分となった事を始め、僅かのルール変更である。
そのルール変更によって、選手には、少し戸惑いがあったようにも感じたが、試合を行なってみれば、問題は全くなかった。むしろ、打撃技と組技の使い分けが上手になり、スタミナの配分が上手くできていた。結果、目立ったスタミナ切れというのは見られなかった。
また、本戦を5分間とする方が、落ち着いて選手の攻防を見ることができた。裏を返せば、選手も落ち着いて、戦術を考えることができたということだと思う。
今回、イギリス人のラリーの成長が著しかった。
彼は、長くムエタイの修練を積んでいたらしいが、目の損傷により、ムエタイをやれなくなり、友人の紹介で私の道場に入会してきた。まだ、空手を初めて1年程だが、最近、空手家らしくなってきた。
彼曰く、「テイクダウンの技=倒し技」が面白いと言う。彼は、これまでムエタイ、キックボクシングだけを行なってきたらしい。最近、私の道場生で柔道四段の指導員に、柔道を教えて欲しいと言っているらしい。それを聞いて、私はとてもうれしくなった。
なぜなら空手は本来、武術であり、そうである以上は、他の格闘技や武術のことを貪欲に研究するのが本当だ。ただ彼は、そんな理屈を考えている訳ではないと思う。本当に、テイクダウンの技が面白いから学びたいのだ。
私は、その感覚をとてもオープンで良い事だと思う。彼がどのように日本の空手を考えているかは、わからない。しかし、少なくとも、積極的にフリースタイル空手に打ち込んでいる姿を見て、意を強くする。
フリースタイル空手は、プレゼンさえ上手くできれば、世界に受け入れられると。
今年の11月にフリースタイル空手のフランスオープンが決まっている。
また、5月にヨーロッパセミナーを予定しているが、今回の映像をなるべく早く、ユーチューブにアップし、ヨーロッパの仲間に伝えたい。
レスリング界への提言〜僭越ながら・・・その1
レスリング界への提言~僭越ながら・・・その1
レスリングのオリンピック種目からの除外は、レスリング関係者のみならず、部外者にとっても青天の霹靂と言わざると言えません。
私は、レスリングを優れた格闘技スポーツだと認識しています。
レスリング競技は、1896年のアテネ大会から始まり、オリンピック競技の中でも最も伝統ある競技の一つだともいます。又、日本に於いても、数多い金メダリストを生み出した、お家芸とも評された、オリンピックスポーツです。
そのようなレスリングがオリンピック種目からなくなるというのは、大変な喪失感になるともいます。
しかしながら、空手をオリンピック種目にする事、さらに言えば、新しい格闘技スポーツの創出を研究する者にとって、「オリンピックゲーム(スポーツ)とは何か」を検証するきっかけになりました。
私は、新しい格闘技スポーツを考案するにあたり、レスリングから多くを学びました。その際、レスリング関係者に、多くの助言と協力を得ました。
今回、誠に僭越だとは思いながらも、レスリングとレスラーに尊敬の念を持つ者として、意見を述べたいと思います。
勿論、今回のオリンピック種目からの除外ということに関して、一部、言われているロビー活動の有無というような観点からの意見ではありません。
そのような事は部外者でなければ、知る由はないからです。又、そのような部分に今回の決定の主原因があったとしても、そこに異議申し立てをしたら、オリンピック自体の権威を失墜させる事になるでしょう。
ゆえに、それ以外で関係者ができうる最善は何かと考えた場合、レスリング関係者以外の人達にへのレスリング競技に対する啓蒙活動だと思います。すなわち、レスリングに関する、より深い理解と支持を得るための努力です。
ゆえに、部外者として、オリンピック種目にどのような競技がふさわしいか?また、レスリングのすばらしさ、又オリンピックスポーツの構造という面から外部からの意見を述べる事は、悪い事ではないと思うのです。
さて、本題である具体的な提案の前に、オリンピック種目(オリンピック競技)にふさわしい要素とは何かを考えて見ました。
結果、①勝敗(ルール)がわかり易いこと。②エキサイティングでありながらも安全性が担保されていること。③勝負哲学に普遍性があること等のキーポイントが浮かび上がりました。
(次回、本題に入ります)
レスリング界への提言〜僭越ながら・・・その2
【ルールについての提案(前日の続き)】
本題に入ります。私が現在のレスリング競技が問題にしなければないと考えるのは、①の勝敗(ルール)がわかりやすいかどうかという部分です。
勝敗がわかりやすいという事は、ルールの枠組みのみならず、その内容(体系)に普遍妥当性があるかどうか、平たく言えば、できる限り、観客に共感、理解を得られやすいものになっているかということです。外部者からみて、レスリング競技の内容が、レスリング関係者のみが理解できる部分を優先しているのではないかと感じます。
そこで、先ずはその構造を見直す事を提案します。先ずは、すべての格闘技に共通する核心として、「相手の戦意を喪失させる」という部分を再考するべきだと考えます。
私は、相手の戦意喪失の形態に、2つの形態を想定しました。一つは、一般的にノックアウトと言われるもの。つまり、一時的ではあっても、戦闘力を完全に喪失した状態。2つ目は、ギブアップと言われるもの。
格闘競技は、それらの両方、あるいはそのどちらかを目標とし、その方法、手段を工夫し、その技術を競い合い、それを観る者にも理解させるという枠組みを有するものでなければならないと考えます。
ただ、レスリングには、ギブアップさせる技術はありません(コンバットレスリング?の普及も進んでいるようですが、それはひとまず棚上げします)。又、ノックアウトを奪う技術もありません。しかしながら、そこに至るまでの、相手の戦闘力を徐々に奪う技術に関して、レスリングが最も優れていると私は考えています。
例えば、相手に不利、自分に有利な位置を取る事、すなわち、相手のバックを取る技術や両肩を床に着けるまでの攻防とその技術は、レスリングの特色かつ優れた部分です。さらに、組み合いの状態に於いて、相手の戦闘力を徐々に奪っていく能力と言う点に関して、レスリングの修練体系は格闘技の中で最も優れていると言っても過言ではないでしょう。
ここで、相手の戦意を喪失させる(戦闘力を奪う)という格闘技の命題からレスリング競技を見てみます。私の見方は、「レスリング競技とは、相手の戦闘力を奪い、戦意を完全に喪失させる、一歩手前の状態をフォールとし、そこをゴールに設定するスポーツである」という事です。つまり、フォールを柔道の投げ技による一本同様、相手の動きを支配し、戦闘力を奪った状態としてゴールに設定しているという事です。
そのルール設定は、相手の生命を危険な状態にするような攻撃を除外するという意味では、賢明であると思います。なぜなら、優れた技術を培うため、競技を通じ人間的成長を促すために、反復練習と検証を行なうための、安全性の担保は必要だからです。
また、武術としての危険性を除外したとしても、格闘技術のレベルが低くはならないと考えます(もし、レスリングの格闘技術のレベルを云々いう人がいるとしたら、悪い意味での格闘技評論家で、真の格闘なんて出来ないでしょう)。なぜなら、致命的な技術を駆使するのに最も有効な状態を作るという技術に於いては、レスリングは、他のどの格闘技よりも、優れた部分を有すると思うからです。
補足すれば、レスリングのフォールとは、相手に致命傷を与える、一歩手前で攻撃を止める事を意味します。それは、人間教育を主眼とするスポーツとして、踏まえなければならない、重要な部分でしょう。
長くなりましたが、私はレスリングのフォールというゴール設定に問題はない、と思うのですが、「相手の戦闘力を奪うという公式に、レスリング競技を一貫して当てはめていない」また、「戦闘力を奪うという、技の評価基準が観客にわかるようになっていない」、という指摘をさせていただきます。
また、レスリング競技の試合時間についての意見を述べさせていただきます。現在の試合時間は、2分を1ピリオドとし、それを3ラウンド行ない、2ピリオド先取した方が勝者になるというルールのようです。
しかし、そのようなルールは、フォールを獲得する可能性を狭め、1ポイントでも多くとれば、それを護り、1ラウンドの勝ちを得ようとする、心理を強くします。さらに、レスリングが培ってきた優れた格闘技術である、寝技やタックル、背後取りがみられなくなるのは、必然でしょう。
レスリングのフォールは、柔道で言えば、「一本」です。私は、そのフォールを如何にして観客に、「見事だ」という認識と文脈でみてもらうかが、レスリング競技を復権させる鍵だと考えます。
【新ルール】
以上の事を踏まえ、観客が納得するレスリングルールとして、新ルールを提案させていただきます。
先ず、新ルールは、テクニカルフォールを含めフォールを12点という数値で表します。
さらに、場外は1点、相手のバックを取る、背後取りには、1点。投げ技によるテイクダウンは3点(投げ技を仕掛けた者に与える)、さらに、フリースタイルの中でも特にダイナミックで、相手の自由を奪ったと観られるタックルから相手を持ち上げて投げる技には、6点という、ビックポイントを与える。
反則行為に関しては、軽微なものはイエローカードで、相手に1点を与え、重大なものは、レッドカードで3点を与える。イエローカードは、3枚目からは、レッドカードになることとする。さらに、レッドカードを出された後は、1回でも反則行為を犯した場合、失格となる。
試合時間は5分の1ラウンド。同点の場合は、延長戦を行ないます。延長戦は、柔道のようなゴールデンスコア方式にするか、3分として、同点の場合、旗判定にするかです。また得点は、ボールゲームのように6対10というように観客に、見やすく告知します。
そのような形態にする事で、レスリング競技が有する、相手戦闘力を徐々に奪っていく能力、そしてプロセスが観客に理解しやすくなるのです。私はこの部分がレスリングとレスラーの最も優れている部分であると同時に、これまで観客に理解されなかった部分だと考えるのです。また、ラウンド数を少なくする事で、大会の運営もし易くなります。
ここで、背後取りというポイントについて述べたいと思います。従来のレスリング競技では、相手のバックを取り、ローリング(?)を行なった場合のみ、加点されていました。しかし、私は、相手のバックを取っただけで1点を与えるルールの方が、より観客にレスリング技術とフォールに至るプロセスが理解しやすくなります(この辺は端折ります・・・)。また、選手にとっても、フォール以外で相手の戦闘力を奪ったとされる加点手段があった方が、戦術を考えやすくなり、試合がし易くなるはずです。ゆえに、スタンド状態でも、背後取りに1ポイントを与えた方が良いと思います。さらに、グランドの攻防の制限時間を設け、スタンドの攻防とのバランスを考えた方が良いでしょう。
補足を加えれば、私は、レスリングを研究した際、レスラーが一瞬にして相手のバックに着く(取り)様子が、他の格闘技にはない、特に優れた技術だと感動しました。この技をもっと観客にアピールした方が良いと思います。
更に、試合時間を5分1ラウンドにする事により、技術の応酬が増え、戦いがよりエキサイティングになると考えます。言い換えれば、技術のない選手は勝てません。また、観客にとっても選手にとっても、レスリング競技は、試合の最後まで、逆転可能だという印象を与えます。これが、観客にとってエキサイティングな感覚をもたらします。さらに、フォールに至るプロセス、すなわちレスラーの技術と能力が表現されやすくなります。ここが肝心の部分です。
ここを観客に伝えなければ、レスリングの魅力は伝わらないというのは、言い過ぎでしょうか。レスリングファンの意見として寛容に受け止めていただきたいと思います。
レスリング界への提言〜僭越ながら・・・その3
これで、最後です。今回は、とても言いにくいことを書きます。あくまで、外部の意見ですから、ご容赦を・・・。
(前回からの続き)
もう一つ、オリンピックゲームはフリースタイル1本にするべきです。これはグレコローマンのレスラーの方々には怒りを買うかもしれません。
しかし、考えてみて下さい。グレコとフリーの2つの競技では、階級が多過ぎて、大会(あくまで、オリンピックゲーム)が散漫になります。フェンシングも3種類の競技形態があるにもかかわらず、1種類のみ、オリンピックゲームになっているそうではありませんか。
私は先述の背後取りや、裏投げ等、これがレスリングだというような技術が、グレコローマンスタイルから誕生したと考えています。ゆえに、グレコローマンは、なくしてはならないレスリングの基本的競技方法とも言えるものだとも思います。
しかしながら、2つの競技を、オリンピックゲームに、ごり押しする事で、オリンピックスポーツ・レスリングという称号を失うのであれば、グレコローマン関係者は、涙をのんで、フリースタイルを活かすべきです。
また、中には、オリンピックスポーツだけがすべてではないと言う意見があるかもしれません。しかし、そのような意見を退けて下さい。オリンピックに多少の問題があったとしても、スポーツ、そしてオリンピックゲームの意味は、「スポーツは、みんなのもの」という公共性なのです。換言すれば、オリンピックの価値基準は、文化的公共財としてふさわしいかどうかなのだと、私は信じています。
勿論、レスリングの世界大会などでは、グレコローマンスタイルは、残します。
また、荒唐無稽な提案かもしれませんが、フリースタイルとグレコローマンスタイルの両方のタイトルを獲得した選手は、キングオブレスラーというような称号を与えるのはどうでしょうか。金メダルとは別の価値を創るのです。
そうなれば、フリースタイルの大会のシーズンとグレコローマンスタイルの大会のシーズンを2つに分けて、組むのも1案かもしれません。
外部の者が勝手な意見を述べて、すみません。又、提案など不遜です。
しかしながら、私の郷里、石川県の先輩で、オリンピックレスラーの馳先生、また、縁あって親しくさせていただいている、オリンピック銀メダリストの太田章先生、さらに、普段から、私の良き理解者として応援頂いている、国士舘大学教授の朝倉先生に対する敬愛の念からです。
戦略的スポーツとは何か?
戦略的スポーツとは何か?
フリースタイル空手について、これまで多くを語ってきた。
しかしながら、どれほどの理解が得られたであろうか。
現在、私の言葉に耳を傾け、行動を共にする者達が、少人数だが存在する。
大変、有り難いことである。5月にはフランスでフリースタイル空手セミナーを行う。フランスにはフリースタイル空手プロジェクトに協力してくれる仲間がいる。本当に感謝する。
私は、仲間に報いるためにも、フリースタイル空手の理解者を増やしたいと、一日中、思案しているのだが、答えは簡単には出てこない。
正直に言えば、私は、フリースタイル空手というものが、まだ理解されていないと考えている。それは、私に責任がある。端的に言えば、私のプレゼン能力が無いという事だ。ある者は、ニーズがない。あるいは、マーケットがないなどと揶揄する。
そのような状況の中、私はフリースタイル空手のプレゼン方法の刷新を考えている。それは、誤解を生む危険もある。しかし、今ひとつフリースタイル空手が理解されていないと思っている。
以下に、私の新しい武道スポーツに関する小論と、私の研究資料の一部を載せた。以下の内容を理解できる者が武道・空手界にいることを祈っている。
【ストラテジック・スポーツ(戦略的スポーツ)とは何か?】
フリースタイル空手とは、ストラテジック・スポーツ(戦略的スポーツ)である。
もう少し具体的に言えば、フリースタイル空手は、突き技対突き技、突き技対蹴り技、蹴り技対蹴り技の打撃戦のみならず、打撃技対組技、組技対組技等、多様な戦闘局面に想定しなければならない。つまり、多様な戦闘局面に対応し、自己の優位性を保ち続け、相手の戦闘力を奪うこと(相手を支配的状態に陥らせること)を目標とするスポーツであるということだ。私は、そのようなスポーツ(ゲーム)を、ストラテジック・スポーツ(戦略的スポーツ)と名付けたい。
ここでいう戦略的とは、多様な戦闘局面への対応と戦術・戦闘の運用により自己の優位性を保つことを意味する。
ここで、多様な戦闘局面ということについて、補足を加えたい。フリースタイル空手の試合は5分間ではある(ルール変更があり、次回から5分となる。既に実験済みで効果が観られた)。そして、その5分間の中に、先述したような多様な戦闘局面があるということを忘れないで欲しい。さらに言えば、手足が負傷し、打撃技が使用できない状況・局面もあるかもしれない。
つまり、僅か5分間の戦いの中にも、真の意味で勝利するためには、多様な変化をみせる状況、局面にどのように対応するかという意識が、戦う主体(競技者)に必要だということである。
さて、既存の空手競技のルールを少し眺めてみる。これまで、フルコンタクト空手ルールに於いては、小さく限定された戦闘(戦い)に勝利するための能力を得ることに終始していた。それを全否定はしないが、頭部打撃を禁じたルールでは、手数や打撃に対する耐久力に重きが置かれた。また、相手にダメージを与えることを禁止したルール(寸止め)に於いては、反射神経やスピードに重きが置かれた。
【柔軟で知的な努力を、最後まで続けるというような精神力は重要】
結果、お世辞にも知的な攻防があるとはいえない試合が多い格闘競技になっている(実は、昔も今もそんなに変わりはないが・・・)。また、ダメージを与えることを可とするフルコンタクト空手界では、観念的なネバー・ギブアップが叫ばれた。私は、柔軟で知的な努力を、最後まで続けるというような精神力は重要だと考えているが、そうでない精神力なるものには、異議を唱えたい。
【多様な戦闘の局面が生まれるということは、多様な戦術が生まれる可能性が拡がるということ】
フリースタイル空手は、ルールの変更により、多様な戦闘局面が生まれるという構造を創出することを企図している。つまり、多様な戦闘の局面が生まれるということは、多様な戦術が生まれる可能性が拡がるということである。
言い換えれば、多様な戦術が生まれ、同時に多様な戦術・戦闘の運用を可能とすることが、戦略的思考が誕生するための条件なのだ。それが、私が提唱する、フリースタイルの意味だ。
【多様な戦闘局面が想定され、戦略的思考が必要とされる、ストラテジック・スポーツ(戦略的スポーツ)に勝利するには、戦い・戦闘の局面を分割するという原則が必要】
また、多様な戦闘局面が想定され、戦略的思考が必要とされる、ストラテジック・スポーツ(戦略的スポーツ)に勝利するには、戦い・戦闘の局面を分割するという原則が必要だと、私は考えている。それが、戦略の立案と同時に必要な戦術の選択と運用能力の養成ということに繫がる。
そのことを伝えるために私が考案したものが、フリースタイル空手(戦略的スポーツ)に於ける組手型である。つまり、組手型とは、戦術・戦闘のモデル(型/Kata)のことと考えて良い。言い換えれば、多様な戦闘・状況に優位性を保ち、勝利するための戦闘理論である。また、チェスや将棋でいうところの手筋を学ぶことと同義だと言っても良いかもしれない。私の考えでは、そのような理論、情報の質と量を十分に備えている方が、優位に立てる可能性が高いだろう。
【フリースタイル空手の構造が有する多様な技術(伝統的な技術を含め)の使用可能性と創出可能性を伝えること】
そこで、私はフリースタイル空手という、新しい武道スポーツを普及するために先述した組手型を、インターネットを使い、皆に紹介している。私は、この戦術・戦闘のモデルとしての組手型の体系を確立し、指導することが、フリースタイル空手の普及に必要だと考えている。決して自分の技を披露するというような、皮相的なことを目的としているのではない(出来れば、下手な技はみせたくない)。
要するに、組手型の普及の目的は、フリースタイル空手の構造が有する、多様な技術(伝統的な技術を含め)の使用可能性と創出可能性を伝えることである(ここが伝わらない)。そうして、フリースタイル空手の試合を行なうための戦術・戦闘のモデルを理解していただき、新しい武道スポーツ(フリースタイル空手)を行なう仲間を、一人でも多く増やすことである。
【ナポレオンも、戦術的勝利に拘るあまりに負けた】
しかしながら、あえて断っておかなければならない。フリースタイル空手や格闘技に於いては、組手型という、戦術の情報を多くもっていたとしても、勝つとは限らない。なぜなら、実際の戦いにおける相手の出方の完全な予測は困難だからだ。
では、どうするか。私の考えは、「新たな戦術の創出よりも、新たな戦略の創出を優先し、それを修整し続ける」ということだ。また、戦略の立案は、状況の変化に対する敏感な感性と深い人間洞察とに裏付けられていなければならない。
その意味は、戦術が必要ないと言うことではない。無論、優れた戦術やそれに内在する技術は、戦略に組み込まれ運用されれば有効である。しかし、「戦術が先ではないということを忘れるな」とい言いたいだけである。つまり、戦略立案能力の方が重要であり、その能力こそがあらゆることに転用可能な能力だと、私は考えている。
技術に優れる者達は、戦術に頼り、拘る傾向がある。その傾向は、日本人に強いようだ。ただ、ヨーロッパが生んだ戦争の名人、ナポレオンも、戦術的勝利、一つの戦闘局面に拘るあまりに負けた、という話を聞いたことがある(時間が出来たら調べたい)。
【戦術の創出よりも戦略の立案・決定が先】
繰り返すが、私の考えは、戦術の創出よりも戦略の立案・決定が先だということだ。また、目先の戦術的勝利に拘泥してはならない。
私がフリースタイル空手に戦略的スポーツという呼称を付けたのは、戦略優先という原則を踏まえながら知性を働かせ、戦略(ストラテジー)の創造並びに戦術(タクティクス)の運用能力の向上を目指す、新しい武道の創出を考えているからである。
更に、フリースタイル空手では、技や試合を通じ、多様な人間の性質(独自性)を知ること。同時に、多様な人間に内在する普遍性を掴むこと。また、多様な人間の性質を活かす感性と能力を、体験によって学ぶことを目標としたい。(終わり)
●ここ数十年のあいだにパソコンやテレビの画面で楽しむゲームが出てきた。この場合、抵抗・妨害はパソコンの中からくる。問題のゲームをするには肉体的(運動神経や反射神経が優れていること)あるいは知的、もしくはその両方の技術が必要になる。そのゲームを企画し、プログラムを組むプログラマー達は抜け目がない。時間の経過と共にハードルがどんどん高くなる。抵抗・妨害が1種類に制限されなければならない理由もない。様々な抵抗・妨害が用意されているゲームが多い。
人間は抵抗・妨害の主体になっているゲームに感心があるのだが、そのようなゲームは2つに区分される。ルールでは、徒競走のように参加者の誰もが勝とうとすることは認められているが、相手の勝とうとする試みを直接妨害することは禁止されているようなゲームをコンテスト(競技)という。それに対してチェスやサッカーのように両サイドがそれぞれゴールを目指して相手を攻撃し、かつ相手の攻撃を防御するという、まさにこの2面性が許されるゲームは、戦略ゲームと称される。なるほどたしかに戦略は、この攻撃と防禦という2つのことを行なうように考えられた「使用可能な手段の体系」(ヘルムート・フォン・モルトケ)と定義されるかもしれない。戦略ゲームの場合、ルールに関係なくプレーヤー達は自分たちの意図と能力だけでなく、敵の意図と能力について考えなくてはならない。したがって、戦略ゲームは他のゲームよりも複雑になる。参加するプレーヤーの数が増えれば、増える程、使う道具が多様になればなるほど、ゲームが行なわれる環境が複雑になればなるほど、ゲームは複雑になる。(戦争文化論上/マーチン・ファン・クレフェルト/石津朋之監訳/110項~)
報告4−21
現在、BAB出版局から書籍を出そうと計画している。
周知のように、BAB出版局とは、秘伝という雑誌を出している出版社だ。秘伝と言う雑紙は、多様な武道、武術、格闘技などを取り上げ、非常に面白い。
ここのテイストに合うように、レベルの高い術理と斬新なアイディアを持ち込まなければならない(既に企画は通っているので、後は書くだけです)。
正直言って、フルコント空手愛好者のテイストとは合わないかもしれないが、私は、なるべくこの出版社のテイストに合わせたい。なぜなら、空手愛好者も年を取る。ゆえに長く武道修練を楽しめるようにしなければならないと考えているからだ。
また、この企画を、フリースタイル空手という、新しい武道スポーツの枠組みを完成する機会にしたい。
現在、フランスセミナーの準備等もあり、悪い頭を高速回転させようとしているのだが、空回りだと、回りから揶揄される(笑い)。
昨日、アップしたブログは、新しい枠組みを創るための、理念、技術体系を見据えた、頭の整理のために書いたものだ。読みにくさをご容赦願いたい。
最後に、何が何でも世界中の格闘技愛好者が、公正かつ創造的に取り組めるオープンな武道スポーツを創出したい。そして、若い人達に夢や希望を与えられればと考えている。
転じ(transform)とは
BABジャパンから出版予定の書籍の執筆とフランスセミナーの準備で忙しくしています。連休も休み無しです。少しは、子供達と思い出を作りたいと思っていますが・・・。今回は、ヨーロッパの人達にフリースタイル空手の説明をするためにしたためた、原稿を載せます。
フリースタイル空手は、私にとっても自己変革と進化を要求します。しかし、それは難しいことではありません。なぜなら、誰もが初めは、未知への挑戦だったと思います。私は、その挑戦を楽しみたいと思います(正直、苦しい面もあります)。
また、空手を志す人達は、誰もが強くなりたいはずです。それならば、彼を知り、己を知ることが必要です。
確かに、人間は変化を好まない面もありますが、同時に変化を好む面もあるのではないかと私は思っています。また、死ぬまで変化しなければならないものです。更に、人間は、変化できなくなった時に死ぬのです。
【転じ(transform)とは?】
転じとは、戦い(戦闘)の勝利を決定する局面に内在する、戦いの原理のようなものです。私は、戦いの局面において、より善く戦う者の戦術には、転じの原理が存在すると考えています。勿論、私の経験からくる仮説ですが。
私は、それを「転じ(transform)と名付けました。その定義は、「対手の攻撃を無力化し、反撃の効力を最大化する状況をつくること」となります。
【戦術が多様で複雑】
フリースタイル空手という総合武術・武道スポーツは、戦術が多様で複雑になります。なぜなら、相手を打つ、蹴る、倒す(投げる)ことが許されるからです。
また、他の格闘技スポーツは、戦いの局面や攻撃技術を限定し、戦術の幅を制限しています。勿論、フリースタイル空手も関節技やグランドの攻防(戦術)を制限しています。それは安全性を確保するためのものです。安全性の確保がなぜ必要かと言えば、答えは簡単です。
【優れた技術を創出、最終的な心身の強化を目標】
それは、フリースタイル空手は、スポーツとして楽しむのみならず、優れた技術を創出すること、又、個々人の心身を強化し、社会における有為の人材育成を補完することを目標としているからです。ゆえに、その目標を達成するために、安全性の確保が必要なのです(極端にいえば、修行の過程で絶命すれば、技術の継承はそこで終わりですから・・・)。
勿論、本当に優れた心技体は、生死の境を体験したものでなければ、身に付かないことは、容易に想像できます。しかしながら、それは極々少数の者に許されないことなのです。また、私の感覚によれば、生死を安易に口にする者は怪しい。また、その領域が武道家と名乗る人達の隠れ蓑になっているような気がします。私は、この部分について、これ以上、公には言及しません。
【戦術の限定は、戦術や技術を研ぎすます】
さて、戦いの限定、つまり戦術の限定は、戦術や技術を研ぎすと私は考えます。
例えば、ボクシングやレスリングはその典型です。フリースタイル空手理論から見た、ボクシングは、突き(パンチ)による頭部打撃という戦術に特化したスポーツなのです。しかし、戦術に特化するがゆえに、その戦術と技術、身体能力が優秀なのです。また、レスリングは、組み合いによる相手の支配(素手による)という戦術に特化したスポーツです。ボクシング同様、その戦術、技術、身体能力が優秀であるのは、戦術に特化するがゆえです。
【空手の特異性の第一は】
視点を変えて、空手はどうでしょうか。空手は突きや蹴りに技術を限定・制限しています。そのことにより戦術が限定されます。本来ならば、ボクシングやレスリング同様、優れた戦術が誕生しなければなりません。
私が考える、空手の特異性の第一は、ボクシングやレスリングとは異なる間合い(距離)からの攻撃だと、私は考えます。言い換えれば、中間や遠間からの攻撃です。勿論、接近戦での打撃技や相手が掴んでいる状態における、打撃技を可能とすることも空手技の特異性でしょう。しかし、やはり空手技の特異性は、中間(ミドルレンジ)における攻撃技(素手による)の機動性、すなわち剣などの小武器にも対応できる攻撃技と機動性なのです。
しかしながら、そのような攻撃技術がフルコンタクト空手競技では観られなくなっています。おそらく、蹴り技の攻防から逃れるための戦術としての接近戦を多用するからでしょう。言い換えれば、空手技の突きと蹴りの打撃技を使用するという特異性を充分に活かしていないということです。ここは丁寧に話さなければならないところですが、簡単に説明します。
【組手法の改善のために】
その傾向に気づき始めた空手指導者達は、組手法の改善のために、キックボクシングのように頭部打撃をフルコンタクト空手に取り入れたりしています。
私は、それもひとつの試みであり、否定はしません。
また、安易な接近戦を反則とする流派も出てきました。私は、そのような方法を悪くないと思いますが、競技スポーツとして考えた場合、少々難があるように思います。
なぜなら、競技スポーツとするなら、なるべく仕組み(システム)として、そのような状態が自然に生まれなくするようにしたいと考えるからです。それは、他者が、これをしてはならない、あれをしてはならないと注文を付け過ぎると、選手の動きに自由度が奪われ、より善い変化と優れた感覚が生まれなくなると思うからです。また、接近戦の攻防も重要です。なぜなら、空手も武術の一種であり、狭い場所に対応する打撃技も必要だと考えるからです。
【フリースタイル空手は】
一方、フリースタイル空手は、先述したように、安全性を確保しながら、あらゆる年代の愛好者に反復練習を可能とすることを目標としています。ゆえにグローブを使用した、突きにによる頭部打撃を採用するのではなく、フルコンタクト空手を基盤にします。しかしながら、近間では、組み合っても良いという、ある意味、当たり前の条件を設定します。
そのことにより、空手家の心身に、優れた間合い感覚、体捌き・運足の技術が引き出されるのです。本来、近間での攻防は、掴んだり、組んだりするのが自然です。また、接近戦における、組み合いへの対応という戦術と技術を空手に加えれば(本来の空手では当たり前)、護身武術としての伝統空手が復権します。突き蹴りのみが空手だと理解している人達は戸惑うかもしれませんが、護身に空手を役立たせたいと考えるならば、多様な格闘状況を知らなければならないと思います(もちろんすべてを知ることはできませんが・・・)。
但し、組手競技として、それを行なう場合、下図のように戦闘局面が大きく分けて3つになり、組手が複雑になります。また、頭部打撃という空手の得意技を禁止すれば、組技の強いものに有利、打撃技が得意なものに不利になるという意見が出るでしょう。ゆえに、組み合いが許される時間を、3秒間に制限しました。
それでも、打撃技が得意な者に不利だという方には、これからもう少し説明の努力が必要かもしれません。しかし、極真空手を代表とするフルコンタクト空手の蹴り技は、かなり強力な打撃技、攻撃技です。私は、積極的に組技を学び、それを取り入れれば、かなり強力な格技が誕生すると確信しています(時間がかかるかもしれません)。
更に付け加えるならば、確かに、戦術の範囲を広げ、戦闘局面の種類を増やせば、組手が複雑になります。しかし、それを我慢して、先ずは、チェスのように、駒の動かし方と簡単な手筋、すなわち、基本技と組手型(基本戦術)を、身につけさえすれば、組手(戦い)がチェスのような戦略ゲームに近づいていくのです。
そのように空手が変化を遂げれば、これまでの戦術を磨き上げるということのみならず、戦略的観点の醸成という、新たな目標が生まれてくるでしょう。
そこから、人間教育に役立つ、ストラテジック・コンバット・スポーツ(戦略的格闘技スポーツ=武道スポーツ)が誕生するのです。
【蛇足】
蛇足ながら、近間・接近戦での攻防では、金的や目つきなどの急所攻撃をすれば良いというように短絡しないで下さい。そのような考えは、奇襲・不意打ちという次元であり、緊急の護身術としては考えなければなりませんが、よくよく考えて下さい。それを安易に持ち出すと言うことは、小武器の使用も有りということと同次元だと私は考えます。そうなると、ルールを限定し、多様な戦術に対応するための能力や、格闘の基盤となる身体能力を高めるということから離れていきます。
異論もあるとは思いますが、私には論争する気もありません。なぜなら、そのような武術の流派もあっても良いと思うからです。しかし、私は公ではそれを行ないません(裏でやるかもしれませんが・・・)。
話を戻せば、なかなかフリースタイル空手の効用を理解していただけないようですが、もう少しだけ頑張りたいと思います。
フリースタイル空手プロジェクト報告〜5−5
フリースタイル空手プロジェクト報告
【戦略的観点の養成】
今回は、4月に行なわれたFKの練習試合の映像の紹介をしたいと思います。
フリースタイル空手は、昨年の第1回フリースタイル空手チャンピオンシップ東京オープンの検証(反省)により、試合時間を5分間に変更しました。延長戦は2分です。
なぜなら、フリースタイル空手の目標、特異性(独自性)の第1に、「戦略的観点の養成」ということを挙げたいからです(詳しくは別の機会に)。また、当初は選手のスタミナが心配でしたが、問題ありませんでした。フリースタイル空手は、打撃技と組技の両方の戦術が使えることや、組技が3秒間というルールにより、スタミナ配分が容易になるのでしょう。スタミナ配分、すなわち戦術の配分でもあります。それが、すでに戦略的観点が生まれている証拠です。
さらに、フリースタイル空手は、打撃技と組技を組み合わせによる、多様な戦術を生み出す可能性が拡がります。
私は、多様な戦術が生まれる可能性が高いという条件(フリースタイルという条件)は、戦略的観点を生み出すための条件だと私は考えます。
言い換えれば、それがフリースタイルという思想なのです。
人間社会のみならず、自然界も含め、強力な戦術(戦い方や能力)が生きるために必要なことはいうまでもありません。
しかし俯瞰してみた場合、そこには戦略のようなものが存在するように、私には思えます。
【ローカルな文化を架橋するような道具のようなもの】
私は、他の空手家同様、空手武道を通じ、社会に貢献したいと考えています。
そのためには、空手武道を長きにわたり、楽しめるようにしたいと考えています。また、世界中のより多くの人達が、真に納得して楽しめるようなスポーツにしたいと考えています。
言い換えれば、文化の醸成を通じた社会貢献です。断っておきますが、ここで言う文化とは、伝統的な文化ではありません。私の考えは、あらゆる伝統文化をなるべく大切にしながらも、それらに内在すると考えられる普遍性を指針に、それを融合していくことです。言い換えれば、フリースタイル空手は、ローカルな文化間を架橋するような道具のようなものです。
正直言えば、私の考えに賛同する人は、まだ多くありません。戦略が間違っていると言う声が聞こえるような気がするときもあります。しかし、私には事情があるのです。たとえ少数でも、協力してくれる仲間がいることに感謝し、その仲間を私の人生における宝物だと思って戦います。
さて、今回は、先月行なわれた、フリースタイル空手の練習試合の中から、宮村氏と土屋氏の試合をアップしました。すべての試合をアップしたいのですが、他の仕事との兼ね合いで、できないことを許していただきたいと思います。
宮村氏は私の道場生です。入門した頃は、まだ技が未熟でした。しかしながら、編集者というハードな仕事ながら、コツコツと練習を重ね、上達しました。今では、最新のフリースタイル空手の技を誰よりも知っているくらいです。あえて、課題を言えば、空手が基盤の割には、打撃技が上手くないことです(御免ね)。今後は打撃技の威力を向上させれば、更に有力なコンバット・アスリート(フリースタイル空手選手のこと)になるでしょう。
一方の土屋氏は、航空自衛隊の格技の教官です。土屋氏は、非常に誠実な人柄です。私は自衛官でもある彼を、個人的心情から尊敬しています。我が国においては、自衛官の意義が正しく認識されていませんが、自衛官は本来、武人です。私は、国を守る武人と一緒に、プロジェクトが進められることを大変うれしく思っています。
また、審判の荻野先生や大森審議員の存在も、いつも心強く思っています。荻野先生には、時々、辛くあたりますが、勘弁して下さい。心を許しているからこそ、正直に甘えられるのです。
更に、名前を挙げて、感謝したい人間は、他にも多くいます。この戦い(私にとっては)、プロジェクトが一段落ついた時には、すべての人に感謝の思いを伝えたいと思います。
私は、プロジェクトがどのような形になろうとも、後、数年でけじめを付けると決心しています(その思いが時々空回りしていますが、それを愚かだと、笑いたければ笑えという気持ちです)。
その時まで、私のマイペースをお許し下さい。マイペースと言っても、私は、歩くことはしません。いつも小走り、ときに全力疾走です。
それでは、興味があれば、宮村氏と土屋氏の練習試合をご覧下さい。
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ラリー・ベイカー(黄帯)×吉田健二(黒帯)/フリースタイル空手プロジェクト報告 5−6
FKP報告5-6
昨日に続き、FKP(フリースタイル空手プロジェクト)の報告をしたいと思います。
4月に行なわれた、FKの練習試合では、参加者に上達が見られました。
試合時間を5分としましたが、それによって戦い方に落ち着きが見られ、打撃技と組技を上手く組み合わせて戦っていたように思います。
これまで述べてきたように、フリースタイル空手の目指すところは、戦術を磨き上げることのみならず、戦術並び多様な戦闘局面の運用です。
試合時間が短ければ、彼我が生み出す多様な戦闘局面に対応し、それを運用して、自己を最終的な勝利に導くと言うような戦略的戦いが困難になります。
なぜなら、試合時間が短いと言うことは、すなわち一つの戦術に特化した方が勝ちやすくなるのは、自明だからです。
さて、FKの練習試合の参加者にラリー・ベイカー氏と吉田健二氏という私の道場生がいました(FKPには、私の道場生が多いですが、他流派の方々も参加しています)。
ベイカー氏は、ムエタイを長く行なっていたそうです。私の道場に入門したのは1年半程前です。ベイカー氏が私の道場に入門したのは、道場生のひとりに友人がいたからだそうです(本当のところは知りません)。また、現在、黄帯です。
私は始め、彼が空手やフリースタイルを受け入れるのは難しいのではと思っていました。
なぜなら、私の道場は伝統技も大事にしますし、フリースタイルと言っても、型(組手型)によって技術を学ぶというスタイルです。ムエタイ、キックボクシングのジムで練習していた彼には、練習方法が合わないと思っていたのです。ところが、彼は熱心に道場に通ってきています。
その彼の姿に、私は驚いています。さらに、ムエタイ出身の彼が、誰よりもフリースタイル空手を楽しんでいるのです。
彼は、倒し技をもっと勉強したいと言います。
最近は、私の道場の指導員で柔道四段の者に、柔道の技を教えて欲しいとも言っているそうです。
ある日の稽古後、私は彼に、「フリースタイルのどこが面白い」と聞きました。ベイカー氏は、「テイクダウンが面白い」と答えました。
「そうだろ!」「テイクダウンはわかりやすいだろ!」と、我が意を得たり、というような感じで手を叩きました。
余談ですが、“フリースタイル空手はストラテジック・スポーツだ”という標語は、イギリス人の彼にフリースタイル空手のコンセプトを説明し、命名してもらいました(彼はインテリジェンスもあると思っています)。
一方の吉田健二氏は、若い頃(御免、今も若い?)、松濤館空手を行なっていたらしいです。実は、松濤館空手では、足払いなどの倒し技は当たり前だったようです。私も子供の頃、和道流空手を行なったことがあるので、そのことは知っていました。また、私が極真空手を始めた頃は、極真空手でも倒し技が当たり前でした(私の認識では)。
現在吉田氏は、黒帯の初段ですが、フリースタイル空手プロジェクトを非常に良く理解してくれています。また、楽しんでくれています。
さらに最近は、柔道まで習い始めたようです。おそらく、彼の心の中に、空手も武術であり、多様な技や戦術を学ぶことの必要性を理解しているのでしょう。
しかし、柔道を習うだけではなく、私からフリースタイル空手を学んだ方が、”フリースタイル”に強くなると思っています(私は柔道が大好きなのでうれしいことですが・・・)
それでは、ベイカー氏と吉田氏のFK練習試合を掲載しておきます。
是非、ご覧下さい。