Quantcast
Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
Viewing all 480 articles
Browse latest View live

極真空手の偏向〜武道とは何か  その2

$
0
0

【フリースタイル空手プロジェクトの総括】

 誤解を恐れずに述べれば、私がフリースタイル空手プロジェクトを休止しているのは、全面的な見直しのためだ。もちろん、当初は資金不足による活動の困難もあった。だが、本質的な問題は、私が一つ目の課題をクリヤーするために意識した、極真空手人の協力が得やすいようにとの思いに挫折したこと。もう一つは、顔面突きなしのフリースタイル空手競技では、二つ目の課題が解決しないと判断したからである。

 具体的に言えば、フリースタイル空手プロジェクトに協力してくれた人たちのほとんどが「組み技に対処するにはどうするか」「相手を倒す(投げる)にはどうするか」と言うような方向に意識が向かったと思う。

 フリースタイル空手競技を考案した当初、まずもって顔面突きなしの極真空手愛好者に競技を理解、参加してもらおうと考えていた。要するに一つ目の課題の解決を意識していたからである。だが、その期待は無残に裏切られたと思っている。それは、多くの人が私の呼びかけに協力してくれた有難い人たちであったが、ほんの数人ながら、試合に参加し勝者の評価を得たいという、極めて個人的な名誉欲で動いていたように感じた。確立された競技なら、全くもって悪いことではないが、私が構想したプロジェクトは、そのような目的で始めたものではなかったのだ。その意義を理解しない人達を見た時、私は夢から醒めた気がした。極真空手を一つにしたい。空手を一つにしたい。空手人の心を一つにしたい。その思いがとても愚かなことに思えた。これ以上は書かないが、兎にも角にも、極真空手を高めるという理想を追い求めてみたかった。しかし資金も続かず、同志も集まらなかった。私は撤退を決め、しばらくは考えを深めるためにプロジェクトを休止とした(私の脚の血管や腰等に障害があったこともあるが)。その後、研究を進めて行く中で、極真空手の偏向の原因、そして一番の課題は、二つ目の課題にある確信した。

 

【極真空手の原点に立ち戻り】

 端的に言えば、まずもって、極真空手のような競技法をむやみに続ければ、やがて「間の理合」や「機先を制する」意識が希薄になって行くだろう。そのような感覚、そして認識では、より正しい判断など望むべくもない。そこで、私は武術、そして極真空手の原点に立ち戻り、修練法を再構築したいと考えた。ただし、極真空手の基本には空手術の原点的な技が残されている。また、中国武術や日本の柔術、柔道、鎖鎌まで、またムエタイやボクシング、レスリングまで、古今東西、様々な格闘技術(武術)が極真空手には取り入れられている。そのことは大山先生の武術に対する熱意と努力の賜物であり、極真空手が武道として飛躍する可能性の核だと思っている。だが、その核を我々門下生はなおざりにし、かつ活かしきれていないてだけだと思う。私はその極真空手の核を活かし、極真空手を再構築したい。

 

 極真会館が分裂したことの原因は、大山先生にもあるだろう。だが、私は師の恩に報いるためにも、方向性はただ一つ、極真空手の修練体系をより高めていくことだと見定めている。もしかすると、そんなことより門下生を増やせと言われるかもしれない。しかし、そんなことを言っているから、極真空手の門下生は喧嘩をして分裂した。これからもそれは続くに違いない。私はそんな生き方はしたくない。生意気だが師には許してもらいたい。極真空手を基盤にその根を深く張り、かつ枝葉を伸ばし、この志を残しておきたい。これ以上、言葉で説明することは機会を待つ。私は、そのことをようやく理解できた。そして、私が考える極真空手の一つ目の課題の解決法としてのフリースタイル空手の創設は心に秘めることとする。一方、極真空手の二つ目の課題の解決に注力したい。そして、心眼が拓かれた、一人でも多くの武道人を育て、仲間となっていきたい。それが拓心武道(メソッド)を確立し伝えることだと考えている。さらに私の理想とする空手武道について以下に述べておきたい。

 

【私が考える武道〜本当の強さの追求】 

 私が考える拓心武道における各種理法とは、剣術のように「刀剣(日本刀)が身に当たれば斬られる」という意識が前提にあってこそ、理解できる。また、刀剣(日本刀)という絶対的な道具を前提としなければ理解できない。

 

 一方、極真空手の技には日本刀のような絶対性はない。その代わりではないが、「打たれ強い」の肉体と精神の獲得がそれに変わっているように思われる。また、その面が極真空手の「特色」、かつ「良さ」「強さ」となっている。だが、その面によって、大事なことが忘れ去られているように思う。確かに極真空手の競技者が有する肉体的なスタミナや打たれ強さ、そして技の破壊力は凄まじい。だが、人間の肉体は絶対ではない。個人差もあり、老いもある。私は、それら肉体の強さが本当の強さなのだろうか、と疑問を持っている。また精神面から見ても同様である。私は武道という究極の境地を目指す修行の到達地点は、そのような「強さ」ではないと思っている。武道が目指す「強さ」とは、もっと高次の強さであると思っている。

 私は拓心武道を通じて「本当の強さ」を追求していく。「本当の強さ」というような極めて抽象的な概念を言葉で伝えることは困難である。私は、しなやかで強固、また絶えず変化しながらも、本質は変わらないようものだと直感している。それを精神というと違う気もするし、感覚といっても違う気がする。おそらく、それらの概念よりも、さらに根源的な事柄、領域の働きだとの推論を持っている。不適切ながら、あえて表現を試みれば、精神と身体を繋げる領域の働き、仮に本体の働き、と記しておきたい。

 

 最後に、日本武道と言えるものは、技の修練において理合(拓心武道では理法、道筋という)の体得を目指し、本当の強さの境地に到達すること。同時にその「御-地(み-ち)」への到達を目指す道筋、修練を武道というのだと考えている。

 

 そのような武道は術の探求をゆるがせにしないだろう。そして鍛錬ー研鑽ー求道を一体とする修行の中には、人間形成の力があると思う。気をつけなければならないのは、修練のための試合を勝利を求める競技としての面だけで捉えるならば、道から逸れる可能性は高い。だが武道の修練とは、すべからく事理を照合し一致させるべき修行だ、と捉えるならば、人としてのあり方、生き方と繋がるような修行となるだろう。また、その事を体認させることが、武道における人間形成と言っても良い。私は、理合の修行と術の探求により、心の眼が拓かれ、その輝きが増すような武道を創りたい。


小論を書き終えて

$
0
0

【小論を書き終えて】

 

 これまでの歩みを大まかに振り返り「極真空手の偏向〜武道とは何か」という題で小論を展開した。言葉足らずの部分があるかもしれない。すぐに見直したい。ここでもう一つ、書き添えておきたいことがある。武道の修練とは、とってつけたように人間形成を言うのではなく、事理を照合し、一致させる修行であるはずだ。そして、その修行を通じ、武の理法が人間の理法、すなわち人としてのあり方、生き方と繋がっていると体認させることが武道本来の人間教育の在り方だと思う。

 

 だが、武道の修行を行うにあたり、礼法、礼節、道徳を形式的でも良いから教えることは、武の道への到達の近道になるかもしれない、とも思っている。なぜなら人間の理法であれ、武の理法(拓心武道)であれ、それを真に理解するには、まず持って心構え(意識)ができていなければできるものではないと思うからだ。私は長い間、説教臭いことはしてこなかった。だが、これまでの修練法と異なる、顔面ありの武術には、必ず理法の習得が必要だと考えている。逆に言えば、顔面ありでなければ、否、武術を前提とする修練でなければ、人間の理法は、ただの雑音になる可能性が高いと言っても良い。

 

 始まったばかりの拓心武道の修練において、「理法」の体得とその修行により、道場生の心の眼が拓くことを期待したい(ただし、心の眼を拓くには、先ず以って、周りの価値観に左右されない独自の価値観への希求が必要である)。心の眼を拓くとは、自我を見極め、かつ自他との関係性を見極めるような認識を得ることと言っても良い。言い換えれば、たゆまぬ自己の更新、かつより高次な自己を確立していくことだ。そして、その手段となり得るものが、本当の武道だ、と私は考えている。

 

【我が空手修行を振り返ってみれば】

 ここで我が空手修行を振り返ってみれば、そもそも人間の肉体には、刀剣に対する打たれ強さは無いに等しい。その代わりと言ってはなんだが、刀剣に対峙する修行は心が研ぎ澄まされるように思う。ただし、修練者の認識と手法、そして目的に邪心、偏向がなければの話だが。

 要するに、刀剣に対する肉体的な打たれ強さの獲得が不可能だからこそ、剣術の修行においては、その一撃をもゆるがせにせず、その事に対峙しなければならないのだ、と私は考える。さらに、そのような心構えから「撃間(うちま/打ち間)の理合」「機先を制するための理合」などが志向されるのだろう。また、刀剣(真剣)との対峙は、人間の心の弱さを実感するがゆえに心法(心の理法)の開拓にも貢献したに違いない。そして長い年月の中、剣の達人達の誕生とその功績により、より善い剣の活かし方、そして「剣の道」が創出されていった。だが剣の道も空手の道も単なる競技試合の勝ち負けを喜んでいるようでは、道の体得はできないであろう。そこが非常に重要である。

 

 現在、我が極真会館増田道場では、コロナ対策も兼ねて、新しい組手法を実施している。そのことによる、理論の修正や更新、さらに指導法の確立が急務だと思っている。それはさておき、更新という作業は重要なことだ。わたしは、たゆまぬ更新作業こそが、物事を継続して行い、かつ高めていくために重要なことだと考えている。更新作業、プロセスを経ていない事は、惰性の産物でしかなく、低いレベルの創造物でしかないだろう。

 

 あえて誤解を恐れずに言えば、長年にわたり、鬱陶しく思っていた霧を除去されたように、今私は感じている。また、かなり遠回りをしたようにも思うが、「間の理合(間の理法)」と「機先を制する理合(機先の理法)」はあらゆることに通じるように思う。それを知るには、繰り返すが、顔面突きありの組手修練が最低限必要である。  

 

 断っておくが、理想の境地への到達は、はるか遠く感じる。しかしながら、最低限、それらの理合の体得を志向して、初めて武術の基礎ができると考えている。さらに武術から得た技術と技能の思想を人生に活かすことができると思う。それを実践することで初めて、武の先達の志向した「みーち(御ー地/御地)」、すなわち「道」が見えてくると思う。

 

【心眼を拓く】

 

 もう一つ、拓心武道には、抑えておいて欲しい概念がある。それは「制心」「制機」「制技」という三つの鍵概念である。「制する」ということは「我がものととする」という意味合いだが、鍵概念の核心をより理解する簡単な方法がある。それは、「制する」ということを「活かす」という意味に理解すれば良い。つまり、「心を活かす」「機を活かす」「技(体)を活かす」という具合だ。月例試合の合間にもそれについて語った。おそらく子供達は目が点になっていたかもしれない。もちろん子供達には上手くなったと良い点を褒めるにとどめた。だが、60歳を超えても精進を続ける、立派な壮年部の黒帯の方々に、上から目線ではなく、理想を追求する私の武道哲学を知ってもらいたかった。ゆえに熱弁をふるってしまった(ややこしいことを述べてすみません)。  

 

 また、拓心武道の核は「本当の強さを発揮する」そして「心眼を拓く」ということである。補足すれば、心眼は開くではなく、拓くということ。なぜなら、心とは物事を認識するための基盤であり、それを偏らせることなく開拓し続けることが大事だという意味合いがあるからだ。つまり、わたしのいう心眼とは心と身体を一体とする「身(み)」の上位に備わるものだ。つまり、心眼の体(基盤)は心と身体であり、その基盤としての「身(み)」による認識、判断能力を心眼としている。また、その中心(核)には人間をよりよく活かす良知良能のような力がある、と私は直感している。それが自分自身の本体である。

 

 最後に、小論でも少し触れたが、空手は剣と違い、絶対の道具を基本としない(ただし拓心武道は、道具を用いることを想定しているが)。だが、腕が二本、脚が二本(通常は)と多数の道具を有し、かつそれらの道具は剣よりも柔軟である。ゆえに、多様な変化の可能性を有するのだ。一方、それゆえ技術や技能の深奥を掴みにくいとも言える。しかし、だからこそ面白い。その面白い武術を深め、かつ高めたい。それが私の理想である。

 

 

昇段審査の前に〜極真会館増田道場生へ

$
0
0

 

 

【極真会館増田道場生へ】

 

 

 以下にYouTubeチャンネルにアップした映像と添え書きを載せた。明日の昇段審査を前に、極真会館増田道場の黒帯に急ぎ伝えたく、本ブログに掲載した。

 明日は緊急事態宣言発令化での昇段審査である。無事に終えられることを祈りたい。また細心の注意をもって臨みたい。

 

      

 

【YouTubeチャンネルの添え書きより】

 

  本映像は状態が良く無いので撮り直します。また未撮影の形もあります。 

1〜23:応じの形 

24〜30:仕掛けの形 

31:合撃の形(先々の形)  

 

 本映像を見て、拓心武道の組手形に含まれている理合を瞬間、かつ正確に理解できる人は、すでに武道体得の土壌ができている人です。また、極真会館増田道場で五段位を必ず習得できる人だと思います。 

 一方、この映像を見ても理合(間の理合、先の理合、位置取り)の理合が理解できない人は初段も怪しい。また増田が観ている武道を認識するレベルでは無いと思ってください。  

 是非、極真会館増田道場の黒帯の誇りと自覚がある方々には、認識を更新して欲しいと思います。増田は、今一度、極真空手を見直し、これまで無いに等しかった「理念(理想の在り方)」を打ち立てます。そして、これまで数十年も封印してきた技を、理念実現のために活用します。 ただし、私の技は未だ未熟です。しかし目指すものは「道」です。未熟なら未熟を受け入れ、更新し続ければ良いのだと思っています。また、それこそが道だと思っています。

 

【道とは】

 私が定義する「道」とは、「理念(理想の在り方)」そのものであり、かつ理念実現を目指し、その道筋を探し求めていくことです。また「理念実現の体系(地図)」のようなものでもあります。ゆえに武道とは、決して人間における一時の強さを求めるものでは無いと考えています。そのような考えの人は、道という概念を生み出した土壌、風土、そして日本の文化・思想をよく理解されていない人達です。

 

 蛇足ながら、私にも一時的な身体の強さはあったように思います。しかしながら、今の私の身体にはそのような力はありません。だからこそ心身を活かす道が見えるのです。そして本当の強さというもののイメージが浮かぶのです。拓心武道はそのイメージを具現化するための試みであり、老い、そして滅びゆく人間の永遠への挑戦なのです。これ以上の理論は、いずれまとめまたいと思います。

 

 最後に、拓心武道の指針とは何か。それは人間に成長と幸福をもたらしてくれる根源的な力を実感すべく、日々精進すること、と言い換えても良いと思います。

 

【補足】

文法が大事

 ●この基本組手形は、言語体系で例えれば、文法を学ぶためのものです。一般稽古では教えません。まだ教えられる指導者がいないからです。また、一般稽古の修練カリキュラムでは単語を覚えたり、発音を学んだりすることを基本とするからです。またリスニング能力をつけたり、簡単な会話ができるようになることを主とします。 しかしながら、拓心武道修練の目指すところは、高度な議論のような組手です。ゆえに文法ができないと、論(戦略)を構築できません。これからは、上手に修練カリキュラムに導入していかなければならないと思っています。まずは、有段者の更新が必要です。

 

 現在、コロナ問題で大変ですが、そのおかげで、拓心武道の修練方法を急ピッチで構築することができます。完成するには、もうしばらく時間が必要です。いずれ、コロナ問題が落ち着いたら講習会で伝えます。それまでは、デジタル空手武道教本で自習してください。

 

 

 ●修練用語のわからない道場生はデジタル空手武道通信の用語辞典で覚えてください。

https://tx.masudakarate.com/用語/機先の理法〜三つの先/ 

 

https://tx.masudakarate.com/用語/間の理法(間合い)/

 

 

 

 

心の外に刀無し〜親愛なる道場生へ

$
0
0

   

  良い審査会だった。皆の成長が見られた。秋吉師範代に感謝したい。いつもありがとう。閉会の総評で、嬉しさのあまりに正直な思いを吐露してしまった、60歳近くにになっても、高校生の頃のままだと、自分の青臭さが恥ずかしい…。

 

 

 閉会のスピーチでは、あえて武道を強調している。現在、わが道場の修練形態はスポーツとは全く異なる。実は、現在の増田道場の修練形態は、極真空手の基本と型だけを残し、ここ1年でがらりと変わった(組手法だけが変わったのだが、意識が変わったと思う)。また、以前の修練形態は、スポーツ的だった。もちろん、そういえば語弊があることは必至だろう。また、決して巷で言うところの「スポーツと武道は別物で、武道の方が素晴らしい」というような論に、私が与しているわけではない。ゆえに、以下のことを述べておかなければならない。

 

 スポーツと武道、「ゲーム(競技)を基盤とするもの」と「武術(戦闘技能と技能養成)を基盤とするもの」としての違いはあるだろう。だが、それぞれの核(中心)の部分に、スポーツは「自他の関係性を楽しむこと」武道は「自他の関係性の中にあって、信じ抜ける自己(心身)を確立すること」という理念がある、と私は考えている。そのように考えれば、現代社会においては、非常に親和性が高く、協働できると思っている。なぜなら、スポーツと武道、その核に内在すると思われる2つ鍵概念、その両方を体認する能力のある人間が幸福と自由を実現し、かつ享受できる、と思うからだ。そして、そのような人間が増えることが社会に益をもたらすと思うからである。

 

 本日、わが道場生の頑張る姿を見て、いつか私の考えを理解する人が出て来ると、ほんの僅かながら期待している(早く、親御さんにその姿を映像で見せたい)。

 

 繰り返すが、自他の関係性の中で、自己を生かし他者を活かす。それが武道の究極である。幕末、剣と禅を究めた山岡鉄舟という武人の言葉に「心の外に刀無し」というものがある。不遜だが、先達の感得したことを、さらに推し進めれば、「共に在ること」を実感し、真に不動の自己を確立すること。ここでいう不動の自己とは、決して変化しない自己ではない。むしろ、絶えず変化しながらも、変わらない自己である。(言葉で表現すれば、論理的に矛盾するが…)そして人類の平和共存を希求し、その実現に努力する「叡智」の顕現が武道の理念に内在していなければならない。そして、それはスポーツの理念でもあると思う。現在、日本武道は迷路の中だ。もう一度原点に立ち戻り、理念を育てて行きたい。私は、そのことを伝えるために、今、あえて武道を唱えている。

 

【蛇足】

総評が五分を超えてしまった。最後、心の中で「巻き」を出した(笑い)。いつまでたっても駄目な私である。

みんな、ゴメンね。

 

 

 

 

 

 

独言〜戦い(組手)の理法 2021年2月26日

$
0
0

 

 私は組手稽古を行う際、これまでの経験、研究の中から導き出した、戦い(組手)の理法(原理・原則)を活用している。否、私にとって組手稽古は原理・原則通りに動く事,、かつ原理・原則を見つけ出す事である。また原理・原則を検証する作業でもある。

  

 これまで見てきた空手家、門下生のほとんどが、相手に勝つ事、また負けないことを強く意識していたように感じる(何も考えていない人も多いように思う)。だが、それは低い志、低い次元の意識である。そこに技術はあっても技能はない。

 技能とは原理・原則をより善く実践する能力だ。ようやく理解できた。武術であれ、格闘技であれ、本来、技術を磨くものであるのみならず、技術をより善く運用する技能を体得、磨くものである。だからこそ、より高いレベルの技能を発揮するために、より高い技術の獲得が必要になる。やがて技術と技能が窮まり、自他一体の境地を悟る時、「無念無想による戦いの理法」が措定される。それが斯道の達人の境地であろう。

 

 今一度、原点に立ち戻りたい。我が組手修練は、勝つことを目指すことでもなく、負けないことを目指すことでもない。それは、原理・原則を踏み行い、かつ新しい原理・原則を導き出す訓練である。そして、その訓練の中から、自分自身を信じ抜くための叡智と自尊心を得ることを真の目的としたい。もし、勝つ、負けないとの意識が必要だとしたら、それは迷いが生じた時のカンフル剤ぐらいの程度だろう。

 

 今、自らに尋ね、言い聞かせる。お前は原理・原則と一体化することの心地よさが想像できるか。できるなら、先ず以って、原理・原則を踏み行え。お前が求めている、道を楽しむとは、そういうことなのだ。

 

 だが、皆が私の直感に共感しなければ、私の周りには人がいなくなるかもしれない。だが、仮にそうなったとしても、一人ぐらいは私と一緒に道を求める仲間はいるはずだ。その一人とやると思えば、不安は消え、そして私は私の直感を信じることができる。


 

道場生の皆さんへ〜組手稽古における原則について

$
0
0

 

 

【間と制空域(制空領域)】

 

 極真会館増田道場の修練で最も重要なことは試合修練です。ただし、試合を単なる競い合い、出鱈目に行うことはしません。あくまで試合は、空手の基本修練と応用修練を車の両輪のごとく機能させ、武道の本義である、相手攻撃を防ぐ技能と相手に攻撃する技能の体得を目的とします。そして、その修練を人間修行に転じることが極真会館増田道場の空手武道です。

 

 さて、その組手修練を行う際、大事なことをお伝えします。まずは、相手との「間」を考えましょう。

 

 「間」とは、相手との空間的な間(距離)のことです。ただし、「間」には心理的な間、また時間的な間もあります。基本となるのは、空間的な間です。空間的な間とは、自分の突き技が一歩の踏み込みで確実に当たる距離とです。ただし、空手の場合、蹴り技もありますので、自分の蹴り技が確実に当たる間もあります。それぞれを突きの撃間(つきのうちま)、蹴りの撃間(けりのうちま)と呼びます。2つの撃間を理解したならば、次は自分が自由に攻撃できる空間(エリア)を理解してください。拓心武道では、自分が自由に攻撃を行える空間を「制空域(制空領域)」という修練用語で表します。

 

 実際の組手では、先ず以って自分の「制空域(制空領域)」を理解してください。その上で、相手が「突きの間にあるか、蹴りの間にあるか」、また自分が「突きの間にあるか、蹴りの間にあるか」を判断してください。

 

 そして、いざ戦いが始まったなら、相手が自分の「制空域(制空領域)」に近づいたら、直ちに自他の間合いを判断し、防御および攻撃を行えるようにしてください。その際、相手の突き技を予測するか、蹴り技を予測するか、また自分は突き技で応じるのか蹴り技で応じるのかを考えられるようになってください。その際、反撃の突き技や蹴り技には、それぞれ特性や個々人の得手不得手を考えて、自分にとって最善の技と戦術を選べるように心がけてください。その判断と選択の経験を積む中で、技能が体得されるのです。また、組手試合の経験を吟味(検証)することで、どんな攻撃技や防御技が必要かがわかってきます。そうなることが上達です。

 

【機先の原則(理合)】

 次に時間的な間についてですが、これは機先の原則(理合)を理解してください。機先の原則とは「仕掛けの先」で応じるのか「後の先」で応じるのかということです。「仕掛けの先」とは相手が技を仕掛ける前に技を仕掛ける攻め方です。通常「応じ」とは「後の先」の攻めを言いますが、組手修練そのものが、自他の認識を前提とする「応じ合いの修練(対応力の修練)」です。ゆえに、大きなくくりでは組手とは相手との応じ合いであり、ゆえに仕掛け技で攻めることも「応じる」と言っても良いのです。

 より重要なことは、相手をより正しく、かつ迅速に認識すること。そして、その認識により「勝」を制することのできるように戦うことが肝要です。言い換えれば、状況に応じて、最善の選択と実践(行動)ができるよう心がけることが、最も重要なのです。そのことを了解した上で「仕掛けの先」で応じるのか、「後の先」応じるのかを自分とで決めるようにしてください。

 

 ここで「後の先」の攻め(戦術)について、少しお話しします。「後の先」の攻めとは、相手の仕掛けに対し機先を制し、防御技によって相手の攻撃を弱体化してから反撃する戦術です。伝統的には先手必勝とばかりに、仕掛けていくことが弱い人の戦法として考えられていますが、むしろ後の先の戦法の方が弱者の戦術だというのが増田道場の考え方です。ただし、自分を安易に弱者強者と決めてしまわないで、「仕掛けの先」「後の先」、両方の戦術を試し、戦い方の原則と理法を学んでください。なお、後の先の戦術には、足さばき、体捌きをよくして、位置取りを正しく行い、防御技と攻撃技を用いるようにしてください。なお、足さばきがよくないと、より良い防御技と攻撃技の使い方ができません。ただし、ここでいう足さばきとは、何も早く動くことではありません。また、飛び跳ねるように動き回ることでもありません。このことは少年部には難しいかもしれませんが、実は無理のない自然な足さばきで戦えることが、最も優れた境地です。

 

 最後に、「仕掛けの先」「後の先」の戦術の原則を体得するために、基本組手形があります。出鱈目に組手稽古を行うのではなく、基本組手形をまず習得したのち、また基本組手形を学びながら、組手を行うなら、組手技能の体得は早まります。一方、何も考えずに、目先の勝ち負け、また相手に技を当てることを考えているようでは、上達は一定のところで止まるに違いありません。

 

 増田道場では、組手修練における技能体得を幹にしています。そのために深く根を張るように基本技の修練と掘り下げを行い、かつ、その精度を上げていくのです。

 

 以上、少年部にもわかるように簡単に説明しましたが、組手修練とは、勝つことを目指すことは当然ながら、ただ勝てば良いということではありません。

 

 最後まで、勝つための道筋がないか、探し求め全力を尽くして戦うことが基本です。そして、そのような過程、修練を通じ、戦いの技能を体得することが極真会館増田道場における空手武道の修練なのです。

 

 さらに、技能の体得の過程において、自分を信じる力を涵養し、かつ善く生きるための叡智の井戸を掘っていくことが、我々の目指すところです。

 

 

組手理論について(拓心武道メソッド)

$
0
0

組手理論について (デジタル空手武道通信 第47号の巻頭言より)

 本道場では、組手理論の理解と構築を重要と考えます。ここでいう組手理論とは、組手修練を行うための基盤となる原理・原則を言葉・概念で纏めたものと言っても良いと思います。空手武道における原理・原則とは、身体感覚と身体運用法であり、単なる言葉で表すことは難しいと思います。しかしながら、言葉・概念で表すことも可能です。言い換えれば、理論とは身体感覚や身体の運用法を言葉で理解するためのものだと言っても良いでしょう。

 

 しかしながら、理論とは仮説です。もちろん仮説ですから反証可能性はありますが、だからこそ吟味、かつ高次化することが可能となるのです。空手武道の組手修練の命題は、相手の攻撃から自己を護り、相手を弱体化、または無力化、さらに制圧する技術と技能を体得することだと思います。

 

 そのような命題を解くためには、理論を打ち立て、それを活用することが有効だと思います。補足を加えますと、今日における空手の組手修練は、時に未熟な審判を立て、審判の非常に主観的な視点に全てを委ね、優劣を認識するだけのものとなっています。そのような行為には、普遍的な理論ならびに高次の技術や技能は生まれるはずもありません。なぜなら、理論の構築には、事実を厳密に掘り下げるような視点と考察が必要だからです。

 

 さらに言えば、空手武道の本質である武技のやり取り、その行為を極めるには、本来的には審判に判断を委ねるような感覚があっては駄目です。あくまでも自他の関係性を自らが判断、決定、制御しなければならないのです。それが武道の原点です。

 

 ゆえに極真会館増田道場の空手武道修練は、スポーツから取り入れた訓練法があったとしても、スポーツとは異なります。その違いは、原理・原則、そして概念が異なるという点です。ただし、空手武道の原理・原則の中に、スポーツ競技の原理・原則との共通点が見られるかもしれません。しかしながら、あくまで空手武道の試合並びに審判とは、各々の身体感覚と身体運用法、すなわち技能を養成するためのサポート役です。私はそう考えています。また、スポーツとの共通点を了解するのは、あくまでも空手武道の独自性を認識するための手段です。そして、空手武道を己の個性と一体化すること、すなわち「我が物」とするためです。

 

 また本道場では、実技の習得、技能の習得を目指すのみならず、空手武道の理念を掲げます。理念とは「理想のあり方の追求」と言い換えても良いものです。本道場は、理念を念頭に、独自の作法を始め、各空手技術の概念を明確化します。

 

 本デジタル空手武道教本に収められている修練用語(修練用語辞典)とは、組手理論を理解するための概念を理解するためのものです。また修練のみならず修道とは、それの用語を理解することから始まると言っても良いでしょう。言い換えれば、用語を理解しようとせずに組手や試合を行うのは、競技を楽しむことを目的とするスポーツよりも理論的、かつ文化的ではありません。あえていえば、エネルギーの発散にしか過ぎないと言っても過言ではないでしょう。

 

 最後に、組手の背後にあると考えられる原理原則を理解し、仮説としての理論を学ぶ、あるいは再構築していくこと。そのような修練と修道の過程において、自己の成長と更新を実現することが、拓心武道の説く、空手武道哲学でです。

 

 

 

 

理論を学ぶことの意義(第47号 編集後記より)

  理論を学ぶことには効用があります。ただ体験、すなわち身体を動かすだけでは、より良い結果を得ることができません。また、一時的に望ましい体験の結果を得たとしても、そのことがかえって将来的に災いをもたらす原因となることもあるでしょう。

 

 より善い体験というのは、結果を漠然と受け取るのではなく、結果とプロセスを振り返る作業(吟味)がなければならない、と私は思っています。そして吟味による理論(仮説)を次の行動に活かしていくことが大事だ、と考えています。

 

「今日、失敗しても、明日は成功したい」と思うなら、理論を学ぶことが役立ちます。なぜなら、無駄な経験を避け、よくない選択を回避する能力が身につくからです。もちろん理論は絶対ではありません。あくまでも仮説の一つにしか過ぎません。

 

 しかしながら、理論に照らせば、「結果の予測」「事実をより正しく理解する物差しを得る」「無限とも思える現象を整理できる」「成功への仮説を生み出す」ことが可能となります。さらに言えば、 そのような自らの体験をもとに考える力を養成することが成功よりも大切なことだ、と私は考えています。

 

 最後に、原理・原則を体得し、それを実践する能力を身につけること。その先に「道」があると思っています。以上が、極真会館増田道場における空手武道修練であり、拓心武道メソッドの考え方です。その拓心武道メソッドはTS方式の組手法でしか実現しないと思っています。

 

 

2021年4月2日:一部加筆修正 

わずか3手先を読むだけ〜拓心武道論 その1

$
0
0

わずか3手先を読むだけ〜拓心武道論 その1

拓心武道メソッドに関する小論をかいた。重要点はその2だ。まずは序文として…。

 

 【組手は相手と対話するように】

 空手修練における組手稽古は「相手とのコミュニケーション行為だと考え、独りよがりにならないように…」。また、「組手は相手と対話するように」と門下生に伝えてきた。だが、そのことの本当の意味が門下生に伝わっていないということが明確になった。もし伝わっていたなら、顔面突きあり組手も難なく順応はできるはずだ。もちろん新しい組手法には新しい技術の習得が必要なので、その習得に少し時間が必要だということはわかっている。

 

 【武道修練のためのOS】

 冷静にみれば、何十年も顔面突きなしの極真カラテと並行、て他の空手や格闘技を研究してきた私と門下生の情報量や技能は異なる。PCに例えれば、データベースや処理能力などが大きく異なるに違いない。だが、その代わりに、手探りの修練を行ってきた私と異なり、わが門下生の修練方法は、ガイドされている。具体的には、組手を行うための攻撃技術のみならず防御技術が整理され、かつその使い方が組手型によって示されているということだ。さらに私は、防具組手の修練をより効果的、かつ効率的に行うために、独自の防御技術も考案した。補足すれば、組手型とは戦いの局面の原則を習得するための手段である。実は、若い頃の私が欲しかった、武道修練のためのOSと言っても良いものを創出しているだけだと言っても良いかもしれない。そして、私がOSと例えるものが拓心武道メソッド(増田式空手武道メソッド)だ。現在、それを極真会館増田道場の修練体系に組み込もうとしている。ただし、完成には数年の時間が必要だろう。現在、更新と改良を加え続けている。

 将来、そのOSによって、手探りの格闘技修練の困難さが改善され、誰もが短時間、かつ、容易に複雑な武道修練を行えるようになる、と私は楽しみにしている。もちろん、そのOSには、今後も多様な武術修練ソフトを加えていくということも想定されている。つまり、システムも進歩、成長していくのだ。

【自分自身の見直し】

 ここで私は、極真方式の組手でも実践していた「対話のように組手を行う」ということの再考を門下生に促したい。もし、そのことの意味を真に理解したなら、新しい組手への順応も時間の問題で解決する。現に、それを理解しているものの上達は早いことが実証されている、と言っても過言ではない。ゆえに、うまくできないのは、私の教えを理解していないということの証明なのだ、と思っている。ここで一つ問題があるとすれば、新しいこと挑戦する際に必要な物事の見直しが面倒だということである。なぜなら、新しいことに対峙するということは、それまでの自分に対峙しなければならないからだ。要するに新しいことに対峙するということは、自分自身の見直しを迫られる。そして、「自分自身の見直し」には、他者の眼を持ち、自他の本質を考える想像力が必要だ。それには概念や論理と言った道具が必要である。その道具をもち、新たに使おうとすることが大変なのである。

 

【自己と対峙すること】

 現在、かくいう私も自分自身の見直しを迫られている。そして自分の未熟を痛感している。同時に新たに成長、進歩する可能性も見ている。

 私は「自己と対峙すること、そこから始めるのでなければ、自己の成長、そして自己の創出、確立はできない」と考えている。自己との対峙は、まず他者との対立から始まる。そして他者からの逃避、他者への反抗、他者への同化、などの反応が生じる。その反応を掘り下げることが、本当の意味での自己との対峙、同時に他者の想像だ、と私は思っている。私はいつもそのようなことを考えて生きてきた。そして、他者に対する自分自身の反応に苦しんできた。

 話は大仰になるが、私は他者に対する安易な反応を受容する者は、個の意志を喪失した民衆(大衆)であり、個ではないと思っている。さらに、ここで私は共産主義と資本主義とを比較するつもりはないし、どちらが良いとも言わない。しかしながら、大衆を動員しようとする点では、どちらも同じだろう。そして、そのような大衆動員のシステムは恐ろしい。私は、多様な集団形成なら人間社会に必要なことだと是認しつつも、これからの時代に必要なのは、新たな個の創出だと思う。また、日本の新時代に向けて、有用な個の創出という目標を掲げるなら、古の武人が有していたと思われる強烈な自負と感性が必要だと思っている。その自負と感性を引き出すことは難しくない。日本武術の精神が残っている武道の修行をすれば良いだけだ。だが、ほぼ消滅しているだろう。私は、集団で力をあわせるにしても、もっと個の力を活かす社会システムに戻した方が良いと考えている。そうすることが、古典的な言葉で言えば、鎮護国家、新しい言葉で言えば、高次の共生社会の実現に近づくと思っている。

 

【軽く組手を行うということが重要なのでは無い】

 わが門下生に対し、もう一度言う。軽く組手を行うということが重要なのでは無い。相手(自他)と対話が重要なのだ。そして、顔面突きという急所攻撃が無く、また技や技能の良し悪しがわからない従来の組手法では、そのことが伝わらなかったと考えている。補足をすれば、顔面突きありの組手でも、「相手と対話するように」と言うことを意識しなければ、ただ「独りよがりなどつきあい」となる。私はそうならないように枠組み(処理ルール)を作った。それがTS方式なのだ。

 もう一つ、現在、わが空手道場は極真空手の原点、護身武術としての原点に立ち戻ろうとしている。そして修練、稽古方法に若干の改訂を加えている。具体的には武器術を修練に加えると言うことだ。ただし、まずは顔面突きありの新しい組手法を習得してからである。その後、有段者対象に武器術を

。その意義は、使うためというより、武道の心を理解することにあると言っても良い。

 

【極真空手の原点は武術空手】

 考えてみれば、極真空手の原点は武術空手だ。だが、そう考えない人もいるに違いない。また、当の大山師範にも曲解するな、とお叱りを受けるかもしれない。だが、今こそ武術空手、そして武術を武道空手とする時代だ。なぜなら、武術の修練者を人間として高次化していくシステムが武道であり、そのような武道が必要な時代だと思うからだ。ただし、本物にしなければならない。もし大山師範が存命ならば、あらん限りの智力と能力を発揮して説得する(大山師範は亡くなる直前、有段者の修練内容に自分が習得した数々の武術を加えていた。時代の空気が変われば、考えもさらに変わったはずである)。

 

 ここで少し脱線すれば、私が新しい試みを行うのは、空手武道には、まだ新しい価値を生み出す力があるからだ。だが、すでに空手には十分な価値があると思っている人達が大勢いるのだろう。だが、私はそのようには考えない。そのように考える者達は太った〇〇○○と言って良い。下手な例え、かつ下品だが…。また、武術、武道家は死ぬまで、狼のような野生を維持しなければならない、と私は思っている。だが、かつて日本に生息したいたが絶滅した狼と同様、真の日本武術、日本武道は絶滅してしまったのかもしれない。これも下手な例えだが…。

 

【変革の手始め】

 話を戻せば、今、極真空手の変革を行わなければ、武道と言えるものとはかけ離れたレベルのものしか残らないだろう。また、さらに分裂を繰り返し、内容の薄まったものしか残らないはずだ。わが道場も、健康維持やスポーツ的に空手道を行う人達も受け入れてきたので、道場方針の急激な変革は、ついてこられない人が出てくるかもしれないとの懸念もあったが、覚悟は決まった。安全面では問題ないし、明確な武道としての方向性と修練体系の骨格が見えている。ここは腰を据えて、長年の懸案事項だった原点回帰、そして変革を断行しなければならないと思っている。なぜなら、これまでより良い武道が生み出せると思うからだ。もちろん、一般の道場生にはなるべくわかりやすいガイドをしたい(変革の提言は、10年以上前、拙著フリースタイル空手でも行っているが、リニューアルして、再スタートしたい)。

 

 その変革の手始めが、防具を使った顔面突きありの組手修練である。防具を使うといっても、軽量で動きやすい防具を使っているので、打撃技のみならず倒し技なども自由に行える。まずは、打撃技の修練からだと考えているが、その打撃技も古臭い打撃技のみならず、ボクシングやムエタイ、古流空手、中国武術の技も取り入れ、使うことも可能な自由な形式のものだ。ただし、当面、他流の人たちと競技などするつもりはない。なぜなら、自分の門下生の技術と技能を高めることが先決だと考えているからである。それにも関わらず、わが門下生はその意味をよく理解できていないように感じる。もちろん、一部の人たちは熱心に取り組み、徐々に理解し始めている。だが不十分だ。私は新しい試みについて来ている門下生の気持ちや期待に応えるため、理論の完成を急がなければならない。

 

その2に続く

 

以下:5月25日(日)第5回月例試合の参加者と共に

 

 

 

 

 

 

 

 


わずか3手先を読むだけ〜その2 ヒッティングとは何か? 

$
0
0

わずか3手先を読むだけ

 

【ヒッティングとは何か?〜新しい組手法について】

 さて、ここで新しい組手法について述べておきたい。「ヒッティング」ことTS方式の組手法を行う際に了解しなければならないことがある。それは、組手において「顔面突きのみならず全ての攻撃技を「受ける」、また「かわす」などの防御技を使い、無力化、または弱体化させ、同時に攻撃技を相手の隙(スペース)向けて当てる。ただ、それだけである。だが、そのことを原理原則として理解してほしい。

 もう一つ重要な原則がある。攻撃をしたらすぐに防御の準備をする。防御したら即攻撃(反撃)を行うということを守ることだ。そして、その原則を了解し、その原則(ルール)を実践しようと心がけて組手を行って欲しい。そうすれば、おのずから組手を観る眼が養われ、組手の技能が身につく。だが、ほとんどの人が先述した原則の了解と実践を理解していない。ゆえに言葉を紡いでいるのだが、多忙ゆえに体力が追いつかない。だが、言葉で残して置かなければ、永遠に理解されないとも思っている。

 

【テニスに例えて説明】

 ヒッティング方式組手法(TS方式組手法)のイメージをテニスの試合に例えて説明を試みたい。

 まずテニスの試合のルールについて大まかに説明する。テニスはポイントの取り合いで試合が進行していく。 1ゲームは4ポイントを先取した方が獲得。 ただし お互いに3ポイントで同点になったときはデュースとなり、そのあと2ポイント差がつくまでゲームは行われる。 1ゲームごとにサーブ権を交代し、先に6ゲーム取った方が1セットを獲得する。

 ここで大事なことは、テニスの試合におけるポイントを奪い合うというのは、空手における一撃を決めるということ。そして球を受けるだけでは相手にポイントを奪われるということ。そして相手の球を受けるだけでは駄目なことである。武術は防御だけでは意味をなさない。考えてほしい、武術における防御も攻撃も相手を威嚇し、戦意を喪失させ、相手を仕止めるためにあるのだから。攻撃とセットでない防御は武術ではない。

 この点をより詳細に補足すれば、要するに相手の球を受けるだけというのは、空手で言えば相手の攻撃を受けるだけということである。断っておくが、ヒッティング方式の組手において、防御だけ行うことは反則ではない。例えば、相手の攻撃を防御し、反撃技を放たず、間を取ったり、呼吸を計ったりするなら、戦術として有効な時もあるかもしれない。また、テニスにはないフェイントの技(空撃)への反応は別である。ここでいう攻撃とは相手が隙(スペース)に技を決めにきた場合であり、その場合、防御のみというのは原則的に悪手(良くない戦術)だと考えて良い。なぜなら、機を捉える感覚を養うには悪弊となるからである。そこが単なる格闘技スポーツと武術の試合の違いだ、と私は考えている。さらにいえば、なるべく短い時間で相手を制するという目標を忘れてはならない。ゆえにヒッティング方式の試合では、相手との点差が一定以上となれば、勝負ありとする。武術の試合はなるべく早い時間で勝負ありを目指すべきだ。

 

 以上の理由で、ヒッティング方式の試合では、テニス同様、相手の返球を受け、かつ打ち返すことが基本である(その返球がコート内でなければならない)。つまり、「①自分の打つ球(サーブ、他)が相手コート内に打ち込まれるのが第1段階、それに対し②相手の打ち返し(返球)が基本的なテニスの試合における第2段階である。さらに③相手の打ち返し(返球)に対し自分の打ち返し(返球)の第3段階となる。その打ち返しが決まればポイントを奪うこととなる。テニスの場合、サーブのアドバンテージが高いので、強力なサーブには第2段階でポイントを奪うこともあるだろう(サービスエース)。それでも熟練者同士の試合では、第2段階に進む。さらに第3段階に進む。また第3段階における自分の打ち返しを相手が打ち返したら局面は第4段階から第5段階へ進むこともある。第4段階において相手の打ち返しがコートに入らなければ、第4段階で自分がポイントを奪取することとなる。

 以上を整理すると、テニス試合の基本的構造は、『①第1段階(局面)自分の打つ球(サーブ、他)が可能な状態→②第2段階(局面)相手の打ち返し(返球)が可能な状態→③第3段階(局面)自分の打ち返し(返球)が可能な状態に移行する。さらに④第4段階(局面)相手の打ち返し(返球)が可能な状態→⑤第5段階(局面)自分の打ち返し(返球)が可能な状態』というように、プレイヤーの技量によって、局面が次の局面へ移行、連続、または終了するというものだ。終了すれば、終了させた方の得点となる。

 そのような構造においては、相手の球を打ち返して即、相手の反撃(次の局面)に備えなければ、今度は相手の打ち返した球(返球)に対応できず、ポイントを奪われてしまうことは明白である。

 補足すれば、先に記した③段階から⑤段階の状態が続くことを「ラリー」というようだが、熟練者はその「ラリー」の状態の中で、相手の崩れを観て、手相手の動きの予測を行い、相手の予測の裏をかき、相手が何もできないような見事な一打を生み出す。一方の極真空手の組手は、テニスで言えば、互いがサーブの打ち合いで終始しているのかのように、私には見える。もちろん、強力なサーブは観客を魅了するし、ゲームへの勝利には重要な戦力となる。だが、私は超一流のテニスプレーヤー同士が見せるラリーの応酬こそがテニス競技の深奥を見せていると思っている。そして、空手の試合でも、テニスのような見事なラリーを行えないものかと考えている。だが、空手の場合、局面と局面の移行速度がテニスよりも速い。ゆえに空手はテニスのようにはいかないと思われるからであろう。しかし、相手との関係性をシームレス(自他との一体化)とすることができれば、可能だ。だだし、それは究極の武術の技能とも言えることで、体得は並大抵ではないとは思うが…。

 

 

【わずか3手先を読むだけ】

 さらに言えば、私はテニスの試合は将棋にも置き換えられる、と私は考えている。先述したテニス試合の基本構造を思い出して欲しい。すなわち、①段階(局面)は1手目、②段階(局面)目は2手目、③段階(局面)目は3手目、④段階(局面)目は4手目、⑤段階(局面)目は5手目と言える。

 実は、長年にわたり、テニスの試合や将棋のような観点を、空手試合(競技)にも生み出したい、と私は考えてきた。そして長い年月の試行錯誤を重ね、ようやく新しい組手法を考案した。それがヒッティング方式組手法(TS方式組手法)である。

 ヒッティング方式を採用し、まずもってわが門下生には、組手には、自分または相手が繰り出す1手目に対し、2手目を繰り出す。そしてその2手目に対し3手目を繰り出すという基本構造があるということを了解してほしい。そのことが了解できれば、相手の1手目を予測し2手目の反応がより速く、かつ、より善くできるように準備することができる。同様に自分が先手として1手目を繰り出した時、相手の反応、すなわち2手目はどうなるかを予測できる。そして、相手の2手目に対する自分の3手目を予測、準備しておけば、自分の心技体は崩れずに、より有効な(より速く、かつ、より善い)一撃を繰り出せるのだ。

 補足をすれば、基本的には相手に1手目を出させるよりは、自分が先手で1手目を繰り出し、相手の2手目を観る方が有利だと直感している。ただし、その1手目は、拓心武道で「囮技」と名付けたところの「相手の出方を探るような技」を用いることが前提である。つまり、囮技を使い、その技に対する相手の反応の予測、かつ確かめる。すなわち2手目以降の予測や準備を行っていくのだ。そして、それらの予測と準備に必要なことは、まず攻撃の種類を把握することと同時に防御法、すなわち拓心武道でいうところの「防御×反撃」の種類を把握することである。そこで忘れてはならないことは、防御と攻撃(反撃)は一体でなければ組手とはならないという原則である。テニスがそうであるように。

 今回、わが道場生に組手修練の骨子のイメージを伝えた。だが、余計混乱させたかもしれない。要するに将棋でいえば、わずか3手先を読むだけだ。5手先を読めればかなりの技能に到達するということだ。だが、わずか3手先を読むことがとてつもなく難しい。それでも、それを行うことが、自己の心身のデータベース(無意識)を作り上げ、直感力を養う。手の読み方には具体的な方法があるが、今回は記さない(時間がない)。

 また、「空手を将棋の如く難しく考えなくても、良いではないか」との向きがあるだろう。だが、そのように考えるのは武術修練を浅くしか観ていない証拠である。私は武術の理解には、将棋同様に智力の深いところを使うべきだと思っている。しかしながら、誰もそれを研究しない。その原因は、端的にいえば、組手修練の意義が理解されていないからだと思っている。

 

【人を殴ったり蹴ったりする武術の組手や試合修練】

 私は、人を殴ったり蹴ったりする武術の組手や試合修練は、精力の発散、勝負を楽しむということだけの手段としては良くないと思っている。また、私は武術修練を核にした武道とは、断じてそうあってはいけないと考えている。なぜなら、そうなると日本武道が培ってきた精神、そして独自性が失われてしまうからだ(すでに喪失しているかもしれない)。平たく言えば、価値が低くなると思っている。だが現実は、多くの武道流派の試合修練が単なる精力の発散、勝負を楽しむというレベルに止まっている。そして、武道修練者がハイレベルなスポーツの勝負理論にも劣るような感覚しか持ち得ていないように見える。

 そのような状況なのは、端的に言えば、試合方法並びに試合の判定法(観方)が良くないからだ、と私は考えている。特に空手はそうだ。ゆえに、私は組手法に改良を加えた。今後、組手や試合を行いながら、将棋のように、わずか3手先、5手先の読みを行い続けることで、膨大なデータが蓄積され、そのデータが直感と考察によって整理され、より普遍的な原理原則を生み出し、競技者を洗練、上達させていくと信じている。また、五感をフルに動員して、知情意の統合のシステムを作り上げていく修練システムには武道が最適だと考えている。ただし、私の考えている武道ならば、である。

 繰り返すようだが、私は武道において組手や試合が重要だ、と考えている。また真剣な組手(勝負)を想定するからこそ、基本がいかに重要か理解できる。また、型を通じて原理原則を体得することの重要性も理解できるのだ。

 いかなる情況においても、無心で原理原則を実践する。それが武術修練を核にした武道、また、それを実践する武道人の目指す覚悟である。その上で、唯一無二の妙手を生み出していくことが、武道の究極だ、と私は確信している。 

 

 これまで私が述べてきたことを、私自身が確実に実践、具現化できるかどうかはわからない。言い訳に聞こえると思うが、これまで長い年月を無駄にしてきた。そして年老いてしまった。 急がなければ時間が残されていない、と思っている。そういうせっかちさが私の悪い性癖の一つだ。もう60年近くも生きてきたのに、まだそんなことを言っている。未熟な人間だとは思う。それゆえ、自分を戒め続けなければならない。

 

 と言った側だが、あと5年、いや3年で形にしなければ、とせっかちに考えている。だが、私の考え方が「焦り過ぎ」だと思う人は、よほど充実した人生を送った人か、とても呑気な人に違いない。これまで、私は突如襲ってくる敗北感に苛まれながら生きてきた。ゆえに毎日努力を欠かしたことがない。そして「最期の最後に状況を大きく転じ(転回)てやる」と思って生きている(私の心はすでに転じているが、周りの心が転じるには時間が必要なのだろう)。

 

(了)

 

「極真空手についての評論」という題で小論を認めた。これを読まなければ、将棋のように組手ができない理由がわからないかもしれない。長くなったので、分けてアップしたい。

 

 

 

 

 


 

 

 

空手についての評論

$
0
0

たっぷりと睡眠をとった。そして、いつものことだが、偉そうに憎まれ口を叩いてしまった。だが、このまま行く。ほんの僅かだと想像するが、理解する人間がいると信じているから。

2021/5/2

 

この評論はマイルドに遂行してから掲載しようかと思ったが、体調が悪くなってきたので、とりあえず、私のサイトに興味を持っている人だけに公開しておこうと思う。そして少し休みたい。

2021/5/1

 

【空手についての評論】

 空手についての評論をしておきたい。私は、一流のテニスプレーヤー達が置かれている状況、見ている状況、そして実践する作業は、本来、格闘技における状況と共通の面があるはずだと私は考えている。だが、多くの空手家にはテニスや将棋と空手が共通するなどとは了解されていないように思える。その原因は、極真空手の場合、顔面という急所に攻撃を当てないところにあるという考えに至った(だからと言って極真空手が他の空手より劣ると言いたいのではない)。言い換えれば、顔面を手で攻撃できないということは、相手の攻撃への反応を鈍くする。もちろん上段への蹴りが有効でないということではない。

 

 ここで、これまでの極真空手における試合の歴史を俯瞰してみたい。これまでの極真空手の試合とその判定基準では、相手の上段への蹴りの攻防を避けるために近間での乱打戦に持ち込む傾向が強くなる。その方が、勝つための判定基準に適するからだろう。その結果、至近距離からの蹴り技の名手が誕生したことは極真空手の独自性であろう。だが、接近しての乱打戦(手数を優先する)や接近戦での蹴り技にどれだけの武術的合理性があるだろうか。私は甚だ疑問だ。極真空手の草創期の試合はそうでもなかったが、試合経験が増えてくるに従って、だんだん接近戦での蹴り技対乱打戦術との戦いが基本形となっていった。言い換えれば、剣による戦いや手による頭部打撃が認められている武術の試合の基本形である、撃間(一足一刀の間/中間)の戦いが基本ではなくなっていった。なぜ、撃間を組手や試合の基本形とするかといえば、増田流に断言すれば、武術稽古は予測と反応の操作の訓練だからである。もちろん、突きに対する受けが皆無ではなかもしれない。それでも、私から見れば、一撃に対し、予測、かつ、より善い反撃を行おうとする意識が希薄になっている。その証拠が乱打戦である。その結果、相手の突きを受けなくても良いという認識が常識となってゆくのだ。反論として、そのような意識を無視することが試合に勝つためには有効なのだと言われれば、私は閉口せざるを得ない。それはある意味正しい。そして試合法とその判定法に問題があると言わざるを得ない。しかし、そのことが意味するのは、武術の組手修練が見世物に堕落することである。そして、もはや武術の修練ではないということを意味する。おそらく、剣術の世界も似たようなものだと思っている。私は、そのようなものを武道だとは考えていない。そのような空手や武道を掲げる者達が大手を振っている。それを民衆が是認している。歴史はそのようにして、変化、堕落していくのだといったら言い過ぎだろうか。ここまでいえば、私の門下生ついてこれないかもしれない。ゆえに、私の本当の修行は、民衆の感性を少しでも高めるために「憎まれ口」を叩きながら、孤独な修練を続けることしかないのだろう。

 

【武術に必要な感覚を奪っていくという弊害】

 要するに、現時点の極真空手の試合においては、上段への蹴りのみを気をつければ良いという認識になっている。それで武道と言えるのかと言いたい。繰り返すが、接近戦にける上段への蹴りというのは、繰り返すようだが、格闘技としては特殊な攻撃法である。もちろん有効でないということではない。むしろ使い方が巧みであれば有効であろう。だが、それのみに頼ることは弊害があるということである。

 

 それでは、極真空手の組手試合に関する評論を始めたい。まず、人間の頭部には目や脳がある、人間の最大といっても良い急所だと思う。ゆえに目へのアプローチ(攻撃)に人間は一番敏感に反応する。また、人間は目から情報を得る部分が多いので、武術においては、目からの情報を活用し、様々なアプローチを行うと思う。ももちろん、目からの情報以外の情報が重要なことはいうまでもないが。あくまで通常のレベルでの話だ。ここで、空手は顔面を攻撃するでは?と訝しげる向きがあると思う。しかし、空手の組手法、試合法には大きく分ければ数種あって、一つは当てない、一つは蹴りのみ、となっている。そのどちらも、頭部への直接的アプローチに制約を設け、及び腰だ。その理由は安全性の確保であることは十分理解している。しかしながら、そのことによる弊害対策を考えなかったと思う。我が極真空手の組手法は突きによる頭部打撃を認めない、さらに掴んでの投げ技も禁じた。その代わりではないが、蹴りによる頭部打撃は認め、なおかつ伝統的な空手流派が禁じた直接打撃を認め、かつ下段への蹴りも認めている。その組手法は当てない組手が主流だった頃は、民衆(大衆)には斬新、かつ、画期的だった。だが、頭部という急所を手で攻撃させないで蹴りと突きのみで打ち合いをさせるという枠組みは修練者の体力を画期的に向上させた。それは極真空手の良点であり、極真空手の強みでもあるだろう。だが、私は未熟な判定法と勝負偏重主義が間違っていたことにより、武術に必要な感覚を喪失して行くという弊害を生じてしまったと思っている。一般の人には経験と情報量が少なすぎて理解できないだろうが、私の身体感覚ではそう感じている。

【グローブ空手】

 少々話を脱線し、補足を加えたい。グローブ空手というものがある。端的に言えばグローブ空手はキックボクシングになると言っても良いだろう。実は、私はムエタイやキックボクシングが好きなので、グローブ空手については、丁寧に書かなければならないとは思う。だが、大まかに述べることを容赦していただきたい。

 頭部への突きに対応する感覚を養うならば、グローブを使った組手は有効である。だが、感覚を養うために必要な練習量の確保は、頭部へのダメージという問題が生じる。つまり脳のある頭部への直接打撃は、脳の損傷の危険性が高くなるのだ。そのことは技能の体得と引き換えに人間活動に支障をきたす可能性が高いということであり、武道としては避けなければならない。それゆえ、私は頭部を保護する面防具を使うことが武道稽古には良いのではないかと考えている。面防具の着用は面倒であり、見た目も悪いと思うかもしれない。だが、その反面、グローブで手を覆う不自由さはない。また、空手には目潰しや裏拳、手刀、背刀などの技があるので、そのような技を使う場合、グローブを使えば不可能となる。また、投げや関節を決める態勢に移行すること考えるならば、手をグローブで不自由にしないほうが良いと思っている。私は、空手武術とは徒手による打撃のみならず、武器を使った打撃武術、または投げや関節技、などを駆使する武術だと規定している。ゆえに、そのような技術の使用を想定しない稽古は、空手の武術としての独自性がなくなると思うからである。また、後述する武道における安全性の確保の意義を鑑み、熟考すれば答えは出ると思う。ただし、技能の体得できた者同士で、威力を制御、コントロールできるなら小さいグローブを用い、素面での打ち合いの稽古法の一つとして取り入れることは良いと思う。

 

【極真空手の試合における弊害の対策】

 話を戻し、既存の極真空手の試合における弊害の対策が全くないわけではないことを述べておきたい。問題は、空手を行う者達に、その弊害を感じるとる感性が低かったのか、それとも間違いを犯してでも「実」を取りたかったのか。その部分をどどのように考えるかである。先述した「実」とは、平たく言えば、道場経営、そして普及することを第一に考えることだ。だが、それは日本武術の精神を喪失していくことだった、と思っている。それを強く訴えてこなかった私にとっても、それは仕方のないことだった。また、我々は人間を殺傷する武術を必要とする社会を生きていない。だが、そのことを忘れてはいけないと思っている。そして、いま私は独り、狂気の世界を想定している。

 

 それでは、以下に、私が考えた弊害への対策を書いておく。まず、判定基準にボクシングのような有効打という概念を設け、曖昧な判定に明確な基準を設ける①。次に接近戦のみに終始する向きには、ボクシングのようなクリンチワークを認める②。また投げ技を認める③。などの接近戦を回避する手段を認めること。さらに、トーナメント戦ではなく、実力上位者のワンマッチによるタイトル戦を行い、なるべく優劣がつきやすいように、試合は5ラウンドぐらいとする④。などなど、以上は、私は予てから考えている、一撃必殺を前提とする剣道のようにミドルレンジ(一足一刀の間/中間/撃間)の攻防の技術と技能を生み出す仕組み作りの案である。

 私は①と②と④の案を合わせた改定が良いと思っている。だが、そもそも剣のような一撃必殺を前提とすること自体に無理があると考える向きもあると思う。それゆえ、先述した私の提案には必要性を感じない、もしくは実現が困難だという人がほとんどかもしれない。実は、③の投げ技を認めるというのはフリースタイル空手プロジェクトで実験済みである。悪くはなかったが、問題は、少年部が主体の現代の空手道場では、突き技と蹴り技に加え、投げ技まで教えることは労力的に無理があること。また、試合稽古にスペースが必要となるので難しかったと判断している。それゆえ、私は柔道とドッキングするくらいのことができるのなら面白いと思っていた。私は、一部の人に、そう語っていたが、あまりに荒唐無稽と一蹴されたに違いないと思ってやめた(幼い頃、柔道が好きだった私は、フリースタイル空手ではなく、フリースタイル柔道、または柔道・フリースタイルでも良いと思っていた)。

 

【まずは武道の骨格、背骨を作らなければならない】

 さて、繰り返すが、人間にとって頭部は急所だ。それは目潰しとか金的とかを云々する皮相的なレベルのことではない。もちろん、そのような攻撃を用いた戦術は有効だろう。だが、そんなことを声高に言っている者たちの本筋の技術、技能のレベルはたかが知れていると思っている。まずは武道の骨格、背骨を作らなければならない。

 

 再び、脱線を許して欲しいが、先述したような奇襲的なことを唱える人達は厄介な者達だ(時々、脱線しなければならないのは、失礼だが、私の情報量と読み手とが乖離していると思っているからだ)。私の直感では、旧日本軍の中にもそのような感覚の者がいたに違いない。確かにあらゆる奇襲を想定し、備えることは必要だと思う。また、相手に奇襲を意識させることは効果的だと思う。それでも、そのような奇襲を基本のように扱うことには反対の立場だ。また、奇襲の実行は、一時的な局面の打開には効果的かもしれないが、長期的に見れば、相手の狂気を引き出し、戦いを長期化させることも考えておかなければならない。そのような状況を想定した上でも奇襲ならば有効かもしれない。奇襲の名手はその部分を抑えていると思う。だが、そのことを抑えず、いたずらに奇襲を有効と唱えることは、基盤とすべき本体の技術と技能の養成を等閑にするに違いない。例えば、下手な奇襲は相手に武の本道から外れた、皆殺しの衝動を引き出すだろう。つまり、人間のやることではなくなってしまう可能性がある。私は日本武術の精神はそのようなものではないと考えている。もちろん、人間の狂気などについても想定しておかなければならないだろう。だが、そこまでの想定は、もはや民間の武道レベル、一般人のやることしては、無理がある。私が日本武術に対し着目する点は、その創造性(思考と身体操作の技能と言っても良い)が豊かな点、また創造性を育む枠組みがあるということなのだ。その枠組みが武道という感覚を生み出したと思う。

 

 話を戻せば、頭部を損傷することはいうまでもなく、顔を打たれるということがどれだけ人間にとって本能的に嫌なことかを想像してほしい。もちろん、子どもがひっぱたくぐらいの打撃を顔面に受けても平気だということはわかっている。それでも一番敏感に反応するのが眼を含む顔なのだ。その反応を極めることが武術の基本だと思う。

 

【徒手の武道の基本〜総合武術の構想】

 ここで述べていることは、徒手の武道を前提としている。ゆえに武器を使うとなると若干異なってくる。私は、徒手の武術家も武器の修練を徒手の武術と併行して訓練するのが良いと思う。だが、その部分について、今回は書かないこととしたい。まずは徒手を前提として、人間が本能的に嫌がる顔への攻撃技術を核に、その防御法、戦術、など様々な応用変化を生み出し、かつ、それらを高次に発展させていくということについて論及したい。また、そのような骨格、背骨を有して、より高次の打撃武道が完成するということ。そして打撃武術の価値も高まっていくということを言いたい。さらには、テニスや将棋の名人に勝るとも劣らない技能者を誕生させるということを…。また、私が目指す武道はそのようなものであるということを書き記しておきたい。

  以前、柔道を創設した嘉納治五郎師範も、当初は当身(打撃技)と投げ技、関節技、寝技の全てを使う「総合武術の構想」をしていたと武道研究者の論文で読んだことがある。つまり、現在の組んでから始まる柔道も武術の本質を喪失した形態の一例なのかもしれない。それは打撃技を基盤とする空手の方が良いと言いたいのではない。むしろ柔道がは立ち技のみならず、関節技と絞め技を現存させている点をみると、武術的かもしれないと思っている。また、そのことは突き詰めれば、加納治五郎師範が、社会体育として武道を構想、提言するも、その根底には武術としての本質を意識していたからではないだろうか。

 実は幼少の頃、私は柔道を修行し、今でも柔道を好み、かつ憧憬がある。そして柔道の凄さは、関節技よりも締め技があることだと直感している(子供だった私には怖くて苦手だったものだった)。だが、それをスポーツとして現代社会にも残している柔道とは、大変な武道だと思っている。そして、柔道が盛んな国が、柔道を採用しているのは、それらの国が唱える、柔道とは人間教育として有効だということは建前で、本当は、いざという時に武人として変身可能な人材の養成が本音として、社会体育の中に含意されているからだと考えている。もちろん、それを声高に唱えることは、現代社会の方向性に反すると反発を生じるので唱えないのだろう。だが、私はここまで述べたので、あえて書いておく。現代武道も、嘉納治五郎師範の生きた明治の時代のように、武人の心構えを養成するということが必要ではないかと思っている。また不遜ながら、嘉納治五郎師範が当初、構想した武道と私の理想とする武道も似ているかも知れないと思っている。

 

【武術修練の中心は予測と対応(活用)の能力を鍛え上げること】

 繰り返すが、私は「武術修練の中心は予測と対応(活用)能力を鍛え上げること」だと考えている。その過程で精緻な技術が生み出されるが、本質は技能である。その点を間違えれば、使い物にならない武術、武人が誕生するだろう。また、我が国における剣術を中心とする、日本武術の精緻な技術、かつ高い技能、そして思想が我が国の歴史において、鎮護国家を目指す志士の養成に役立ったと想像している。

 

 しかしながら、それら志士達の中心部分は技術を持っているということではない。私が考える彼らの中心は、武術の修練によって獲得した、予測と対応の能力、そして日本武術が醸成した精神(魂)だと思っている。その精神は、日本刀が誕生した平安時代の中期から1000年以上もの間、武人達の武術考究と我が国の精神風土に影響した。さらには、封建時代における道徳教育(リーダシップ教育、すなわち現在の道徳教育とは異なる)とが相互作用し、武人のみならず、我が国の民衆の精神を薫習し続けた、と私は想像している。

 

【日本武術の形成と発展の歴史は我が国の精神の歴史でもある】

 要するに日本武術の形成と発展の歴史は我が国の精神の歴史でもある、と私は考えている。そして、私はその点に興味がある。もし、私に余剰な時間が与えられるなら、そのことを掘り下げたい。また、その点が昨今の武術愛好者と私の見解の異なるかもしれない点だ(私は、戦中の軍国主義者の唱えた武道精神や武士道は、頭でっかちな軍人と当時の知識人によって曲解されたと思っている。真の武人、志士はあんな戦い方をしないだろう)。

 最後に、現在、ほとんどの空手、武道愛好者には、テニス愛好者にも劣るような予測能力と対応能力しかないと言っても過言ではない。なぜなら、試合の構造が良くないからである(もちろん試合が武術修練の全てではないが)。一方、多くのテニス愛好者もそのことを理解していないと思うが。あくまでも私が参考にしているのは、わずか数人の超一流のテニス選手だ。

 断っておくが、安全性の確保は重要である。古の武術の稽古であっても同じであろう。なぜなら、頻繁に怪我人や死者が出るようでは、武人、兵士の養成にならないからだ。つまり、武術は生きる残るための術であり、かつ周りの人を益するものなのだ。そのような武術がより高次にシステム化(体系化)したものが武道というものなのだ。私はそう考えている。疲れたので評論はこのぐらいにしたい。もう一度、死ぬほどの修練を積みたいと思っている。そして、その修行の中から、より高いレベルの武術、武道論を残したい。だが、もう身体が衰え、壊れかけている。歩くことがやっとだ。だが、技で誤魔化している(周りにはわからないだろうが)。それでも、あと10年、立っていられるようにと願いつつ修練を続けたい。

 

 

 

 

 

生きるために

$
0
0

 自分の非力が悲しい。少々心身が疲弊しているので詩が湧き上がった。それは私の人生に対する祈りであり、鎮魂のためだ。私の拙詩の後に私が幼少の頃、好きだった高村光太郎の詩を掲載した。高村が生きた時代とは100年近くの隔たりがあるが、人間の姿は変わっていないようにも思える。かなり疲れている私の現在の心境を試作によって吐露しておく。2021/5/2

 

 

生きるために 

 

色々と考えていると、突然虚しくなる

考えることに、一体どんな意味があるのだろうか

「何も考えずに目の前のことを行え」と声が聞こえる

それでも考えずにはいられない

考えれば、虚無感を感じるのをわかっていながら

 

「考えていないで、まず目の前の人を満足させろ」

そんな声が聞こえる時

心の中で私は反論する

「考えなければ人を満足させられないのではないか」

そして、人の満足ばかりを考えていると、自分がなくなるように思える

 

人を満足させる対価とは何か?

そもそも対価を求めてはいけないのか

人は何らかの価値を予知するから動くに違いない

動かないと生じる罪悪感の排除という価値も含めて

 

一体、人間にとっての価値とは何か

私には「人を幸せにするため」なんて虚言に思える

だが「自分を幸せにする」もおかしい

また「自分も人も幸せにする」もおかしい

そんな最大公約数的な価値が本当にあるのか

 

一体、幸福な人生とは

充実した人生とはどんな感じなのだろう

何も考えなくても良い人生か

それとも、考え続けなければならない人生か

また、ほどほどに考え、生きる人生か

 

私はいつも考えている

自分を活かすことを

人生を活かすことを

そして活かされていると感じた時

幸福、かつ充実していると思える

 

 

私は感じている

皆、活かし合って生きている

人も自分も

嫌な奴も

好きな奴も

 

失敗も成功も挫折も裏切りも

全て活かさなければ

私は生きられない

これまでの経験が無意味となることが

恐怖だから

 

私は、一瞬一瞬

私を活かすために考えている

私が生きるために考えている

私を感じるために考えている

私を生きるために考え続けている

 

(心一)

 

 

 

 

 

 

 

群集に  高村光太郎/ 大正三年 道程 

一人の力を尊び 

一人の意味をしのべ 

むらがりわめき、又無知の聲をあげるかの人人よ 

逃げる者も捕へる者も 

攻める者も守る者も 

ひとしく是れ魂のない動搖(ゆらめき)だ 

いのちある事實(事実)にならない事實 

埋草にもならぬ塵埃(ちりあくた)の昂奮だ 

さめよ 

一人にめざめよ 

眉をあげて怒る汝等の顔の淋しさを見よ 

其のたよりなさと、不安と 

幕を隔てた汝等自身の本體(本体)の無關心と 

重心なき浮動物のかろがろしさと― 

汝等すべての共の貧しさを見よ 

いま向うから出る 

あのまんまんまろな月を見よ 

静かな冬の夜のこの潛力を感ぜよ 

汝等の心に今めぐみつつある 

破壞性と残忍性と異常な肉體の慾望とにめざめよ 

その貴い人間性のまへに汝等自身を裸體にせよ 

そして一人にせよ 

 

汝一人の力にかへる事をせよ 

哀れなこの群集と群集との無益(むやく)な争闘に對して 

自然のいのちを思ふ事の無意味を知れ 

汝等は道路にしかれる砂利の集團だ 

汝等は偶然に生き、偶然に死に 

張合に生き、張合に死に 

又氣質に生き、氣質に死ぬ 

さめよ

一人にめざめよ 

一人の力を尊び 

一人の意味をしのべ 

汝等の焦心に何の値があらう 

汝等の告白に何の意味があらう 

ああ、群集よ 

夜の群集よ 

又思想および藝術にかかる群集よ 

群集を生命とする群集よ 

 

空しき汝等一人の聲に耳を向けよ 

きっかけに生き、提言に生きる事を止めよ 

偶像の中にもぐり込む事を止めよ 

しらじらしい汝等の虚言を止めよ 

群集によって押される浮動(エフエメエル) の潮流を蔑ろにせよ 

一人の實體にしみ通り 

一人の根を深め 

一人の地下泉を掘り出せよ 

こんこんとして湧き上る生水(きみづ)を汲めよ 

偶然はあとをたち 

思ひつきは價値を失ひ 

其處にこそ自然に根ざした人間はまろく立ち現はれるのだ 

一人の力を尊び 

一人の意味をしのべ 

むらがり、わめき、又無知の聲をあげるかの人人よ 

寒い風に凍てて光るあの大きな月をみよ 

月は公園の黑い木立と相摩(あいま)して光る 

まんまろに皎然(こうぜん)と光る 

 

デジタル空手武道通信 第48号編集後記より

$
0
0

 デジタル空手武道通信 第48号編集後記より

「初心不可忘(しょしんわするべからず )」

 先日、8名の昇段者に昇段認定証書を授与した。 その授与式において、私には感じるところがあった。まずは、物事に継続して取り組み、節目を持つことは人生経験として重要だということ。また、そのような経験に取り組む姿は「美しい」ということであった。    

 「美しい」などというと、「また大仰な話が始まった」と思われるかもしれない。言い換えれば、私には若い彼ら(壮年はいなかった)の「ひたむきさ」に感動していた。もちろん、彼らの技量は初段程度のもので、まだまだである。彼らの技量不足に関しては、私の指導者の責任として深く反省した。また、空手によって彼らの能力をさらに引き出せるようにしたいと思った。

  そして、私の感動は、最後の総評に現れている。そして、私の感動は、最後の総評に現れている。だが、もっと端的に伝えればよかったと反省している。もう少し具体的に話さないと理解されないだろうと、自分の未熟が恥ずかしい。今後、再考し、かつ、補足を加えていきたい。   

 最後に、本道場では、「空手と自己の成長」という小論文の提出が昇段審査の課題となっている。今回、その小論文に、彼らの心の成長の跡が伺えた。心の成長とは、増田流にいえば、「認識の変化」と言っても良いかもしれない。  

 私は様々な修練の根底に「認識」というものがあると考えている。そして、その「認識」の変化、更新に合わせ、身体全体の認知、そして操作機能が変化するというのが上達の姿だと考えている。また、「認識の変化」と「認知能力の変化」を自覚しつつ、自らが有する「花(世阿弥の言う所の)の種子を見つけ、それを育てていくことが、上達であると考えている。また、世阿弥が「花鏡」に記した「初心不可忘(しょしんわするべからず )」という言葉の意味も其処にあるのではないかと思っている。 

 

伝え方

$
0
0

伝え方

 

 月日が経つのも早いもので、今年から始めた、月1回、開催する月例試合も6回目を終えた。参加する人達には敬意と感謝だ。だが、高い理想を追い求める私は、イメージが伝わっていないという焦燥感に襲われる。もちろん、なるべ、良いところ、良くなったところを見つけ、そこ部分を称える様にはしている。だが、どうしてもイメージが伝わっているとは思えない。

 先日も月例試合の評に厳しいことを述べた。しかし、すぐに反省し、その評を若干訂正した。脱線するが、是非はともかく、空手の世界は、巷でいうところのパワハラが常識の様な感がある。もちろん、それは文化が異なると言っても良い面があるが、伝え方という点で考え直した方が良い面もある。そのためにはスポーツと武道、或いはスポーツとは何か、武道とは何か、をもっと掘り下げて考える人間が多くなければならない。そうでなければ、スポーツや武道が人を傷つける手段となることもあるかもしれない。

 百歩譲って、打たれ強くなければ生きていけない、と開き直るなら私は言をやめる。そもそも、スポーツや武道界の人間の勝負に対する認識が貧困、かつ未熟であると思っている。そして、勝負の本質を考え尽くさなければならない、と私は考えている。その上で、人が人と共に磨きあい、高めあうには、どのような認識を獲得すべきか、を考えたいのだ。かくいう私の認識も貧困、かつ未熟だ。ゆえに伝え方を反省した。

 

自分を失わないために

 話を戻せば、参加者は頑張っている。悪いのは私の伝達能力が劣っているからだろう。また私の違和感と焦燥感は、世間の有している空手や組手に対する認識と私の認識が異なっていることに、全ては起因するのかもしれない。さらに、「お前の一人相撲だ」との嘲笑が脳裏をよぎる。

 それでも、新たな道を行きたい。今から20年以上も前、これまでいた場所が悪い場所だと思っているのではないが、その場所では、人々が気持ちの悪いお世辞を言い合い、本当の欲望を隠し、調整しあって生きている。私は、そのような場所では、自分が保てない、と思った。そして、ある日、「自分を失わないために」と、新たな道を歩み出した。


 その時の私は、世間でいう「自分探しの旅」に出ていたのであろうか。私の場合、そうではなかった。私が「自分がない」と感じる時は、思考停止せざる状態に置かれる時やそのような人間に対してである。つまり、外部の暴力的とも言える力で、自らの思考を遮断される状況、それが私の一番嫌うことである。もちろん、自分の未熟を自覚せず、自分を主張するのも如何なものかと思うが、指導者なら、それを容認しなければならない、と思っている。

 私が自分を大切にするために、良いと思う状況とは、各々がその考えを交流できる状況である。だが、自分の感情を基盤に発した利己的な欲求だけが交流する場がほとんどで、その利己的な欲求を調整しあって生きているのが人間だ。そうなると、より強力な欲求を充足させる力、権威を有する者の力が強くなる。そのような状況は、一人ひとりの考えが交流できているとは言い難い。それを我々が容認しているのだから仕方ないのであるが…。

 

 感情が認知の契機であってはならない

 

 私は常々「考える」ということは文化的な行為であり、かつ人間的な行為だと思っている。また、その様な行為を活発にさせる仕組みが社会システムに必要だと思っている。

 一方、世間では、社会の基盤が感情であるかのような理論が評価されている。その是非は述べない。だが、感情が人々の「認知ー判断ー操作」の契機だという風に理解すれば、一理あるかもしれない。だが、私は感情が認知の契機であってはならないと思っている。

 

 その感情がどこから来るか、考え、見極めるのが人間の人間たる所以ではないか。私は、21世紀においては、より一層の「考える」という行為が必要だと考えている。言い換えれば「認識」の整理と活用の仕方の変換が必要なのではないかと考えている。

 

 感情は認知の契機であってはならない。感情は、「認知ー判断ー操作」の基盤である認識を変革する契機(考え方を変える契機)でなければならない。また、認識を基盤とした「認知ー判断ー操作」は快や不快の感情を生み出すに違いない。だからこそ、認識を掘り下げる必要がある。なぜなら、社会的に与えられた認識が、自分を支配しているなんて気持ち悪いと思うからである。私は、もっと積極的に感情を活用し、「認知ー判断ー操作」という人間に与えられた行為システムを活用したいのだ。

 

 私が構想する「拓心武道」とは、空手を使った、「考えるシステム」も言い換えても良い。目指すゴールは心身、そして自他の認識を変革することである。ここまで述べて、寂寥感が襲ってきた。もう筆を置きたい。


 最後にもう一言。私は死ぬまで考え続けようと思っている。それが「自分を失わずにいる」ということに他ならないと思うからだ。そして、それができなくなったら、私の人生は終わる。

 

 

 【蛇足】

 以下に第6回月例試合を観て、繰り返し伝えなければならないと思った「応じ」の理論について道場生向けに書いたものを記載しておく。

 

 

 

 

「応じ」とは?

 

 

自己を活かし、かつ他を活かす道を目指す

武の修行が拓心武道である。

【「応じ技」とは】


 相手の仕掛けてきた技に対し防御技を用い、その効力を無力化、または弱体化して攻撃を行う技術のこと。受け返し技ともいう。なお、弱体化とは、相手の攻撃力を直接的に弱めるのみならず、相手の体勢を崩すなど、間接的に攻撃力を弱めることも含まれる。
拓心武道における「応じ」とは相手の攻撃に対し応じ技を用いて対応することといっても良い。だが、より本質的に言えば、相手の技と自己の技との攻防、すなわち自他の戦いは「自他との応じ合い」である。拓心武道においては、相手との戦いを自己を活かす理法を学び取る契機として捉える。そのためには、自他の対峙、その戦いにおいて、自己の「認知ー判断ー操作」の能力を高めることが肝要である。

【「応じ」とは】


 「応じ」とは、自己の心身を用いた「認知ー判断ー操作」による武の行為を意味する。そして、その行為を巧みに行うためには、事前の予測が必要となってくる。言い換えれば、武の行為における、予測が貧困、かつ未熟ならば、その判断と操作も貧困、かつ未熟なものとなるということだ。

 つまり、「応じ」とは、その認知力、判断力を高め、磨くために必要な予測力を高めるために必要な認識なのである。もし、戦いにおいて、「応じ」の認識がなく、恣意的、かつ曖昧な「認知ー判断ー操作」によって戦いを行うならば、100戦して、全ての戦いにおいて危うい。一方、「応じ合い」との認識を有し、「応じ」を極めようとするならば、戦わずして負けない状態に至ることもできるはずである。

 最後に、相手と対峙し自己と戦う中から、真の自己を見究め、自己を活かし、かつ他を活かす道を目指す「武の修行」が拓心武道である。

初心忘るべからず

$
0
0

初心忘るべからず

 

 

 

【老年期こそ】

 

 6月の大半、ぎっくり腰で稽古ができなかった。日記を見てみると、昨年の6月にもぎっくり腰になったようだ。5、6月は季節の変わり目、身体に支障をきたしやすい季節なのかもしれない。その間、コルセットを巻きつつ、休み休み、PCに向かい、教本作りを行っていた。腰を休ませる際は、読書をした(若い頃から読んでいる世阿弥に関する本を、新たに数冊読んだ)。

 

 ぎっくり腰になった時、初めは、これまでも膝や腰のリハビリ、体力の維持に頑張ってきたが、もうだめかな、とも思った。今の私は、若い頃に酷使した膝や肩、腰に障害があるので、毎日が勝負だと思っている(若い頃からそうだったが)。また、老年期の入り口が見えている。だが、どんな人も生き続けていれば、やがて老年期を迎え、そして人生の最期を迎える。そんなことが実感としてわかる年齢となった。ゆえに、老年期こそ、若い頃よりも心を使わなくてはならないと思っている。これまでは老年期になれば、身体のみならず、心も使いたくない、と思うのが普通ではないかと思う(老人には失礼だが)。だが、そのような考え方は全くもってよくない考え方だと思う。

 

 その老年期にこそ、重要なこと。それは「初心忘るべからず」だと思う。この言葉は、能の先駆者、世阿弥の言葉である。この言葉は、スポーツなどの技芸を行う、比較的若い人達向けの言葉に思われているが、そうではない。「初心忘るべからず」と言う言葉は、世阿弥が門下の弟子たちに門外不出として残した伝書、「花鏡(かきょう)」に示されたものである。

 

 

【万能一徳(まんのういっとく)の一句】

 

 花鏡において、世阿弥は「初心忘るべからず」とは「万能一徳(まんのういっとく)の一句」だと述べている。

 

 「万能一徳の一句」とは、「全てに効果のある徳を与える言葉」ということだろう。また、花鏡には、「初心忘るべからず」には3種の教えがあると書かれている。

 その3種とは、

1)是非とも初心忘るべからず(是非によらず、修行を始めたころの初心の芸を忘るべからず )

2)時々の初心忘るべからず (修行の各段階ごとに、各々の時期の初心の芸を忘るべからず ) 

3)老後の初心忘るべからず (老後に及んだ後も、老境に入った時の初心の芸を忘るべからず )である。

 

  要するに、世阿弥がいう「初心」とは、「物事を始めた時の謙虚な気持ちを忘れないようにすること」というような意味合いではないということだ。

 

【自己の未熟を感じる】 

 増田流に意訳すれば、世阿弥のいうところの「初心」とは、初めて物事を認識した時の状態を忘れず更新し続けなければならない、ということを示していると思う。もちろん増田流の解釈なので、少々補足を加えたい。

 

 まず、認識とは意識の領域において生じる現象である。異論はあるだろうが、私は意識が心だ、といっても良いと考えている。その前提で言えば、その時どきの認識を忘れず、それを活かし続けること。つまり、観客に感動を与える芸を持ち続けるためには、過去の認識に留まらず更新し続けなければならない。同時に、過去の認識も忘れてはならない。なぜなら、よりよい更新とは、原点に立ち戻り、活かし続ける行為だと思うからだ。そして、そのような考え方、意識を有する者は、必ず自己の未熟を感じるはずである。しかし、人間は未熟を感じるからこそ発展するのだ。言い換えれば、人間は最期まで未熟ではあるが、それを自覚する限り、芸は発展し続けるものだから、絶えず未熟を思い、慢心せず芸(の道)を追求せよ、と世阿弥は述べているのだと思う。

 

【自分を活かす能力】

 私には、花鏡において世阿弥の述べていることは、「絶えず初心を忘れず、修行において培った、全ての技を活かせ」と言っているように感じた。また、それができるほどの者なら、あらゆる技を使いこなし、かつ全ての観客との勝負に勝つことができると述べているのだと思う。私は、世阿弥の言うような能力(技能)と感覚こそが、自分を活か能力と感覚だ、と考えている。

 

 補足すれば、自分を活かす能力、それは身体の可能性を開拓し、かつ心を高めていく能力のことである。その真髄は「初心忘るべからず」だ。それは、私の目指す拓心武道においても銘記したい。なぜなら、私は拓心武道において、空手を身心を基盤とする意識(心)のネットワークの構築並びに、その場所において、光(悟り)を生み出すこと、かつ光を感じる感性を創り上げる手段としたいからだ。

 

 さらに言えば、身心とは、意識を鮮明にしていく道具であると同時に、その道具の活用と思索によって培った意識を保存しておく貯蔵庫でもある。それらを必要な時に生かしていくために、心の領域の訓練が諸事に必要なのである。

 

 また、世阿弥の背骨である能は身体表現の世界である。そして、心を身体で表現することに意味と価値がある。ゆえに身体操作を型稽古によって究め、同時にあらゆることに処しつつ、心を究めるのである。

 

 私は空手武道を伝えることを生業としているが、私の伝える空手武道は、世阿弥の考える「道」と同様のものを感じ取れるものとしたい。だが、多くの空手家が、そのような認識に至ってはいない。それは、未熟な勝負論と勝負法(競技法)にとどまり、技能(術)と心を磨くために必要な視点がかけているからである。

 

【人間修行の究極】 

 さて、私が拓心武道に込める想いは、初めてことを始めた段階、各修行段階、そして老境の段階における、土壌(基盤)を理解すること。同時に、その時分時分、季節季節において、自己に内在する成長の種子(人間的成長の可能性)を育て上げることといっても良い。そのような自己に内在する種子を季節季節(時分時分)において育てること。そして、自己の心身において「花(美しさ)」を咲かせる(表現すること)こと。さらに言えば、実を結実させる(精神や形を残すこと)ことが人間修行の究極なのである。

 

【古と今の「初心」を考えること】 

 先述した「花」という用語は、世阿弥の能学理論の概念用語だ。世阿弥のいうところの「花」とは、観るもの(観客)に感じさせる面白さ、珍しさ、感動を指している。また、それを「美」と言っても良いが、「美」についての説明は簡単ではないので、その言葉は使わない(またの機会の考究したい)。

 

 いうまでもなく、世阿弥の追求した芸の構造並びに身体操作、技術と技能を理解していなければ、世阿弥のいうところの「花」の概念の深い理解は困難だと思う。さらに、その技術と技能に内在する「心(精神)」のあり方を理解する者でなければ、真に理解できるものではないだろう。

 

 そう考えれば、修行に対する認識が浅いと、世阿弥のいうところの「初心」という言葉も真に理解されるものではないだろう。また、観客のレベルも様々で、その浅い認識、斯界の人達の「初心」の理解にも対応できるよう、芸を磨き高めることも、世阿弥の「初心忘るべからず」に含意されているに違いない。また、非常に困難なことだが、世阿弥が生きた室町時代の感覚と現代の感覚を想像してみなければ、本当の意味はわからないかもしれない。しかしながら、古と今の「初心」を考えること。それもまた、「初心忘るべからず」の言葉に内在する真理のような気がする。最後に、最期まで初心を忘れず、心の感動を活かし続ければ、人生はより豊かなもになるに違いない。

 

 

以下、花鏡の原文からの抜粋。

 

『しかれば、当流に、万能一徳(まんのういっとく)の一句あり 

初心不可忘 (しょしんわするべからず)

此句、三ヶ条(の)口伝在。 

 

是非初心不可忘。時々初心不可忘。老後初心不可、忘。 

 

此三、能々口伝可」為』

 

 

 

素人と同じ

$
0
0

 以下は、私の道場のデジタル教本サイトに掲載したある、私の学科審査に対する考え方である。だが、これまでは学科審査は実施したり、実施しなかったたりであった。審査時間の関係や審査方法に良いアイディアがなかったからである。それを大変に恥ずかしいことだと思っている。しかし、サイトを使うことで、時間をかけずに学科(理論的なこと)の審査ができるようにした。

 

 また誤解を恐れずに言えば、これまでは組手法を含む修練体系に瑕疵があったので、理論的なことを明確に伝えられなかった。だが、現在は組手法を改定し、修練法を更新している。それに伴い、教本サイトの方向性が決まった。これからは粛々とコンテンツを追加・更新し続けることだけだと思っている。心配しているのは、現有段者の理解である。私は有段者を家族のようなものと考えているが、私の未熟ゆえ、共有すべく価値観や考え方をうまく伝えられなかったように思う。もちろん、組手において相手を極力、痛めない、などの考え方は伝わっているかもしれない。しかし、それでは不十分だった。なぜ、組手を乱暴に行ってはいけないか。では、どのように組手修練を行えば良いか、などを言葉で明確に伝える必要がある、と今は考えている。そして、そのような空手武道、そして修練に対する考え方や価値観を共有してもらわなければ、武道の修練にはならないと思っている。もちろん、異なる価値観や考え方を排除するわけではない。是非、今一度、有段者には考えてもらいたい。武道とは何か?を。

 

 私は武道とは何かを考え続けている。そして極真空手を武道に高めたいと考えてきた。しかし現実はそうではなかった。ゆえに、絶えず自己を更新し続けている。武道とは、武術を基盤としているが、その核心は自己を活かすこと、同時に他者をいかす道(理法)を目指すことだと思う。それゆえ「身を殺して仁をなす」というような他道の教えを取り入れ、否、それと一致する境地にたどり着いたのだと思う。

 

 繰り返すが、武道とは自己を活かすために、人として正しい道を踏み行いながら武術を活かしていくことだと思う。そう考えると、現代武道の哲学があまりにも幼稚であることは否めない。それゆえ、武道の原点に立ち戻り、武術を唱え、その技と哲学を再考しようとするものも多いのであろう。しかしながら、私は武道を開くことを諦めない。そして極真空手を活かすためにその修練法を更新している。

 

素人と同じ

 学科審査の合格は、IBMA極真会館増田道場の空手道を修めた証明である。その証明には、IBMA極真会館増田道場の理念を始め、各修練項目の名称や意味、すなわち修練体系を理解しているということが含まれる。考えて欲しい。空手道を修練した者が、数種の突き、蹴りの名称しか知らない、また、腕を早く動かすことや脚を高く挙げることしか知らないとしたら、それは道を求める者(修行者)ではなく、素人と同じである。

 例えるならば、少ない英単語と片言の英会話ができるからといって、英語が使える、と言えるだろうか。私は、英語が使えるということは、多くの英単語を理解し、かつ文法を知り、様々な相手と英語を使って対話ができるということだ、と考えている。特に対話ができるということが最重要である。私は、そのように考えるからこそ、組手型を編集し、組手法を改定したのである。現在、私が編集している拓心武道メソッドとは、英語で言えば、単語の発音や意味を正確に教え、そして文法を教えることといっても良いかもしれない。さらに、対話によって意味を創造していけるようにすることが、その眼目である。

 はっきりと申し上げれば、これまでの修練方法は、体力強化と偏った精神を形成する手段に過ぎない。それでも、体力やストレス発散や「強さ」の実感による満足があったかもしれない。だが、そのような感覚で空手を修練しても「道」とはならないに違いない。少々脱線すれば、そもそも「強さ」という言葉は、あまりにも感覚的、かつ不明瞭なものだ。そのような言葉に迷い、彷徨い続けてはならない。強さという感覚は、例えば無の中にいながら有に囚われ、いつまで経っても無を自覚できないのと同じである。私は「無を知る」ということは、丁寧に有と対峙し、かつ生成流転の原理を学ぶ中で理解できるものだと考えている。同様に「強さを知る」ということも、丁寧に人間の弱さに対峙し、かつ生成化育の原理、命の偉大さを学ぶ中で理解できるものだと考えている。

 最後に、空手の基盤は武術であり、武術の修練とは技の追究、つまり技の原理の体得だと思っている。しかしながら、技の原理を体得しても、それを広く活かさなければ意味をなさないと考えている。そのように考えるからこそ、私は原理の体得のみならず、自己を活かすために、他者を活かす道(理法)を求め、武術の修行を武道、そして人の道に繋がる空手武道を目指している。そのためにも、まず言葉の体系を覚えるように、技術の体系(全体)を習得させ、それを活かすような理解と展開を構想している。さらに言えば、道を拓く者は、絶えず技術を見直し、かつその体系を整えていかなければならないと思っている。(増田 章)

 


サムライ柔道とオリンピック柔道の戦い

$
0
0

このたびの大雨による被害に遭われた方々に、心からお見舞い申し上げます。

 

 

サムライ柔道とオリンピック柔道の戦い

 

【オリンピックにふさわしいスポーツ(競技)】

 私はオリンピックというイベントには、その理念に照らして、相応しいものがあると思っている。もし、出鱈目に競技数を増やしたならば、単なるスペクタクル(見せ物)としてのスポーツイベントとなり、高い理念を掲げたオリンピックの価値は低下すると考えるからだ。また実務的な運営も困難となるであろう。

 

 空手競技が初めてオリンピック競技となった今回の東京大会を、「オリンピックにふさわしいスポーツとは」という観点で私は観ていた。その命題の解を導き出せたように思う。その解を日本武道からオリンピック競技となった柔道を例に述べてみたい。

 繰り返すが、柔道を例としてあげるのは、柔道が競技ルールに様々な課題を見つけ、それをクリヤーしつてきたと思うからだ。また、オリンピック競技として加わって以来、一度は除外されたにもかかわらず復活し、かつ存続し続けるからだ。そして、その裏に「オリンピックにふさわしいスポーツ(競技)」として進化した背景があると考えるからである。

 

 ここで柔道の概要を簡単に書いておきたい。柔道とは明治時代、嘉納治五郎が数種の古流柔術を元に、技術と修練法を武道として体系化したものである。なお「武道」という概念は、さまざまな解釈があり、柔道はその中の1種と言っても良いだろう。私は、その武道の1種である柔道がヨーロッパに誕生したスポーツと連携し、融合したのには必然性があったからだと思っている。その必然性の要素と性質とは、嘉納治五郎の創始した柔道の修練方法や技に、日本武術の奥儀、卓越性とまではいかないが、ヨーロッパ人の好む合理性が示されていたからではないかと思っている。また、柔道の修練方法や技の理解しやすさのみならず、創始者、嘉納治五郎の人格、哲学がヨーロッパのスポーツの高級貴族達の心を掴んだからに違いない。もちろん、嘉納治五郎の卓越した資金調達力や実務能力、また、門下生の尽力など、柔道普及発展のプロセスは簡単には語れない。

 

【ヨーロッパ人の好む合理性】

 

 さて、柔道の試合における、相手を投げることで「技あり」や「一本」をとるという、勝負判定の基本が、スポーツを生み出したヨーロッパ人には、理解しやすいものだったに違いない。もちろん、柔道に含まれる関節技や独自の絞技などは、格闘技としての実効性と柔道に対する驚きと脅威として眼に写ったことが想像できる。それらを全て包含したものが、先述した「ヨーロッパ人の好む合理性」と言い表したことの意味である。

 ともあれ、柔道の「技あり」や「一本」という判定法は、技術の効果をポイントで表すスポーツの勝負判定に置換しやすいものだ。また同じと言っても過言ではあい。そして柔道は、ボクシングのようなダメージを競うものではない。

 

 

 補足を加えれば、オリンピックの理念や意義からして、相手にダメージを与える競技は相応しくない。ならばボクシングはオリンピックに相応しくないスポーツとなるはずである。にもかかわらずボクシングがオリンピックのコンテンツとなっているのは、ボクシングがフェンシングや柔道と同様に、オリンピックにふさわしいスポーツとして競技方法を変化させたからである。また、私はそこに「ヨーロッパの貴族達の伝統的精神」をみる。

 

【ヨーロッパの貴族達の伝統的精神〜「名誉」と「自尊心」】

 少々脱線するが、「ヨーロッパの貴族達の伝統的精神」についてもう少し述べたい。19世紀の前後まで、ヨーロッパの高級貴族達の間では、決闘が盛んに行われていた。山田勝氏の著書、『決闘の社会文化史(北星堂)』の前書きに「決闘者は社会的にはエリートである。ヨーロッパの決闘はアメリカ西部劇に見られるようなアウトローたちの殺し合いでもなければ、日本の俠客たちの争いとは異質であることはいうまでない。西洋の決闘はエリートとしての名誉と自尊心に基づくものであり、きわめて自主的で個人的要素が濃い。決闘が法的に禁止されている時でさえ、貴族たちは盛んに決闘を行った」とある。

 さらにヨーロッパの貴族の精神風土にあると思われる名誉と自尊心、そして決闘における介添人(セコンド)やフェアプレイの精神に基づくルールの徹底があるようだ。先の介添え人(セコンド)とは、決闘者の名誉を守る弁護士的役割、また無意味な決闘を仲裁して回避する役割を担ったと書いてある。

 そのことから、私はヨーロッパで誕生したスポーツには、日本人が理解している「遊び=スポーツ」というような単純な理解とは異なる背景があるように思う。また、ヨーロッパ高級貴族の精神的土壌から芽生えた何かがある、と私は直感した。

 同時に、我が国のサムライの行動規範(武士道)にヨーロッパの高級貴族と同様に「名誉」と「自尊心」を重んじる感性があったことを思い出した。厳密にはヨーロッパの貴族階級と我が国の武士階級との感性には違いがあるだろう。だが、嘉納治五郎の柔道哲学には、ヨーロッパ高級貴族の哲学、倫理観のみならず、我が国の上級武士の行動規範、哲学に通底する普遍性があったのだと思う。そこことがヨーロッパの高級貴族に共感をもたらしたのだと思う。

 要するに、ヨーロッパ貴族の精神的伝統を反映するスポーツがボクシングであり、フェンシングなのだ。そしてオリンピックを構想したヨーロッパの高級貴族の伝統的精神、そして哲学の基盤があるスポーツゆえに近代的スポーツとは趣を異にするが、オリンピックスポーツの中で、重鎮として鎮座し続けているのではないかと思う。もちろん、組織的な問題で、オリンピックから場外される可能性はある。しかしながら、今回の柔道のように、オリンピックにふさわしいスポーツと競技団体として、変化(改革)を続けるに違いない。ここで大事なことは、ボクシング(アマチュア)もダメージ制を掲げず、ポイント制を掲げ、オリンピックにふさわしいスポーツに近づけたということである。また、フェンシング競技も防具などを用い、また得点はセンサーで判断するように変えことである。

 

 【柔道の競技(試合)の基本的内容】

 柔道に話を戻せば、先述したように柔道の競技(試合)の基本的内容は「投げ技の効果」をポイント(技ありや一本)で判定するものである。それゆえ、欧米に誕生したスポーツ競技と親和性が高い。また、投げ技は投げ方などによっては致死的、ダメージを与えるものとなるが、打撃系とは異なり、見た目はスキルフル(技巧的)である。それゆえ、他のスポーツ競技の技巧の優劣を競い、それを判定し、それを楽しむというスポーツの基本的要素と親和性が高いのだ。

 だが、問題が皆無だったわけではない。その問題を挙げれば、「有効」「技あり」「一本」のポイントの判定(現在は有効はない)に審判によってばらつきがあった。また「引き分け」からの旗判定による最終的な勝負判定には非納得感が否めなかった。

 

【柔道競技は引き分けと旗判定を無くした】

 今回のオリンピックにおいて、様々な問題点の解消が見てとれた。具体的には、有効をなくし技ありと1本のみとし。同時にレスリング的な組技をわずかに残し、ほぼ反則とした。そのことによて、柔道独自の技術、技能を発揮しやすくした。このことは、他の格闘競技との差別化になる。また指導などは3回で失格負けとした。また寝技によるポイント(技あり、1本)の時間設定を短くした。これは試合の流れを滑らか、かつスピーディーにし、観客を飽きさせないようにした。また、投げ技のポイントは、肉眼で不明瞭ならば、映像による判定(VR)を採用した。さらに誤審を防ぐための「ジュリー制度」なども採用している。

 

 スポーツとしてより本質的な部分は、4分間の本戦の後、勝負を決することができなかった場合、ゴールデンスコアによる時間無制限の延長戦が設けられたことだ。このことは、曖昧な引き分けという判定をなくし、より明確に勝敗を決めることが重要だ、という考え方に至ったということだ。この部分が、権威者の裁定を受け入れ易い日本人的な感性にはすぐに理解できなかったと思われる部分である。

 

 もちろん、日本人以外の人たちにも「引き分け」という感覚はあるだろう。だが、もし内容が本当に「引き分け」なら。「両者優勝」でなければおかしい。または、「敗者なし」と判定しなければおかしい。されど…としなければならない(あえて言えば)。実は戦前までは「引き分け」による両者優勝というものが柔道にはあった。

 

 私には、幼い頃に読んだ柔道の本に全日本柔道選士権における、木村政彦対石川隆彦の決勝戦と両者優勝の記述が強く記憶に残っている。「こんな粋な計らい、公平な裁きが、昔の日本にはあったんだ(昭和24年)」という感銘としてである。

 それゆえ、引き分けから無理に勝者を決する方式は、日本人の劣化だ、と私は考えていた。今回、柔道界にどのような思考的プロセスがあったのかのが、私の研究したいところである。それはさておき、今回のオリンピックにおいて、柔道が伝統的な「旗判定」や「引き分け」を無くしたと言っても良いだろう。

 

 

【「旗判定」や「引き分け」判定の問題点】 

 もう少し、「旗判定」や「引き分け」判定の問題点を述べてみたい。かつて柔道の勝負判定には「引き分け」からの「旗判定」という日本独自の勝負判定が残っていた。それが大きな問題であった、と私は考えている。

 なぜなら、オリンピック・スポーツには万人が納得する、技術的、かつ技能的勝利がなければならないからだ。そのようなことを前提とすれば、最終的に明確、かつ明瞭な「勝敗という概念」に導き、それを決する前の「引き分け」という概念にも、明確、かつ明瞭な内容や判定基準がなければならないのである。だが、かつての引き分けから旗判定による勝敗の判定には、審判の主観的な判定しか示されていない。私は様々な国家を背にして競技を行うオリンピック競技においては、明確な勝負判定と同時に勝利に至るプロセスが明確かつ、公正でなければならないのと思う。でなければ、名誉と自尊心を命よりも重んじるヨーロッパ貴族の末裔である西洋人のみならず、様々な国家の多様な国民が勝敗を真に理解、納得はできないに違いない。

 

 私は、柔道の変化、そして努力こそが日本人があらゆる面で目指さなければならない変化の仕方ではないかとも思っている。言い換えれば、柔道の良点や日本の伝統的文化を残しながらも、国際的な標準に合わせていくということである。一方、剣道の人達の「剣道はオリンピック競技に加わらなくても良い」「剣道は日本独自の文化であり、それを堅守する」というような考え方も悪いわけではない。むしろ日本独自の文化を堅守するというものがある方が良いとも思う。武道という看板を掲げるものは、そのような意志がなければならないとも思う。一方、嘉納治五郎師範が掲げた「武道」という概念とその他多くの「武道」というラベルには大きな乖離があると思っている。詳しくは述べるには機会を待ちたいが、柔道はその剣道がいうところの日本独自の文化への思いを無差別の全日本選手権に込めていると見る。部外者である私がいうのは甚だ僭越ではあるが、そこはある種の治外法権の場であるべきだ。丁寧に言えば聖域であるべきだ。そして、国際柔道、そしてオリンピック競技の柔道において、日本の独自性を世界に示すという意志を強固に持って欲しい。だが、そんな心配はいらないぐらい、柔道界は変化したように見えた。今、柔道ファンの私は、もう一度幼少の頃に戻り、畳に立ちたいと思っている。

 

 

 総括すれば、柔道の変化も、「オリンピックにふさわしいスポーツ」として、自らを変化させて適合させた例だと思う。さらに言えば、私はボクシングやフェンシング以上に、オリンピックスポーツに相応しいものを目指して変化し続けた、プロセスの好例だと考えている。

 

 

【サムライ柔道とオリンピック柔道の戦い】

 

 最後に、今回のオリンピックにおいては、若い個性豊かな選手立ちの活躍があったことは大変嬉しく、かつ頼もしいと思った。おそらく、選手達の個性的なキャクターの力も相まって、柔道未経験者の人達にも、柔道の魅力、そしてスポーツとしての面白さが伝わったに違いない。

 さらに言えば、選手が礼法を徹底し、日本柔道の伝統を背負っているという自覚を持って畳の上に立っていたように見えた。例えるならば、サムライ柔道対オリンピック柔道の戦いであった。だが、それは相手を敵とする戦いではなかった。相手を仲間として尊重しつつ、自己の名誉と自尊心を賭けた命懸けの戦いであったと思う。

 その精神は、言語、民族、宗教、国家の壁を超えた、共感を与えたに違いない。一方、オリンピック初参加の空手競技は、努力をしたとは思うが、柔道のそれには及ばなかったと言わざるを得ない。

 今後、空手が武道精神を掲げ、それを世界に広め、残したいのであれば、柔道が参考になるのではないか、と私は考えている。今のままでは、西洋の空手(スポーツ)になってしまった感が否めない。しかも劣化しているかもしれないとも思う。断っておくが、私はWKFの批判者ではない。むしろ、極真空手を含め、極真空手を真似た空手人の努力不足を指摘したい立場である。願わくば、空手人が自らの未熟とその本質を認識した上で協力し、新しい空手を作り上げて欲しいと思っている。

 

 蛇足だが、新たなルール改定の可能性を柔道競技の解説者がオープンにしていたことを、さらに嬉しく思った。なぜなら、柔道の若いリーダー達の未来に向けての希望、そして改革に対する、オープン、かつ前向きな姿勢を感じたからである。通常、ルールが変わると、不安や混乱の色を隠せないのが通常だと思う。おそらく、柔道界においては、ルール改定の納得と実行のために必要な「柔道とは何か」という理念、哲学、テーマの共有、そして「日本柔道を後世に残す」という信念が強く芽生えているのだろう。

 

 

追伸:本コラムを 元講道館図書資料部長、講道館柔道八段  故、村田 直樹(むらた なおき)師範に捧げたい。

 

村田先生と私は、現在、増田道場生でもある整形外科医、小山 郁先生の紹介で知り合った。

私に余裕があれば、講道館に出向き、村田先生の武道論を学びたかった。

私の主催する大会も見ていただいたにもかかわらず、お付き合いを疎かにしていたことを後悔している。

村田直樹師範は、私が人生のなかで出会った人の中でも特に上級の人物だった。

また大好きな方だった。享年71歳、とても残念である。

 

8月1日 第8回 月例試合において

 

イベントバナー

 

第9回 月例試合を終えて〜卓球のトップ選手のような…

$
0
0

第9回 月例試合を終えて

 

   緊急事態宣言下、9回目の月例試合を終えた。今回は、コロナウィルス感染者の増加と猛暑の影響で参加者は少なかった。だが、昇段の組手実績を積みたい参加者もいることから、月例試合を実施した。もちろん、喚起、消毒、マスク着用、無観客、定員制、密集を避ける、などなど、感染対策には万全を期した。  

 実は、ここ1週間、私は体調がすこぶる悪かった。猛暑による熱中症ではないかと疑ったぐらいである。リーダーである私がこんな状態では道場生に申し訳ないと思う。そして道場生の方々から元気をいただいていることに感謝したい。  

 

  さて、月例試合の結果だが、参加者は少しづつ顔面ありの組手法に慣れてきたようだ(今後が楽しみである)。だが、ヒッティングの目指すところは、極真空手の弱点を補完、補修することである。その弱点とは体力に頼りすぎるところだ、と言っても良い。断っておくが、極真空手の体力を追求する面は、極真空手の良いところでもある。それゆえに厄介なのだ。もう少し具体的に述べれば、現在の試合方法では、体力でなんとかなってしまう。それゆえ、攻防(攻撃技と防御技の運用)のスキル(技能)が発達しない。この点を改善しなければ、今後、極真空手の武術・格闘技としての価値は下降していくに違いない。そのため、私は新しい組手法・試合法を考案した。なぜなら、技術、技能の更なる向上は、試合方法を変えなければ困難だと思ったからだ。

 

【卓球のトップ選手のような…】

 ヒッティング方式の組手法は、力(スタミナやパワー)に任せて撃ち合うのではなく、機を捉え、より精度の高い打撃を行うこと。また高度な応じ合い(受け返し)の技能を養成することを目標としている。例えるならば、卓球のトップ選手のような、高度なラリー(応じあい)ができるようになることだと言っても良い(実際の卓球は変化球への対応など、ラリー以前に想像を絶する難しさがあるようだ…)。また、そこに至るための修練を行うことにより、極真空手を補完、補修し、さらに良いものとしていくのである。その意味では、まだまだの状況だ。

  

 今後、ヒッティング組手法が他の組手法と比較して、その違いが明らかになるラインまでにはもう少し実験(修練)の量が必要だろう。しかし、試合データが集められてきている。試合参加者には、試合データと映像により、試合結果を振り返りつつ課題を見つけ、その課題をクリヤーしてほしいと思っている。

 

 その今回の試合データをみると、攻撃が顔面への突き技に偏っている。私の想定では、ヒッティング方式の組手では顔面突きに慣れてくれば、蹴り技も効果的となる。特に下段回し蹴りは有効なはずだ。さらに突き技と下段回し蹴りが使えるようになれば、上段の蹴り技も有効、かつ効果的な攻撃だと考えている。さらに言えば、今回の参加者の「技あり」のほとんどが顔面への突き技となっていたのは、参加選手の得意技が一致したというようことではないと思う。誤解を恐れずに述べれば、参加選手の蹴り技の技能が低いことと顔面突きの攻防スキルが不十分ゆえだと思う。今後、その点を検討し、かつ指導方法の修正と工夫をしたい。

 

 

 

デジタル空手武道通信第52号・編集後記

 

  現在、私はヒッティング方式組手法の教本を制作中である。これまで、難しいことを伝えることを遠慮していた。だが、今後はどんどん先に進みたい。なぜなら、全員ではないにせよ、一定数、ヒッティング方式の組手試合の経験者を確保できたからである。そして彼らをさらに上達させることを優先することが戦略的に良いことだと思っている。新しい組手方式に熟達した者が増えてくれば、皆、それに刺激を受けて、上達すると思うからだ。補足を加えれば、本来、やる気があれば、また自らが上達のイメージさえあれば、あとは上達は時間の問題だと思う。

 

 問題はヒッティング方式の組手法の有用性とその上達のイメージを描かせることができるかどうかである。換言すれば、どんな組手が良いのか、どんな戦い方が良いのか、というイメージを描けるようにすることが肝心だということである。

 

 断っておくが、ヒッティング方式の組手は、伝統的な寸止め方式の組手法からも技術を取り入れてはいるものの、その戦い方は、基本的に異なる。あえて言えば、MMAの戦い方から組技を無くした戦い方に近い。ゆえにフック(カギ突き)やローキック(下段回し蹴り)が認められている。本来は、極真空手を行っている人は順応しやすいはずだ。だが、ここ30年あまり、極真空手の組手戦術があまりに接近戦に偏向しすぎて、間合いの調節のための前後の足使い(フットワーク)が無くなってしまった。そのことには大変な弊害があると思っている。一方、草創期から発展期にかけての極真空手は、蹴り技が発展した。その技術はまだ有効だ。その技術を活かしつつ、不十分な間合いの調節能力、動きの中で突き技を正確に当てる能力を発達させれば、まだ極真空手は発展する。だが、そのことに気が付かないならば、発展の可能性は低い。はっきり言って、衰退するに違いない。

 

 私は極真空手方式とヒッティング方式の2つの組手法を両立させたいと思っている。

そして私は空手の可能性に挑戦し、新たな地平を開拓したいと考えている。まだ新たな地に至る地図は完成していないが、必ず残しておきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テニスプレーヤーに触発され〜機先を制する原則と3つの先(プラス先々の先)の実践 

$
0
0

 

 私は、パラリンピックのテニス、また現在行われている全米オープンテニス選手権におけるテニスプレーヤーに触発され続けている。そして、溢れ出した情熱で拓心武術の修練体系の研究と理論をまとめている。

 拓心武術とは、私の考える空手武道修練法(拓心武道メソッド)の核となる理論と技術体系、そして修練法に対し命名したものである。その完成には数年を要するだろう。身体が壊れないこと、そして命が続いて欲しい。

 

 さて、その理論にある「機先を制する原則」というものを公開したい。

想像だが、超一流のテニスプレイヤー達も同様のことを実践していると思っている。もちろん、テニスプレーヤーが「機先を制する」などとは言わないことはわかっている。だが、繰り返すようだが、彼らが有する感性と私のそれは同じであると思っている。

 

 

機先を制する原則と3つの先(プラス先々の先)の実践 

デジタル空手武道教本・修錬用語辞典より

 

1)「先を活かす」とは、自己の仕掛けの起りを相手に察知されないよう相手より早く、先をとり攻撃する事である。これを拓心武術では「仕掛けの先」とも呼ぶ。

 

2)「後の先を活かす」とは、相手の攻撃をいち早く察し(読み取り)、相手の攻撃に対し〈防御×攻撃〉によって先をとり攻撃することである。これを拓心武術では「応じの先」とも呼ぶ。

 

3)「為合いの先を活かす」とは、相手との攻防(試合・仕合い・為合い)の流れの中で先をとり(機先を制し)、攻撃することである。これを拓心武術では「為合い(しあい)の先」とも呼ぶ。

 

 なお、「為合い(しあい)の先(せん)」は後で述べる「先々の先」を到達点としているので、「先々の先」と一体と考えて良い。だが、厳密に言えば、拓心武術の修練における「為合いの先」とは、相手との〈読み合い〉を意識し、それを制する攻撃法である。一方、拓心武術における「為合いの先」を包括する「先々の先を活かす」とは、相手の攻撃の「起こり」が見えないうちに、相手の気を察し(読み取り)、それを制するというものである。すなわち「先々の先を活かす」とは、無益な戦いを回避する道であり、武により自己を活かすのみならず、他を活かす道を知ることなのだ。さらに言えば、先々の先を活かすことは、組手修練の原則のみならず、自己完成のための原則である。

 

 

増田補足

 

 拓心武術における「機先を制する原則」とは、剣術の思想における、〈機・先=先をとる〉という概念を了解してはいるが、全く同じ概念かどうかはわからない。あくまで拓心武術の概念は増田 章が様々な現象の本質を考究し、考案したものである。また、〈剣〉と〈拳〉の違い、修練方法の違い、目的の違いなどがあり、同一の概念かどうかはわからない(私は古武術を尊重するが尊崇はしない)。だが、拓心武術には拳を用いるのみならず、小武器(小刀など)を使う術が含まれている。つまり拓心武術の体系は、その修練を通じ、剣の先達が到達した境地同様、〈武の術〉を〈道の思想〉へ包括、融合していくことを到達点(ゴール)としているのである。

 

 

 なお、拓心武術の修練における「先々の先を活かす」とは、自己との対峙、かつ他者との対峙、そして自他との対話を徹底することと言っても良い。また「読み合い」を活かす組手修練により、自己を活かす武術を自他を活かす武道へ昇華することを企図している。さらに言えば、それを実現するための種子のようなもの、意識と言っても良い。是非、拓心武術の修練者はよくよくこの思想を心中においてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

イベントバナー

 

イベントバナー

 

 

勝つため・負けないための戦術・戦略はあるか?〜「囮技を活かし、陰(かげ)を動かす」

$
0
0

「囮技を活かし、陰(かげ)を動かす」

 拓心武術の戦術理論

 

 

 

【宮本武蔵の五輪書】

 我が国には古の武人が残した兵法書と言われるものがある。その中でも宮本武蔵が残したとされる(新説がある)五輪書は現代を生きる武道人にも示唆に富む書物だ、と私は思っている。

 

 五輪書は、序言(執筆の趣旨、地の巻は兵法の総論、水の巻は我が流の太刀筋、火の巻は勝負の法則、風の巻は他流批判を通じての我が流の主張、空の巻は結び、兵法の窮極の精神の6つの部分からなっている。五輪とは、仏教の言葉で世界を構成する4つの要素、すなわち地、水、火、風に無を意味する空を加えて5つとしたものであるが、本書の仏教の直接の影響は極めて少なく、その命名も教義とは無関係である。(武道秘伝書/編者:吉田豊/徳間書店)より。

 

 

【勝つため・負けないための戦術はあるか?】

 私はこれまで、強敵との戦いを通じ、また、空手や武術の考究の中から、勝つため・負けないための戦術・戦略はあるか。あるならば、どういうものか?ということを考え続けている。

 ゆえに、極真空手の競技者のあり方の稚拙さ、また自分の未熟を思わざるを得ない。一方、力や持久力、さらに数で圧倒しようとするあり方は、戦いに勝利するため要素だと思っていある。

 しかしながら、個で相手と対峙することを基本とする武人の立場に立った時、空手は自己を活かすような戦術の考究がなされていない。また、他者との関係性を如何に制するかという視点を欠いていると言えば言い過ぎだとすれば、希薄である。ゆえに、一方的な戦術しか見られないのが現状である。さらに言えば、それが戦術と言えるかどうかも疑わしい。

 我が国の伝統として、武人の戦術・戦略論を書き記したものを兵法書と呼ぶ。また、我が国は武士階級が全国を支配する封建制社会が長く続いたこともあり、武人の書き記した兵法書が数多く残っている。その中でも16世紀の後半から17世紀前半を生きた宮本武蔵の兵法書は独自色が強い。その独自性は、兵法書の多くが儒教や仏教などの影響を色濃く受けている感がするのに対し、武蔵の兵法書は、職人や芸術家のあり方を例えに用いた部分に示されている。それゆえ、平易ながらも現代にも通用するかのような普遍性を帯びている。武蔵がそのような感覚を有していたのは、武蔵は書画や彫刻に卓越した才を有するのみならず、諸道に対する造詣が深いことによるに違いない。ちなみに、武蔵は国宝級の優れた書画をはじめ、彫刻や歌を残している。

 

 一方、武蔵が生きていた頃と現代の武は、武器(兵器)の進歩により、比較にならないぐらい変化している。ゆえに武の理論としては稚拙と見る向きがあるかもしれない。その代わりと言っては語弊があるが、現代における各種スポーツにおいて見られる戦術理論との共通項はある。また、ビジネス、政治の世界における人間対人間、個対個の戦いに負けないために、400年以上前の社会を生きた、武人の思想の中に示唆を得るものがあると思うのは私だけだろうか。

 

 私は未熟な極真空手家ではある。その分をわきまえず、あまりにも稚拙な我が流を嘆いている。一方、交通手段や通信手段の発達により世界中がつながった現代において、極真空手は流派として世界最大とも言えるくらいに門弟の数が多い。1時期は、極真空手の勢力が武道界を制覇するかの様相を呈する時期もあったように思う。だが、創始者、大山倍達師範の死後、脆くも大きな組織が分裂し、分かれた組織同士が互いの覇を争っている。そのような状況においては、武蔵の述べる兵法など、無力のようにも思う。

 しかしながら、私は個人の心身の可能性を広げ、その能力を高めていくような空手道を創り上げ、かつ広めたい。その意味では、数を多くし、かつ他流に対し、門弟の数、組織の規模において勝ろうとは考えていない。そのかわりに、一人一人の心身に深くアプローチする新しい武道を確立したい。また、より広く、より多様に武道を生かしていきたい。それが私の本当にやりたいことであり、空手道の質を高める道だと考えている。

 

 

【囮技を活かし、陰(かげ)をうごかす】

 

 さて、宮本武蔵の五輪書、火の巻に「かげをうごかす」とある。一方、私が門下生に伝えているTS方式(ヒッティング方式)の組手法の核にある拓心武術の戦術理論に、「囮技を活かし、陰(かげ)をうごかす」というものがある。それは、武蔵の「かげをうごかす」と同義だ。そのことについて以下の述べたい。

 

 まず、武蔵の言う「かげをうごかす」とは、増田流に大掴みに言えば、「相手の手の内を知って戦え」という教えである。具体的には、フェイントを使い相手の反応の仕方を探り、それに対して間髪を入れず的確な対応をせよ、というようなことを述べている。

 

 私は、武蔵のいう「かげをうごかす」という戦術理論を「3手決め」の稽古の中に組み込んでいる。だが、中々、その真意が伝わらない。また、武蔵の「かげをうごかす」の意味を大掴みに意訳して述べたが、「かげをうごかす」を「フェイント」を使うと短絡してはいけない。言い換えれば、「フェイント」の行為自体が大事だと勘違いしてしてはいけない。おそらく、そのようにしか理解していない者がそのほとんどだと思う。言い換えれば、フェイントという戦術を一つの技として理解している人がほとんどでだということでもある。それは空手選手しかり、スポーツ選手然りでありである。ゆえに正確な拓心武術の戦術理論では、囮技をフェイントとは言わない。

 

 少し脱線すれば、世の中には優れた戦術を身につければ、勝てると勘違いしている人たちがほとんどである。よって、そのような技術書が世に氾濫している。だが、そのような理解では決して負けないような強さは身に付かないと言っておきたい。

 

 また誤解や反論覚悟で述べれば、戦術は技術を含むが技術ではない。戦術の本体とは、技術を活用する技能のことであり、その活用法のことである。その技能の本体は、心身に構築された回路と言い換えても良い。拓心武術の眼目は、そのような回路の構築にある。ゆえに拓心武術の戦術理論においては「囮技を活かし、陰(かげ)をうごかす」ことを教えるのだ。要するに、武蔵の「かげをうごかす」とは、囮の技を用い、相手が隠していた、反応の癖や戦術など、すなわち手の内を見えるようにする方法なのである。私は、フェイントと先述したが、その意味を理解していない人が大勢いると考えている。それを述べたいがゆえに、あえて「フェイント」という用語を使ったのだ。

 

 話を戻せば、「囮技を活かし、陰(かげ)をうごかす」とは、敵の心(陰)が見えない時、その心を見えるように誘導することである。同時に、相手の動きが目に見えた時には、間髪を入れず、かつ的確に対応することを意図している。さらに言えば、そのような戦術理論を意識しながら組手を行うことで、相手の予測ができるようになり、より的確な対応(技)が迅速にできるようになるのである。つまり、拓心武術で行う「3手決め」の稽古とは、「囮技を活かし、陰(かげ)をうごかす」という戦術理論を体得する方法なのだ。

 

【TS方式の組手がうまくできない者は】

 TS方式の組手がうまくできない者は、戦術理論というものが理解できていないからである。あえて書くが、これまでの極真空手の組手法で通用した戦術を絶対としてはならない。顔面突きの攻防が基本となる戦いにおいては、まず拓心武術の戦術理論を理解してから稽古をして欲しい。さらに極真空手家の一部が顔面突きの攻防ありの戦いにおいて勝利しているのは、極真空手で鍛えた体力において相手より優っていたからか、相手の攻防の技術が稚拙ゆえだ、ということを肝に銘じ、更なる修練に励んで欲しい。

 

参考文献

かげをうごかす

 

かげをうごかすと云事、陰をうごかすと云は、敵の心の

見へわかぬ時の事也、大分の兵法にしても、何とも敵の位の見わけざる時は、

我かたよりつよくしかくるやうに見せて、敵の手だてをみるもの也、手だてをみては、各別の利にて勝事、やすき 所也、亦、一分の兵法にしても、敵うしろに太刀を構、わきに かまへたるやうなる時は、ふつとうたんとすれば、敵思ふ心を 太刀に顕す物也、あらハれしるるにおゐては其儘利を受て、慥(たしかに)にかちしるべきもの也、ゆだんすれば、拍子ぬくるもの也。

能々 吟味あるべし。

 

Moving the Shadow 

 

Moving the Shadow is something for when you cannot see through 

your opponent's mind. Even in martial arts situations involving large 

numbers, when you cannot see through your opponents' situation in 

 

any way, act as though you were going to attack vigorously and you will 

see their intentions. Once you have seen their intentions, it is an easy 

thing to take the victory by another method. 

Again, in martial arts situations of one-on-one, when your opponent 

has taken a stance with his sword behind him or to his side, if you make 

a sudden movement as if to strike him, his thoughts will be mani- 

fested with his sword. Knowing these manifestations, you will imme- 

diately perceive a method and should know victory with certainty. If 

you are negligent, you will miss the rhythm. You should investigate 

this thoroughly. 

 

「対訳 五輪書」現代語訳:松本道弘 英訳:ウイリアム・スコット・ウィルソン

講談社インターナショナル

 

 

 

追伸

 

その1

 

【第10回 月例試合の感想】

 

 本日、9月26日(日)第10回 月例試合が行えわれた。最初はコロナの影響で参加者は少なかったが、ここ1週間の感染者の減少による影響か、定員に達した。だが、初試合の者の者が半分以上を占め、かつ少年部と高校生部の参加だった。

 

 壮年部の上達状況から、まだまだだろうと思っていたが、予想以上に上達していた。ここ1週間腰痛が悪化し、稽古ができなかった。4日間は杖を使って歩いた。ここまでかとも思ったが、持ち直した。治療に当たったトレーナーに感謝したい。

そんな中、我が道場生の上達が非常に嬉しかった。間違いなく、稽古を続ければ、今回の3倍は上達するだろう。あとは、稽古法と戦術理論の確立を急ぎたい。そうすれば、私の構想が実現するに違いない。しかし、恐れているのは時間である。今日、素晴らしかった道場生も学校を卒業し、空手を続けられるかどうかわからないからだ。要するに、上達するには稽古の継続、すなわち時間が必要なのだ。私も同じである。だが、私に残された時間は少ない。ゆえにより早く、上達させる方法と、長く空手を継続させる仕組み、環境が必要なのである。だが、頑張ろう。そう思えた1日となった。月例試合の詳しい報告と映像は10月の始めに予定しているデジタル空手武道通信に掲載したい。

 

 

その2

【昇段審査における組手試合の感想】

 以下に9月23日に行われた昇段審査の感想を述べておく。

 

 私の道場では、極真空手を母体に顔面突きの攻防がある組手試合を行なっている。それをTS方式というが、極真空手を母体としていると述べた意味は、防具を着用して直接打撃を行うこと。空手流派の中では日本拳法空手道、そして極真空手が最初に取り入れたローキック(下段回し蹴り)を使うところにある。その他は、極真空手にない技術を様々な武術、格闘技から取り入れている。また、私が考案した防御技術を基本としている。さらにグローブを用いず、素手に近い状態で、手首を掴んだりすることも可とし、かつ様々な手技を使うことが可能となっている。今後も中国拳法をはじめ、様々な技が取り入れられるに違いない。

 

 だが、最も重要なことは、組手の目的が組手技能の体得だということである。その目的を達成するためには組手における戦術の駆使ができなければならない。そのためには、先ず以て、組手における戦術の意義が理解されていなければならない。本日の昇段審査の組手試合を見て、全員に組手の戦術が理解されているとは言い難かった。

 

 約1年前、私の道場では、コロナウィルス感染拡大の渦中、飛沫感染を防ぐ効用もあることから、顔面突きの攻防ありのTS方式の組手の実施に踏み切った。当初は、理解されないかもしれないとの不安もあった。だが、師範代と壮年部黒帯有志の理解と協力により、少しづつ理解されはじめている。とはいえ、まだまだ理解が浅いようだ。その原因は、私の説明下手と説明不足だ、と反省している。ゆえに戦術理論の構築と執筆を進めたい。

 

 補足すれば、私の道場では、道場における稽古以外に、教本による空手武道理論の指導をしている。しかしながら、驚くほど、理論の理解がされていないようだ。誤解を恐れずに言えば、道場生のほとんどが空手に理論が必要だということがわかっていないのではないかと思っている。また、私の理論を理解しようとしていないのだと思う。だが、断言したい。自分を天才だと思う者以外は、理論の考究が必要である。

 

 

 

 

 

 

 

 

「打つということ」〜打つと当たるということ(拓心武術理論)

$
0
0

「打つということ」〜打つと当たるということ(拓心武術理論)

 

 

【TS方式の試合を行えば、必ず一人ひとりの可能性を開拓する能力が向上する】

 

 拓心武術とは、私が極真空手を基盤に様々な武術、格闘技を取り入れ編集した武道修練法である。その内容は、打撃技の活用を主とする拳術、組技や逆技の活用を主とする柔術、その他、小武器を活用、かつ対応する無刀術に分けられる。

 

その拳術の修練法の一つがTS方式(ヒッティング方式)の組手法である。その修練を一般稽古に採用して、早くも1年を経過しようとしている。

 

 先日、私の道場では第10回・月例試合が行われ、多くの少年達が新しい組手法の為合い(試合)を行った。そのほとんどが初試合だったが、一所懸命に組手を行う姿にある確信を持った。

 

 それが「どのような確信か」と言えば、「TS方式の試合を行えば、必ず一人ひとりの可能性を開拓する能力が向上する」ということである。ただし、その能力の獲得の仕方が理解されてないようにも感じた。

 

【可能性を開拓する能力】

 

 ここでいう私が考える「可能性を開拓する能力」とは、子供が言葉を覚え、言葉を使い、他者とのコミュニケーションを行う能力と同様のものである。また、その能力の獲得によって、人間は自己をより良く活かす方法を体得し、かつ他者を活かす方法を理解していくということと言っても良い。

 

 そのように言えば、多くの人に理解されないのはわかっている。だが、あえていうのは、私が説明が下手なのと、そのことが私の一番伝えたいことだからである。

 

 補足すれば、TS方式の組手は、技を乱暴に使い、相手を破壊するような組手を基本としない。TS方式の組手法の目指すところは、言葉を使って相手と正確に議論するような組手をおこなうことである。言い換えれば、相手の技を受け止め、かつ、それを契機に自己の技を活かす能力を体得することである。

 

【予測力】 

 その核心を述べるには、もう少し時間をおきたいが、今、仮に予測力と言っておこう。その予測力とは、相手の技(言葉)の意味をほんの1~3手読むだけの能力である。だたし、その能力を身体で表現・発揮するには、相手との身体を使ったやりとり(対話・組手)の訓練が必要である。その訓練を意義あるものとするには、組手修練法に自己の脳と身体により良く戦うための神経回路を構築するような必然性がなければならない。また、その回路を構築するための強い意志が必要である。

 

 今、私が考えている武道とは、格闘技の試合のような、「誰が一番強いか?」というような見せ物的な価値と一線を画すことになるだろう。また、幻想と権威主義により偏向していった空手道を乗り越え、新たな価値を発見するに違いない。

 

 その価値は、身体的な才能の有無に関わらず、その修練を行う者全てに益をもたらす。また、学術、文学、芸術の分野とは別の新しい領域で、各々の心身の可能性を拓くようになる。だが、その目的を実現するには、リーダーに高い理念、哲学が必要である。言い換えれば、高い志を有する武道人が必要になる。これ以上は、私の妄想ととられるに違いないのでやめておく。

 

【「打つということ」〜拓心武術における〈打ち〉について】

 

 さて、現在、拓心武術の戦術理論を少しづつまとめている。今回はTS方式における技ありの基準である、「拓心武術における〈打ち〉」について述べたい。

 

 TS方式の組手では、決められた目標(ヒットポイント)に正確に技を当てることによって「技あり」を奪い合う。ただし、試合規程では「クリーンヒット」と認めなければ「技あり」とならない。

 クリーンヒットとは、ただ目標に攻撃技を当てるのみならず、攻撃技をなるべく目標の中心の1点近くに正確に当てることが大事である。さらに、その攻撃技を繰り出す際、踏み込み、重心移動、気合(発声)が伴っていることが必要だ。

 

 ゆえに、TS方式の組手試合では、攻撃技が当たっても技ありにならないことがある。そのことを目にした人は、「なぜ、今の攻撃が技ありにならないの?」と思われるにちがいない。

 

 だが、拓心武術の修練法の一環であるTS方式の組手試合では、「当たった」「当てた」ということと「打った」「打たれた」ということは別物だとしている。さらに誤解を恐れずに言えば、拓心武術の修練では、技を「打つこと」を目指す。必然として「打つこと」を理解していない「当てる」は「当てっこ」となるに違いない。

 

 

【本当の勝ち(勝利)】

 ここで一旦整理すると「正確性」「踏み込み」「重心移動」「気合」の全ての要素を含む能動的な行為(攻撃)が「打つ」ということである。

 

 だが、現実はそのような技術・技能を表現・発揮することは容易ではない。ゆえに、前述した要素の一つぐらいは不十分であっても「技有」と認めるようにしている(現時点では)。なぜなら判定をあまりに厳しくすると、前進が困難になると思うからだ。もちろん、2つ以上の要素を欠き、能動的ではない攻撃は「技有」とは認めない。

 

 また、拓心武術の修練は、絶えず変化する中、攻撃技のみならず防御技を組み合わせ、新たな技を創出する能力の体得を目指している。そのために、局面において「勝ち」を制し、かつ「敗け」を退けることを目指す。言い換えれば、「勝ちを創出し敗けを無くす道」が拓心武道であり、その技術と技能を体得する手段が拓心武術だ。それゆえ、攻撃技を当てる技術・技能の体得のみならず、防御技を活かし、かつ攻撃技を活かす技術・技能の体得を目指すのだ。

 

 さらに言えば、防御技を活かし、かつ攻撃技を活かす技術・技能を能動的に発揮して生きることが、本当の勝ち(勝利)なのだと私は考えている。ゆえに、単なる相手に当たっただけの打撃技は「打った」とは認めず、ただ「当たった」として判定し、「技あり」とはしないのである。

 そういう意味では、試合という手段も、それだけでは十分な修錬とはなり得ない。ゆえに試合結果に一喜一憂してはならない。あくまでも、試合とは、試合結果の底辺(裏面)にある、見えない領域を考究する手段だと心得てほしい。

 

【宮本武蔵の兵法】

 私の考えと通じる思想として、宮本武蔵の五輪書に「打つと当たるの違い」という項がある。今回はTS方式の組手法における戦術理論について書いた。途中、武蔵の思想を挿入したが、私の考えと武蔵の考えには相違があるかもしれない。だが、武蔵の述べていることは、より深い視点で「太刀が当たる」という現象について考究していること。また、能動性の有無が卓越した技能を発揮するために必要だと考えている点では、私の考えと一致する。

 

 

 我が門下生は、今回、デジタル空手武道教本にアップした試合の映像を見て、しっかりと吟味してほしい。より詳しい指導はこれから追加する。現時点では抽象的な言説となっているが、より具体的な説明と指導法を確立したい。もう少し待っていて欲しい。同時に、私の説明を待つのではなく、自らが能動的に私の戦術理論の理解に務めてほしい。

 

続く:その2に補足を書いた。

 

参考文献

「対訳 五輪書」現代語訳:松本道弘 英訳:ウイリアム・スコット・ウィルソン

講談社インターナショナル

 

打つと当たると云事:原文

 

 打とあたると云事、打と云事、あたると云事、二ツ也、打と 云心は、いづれの打にても、思ひうけて慥に打也、あたるは、ゆきあたるほどの心にて、何と強クあたり、忽、敵の死るほどにても、 是は、あたる也、打と云は、心得て打所也、吟味すべし、敵の手にても足にても、あたると云は、先、あたる也、あたりて後を、 つよくうたんためなり、あたるは、さわるほどの心、能ならひ得 ては、各別の事也、工夫すべし 

 

 

打つと当たるということ:現代語訳

 

 打つと当るということ、 打つということと、当るということは別物である。

打つと いうのは、 どのような打ちかたにしろ、心に決めて、確実に打つことをいう。当るというのは行き当るといったほどのものであり、とても強く当って、 たちまち敵が死ぬほどであっも、これは当りにすぎない。打つというのは、心に決めて打つことである。その点を研究しなければならない。 敵の手でも足でも、当るというのは、 まず当ることである。 当ったあとに、強く打つためである。 当るというのはさわるというほどのことである。よく習得した ならば、これらはおのおの別のことである。工夫するように。 

 

Viewing all 480 articles
Browse latest View live