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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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上達する者

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【組手修練において意識しなければならないこと】

 

 拓心武術の組手修練において意識しなければならないこと。それは、「勝つための原則」を実践することである。具体的には、相手との位置(相手との角度)、間合い(距離)、攻撃するタイミング(機会)、目標(最良の攻撃目標)を選択し続けること。そして、その選択を勝利に繋げることである。言い換えれば、「勝つための原則」を活用・実践すること。だが、多くの人がそのことを意識しているようには見えない。そんなことを考えていないが、私は勝つことを考えている、という人たちには、勝つという意味(内容)が私のそれとは異なるということだろう。空手界の問題の一番はそこにあるかもしれない。それは技量・技能以前の問題である。

 

 私には、ヒッティングの上達が遅い人の傾向として、「勝つための原則(理法)」の重要性が理解できていない点を挙げたい。おそらく「子供たちに勝つための原則が理解できるのか?」と疑問を持つ人がいるだろう。もちろん、組手を行うだけの稽古なら、理解は困難に違いない。だが、拓心武術の修練は組手修練の前に攻撃技のみならず防御技、そして攻撃技と防御技を組み合わせ、融合して使うモデル(型・法則)を学ぶ組手型を行う。言い換えれば、記号と文法を学びつつ、作文を行うのである。そのような修練を行うことで、相手に自分の考えを伝える技能が身についていく。現在、組手の試合を経験を重ねる者の中から、そのことを理解し始める者が出てきたようだ。だが、まだ少ない。その原因は、かくいう私の伝達能力・技能が未熟だからだと考えている。

 

 さて、ヒッティング方式の試合を行えば、どんな人でも「攻撃を当たられることが嫌だ」と感じるだろう。また、「うまく当てることができれば楽しい」と感じるはずである。それは、私がそのようにコードを書いているからだが、この反応を活かすことが重要だ、と私は考えている。

 

【上達する者】

 私は常々、物事に上達する者は、自らの行為が上手くいかないことよりも上手くいくことを期待できる回路(思考・身体感覚)を有しているのではないかと考えてきた。また、嫌なことを思い浮かべるよりも、楽しいことを思い浮かべやすい回路を有していると考えてきた。さらに、そのような回路と心身の反応を活用して上手くなるのだ、と私は考えている。もちろん、物事に上達するには、最低限の経験と思索(考究)が必要なことは言うまでもない。上達する物事の基盤(経験と思索)がないのに上達が存在するわけがない。

 

 さらに想像すると、天才は上手くいくこと、楽しいことのみを強く思い浮かべることができる回路を有する者かもしれない、と思っている。そのように想像するのは、私の回路は天才のそれではないからだ。だが、たとえ普通の人間であっても、自らの回路(癖)を修正し、心身の反応を活用すれば、必ず上達・向上すると思っている。また、凡人の私はそう信じて生きてきた。

 

 言い換えれば、経験を積み思索を重ねた上で、たとえネガティブなことが思い浮かんでも、よりポジティブなことが思い浮かぶようにすれば、必ず人間は上達・向上する。この事実があらゆる技能の上達に裏側にあるということだ。

 

【感得】

 おそらく、子供は先述したような回路を家庭環境の中で体得していくのだろう。つまり、理屈ではなく経験によって感じとって理解していく。そのような理解を〈感得〉と、私は言いたい。

 

〈感得〉は重要な体験である。だが、すでに大人になった人には、その体験の機会が少なくなっていると考えている。ゆえに、私の考える拓心武術の修練では、人間としてより原初的な身体活動を通じ、〈感得〉の体験を提供したいと考えている。

 

 補足すれば、その身体活動は少しだけ危険を感じるような行為が良いのではないかと直感している。あまりにも安全すぎる身体活動は、錆びついた回路が活動しないように想像するからだ。断っておくが科学的な根拠はない。ただ、私の直感的イメージである。

 さらに言えば、感得を促進するには、理性で感性を補完する必要があると考えている。なぜなら、生まれてから身についた回路が上達に良くないものだという認識がなければ、その回路を変更することはできないからだ。その認識がなければ、より良い新たな回路を作ることは困難だと思う。もし新しい回路ができたとしても、劣悪な回路が関の山だと思う。だが、新たな回路作りは、かなりの労力が必要となるだろう。その労力を必要とする部分をガイドするのが拓心武術の修練法の眼目だと言っても良い。正直に言えば、私自身、今もって自分を鞭打つのは、自己が未熟だからだ。そして、なるべくより良い回路を作りたいと考えている。だが、「すでに時遅し」の部分もあるようだ。とにかく、大人になってからの回路作りは、強い意志と弛まぬ反復練習が必要である。そして何より、正しい理論と方法が必要だと考えている。

 

  

【技能を高めるにはどうしたら良いか?】

 ここで技能を高めるにはどうしたら良いか、ということをまとめてみたい。考えてみたい。まず、技術・技能を高めるには、物事の上達・向上の方法を理解し、かつ上達の回路を創り上げることを目指さなければならない。そのためには、物事(現象)の原因を突き詰めていく視点が必要だ。組手修練で言えば、戦いの原則(理法)を理解し、かつ、それを実践しようと心がけることである。そのような志を有する訓練だけが、自己を根本から作り変えていく。その結果、自己の心身が技能の本体となっていくのである。言い換えれば、高い技能とは、自己の本体と一体となった業(わざ)なのである。

 

【勝負とは】

 ゆえに私は、組手や為合い(試合)修練の目的を単なる「勝負・勝敗」とは考えていない。勝負とは自己の本体が戦いの原則(理法)を体得するための契機(きっかけ・機縁)と言っても良い、と私は考えている。そのように「勝敗」を考えるものは必ず上達する。だが、そのことを理解していない者がほとんどである。また、本当の勝負の姿が見えぬまま、いたずらに体力を浪費し、かつ身体を酷使している。私は、本当の武術修練には、現象を掘り下げる意志と「心身という道具」を活かすという感覚が必要だと考えている。

 

 私は空手武道、そして拓心武術を伝えることで、「心身という道具」を活かすという感覚を育みたい。そして、全ての人を上達の道へ誘いたい。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自己活かす能力

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 先日、たまたま東日本大震災の被災者のその後を描いたドキュメンタリー番組を観た。また、すでに亡くなった名優の在りし日を映像を取り上げた(25〜30年ほど前か)、有名なトーク番組を観た。どの映像を見ても、若い頃のありがたさと生きているだけで幸せなんだな、ということを感じさせてくれた。

 

 そう思っている矢先、知人の訃報が知らされた。コロナが落ち着いたら、もう一度会いたいと思っていた人だった。命とは儚い。また人生は短い。否、短いも長いもない。悔いなき人生を送れるか。私にとっては、それだけが勝負だ。そのために体験の中から、自分自身が納得できる意味を紡いでいる。意味はシンプルなほど良いかもしれない。だが、私のように気難しい人間はそれが耐えられない。シンプルでは納得できないのである。パズルを完成させるような意味、楽しさを見出さないければ、やってられない。だが、そうやって創り上げた意味や見出したものも全てフイクションであり、幻想だと言っても良いと思っている。同時に必死に意味を紡いでいくような行為の中に何か真理のようなものがあるに違いないとも思っている。そんなわけのわからないことを思いながら、私はいつも食事もせずにPCに向かっいる。

 

メッセージFrom 増田 章〜「自己活かす能力」

【拓心武術という武道は】

 拓心武術という武道は、組手技という構成要素で編まれています。その中でも基本組手技とは「突く」「打つ」「蹴る」などの打撃技のことです。その他、「投げ技」や「倒し技」そして「逆技」他の技も組手技に含まれます。

 ここでいう拓心武術の組手技とは、言葉のように組み合わせ、活かすことで新たな意味や心を生み出していく媒介となるものです。また組手技を組み合わ活かすことで新たな技のみならず新たな戦術(活用法)を生成化育していくものです。言い換えれば、拓心武術の修練の目指すところは、組手技を活かしていく修練を通じ、自己があらゆる武術、闘争を包括していく道(=武道)を知ることなのです。

 

 なお、拓心武術とは、直接打撃の極真空手において、最高レベルの厳しい修行を体験した、私の経験から生み出された思想を具現化したものと言っても良いものです。ただ、その思想は単なる思いつきではありません。それは長年にわたる研究と経験に裏付けられたものです。それは私が感謝する極真空手を活かすものと言っても良いものです。同時に極真空手を基盤にして優れた格闘技、武術を包括するためのものです。言い換えれば、より高いレベルの空手武道を誕生させるための概念であり、修練法です。しかしながら、簡単には受け入れてもらえないでしょう。それは仕方のないことです、皆、自分が得すること以外はしたくないからです。

 そんな中、私は愚かにも拓心武術には明確な概念と理論があるということを唱え続けています。当然、それらを実験、実証して行かなけばならないでしょう。それは大変なことですが、それを楽しんで行きたいと思います。なぜなら、実際楽しいということ。ただ、共に楽しんでいける仲間を増やすことに苦労しています。それでも、孤独の意味、そして活かし方を知らなかった幼い頃とは違います。何より、少ないながら仲間がいるのですから心強いと思っています。

 

【自己活かす能力】

 さて、武道には古今東西、数えられないぐらいの流派が存在しています。そんな混沌といっても過言ではない中にあって、拓心武術がゴールとすることは、単なる武術的な強さではありません。拓心武術のゴールとは、「自己を活かす」また「他者を活かす」ための能力の有無と養成です。要するに、拓心武術における強さとは、「自己活かす能力」といっても良いでしょう。そのような強さの養成と発揮を理念を核とし、「技を創る」「技能を高める」「自己を形成する」ことを拓心武術の目標とします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

武道人〜衆議院選挙を前にして

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 武人の酔語

 ここ2週間ほでで、サイトの修正に100時間は費やしていると思う。「100時間?」と出鱈目を言うなと思われるだろうが、そのぐらいはかけている。その間、昔書いた小論や文言を見直した。身体がデスクワークに耐えられるなら、全てを見直したい。また、もっと資料を読み込み、深く考究したい。だが、身体が傷んでいる。あまり無理をしないようにしたい。

 以下のコラムは2年半前に書いたものだ。考え方に若干の変化や用語に修正部分が見られたが、大体は2年前に思った方向性に沿って頑張っている。我が道場生向けに再度、アップしておきたい。

 
 ここ2年半もの歳月の結果、何か進展があったと問われれば、ほんの僅かの前進があった。しかし、決して大喜びするようなものではない。依然として、前途は険しく、なんとかしなければ、といつも私は心配している。
 
 
 さて、みんなも自分のことを精一杯頑張っているのだろう。それは良いことだ。私は頑張っている人を見ると感動する。また、勇気づけられる。さらに、私はそんな頑張っている人達が力を合わせたら良いのに、といつも思っている。一人ひとりの頑張りを結集する。それがより良い社会のあり方だと思うから。ゆえに、社会のあり方を形成する仕組み(ルール)が重要だと考えている。そして、その仕組みを作る政治家にもっと頑張ってもらいたいと思っている。
 
 私が考える国家において重要なこと。大まかにいえば、国家のあり方、すなわち理念を掲げ、それを具現化するための仕組み(ルール)作りである。当然、その理念には、日本人のアイデンティティを充足するような価値観が内包されていなければならない。
 
 ゆえに政治家に問われるのは、理念を遵守し、それを具現化する仕組み(ルール)をデザインするセンスなのだ。そして役人に問われるのは、政治家の思想とデザインを具現化するための実務能力だ。それが逆になってはいないだろうか?私は政治や国家システムには門外漢だが心配である。私は政治家にもっと頑張ってもらいたい。もちろん良い意味でだ。だが「お前が頑張れよ」と言い返されるのがオチだと思う。
 
 私は予々、日本人は一人ひとりを見ると、とても頑張り屋さんなのに、力の合わせ方が下手だと思っている。おそらく、日本人は、自分のやるべきことをやる。そのような価値観が一番大事だと思っているのだろう。ゆえに、政治家にあまり関わらない。また、期待しないのだ。時々、自分達に利益を誘導してくれそうな政治家を支持することはあるだろう。しかし、そんな安直な考えではいけないような気がする。なぜなら、人間にとって良くないことの一つは、自己の利益を最優先することだ、と私は考えているからだ。そして、悪い奴は「あなたの利益を最優先していますよ」と言う言葉(時には雰囲気)を囁きながら近づいてくるものだと直観している。
 
 いつか、そのことに気がついて、一人一人の頑張りを活かすためには、リーダー、すなわち政治家を選ぶことが一番大事なんだと言うことに気がついて欲しい。短期の利益ではなく、中、長期的な利益を考えて…。そのためには、より多くの国民にリーダーシップが必要だと思っている。ここでいうリーダーシップとは、人を強引に引っ張っていくリーダーシップではない。それは、自己をより良い方向に引っ張っていくリーダシップとでも言ったら良いかもしれない。また言い換えれば、「自己を活かすための意識・能力」である。
 
 だが、「船頭多くして船山に登る」とでも言わんかのように、自分の意見を提示せず、誰かの考え(その時の空気が醸し出す意見)を選び、それに従っている。私には、日本人のあり方がそのように映る。もちろん、日本人の叡智には、自己を生かす意識・能力が十分に備わっていて、その結果が現在に至るのだとも思っている。しかしながら、私は、その偏向を疑わなければならないと思っている(いつの時代も)。
 
 一方、アメリカ人は、多くの人が船頭のようだ、と私は想像している(本当のところはわからない)。だが、アメリカ人は必ず意見を言うようだ(そのように教育されている)。それでも、考えが一旦まとまれば、皆力を合わせる。だが、日本人は、必ず自分の意見を言うと言う部分に躊躇のようなものがあるように思う。昨今は変わってきたかもしれない。だが、誰かに任せておけば良い、と言うような考えが多くの日本人にあるのではないか、と私は疑ってきた。もしかすると、偉そうに自分の意見を言うことが恥ずかしいことだと思っているのではないだろうか。だが、自分の意見を伝えることは重要だ。もちろん、稚拙な発言、酷い内容の発言もあるに違いない。かくいう私の意見も稚拙だろう。しかしながら、まずは、オープンに意見を出し合う、また意見を交換し合うと言う習慣が必要だと考えている。もし、みんなが民主的な国家を形成したいならば、の話だが…。まずは、幼い頃から、対話をすることに慣れさせること。同時に対話に高い価値を与えるべきだと思っている。ただし、ある程度のルールを基盤にしてだが。一方、インターネットには、様々な意見が溢れ、意見の交換がなされている。だが、そのような意見の交換は対話とは言わない。私が言う対話とは、肩書き、年齢に関係なく、双方が公正なルールを承認して行う意見交換のことである。そのような対話を、会社、学校、などの組織内で当たり前として欲しい。何より、国会の場でそうあるべきだと考えている。だが、どの組織でも独自の意見を言えば、仲間外れになるように見える。だからこそ、力のある者は、対話を心掛け、かつ少数意見にも耳を傾けて欲しい。見せかけではなく、真心で。
 
 
 
 
 
 
 

増田 章の言う「武道人」とは  

(2019年3月24日のアメーバブログより)
 

 最近、親しい友人から、「僕は〇〇家と安易に呼ぶのは好きではない」というようなことを聞いた。彼は、〇〇家というなら、その〇〇という業界(家族)全体のことを考えるべきだと続けた。私は「その通りだ」と応えた。 確かに、格闘家、武道家、空手家、〇〇家と、最近は自ら呼称する人が多いようだ。もちろん、人がそのように呼ぶ場合もある。

【一人の武道人として】 

 実は、私が独立して、自分の組織を創設した時、経済人や政治家の集まる会合で挨拶をさせられた時、「私は己の組織のみを考える武道家というより、一人の武道人として、皆とともに斯界を変革していきたい」というような主旨の発言をした。実は、その会合に向かう新幹線のなかで「武道人」と言う言葉の意味を考えていた。その時が武道人と言う言葉の誕生の瞬間と言っても良い。おそらく、私以外で「武道人」と言う言葉を使った人はいなかったはずである。その会合の参集者は、皆「キョトン」としていたに違いない。数人が私に名刺交換をしてきた。その中に産経新聞の記者がいた。もう一度会ってみたいと思っている。  

 その時、私の伝えたかったことは、国であっても企業であっても、空手界、スポーツ界であっても、自己の組織のことだけを考えるのは、レベルが低すぎるということである。また、もし多くの人がそうであるならば、私は偉そうに武道家、空手家などとは名乗らない。それよりも、一人の武道愛好者として、その対象をとことん掘り下げていくのだ、ということを心身に銘記するためだった。それは、国家、愛国ということに関しても同じである。それが武道人という言葉の誕生の瞬間であった。更に言えば、その一人の武道人と武道を掘り下げてきた結果が、「空手武道を通じて人と社会を良くしたい」と言うことである。また「自分の組織、家族のことだけを考えているのではいけない」ことだ。もちろん自分の家族のことを第一に考えるのは当然であろう。しかし、空手家というのであれば、自分の出身母体や空手界全体のことを考えることが必然だと思う。もし、「私は空手家ではない」「ゆえに我が道を往く」というのならば、「それは空手屋」である。それは、ビジネスや商売と空手や武道を別物として分けない。ビジネス、経済界においても自分のビジネス、利益を考えるだけでは、やがて行き詰まると考えているのである。 つまり、ビジネスにおいても、業界全体のことを考え行動する。そのような視点が指導者(リーダー)には必要だということである。 

【野球人という言葉】  

 補足すれば、私は野球人という言葉が好きである。先日、イチロー選手の引退会見があった。実は私はイチロー選手のファンである。彼の会見は、幼い頃から私が持っていた、ロールモデルと合致する。彼の生き方からは、実に多くのことを学んだ。彼に対する私の思いは、別の機会にまとめてみたいが、野球選手は、野球家とは言わない。なぜだろうか。それは、野球は選手、監督、コーチ、スポンサー、ファン、メデイアなどなど、全てを巻き込んだ社会的スポーツ、難しく言えば、文化的公共財だからだ。言い換えれば、社会全体に対する役割と責任を関係者が認識しているのだ。 

 

【〇〇家という語源】

 おそらく、そこには〇〇家などという、大仰なラベルが必要ないのであろう。〇〇家という語源を遡れば、おそらく中国の春秋時代に遡る。その時代に「諸子百家」という言葉が生まれたようだ。私の理解では、その時代、様々な職種が発する理念および思想的なものを、また、その思想を核とする集団を社会において分類するために、〇〇家という言葉が生まれたのであろう。また、〇〇家の中では、互いに異論を唱えあい、自己の主張を繰り広げていたに違いない。しかし、その侃侃諤諤な議論の中心には、社会全体を良くするのだ、という理念と共通の理念があったに違いない。 

【現代における、〇〇家】  

 翻って、現代における、〇〇家を眺めたときに、社会全体を良くするという思想があるだろうか。おそらく、その指導者たちは「ある」と答えるに違いない。しかしながら、その中心は自分の保身ではないだろうか。  

 先に述べた私の友人は、「〇〇家というのは家族(家族的集団)のようなものである。もしそうなら、他の家族のことも、大きく括れば家族だと考え、行動することが大事ではないか。」と言葉を続けた。 私は、「その通り」と応えた。更に「たとえ異論があったとしても、全体を家族と考え、斯界の発展を考えることだ」「それができて、初めて〇〇家という評価をいただけるのが本当だと思う」と続けた。 今私は、友人と意見をかわしつつ原点に戻りたいと思っている。具体的なことは、次回に述べたいと思うが、再び方向性を明確にしたいと考えている。

【アイデンティテーの確立】 

 私は、あと1ヶ月ちょっとで57歳になる。振り返れば、私は極真空手に鍛えられ、極真会館に育てられた。その極真会館を自分のアイデンティテーとして、大事にすること。また、自分の心身を鍛錬してくれた、極真空手の伝統を保存しながらも、より良いものに変革していくということだ。私の極真空手に対する考えと半生を綴った著書に、私は生き方の目標を書いている。それは「どんな状況においても、自分は自分だと胸を張れること」だ。それは、「どんな苦しい状況でも、どんな惨めな状況でも、自分に対する感謝を忘れないことと言い換えても良い。それは、自分を産み育ててくれた、親や家族、社会や自然に対する感謝である。また、逆に言えば、その感謝を忘れなければ、苦しく、惨めな状況にはならないということでもある。それが増田が考える、アイデンティテーの確立(真の自己実現)である。  

 だが、周知のように、私の母体である極真会館は分裂を繰り返している。増田章の情緒的な表現だと、お断りして言えば、「ふるさとがなくなりつつある」というような感じであろうか。ただ、数年前から松井館長と友人としても組織人としても和解した。それは、大変うれしいことであった。私の57年もの人生におけるドラマティックな展開の一つである。今私は、松井館長の努力、そして関係者の努力を尊敬し、私のみならず、多くの人のふるさとである極真会館を守ってもらいたいと思っている。また、思っているのみならず、私のやれることは喜んでやりたいと思っている。ただ、思ってはいるが、現実は生活に追われ、また自己の夢を追い求めた研究と修行に明け暮れる毎日である。 また、残された時間が少ないことを意識し、可能な限り、欲望を抑えつつ、これまでの付き合いを無にするかのように生きている。古くからの知人や友人のことを時々思い出すが、私は自身の生き方でお返しをしたいと思っている。 

 それを一言で言えば、「私はどんなに疲れていても、どんなに痛くても、どんなに苦しくても、死ぬまで元気である」と。変な言い方である。言い換えれば、「疲れることもあるだろう、痛いこともあるだろう、苦しいこともあるだろう、でも死ぬまで、私は一つの夢を追い続ける」そして「もし、そうあるならば、私はいつも元気だ」と言う意味である。

 

【私の夢】 

 私の夢とは、増田式だが、私は他のジャンルの人達と共感しあえ、かつ一目置かれるように、極真空手をより良いもの、かつ高いレベルのものにすることである。そのために極真空手の伝統は保存しつつ、新しい武道理念と形式を付け加えたい。それは増田独自のものだ。ゆえに他の空手人には強要はしないが、我が道場の仲間、家族には共有してもらいたいと考えている。草案だが、その理念と形式に「拓心武道メソッド(増田武道メソッド)」と、私は名称をつけた。  

その内容を簡単に述べれば、一人型ではない相対型の組手型の修練法を確立し、かつ組手を「為し合い(試合)」とする。その「為し合い」のコンセプトは、「心を制する(制心)」「機会を制する(制機)」「力を制する(制力)」の3つである。それは、武術としての極真空手と大山倍達の空手の原点に戻ることでもある。 

 私は、その修練の理念を修道とし、その稽古と鍛錬の体系の根幹を修練体系として、改めて明確にしたい。当然、そこには組技や逆技が加わる(大山倍達の空手の半分はそのような技である。そのようなことを踏まえ、拙著フリースタイル空手では、組技や逆技を紹介し、その方向性を示したつもりである。だが、多くの人のニーズに合わなかったようだ。昔、私の組織に所属したいという韓国の極真空手の組織から要請があった。その時は、フリースタイル空手を広めることを試み始めた矢先だったので、我々は極真空手のみならず、投げ技や逆技を修練すると伝えたら、我々の道場生には、そこまでの修練をする余裕がないというような趣旨のことを言われた。その人間は、柔道の五段位を有していて、自分には可能だが、道場生の希望とは異なるということであった。同様のことを自分の道場内などでも聞いた。平たく言えば、私の理想とする空手武道を行うには、自分のスペックでは難しいということである。それでも、何人かは、一緒に活動をしてくれた。その仲間に感謝したい。しかしながら、私がなぜ組技や逆技を入れるかの真の意味を理解されていなかった。しかし、それは私のプレゼン能力が低いからだ。また、私の展開スキームに難があったからである。私はそれを軌道修正するために数年を費やした。それがもう少しで完成する。

 新しいスキームは打撃技を中心としたが、これまでとは異なる価値観の「為し合い(試合)法」の創設と組手型によって、極真空手のルーツである、大山道場の空手ではなく、大山倍達自身の空手技術を復元するという試みも含んでいる。それを「古伝極真空手技法」という名称をつけた。その中には、投げ技、逆技、武器術、護身術を含んでいる。そのことは、極真空手の真の意味での伝統の継承になると確信している。

 しかし、伝統の継承を唱える者の常として、悪い意味での権威主義に陥るに決まっている(絶対に)。ゆえに、私は「心技体の統合」を目指し、「道(天地自然の理法)」を体得するための「為し合い法(試合法)」を創設し、型の稽古と組手稽古を併用する。試し合いの稽古においては、神秘的な事柄や他の権威を利用することはしない。  

 だが、経験からくる不安感が募っている。それは伝統的な極真空手の再現と新しい武道修練法としての「拓心武道メソッド」を現在の道場生が受け入れるかどうかである。皆は私ほど、空手のことを深く考えてはいない。なぜならら原体験が異なるからだ。ゆえに慎重に行いたい。気をつけなければならないのは、私のせっかちな性分である。その性分を抑えなければ、私は道場を譲り、死ぬ前に独りの道を行くだろう。私が小学生の時、本を読み感銘を受けた「親鸞」のように。  

 最後に

 最後に、私にはもう一つの夢がある。それは、松井館長の極真会館を中心に、極真空手家たちが家族として和解することだ。そうなれば、私は肩書きを胸を張り「極真空手家」とするだろう。繰り返すが、野球人は野球家と自らを名乗らないし、周りもそうは言わない。しかし、中国の春秋時代の諸子百家の時代のつもりで現すならば、スポーツ全体を「スポーツ家」と呼称し、その中で特に優れた物(競技)と人を歴史に残すであろう。ここで抑えておきたいのは、〇〇家とは、その業界が現す思想的な事柄なのだ。もう一度いう、我々空手界に、明確な理念と思想があるだろうか。

 

 

 

構えについて~拓心武術の戦法論(戦術理論)

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構えについて~拓心武術の戦法論(戦術理論)

 

 

少年部の生徒が

 昇級審査における試合の前、小泉君という少年部の生徒が私に質問してきた。「僕の組手の構えは基本構えとは違いますが良いですか」と。私は「基本構えはあるが、組手の際は自由だ」「自分で考えて構えれば良い」と答えた。

 拓心武術の組手修練における基本構えの上段とは、肘を45~90度ほど曲げ、肩の力を抜き、拳をこめかみの高さまで上げて構えるものである。小泉君の構えは、基本構えの上段を変形したものである。因みに彼の構えは基本構えの上段の腕構えを変形したものである。試合の際、彼は前腕を少し前に出し、後腕を顎の前に置いて構えた。おそらく、彼は他の生徒より背が高いので前拳(前腕)を前に出し、相手を牽制、かつ順突きを当てやすくすること。また、背の高い彼にカギ突きや上段回し蹴りで攻めてくるものは少ないから、横面(頭部横)より、顎の前をガードして、相手が間合いを詰めてくる際、いち早く直突きで対応するという戦い方が自分を優位にすると考えたのだろう。それは理にかなっている。そのように自分で工夫することを私は良いことだと思っている。だが、その構えは基本構えの応用だということを理解してほしい。

 

「基本構え」とはどういうものか 

 ここで拓心武術の組手修練法における「基本構え」とはどういうものか、述べておく。まず、「構え」とは心のあり方(心構え)を示すものである。拓心武術ではそのように説く。ただし、構えとは目的に対し合目的性を有していなければならない。ゆえに組手の際の構えは、勝つために有効なものではければならない。なぜなら、拓心武術の組手修練の目的は勝つこととしているからだ。だが、その真の目的は、目的に対し真剣に向き合うことにある。

 

 

 因みに拓心武術の組手修練法とは、徒手で頭部、腹部、下腿を突いたり蹴ったりして攻撃し合い、突き技、蹴り技の技術とその防御技術の有効性を競いあうものだ。その様な組手試合では、頭部を相手の突きや蹴りから守り易い、かつ相手の頭部を突きや蹴りで攻撃し易い「身構え(自然体組手立ち)」の有効性が高い。

 

 拓心武術における組手・仕合(組手修練)は、攻撃と防御を巧みに活用し、勝つために、より応用変化し易い構えを「基本構え」とする。だが、拓心武術の組手修錬法には徒手対徒手のみならず、徒手対小武器といった組手修練法がある。また投げ技を使っても良いとする組手修練法もある。そのように戦いの状況(想定)が変化した場合、拓心武術の基本構えは上段の腕構えから中段の腕構え、また下段の腕構えと自在に変化する。例えば、上段の腕構えは、直突きのみならずカギ突きや上段回し蹴りなどにも対応しなければならない場合に有効である。だが、相手が直突きを得意としていれば、腕構えを変形させて、前拳を前に出したり、後拳または掌底を顎の前に置き変化させる。一方、相手が小武器を使う状況においては、小手や足をを打たれる(切られる)可能性が高くなるので、腕構えを中段や下段に取ることも有効だ。要するに、戦いの状況変化に対し、臨機応変に応用変化できる構えを総じて「基本構え」とする。

 

 全てをゴールの実現に結びつけること

 少々脱線するが、闘争、戦い、組手に限らず、ゴールが明確でないことには対しては、技術も体力も戦法(戦術)も作り様がない。また、活かし様もない。逆に言えば、組手においては、技術の駆使と技能の発揮の全てをゴールの実現に結びつけることが肝要である。その様な関係性を自覚することで初めて勝つということが理解できる。

 

 さらに言えば、人間はゴールが明確なときに心身が活性化する。つまり、ゴールを実現するために、技術や体力、技能の養成に尽力できるからだ。

 また、拓心武術の組手修練においては、優れたスポーツ(ゲーム)の様な戦術論や技能論が生まれるに違いない。なぜなら、ゴールを明確にしているからである。だが、空手には、大袈裟に生死を賭すと掲げながら、目的やゴールが不明瞭な組手法、競技法が多い。

 

 

拓心武道

 話を戻して、ここで断っておきたい。修練・修行法としての組手の目的、ゴールは勝つことだが、拓心武術の究極の目的は組手で勝つことではない。拓心武術のより高次の目的、また究極の到達目標に定めていることは別にある。それは、組手修練を含めた武術修練を自己の身体の可能性を拓き、心の機能を高める手段とすることである。言い換えれば、自己を活かす武術を体得するための修行により、自己を活かす道を知り、それと一体となることである。さらに言えば、その様なあり方を目指すことで武術修練が武道(拓心武道)となる。

 

 おそらく、組手を行えば、大方の人は相手に負けたくない、と思うに違いない。だが、相手に負けたくないと思って組手を行うだけでは、勝つ道を知ることはできない。また、武道の修練にはならない。

 では、組手修練における勝負を自己の成長につなげ、勝つ道を知ることにつなげるためにどうするか。それには、先ず以って戦いの真の目的を自らの心身で問い詰めること。そのことと同時に相手とのとの向き合い方を考究しなければならない。要するに自分の心の態勢を知り、かつ整える必要がある。

 

 私は、本当の武術修練には、単なる取っ組み合いのような組手修練を行なって満足するのではなく、さまざまな鍛錬や稽古、そして体験を包括するような観点が必要だと考えている。そして、その様な観点があればこそ、組手修練が活かされ、武術修練が活かされ、人間生活が活かされると思う。また、全ての行動や行為が活かされる様に考究、かつ実践していくことで、武術が武道となるのだ、と私は考えている。

 

 

 

構えに対する問い

 

 最後に、少年部の生徒の「構えに対する問い」は、相手との向き合い方を意識していたからこそ発せられたものだと思っている。だが、基本をもう少し深く掘り下げて欲しいとも思っている。原則としては、基本の応用は、基本をある程度こなしてから行うことが望ましい。だが、彼の応用は基本構えの意味を理解した上の応用だから良いだろう。むしろ、よくないのは基本構えを上段の腕構え(ボクシングでいうハイガード)としているのに、顔面なしの組手の癖が抜け切らないのか、腕構えが低いものは基本の心構えも理解していないのだろうと思っている。

 

 繰り返すが、拓心武術の組手修錬法には打撃技に限定したもの以外にも、投げ技を有効とするもの、徒手対小武器(ナイフや小刀をイメージした組手用単棒を用意している)がある。そのような組手の際は、中段の腕構えや下段の腕構えなども用い、それらの構えが「基本構え」となることもある。基本構えに関しては、修練体系を更新する際、改めて説明したい。大事なことは、中段の腕構えも下段の腕構えも上段の腕構えとの繋がりをイメージして理解することだ。また、基本、すなわち細事をゆるがせにせず、追及していくことである。一方、「構え」が出鱈目なものは、相手との向き合い方も、自分の心の態勢も出鱈目だと言っても過言ではないだろう。そして道を知ることもできない。

デジタル空手武道通信 第54号 編集後記 

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デジタル空手武道通信 第54号 編集後記 

 

技術、技能を活かすこと

 コロナパンデミックが始まり、2年になろうとしている。最近、ようやくコロナ感染者の増加が収まりつつあるようだが安心はできない。そんな中、飛沫感染に効果ありということもあって、防具を使った直接打撃の組手法に取り組んできた。その組手法は、極真空手の伝統的な組手法で培った技術に加え、私が長年にわたり、経験や研究を続けてきた、顔面突きありの組手法である。その組手法を実施して、早くも約1年が経過する。

 その間、さまざまな発見やアイディアが湧き上がっている。アイティアの部分は、この組手法をベースにすれば、小武器(小刀・ナイフ)を使った組手法を安全かつ、空手の技術を活かしながら行えると考えている。また、顔面突きありの組手法による、技能や技術は小刀を持てば、力のない人間でも武器の殺傷力を活用して、その技術、技能を活かすことができると思う。そして、そのような考えが、武術全般共通の考え方だと、私は思う。

 

発見

 発見した部分とは、この組手法は身体能力も重要だが、それよりも真面目で物事を慎重、かつ深く考える者の方が上達が早いということだ。もちろん、個人差があるだろうし、私の考案した拓心武術(拓心武道メソッド)に則って修錬したからだと思う。つまり、私のメソッドでなければ、体力の勝る者、気の強い者が依然として強いままだったはずである。また如何に真面目で、物事を慎重に考える者であっても、自分の癖を素直に改善する能力が低い者は上達が遅い。実はそれも発見の一つだ。つまり、いかに心のあり方が物事の上達に影響があるかということである。そして、ある癖を強く有する者は、その癖が形成される期間が長かったからに違いないとも分析している。その対策は簡単である。時間をかけて形成された癖は、時間をかけて直すしかないということである。中には、一瞬で癖を直す者がいるかもしれないが、私はそんなことを期待しない。ただ、自己と真摯に向き合えと教えるだけである。かくいう私も、直したい癖と格闘している。

 「癖を直す」と言ったそばだが、ある程度の癖があるのは構わないとも考えている。要はそのことを自覚し、かつ活かせるかどうかだ。つまり、自分の癖を自然の理法(道)に合致させることができるかどうかが重要なのだ。そのためには、本号に掲載した戦法論の中にも書いた様に「ゴール」を明確に意識して行動することが必要だと考えている。

 

 もう一つの発見・気づきとは、私の道場で長年、空手を稽古してきた壮年部の朴氏と小学生の頃から空手を続けている石毛くんが黒帯になったことによるものだ。段位は最終的には私が認定する。だが、生真面目な私は、朴氏を3回、石毛君を2回不合格とした。まず朴氏は伝統型、基本が正確でなかったので不合格とした。そして伝統型は頑張って上達が見られたので合格とした。その代わりに組手の技量をもっと上げてもらうために、組手試合の課題を設定した。その課題は、顔面突きありの新しい組手法であった。1回目の挑戦では、及第点を与えることができなかった。実は石毛くんの場合は、これまで組手にほとんど勝ったことがなかった。また、伝統型にも少し不十分な点があった。それでも伝統型は、彼が頑張り、形が整ってきた。問題は組手の勝利だ、と私は考えた。なぜなら、黒帯取得後に有段者として気持ちが充実しているかどうかが大事だと考えていたからだ。そして、気持ちの充実には組手の技量の向上を体感しなければ、と私は考えていたのだ。

 基本的には、組手の強さよりも稽古に対する真面目さを優先する感覚が私には強い。なぜなら、稽古の仕方が真面目な者は、必ず上達する、と私は考えているからである(途中で投げ出さなければの話である。それが難しい)。だが、指導の仕方の影響が大きいと思う。そういう意味では、私の指導法がよくなかったのだと考えている。ゆえに現在、指導法を徹底的に見直ししている。その一環が、動画などによる修練教本であり、新しい組手法の採用、などの修練カリキュラムの改訂である。断っておくが、新しい修練法は、伝統的な極真空手のの基本を今まで以上に大事にするものだ(真の意味で)。ゆえに今後は伝統型や組手型の修練も本格的に行う。また、その中で空手本来の武術・護身術的な技の修錬も行うつもりである。その様な修練カリキュラム(修練法)によって空手武道修練のゴールを明確にしていくのである。ゴールが明確でないものは理解されない。またゴールを明確に意識できないものに上達はない。これが、未熟な空手少年が年老い、自らの人生の反省を重ね、思うことである。それゆえ、自らが伝える空手武道のゴールを明確にしなければならないと考えている。早く。

 

空手の黒帯をもっと価値のあるものに 

 さらに述べれば、彼らは黒帯までもう少しだという思いが強っかったのか、よく頑張ったと思う。そして、それは黒帯の魅力があればこそだと思う。だが、私はそこに居着きたくない。周りも私も、途中で投げ出すのではないか、と内心思っていたにもかかわらず、彼らはよく頑張ってくれた(私は投げ出さなければ大丈夫だと思っていたが)。そして、運よく試合で結果を出してくれた。運よくといったら彼らは心外だろうが、運よくである。だが運良くという中に大事なことがあったと思う。それは彼らの試合に対する心構えがいつもより真剣だったということである。要するに、心構えが真剣だからこそ、自己の力をいつもより発揮できたのだ。このことを銘記して欲しい。私も、人間の可能性を信じ、それを存分に発揮させるには、どのようなゴール設定とサポートをしたら良いかを考えている。そのことを掴み、具現ができたなら、自分の理想に向かって狂人のように生きてきた私でも人の役に立てるかもしれないと思っている。

 朴氏は私より一つ年上、還暦を超えている。背が高く、センスはある。そして気が優しい人だ。石毛くんも気が優しく、真面目、いつも弟、2人を連れて道場に通ってくる。

 朴氏合格のメールを事務局から受けたあと、車中で目から溢れるものがあったらしい。ようやく欲しいものが手に入った喜び、諦めなかった自分への感謝か。

 兎にも角にも、そのことを聞いて、心が引き締まる思いがした。また石毛くんは、試合に勝った後から、組手稽古が積極的になった。見違える様に。今私は、空手の黒帯をもっと価値のあるものにしなければ、と強く思っている。

 

 

 

 

相手との対峙の仕方を知る

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 身体のケアや空手武道の研究、道場運営の仕事など、自分の能力の低さを嘆きながらも、わずかでもやれることをしている。そんな中、1ヶ月があっという間に過ぎた。月に1回制作するデジタル空手武道通信の更新は、我が空手武道の理論をまとめるために自分に課している。今回も修練理論に関することを書き記した。

 他にも色々と思うところはある。しかしながら、その思いを日記やメモに記しておくことで精一杯である。もう少し余裕が欲しいところだが難しい。日々で嬉しいことは、我が道場生が上達(成長)したのを見る時である。もちろん、何を持って上達か、また成長かは見る人の価値観や物差しによる。正直に述べれば、私と同じ物差しを持つ人は、あまりいないような気がする。だが、「そんなことはない」と打ち消している。そして、どこかに私の価値観を理解する者がいると信じながら生きている。

 

相手との対峙の仕方を知る

 

〜拓心武術の戦闘理論〜

 

【「一手決め」「二手決め」「三手決め」の稽古について】

 

 「一手決め」「二手決め」「三手決め」の稽古について述べたい。なお、この「〜決め」というのは、拓心武術の戦闘理論における概念用語であるが、「攻撃」と置き換えても良いし、また「対応(応答)」と置き換えても良い、と述べておく。

 まず初めに、拓心武術の組手修練においては、初心者に対して、「二手決め」の稽古を手始めに「三手決め」の稽古を同時に行う。なぜなら、拓心武術の組手修練による効用を、なるべく早くに得るためだ。この稽古法は、あらかじめ「相手と自分(受けと取り)」の攻撃技や防御技を決めておき(約束)、互いに技を遣り取り(交流)させる稽古である。要点は、あらかじめ技を限定するということ。そして形の模倣と原理原則の理解を旨とする組手型の稽古より、動きを早め、流れの中で、呼吸や気を合わせることを旨とする稽古であるということだ。

 補足すれば、拓心武術における組手型、約束組手稽古の眼目を一言で述べれば、「相手(他者)との対峙の仕方を知る」ということである。言い換えれば、「一手決め」「二手決め」「三手決め」というのは、「どのように相手と向き合い(認識)、かつ技を使うか(応答)」の訓練でもある。ゆえに、その訓練においては、他者(相手)との対峙を自己との対峙に繋げて考えなければならない。否、相手(他者)との対峙は自己との対峙と表裏一体なのである。まず以て、そのことを理解した上で「一手決め」「二手決め」「三手決め」について述べてみたい。

 

【「二手決め」とは】

 

 さて、「二手決め」とは、また、その核心は、「相手の技を認識した上で自分の技をどのように活かすか」だと言っても良い。そして、「二手決め」の約束組手・稽古法の意義は「相手の技(攻撃技)を認識した上で自分の技(攻撃技)を活かす方法を学ぶこと」である。ただし、拓心武術の組手修練では、相手の技に対し、その技を弱体化、無力化しつつ、自分の技(反撃)の効力を最大化するために防御技を使う。この防御技を相手の攻撃を単に防ぐだけの防御技とは異なることを理解していれば上級者である。

 つまり、ここでいう拓心武術における防御技というのは、自己の技(反撃技)の効力を最大化するための態勢作りを目的とする技なのだ。換言すれば、反撃のための技と一体化した技術でもある。

 

 ここまでが理解・了解できなければ、稽古の眼目である「自他との対峙の仕方を知る」ということの門をくぐることもできていないだろう。だが、その門をくぐることができなければ、自己を活かすことはできないと言っても良い。つまり、相手(他者)を明確に認識することが自己認識の基盤となり、かつ、その基盤によって自己を脅かし、破壊的に働きかけてくる相手(他者)との戦いにおいて、自己を活かす術が体得されるのである。

 

【正確に対応する】

 

 これまで少し難しく述べてきたかもしれない。だが、私は初心者へはこう伝えたい。まずは「組手は難しく考えなくても良い」ということ。そして、相手の攻撃を予測し、それに正確に対応することが基本だ、ということを。ただし、「正確に対応する」ということが重要である。

 

 ここでいう「正確に対応する」とは、戦いにおける絶対的な技術、正解の実践ではない。「技術を実行する心身の回路を作り上げるための稽古」の「物差し」のことだ。換言すれば、さまざまな局面において間髪を入れずに対応技術がイメージできたか、また、そのイメージを正確に具現化できたかという意識を持つことでもある。

 その意識、物差しがない稽古はただの反射神経のみの訓練、またに意味のない優越感の獲得のための稽古に堕してしまうに違いない。現代武道が実施している仕合稽古は全てそのようなレベルである。断っておくが、ここでいう心身の回路には心身の反射作用のようなものを応用(活用)している。だが、武術における心身の回路は、決して無秩序な反射ではなくて、それを活用して、新たな秩序を作るような、また新たな秩序を生み出すような技能、そして技術なのである。

 

 

 次に「三手決め」の稽古とは、相手の反応を積極的に誘い出して、その反応に対し技(攻撃技)を施す(仕掛ける)稽古である。その稽古の目的も「二手決め」の稽古同様、「相手の技(攻撃技)を認識した上で自分の技(攻撃技)を活かす方法を学ぶこと」の延長線上にある。

 

【「一手決め」とは何か〜究極の一手決め・心撃

 少し脱線するが、「一手決め」「二手決め」「三手決め」の稽古を行う際の順番は、「一手決め」が1番最後である。なぜなら、その本質の理解が一番、困難だからである。初心者に理解しやすいのは、「二手決め」である。「一手決め」の稽古は「二手決め」「三手決め」の稽古を十分に行った上で、「相手の技(攻撃技)を認識した上で自分の技(攻撃技)を活かす方法」の基本を体得した者しか、その本質には辿り着けない。

 では拓心武術における「一手決め」とは何か。わかり易く言えば、相手の技に出方に左右されず、一撃で相手を仕留める(制圧する)ことである。そのような手を実現するには、相手に自己の攻撃の「起り」を感知されずに技を施す(仕掛ける)ことが重要である。だが、その一手はまだ浅い。

 拓心武術が追求する「究極の一手決め(心撃)」は、技術的なことよりも、相手(他者)の意図がどうあっても、自己の技が道理に叶うように技を施すことである。換言すれば、自己の技を以て新たな秩序(関係性)を構築することである。ここでいう新たな秩序とは、相手を制圧とは異なり、自他を活かす境地だ。今、このことを説明することは困難だが、究極の一手決め・心撃は、拓心武術の思想だ、と心に留めておいて欲しい。 

【「三手決め」と究極の「一手決め」に辿り着くまでに】

 

 話を戻し、繰り返せば、拓心武術・究極の「一手決め」に辿り着くまでに、まずは「二手決め」「三手決め」の稽古をある程度、体得した方が良いと考えている。なぜなら、「三手決め」の稽古を早い段階で行うことが、初心者に拓心武術の組手修練法を伝えるには効果的だと思うからだ。まずは組手法に慣れ親しんでもらう。その上で「一手決め」の理論を伝える。そうでなければ、その奥深さが伝わらないだろう。補足すれば、「二手決め」の稽古に習熟すると、さまざまな相手の一手(攻撃技・仕掛け)に対し、正確な対応をすることが如何に難しいことかが分かってくる。なぜなら、相手からの多様な攻撃を全て予測し対応することは困難だからだ。

 また、二手決めに囚われることは良くない。なぜなら、相手からの攻撃を制御・制圧するという組手の目的においては、相手の攻撃を予測し待つという意識のみでは、目的から逸脱してしまう恐れがあるからだ。そこで相手を制するという目的を達成するために、「三手決め」という戦術を用いる。それが相手に囮技を仕掛け、相手の手の内(相手の戦い方)を引き出しつつ、相手の技(対応・出方)を予測して対応する方法(戦術)である。むしろ、そのような戦い方の方が「二手決め」より、初心者には攻防が容易くなるだろう。また、相手を囮技に対応させることで、相手の反撃方法の選択肢が大幅に減ずる。そのことにより、相手の攻撃技(反撃技)の予測がし易くなる。繰り返すが、そのような戦術(戦法)が「三手決め」である。ここで「三手決め」を異なる視点から述べたい。例えば、相手の考えていることや戦い方がわからない場合、その予測は困難だろう。だが、何らかの技(行為)を囮に使い、その技に対する相手の出方(対応)によって、相手の闘い方、意図を知った上であれば、その予測と対応が若干容易くなることがわかる。

 

 まとめれば、「二手決め」で相手の攻撃の仕方と自己の対応の技術を得ること。すなわち「二手決め」による防御技と攻撃技の使い方の基本を身につけること。その上で「三手決め」の稽古を行い、基本をより積極的に使う経験を積む。そのような稽古法なら、短時間で攻防の技能を見につけるための基盤、すなわち心身の回路が出来上がる。ただし、繰り返すが、それらの稽古は全て「より正確に」ということを指標にして行う必要がある。その指標があるからこそ、先述した「技術を実行する心身の回路」が出来上がる。

 

 

【たとえ武術の修練であっても、人間を活かす道理に達する】 

 最後に、我が門下生に伝えたい。拓心武術の組手修練法をより効果的なものにするためには、徒手格闘技としての攻防の技術を学ぶというより、戦いのための心身の回路の存在を理解することを了解しなければ、その構築・創造はできない。また武術修練であっても究極は、「自然と人間と物(道具・手段)の間にある関係性とその関係性により構築された構造の中においてある」ということを理解してほしい。もしそれができ、そのことにより真剣に向き合えば、たとえ武術の修練であっても、人間を活かす道理に達する、と私は考えてる。だが、そのことを究めようと思えば、永遠に修練・稽古を続けなければならなくなる。なぜなら、修錬・稽古を通じ、自己を活かすには、絶えず原理原則、そして原点を見据える覚悟・意識が必要であると同時に、絶えず自己認識の更新が必要になるからだ。 

 さらに述べれば、どんなに伝統的な事柄でも、時間が経てば変質している、と私は考えている。しかし同時に変わらないものもあるかもしれないとも思っている。それゆえ、変化するものと同時に変化しないものを探究し、古(いにしえ)と現在を結ぶために、原理原則の探究が必要欠くべからざる修練だと考えている。だが、古来のものを正確に保存するという行為も重要だが、形だけを追い求めれば、返って原理原則の体得からは遠ざかるだろう。

 本来、形の保存と原理原則の体得とは、本来同じでなければならないと思う。しかしながら、多くの形の保存は原理原則から逸脱していると直観する。私は、原理原則とは弛まぬ変化の過程において、自己を活かし続ける技能とともにあると思っている。本質的に技能とは、それを有する個体、一代限りのものである。それゆえ、それを継承者を育成するシステムとして型(形)稽古がある。だが、その継承者が技術の片鱗を継承するのみで、技能を継承していないところに武道界の問題点がある。その責任は、大衆という視点が技能を判断できないからであろう。また、これまで命のやり取りを本旨とする武術・武道においては、技能を正確に判断する手立て(データベースとそれを分析する能力)がなかったからだろう。

 私は、命のやり取りを想定・意識する日本武道の伝統とは何か、を探求することは重要だと考えている。だが、まず以て武術の本質を意識しつつ「相手の技(攻撃技)をより正確に認識できるならば、必ず自分の技(攻撃技)を活かす道がある」ということをより多くの人に伝えたい。なぜなら、私は日本武道の系譜をより良く継承し、かつ活かす道を追求したいからだ。また、それは拓心武術の存在意義であり、思想(拓心道)でもある。

 

 

2021・12・5:「一手決め」とは何か、の項を加筆修正し、「一手決め」とは何か〜究極の「一手決め」に変更。その他も加筆修正した。

 

 

 

紅白試合において〜12月28日、参加者と

 

 

 

どのように相手を撃つか(打つか)〜拓心武術の戦闘理論

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どのように相手を撃つか(打つか)〜拓心武術の戦闘理論

 

【相手を撃つ(打つ)とは】

 TS方式の組手仕合を行う際、心に留めておくと良いことがある。それを心に留めて組手を行えば、相手への攻撃をより善く行えるようになるだろう。

 

 さて、空手の組手修練において相手を打つ(撃つ)とは、相手を突き技や蹴り技で攻撃することである。いうまでもなく、攻撃技はより効果的に繰り出さなければならない。空手の突きや蹴りは技であるからだ。技は実効があってこそ技である。だが、組手においては、相手を突きや蹴りなどの技(攻撃技)を繰り出せば、相手は防御体制をとったり、防御技を駆使するかもしれない。また反撃もあるかもしれない。そのような状況の中で、自分の技(攻撃技)を実効たらしめることは容易ではない。では、私がこれまで、より良く相手を撃つ(打つ)ために意識、かつイメージしてきた事柄について述べてみたい。

 まず、組手における戦い方の基本は、絶えずヒットポイントを狙って攻撃技を繰り出すということである。ヒットポイントとは攻撃目標のことだと言っても良い。また、ここでいうヒットポイントとは、相手によりダメージを与える箇所である。

 

 

【組手において攻撃目標は絶えず変化している】

 そんなことはわかっていると思われるかもしれない。だが、攻撃目標をどのようにイメージしているかが問題である。私は、「組手において攻撃目標は絶えず変化している」と捉えている。その意味は、相手は攻撃技を繰り出し、かつ攻撃に対し防御することもある。要するに、私は攻撃目標を取り巻く状態、自分の状態との関係性を含めれば、攻撃目標は絶えず変化していると考えているのだ。また、攻撃目標を取り巻く状態の変化を簡単に述べれば、無防備か防御技×反撃技が準備されているかでは状態が異なるという事である。

 

 そのような状況では、サンドバックを打つように技は決まらない。また一つの攻撃技のみでは、相手に攻撃を予測され、簡単に防御されるか、攻撃の際に生じる隙を衝かれてしまうだろう。

 私には、組手の最中、相手のヒットポイントが絶えず数値化されているかのように見えている。例えば、こめかみ、あご、脇腹、太もも、など、何箇所かあるヒットポイントの防御体制(態勢)の良し悪しの判断を、「ここは命中する可能性が100%、ここは命中する可能性が30%…」というように見えている(感じている)。より正確に言えば、数値が見えているのではない。もしA Iが判断するならそのように攻撃箇所を数値化する公式とその数値の演算処理によって最適解を導き出すのであろう(AIのことはよく知らないが)。だが、私の場合は、その可能性を数値の高低を大まかに判断はする(判例を参考にして定跡的に)が、必ずしも数値の高い箇所に攻撃するわけではない。また、絶えず変化し続ける状況の流れを読み取り、定跡は一応、頭に入れた上で、命中の可能性が低い箇所を撃つ(攻める)時がある。それは、その撃ち(攻め)が次の展開に善いと「感じる」からである。うまく表現できないが、命中可能性が100%に見える箇所や技では、相手の防御技能が巧みな場合、相手を打ち崩す事ができないと感じるからであろう。また、強敵には100%確実な攻撃箇所など、ほとんどないと言っても良いと思うからだ。さらに、その可能性は絶えず変化している。ゆえにA Iのように計算している時間はない。瞬時に局面を把握し、変化を捉え、その中からより可能性の高い箇所を感じ取らなければ、戦いの状況では判断が遅すぎることにつながる。もちろん、命中の可能性の高低は、相手側の要因のみならず、自己の要因、すなわち攻撃技術の精度などにも関係するので、そんな単純な話ではない。その部分は、今後、研究が進めば考えをまとめたい。

 

 実は、私は狙いたい攻撃目標・ヒットポイントに対し、なるべく命中の可能性が高まるまで、相手の状態への変化を待っている。また、相手を動かし崩して、その可能性を高めるということを考え、試みている。ただし、こちらがのんびり構えていると相手が攻撃を連続して仕掛けてきて、自分の体制(態勢)が崩れる場合があるので、たとえ命中の可能性が低くとも相手を攻撃しておかなければならない。それが牽制の意義である。

 おそらく、私がそのようなことを考え組手をしていることを誰も知らなかったと思う。また理解されないかもしれないとも思っている。

 

 つまり、私は攻撃目標を数値化して見えていると述べたが、実際はここが何%であそこは何%というように認知しているのではない。あくまで私の感覚の例えだ。数値は浮かばないが、私は感覚的に可能性の高低を認知しているのである。私は、そのような感覚が重要だと考えている。 

【組手の意義とは何か?】

 少し脱線を許していただくと、多くの人の組手に私同様の視点があるとは思えない。その理由を一言で言えば、組手法がよくないからだ。その原因は、組手の目的と方向性の設定が不明瞭だということにあると思う。もちろん、様々な組手法には、それなりの目的と方向性はあるかもしれない。だが、私が述べる戦いの理法(戦術論)を理解するためには、「従来の組手法を見直す」という視点が必要だ、ということをあらかじめ伝えておきたい。今回、どのような組手法が良いか、という論に関しては展開しない。ただし、私の提唱する拓心武道の組手法においては、目先の勝負に勝利することを目的とはしないということだけは断っておきたい。

 

 では、増田武道メソッドである拓心武道における組手の意義とは何か?それは武術の技法の活用並びにその技能習得を通じ、道を追求することだ、と言っても良い。また、道(真・善・美を顕す理法)に出会い、かつ、道の追求(修行)を人格陶冶・人間完成の道に生かしめることである。ゆえに、私の道場における組手修練は畢竟、チャンピオンシップ(競技大会)のためにあるのではない。また、極真空手の基本と直接打撃性の精神を伝えているが、競技や競技法を伝えることを目的としてはいない。

 

 あえて言えば、極真空手が文化として認められ、より高い次元で社会貢献できるように、その思想と技法、また修練法を進化させることである(組織的に非常に困難な状態にあるが)。そのように言えば、不遜な考えだと、諸先輩の方々にお叱りを受けるだろう。しかしながら、天に在る、先師だけには認めていただけるよう、私は命懸けで修行を続けている。

 

【命中の可能性がわずかしかない箇所への攻撃】

 話を戻して、攻撃の基本としては、命中の可能性のより高い箇所への攻撃だ。だが、先述したように、攻防が交差する組手・仕合にあっては、命中の可能性がわずかしかない箇所への攻撃を行うことがほとんどである、という現実がある。

 例えば、命中の可能性が高く感じるという、自分自身の認知が、必ずしも正しいとは限らないからだ。例えば、自分の狙い定めた攻撃目標が、相手に予測され、かつ万全の反撃態勢が準備されていることがある。本当の強者とはそのような者だと思うが、そのような者との対戦は、基本原則を踏まえながらも、相手の手の内を探りつつ戦うことが必要になるはずである。

 ゆえに、相手を陽動し、手の内を見定め、かつ崩し、より命中の可能性の高い箇所を動きの中、変化の流れの中で生じさせるという技能が必要だ。

 

【基本技術と技能の関係】

 ここで理解してほしい事がある。それは基本技術と技能の関係である。要するに、高度な戦術を実行するための必要条件として精度の高い技術があるということ。そして、高い技術による成果をもたらすための十分条件として、高い技能があるということである(ほとんどの武道家が理解していないと思う)。ゆえに武道修練とは、本来、型稽古と仕合稽古の両方がなければならない。

 ゆえに拓心武道メソッドでは防具を着用し安全性を確保し、かつ防御技の基本と応じ技の型(組手型)を重視し指導する。その上で組手・仕合を行うことが重要だ、と私は考えている。例えれば、柔道の修練における重要な基本が「受け身」であり、その上で「乱取り(組手)」の修練を行うのと同様だと言っても良い。拓心武道では、必ず防御技術の習得をまず行ってから組手稽古を行う。そうでなければ、基本稽古や組手型稽古で体得した技術を様々な局面、そして流れの中で生かすための稽古・修練とはならない。言い換えれば、高いレベルでの応用力の体得を目標とするからこそ、徹底した基本技術(攻撃技のみならず防御技)の習得とその精度が必要だと理解できるのだ。また、さまざまな実験的な経験を積むことにより、自らの認知能力の未熟、曖昧さをき是正(更新し)し、かつ高めていくことができる。そして、それが私のいう武道修行でもある。

 

【組手・仕合の修練とは】

 まとめれば、組手・仕合の修練とは、徹底した基本技術と原則の実践と同時にその応用の実践である。言い換えれば、組手・仕合の目的とは、自らの武技(技術)の精度を高めることと同時に武技の活用スキルを高める修練だ、と言っても良い。ただし、そこに道の追求という視座を確立したいと私は考えている。ゆえに、これまで普及を目的に、チャンピオンシップ(競技大会)という手段を用い、結果、娯楽性を持ち込んだことに反省を促したい。もちろん、チャンピオンシップを全否定するわけではない。そのようなことも有意義だとは思う。だが私は、本来の道の追求としての武道の原点に立ち戻り、空手武道に人格陶冶の修行としての価値を付与したい、と考えているだけだ。

 

 

【他の競技に当てはめる】

 

 最後に蛇足ながら、私は拓心武術の戦術理論である「組手において攻撃目標(ヒットポイント)は絶えず変化している」ということをスポーツ競技に当てはめることができると思っている。例えば、サッカーやラグビー競技における、ボールを回す「スペース」とは、空手における「ヒットポイント」と同じと言っても良い。もちろんスポーツでは、相手に肉体的なダメージを与えることはしないが、最終目的(制圧・攻略・ゴール)としては共通点を見出すことができる。つまり、自他双方の攻防という状況において、相手の抵抗を制し、相手を技能的に制するという点では同じだ、と私は思う。

 

 すなわち、相手と自己の配置や状態によって、絶えず変化し動いている「スペース」にボールを回すことと「ヒットポイント」に打撃技を繰り出す感覚は同じだと思うのだ。

 補足すれば、ヒットポイントへの攻撃は、相手の完全な制圧・攻略に繋がっていなければならない。同様に、サッカーやラグビーの場合、スペースへのパスはゴールに繋がっていなければならない、と私は考えている。

 

 

 

補足:疲れたので端折ったが、一部、書き足したり、タイトルを入れた。だが、余計難しくなったかもしれない。このコラムは、私の門下生に「拓心武術・武道」の理論を伝えるため、書き記している。

 

 

 

 

 

 

 

デジタル空手武道通信 第56号 編集後記

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デジタル空手武道通信 第56号 編集後記から(1月9日発刊)

 

 

 

 

 

 

 年末は26日に月例試合で締めくくった。参加者は少なかったが、参加者の上達が見られた。

私にとってはそのことが何より嬉しいことである。

 

 2021年は1年間、毎月月例試合を続けた。コロナ下でも、私達にできること、わずかでも進化しようと思ったからである。

 

その思いにお付き合いいただいた増田道場生には、感謝の言葉では片付けられない、と思っている。その感謝を表すためにも、私の空手武道理論を完成させたい。

 

 本年2022年は、新しい組手法を進化させるのみならず、10数年前から構想していた「護身技」の修練をスタートさせたい。

 

 断っておくが、護身技の修練を難しく考えないでほしい。私を含め、黒帯一同が、空手武道の価値をより高めていくために、原点に立ち戻り、かつ新たな第一歩、新たなアプローチを試みるだけだ。今、新たなアプローチの実践は有意義なものとなる、と手応えがある。断っておくが、新たなアプローチとは、これまでのあり方を否定するのではなく、活かすための行動だ。

 すなわち、極真空手を生かすため。そのためには、手技による頭部攻撃、また投げ技や逆技、獲物(小武器)への対応に関する理解は必須である。

 

 私も含め、人間が過去の習慣に安住したい気持ちはわかる。だが絶対視することは可能性の放棄と言っても良いだろう。私は、絶えず今をよりよく生きるために、これまでの認識を掘り下げ、かつ必要とあらば、自己の認識を更新する。一方、原理や主義を絶対化し、人に強制することは、一人ひとりの心を高め、身体の可能性を拓いていく、私の武道哲学とは相容れない。

 

 やはり、いかなる時代、いかなるジャンルにおいても、自己の他者に対する貢献を考えることだと思う。同時に自己を公共化していくことが重要でないかと思っている。そのためにも、武術を淵源とする空手武道の原点に立ち戻り、その修練の効用を人格陶冶・人間完成の武道として再構築していきたい。

 

 最後に、こんなことを書きたくないが、私の身体はみなさんが思っているほど強くはない。もうそろそろ限界に達するに違いない。だからこそ、今まで以上に時間を大切にしたい。そして命をかけても理想の空手武道を完成させたい。問題は私のコミュニケーション能力が未熟で、皆さんと歩調を合わせるのがうまくないことである。

 

 今年も私自身の未熟を自覚しながら、我が増田道場の黒帯有志と力を合わせ、道場生の誇り、生き甲斐となるような空手武道を共に創っていきたい。


拓心の道〜増田 章の武道論

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拓心の道〜増田 章の武道論

 

【拓心武術とは】

 拓心武術とは、極真空手の基本を基盤に、増田章が各種格闘技、武術を融合、再編集した武道修練体系のことです。ただし、その修練体系は未完成です。今後も、研究を続け、修練体系を更新し続けていきます。
 拓心武術の中には、現在の極真空手人が遺棄した、また理解していない極真空手の伝統的な技を再生するかのような技術も含まれています。つまり、拓心武術は古伝・極真空手を活かすものでもあるのです。その意義は、武道や武術本来の実用性と技能、そして精神(思想)の再生です。昨今、武道とスポーツは異なる。また、自分達の行なっていることはスポーツではなく武道だ、と言い張る人達の言には絶望感さえ抱きます。私は、どこが違うの、と聞きたくなります。すると、武道には礼法があるがスポーツにはない、とか、武道とスポーツは精神性の深さが異なる、というような言を返す人がいます。それに対しても、私は一体どこに精神性の深さがあるの、と聞きたくなります。挙げ句の果てには、武道は命の遣り取りを前提とするもので、スポーツのような「遊び」を起源とするものではない。武道とは、命懸けのものである…云々。本当に滑稽だと思います。また礼法も形だけのものです。一方、中には信念を持って日本武道の独自性を継承・保存している人達もいるかもしれません。そのような人達に対しては、私は敬意を持っています。

 

【現代武道の多くは】


 今日、伝えられている現代武道の多くは、「力」で圧倒するというということを軸としています。また競技という手段は、団体の宣伝と権威獲得という人間の欲心を刺激する舞台装置と化しています(昔からそうだったかもしれません)。さらには、自分達の決めた勝者をアバター(力の化身)にして、あくなき不毛な「力」と権威の競い合いしているかのようです。私は、武術の本質は実用性と技能、武道の本質は武術の理法(理合)の体得を目指すことによる人間形成、そしてスポーツの本質は心身の創出(創造)と解放を目指すことと捉えています。非常に直感的な捉え方ですが、私はそのように捉えています。
 しかしながら、どこに実用性を極めた武術が現存する?どこに武術の理法(理合)の体得を目指す武道が存在する?と聞きたくなります。また、スポーツもエンターテインメント性やスペクタクル性に翻弄され、本来の心身の創出(創造)と解放を目指してはいないかもしれません。私の見方が正しいとしたら、それは斯界の指導者等が、目先の利益を優先し、本質を生かしていないからでしょう。

 ここで私が述べたいことは、我が国が育んだ武術と武道にも、スポーツ同様の心身の創出(創造)と解放という要素があるということです。おそらく解放という要素については理解が難しいと思いますが、日本人が考える自由無礙(融通無礙)と思っておいてください(言うなれば不自由の中の自由)。そのように考えるのは、日本人の思想に仕事を労働と考えずに、「生きがい」「道」と考える傾向があるからです。そのような感覚と心身の創出と解放という目的は、軌を一にすると思います。例えば、仕事に真剣に打ち込む日本人が、その仕事を「生きがい」「道」と考えます。その事実は、日本人には実用性の追求のみならず、理法(道)を求める意識があるからです。そして、そこには心身の創出(創造)と解放(融通無礙の境地)による「幸福感」があります。

 

【日本人の「遊び」に対する認識】

 少し脱線すれば、私は日本人の「遊び」に対する認識に、時々閉口します。一般的な日本人は、「遊び」という言葉から「子供の遊び」を喚起します。そして、遊びというとどこか真面目でないもの真剣でないものというように認識しているのではないでしょうか。

 ここで少し難しいことを述べますが、「遊び」という行為に関する考察は、欧米においてはかなり前から行われていました。オランダのホイジンガが著した「ホモ・ルーデンス」には「遊び」についての深い考察が述べられています。その中で、遊びの機能として以下のようにあります。

 『遊びは、何かイメージを心のなかで操ることから始まるのであり、つまり、現実を、いきいきと活動している生の各種の形式に置き換え、その置換作用によって一種現実の形象化を行ない、現実のイメージを生み出すということが、遊びの基礎になっていると知れば、われわれはまず何としても、それらイメージ、心象というもの、そしてその形象化するという行為(想像力)そのものの価値と意義を理解しようとするであろう。遊びそのもののなかでのそれらイメージの機能を観察し、またそれと同時に、遊びを生活のなかの文化因子として把握しようとするであろう』(ホモ・ルーデンス/中公文庫)

 要するに、遊びとは原理的に人間の行為を高次化する機能そのものです。つまり私の見解は、武術であれ、武道であれ、スポーツであれ、ホイジンガが考察した「遊び」の機能を内包しているということです。ゆえに、スポーツは遊びを起源とし、武道の起源は遊びなどではない、というのは、ある面正しいように聞こえますが、そういうことではないのです。オランダの先達が考究したことは。おそらく、欧米のプレイ(する)という言葉を日本語の「遊び」としたところに問題があったのでしょう。また日本語の「遊び」には、もっと奥深い意味があります。ここではこれ以上述べません。

 ただ、遊びという行為は、本来、真剣であること、そして創造的であることを意味しているように私は考えています。つまり、「遊び」とは、偶然が支配する自然に対峙する、自己目的的行為だからこそ、真剣であり、かつ創造的な行為なのです。また、武術などの実用的な行為、また武道でチャンピオンを目指す行為も偶然が支配する自然と対峙する面があります。それは、他目的行為でありながら自己目的的行為なのです。

 

【立ち戻りたい地点とは】

 話を戻せば、スポーツの本質は自己目的的行為だと私は考えます。そこに、そのゲーム・勝負を観客に見せることに価値を見出すようになってから、発展すると同時に他目的行為として面が優位となってきたのだと思います。しかし、本来スポーツが人間に与える価値は、観客のためのスポーツ、商業的なスポーツではない、と私は考えています。

 また、他目的行為としての実用性を求めた武術も、実用性の追求が全てではなかったと思います。また理法の体得を目指した人間形成としての武道も、集団形成と共に集団内の権威の維持が目的ではないはずです(もしそうならば、私は武道など掲げません)。

 もちろん武道に限らず、武術、スポーツも人と人とが技なり、思想なりを共有するとするなら、そこに、何らかの規範、ルールが必要なことは当然です。

 今、私が立ち戻りたい地点とは、高いレベルの武術の追求、また武道の追求、そしてスポーツの追求に、共通する地点です。それは、自らの行為により「自」を創出すると同時に「他」を創出するという観点・価値観です。

 さらに述べれば、古の武人は、武術を極めていくにつれて、「自由無礙」の境地を求めました。それは、先述した「遊び」が求める境地と同じものだと思います。ただし、「遊び」には、もう少し具体的な目的があることは、学者の方々が述べています。

 要するに、より高次の武道の追求にも、より高次のスポーツの創出にも、「遊び」の原理が働いているのです。さらに僭越ながら、私はスポーツの本質を生かし続けていくならば、人類の精神の高次化に役立つと考えています。また武道の本質も、それを生かし続けていくならば、スポーツと同様に人類の精神の高次化に大いに貢献できうるものだと考えています。問題は、このことをスポーツ人も武道人のリーダーが理解していないことです。しかしながら、すでに年老いた私に余裕はありません。ゆえに自分の直感を信じていきます。そして私が拓心武術に託す夢は、武術・武道を人間力を開拓するもの、心の眼を開く手段とすることです。

 断っておきますが、私は前時代的な力の追求、相対的な力の獲得を全否定はしません。あくまで、バランス、そして活かし方の問題だと思っています。しかしながら、相対的な力、強さの追求は他の人に任せて、もう一つの生き方、そしてあり方の軸を私は作っていきます。

 

【日本武道を本来の道に戻すためには】 

 具体的には、私が武人の思想を高次化させたと考える、「機を捉える」また「技の精緻さ」といった軸が必要だと考えています。その軸を生かすことによって、自他一体の思想、天地自然と一体化を目指す感覚が醸成されるのです。補足すれば、戦前の全体主義の時期に形成に利用された武道精神は本当の武道精神ではない、と私は考えています。また、我が国が育んだ武道精神に立ち戻れば、和道の精神(和の道)に行き着くはずだと考えています。ただし、日本武道を本来の道に戻すためには、また空手を武道と言えるものとするためには変革が必要です。

 前提として、私は競技が内包するスポーツ性を良くないものだとは考えません。むしろ、空手はスポーツにもなっていないことの方が問題です。

 そのことを誰も自覚していません。また、そのことから目を背け、スポーツと武道をあやふやに使い分けています。繰り返しますが、スポーツ、また武道にも、人間行為の原理としての共通項が見出せます。故に融合していくことが自然な流れなのです。

 ただし、現状では、拓心武術はスポーツと一線を画します。なぜなら、武道人の思想と感覚に、日本武道が到達した、自然と一体化を目指す感覚、また自他一体化の思想を取り戻したいからです。

 

【修行の道】

 ゆえに私の考案した拓心武術においては、相対的な強さを軸とせず、自分と他を活かすという叡智の発揮という勝利、そして強さを目指します。換言すれば、それは自分の心身に絶対的な軸を作ることでもあります。そして、本当の強さを獲得する道の修行なのです。ゆえに組手稽古や組手試合を皮相的な勝敗を決する手段にはしません。目標は「自己を生かす道の会得」です。しかし、その道は肉眼で見るものではなく、心の眼で見るものです。換言すれば、全身で感じ、かつ、イメージされるものかもしれません。つまり、私のいう道とは言葉に置き換えることのできないものです。それでも、心眼というものがあるということを信じ修行するならば、それを感じ取ることができると思っています。

 ただし、戦いの原理原則や理法を頭で理解したと思っても、実際に生かすことができなければ駄目です。また、それらを言葉で伝えようとしても限界があります。つまり、理法は個々の身体を用いた体験の中で会得していかなければならないのです。それゆえ、拓心武術の修練、またそれを行じる拓心武道は修行の道だと言っても良いと思います。そして、 修行の心得は、頭で認識し、目で判断するものを信じることではありません。全身で認知し、認識することです。この全身ということが重要です。ここでいう全身とは、現在のみならず、過去も未来にも繋がっていると考えています。

 私は心眼を意識し、相対的な勝負ではない、絶対的な勝利の境地を目指していきます。また、私は全ての人間の心眼が開いたなら、必ず生かしあえると考えています。問題は、心眼は容易に開かないということです。かくいう私の心眼は開いているのか?開いていないかもしれません。もし、そうだとしても、自己のみならず他を生かすための方法を探求し、創造し続けます。また、その修行の過程において心眼が開くものと信じています。 
  

 最後に、我々人間は創造的な力を原動力にしているからこそ、その思想を高次化してきたのです。重要なのは、絶えず高次化(更新)を続けなければならないということです。なぜなら、人間に完成はないからです。しかし「完成はしなくとも完成を目指して更新を行い続けることこそが、より本質的な完成した人間の在り方だ」と私は考えています。

 

 

 

 

 

 

 

三島由紀夫について

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【三島由紀夫について】デジタル空手武道通信 第57号 編集後記より

 

 過日、石原慎太郎氏が亡くなったと聞いた。石原氏に対する評価はここではしない。ただ、石原氏が、私の父と年齢が近いこともあり、寂しい気持ちが湧いたことだけは書き記しておく。

 また一人、また一人と先輩がいなくなる。本当に寂しい。雪降る故郷の父に電話をかけた。ただ「身体に気をつけて」「コロナが収まったら会いに行くから」とだけ伝えたかった。

 

 私の原動力は、幼い頃から寂しい気持ちだった。理解できないかもしれないが。また、何もないところから何かが生まれるなどとは想像もできない。むしろ、混沌の中から新しいものが生まれるといったイメージの方が理解できた。しかし、何もない荒野から何かが生まれるようなイメージが浮かぶ時がある。今、幼い頃のように、訳のわからないことを考えている余裕はない。

 

 さて、石原慎太郎氏に関しては、文学者、政治家としてよりも、三島由紀夫との友人として興味があった。誤解を恐れずに言えば、石原氏は三島氏をよく馬鹿にしていたように思う。

 

 もちろん、三島氏と石原氏のやり取りの場にいたことはない。ゆえに本当のことはわからない。だが、活字に残された石原氏の言動を、石原氏らしいなと思ったのを記憶している。同時に三島氏が理解されないことに寂しさを感じていた。

 

 私は三島のファンである。だが、文学に対するファンではない(文学は語れない)。彼の思想家としての活動に強く共感するからだ。私はコロナパンデミックが拡大する直前だったか、三島由紀夫氏のドキュメンタリー映画(三島由紀夫VS東大全共闘〜50年目の真実)を見た。私は三島氏の態度に尊敬の念を持った。

 

 忙しいに日々の中、その映画のことを忘れていた。だが、石原慎太郎氏の逝去で三島由紀夫氏のことを思い出した。大好きな人の姿を再び、ネットフリックスで観た。

 

 僭越ながら、三島由紀夫の言葉から感じることを書いてみたい。あくまで増田が三島氏の言動から感じる部分として、他の三島シンパの方々には容赦を願いたい。

 

 『人間が「私(自)」として誕生し、かつ生かされる基盤は言葉によってである。その言葉はあらゆるものを創造する力を持つが、同時に絶えず無秩序に向かう。だからこそ秩序を形成する「力」が必要である。秩序を形成する「力」がなければ、私は担保されない。また、その「力」は共同体と文化によって担保される。言い換えれば、その「力」の遠心力を抑制し、制御する絶対的な「力」が必要である。それが天皇という絶対的な力(存在)なのだ。

 ただし、その力(存在)は、決して私的なものであってはならない。それは私的なものを統べる公的なものでなければならない。それは、決して機関の一部ではない。

 天皇の存在とは、日本人の叡智であり、例えるならば、日本という大地が有する力なのだ。また、その大地、土壌を守ることが、我々日本人の責任だと。

 さらに言えば、その大地、土壌としての日本を汚し、壊す権利は誰にもない。あるのは、それを護る義務と責任だけだ(増田 章)』

 

 三島由紀夫の幼少期は、ひ弱な少年だったと思う。しかしながら、文学、言葉の力によって、内なる力を顕現させた。晩年、マッチョな自己を追い求めたのは、その文学の主題であった「エロティシズム」の延長かもしれない。だが、そうではなくて、自己の身体に自信を持った時に「エロティシズム」の果てに新たな地平のあることを直感したのだと思う。つまり、「自」を本当に護るものとは、日本語(母国語)であり、文化であると。そして、それらを護るものが母体としての共同体(日本国)であり天皇だと。

 

 身体(個体)は、共同体(自他の集合)によって育まれ、生かされる。だが、共同体は自らの組織を守るため、時に自(私)の身体(個体)を殺す。しかし、三島氏は自(自)を護るために、共同体を創り変えなければならない、と感じたのではないだろうか。それが知性ではなく、身体で理解できたのだろう。おそらく三島由紀夫氏は、本来、人を傷つけることなどしない、とても優しい人だったのだろう。しかし、身体(ある程度頑強な)を持ちえた時に転換があったのではないだろうか。その地点から、「自」と「他」を捉え直して、天皇を考えたのかもしれないと思っている。

 

 映画の中、東大生を前にした三島由紀夫氏は、「非合法な暴力は否定しない」と語っていた。その裏を考えれば「合法的な暴力の欺瞞」を示唆していたのであろう。また、国家もある意味、暴力装置である。映画では、その理不尽さに抵抗する若者たちに共感を示しつつも、もっと人間の根源的な部分を基盤に東大の学生と対峙していた。それは、若者に対する愛情、そして敬意が溢れていた。私の感性では落涙するぐらいの感動である。そのように感じるのは、多くの権力者は、若者や女性を見下し、時に感情的に罵倒する。そんな政治家、知識人、指導者は、私が最も良くないと思うあり方だ。もちろん、私にもそのような面がないとは言わない。しかしながら、それは命懸けで抑制しなければならないことなのだ。補足すれば、三島由紀夫氏の思想は、まさしく「知行合一」であった。また三島氏は、文武両道(文武一道)の徒だったと思う。

 

 私の想像だが、、戦前、戦後の大人の態度のあまりの変わりように、若い三島由紀夫も「本当の強さとは何か」を考えたことがあったのだと思う。そして、辿り着いた境地が、先述した今を生きる者の責任と義務である。

 

 【極真会館のこと】

 ここまで書いて、直感することがある。我が極真会館のことである。なるべく端的に述べておく。極真会館の分裂は、決して選択してはならないことだった。そして分裂の原因は、全ての支部長、チャンピオン、そして私(増田)が間違っていたからだ。正しかった者は一人もいない。私は、立場の違いの正論などという考えは、偽善的、かつ欺瞞だ、と思っている。

 極真会館を壊す権利は誰にもない。あるのは護る責任と義務だけだ。そして護るべきは、ただ一つだった。大山倍達先生が作り上げた世界大会である。今からでも遅くない。そのことが理解できれば、一つにできる。

 

 三島由紀夫氏の話に戻るが、これからの日本も同様である。日本と日本人が自覚しなければならないことは、その責任と義務である。それを伝えるために、思想的な変革が必要だと唱えたのだろう。だが、多くの人に理解されず、嘲笑された。おそらく非現実的だと。だが、私はそうは思わない。

 蛇足ながら、三島由紀夫氏は空手も習っていて、ある対談集の中で空手を語っていたが、その部分はいただけない。もし、同じ時代を生きていたなら、私の空手武道観を提示したい。そして、三島由紀夫氏を支持したい。

少年・少女たちへの貢献〜道の修行

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少年・少女たちへの貢献〜道の修行(極真会館増田道場・修錬教本〜第3章 基本組手技より)

 拓心武術の修練による少年少女達への貢献を考えると、極真会館増田道場・空手武道の修練は、かなりボリュームが多く、困難だと思われるかもしれません。確かに、全ての修練を行おうと思えば困難かもしれません。しかし、その点はTS方式の組手法を中心とすることで改善されると思っています。また、まずは体を強くする、心を強くする程度でも良いと思います。しかしながら、子供たちの意識の中に自(私)が誕生すると同時に、その心と身体は何らかの方向性に向かっているのです。

 ゆえに大人は、その方向性が偏向した方向に向かわぬよう軌道修正してあげること、また人間が本来が有すると思われる、活かす力、軌道修正の力を伝える必要があるのではないでしょうか。その軌道修正する力こそが、理法の力(道の力)なのです。

 本道場では、「真の勝利」とは「理法に出会うこと」だと考えています。すなわち、単純に「相手に勝った」ではないのです。真の勝利はその部分ではありません。もちろん、試合修練では、相手に勝つこと、負けないことを目標に全力を尽くして行わなければなりません。そうでなければ、理法に出会わないからです。

 ここで一番問題なのは、「〈試合に勝った・相手に勝った〉=〈理法に出会った・道に出会った〉ではない」ということを理解できるかどうかです。その点を理解できないことがが空手界、武道界の意識レベルが上がらない原因です。また私は、世間や大人たちの目がそこを見ていないことが子供達の健全な成長を妨げる可能性がある、と考えています。

 私は、全ての子供に自分を生かし、より良い自(私)を編んでもらいたい、そのために私の考案した空手武道が貢献できたら、と願っています。そのためにも、拓心武術による「道の修行」を通じて、より多くの人に「真の勝利とは何か」を理解してもらえるよう全力を尽くします。

 

 

 

拓心武術の修練と拓心武道(極真会館増田道場・修練教本、組手技のページより)

 

 拓心武術とは、増田 章が極真空手を基盤に各種武術、格闘技から技術を、また様々なジャンルの知見を採り入れ、再編集したものです。その修練の核心はTS(拓心)方式組手法です。そして、その組手法を核にしながら、組手型、基本組手技、護身技、武器術の修練を行います。それらの修練により、戦いの理法の地平を切り拓きます。同時に個(私)の身体の可能性を拓き、かつ心を高めていきます。その道筋を拓心武道と言います。

 また拓心武術の修練は、極真空手が遺棄した武術としての古伝・極真空手の技を生かすことを目標としています。ゆえに「組手技」の中には護身技も含まれています。護身技の実用性は、「組手技」を活用したTS方式の組手修練を行うことで理解できます。同様に拓心武術の小武器の活用の修練もTS方式の組手修練が基盤となります。

 言い換えれば、拓心武術の修練目的は、極真空手の武術としての実用性の再現と空手武道をさらに高いレベルの武術に高めることと言っても良いでしょう。そのための2本柱の一つが極真空手であり、もう一つの柱が拓心武術なのです。

 繰り返すようですが、拓心武術と極真空手は別のものではありません。拓心武術の中で極真空手は生かされています。同時に極真空手の中で拓心武術は生かされていくでしょう。具体的には、拓心武術の修練は古伝・極真空手を活かします。また、絶えず有意義な技術を包摂融合していきます。さらに、その修練によって戦いの理法を深く学んでいきます。

 現在の極真空手の基本は形骸化しています。また組手修練も武術修練の体をなしていません。本来の基本は、応用されてこそ、活かされてこそ基本です。そのようなことになったのは、組手法の瑕疵を改善できなかったことと、本来の型(組手型)を残さなかったからだと考えます。拓心武術は空手武道修練を本来、武術、武道のあるべき姿に変えるために編み出したのです。

 そのために、まず組手法を見直し、組手型を見直しました。そして基本技(伝統技と組手技)を見直したのです。組手法→型→基本という視点がなければ、戦いの理法は生み出されないと言っても過言ではないでしょう。また、それら各項目(視点)が偏向したものならば、理法は見えてこないでしょう。

 私(増田)は、戦いの理法の見直しから自(私)と他(他者)との関係性が見直されると考えています。その見直しは、これまでの「ものの見方」「生き方」の見直しにもつながると思います。その見直しとは、自(私)の再編集です。

 ここでいう自(私)の再編集とは、自(私)の在り方を見直し、かつ創り上げていくことと言っても良いでしょう。その見直し(受け取り直し)が真に自(私)を生きることだと思います。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、拓心武術の修練は自(私)を取り戻す修行です。また、他に引きずられ、自を喪失していくことへの挑戦です。その挑戦としての拓心武術の修行は、自(私)を完成するための可能性を秘めています。そして、その境地への過程が拓心武道と言うものです。(増田 章)

 

国家の戦争は暴力でしかない

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国家の戦争は暴力でしかない

 

 ロシアがウクライナに武力侵攻を始めた。ロシア大統領のプーチン氏は柔道家・武道家だということで好感を持っていたが裏切られた思いである。

 

 欧州の武人で戦争論を著したクラウゼヴィッツは「戦争とは他の手段をもってする政治の継続」と述べた。一方、我が国の武人である徳川幕府の武芸指南役、柳生宗矩は「万人を救うために一人の悪を殺すために武はある」というような趣旨のことを述べている。また、古の武人の中には「破邪顕正」と武を喧伝する者もいた。

 

 私は、どんな理由、正義があろうとも国家による武力行使は暴力だと思う。否、国家というものの本質が暴力装置であることの正体を表す事態が、あらゆる武力行使であり、その最たるものが国家による他国家への実力行使であろう。しかし、それは決して選択してはならないことだと思う。

 

 先にプーチン大統領が武道家だと書いたが、私が考える武道とは、決して武力で正義を実行する人間のためにあるのではない。また「破邪顕正」を武道と言うなら、己の自我や感情を抑制することが破邪であると思う。つまり、自我や感情を抑制することが「破邪」であり、その破邪を以て「和」を実現することが「顕正」だと思う。そのような思想を内包するものが日本の先達が用いた道の概念・思想である。

 

 私は、戦争の本質を深く理解し、それを抑制するシステムを構築することは人類にとって極めて有用だと思っている。また、いざとなったら命を捨てても仲間を守るという覚悟と準備を怠らないことに高い価値を置く立場である。そして、その覚悟と準備をしつつ、不断にそれを回避する道を求めて生きるのが武道家・武道人のあり方だと考えている。そして、そのような思想を育むものだけが武道と言ってよいと思っている。だが、そんな武道はどこにもないかもしれない。あるのは、武道の看板を掲げた運動場だけだ。

 

 私は、まだ若い兵士たちが国のために戦争をによって死ぬかもしれないということに強い憤りを覚える。また、戦争では必ず女性や子供が犠牲になる。そんなこと誰もがわかっているのに…。

 

 私も若い頃、ロシアとウクライナを訪問したことがある。一言で言えば、みんな同じ人間である。なぜ、殺しあわなければならないのか。なぜ、傷つけあわなければならないのか。ロシア国内でも女性や老人まで、市民が立ち上がったようだ。残り少ない人生、私の命が役に立つなら、そのデモに参加したい。だが、言うだけではだめだ。本当は知行合一だ。今、私はウクライナの人達に同情する。同時にロシアでデモを行っている人達にも尊敬の念を感じている。

 

 このロシアによるウクライナへの武力侵攻は、我が国のみならず世界中の政治家に対する試金石となると思う。同時に市民による試金石ともなるだろう。さらに言えば、アスリート、武道家の資金石でもある。

 ここ数週間をかけて、私は新しい武道を普及する学校設立の趣意書をしたためていた。学校といっても私塾のようなものである。はじめはインターネット等を活用したり、少数の者に直接説法をすることぐらいしかできない。資金がないので…。その趣意書を書き終えた直後、ロシアの武力侵攻が始まった。だが、今こそ武や武道に関する認識の変革を唱える時期だと思っている。

 

 私が武道を始めた幼少の頃、「力なき正義は無能である」「正義なき力は暴力である」と我が師が語っていた。私は、師の教えを個人レベルでは否定しない。だが、60年を生きてきた私の思想、そして理念とは相容れないものである。そして、どんな正義を掲げたとしても国家の戦争は暴力でしかない、と私は断固、否定したい。また、そもそも国家や集団が正義を掲げること自体が暴力の萌芽に違いない。私は今一度、暴力の本質とは何か、を人類全体で考える時期だと思う。

 

 これまでヨーロッパのみならず先進国は2度もの世界大戦と地域的な戦争を幾度となく繰り返してきた。これは、人間が歴史から何も学んでいないという証拠なのか。また政治家の見識不足なのか。それとも社会システムに瑕疵があるのか。私には答えを見つけられないが、一つだけ言えるのは、これからの武は、決して行使しない武の実現を目指すべきだということだ。それは核抑止のことでは決してない。おそらく、すぐには私のいうことを理解してもらえないと思っている。

 

 そのことを理解してもらうためには、本当の武道思想を普及しなければならない。まずは「勝利」に対する概念を修正し、かつ「勝負」の意味と手段を修正しなければならない。そのことを大まかに述べれば、本当の勝利とは、相手を打ち負かして得られることではないということである。また、勝負には引き分けはないということだ。あるのは両者勝利か、両者敗者である。たとえ手段として勝敗を決めるとしても、それは一時的な評価である、と理解する必要がある。そして、最終的に敗者を作らないシステム・価値体系が必要なのだ。

 

 今回、私はプーチン大統領は西側諸国との綱引きに「引き分け」を想定して、今回の武力侵攻を決断したのではないかと直感している。もし、そうだとしたら、その引き分けという概念を唱えた日本武道の教えが間違っていたのだ、と私は考えている。

 プーチン大統領の考える「引き分け・戦術」は、概念的に不明瞭な「引き分け」を狙って勝利を得ることであり、私の考える武道思想ではない。私は、その政治的戦術と戦略を認めるわけにはいかない。なぜなら、その引き分け・戦術を認めれば、近い将来、その戦術を真似する政治家が出てくるに違いない。また、そのような志によって成し得た勝利や政治家は決して真の勝利者ではない。そして世界に新たな禍を生じる可能性がある。そして、私の例える「引き分け・戦術」を認める価値観は、やがて全てを敗者にしてしまうかもしれない。

 よって、たとえ長い時間がかかっても、人類の全てを勝者とする思想を構築する必要がある、と私は考えている。その思想は、私の考える武道思想にある。そして、その思想を武人のみならず、政治家、文人までに伝える必要がある。その思想の核は、日本の風土が育んだ「道の力(道徳の根本)」とその思想である。

 

 最後に、武道は他を殺す人間を作る手段ではない。他を活かす人間を作る道が武道だ。だが、自称武道家たちは、それを言えるだけの生き方をしているのだろうか。かくいう私も同じである。故に毎日が恥ずかしい。

 

 

 

 文武一体の道(五行歌)

 

私は思う

人の行為は

つまるところ

全て「文」

だと

 

「文」の役割は

意味を紡ぐこと

そして

自我を認めて

全てを許し活かすこと

 

 

私は思う

正義を掲げた

「武」も

行使すれば

暴力でしかない

 

私は

暴力には暴力で

対抗するしかない

現実が

悲しい

 

 

本当の「武」とは

「文」を根本とした

文武一体の道

愛と和の

実現である

 

(心一)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

老いて身体能力が衰えるからこそ〜道心を求める

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以下の内容は「拓心武道論〜道心を求めて(仮題)」という拓心武術の考え方をまとめた冊子(電子書籍)の内容の一部です。

 

拓心武道論〜道心を求めて(仮題)

 

序章

第1章 自己の心身を最も善く活かす道の追求

第2章 お金を出しても買えないもの

第3章 拓心武術の修練目標・キーコンセプト(鍵概念)

第4章 医学的見地からの拓心武術の組手修練の効用

第5章 拓心武術の効用と既存の武道の問題点

第6章 老いて身体能力が衰えるからこそ〜道心を求める


第7章 拓心武術は相対的な強さを目指さない

第8章 拓心武術の修練の先には

第9章 自他の関係性を知り、それを活かす

 

 

第6章 老いて身体能力が衰えるからこそ〜道心を求めて

 

 

 勝負哲学の見直し。そのことも拓心武術の修練目的に含まれる。端的に述べれば、拓心武道の修練における「勝利」とは相手に勝つことではない。拓心武術の修練における「勝利」とは、自己の心と身体を最大に活かした時である。故に必ずしも、「競技のルールの中で勝者となること=勝者・勝利」という図式で勝負を判断しない。

 多くの競技は身体のスピードや力を相対的に比較しているだけである。そのような競技は身体の能力が衰える老齢者が行っても無駄だ。なぜなら「伸びしろ」がないからだ。しかしながら拓心武道の修練における、「心と身体を活かすこと」を目標にするなら、壮年や高齢者ほど伸び代があると言っても過言ではない。その意味は、老いて身体能力が衰えるからこそ、心と身体のより良い活用方法の必要性を理解できるからだ。言い換えれば、「心(脳)と身体を最も活かす道の追求」という目標には「老い」が最高の教師なのだ。その核心は「変化を知る」ということである。その変化の中で自他を活かし続けるための叡智が道の力である。その道の力こそが変化の中でも変わらないものかもしれない。そして、その道の力を求める意識が「道心を求める」ということである。

 さらに言えば、身体の痛みや障害は、最強のコーチであると思っている。そのコーチの存在をほとんどの人が気づかない。だが、そのコーチの声を聞きながら、心と身体の限界を少しずつ越えることができれば、自己の能力はより向上する。

 私は拓心武術の意義、そして拓心武道の目的は壮年や高齢者にこそ理解できる道だと思っている。問題は、打撃系武術・武道が老いた身体には適さないと考えられていることだ。そしてスピードや筋力に依存した技、能力の追求を掲げた修練法が定着していることである。

 私は、相手と組み合う武術の修練は、力と技を活かす「制力」の修練として、より有効だと思っている。一方、相手と離れ、攻撃を読み合う打撃系武術は、目付けを重視した読み合いを活かす「制機」の修練として、より有効だと思っている。だが、究極的にはどのような武術であっても、自我を抑制し、心をより善く活かすという「制心」を必要とするはずである。そして、目標を「制心」「制機」「制力」に定めること。そして本論でいう本当の勝利を目指すならば、老いて衰えた身体を活かす修練となるに違いない。また、心(脳)と身体の回路の機能維持に役立つ効用があると思っている。

 ただし、その効用を得るためにも、本論で述べた、拓心武術の武道論(哲学)を基盤とする必要がある。補足すれば、拓心武術の修練を老齢者が行う際は、基本技の精度をより高めること。そして組手型を何度も繰り返し、かつ約束組手(拓心武術独自の稽古法)を丁寧に繰り返すことである。さらに組手を行う際、スピードに頼らず、また目先の勝負にとらわれることなく組手修練をおこなわなければならない。そして組手の裏側にある戦いの原則(戦術)を明確に読み取れるように意識することが重要だ。

 私は青少年のみならず、七〇歳を超える高齢者も行うことができる修練法を考案した。それが拓心武術の修練である。もちろん、ある程度の筋力が必要なことは言うまでもない。しかし、もし20〜30分歩行する体力があれば十分である。そして心と身体の回路を繋ぐ機能や他の身体機能の活性化には歩行より効用があると思う(私は障害があるので30分も歩行しない)。 もちろん高齢者と青少年や壮年の人達の修練の始め方(基本習得の方法)には異なる部分がある(より良い方法が別にある)。

 だが、拓心武術の修練の核は防具によって安全性を確保した組手法である。そして相対的な強さではない「制心」「制機」「制力」という理法の会得を目標とする。そのような組手修練は、若齢者のみならず高齢者まで、一貫した目標を共有することができる。また、一緒に実施可能な修練法でもある。さらに、一部の専門家しか為し得なかった武術的な「技の読み取り」「読み合い」の能力の向上・会得の道を多くの人に開く修練方法である。

 その「読み取り」の能力の向上は「目付け」の能力の向上につながる。さらに、それらの能力は護身術としての実用性ではなく、自我を抑制し、かつ活かしていく護心術(拓心武術の修練用語)の道を拓くことにつながるであろう。

 

 

 

 

 

 

人生をより有意義なものとするため〜組手修練会を終えて

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 3月20日に組手修練会としてTS方式組手法のセミナーを行った。 振り返れば、コロナパンデミックの渦中、決断、開始したと言っても良いTS方式の組手法である。 振り返れば、恐ろしく早い2年間であった(コロナパンデミックは、始まってから2年半ほど経過しているが)。その間、秋吉以下黒帯の人達の協力により、極真会館増田道場ではTS方式の組手法が浸透した。 だが、一部の人達の理解が不十分だ。総合的に見て、5段階評価で2段階といったところか。また個人差が大きい。
 

 TS方式の組手法の眼目は、組手に対する考え方と同時に空手に対する考え方の刷新と言っても良い。その刷新への思いの萌芽は35年以上前に遡る。だが、私にはどのように刷新したら善いかがわからなかった。ただ漠然と、こんなレベルでは最強、最高とは言えないという思いがあった。そして、その刷新には、まず以て空手指導者の空手に対する認識が変わる必要があると思っていた。また、伝統的な武道哲学(思想)と修練システム(体系)に対する疑義があった。今、その疑義に対する答えを手にしたとは言わない。ただ、先ず以って考え方(認識)を変えなければ、自己の心身は上達しないということだけは確信している。
 

 そもそも、 上達という概念を理解すること自体が難しい。要するに、何をもって上達とするか。「足が高く上がる」「ブロックを割れる突きを身につける」、それが上達か。また「試合に勝つ」「バットを折れるようになる」「打たれ強くなる」ことか。 それとも「型を覚える」ことか。非常に曖昧で不明瞭である。もし、それが事実なら、そんな修練・修行は何のためにあるのだろうか。

 

【上達とは何か】

 一体、上達とは何か。拓心武道的に定義すれば、「自らが決めた目的のために心と身体を活かすことができるようになること」また「制心、制機、制力が三位一体となった、優れた技を駆使できるようになること」と言っても良い。
 

 補足すれば、私が考える拓心武道は、優れた技を目指すが、それが究極のゴールではない。優れた技の体得は、あくまで目標であり、大事なことは、優れた技の本質を認識し追求することである。そして、そのことにより自己の心と身体を活かしていくことだ。
 
 

 その心と身体を活かすためには、「心とは何か」「身体とは何か」「技とは何か」をより正確に認識する必要がある。もちろん概念的な事柄を統一することは困難だ。私が使う概念用語もあくまで価値を共有するための手段として用いているだけである。
また、優れた技を有するとは、自己と他者(道具を含む)と一体化し、それらを自在に操り、かつ活かす能力があるということだ、と私は考えている。

 そのような考え方からすれば、私自身、優れた技を有しているか、甚だ疑問である(半世紀近くも空手を修行しているのにもかかかわらず)。 それゆえ、私は原点に立ち戻り、全てを見直している。まずは自己の身体を巧みに使えているかという点、次に他者との関係性を活かす技を使えているか、という点を見直した。その結果、すでに身体は老い、自由が効かなくなったことも加え、自己の身体を巧みに使えていないということを自覚した。ゆえに身体の仕組みを研究している。また、自他の関係性を活かすためには、強引なやり方では良くないということが自覚できるようになった。同時に、自己の未熟と非力を感じざるを得ない。そして、いまある物を大事に活かすことが原点であり、究極の道(理法)だと直感している。

 

【人生をより有意義なものとするため】

 そんな自問自答を繰り返した2年間であったが、わずかながら光明も見えてきた。それは、TS方式の組手は、しっかりと段階を踏んで練習を積めば、老若男女を問わず、安全に行える組手法だということが実証されたことだ。ただし、問題は、TS方式組手法により、どれほどの技が身につき、かつ武術としての実用性があるかということの立証である。それがないと、広まらないかもしれない。
 

 

 あえていうが、私がもっと若く、強ければ、それを立証できるかもしれない。だが、そもそもTS方式の組手法は試合に勝つ強さを求める修練方法ではない。強さの核となる理法を知ること、それが眼目である。そして、その理法を知ることで、個々の強さがより引き出され、活かされる。要するに、拓心武道とは、相手に勝つ強さを追求することではなく、自己を活かす強さを追求する哲学と言っても良い。もちろん、その中に相手を打ち負かす強さを内包しているが、相手を打ち負かすことが必要なのは、相手が自己の心身に暴力(実力)を以て危害を加えてきた時のみである。その暴力的強さに対するには、自らも暴力的な強さを有することが必要だと思う。しかし、そのような暴力的強さは武道として直接的に指導するものではない。間接的に特別指導(護身技指導)を行う方が良いと思う。また、拓心武術は、それを転用し、破壊力を向上させれば、十分に暴力的強さに転化できる。

 

 私の考案した拓心武道は武道人、個々の人生をより有意義なものとするための手段としたい。また拓心武道は、武術修練を自己を活かす道として昇華する哲学だ。さらに言い換えれば、拓心武道哲学の追求することは、TS方式組手法により、一人ひとりが自らの人生哲学を編むために貢献することだと言っても良い。  

 

 

 

 

 

 

 

 

拓心武道哲学〜デジタル空手武道通信・編集後記 第59号

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デジタル空手武道通信・編集後記 第59号

 

 先日、「拓心武道論」という電子書籍を出版した。内容は短いが、TS 方式の組手法を含む拓心武術の基盤となる考え方、武道哲学をまとめたものである。今後は、そこから、詳細を展開していく。もう、残された時間、体力はわずかだ。急ぎたい。

 そんな思いを胸に、帯広の小川哲也先生の道場を訪ねた。TS方式の組手法を伝えるためである。帯広訪問は、5〜6年ぶりだろうか。これまで、TS方式の組手法は伝えられていなかった。今回、時間ができたのと、修練方法がまとまってきたので、長い付き合いの小川哲也君にTS方式の組手法を伝えに行った。

 北海道は厳しい冬が終わり、春の少し前といった感だった。今回、晴天に恵まれ、東京と気温はさほど変わらなかった。実は、北海道からの指導要請ではなく、私の押しかけ指導だった。ゆえに、みんな理解してくれえるか不安だった。だが帯広の生徒は真面目に稽古に取り組んでくれ、かつ順応性は想像以上だった。
 


 私は、拓心武道メソッドを指導員が理解し、2〜3ヶ月も稽古を続ければ、帯広道場の人達も東京同様、上達すると思った。とは言え、生徒にとっては初めての経験である。稽古後、感想を聞くと、口々に「難しい」と言っていた。その中で2名ぐらいが「難しいけど面白い」と言ってくれた。

 繰り返すが、帯広の面々は必ずTS方式に上達する。そして組手が面白くなるはずである。私はそう確信するが、指導者の空手に対する認識が変わらなければ、そのまま変化しないかもしれない。

 全てのものごとは変化し続けている。そんなふうに思うのは私だけだろうか。しかし、自己を変化に任せるのみならず、自らが変化の意味を捉え直し、活かしていく。そんな変化を能動的に捉える生き方を私は考えている。

 いうまでもなく、人間は死ぬまで変化し続ける。それゆえ、今しかできないことをするのも良いだろう。だが、私は今を大事にしながらも、その変化を考え、かつ活かしたい。そして、その中で変わらないもの(道)を見つめていきたい。

 ここでいう変わらないものとは何か。それは物や人ではない。個々人の人生をより善いものとする理法(道)である。そのような理法・道があると思っている。そのような理法(道)が流れを生み出している。その流れの中で、自己が浮かぶことも理法の活用だ。だが、沈んでいく人がいる。また、力に任せ強引に生きている人たちがいる。だが、自己を浮かす浮力、すなわち理法によって生かされていることを知った者のみが真の感謝を知る。また自己とその人生が有意義だったと自覚できると思っている。だが、そんな人はわずかかもしれない。皆、流されるままに、また惰性で生きている。そして感謝と言ってもその意味を知らない。かくいう私も同じである。だからこそ、真の感謝、そして納得のため、道を求めている。そのような哲学が拓心武道哲学である。

 

 

↓函館市内の夜景


私の空手修行〜ある黒帯の小論

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 以下は、極真会館増田道場の昇段審査の課題である小論文の内容だ。小論文の課題は、「空手修行と人間形成について」だ。書き方は自由である。昇段審査までの空手修行を振り返り、自己の考え方・認識がどのように変化したかが書かれていればそれで良しとしている。

 重要なことは、空手修行と如何に対峙していたかの見直しである。同時に空手人として空手と自己をどのように考えるか、という視点を植え付けることだ。私は極真会館増田道場の空手修練は人間修行の一環であると考えている。そして、その修行の方向性は、自己の心と身体を活かすということだ。おそらく、そのような言い回しは抽象的すぎて理解されないに違いない。だが、それを理解させる修行法(修練法)を確立するのが私の夢だ。夢は夢で終わるのか。それとも現実となるのか。

 夢(理想)を本気で実現しようとして生きれば不安となる。だが、私の夢は道(理法)を追い求め、それを活かし楽しむことにある。ゆえに、ただひたすら道(理法)を追い求める生き方を行ずれば、その不安は消滅すると思っている。

 さらに言えば、私のいう道(理法)とは、暗闇を照らす光のようなものだ。光があれば、恐れや不安は少なくなる。しかし、夢(理想)を追い求めない者には光は必要ないかもしれない。また、光は必ず暗部を作る。ゆえに全てを光によって理解することは不可能である。私は、光は意識的に活用しなければならないと考えている。おそらく、私の例えが稚拙が故に、意味が伝わらないだろう。

 

 しかし、以下に掲載する上原氏の小論(空手修行経験)で述べられている事柄は、私が感じている「光」を上原氏も感じている証拠だと思っている。そして、その光が私の空手修行を照らし続けてくれることを祈っている。世界はまだ暗闇の中だから…。

 

 

 

 

 

令和4年1月

極真会館増田道場・調布/U氏

第1章 空手との出会いと挫折

   私の空手との出会いは、私と同世代の多くの方々と同様に、大山倍達先師の半生を描いた「空手バカ一代」の劇画とアニメ、「地上最強の空手」などの一連の映画、すなわち「極真空手」であった。その圧倒的なパワーと高度な技術に子供心をすっかり躍らされ、「自分も強くなりたい。」と思った。

   大学に入ったら、空手部に入ろうと決めていたが、入学した大学に極真空手の空手部、同好会が無かったので、いわゆる「伝統派空手」である和道流の体育会空手道部に入部した。極真空手では無かったが、空手を学べる喜びで、週6日の稽古と年3回の合宿に耐え、同期生十数人の中で、一番早く初段を取得することが出来た。しかし、順調だったのはここまでで、以降、伸び悩む事になった。それは当時から現在まで続く、「寸止めルール」による組手稽古と試合が大きな理由であった。寸止めルールの攻撃部位は、上段の顔面、中段の腹部(下段、脚部は無し)で、突きと蹴りによって攻撃するが、防具を着装しないため、直接当てることは禁じられ、突き、蹴りを、直前で止めるか、若しくはスキンタッチまでは良い、とするものである。

  折角、基本稽古により力強い突き、蹴りが出来るようになってきたのに、止まっている相手ならまだしも、動いている相手に、稽古してきた力強い突き、蹴りを出すと、寸前で止められず、当ててしまうことになる。その結果、組手稽古においては、初めから「直前で止めるように作られた突き、蹴り」を練習することになり、念頭に「直接打撃の極真空手」があった私には、本末転倒のような気がしてならなかった。すなわち拳は固く握らず、肘から先に延ばすだけで当たる瞬間に拳の力を抜いてしまうものである。蹴りも、豪快な上段回し蹴りは、寸止め不可能なことから、ほぼ使用不可で、接近戦から引きながら軽く蹴って止める程度の上段蹴りを練習したりした。最近の組手試合では、止めやすい裏回し蹴りやサソリ蹴りなどの変則的な蹴りが多用されている。また、寸止めルールを守らず、顔面を突き込む者がいることにも閉口した。組手稽古中、間合いに入ってきた相手に、カウンターで顔面を突きで寸止めしても、相手は当たらないことを良いことに、そのまま出てきて、私の顔面を殴ったりする。「先に上段突きが入っている」と主張してみても、痛い思いをするのは私なので、腹立たしかった。公式戦も同様で、特に私立大の強豪校の選手は、試合中に、上段突き(寸止め)を取られた、と思った直後に、反則の上段突きを意図的に当て、こちらが体勢を崩すと、審判も、決まったはずの上段突きを取らず、反則のポイントだけになることが多々あり、丁寧に試合をしている自分が馬鹿馬鹿しくなることが多々あった。

   最も良くないと思っていたのが、攻撃が当たらないことを前提にしているので、組手稽古において、受けをほとんど稽古しないことであった。組手の受けは、寸止め前提なので、腕や手を入れるだけで十分で、いつも「極真空手なら蹴り技で腕をへし折られるだろうな」と感じていた。そんなことから、組手稽古に身が入らず、団体戦のレギュラーも定着せず、試合結果は勝ったり、負けたりと、目立たない選手のひとりで、モヤモヤと疑問を感じながら、4年間の空手道部生活を、挫折感を持ったまま終えてしまった。

第二章  社会人としての空手・武道修行

   大学卒業後、警視庁に就職し、学生時代のリベンジを図るべく同庁空手道部に入部した。現在の同チームは、全日本実業団の中でもトップクラスの成績を保っているが、当時は、未だ黎明期であり、部員は、勤務終了後に集まり、稽古をする同好会的なもので、稽古内容は、実業団大会での組手試合で勝つための、寸止めルールによる組手稽古であった。
学生時代と同様に、組手稽古の中で、組手に慣れていく稽古方法であり、顔面部の怪我が多く、モヤモヤは払拭されることは無かった。一方で、警察に入ってから必修科目として始めた剣道と逮捕術は、防具を使用した武道、格闘技であり、ルール上の矛盾が少なく、熱中し、警察署の代表選手として対抗試合に出ていた。また和道流空手道の剣術的、柔術的な動作に基づく約束組手や形に興味を持ち、和道流出身の先輩から手ほどきを受けたりしていた。剣道と逮捕術は、半分は仕事のうちであったので辛うじて継続していたが、空手は、業務多忙を言い訳に、30歳代以降は、稽古から完全に離れてしまっていた。

第三章 増田道場との出逢い

     稽古から遠ざかっていたものの、極真空手には継続的に興味があり、「パワー空手」、「ワールド空手」と読み継ぎ、関連するレンタルビデオを見たりしていた。そうした中、平成25年の春に調布警察署勤務になり、調布市内の官舎に住むことになった。調布駅から官舎へ帰宅途中に、たまたま極真空手の看板を見つけ、以降、道すがら、稽古風景を眺めるようになった。パンフレットを持ち帰り、内容を確認すると、増田章氏が主宰している道場だと知った。同氏は、書籍や雑誌、テレビ、ビデオでしか存じ上げなかったが、私と同世代の極真空手を代表する空手家であり、松井、緑両選手らとの激闘は鮮明な記憶があった。私の憧れの選手でもあったことから、「これは何かの啓示か因縁であり、フルコンタクト空手を始められるか不安もあるが、扉を叩いてみないとならない」と思い至り、7月中旬、思い切って稽古の時間を選んで訪問した。

   道場には、高澤指導員がおられ、私が「この歳(当時53歳)からでも、極真空手を始められますか」とおずおずと尋ねたところ、高澤先輩が「もちろん出来ますよ!」とはっきりと答えて頂き、その場で入会を決意した。今、思い返しても、この出逢いは、私の人生にとって、本当に幸運であったと思っている。

    稽古が始まると、その稽古内容に目を見張った。基本稽古に多くの時間を割き、型稽古もしっかりやったのち、組手稽古に入る。先ずは受け技を稽古し、約束組手として受け返しを何度もやり、最後に自由組手になる。全身から汗が吹き出し、当初は大腿部に蹴り技を数多く受けた。足を引き摺って帰宅することも多かったが、いつも充実感で一杯だった。
調布道場には、私と同世代で黒帯の清野、高澤、平尾先輩がいらっしゃり、組手稽古は厳しかったが、時には稽古後、懇親会に誘われ、空手談義で盛り上がり、とても励みになった。また秋吉師範代の明るく、親切で、優しい人柄ながら、稽古は厳しく、しっかりと汗をかかせる指導に完全にハマってしまった。

    伝統派空手と全く異なる近い間合いと、近間からの強烈な打撃に戸惑い、伝統派の組手方法を根本的に変えなければ、極真空手には対応できない、と感じた。それでも徐々に防御技を習得するにつれて、打撃を簡単には貰わなくなり、組手の稽古が楽しくなった。顔面以外の部位であれば、打撃を当てる際に、力を加減するなど融通が利くので、老若男女を問わず、誰とでも稽古できる極真空手の良さを知り、極真空手が世間に広まっている理由がよく分かった。

    また増田師範の「フリースタイル空手」「吾、武人として生きる」「勝てる歩法」などの著書や道場通信、ブログなどを読み漁り、増田道場が、組手稽古の理法(原理原則)を常に考えていることが良く分かり、私の組手に対する長年のモヤモヤが解消されていった。そして、数ある極真空手の中でも、よくぞ増田道場と出逢えたものだ、と幸運を感じた。今では、デジタル空手武道通信、同教本において、より深く、細かく記載されており、動画視聴も出来て、極真空手を学ぶのに、これ以上の環境は無いのではないか、と思っている。

   その後、職場の異動もあり、調布道場のほか、高田馬場道場にも通うようになり、坡場先生はじめ多くの指導員から指導を受け、社会人道場生の仲間も増え、楽しさも倍増した。それでも黒帯の先輩との組手は恐怖心で一杯であり、腹部を叩かれ効かされたり、足を蹴られて歩けなくなったり、と色々と困難はあった。当時は漠然と、「スパーリングは面白く、試合にも興味があるが、この歳で直接打撃制の試合に出ることは困難だろうな」と感じていた。試合に参加することなく、稽古を継続するモチベーションをどうするか、が問題であった。

第四章 TSルールによる試合組手への挑戦

      増田道場に、防具が導入され、TSルールとして、稽古法、試合方法が整備された。私は、これまでの武道経験から、武道稽古に防具は不可欠と考えており、さらに消耗戦でなく、ポイント制で勝敗を決するTSルールは、理にかなっており、大歓迎だった。

    令和元年11月にTSルールによる組手セミナーが行われ、初めて顔面と胴の防具を付けて、「顔面突きなし」ルールで試合を行った。突き、蹴りを全力で出せる気持ち良さを実感し、また怪我無く試合を終えられたことからも、社会人でも参加できる、とても良いルールであると感じた。また師範の講話で、「相手の一撃を喰らわずに、一撃を当てる。一撃で決める。」との言葉に感銘を受けた。最後に、急遽、エキシビジョン的に、清野先輩と「顔面突きあり」ルールで試合を行うことになった。TSルールでの「顔面突きあり」は、私には、稽古も試合も全く初めてであったが、伝統派空手の要領で、遠間から飛び込む上段突きで対応できると考えていた。しかし試合早々、全く役に立たないことを思い知った。清野先輩は、上段を肘で確実にガードしており、私の拳が面に全く当たらない。狙いを中段突きに切り替えたところ、突きを捌かれ、上段かぎ突きをまともに貰い、目の前に火花が散る感覚があった。その後も、近間でのかぎ突きを続けて2本貰い、あっという間に負けてしまった。「顔面突きあり」の恐ろしさを体感する一方で、あれほど激しく叩かれながらも、試合後のダメージが少ないことが分かり、このルールなら、自分でも試合に出れるのではないか、と思った。

   自分の上段の防御の甘さを猛省し、その後の組手稽古のテーマは専ら、防御法であった。コロナ禍のなか、TSルールは、「顔面突きあり」に一気に移行し、組手セミナーの1年後の令和2年11月から、月例試合が始まった。私は、若い時分の伝統派空手の組手稽古・試合での挫折を乗り越えるためにも、積極的に参加しようと心に決めていた。ちょうど、同年秋に、警視庁を退職し、時間的余裕が出来たことから、稽古量が増え、ズーム稽古を含めると、稽古日は月10日以上となり、稽古内容も充実してきた。特に、増田師範により、そのまま実際の組手に使用できる組手型が、基本から応用まで整備され、道場生は、自分の力量に合わせて、実践的な組手技を、易から難へ、段階的に修練して行けば、誰でも確実に組手に強くなれる、言わば「組手上達システム」が出来上がったことは、斬新かつ画期的であると思った。目の前に、組手上達の階段が準備されていて、昇らない選択は無く、「上手くなりたい。」と強く思うようになった。

    しかしながら、私には、試合で使えるレベルに仕上がっている組手型は、未だ2~3技しかないのが現状で、先は目が眩むほど長い。また組手型で練習した技を試合で使って防御したい、打撃を決めたい、と思いながらも、試合では精神的な緊張や興奮があり、上手く決まらず、毎回、反省ばかりだった。それでも、まれに組手型で練習した防御や攻撃が決まった時は、大きな達成感を感じることができた。相変わらず、清野先輩には歯が立たないものの、この1年間で、15戦を戦い、13勝する成績を収めることが出来た事は、「この歳でも組手がやれる!」と、私にとっては大きな自信となり、若き日の挫折を、60代にして乗り越えることが出来たように思う。

第五章 昇段審査を受審して

     令和2年の昇段試合と昇段講習に参加していたが、腰痛の発症により、審査は途中棄権となり、今回は1年越しの受審であった。腰痛を治療し、稽古量を維持し、月例試合もこなし、万全の態勢で審査に臨んだものの、型の部で再審査となった。自己採点通りであり、反省と納得の再審査であった。

    私は、和道流のピンアン1~5の挙動が先に身体に馴染んでおり、極真流ピンアンへの移行にとても苦労した。道場をお借りし、何度も自分の型を映像に収め、師範代に送信し、チェックをお願いした。その度の丁寧な回答はとても有難く、自分自身で出来るまで繰り返すことができ、これらの過程は、直接指導に匹敵する効果があったと思う。これまで型稽古はあまり熱心ではなかったが、きっちりと習ってみると、とても奥深く、各挙動が他の型と共通する部分があり、途中から相乗効果も出て、自分でも短期間に上達できたように感じた。

    今般、昇段審査合格の報を頂き、安堵した以上に、これからは、極真の黒帯として恥ずかしくない基本、組手、型を体現するために、より一層、真摯に稽古に取り組まなければならないと身が引き締まった。特に試合組手は、サウスポーの優位性から勝たせて貰っているようなものなので、決して勝ち数に奢らず、相手に対策を取られても、なお勝ち切れるよう、徹底して組手型を修練していきたい。また基本稽古を疎かにせず、苦手の型稽古や柔軟運動にも真剣に取り組み、苦労する過程において極真の黒帯にふさわしい人格形成を図っていきたい。

     最後に、昇段まで導いてくださった増田師範、秋吉師範代はじめ、指導を頂いた先生・先輩方、一緒に稽古に参加し、基本稽古、型稽古、組手稽古、筋トレで共に汗を流した道場生の皆さんに心から感謝を申し上げたい。

組手力〜月例試合において

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 増田道場では月に1回、本部道場においてヒッティング方式の組手試合を行っている。私の道場ではコロナパンデミックが始まってから、飛沫感染防止のために防具を使った組手法を実施している。その組手法は、空手武道の原点回帰を意識した組手法である。私も老人の入り口に入った。そんな中、我が門下生に何を残すかを考えたときに、もっとレベルの高い空手武道を残したかった。「そんなもの欲しくない」「これまで通りやれ」と思う門下生もいるかもしれない。だが、申し訳ないが、私はこれまで研鑽してきた努力を無駄にしたくない。何より、その研鑽もまだ不十分である。また、私自身の芸道(武道)のレベルが、さらに高まり、かつ、深まると思っている。また、本当の戦いは老人の域に入ってからだと思っている。だが、その戦いは、相手を叩きのめす戦いではない。また、その戦いとは、相手を活かし、かつ、自己も活かすための戦いである。ただし、ここでいう戦いとは、言葉で表せば矛盾するが、戦わない(争わない)ための戦いと言っても良い。私は、それが平和の姿であり、安心立命の姿だと考えている。そして、その境地を目指すことが拓心武道だ。

 さて、5月29日に3ヶ月ぶりに月例試合に参加した小学生、中学生、高校生に対し、なんとか組手に上達してもらおうと、直前にスピーチを思いついた。直前に思いついたので、拙い表現となったと思う。試合後、デジタル空手武道通信用に文字に落としてみた。その内容を以下に掲載したい。

デジタル空手武道通信 第60号

 

組手力〜月例試合において

 

【増田道場における組手修練の目的】
 

 先日、昇段認定のための組手動画を見た。しかし、その組手を見て、私の考える組手修練の目的が理解されていないと感じた。それは、私の伝え方が下手だからだろう。ゆえに、3ヶ月ぶりに実施した、先日の月例試合の冒頭に「組手修練の目的と組手力」について述べた。
 増田道場では、月に1回、組手試合の機会を設けている。本部道場の広さの関係で定員は20名までだ。久しぶりの試合で参加者は少年部、中学生、高校生のみで、しかも定員に達しなかった。だが、みんな上達していたので、見ていて楽しく、また嬉しかった。

 ここで改めて極真会館増田道場の月例試合の目的は、昇級昇段のための組手技能の向上と顔面突きありの新しい組手法に慣れるためだということを述べておきたい。その目的を達成するため、今回、私は組手修練の目的と組手力について説明するための概念用語を考えた。正直、小学生には難しいと思ったが、皆理解できるという。もちろん完全に理解はしていないだろうが、ある程度は理解しているようにも見えた。問題は、他の道場生には理解していない思うので、その内容をいかに簡単に述べておきたい。

【拓心武道の組手力とは〜決定力を磨く】

 まず、増田道場における組手修練の目的は、試合に勝つことを目標・手段として、「組手技能を高める」ことにある。つまり組手技能を高めることが目的であり、その目的達成のための勝利という目標・手段は目的ではないということでもある。この部分が逆転すると「組手技能の上達」に必要な自己分析はできない。言い換えれば、「技」が高まらないし、深まることはないだろう。

 次に、ここでいう組手技能とは「組手力」と言い換えても良い。繰り返すが、この組手力を理解するには、「組手力=試合に勝つこと」また「組手力=相手に攻撃をうまく当てること」と考えてはならない。多くの者が組手力の高低を未熟、かつ、曖昧な判断基準により測っている。そこで組手力を判断するために、組手力を6つの要素に分けて考えることとする。

 その6つの要素とは、1)技に応じる力(応じ力)2)技を読む力(読み取り力)、3)技を誘い導く力(誘導力)、4)技を崩す力(崩し力)5)技を封じる力(封じ力)、6)技を決める力(決定力)だ(月例試合の時と順番を変えた)。
 補足を加えれば、1)の技に応じる力とは、相手の技に防御技を使い応じる技能のことである。2)の読み取り力とは、相手の技をいち早く読み取る技能のことである。3)の誘導力とは、相手の技を囮技を使って相手の技を誘い導き、その導いた技に応じる技能である。4)の崩し力とは、相手の技を攻撃したり防御するのみならず、相手の態勢を技によって弱い状態にする(崩す)技能のことである。ここでいう弱い状態というのは、防御したり、反撃したりすることが困難な体制にすることでもある。5)の封じ力とは、相手の技を間合いを外して無力化したり、技を使って出せなくする技能のことだ。6)の決定力とは、1〜5の組手力を使って、相手との攻防を自己が正確に理解、かつリードした上で、「今、この場所しかない」という「機」「空間」を捉えて技を決める技能のことだ。それが拓心武道でいう決定力の意味である。
 

  繰り返すが、拓心武道の組手修練において目指す理想は、この今、この場所しかないという「機」「空間」を捉える決定力を磨くことである。言い換えれば、拓心武道の目指す理想は、また、今、ここ(場所)において最高の自己表現(技)を駆使することである。もう一つ、組手力を考える上で重要な概念、認識は、組手力の6つの要素が密接に連係しているということである。たとえば、応じ力は読み取り力と連係している。また、誘導力は崩し力と連係している。さらに崩し力は封じ力に連係している。そして、相手の技を封じ力は、決定力に連係する。さらに、個々の技能の働きが縦横無尽に繋がることで、技の効果を最大とする。以上、簡単に組手力と6つの要素を解説した。
 

  今後、新しい組手法による修練を行うには、その要素を観点にして組手を観ると良いだろう。そうすれば、自分の組手力がどのぐらいかが認識できるようになる。おそらく、多くに人が相手より優れたスピードや体力を使って相手を圧倒しているだけだ。そのような要素は、格闘技的な強さに必要な要素だ。だが、拓心武道、そして増田道場の組手修練の目的においてはひとまず棚上げしている。その理由は、それを目指さないというより、さまざまな年齢、性別の人たちが一緒に組手技能を追求できるような修練法を修練の柱としているからだ。ゆえに、破壊力を養成する修練は別に行えば良い。また、この組手法の核にある拓心武術は、相手を殺傷可能な小武器(独自、かつ誰でも入手可能な)の使用により、相手殺傷力(破壊力)を強化して技能を行使することを包含している。
 この意味が理解できない人は拓心武道の組手修練の目的・意味も理解できないかもしれない。そして、組手力は低いままだ。また、この武術的な組手力を体得することができれば、格闘技者としてのみならず、人間として、少し高いステージの登ることができるのではないかと思っている。

【私自身の組手力】

 我が道場生に対しては、まずは応じ力を向上させることを勧めたい。そのためには組手型をより多く知ることが有効だと思う。そこからしか読み取り力、他は要請されないだろう。また、参考までに、私自身の組手力を評価すれば、以下のようになる。

 私の組手力のおける「応じ力」は中程度である。そして「読み取り力」に関しては、応じ力のレベルに合わせて読み取ることもできているようにも見えるが、実は応じ技の想定していない技に関しては読み取ることが困難かもしれない。ゆえに、戦術のデータベース増やしたい。その上で、攻防が連続し、流れ(展開)の中での読み取り力をさらに強化したい。次に誘導力だが、「誘導力」は相手に応じ力が備わっていなければ効力を発揮しない。ゆえに技能のある相手と組手をしなければ訓練にならない。現在、組手の相手となる我が道場生の応じ力は高くない。なぜなら組手型をよく理解していないからだ。つまり、組手型の中身である戦い方の原理原則が理解されておらず、行き当たりばったりの組手(出たとこ勝負の組手)だからだ。そのような相手との組手は反応力の訓練にはなる。その場合、その相手に瞬発力や発想のユニークさがある場合だ。また、「崩し力」については、応じ技を打撃技のみならず、倒し技を用いる時に重要となるので、現時点の打撃技のみの組手の場合は、判断が難しい。ゆえに相手意識を崩し(散らして)ことができているかどうかで判断したい。大まかな捉え方では、連係技を効果的に使えているかどうかで判断するということだ。その点では、崩し力は中程度と考えられる。そして「決定力」だが、私自身がこの部分を判断する際には、いかにスピードを落として相手を正確に打てるかを判断基準にしている。技のスピードに頼らず相手を打ち込めるということは、相手の動きを読んでいる証拠である。ただし、顔面を攻撃しない空手では、少しぐらい当たっても効かないとばかりに防御をしない。そのような組手法では、隙とは何か?ということが理解できないに違いない。同様にこの組手法の目的と理念を理解していない者にはこの意味がわからないに違いない。また、合撃(あいげき)を効果的に使えているかも決定力の判断にはなるだろう。だが、現時点では合撃(あいげき)を使うことを抑制しているので決定力の判断はできない。

 

 以上、自分で自分の組手力を評価してみた。この話を師範代の秋吉に話をしたら、要素ごとに評価表を作成したら面白いと言っていた。善いアイディアだと思うが、そこは今後検討する。まずは各人が自分の組手の内容を各要素を念頭に自らが考えて欲しい。

 

 

  最後に、私は準備が整い次第、拓心武道学校を主宰したいと考えている。目指す武道を完成させたいからだ。だが、完成させるに時間が足りないかもしれないとも思っている。また、その能力もないかもしれない。それでも、私はより高い次元の武道を目指していきたい。

 

 今、私の考える武道の方向性だけは、極真会館増田道場の黒帯有志に伝えておきたい。そして願わくは、いつか私の認識する武道哲学を理解してくれればありがたいことだと思っている。同時に黒帯有志が、未熟ながら私の創始した武道哲学を大事にしてくれるなら、望外の喜びである。

 断っておくが、私の武道哲学とは、極真会館における修行を基盤にさまざまな修練を経て到達したことだ。その極真会館という基盤を大事にしたい。だが、そのことに気づくには遅すぎたかもしれないと思っている。だが、最期まで希望を捨てずに自分の体験を活かしていきたい。それが拓心(拓真から変更)の道である。

 

 

 

組手力の6つの要素(技能)

  1. 技に応じる力(応じ力)
  2. 技を読む力(読み取り力)
  3. 技を誘い導く力(誘導力)
  4. 技を崩す力(崩し力)
  5. 技を封じる力(封じ力)
  6. 技を決める力(決定力)

     

 

 

 

 

 

 

     

弱さから始まり弱さに帰る〜デジタル空手武道通信 第60号

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弱さから始まり弱さに帰る〜デジタル空手武道通信 第60号(リンク)

 

【5月の連休】

 

 5月は寒くも暑くもない、大変過ごしやすい季節だ。そんな季節だが、5月は身体の調子が悪かった。それゆえ連休中は読書三昧で過ごした。

 何冊か読んだ本の中で、3年ほど、本棚に寝かしておいた、分厚い哲学書がある。その本は最初に読んだ時、「難しい」と後回しにした本だった。それから、3年ほど経った。その本が、今読むと思いのほか理解できた。否、理解できる時だからこそ、再び手に取ったのかもしれない。また、本を読むとは自己の心が求めていなければ、内容を真に理解することは難しいのかもしれない。もちろん、すぐに読める本もある。だが、そんな本は時間潰しだろう。

 

 そん中、気晴らしに郊外に出かけた。名刹を周り、山の中や海辺を歩いた。好天に恵まれた。また、連休の最後にもかかわらず、人は少なかった。新緑の山中、穏やかな海辺にはしゃいだ私は、最後に坂道を走った。身体の故障で衰えた体力を取り戻そうとしたのだ。その時、肉離れを起こした。車中、座りっぱなしで、筋肉が固まっていたのだと思う。後悔は先に立たず。それから3週間ほど、大変だった。

 

 結局、あまり調子の良くない5月だったが、ついに私は還暦を迎えた。まだ身体は動くが、若い頃のようには動かない。衰えを遅らせようとは思ってはいるが、どんどん衰えていく。そんな自分の身体に対し、これまで大事にしてこなかったことを申し訳ないと思っている。これまで文句も言わずに私の要求に答えようとしてくれた身体には本当に感謝している。そんな思いを持ちながら、私は新しいステージに立とうとしている。ステージというと大仰だが…。

 そのステージとは、身体が衰える中、いかに身体を活かし、楽しむかである。正直に述べれば、そのステージで納得いく自己表現ができないかもしれないと思っている。言い換えれば、演じ切れるかはわからない。それでも、そのステージに登ってしまったというのが実感である。無理なら降りることもあるだろうが…。限界に挑戦するのが習い性になってしまった。

 

【弱さから始まり弱さに帰る】

 

 昔を振り返れば、若い頃の私は、より強くなりたいと考えていた。同時に強くなれると思っていた。そして強くなったと思ったこともある。だが、それは勘違いだった。

 今、私には「弱さから始まり弱さに帰る」という思いがある。弱いという自覚があることは悪いことではない。その自覚があるからこそ、拓心武道でいうところの「組手力」が形成される。また、自己の身体という道具を活かすことを意識できるのだ。

 「自己の身体を活かす」、そのためには「技」が必要だ。その技を作り上げる過程で、自己という存在を把握する。その把握の中に楽しさはあると思う。

 断っておくが、技の巧拙は気にしなくて良い。たとえ上手くなくても、自(我)と道具と他とコミュニケートし、その関係性を実感できれば良いのだ。

 なぜなら、技とは自己表現の手段であり、目的は自己表現であると思っているからだ。そして、たとえ自己表現の手段が拙くとも、他の自己表現を受け入れ、かつ、互いがより高次の自己表現を目指そうと思う心が大事だと思っている。しかしながら、他者のみならず自己の表現目的が曖昧で低次の欲求に基づく場合、問題が生じる。たとえば、その目的が恣意的であり、かつ、表現手段が暴力的である場合だ。そのような自己表現を受け入れすぎると、人間的成長自体が必要のないものとなってしまう。

 言い換えれば、自己表現の手段としての「技」の修練に意味がなくなってしまうということである。修練自体が、浅い次元の自己の欲求の充足で終わってしまう。断っておくが、かくいう私の自己表現の技は上手くはない。上手くないからこそ、いつも自己表現(技)のあり方を考え続けているのである。

 

 また、技が上手くなるには、技による自己表現を楽しいものと自覚できることが必要だと思う。ただし、その技が自他の関係性を活かすような理合を基盤とせず、ただ身体的な能力に依存するものであれば、問題である。要するに、私が技というのは、自他の関係性を活かすものであるからだ。もちろん、技を効果的に駆使するには身体的な強さがあった方が良い。言い換えれば、技を創り、駆使するにはある程度の身体的な強度が必要なことは言うまでもない。なぜなら、身体に強度がなければ、技の精度がわずかでも足りないだけで、自己の身体(基盤)が崩れてしまうからだ。だが、そこまでの技の精度を究めることは、私も含め普通の人間にできることではないかもしれない。それでも、武技(相手を殺傷する技)を用い、相手と対峙するなら、そのような精度を追求する覚悟を持たなければならないと思っている。

 そのような覚悟、技の核心を得るために、身体的な強さに頼ることは妨げになる。私はそのように考えている。ゆえに、身体的に優位にある時であっても、自己を弱く脆いものだと自覚し、丁寧に「技」を他に駆使することが大事なのだ。要するに、私は身体的な弱さを自覚することで技の核心が掴めるのではないかと思っている。

 

 若い頃を振り返れば、私は一撃でブロックを粉砕するような強さを求めた。だが、そのような強さは永遠には維持できない。たとえ一時的であっても、そのような強さを獲得することには意義があると言われるかもしれない。また、永遠に維持できるものなどない。そのように考える向きもあるだろう。しかし、自(我)と道具と他を三位一体とする「技」の追及と理想は、自己存在の本質の自覚につながると思っている。だが、自己存在の本質など、知らなくても良いとほとんどの人は思うだろう。だが、自己存在の本質とは、「他を活かすことができて、初めて自己を活かすことができる」という自覚、そのものなのだと思う。また、その自覚を得ることができた時、人間は自己を掴める。そんなふうに私は思っている。同時に、それゆえ人間は道具を作り、集団を形成し、主義(教義)を掲げて、自他の一体感を強めるのだと思っている。さらに、人間は集団の中で自己の立場を作り、そこを拠り所に自己を確認する。しかし、そのような一体感やあり方は、往々にして自己を疎外する。そのような社会のあり方、社会的自己形成のシステムは行き詰まっているのではないだろうか。また、その姿は、活かしあいではなく、エゴとエゴとの対立、殺し合い(否定し合い)のようにも見える。私が追究するのは、もっと根源的な人間のあり方に立ち戻ることである。

 

 

【サーフィンを例えに】

 

 おそらく、私の言っていることが全く理解されないと思っている。ならば、サーフインを例えに出したい。サーフィンは自己とボード(道具)と波(自然)とが一体となることを楽しむスポーツだ、と私は思う。空手の場合、道具を介在させていないように思っているだろうが、自己と身体を切り離し、その身体を道具として尊重することが大事だ。そのことを理解できるならば、自己を認識する「自」という心がボード(板)を媒介にして、波(自然)という「他」とコミュニケートし、自己の本体の自覚としての自他の一体感を得る。そこに本当の楽しさがあるのだと思う。つまり、サーフィンとは、「道具(他)」と「自(自我)」と「他(自然)」の一体感と同時に自己の本体の実感を得るための技能を追求することなのではないか。つまり、私の考える「他」とは、究極的に自然そのものなのだ。だが、人間と社会が自然ではなくなってきている。そこが問題なのである。

 断っておくが、私はサーフィンをしたことがない。故に、サーフィンが私の想像するようなものではないかもしれない。だが、私がサーフィンを行うとしたら、それを求めるであろうということ意味合いで理解してほしい。また、私が述べたいのは価値観の部分である。そして、私の新しいステージは、武術修練を通じ、その価値を体感することと言っても良い、それは令和時代に誕生した、新しい武道と言っても良いだろう。

 

 

 

 

デジタル空手武道通信第61号 編集後記より

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デジタル空手武道通信 第61号 編集後記より

【昇段審査の総評】

本デジタル空手武道通信第61号に先立って、2022年6月26日の行われた昇段審査の総評をアップした。 

 

いつものことだが、拙く長い私のスピーチであったが、この総評に私の考え方を詰め込んだ(詰め込みすぎかもしれないが)。受審者に伝わったかどうか、不安である。と言いながら、まだ伝え足りないとも思っている。

 

映像を見ると、当日の私の顔はいつもより疲れていた。目の下にクマができていた。最近、調子が良くない。傍目には元気いっぱいに見えるだろうが。映像を見て驚いた。

 

私は毎日、もっと本を読まなければと必死だ。そして、もっと稽古しなければと後悔ばかりしている。これは良くない私の性癖である。焦ってはいけない。1日1日を薄氷を履む思いで過ごすこと。それが大事だと空手から学んだがずなのに…。

 

【私には話す技能が無い】

さて、私は話がいつも長くなる。私には話す技能がないからだろう。私の口下手は幼い頃からだという自覚がある。そんな私が、人の技能の無さを批評するのは恥ずかしい(お前も下手じゃないかという声が聞こえる)。

 

断っておくが、技能の習得を目指すのは、そのことを通じて自己の可能性を広げてほしいからだ。また、自己の可能性を信じて努力することの中に、強さの本質があると思うからだ。さらに、そのように考えれば、強さは自分の未熟さ、弱さを自覚するところから発揮されるものだとも思える。同時に全ての人に強さはあると思うのだ。かくいう私は、自分の未熟さを感じながら作業をしている。また、いつもその未熟さ、弱さを克服したいと思っている。

 

【道場生の努力に】

そんな中、気づいたことがあった。

 

そうか、話す法も「制心」「制機」「制力」だ…。そのためには、より良い基本稽古、より良い型稽古、より良い組手稽古(実地訓練)を反復することだと思う。同時に様々な状況を認識する力の養成、同時にデータベースを構築することだと思う。

 

今回、そんなことを思いながら作業をしている。そして道場生の努力に敬意と責任を感じている。

 

同時に自分の未熟を気にしてはいられないとも思っている。そんな躊躇をしていれば、余計、周りは私を理解しなくなる。故に、たとえ未熟でも自分の思いをストレートに表現していこう、と私は思っている。傲慢にならない程度に…。また、みんなに嫌われない程度にしておきたい。だが…。

 

 

 

 

 

 

 

 

正義と争い

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正義と争い〜世界中の戦争に対し

 

 

 

人間は正義という主張を掲げ

争い続けている

 

正義とは何か

争うことに理由を与えるものか

それとも争うことの原因となるものなのか

 

一体、人間は正義を掲げた争いによって

何を得たいのだろうか

何を得るのであろうか

 

正義とは欲望の隠れ蓑かもしれない

私にはそう思える

そして争いを生み出す基盤は

欲望と正義だと感じている

ゆえに私は正義を疑っている

 

私はもう争いたくない

たとえ、それが自己を生かしめるためであっても

 

一方、戦う(闘う)ことは放棄できない

なぜなら、私という自己の成立は

他に対する反応を基盤とした

心と身体の戦い(闘い)によってなされるものだからだ

そこから逃げては自己が崩壊する

 

その戦い(闘い)によって

私という自己は

これまでバランスを保ってきた

だが、いつも私は傾き続けてる

また、時に倒れることもあった

 

その度に私は立ち上がり

再びバランスを取ろうとしてきた

そんな時、私の意識下にはいつも

自分を信じるのだ、という思いがあった

だが、今、自分を信じることを辛く感じる

 

それは他を信じることが

難しくなってきたからだ

なぜなら、みんな思想が異なるから

だが、他を信じることができなければ、自己を信じることも難しい

ならば、自他を活かす道を探せばいい

 

 

私はもう争いたくない

たとえ、それが自己を生かしめるためであっても

 

そんな感傷的で弱気な奴は組織(全体)の役に立たないと

権力は罵るだろう

だが、それは権力の目的のために

自己が動かされているからだ

だが、その権力はどこから生じたのか

 

 

私はもう争いたくない

たとえ、それが自己を生かしめるためであっても

 

もう権力に従うことをやめよう

そして自己を活かすための価値を

自らが創造し

その価値によって自己を活かしていく

 

そのためにも正義を掲げた争いを疑い

その争いには与しないことだ

そして自他を活かす戦い(闘い)に目覚めることだ

自他の平和を目指した戦いに…

 

 

心一

 

世界中の戦争に対し

 

 

 

 

一人で川面を眺めていたら、遠くから富士山が私を見ていた…ある日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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