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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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顔面突きありの空手と私との出会い

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 新しい組手法をスタートした。唐突に思われたり、流行を追っているのだと勘違いされると心外なので書いておこう。私は決断力のない男である。その証拠に、ほぼ極真空手の修行をしてきた40数年間も悩んできた。こんな空手で良いのかと。誤解は必至だろう。極真空手が嫌なわけではない。なぜ変えないかが理解できなかった。私は変える方法はあると思ってきた。しかし、多くの人が変えられない。否、変えたくないと思っているのかもしれない。また、何も考えていないのだろう。考える人は、極真空手(極真会館)を去った。また、隠れ〇〇として極真空手とは異なる稽古をしているのかもしれない。語弊があるが、私は、もっとオープン、かつ包括的な修練体系を作るべきだと考えている。だが、現在の組手法を採用している限り、様々な問題点があるだろう。だからこそ、代表的な組手修練法を伝統的な極真スタイルの組手法と顔面ありのスタイル(新しい組手方式)の組手法の二つを可とするのだ。そうすれば、細かい相違点は、各人の創意工夫として包摂できる可能性が拡がる。

 

 ストレートに言う。私は極真空手を変えたい。なぜなら、極真空手は私にとって最高の空手だからだ。帰る方法は難しくない。それは極真空手の伝統を変えることではない。具体的には、伝統的な極真方式の組手と私の考案した防具を使ったヒッティング方式の二つの組手法を行えうことだ。この二つの組手法は直接打撃制と言う点、極真空手が取り入れてきた、ムエタイやキックボクシングの技をほとんど使える。加えて、伝統的な空手の技をヒッティング方式では試せる。また、互換性というと語弊があるが、防具を使えば、空手の打撃技のほとんど全てを使うことが可能だ。ただし、エンターティンメントスポーツとしての面をヒッティングは追わないというのが基本線だ。そのことに関しては、必要とあらば詳しく説明するが、今はその時ではない。もう一つ、提案のための補足を加えたい。伝統的な極真スタイルは攻撃技の威力とスタミナ、などを重視する組手法、そして競技とすれば良い。一方、防具を使ったヒッティングは防御技と攻撃技の使い方(応じ)とその感覚を重視する組手法、競技とすれば良い。また後者(ヒッティング)は女性や年配の人達にも安心して組手稽古をさせられるむ組手法となる(指導者として考えた場合)。さらに、難しく言えば、ヒッティング方式は「機」を重視し、それを捉える組手稽古である。

 以上のように稽古の観点(目標)や意義(目的)を分けて考えれば良い。そのように考えれば、極真方式とヒッティング方式の二つは補完しあい、両方の組手法の意義を高め、かつレベルを上げるということがイメージできるはずだ。さらに言えば、防御を考えるということは武道としてのレベルをあげる。また、攻撃の意味と意義を極めることができる。

 現状は私と他の人との空手観に相当な開きがある。どうしてだろう?私は極真空手が最高の空手になり、そして伝統の武道となり、そして文化となる可能性を明確にイメージできるのに…。

 

 

 

【顔面突きありの空手と私との出会い】

 

 振り返れば、顔面突きありの空手と私との出会いは、今に始まったことではない。私は極真空手を始めた40数年前から、すでに顔面突きありの空手の稽古を始めていた。それは極真空手の手ほどきを受けた先生が伝統空手の出身だったことに起因する。また、私が初めて習った空手が伝統派空手だったこともある。もう一つ重要なことは、私は、高校生の時に伝統派の全日本のトップクラスの先生と防具空手の他流試合を行なった(私は極真空手の代表)。私は、その他流試合に敗れた。その時から、私は空手には多種の流派があること。他流派にも素晴らしい空手家がいること、様々な技術があることを知った。同時に、もし再び手合わせをしたなら、負けないように、と研究と準備をした。ゆえに高校生の時以来、私の研究はボクシングやキックボクシンに及んだ(私は10数年前にボククシングジムを経営したこともある)。その間、私は、道場では顔面突き有りの空手は封印してきただけである。

 ゆえに、時に極真空手にはマイナス(邪魔になる)になるような稽古を行なったりした。問題は、その意識が絶えず私を苦しめたことだ。それは近い間合いで戦うことに対する違和感と嫌悪感だ。おそらく、極真空手しか知らない者が、負けることの嫌悪から近い間合いで戦うように、極真空手以外を知っている私には、安易に近づくことが負けにつながると感じるからだろう。また、中学と高校で柔道とレスリングを少し経験した私は、接近戦でのどつき合いは、どうしても次の展開が見えてきてしまうのだ。断っておくが、接近戦は有効な戦術を展開する可能性を含んでいる。接近戦は、組み技のみならず、組み技と打撃技を組み合わせた高度の技を生み出す可能性もあるだろう。ゆえに、私は接近戦を否定しないし、接近戦の可能性は追求したい。しかし、そのことと組手稽古の理想的在り方とは次元が異なる。現時点では、あまりにも安易な戦術と組手術が蔓延っているように見えることは否めない。

【親鸞や武蔵のように】

 4、5年前から私の身体は、加齢と傷害でダメになってきた。そんな中、どうしても自分の研究してきた空手を後世に残るような武道にしたいとの思いが強くなってきた。もう残された時間がない、そんな思いで毎日を生きている。

 

 そんな中、数年前から昔より扱いやすい防具ができたことや極真会館の松井館長と長年の確執を越えて、和解した。先述したような後世に残るような武道の創出は私の道場の規模では困難を極めるのが実情だ。しかし、松井館長と私の極真空手観に共通するところがみられたことで気持ちが変わった。現在の私には、極真空手の技術が変質、偏向してきたのを見て、一石を投じなければならないとの思いが強くなっている。つまり、私を育ててくれた極真カラテに恩返しをするために、極真空手家のレベルをあげること。流派を残すことは困難かもしれないが、意識レベルをあげることはできるかもしれないと思っている。たとえ、表向きが私の思想への嫌悪感や批判であっても、私は構わない。少しでも意識レベルが変われば良い。 私が死んでもやりたいことは、極真空手を本物の武道にすることだ。偉そうだが、親鸞や武蔵のようになりたい。だが、荒野をひとり往くような人生になるだろう。否、野垂死にかな…。

【本当の伝統とは何だろう】

  ここで断っておくが、私は決して極真空手の伝統を否定するわけではない。だが、本当の伝統とは何だろうか?私は今、それを考える。私が考える、本当の伝統とは社会に価値あるものと認められ、未来に向けて、その価値を永続していくことである。難しく言えば、新しい価値を創出していく、意味の生成システムとしての機能を維持し続けることだ。

 

  換言すれば、それが文化というものなのだ。つまり、極真空手が文化になること。それが未来を託されたものの役割と責任だと思う。これ以上、難しいことを言っても理解されないだろう。しかし、私の言うことが、きっとわかる日がくると信じている。わが斯界に、リーダーと言える人物がいるとすればの話だが…。

 

 

 

 

 

【蛇足】

 ならば、極真をやめれば良い、と思う人もいるに違いない。実際に言われたこともある。だが、それをするには、あまりにどっぷり極真空手にのめり込んでしまったようだ。極真空手を自分のように考えている。同時に極真会の仲間を家族のように思ってしまう。仲は良くないが…。これから、名ばかりの極真空手人が増えていくだろう。しかし、極真空手人が武道人として、もっと高次元になれば、私のいうことが理解できるに違いない(偉そうだが)。

 

 以下に稽古風景をアップした。まだ数回しか稽古していない。しかも3ヶ月ぶりの組手稽古である。上手くはない。しかしながら60代半ばの人、50代半ばの人、20代の者達が安全に組手稽古を行えた。もちろん、私の稽古法が確立されているからであるが。上達には、1年ぐらい、この稽古法を続けること。もう一つ、試し合い(試合)を行うことだ。この試合法が、上達の重要点である。果たして、拓心武道メソッドが我が門下生に伝わるだろうか…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


拓心武道哲学〜ある日の呻吟

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今、これまでの修行の成果を未完成ながら、拓心武道メソッドとして残したい。そのために、野垂れ死にを覚悟で最期の準備をしている。願わくば、私の考える武道完成のための協力者、同志を求めている。以下に、再考を要するものだが、思索メモを掲載したい。

 

 

【拓心武道哲学〜ある日の呻吟

 

 

 

 【武道とは】

 武道とは、体系化された修練体系を有する武術の総称であり、かつ人間形成のための普遍的哲学が示されているもの、と私は考える。

 ゆえに武道を学ぶ、武道の門をくぐるということは、修練体系を我が物とすること、そして理念を体現する人格を創り上げるという意志がなければならない。ところが、そのような意志、心構えを有する武道人は僅かだ。その原因は、武道というものが正しく理解されていないからであろう。

 今一度、武道を掲げる人達は、武道とは何か?を見直すべきだと考えている。そして、我が国の文化が生み出した、武道という「人間道」を大切に扱うべきだと思う。ここで断っておく。武道には古典武道もあるが、私のいう武道とは、古典武道ではない。今、古典武道は技を保存することに意義を見出しているかのように見える。もちろん、それは必要なことだ。しかし、私の考える武道とは、時代の変遷の中、形を変えたとしても、我が国の魂の継承がなされているものを言うのだ。

 その魂とは何か?私の考えは、「自他の対峙を極める」と言うことである。自他との対峙は、他国にもあると思われるかもしれない。だが、対峙の仕方が我が国の場合、特異だ。詳しく述べることは機会を待ちたいが、我が国に真骨頂は、自他の対峙を極めようとする指向性だ、と私は考えている。その思想の糸口を少しだけ述べれば、「自他が別ではない」という感覚である。

 

【武道は勝者を最上としない】

 さて、武道においては、まず武術における自他の活用法(自己と他者、自己と道具も含めて)を極めることが重要だ。次に人間形成に影響することとして、稽古に対する態度、試合に対する態度、他者に対する態度、勝利に対する態度、敗北に対する態度を重要とする。言い換えれば、事に際し、己に対する態度を天に恥じないものとすることだ、と私は考えている。

 ここで言う「天」とは、自然の道、自然の理法のことだ。そして、天に恥じないとは、決して人の考え方は多様だなどという考えに妥協することではない。増田流に言えば、自然の理法の方から見て文句の言えない事、すなわち真理の方から見て正しいと思えるものである。言い換えれば、何百年の歳月を経ても、人間が認めざるを得ない生き方をすることと言っても良い。そのような生き方を先達は「誠」と言った。そして誠を実践し、かつ具現化するのが人間の道、すなわち人間の理想的生き方であると喝破した。これは、増田流の「誠は天の道なり。之れを誠にするは人の道なり(大学)」の解釈である。だが、それを見極めるには、数百年の歳月を必要とする。

 

 まず、我々に出来ること。それは、武道を志す者は、すべからく、今の態度をより深く見つめ、戒めるべき、と言う事だ。特に我々は、一時の感情に左右された態度を戒めなければならない。そのため作法を大事にする。なぜなら、作法によって自我を抑制することが、自然の理法と自己とを合致させつつ己を活かす方法だからである。自我を恣意的、かつ奔放に発散することは、自然に飲み込まれた状態だ。武道は自然の理法と合致し、それを活かすことを目指すが、飲み込まれることを戒める。なぜなら、自我の尊大な主張は自然ではあるが、それは自我と言う自然に自己(真己)が飲み込まれ、暴走した状態だからである。以上は私の深く反省するところでもある。

 私は、武道の究極は自己と他者が一体となる境地に立つことだ、と考えている。それでこそ不敗の境地に立てる。武術は勝者を目指す。その目標設定とその追求によって、最上の技術を生み出す。しかしながら、武道は勝者を最上としない。武道の最上は、絶えず相手を尊重しながら自己を不敗の地に立たせるものだ。だが、我々の作法を武道の社会独特のものだとして訝しく思う人もいるかもしれない。しかし、形には心が宿る。否、完成された形は、心が研ぎ澄まされ、高まらなければ顕れない。我々の目指す形は、そのような形である。また、皮相的な形だけを見るのではなく、その奥にある心の次元で形を見なければならない。

 

【武道とは武術の理法と人間形成のための普遍的哲学を備えたもの】

 実用的な武技、武術の中には、機能美とでも言えるような形を創り上げたものもある。また、そのような形を表現する者の武技、武術は卓越した職人芸のようでもあり、かつ芸術の部類に入れても良いと思えるほどの独創性も内在していると思う。ゆえに武人を評価するには、まず武術の次元から見て、その能力が卓越しているかどうかが重要になると思われる。だが、私は優れた武人になれなくても、人間の道と併行した「武」を見つめる「武道(拓心武道)」と「武道人」を追求していきたい。なぜなら、私にとっての「武」は「文」を支えるための支柱のようなものだからだ。とはいうものの、私が歩んだ「武の道」も「文の道」も中途半端で話にならない。だからこそ、私はいつも呻吟する。己の人生のあまりの不甲斐なさに…。

 とにかく、武道は武術をルーツとするが、武術とは次元を異とする「道」なのだ。ここで言う「道」とは、技術の面から言えば、「原理」と「応用」が構造化されているものである。言い換えれば、「理法」が内在するものである。また、人間形成の面から言えば、普遍的哲学、そのものだ。つまり、「武道とは武術の理法と人間形成のための普遍的哲学を備えたもの」なのである。

 私は、なんとしてでも生きている間に本当の武道を開きたい。残された時間はもう多くないだろう。誤解を恐れずに言えば、私の後をついてくる人はほとんどいないだろう。あまりにも山奥に分け入っているから(遭難の可能性もある)。ゆえに、お世話になった人達のために、一日も早く、道場の後継者を育成したいと思う。そして最期の修行を全うしたい。

 

 

2020-7-25:一部加筆修正

 

 

私の歩む道は

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 【私の歩む道は】

 以下は私の主宰する空手道場のサイトに告知掲載した内容であるが、本サイトにも記しておこう。そんな気になったのは、私の考案した拓心武道哲学に対する確信と古株の会員道場生の参加が嬉しかったからである。また、自信になった。

 思い起こせば、私の歩む道は、いつも荒野だった。本当は平坦な道が良いと思っている。平坦な道を行けなかったのは、私の性質が変だったからだ。実は、横道に逸れず、真面目で誠実な人生を送りたい、と私はいつも思っている。また、そんな人生を送る人を尊敬している。同時に不器用で失敗だらけの人生を送っているように思える人を見ると、胸が苦しくなる(余計なお世話だと思うが見ていられない)。そして、自分にもっと力があれば…と妄想したりもする。

 講習会の後、就寝前に嘉納治五郎先生の著作集を手にとった。嘉納先生の本には付箋がたくさんつけてあった。その部分を再読して、ようやく理解した。これまで完全に理解していなかった。私はボンクラだ。

 とにかく、現時点では、「まだ可能性はある」と、自分を信じることができている。まだ…。

 

 

【組手講習会の報告】

 7月26日にTSアドバンス方式の組手講習会を行いました。新型コロナウイルス感染の第2波が懸念される中、キャンセルも出ましたが、多くの有志が集まりました。

  TSアドバンス方式の組手法とは、増田の考案した空手武道修練法、「拓心武道メソッド」の中核の修練法です。また、極真空手を基礎としながら、顔面突きありの組手法です。偶然ですが、新型コロナウィルス感染の予防対策に良いと思います。なぜなら、TSアドバンス方式(顔面突きあり)は、面防具(顔の正面が完全にプラスティックシールドに覆われている)、胴プロテクター、拳プロテクター(現在、拳プロテクターは全員に行き渡っていません)、すねプロテクターなどを装着し、相手との直接接触が少ない組手法だからです。ゆえに、コロナ問題の中でも、実施可能と判断しました。ゆえに、コロナ問題の中でも、実施可能と判断しました。また当日は、武道場の窓を全開にし、人数制限を設け、消毒、マスク着用、発声なし(増田のみ)で3密を避けて行いました。

 私は、この組手方式を道場における空手武道稽古の標準にしたいと考えています。今回、私より年上の還暦を越えた会員道場生も多く参加してくれました。皆さん良い動きをしていました。残念ながら、みなさんは気づかなかったと思いますが、増田の身体は限界に近づいています。あと何年もつかわかりません。だからこそ、気力を振り絞って後継者を育成しなければならないと考えています。私は、会員のみんなが健康であることをいつも祈っています。TSアドバンス方式の空手武道組手法は、しっかりと体の管理さえすれば、80歳を越えても行えると考えています。そのことを目標に創りました。剣道と同じです。

 今回の講習会の内容は映像で3種類以上に分けて編集します。あとはデジタル空手武道教本で重要ポイントを解説していきます。

 最後に、顔面ありのTSアドバンス方式の組手法は武道の修練法です。ゆえに作法を重視します。また哲学(物の見方、考え方)を重要にします。ゆえに、単なる勝敗を競う競技ではありません。理解できない人もいるでしょうが、妥協はしません。そして矛盾するように聞こえるかもしれませんが、TSアドバンス方式は、拓心武道哲学と一体化させて行えば、テニスや卓球、将棋のように楽しく、かつ奥が深いものになる、と私には強い確信があります(問題は私一人の道となる可能性もあるということ)。

 繰り返しますが、大変な社会状況にも関わらず、増田の考案した新しい空手武道修練法に理解と協力をしてくれた黒帯有志に感謝しています。

 ありがとうございました(増田)。

【講習会の様子】

◎講習会の模様はデジタル空手武道教本のサイトに、組手防御技編、組手形の応用稽古編、組手稽古編と3編に分けて掲載します。

 

↓心の友へ向けて〜以下に、偉そうですが、拓心武道哲学を語っています。

 

実績も大事。しかし最後に残るものは哲学だ。その哲学は普遍的であり、かつ独自の個性が反映されていなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

HITTING〜古くて新しい組手法に向けて

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【2020年8月8日】 

 新型コロナウィルスの感染拡大の第2波が始まっているようだ。墓参りに金沢に帰りたいが帰れない。また、もう何ヶ月間も会食をしていない。たまには友人、知人と会食して旧交を温めたい。

 飲食店を経営している人達が気の毒だ。私が肝臓さえ強ければ、飲みに行ってあげたい。だが、私には責任があるので厳しいのが現実だ。

 今後の対応で重要なのは、私が見るところ、医療体制の充実が一番だと思っている。また正確なデータ収集と分析だろう。医療体制に関しては、もっと国が動いて、早くやった方が良いと思う。またデータ収集と分析だが、今ひとつわかりにくい。専門家の方々も頑張っていると思うのだが…。私はやはり専門家のみならず、センスのあるリーダー、すなわち政治家が分析し判断するべきだと思っている。だが、我が国の最大の欠点は、政治家が国民に対して責任を取らないということである。否、責任の所在さえはっきりしないことがほとんどである。また、誰にも責任を負わせない取らせないのが習い性になって、責任の取り方がわかっていないのかもしれない。私は、責任の所在をはっきりさせた方が良い、と思っている。なぜなら、責任の所在をはっきりさせるとは、権限を与え、任せるということだからだ。また、権限を与え、任せないから、政治家にリーダーシップが生まれないのではないだろうか。断っておくが、私は人に対し、なんでもかんでも責任を取れと喚くことは良くないと考えている。そして、もっと寛容になれと思っている。自分にもなんらかの落ち度があるかもしれないからだ(無くても寛容さが大事だ)。一方で、しかるべき地位にある人達、特に政治家には、国民に対する責任感を持って欲しいと思っている。

 

 空手道場も大変である。現在、コロナと暑さで、みんな空手どころではないのだろう。試合や合宿など、積極的な活動ができない(昨年は台風で合宿を中止した)。そんな中、しばらく延期していた、昇級審査を次の日曜日に実施する。今回は、3密を避けるため、人数を制限し、審査日を2回に分けた。当日は感染予防に細心の注意を払いたい。

 

 

 さて、大変な社会状況の中なのだが、新しい試みを始めている。昨年から準備して来た、面防具を使用したTS方式組手法(ヒッティング)の稽古のことだ。新型コロナウィルス感染予防の為の自粛により一時中断したが、自粛後、面防具が飛沫を防ぐことが理解されたようだ。違和感が緩和されているように思う。

 

 当初、面防具の使用は息苦しく、一部には不評だったと思う。だが、息苦しいということは、飛沫が飛ばないということである。まだ、面防具なしの組手は無理だろう。飛沫感染の可能性が高い。また、面防具はマスクよりは息苦しくない。是非とも、この機会に顔面突きありの組手を習得するぐらいの感覚、また、新しいことを体験するぐらいの気持ちで面防具を使ってもらえれば、と私は考えている。だが、段々とTS方式組手法が楽しくなって来るはずだ。なぜなら、顔面突きの攻防に必要な技術と技能が高まるからだ。ただし、その技術は私が様々な格闘技を研究して改良を加え作り上げた独自、かつ体系的な技術である。実はTS方式組手法とは、技術を体得する修練体系(システム)のことなのだ。TS方式組手法は、私が教えれば誰でも必ずできる。そしてすぐに上達する。だが、ただ見ただけでは似て非なるものであり、簡単ではないだろう。なぜなら、繰り返すが、TS方式組手法は単なる手段ではなく、技術と技能の体系そのものだからだ。

 

 お盆休みに教本づくりを進めたい。その前に、2019年7月に道場生に向けて発信したメッセージを加筆修正して再発信したい。

 

 

 

HITTING〜古くて新しい組手法に向けて

 

 

 IBMA極真会館では少年部から一般部まで組手稽古には防具(面防具、胴防具、拳プロテクター)の着用を必須とします。その理由は、体力のない人や技術や技能の未熟な人と組手を行ってもお互いに怪我をしないよう、安全性を確保するためです。また、互いに突き蹴りによるダメージを気にしないで組手稽古を行うためです。さらに、TS方式(ヒッティング)という組手法によって、「技の正確性」をより強く意識し、また防御と攻撃、すなわち「攻防のスキル(技能)」を向上させるためです。

 

【これまでの組手法では】

 これまでの組手法では、相手を攻撃することばかりに目が行き、より良い攻撃法という点に目が行き届きません。また、気の優しい人は、相手へのダメージを気にして、組手稽古では十分な稽古ができません。これまでは、相手にダメージを与えるような組手は、増田道場では禁止にしていました。しかし、そうなるとスピードある突き蹴りに対応する組手稽古はできません。また、技のレベル(使い方や当て方)が本当に高度であったかどうかが、従来の組手法では判断できません。さらに防御技を重視しないので、攻防のスキルが体得できないのです。本当は、私の道場では、徹底的に防御技を教えていましたが、多くの門下生が防御技を使いこなせませんでした。その原因は、従来の組手法では防御法の重要性が意識できなかったからだと考えています。なぜ意識できなかったか。それは組手の勝負判定が目の曇った価値観によるものだったからです。兎にも角にも、防御技が使えないということは、技を見切る意識が低いということであり、詰まる所、より効果的な一撃(打撃技)を生み出すことができないということなのです。

 

【見事な一撃】

 私は、極真空手における見事な一撃の多くは、相手の防御力が劣っているために生まれただけの技がほとんどだと考えています。なぜなら、より高度な一撃とは、高い防御力の網の目を透視する心眼により、位置、間合いを制し、かつ機を制した一撃だと考えるからです。しかし、そのような高い防御力の網の目を持った空手家がほとんどいない中で、本当の意味での見事な一撃が生まれるわけはないのです。ただし、極真空手家の技には破壊力があります。その破壊力を生かし、高い防御力、あるいは異種格闘家の技の網の目を透視して、見事な一撃を決めるには、組手によって養う技術と技能とは何かを明確にすることなのです。言い換えれば、組手に対する考え方を変えることです。変えるポイントは、何を勝負判定の優先事項とするかという観点です。TS方式では、顔面突き採用すること。また有効打撃の判定を、ダメージでは無く、打撃場所(ヒットポイント)とタイミングなどにより判定します。そのような判定方法、ルールによって、防御技のみならず打撃技の活用レベルが向上します。

 

 さらに攻撃技と防御技の活用能力と攻防技術により、「技(技能)を観る眼」を養うことができるでしょう。TS方式組手法では、技(技能)を観る眼を試合の第一義、優先事項とします。そのことにより、極真空手家が不十分、かつ偏ったダメージ優先の試合ルールの中で勝つことに汲々とし、無駄遣いしてきた精力をより善く活かします。具体的には、より高いレベルの技術と技能の養成に精力を配分するということです。換言すれば、TS方式(ベーシック方式と顔面突きありのTSアドバンス方式)の組手法は、新しい技術と技能の養成法です。その本質は、新しい勝負判定の観点を付与することです。もちろん、TS方式組手法も完全無欠のものではないでしょう。ゆえに伝統的な極真空手の組手方式など、様々な組手法を試すことも良いと思います。要は、たえず見直しや改善をしていくことです。また、私はこと組手法に関しては、単に伝統を守り続けるということに反対します。なぜなら、伝統を守るということは、良く言えば先人への報恩という面もありますが、多くは権威化の手段だからです。社会のような多様、かつ大きな集合体をまとめるには、何らかの権威が必要でしょう。しかしながら、伝統も手入れをしないと劣化し、くだらない虚勢に陥ると思っています。私はもっと良いもの、高いレベルのものを作り上げたいのです。

 

【極真空手の長所を活かし、欠点を修正する】

 TS方式の組手法の導入は、今、始まったばかりです。ゆえに、すべての会員が未熟だと思います。しかしながら、この組手法を行うことで、従来の極真方式の組手では得られなかった、「心の使い方(制心)」「位置取りや間合いの調節(制位)」「技を有効とするリズム、機を捉える感覚(制機)」の感覚を得ることができるでしょう。それらの感覚は、極真空手の長所を活かし、欠点を修正するでしょう。また、空手の原点である、武術、護身術としての基礎をより盤石なものとします。換言すれば、TS方式組手法の導入は極真空手の原点回帰の試みでもあるのです。

 

 補足しますと、TS方式組手法、別名ヒッティングには、顔面突き無しの「TSベーシック方式(スタイル)」と顔面突き有りの「TSアドバンス方式(スタイル)」があります。はじめはベーシックスタイルを行い、組手に慣れてください。慣れて来たら、顔面への突きを可とした「TSアドバンス方式」の稽古に移行します。繰り返すようですが、本来の空手は護身術の要素を含むものです。ゆえに顔面への突き技を防ぐ技術と技能が必要なのです。

 

 IBMA極真会館は、極真会館増田道場の時代も含めると、すでに35年以上の歴史があります。今後もさらにより良いものを追求しようと考えると、更新が必要です。ゆえに、これまでの修練方法で有段者になった人たちも、新しい修練方法を習得してください。言い換えれば、PCがバージョンアップするように、また新しいソフトウェアをインストールするように、各々の空手の更新をしてください。

 

【歳を重ねても、技術や技能が高まるような修練・稽古を】

 おそらく、私も含め、すべての極真空手家のレベルは未熟なものです。そして、このままでは極真空手のレベルは上がりません。極真空手を誰よりも長く、真剣に修行してきた増田がいうのですから間違いはありません。また、全ての人が、加齢とともにその技術や技能のレベルも低下していくでしょう。否、そもそもその技術や技能のレベルがあったのかも疑ったほうが良いでしょう。かくいう私も、自分の技術と技能を疑っています。だからこそ、残り少なくなった空手道人生をより有意義なものにしたいと考えています。そして、歳を重ねても、技術や技能が高まるような修練・稽古をしたいと考えています。

 

 最後に、IBMA極真会館の黒帯は、率先してTS方式を理解してください。顔面突きの攻防技術と技能は空手家に必須の事柄なのです。私は、40年以上前から、少しづつですが修練してきました。これから空手武道を始める人は、すぐに始めてください。私はかなり遠回りをしました。しかし、その遠回りは無駄ではありません。遠回りをしたからこそ得られるものもあるのです。しかしながら、これからは新しい道を行きましょう。もちろん来た道をしっかりと精査します。またルーツを忘れたりはしません(極真方式も残し、定期的に試合もします)。ただ、行き止まりが見えた道を行くのは面白くありません。

 

 何卒、黒帯の人達には、新しく空手を始める人に対し、より良い空手を伝えることに協力して欲しいと思っています。そのためには空手技術と空手に関する認識の更新が必要です。面倒ですが、必ず自分自身の更なる向上につながると思います。断っておきますが、増田 章が数多くの試合経験と長年の研究の中から考案した、TS方式(ヒッティング)という組手法も空手武道の修練の一つであり、全てではありません。しかしながら、その修練法によって、空手武道に必要な眼、足、スキル、それらすべてを包含した感覚(認知能力)を養成できると思います。同時に、力のみに頼る「武」ではなく、力をより善く活かす武の道を開拓するでしょう。そのような武の道、すなわち武道は、老若男女、多くの人達が長く続けられ、かつ人生に役立つものです。そのような武道が、私の考える空手武道です。

 

 それでは、これからも共に道場で汗を流し、そして考え、最高の空手を追求して行きましょう。

 

(2019年7月)2020年8月7日加筆修正

 

 

 

2020年8月15日に思う  

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デジタル空手武道通信38号 編集後記

 今年も8月15日の終戦記念日を迎えた(私は終戦記念日という呼び方に疑義があるのでできれば使いたくない)。未だ新型コロナウイルスの感染拡大が収束しない。この先、どのくらいで収束するかもわからない(おそらく完全な感染の終息はないだろう)。大変な情況だが、戦時下の人達は、もっと過酷な情況だったに違いない。改めて先人に感謝したい。

 振り返れば、今年は心機一転、頑張るつもりであった。新年はその準備で追われていた。ところが2月の終わり頃からか、新型コロナウイルスの問題が耳に入ってきた。どうなることかと見守っていたが、あれよあれよという間に、小さな「火」が燃え広がるような状況になった。新型コロナウイルスの感染を「火」に例えるのは下手な例えかもしれない。だが、もし新型コロナウイルスへの感染を「火」とすれば、果たして完全な消火(感染拡大の抑止)はできるのだろうか。 結局は、火が大きくなったときの消化方法を確立し、かつ、一人ひとりが「防火」に気をつける他ないだろう、と私は思っている。問題は、気をつけていても自然発火的に「火」が起こり、そして大きくなる状況だろう。そのような状況にならないようにすること。また、そうなった時、消火をどのようにするかが問題である。現在は、異常に火の拡大を恐れているような情況だろう。しかしながら、一体、いつまで「火」を異常に怖れることが続くのだろうか。もちろん、新型コロナウイルスは怖れなければならないことは確かだ。しかし、安心、安全の確保の仕方がこのままで良いのだろうか。一刻も早いワクチンなど、効果的な対策を望んでいる。また、私自身としては、「火」に対する防御力を強化し、かつ、「火」に気をつけることが重要だと考えている。そして、「畏れ」「慎重」という原点に戻り、できることを継続して行くことしかない(私は慎重な性格ではない…)。ここから先は医療関係者や政府、メデイアなど、知的発信力、そして権力のある人たちが啓蒙しなければならない。  

 さて、私は、1日も早い新型コロナ問題の収束を願っているが、同時に今できることを考える際に、今までできなかったことを選択肢に加えたい。今、これまで目標が明確だった人達(目標がレール上にあった人達)は、不安な日々を送っているだろう。そんな中、自分を信じ、かつ明日を信じて、懸命に頑張っているに違いない。おそらく、一般的な人達は本能的に現状維持を望む気持ちが強いと思う。先行き不安なときには、その性質が露呈する。当然、私も現状維持をしたい。だが、そもそも現状維持はできないと直感している私は、先に述べたように、これまでと違ったことに挑戦したいと考えている。もちろん、それを周りが望まないことは理解している。だが、私はこれまでのものを破壊するのではない。ただ、これまでと同じことが困難だとしたら、ひとまず保留しても良いと思っているのだ。その上で、異なるアプローチを試みるのも悪くないと思っている。いずれは、新型コロナ問題も収束するに違いない。その時、これまでと全く異なる世界が誕生するとまでは、私は考えてはいない。しかし、その時に一歩進んだ形で、伝統を引き継ぐことをイメージしている。ゆえに密かに行ってきた古典の研究、原点回帰の成果を速やかに表したい。その意義は、武道の源流を辿り、その形を取り戻すことである。その結果、その形が、より善い発展形であることを願っている。

 

追記
「火」の例えはダメだな。なぜなら「火」は見えるが、新型コロナウィルスは見えない。見えないものに対応するのは、極めて困難だ。ゆえに、なんとかして「見える化」することが重要かもしれない。そういう点では、韓国の新型コロナ対応は有効かもしれない。数字が結果を表している。(ただし、現在、気の緩みか、感染拡大が再発しているようだ)。
 一方、我が国では政府が個人情報を管理することを問題視し、韓国のような対応を実施していない。にも関わらず、我が国は政府、国民共に良くやっている、と思う。

機に発し感に敏なること

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【吾々は武の真髄を極め、機に発し感に敏なること(極真会館道場訓)】

 

 「吾々は武の真髄を極め、機に発し感に敏なること」とは、故大山倍達師範が創設した極真会館の道場訓の中の一つである。「機に発し感に敏なること」とは、増田が意訳すれば、「行動は機を捉えて始めること。そして、その感性を研ぎ澄ますこと」となる。別の言い方を試みれば、「目に見えない機縁を捉えて行動せよ。そして、その機縁を捉える感性(良知良能)を研ぎ澄ますこと」と言っても良い。

 武の先達の一人、柳生宗矩は、「機は気なり」と喝破した。つまり、「人や物事に内在する気を捉えること。そして、その気を感じる感性を高めること」と、言い換えても良いかもしれない(まだ私は、気を上手く説明できないが)。断っておくが、「機」や「気」には悪い「機」や「気」もある。その悪い「機」や「気」を避けること、また時に転換するということを含意することは言うまでもない。要するに、武の真髄とは、「機」を判断し、かつ、それを捉える事。また、その感性を磨き高める事なのだろう。

 今、極真会館の門弟は、その教えを守っているだろうか。私には、目先の損得で行動しているだけだと思っている。
「極真空手を正しく伝える」、そんな言葉をよく聞くが、その人たちは正しく伝えているのだろうか。
 大山倍達師範が入院され亡くなる前、「すぐに本部(会館)にきなさい」と、私は電話を受けた。その時、総裁室で大山総裁は、「極真会館の支部長になり、他の若い支部長と力を合わせ、極真会館を改革して言ってくれ」と言われた。また、「古い支部長は守りに入り過ぎている」と語っていた。もちろん、極真会館が分裂し、訳のわからない状況になっている昨今では、極真会館と極真空手を守ることは必要である。しかしながら、極真空手家を自称する人たちは、本当に極真会館と極真空手を大事にしているのだろうか。私は、総裁がなくなる前、総裁が描いただろうイメージからは程遠い。また疑問符がつかざるを得ない。まず、大山倍達師範は修練体系と昇段体系を改訂したいと考えていた、その構想も人から聞いたが、その中には大山倍達師範が修練されてきた、柔術や武術の技を伝えるというような項目も入っていた。簡単にいえば、大山倍達先生は、極真空手と極真会館を武道の冠に相応しい武道団体(社会教育団体)、否、現代武道において最高の武道団体にしたかったのであろう、と確信する。現実は課題が山積していた。だからこそ、残された弟子たちは、その課題をクリヤーするような行動をしなければならなかったと思っている。


 【大山倍達先生が今も元気で存命ならば】

 さて、ここ数十年、私は大山倍達先生の著書「秘伝 極真空手」を研究、解析してきた。私はその技術を修練体系に取り入れたい。しかしながら、私の道場生も含め、多くの極真空手家は、そんなことには目もくれない。
 私は、大山倍達先生が今も元気で存命ならば、修錬体系を改善したと確信している。どのように改善したかまで言えば、法螺吹きになるだろう。だが、あえて言えば、空手の原点に立ち戻りながら、同時に現代社会により貢献できるよう、新たな価値を唱えて、展開をされたに違いない。大山倍達先生には、その辺の嗅覚と言えば失礼だが、見識があった。まさしく「機に発し、感に敏なる」である。しかしながら、多くの凡人は自分の利益を守ることに汲々としている。

 今、私も凡人の一人だが、極真空手と極真会館を守り、次世代へ向け、よりよく継承するために微力ながら尽力したいと切に願っている。
 
 さらに、諸先輩に対し僭越だが、私は改革するべきところは改革すること。そして、将来の大いなる和解を目指し行動することが重要だと考えている。それが人の道だ。もちろん、自己保身、そして目先の損得で動いてはいけない。人と社会の気、すなわち機が変化することを前提としつつ、よりよく生きるという「良心」を中心にした感性を研ぎ澄ますことだ。その感性の働きにより、行為の価値の永続性が担保される、と私は考えている。

 

【「極真空手と極真会館を正しく伝える」とは】 

 最後に、私は時々、大山倍達師範とのことを思い出す。私はここ数十年、大山先生の著書との格闘があった。だからいつも一緒である。

 

 思い出せば、私は時々、海外遠征の報告や大会入賞後のご褒美を頂くために総裁室を訪問した。時には自宅に呼ばれたこともあった。そんな身に余るご厚情を受けたことをとても大事なことだと思っている。またある時、大山倍達師範は私に「なぜ本部で稽古しないんだ」とストレートに言ってくれた。私は、その時に悟ることがあった。とても嬉しかった思い出である。また、長年連れ添った家内が大山倍達総裁の秘書を務めていたこともあり、自宅に電話が度々あった。秘書との結婚は大山倍達師範のみならず、周りにも隠していた。修行中の身で不徳だと思っていたからだ。私は悪い人間かもしれない。事後報告だったが、大山倍達総裁にその事を告げた時、少し驚いた感じだったが、「良い子だから大事にしなさい」と言われたことを覚えている。

 

 もう一つ蛇足ながら、「極真空手と極真会館を正しく伝える」とは、一体どういうことなのだろうか。とても難しく、理解不能な命題だ。あえてその命題に取り組むとすれば、私は、「正しく伝える」ということは、人と社会により高い価値を提示するものとして存続させることが含意されていなければならないと思っている。ならば、現在の極真空手は本当に価値があるものなのだろうか。わたしには疑問である。

 

新型コロナウィルスに思う〜2020年9月19日

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新型コロナウィルスに思う〜2020年9月19日

 

 

 一体、新型コロナウィルスの終息はいつ頃だろうか。おそらく完全な終息はないだろう。やがて感冒の一種として扱われるに違いない。そして、完全なワクチンもできない可能性が高い。ただ、重症化を避けるぐらいの薬や対応策ができるだろう。それでも老人や身体の弱い人は死亡することもあるに違いない。要は半永久的に感染に気をつけるしかないのだ。

 実は、意外と大雑把な私は、これまで毎年のように風邪を引いていた。私は体温が低いようだ。また免疫力が弱いのだろう。そんな私も今年は風邪をひかない。だが、感染したら、免疫力の弱い私は、重症化するかもしれない。

 私は、今回のコロナ問題の中、免疫力を上げる食事を心がけてきた。今後も、その心がけを継続したい。私は仕事があるので、絶対に感染したくないと思っている。否、感染できない。だが、現在のような過剰とも言える、感染予防の態勢がいつまで続くかを見とおさなければならないとも思っている。

 現在は、人と会うことや出かけること、飲食店を訪れることも憚れる。だが人と会うことも大事だと思うし、こんな状況だと、周り回って、私の仕事にも影響がある。

 本日から連休に入ったが、久しぶりに空港には大勢の人が集まり、高速道路は渋滞、ある温泉街は、予約で満杯らしい。おそらく、連休後は感染者が増えるだろう。だが、その数字次第では、みんなの警戒心が解除される可能性があるとも思っている。現在、メディア(テレビや大手新聞)や専門家は、大丈夫だとは絶対に言えないのだろう。なぜなら責任を取りたくないからだ。気をつけるように言っておいた方が無難である。

 私は感染者が予想より高いか低いかで潮目が変わると思っている。誤解を恐れずに言えば、メディアや専門家の意見が外れるようになれば、世間の意識は変わると言うことだ。もちろん、天気予報や世論調査は当たるようになってきているようだ。それでも、まだまだ本当のことは誰もわからないと言うのが現状ではないだろうか。そもそも、完全に予想できたら、人間社会はおかしくなるだろう。だが、世の中は、全てを予想したがっているかのようだ。そのことによる混乱、暴力が静かに近づいていると言うことも知らないで。

 さて、今回の連休後(1、2週間後)、東京で感染者300名以下だったら安心、400名台だったら注意。500名以上だったら、再び警戒。そんな風に世間の空気が変わるのではないだろうか。もちろん、コロナに関して私の書くことは、与太話で、あてにはならない。野球の予想ぐらいのものだ。コロナ問題を野球の予想同様に論じることは、不謹慎だろう。だが、我々の気分が変わることが問題だと思っている。そして、私も含め人間の気分は思うようには変わらないだろう。とは言うものの、簡単に変わるのも人間の気分である。私はそんな傾向が嫌いなのだ。政治しかり、経済然り、もっと地に足をつけて生きていきたい。また、本当のことが知りたい。コロナ問題は現実である。だが、我々は本当のことを知っているのだろうか。

【言いたいこと】

 最後にいくつか言いたいことがある。一つ目は、医療制度、医療体制を整えなければならないということ。なぜなら、同様なことが起こるに違いないからだ(また継続中でもある)。

 政治家の方々は当然のことだというかもしれない。だが、本当に現在の医療システムで良いのだろうか。医療システムにまで、新自由主義のいう民営化をあてはめてはいないだろうか。おそらく、何らかの理由があるに違いないが、乱暴な言い方をすれば、取捨選択が正しいのか。既得権益者に阿っていないか。本当に大事なことを見逃していないか。

 我が国とアメリカ社会の成り立ちとは異なる。日本には社会民主主義とも言えるような、日本型民主主義がある。その土壌を、アメリカを信奉する一部のエスタブリッシュメントの思想によって汚染させて良いのか。私はそんな危惧を持っている。一方で、国であろうが民であろうが、マネジメントという概念を有するべきだとも思う。その上で「公共」という国家と民間を分けない、新たな価値観、思想を基盤に社会システムを作るべきだ、と私は考えている。

 二つ目は、政治家は、大きな政府、小さな政府の二項対立で物事を考えてはならないということだ。私は、日本独自の道を行けば良いと思っている。また、その道を開拓せよ、と言いたい。そう言えば、お前はグローバル社会の中で生き残ると言うことを理解しているのか、と噴飯されるに違いない。だが、そのグローバル社会というのも怪しい。もちろん「世界の中の日本」という視点は良い。だが、株価に左右され、金ばかりを追いかけて良いのか。もちろん、国や国民に金がないと幸福が担保されないことはわかっている。だが、使い道はちゃんとしているのだろうか。私は、日本国民の知性や情熱を育み、それを後押しするようなお金の使い方をして欲しいと考えている。

 私は、今はそれどころではないと言われるかもしれないが、国民教育にお金をもっと使って欲しいと思っている。そのためには、若い人から活動原資を奪っている通信料に関しては考えてほしいと思っていた。また、新しく立ち上がった菅政権が掲げる不妊治療費の保険適用拡大は重要だと思う。

 今、菅総理や河野太郎大臣への期待が高まっている。私の意見としては、菅総理には、明らかに格差がある、教育を受ける国民の権利に着目して欲しいと思っている(良い大学には親の経済力がなければたどり着かない、レベルの低い大学に国民の富が吸い取られている)。具体的には、現在の枠組みを生かしながらも、教育機関へのアクセスをもっと自由にすること。言い換えればオープンで自由、かつ公共性の高いものとすることである。

 現在の教育機関は、まだまだ閉鎖的、かつ封建的だと思う。もちろん、伝統的な教育機関も存在して良い。だが、そのような教育機関ばかりでは、より多くの人の可能性を活かせないだろう。私の意見には、誰も賛同しないかもしれない。嫌味な言い方だが、権力の中枢には、これまでの学校教育で悩んでこなかった人達、かつ、その恩恵を被ってきた人達ばかりだろうから。

 

 

 

 

 

敬老の日に〜60歳を超えて心身の健康を維持する手段

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敬老の日に〜60歳を超えて心身の健康を維持する手段

 

 

 若くして亡くなった母に感謝、私を可愛がってくれた亡き祖父母に感謝、偏屈だが、放任主義の優しい父、本当にありがとう。墓参りと父の顔を見に故郷に帰りたいが、コロナ問題で帰省ができない。

 

 私も58歳である。あと1年半ぐらいで60歳だ。現在、60歳は老人ではない。老人といえば、70歳ぐらいからだろうか。

 

【60歳から体力は急激に下降する】

 

 テレビで60歳から体力は急激に下降すると統計が表していると喧伝している。テレビでは、そのことに対する対策として、サプリメントを勧めている。

 私は、サプリメントの摂取は悪いことではないと考えている。私も長年、アミノ酸を飲み続けている。だが、より大事なことは、身体を上手に使い続けることだろう、と思っている。また、60歳からの身体との付き合い方を準備しておくことが、万人に有用なことだと思う。

 

 60歳からの人生、より良く、かつ身体をより長く使い続けるためには?まず、身体的には、筋力の低下を抑えること。次に心肺機能を維持することだろう。さらに、身体のみならず、心理的な健康を促す、知的好奇心を持ち続けることも重要だと思う。

 

 より具体的、かつ提言的に言えば、60歳以降に「①全骨格筋の能力(柔軟性、筋力、神経回路など)を維持する運動(全身運動)」「②適度に心肺機能に刺激を与える運動」「③頭を使う運動(知能を使う運動)」「④知的好奇心を刺激する運動」という4つの要件を充たす運動を定期的に行うことが効果的だろう。

 

【60歳を超えて心身の健康を維持する手段】

 さて、60歳を超えて心身の健康を維持する運動(手段)として最適なことは、スポーツを趣味とすることだ、と私は思っている。だが、心身を勝利のために極限まで追い込む、チャンピオンスポーツのことではない。先述した①〜④の要件を満たすスポーツを、生涯を通じ、怪我せずに行うことがベストだと考えている。補足すれば、④の知的好奇心の部分に関しては、スポーツ(運動)以外のことで代償しても良い。つまり、スポーツ(運動)とは別の趣味を持つこともでも構わない。もちろん、そのスポーツ(運動)自体が知的好奇心を刺激すること、また、そのスポーツ(運動)に付随した知識の収集を楽しむことがベストである。そのような運動として最適なのは、登山(あまり高い山でなくて良い)やテーブルテニス(卓球)、テニスなどが挙げられる。もちろん、ゴルフや水泳、スキーなども良いと思う。だた、ゴルフは運動量が少ない。水泳は単調すぎる。スキーも上達すれば単調、上達すれば危険である。また環境(寒さ)がストレスとなる。もちろん反論はあるだろう。また、個々の好きなスポーツを否定するつもりはない。あくまでも、心身の健康維持という目標達成に効率が良いスポーツという観点である。

 

 少し脱線すると、私がいう頭を使うとは、スポーツに内包される、戦術を考え、技術を工夫し、それを活用して、自他とコミュニケーションを行うという知性的な面のことである。補足すれば、本来、脳(頭)は身体と一体である。そういう意味で、スポーツや競技において、身体を使うとは、脳(頭)と体を同時に使うことだと考えている。ゆえに、運動の中でもスポーツが良いというのは、脳と身体を連携させて使うからだ。また、競技スポーツでは、心と体を鍛えるとよく言う。だが、私が心と言わず、あえて知能と言ったのには意味がある。ただ「心」とすれば、感情的な部分を喚起する傾向があると思ったからだ。もちろん、感情を刺激することも脳を使うことに他ならない。また、知能には、感情的な要素がトリガー(引金)となっていると想像する。それでも、感情的な部分を強調したくなかった。そして感情的な部分のよりポジティブな面を「知的好奇心」に包含した。

 なぜなら、「スポーツにおける心」というのは、「知・情・意を統べる領域」だと定義し、もっと大きな視点から心を扱いたかったからである。さらに「心」の定義をより明確にし、かつ「感覚と体を統べる領域」である「身」を定義し、それらの両面を高める効用が、スポーツにはあると定義したかったのだ。また、そう定義しなければ、より高いレベルのスポーツ、そして競技の指導はできない、と私は考えている。現在、私が提唱している、拓心武道における「心」とも、知・情・意、すなわち、知性、感情、意志を統べる領域のことである。そして、その領域を開拓することが「拓心」の意味に他ならない。併せて、感覚と体の領域である「身」を開拓していくことがヒッティングを含む、拓心武道メソッドの目標と言っても良い。

 

 ここで話を戻すが、60歳以降の心身の健康維持を目的とする手段にスポーツを行うには、若干の問題点がある。それは、テニスなどは、体の一部に負担をかけすぎるという面があることだ。具体的には、テニスには膝や肘への過剰な負担が考えられる。実は、ほとんどのスポーツには、傷害の危険が伴うことを完全に排除できない。比較的、傷害の危険性の低いスポーツもあるが、短時間で全骨格筋の能力、心肺機能、脳への刺激を弱から強まで幅広く行えるという点まで考慮すると、テニスなどは最適ということになる(全てのスポーツに言えることだが、相手を含めた場へのアクセスの問題があるが、場の形成とアクセスに関しては、健康維持に必要なことだと思う)。

 また、傷害の危険性に関しては、身体運動学などに根差した、科学的なフイジカル・トレーニングによって予防し、かつ、調整しながら行えば、テニスなどは、健康維持にとって最適なスポーツとなるだろう。補足すれば、フイジカル・トレーニングは、傷害発生後の、機能障害や代償動作からの正常な機能回のためのリハビリテーションも含んでいる。要するに、スポーツを行うには、スポーツを行うための、機能維持や機能向上のためのトレーニングを併行して行うことが肝要だということである。

 

【拓心武道ヒッティングはテーブルテニス(卓球)やテニス同様の効果が得られる】

 ここで提言したいことは、先述した「①全骨格筋の能力(柔軟性、筋力、神経回路など)を維持する運動(全身運動)」「②適度に心肺機能に刺激を与える運動」。「③頭を使う運動(知能を使う運動)」「④知的好奇心を刺激する運動」という4要件を充たす運動として、拓心武道ヒッティングが良いということである。

 拓心武道ヒッティングはテーブルテニス(卓球)やテニス同様の効果が得られるだろう。否、テニスよりも短時間、かつ、少スペースで、それら以上の効果が得られるに違いない。その上で、スポーツとは異なる独自の効果を得られる。具体的には、護身術としての効用、また先述したように「心」と「身」の両面を鍛え上げるという効用である。

 

【拓心武道ヒッティングは、修練法として全ての空手から独立し、かつ繋がっている】

 ここでなぜ、私が空手と言わないかについて述べておきたい。現在、全ての空手が、先述したような面、効用を意識しているとは思えないからだ。あえて強調しておきたい。拓心武道ヒッティングは空手を基盤としながらも、心身の修練メソッドとして、より強く専門性を追求することを企図している。それゆえ、拓心武道ヒッティングは、修練法として全ての空手から独立し、かつ繋がっているのだ。

 私の論を我田引水と思われるかもしれない。だが、強い信念がなければ生きていけない(私は絶えず自分の信念と対峙し、それを批判(吟味)しながら生きてきた)。

 今、もう少し若い頃(20年ぐらい前に)に行動を起こせば良かったと思っている。なぜなら、TS方式(ヒッティング)の組手と極真方式の組手を併行して行っていれば、かなりの技能が体得できたと思うからだ。ただ、愚鈍な私には、時間が必要だったのだろう。体が駄目になりかけて、ようやく決心がついた。

 

【もう一度】

 今、私の体は、20歳代の頃のようには動いてくれない。身体はもう少し大切に扱えと、すぐに悲鳴をあげる。だが、それは大事なことだと思っている。もっと身体に気を使うこと。近いうちに、老人となる日に向けての心構えだ。要するに、痛みは、身体にとって重要な反応であり。本当は、身体の反応にもっと敏感になる必要があったのだろう。我が身体に対し、これまで、私に付き合ってくれてありがとう、と言いたい。随分、無理をさせてきたと反省している。当然、周りの人たちの身体にも気配りをしたい。

 

 20代の頃、早朝、朝日を浴びながら走った。今日1日を懸命に生きるために、また明日を夢見て…。我が人生も段々と終わりが近づいて来た。だからこそ、もう一度、自己の可能性にかけてみたい。

 

 

拓心武道HITTINGの稽古

 

 


心を活かすために

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【組手稽古の目的、意義を明確にする】

 10月18日(日曜)、コロナ問題により延期していた、第1回 月例試合を開催するための事前稽古としての組手講習会を実施した(1級と黒帯のみ)。講習会の前々日、私は事前学習用の映像を編集し、教本サイトにアップした。

 

 だが、「映像を見ましたか」と講習会の冒頭に聞くと、挙手はゼロだった。内心、「帰ろう」と思ったが、当然、気を取り直し、講習を始めた。初めに試合理念について、短めの講義をした。

 

 稽古ではなんども言うことだが、組手稽古の目的、意義を明確にすること。私は、そこからしか高い技術、そして優れた技能の体得はできない、と確信している。だが、多くの空手愛好者が、試合の目的を「試合に勝つこと」としているように見える。数歩譲り、「緊張感や痛さ、辛さの体験を通じ、自己の修練の足りなさを自覚し、日々の精進の糧とする」などの意味も見出せるかもしれない。また、「勝利、優勝という目標に向かって、日々努力することは人生の充実感や幸福感の醸成に役立つ」という意味も見出せるであろう。ゆえに、私はそのような体験を全否定はしない。だが、武道の修練はそうではないのだ、とだけ言っておきたい。武道修練とは、やはり、心技体を磨き高める修行なのだ。否、心技体などと大枠で例えるから理解できないのに違いない。ゆえに、まずもって、私は試合理念を明確にするのだ。ただ、私の説法の技術が未熟ゆえに、届かなかったと感じた。

 

【「制心」「制機」「制技」】

 短めの講義の内容は、「制心」「制機」「制技」と言うキーコンセプト(鍵概念)についての説明だった。

「心、イメージを我が物とすること」「たえず変化する機を捉えること」「自他の力、技を活かすこと」と言う意味だ。そのコンセプトが組手の中で表現されなければならない。また、そのことに気づかなければならない、といった内容だ。

 

 その後、急いで基本をチェックし、試合も行った。だが、基本技術が未熟な者が多かった。それは私の責任である。また組手の理を意識しているとはいい難かった。だが、全員に試合を経験させたほうがよかったと反省している。体験は重要である。

 

 TS方式は防具を採用しているので、安全性を確保している(完全ではないが)。今後はもっと体験を重視したい。しかし、そう感じた時には講習会の時間を終えていた。時間がなかった。私は、頭を使わない意識の低い稽古は嫌いだ。ゆえに、基本をおろそかにすることが嫌いである。また私は、現役時代、心肺機能の限界を目指すようなトレーニングでも頭を使うようにしてきた。例えば、「心肺機能を追い込みながら計算問題をする」というようなトレーニングを行なったことがある。そのようなことを行なったのは、「肉体の限界点で、いかに思考するかが、格闘に必要な究極の能力だ」と考えたからだ。だが、そんな考え方をする者を空手の世界で見たことがない。もちろん、私の考え方が間違いである可能性もある。しかしながら、「苦しい時には力を出し切る」「あきらめない」、そんなことを誰もが金科玉条のように信じている。私はそう考えなかった。苦しい時にどのような思考をし、選択をするかの能力が、究極的に必要だと直感していたからだ(おそらくスポーツ競技である空手にはそんな意識は必要ないのだろう)。

 

 だが、そのようなことを伝えようと思えば、最低1日は必要だ(1日でも難しいかもしれない)。本当は合宿で集中稽古を行いたい。私の心中には焦りの感情が出ている。「3年はかかる」、それが直感である(もっとかかるかもしれない)。しかし、それでは私の身体が持たないような気がする。また、道場生の理解も得られないかもしれない。そんな思いが交錯し、講習会の後はいつも体の具合が悪くなる。

 

 講習会から1日経った今日、60歳代の古参の黒帯のSNSが目に入った。コメントには、先述した「制心」「制機」「制技」を例えに、『試合は自他の技を活かすこと、また絶えず変化する機を捉えること、そのためには自分の心を制していなければならない』『自分は当てよう、当てようと言う気持ちが先走って、心を制することができていなかった』という風に書いてあった。なるほど、少しは理解してくれているのだと思った。一瞬、疲れが癒される気がした。

 

【心を活かすために】

 

 だが、黒帯からのフィードバックにより気づくことがあった。そして言っておかなければならない。私の考えは、心を制すると言うよりは、心を活かすために、「機を捉える技術と技能、理」「力、技を活かす技術、技能、理」の修練が必要だということだ。さらに補足を加えれば、ゆえに基本(原理)の理解と体得が最も重要だと言いたい。

 

 換言すれば、「制機」と「制技」を意識した、弛まぬ修練を行うことで、おのずから心は定まってくるということである。残念ながら、既存の空手には単なる勝負だけがあり、それ(道)がない。

 

 私は,心というイメージの場を活かすための技術とスキルの獲得により、より善く生きることが可能になる、と考えている。また、身体操作における、自在のスキル(技能)を創出する過程により、心という機能、作用の把握に至ることが、高いレベルの武道のあり方だと考えている。これ以上は書けば書くほど、読者を藪の中に迷い込ませてしまうだろう。

 最後に、私のいう武道哲学とは、決して教える事柄ではない。ただ、自らの心と身体、そして体験を通じて、深く考えることを意味している。

 

 

 

「当てられる覚悟」について

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「HITTING(ヒッティング)」とは、空手武道の原点に立ち戻り、かつ極真空手を基盤にした新しい武道修練法である。それは武道流派を形成するためのものではない。だが、あらゆる武術を融合してきた「極真」という思想の原点に立ち戻り、かつ、それを進化させる修練法である、と考えている。

 

 

 

【「当てられる覚悟」について】

 

 どうして増田の攻撃を受けよう、受けようとするのだろうか?私は、そこが良くないと考えている。

 私には、体力がないが、イメージの集積体(心)と多少のスキルがある。 ゆえに体力のなさをイメージの活用能力を鍛え、カバーしようとしている。つまり心で組手をしているのだ(意味不明かな…)。一方の初心者は、もっと攻めるべきだと考えている。経験を積みデータベースを蓄積する必要があるからだ。

 稽古においては、まずは「仕掛け(攻め)」を基本とし、その結果を分析し、修正していく。私は、そのような経験と過程(修行)を経てきた。

 だが、組手では、経験と過程の違いがあるので、組手イメージが合わず、私と噛み合わない(活かし合えない)のかもしれない。もちろん弟子たちは、段々と良くなってきていると思う。ヒッティングの稽古を開始してから3ヶ月ほどである。

 一方の私は、脚の具合は良くない。だが、面防具が身体の一部化してきている。また、眼が慣れてきた。本当に人間の感覚とは想像をはるかに超える機能的可能性があると思う(人はそれを信じていないようだ)。まあ、現時点では課題はあるが、「良し」としよう。

 

 【組手の意義〜自分を極めること】

 しかしながら、ここで繰り返し、組手の意義を明確にしておきたい。ヒッティング組手は勝ち負けが最終目的ではない。ゴールは、「ヒッティングによる理念の具現化」にある(理念の内容は試合競技規程の第1条に明記してある)。また、ヒッティングによる組手稽古の意義は、「自分を極めること」だと言いたい。さらにいえば、「極真」とは「真を極める」というより「自己(自分)を極める」ということが本質なのだ、と私は考えている。

 

 

 そして、修練の際は、「当てられる覚悟を持つ」ということを、我が門下生は理解してほしい。特に上位者と稽古するときは、「当てられる覚悟」が必要だ。一方、下位の者との稽古の際は、一撃ももらわない(受けない)と真剣に行うこと。

 

 そして、同位の者との稽古の際は、「当てた数」や「当てられた数」に拘らず、自他の技術とスキルを明確に分析、収集することが大切だ。現在は、段位に関係なく全ての者が同位だと心得た方が良いだろう。以上が拓心武道メソッドにおける修練論だ。

【柔道の創始者、嘉納治五郎師範は】

 ここで現在の極真系空手流派の組手稽古について一言述べておく。現在の極真空手の組手稽古は、攻撃をもらうことなどお構いなしが如く、攻撃を続ける戦術が主流である。これは、当てられる覚悟とは次元を異とする。そのような「技を当てること」「当てられること」に無頓着、かつ雑な稽古を行う人達には、私の言う「当たられる覚悟」の意味が理解できないに違いない。また、攻撃を当てられないように連続攻撃を行う戦術として、自分たちの行うことに何も疑問を持っていないだろう。柔道の場合も、投げる間も無く攻め続ける、というような戦術も同様かもしれない。そのような戦術は勝負においては有効である。勝つことを至上目標とする、剣道やボクシングも同様かもしれない。

 しかしながら、そこには勝つことだけに拘ることの弊害がある。そのようなあり方は、攻撃をより善く当てる、また、より善く投げるための理合を体得するための稽古としては、弊害あると思うからだ。柔道の創始者、嘉納治五郎師範は、その著書で、「投げられる覚悟」を説いていたと記憶する。

 

 嘉納師範は、目先の勝負に拘泥する前に、柔道の原理、技の深奥を学ぶことの意義の大切さを伝えたかったのだと思う。空手においても、まずは技が当たる(技が極まる)ことの原理、意味を見つめる修練に立ち戻らなければならないと思う。「真剣」に対峙するがごとくである。

 

【原点回帰】

 さて、大仰な話になるが、コロナウィルスへの対応がもたらした問題提起とは、社会における原点回帰だと、私は3月の時点で直感していた。もちろん、この先、社会がどのように変化するかに関し、私ごとき人間に知る由はない。また、私自身も危機に瀕していて、将来が不安である。だが、その不安はコロナによって気づかされたものではなく、コロナによって先鋭化されただけだと思っている。

 

 現在、世の中は、さらなる情報社会を目指し、さらなるデジタル化を喧伝している。私は恐ろしいことだと思っている(私は、部分的にはデジタル化に賛成する立場だが)。

 

 一方、デジタル化が進めば、人間の運動量が減り、免疫力、生命力を高めるため、武道と言わず、スポーツで、身体を動かすこと、使うことがより重要になってくるかもしれない。もし、そうだとしても、これまでのようなあり方では、空手の存在意義の基盤は揺らぐような気がする。なぜなら、空手の存立基盤は、メディアに増幅されたイメージだからだ(質が伴っていない)。また、我々が有するイメージによる投影図(世界観)も変化している。皆、まだ大丈夫だと思っているのだろうか。だが、我々が変化に気が付いた時には、新しい価値が生まれているかもしれない。

 

 

 

【価値観の転換】

 私が言いたいことは、これまで資本主義が喧伝した、巨大化、効率化という価値観が、それがベストではないかもしれない。そのような価値観の転換が起こるかもしれないということである(依然として、過去の価値観を好み、それを望む人達もいるだろう)。補足すれば、これまでの巨大化への信奉を見直し、適正化(バランス)、そして監視の機能が必要だということだ。一方、その思いと逆行するかのごとく、巨大化を進展させている一部のデジタル企業(GAFA)がある。世界は、非常に危険な状態である。危ない。私にはそのように思っている(少なくとも私の中では、価値観の転換が起きている)。願うのは、人類が良心に覚醒し、「大」も「小」も共に活かし合うことである。

 最後に、私の直感は、全ての人間が原点に立ち戻り、少数で良いから、人と人とが深く交流し、確認し合うような関係性を求めていくのではないかということだ(いずれ)。さらに、その中で体認される、人間の本質(意味)が、我々の心を目覚めさせ、新たな幸福感を醸成する。そんな予感がしている。だが、私には時間がない。早くしなければと考えている。

 

 

 

 

 

 

「自分を極める」〜デジタル空手武道通信 第 40号 編集後記より

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「自分を極める」〜デジタル空手武道通信(会員向け) 第 40号 編集後記より

 

 【月例試合】

 昨年末から企画していた顔面突きありの月例試合がようやく実施できた。コロナの問題により遅れたのだが、むしろコロナのお陰で実現できたのかもしれない、とも思っている。なぜなら、コロナ問題がなければ、面防具を使った、組手稽古は受け入れられなかったかもしれないと思っているからだ。もちろん、現在も全ての道場生が積極的に顔面突きありのヒッティング稽古を行っているわけではない。

 

 だが、今回小学生から中学生、50歳未満の青年部、60歳代の壮年部を含めて、多くの門下生が新しい組手法の試合に参加してくれた。私が特に嬉しく思ったのは、60歳を超える壮年部の門下生が、積極的に試合を行なったことだ。その人達は、楽しみながら組手稽古を行ってくれている人達ばかりだ。つまり、ヒッティング方方式は正しく稽古すれば楽しいのだ。また楽しく稽古すれば、正しくなる。そのような確信が、私にはある。だが言葉で説明することは虚しい。体験してみればわかる。ただし、考え方と最初の50時間ぐらいの稽古法(体験)が重要だろう。

【本当の自由】

 年始の時点で、「顔面突きありは黒帯のみとした方が良い」と言っていた師範代が、最近は子供達に私の考えた「ヒッティング」を教えてくれている。小学生も3ヶ月足らずにも関わらず、非常に良くなってきた。だが、稽古時間が少ないことが、明らかに見て取れる。「ヒッティング方式の組手」はスキーの習得同様、センス獲得とそのセンスを磨くための経験量と理論の体得を主眼とする。これを伝えるのが難しい。一方、その事を一瞬で理解できる者はすぐに上達する。もう少しの我慢が必要である。

 現在は、当道場の師範代も五段位を目指し、さらに組手の実力を磨こうと行動してくれている。ゆえに今回の試合にも参加した。そして、他の道場生に比べ、数歩、先を言っていた。私が教えているのだから当然のことと言えばえば当然だ。おそらく、センスの優れた師範代にとって、ヒッティングの稽古は楽しいものだと思う。私にはみんなよりも早く、それがわかっていた、しかし、私は何かを恐れていた。その「恐れ」が私の心に不自由感をもたらし、かつ苦しめる。 

 

 さて現在の私は、空手武道理論をまとめたいと考えている。数年前から、構想を更新し続けているが、ここからが遠い。私自身が老骨に鞭打ち、一書生として、今一度、空手武道の修練に挑まなければならないと考えている。正直言えば、身体の具合は良くない。それでも、蓄えた体力と技能があるから、なんとか普通の人ぐらいには対応できる。だが、もう空手を極めるというレベルではないかもしれない。しかし、身体の不自由を受け入れるからこそ、自分の身体と心を極めることができるのではないかと考えている。また、そこに本当の自由がある。

 

【極真とは】

 ここで言っておきたい。私の空手理論では、「極真」とは真を極めると書いて、その意味は「自分を極める」ということだ、と思っている。もちろん本物を極めるという意味も含意しているだろう。しかし、本物を認知、認識するのも自分の身体と心なのだ。また、私は本物も偽物もどうでも良い。さらに言えば、偽物とは自分を偽ることであり、自分を偽らず、自分を活かすなら、それは本物なのだ。自分を偽らない。これが難しい。みんな自分を偽っている。私も長く自分を偽ってきた。だが、もう偽ることをやめたい。できるなら…。幸いなことに、増田章という人間は、偽ることが下手な人間だ。

 

 もうひとつ、「極真」の「真」とは真理のことではなく、自分の身体と心で感じたことを掘り下げ、その感覚とイメージを本当に我がものとすることだ、と私は考えている。それが自分を極めるということである。平たく言えば、どんな状況でも自分を大切にできるような感性を涵養することと言っても良い。同時にそれは他己を大切にできる感性を涵養することになる。難しく言えば、自分を存立させている基盤が、自分の正体であり、かつ、その基盤が他者を感じ、認識しているのだから。

 

 もちろん、自分を極める手段は、何も空手に限ったことではない。だが、本当に徒手空拳で、道具もいらない、そして自分の「身体と心」と他者のそれと対峙する徒手格闘術、つまり自分と相手との対峙を基本とする空手武道が最善の手段だと言いたい。ただし、理念と手法が正しければの話だが…。これは調子に乗った言い過ぎだ。勘弁して欲しい。

 

 言い過ぎのついでに言えば、拓心武道メソッドには、「基ー型ー形(キ−ケイ-ギョウ)」の段階と階層がある。基本を極め、組手型を極め、組手を極める。言い換えれば、明確な理念と手段を有する空手の基本稽古において、自分の身体と対峙し、組手型の稽古で自他の関係性を学び、さらに組手により、自己を更新、かつ創造していく。そのような構造を有する空手武道なら、一人ひとりが、自分自身の可能性を開拓し、かつ、感覚(センス)を研ぎ澄ましていくだろう。また、そこで得られた感覚により、自分を尊重する精神を涵養し、かつ他者の感覚を尊重する意味を紡いでいく。そんな空手武道が拓心武道なのだ。また、そんなあり方が、私の考える「極真」でもある。

 

沖縄を思う /「琉球弧の写真」を観て〜2020年11月8日

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沖縄を思う /「琉球弧の写真」を観て〜2020年11月8日

 

稀有な体験と歴史を有する土地

 東京の外れ、と言っても良いようなところに住んでいる私は、人の多いところは好きではない(住んでいる人には悪いが)。また、目の調子が良くない。ものもらいが治らない。いつも目に違和感がある。

 

 今日は都心に用事があった。その僅かな時間、東京都写真美術館へ立ち寄った。気になっていた写真展が開催されていたからだ。それは沖縄を代表する写真家の作品展であった(沖縄出身の作家の作品展)。ちなみに、沖縄は昔から多くの写真家の被写体となってきた。しかし沖縄は現在、本土の人間にとって、海の美しい島、優れた歌手を生み出した島、空手のルーツ、また観光旅行の地としてしか見ていないように思う。かくいう私も同様かもしれないが、正直言えば、前述した部分にはあまり興味がない。私が沖縄に興味があるのは、稀有な体験と歴史を有する土地、また普遍的な人間性の形が未だ残る土地だ、と思うからである。だからこそ、その地に生きた写真家の作品を見て見たかったのだ。

 

他者との共同作業

 私は最近、とても疲れている。今日も時間があるなら家に戻り、なるべく身体を休めた方が良いのでは、と思いながら美術館に向かった。もう人に教えたり、説得したりすることが嫌になっている。と言いながら、人に教える仕事をしている。そして人を説得しようとしている自分を愚かだ、と思っている。もちろん、教えなければならないこともあるだろう。ただ、物語的に理路整然と教えなければならないということに、ある種の欺瞞を感じている。だが、そうしなければ、他者との意味の交換が困難になるに違いない。しかし、より大事なのは、意味(本質)を感じ取ろうとする意志、そして感性であると思っている。それは、与えられた物語を鵜呑みにすることではない。自らの感性を働かせ、かつ高めながら、他者との共同作業を行っていくことである。誰もそんなことを望んでいないという声が聞こえる。そして私のような人間は不要だと思えてくる。

 

沖縄に生きる人間の姿(形)の中に「生命力」を感じた

 そんな思いを巡らす中、沖縄の写真家の作品を見てエネルギーが湧いてくるのを感じた。1960年代から1977年ぐらいまでの写真だったが、その作品と沖縄に生きる人間の姿(形)の中に「生命力」を感じたのである。

 

 行って良かった(見て良かった)。

 

 実は、この写真展は自由に撮影をしても良かった。SNSに掲載するのが可なのかがわからないが数点、掲載しておく。ただ、石川真生氏(女性写真家)の写真だけは撮影禁止だった(プライバシーの問題と著作権のためだろう)。

 

 石川真生氏の作品は「赤花アカバナー沖縄の女」というタイトルがついていた。主に米兵相手に商売をする女性たちの姿を写したものだった。

 

 私は、その作品から見て取れる、写真家の心眼がとても優しく、かつポジティブなことに感動した。思い起こせば、若い頃の私は、石川真生氏のような信念の写真家になりたい、と思っていた。だが、すぐに諦め、なれなかった。きっと機縁が異なるからだろう。

 

 私は、石川真生氏の数点あった作品の中で、沖縄の浜辺で、仕事仲間だと思われる女性達が乳房を露わにしながら肩寄せ合って、屈託無く笑う姿を撮った写真が、特に好きだ。その写真から、私はとても元気をもらった気がする。

 

 1960年代の沖縄の光景からは、生命力の顕現が見て取れた。沖縄の置かれている状況からくる、怒りが見て取れる作品もあったが、その多くは島人(沖縄の人達の)の生命力、特に子供、若者、女性の生命力だったように思う。

 

 さて、沖縄の写真に感動したからこそ生まれた、五行歌を掲載したい。沖縄の写真のおかげで、私の思いを五行歌という詩歌に昇華できた。山田實先生、比嘉康雄先生、平良孝七先生、伊志嶺孝先生、平敷兼七先生、比嘉豊光先生、石川真生先生、ありがとうございます。

 

追伸〜原点に立ち戻る

 

 若い頃、写真学校で学んだ私だが、本当に勉強不足が悔やまれる。平敷兼七先生は私の学んだ写真学校の先輩だった。私が学校に通った頃は、まだ有名でなかったかもしれない(私の卒業後、「山羊の肺」という写真集を刊行している)。復刻版が出ていたので取り寄せることにした。「山羊の肺」というタイトルに惹きつけられる。一体、どんな思いが込められているのだろうか。一度、沖縄を旅して見たくなってきている。

 最初、プライバシーの侵害や著作権の問題があるかと思って掲載しなかったが、最後の女性の写真は、私が好きな平敷兼七先生の写真の一つだ。優しい光に溢れている。他にも心に突き刺さる写真があった…。

 

 沖縄の写真家の作品はどれも、とてもとても懐かしい感じがした。そして遥か彼方から呼びかけてくるような感じも受けた。私は、その呼びかけを大切にしたいと思っている。私には、このコロナ禍の中にあって、「原点に立ち戻ることが必要だ」という声が聞こえてならない。

 

 

 

[ほんとうのこと]

ほんとうのことは

わからない方がいい

ほんとうのことがわかると

自分が消し飛んでしまうような

気がするから

 

[善悪に拘る]

善悪に拘る

だが本当の悪が

誰にも

解らない

この絶望

 

[善い悪いより]

善い悪いより

仲間と支え合って

ただひたすらに生きる

人間には

それが大事

 

[夢の中で]

みんな夢の中で

さらに夢見るように

生きている

そして夢から覚めないようにと

祈っている


 

 

心一

 

 

 

追伸〜その2  友人のリアクションに対し〜芸術論/2020年11月9日

「映像を使って表現する詩が写真」「言葉を使って表現する写真が詩」

 以下の五行歌が人に誤解を与えたかもしれない。SNSで友人からリアクションがあった。そのリアクションが不本意なものだったので、ある友人に相談すると、空手の増田が「絶望」なんて表現をしてはならない、と言う。また、人は先入観、否、それぞれの主観で判断するもので、空手家の増田 章は誤解を与えるような発言をSNSではしない方が良いと言う。

 

 だが、私が伝えたかったことは沖縄の写真家の写真展で感じた写真からのメッセージにより、インスパイヤーされた「世界(人間と社会)」に対する思いである。私は沖縄の写真家の作品を見て、自分が見ている世界の在り方を見直したのだ。その「見直し」を詩歌で表現したのだ。

 

 少し脱線するが、今回、写真芸術とは、「映像を使って表現する詩が写真」であり、「言葉を使って表現する写真(が詩」ではないかと思っている。もちろん、写真と詩が同じものだということではない。ただ、本質探求を通じ、新たな視点を喚起させるという点では同じではないかと私は思うのだ。できるなら、昔教わったことのある、故・重森弘淹先生(東京綜合写真専門学校 校長)に質問をぶつけてみたい。重森弘淹先生は生意気なことを言うなというかもしれない。だが、そんなことはないだろう。数回しか授業を受けたことがないが、やさしい先生だった。笑いながら受け止めてくれるに違いない。

 

 話を戻せば、昔から私は自分の考えをオープンにするというスタイルを保っている。これまでも多くの誤解をされたに違いない。確かに、友人の言う通りかもしれないと思ったが、私はそれに従わないことにした。

 

 実は今回、写真展を見て、4編の五行歌が思いついたのだが、その中の1編を削除した。「善悪なんてどうでも良い」と言うフレーズが誤解を生むと思ったからだ。だが、残した1編のみでは、「この絶望」と言うタイトルとフレーズが誤解を生んだのだと思う。

 

 相談した友人には、「増田が絶望してはいけない」「少なくてもそれを人に見せてはいけない」と優しく諭された。なるほどとは思ったが、私は友人に対し、「申し訳ないがあえて妥協しない」と答えた。私は言葉による表現には影があり、その影も含めて理解しなければならないと思っている。難しいことを書くが、所詮、言葉では真理を表現できない。だが、それでも人は言葉を紡ぎ、真理を探そうとする。そもそも真理などどこにもないのかもしれない。あるのは、なんらかの表現手段を通じ、意味を紡ぎ続ける主体。だが、その主体の正体を人間はわからないままだ。それが人間存在だ、と私は思っている。

 

 また、希望の影に絶望があり、絶望の影に希望がある。つまり、影を含めた光の当て方で物事の見え方は異なる。だが、ほとんどの人は、人工的な光に描き出された平面的な記号を消費しながら、生を繋いでいる。ほんとうは、自己の内面からの光を活かしながら物事を映し出さなくてはならないのに。

 

 大げさに聞こえるだろうが、幼い頃、私の脳裏には「絶望」という言葉がよぎったことがある。それは言葉がよぎっただけであり、その際選んだ私の行動は、開き直りだった。「生きている間は絶望はない」そして、「生きている限りチャンスはある」と自分に言い聞かせた。同時に、私は「希望」という言葉をあまり好きになれなかった。なぜなら、幼い頃、明日は良いことがありますようにと毎日祈ったのに、良いことは、いつも訪れなかったからだ。

 

 その代わりというか、ゆえに私は、「チャンス」を探し始めた。その一例が本を読むことだ。私は町の本屋が好きだった。そこに行けば、何か面白いことが見つかるかもしれないと思ったからだ。だが、それが私の希望だったのかもしれない。つまり、「チャンス」とは増田流の「希望」のことであり、希望とは物事の見え方が変わる「機会」があると信じることなのではないだろうか。人との出会いも「チャンス」である。私にとって「大山倍達」「極真空手」との出会いは、まさしく「チャンス」だったのだ。言い換えれば、人は機を捉えさえすれば、自己を活かして変われる存在だということである。うまく表現できないが、私の経験的直感である。

 

 また、人は物の見方が変わる時に、人の行動も変わり、生き方も変わる。私は、その変化を掴む準備を続けているつもりだ。辛いのは、チャンスを掴むための準備は、いつも絶望を感じるような逆境から始まるのだ。また、その逆境の中においては、まず自らが言葉(定義)を変えなければならない。きっぱりと。それが難しい。なぜなら、これまでの概念を否定する要素が含まれることがあるからだ。その部分に誤解が生じる原因がある。ゆえに、友人が言いたいのは、人前では語り方を考慮してということだろう。だが、誤解を恐れたり、人の目を気にする自分自身の性質が、実は嫌いである。そして、固定された空手家、増田 章というイメージなど必要ない、むしろ破壊したいと思っている。そんなものにこだわることが、自己の可能性を妨げてきたと思っているからだ。

 

芸術表現とは

 一方の芸術表現とは、誰がなんと言おうと自分の言葉(表現手段)を、そして詩を、そして写真を赤裸々に表現することである。表現が誤解を産んでも良いのだ。また、現実の否定と取られても良いのだ。否、むしろ現実を壊すぐらいでなければ芸術とは言えない。付け加えれば、今回の五行歌による表現には、社会が生産していると思われる、「希望」の欺瞞と「絶望」の正体を見極めたいと思う気持ちが含まれていたのだ。

 

 今、世界中でコロナ禍による苦難にあえいでいる人がいる。また、差別、紛争、貧困、などなど、様々な困苦に対峙し、生きる人たちがいるに違いない。私の苦労なんて、その人たちに比べればとも思うが、そうは言い切れないとも思う。人は些細なことでも苦しむものだ。それを愚かだとは言ってはならない。なぜなら、愚かなのが人間なのだから。そう書くと、また誤解を生むだろう。丁寧に言えば、老若男女、世界中に様々な困苦に喘ぐ人たちがいるに違いない。そんな愚か者の一人として、私も人生を考えてきた。そのことが空手家、増田章らしくないというのなら、それは、あまりにも増田章のことを知らなさすぎるだけだ。

 

 最後に、私が沖縄の写真家たちの作品に感じたのは、以下の2編の五行歌で表すことができる。陳腐な作品だと考え削除した。だが、それが沖縄の写真家の作品を見て一番強く感じたことなので、載せなかったことに後悔している。ゆえに追伸で追加した。友人に止められたが、本当の増田 章と付き合ってもらうために…。みんな知らないだろうが、私の祖母はとてもオープンな性格だった。生まれた家は金沢の花街の中の豆腐屋、育った家は、公衆浴場だった。場末の公衆浴場では、水商売、看護師、ヤクザ、肉体労働者、などなど、実に様々なお客が通ってきた。祖母はそんな客の姿を時々、子供の私に話して聞かせた。その内容は書かないが、底辺というと語弊があるが、ひたむきに生きる、人間の本当の姿を想像するに十分な内容だった(良い意味で)。普通の家庭では絶対に聞けない話だと思う。そんな環境に育った私には、沖縄の写真家が見た世界を親近感を持って感じることができた。ゆえに、よくぞ残してくれた、と感動した。

 

[善悪に拘る]

善悪に拘る

だが本当の悪が

誰にも

解らない

この絶望

 

[善い悪いより]

善い悪いより

仲間と支え合って

ただひたすらに生きる

人間には

それが大事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

試論〜武道芸術論/2020年11月9日〜沖縄の写真家に触発されて

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武道芸術論〜プロローグ

 

【善と悪】

 

善悪に拘る

だが本当の悪が

誰にも

解らない

この絶望

 

善い悪いより

仲間と支え合って

ただひたすらに生きる

人間には

それが大事

 

 

 先述した五行歌が人に誤解を与えたのかもしれない。そう思って、日頃からよく相談する友人に意見を求めた。すると、空手家の増田が「絶望」なんて表現をしてはならない、と言う。また、人は先入観やその人自身の物差しで判断するもので、空手家として名がある、増田 章は誤解を与えるような発言をSNSではしない方が良いと言う。

 

 だが、今は自分流のやり方を貫けば善いのではないかと思っている。私が伝えたかったことは、沖縄の写真展を見て感じた、写真家の世界観と写真によりインスパイヤーされた、「世界(人間と社会)」に対する思いである。要するに、私は沖縄の写真家の作品を見て、自分が見ている世界の在り方を見直したのだ。その「見直し」を詩歌で表現したのである。

 私は誤解を与えたかもしれないと反省しつつ、それならば、この機会に文字に落とすことで、私の直感を深く掘り下げてみようと思った。それが後述する「武道芸術論」である。

 

写真芸術とは

 先日、沖縄を代表する写真家達の写真展を見た。そして写真芸術とは、「映像を使って表現する詩が写真」であり、「言葉を使って表現する写真が詩」ではないかと思った。もちろん、写真と詩が同じものだということではない。ただ、本質探求を通じ、新たな視点を喚起させるという点では同じではないかと私は思うのだ。作家の一人に私の学んだ写真学校の先輩がいた。嬉しくなって、できるなら、昔教わったことのある、故・重森弘淹先生(東京綜合写真専門学校 校長)に質問をぶつけてみたいと思った。もちろん、重森弘淹先生は生意気言うなというかもしれない。だが、そんなことはないだろう。数回しか授業を受けたことがないが、やさしい先生だった。笑いながら受け止めてくれるに違いない。

 

 写真学校を出てからの私は、全く写真とは縁の無い生活をしている。だが、写真学校で学んだことにより、その後の私の生き方に強い変化をもたらした。どのような変化かといえば、うまく伝えられなかった。だが、卒業後30年以上を経て、沖縄の写真家達の作品を見て、強い思いが湧き上がっている。その湧き上がった「思い」を「五行歌」と言う詩歌の形式で表現してみた。写真家になる夢は早々に諦めたが、時々、詩を書くことを続けている。なぜ、私が詩を書くのか。なぜ、私が写真家を夢見たのか。今回、その意味がわかったような気がする。つまり、私が写真家を夢見たのは、心に強く感じることを詩として結晶化させ、かつ心の葛藤を昇華させたいとの願望があったのだろう。

 

 30年以上も前の私は、詩よりも写真という表現手段・形式を魅力的な手段だと思ったのだろう。その直感が間違っていなかったということが、沖縄の写真家達の残した作品により、理解できたように思う。

 

 私は、沖縄の写真家の写真展を見て、4編の五行歌が思いついた。先日、それをブログに掲載した。実は、その内の1編をすぐに削除した。なぜなら、削除した五行歌には、「善悪なんてどうでも良い」と言う表現(フレーズ)があり、その表現(フレーズ)が誤解を生むと思ったからだ。だが、残した1編のみでは、その意味に到達した過程(文脈)がわからず、より誤解を生むこととなったようだ。私は、もし誤解を与えたなら、この際、徹底的に直感を掘り下げることとした。

 

所詮、言葉では真理を表現できない

 

 まずもって、「増田が絶望してはいけない」「少なくてもそれを人に見せてはいけない」と優しく諭してくれた友人に感謝したい。また、増田のブログに心配してリアクションした友人にも感謝だ。だが、私は妥協しない。

 

 私は、言葉による表現には影があり、その影も含めて理解しなければならないと思っている。難しいことを書くが、所詮、言葉では真理を表現できない。だが、それでも人は言葉を紡ぎ、真理を探そうとする。そもそも真理などどこにもないのかもしれない。あるのは、なんらかの表現手段とその交換(コミュニケーション)を通じ、意味を紡ぎ続ける主体だけのように思える。そして、それが人間存在の正体だ、と私は思っている。また、希望の影に絶望があり、絶望の影に希望がある。つまり、影を含めた光の当て方で物事の見え方は異なる。だが、ほとんどの人は、人工的な光に描き出された平面的な記号を消費しながら意味を紡いでいる。ほんとうは、自己の内面からの光を活かしながら物事を映し出さなくてはならないのに。

 

 「絶望」という言葉

 

 大げさに聞こえるだろうが、幼い頃、私の脳裏には「絶望」という言葉がよぎったことがある。それは言葉がよぎっただけであり、その際選んだ私の行動は、開き直りだった。「生きている間は絶望はない」そして、「生きている限りチャンスはある」と自分に言い聞かせた。同時に、私は「希望」という言葉をあまり好きになれなかった。なぜなら、幼い頃、明日は良いことがありますようにと毎日祈ったのに、良いことは、いつも訪れなかったからだ。

 

 その代わりに私は、「チャンス」を探し始めた。その第一歩が本を読むことだった。幼い私は、小学校の頃は図書館が大好きだった。中学以降は学校自体が嫌いだったので図書館にはいかなくなった。その代わり、町の本屋に入り浸った。そこに行けば、何か面白いことが見つかるかもしれないと思ったからだ。実は、それが私の希望だったのかもしれない。つまり、「チャンスというものがある」という信念は、増田流の「希望」のことだと思う。つまり、私にとって希望とは物事の見え方が変わる「機会」があると信じることなのである。人との出会いも「チャンス」である。私にとって「大山倍達」「極真空手」との出会いは、まさしく「チャンス」だったのだ。言い換えれば、人は機を捉えさえすれば、自己を活かして変われる存在だということである。うまく表現できないが、私の経験的直感である。

 

チャンスを掴むための準備

 

 私は、人は物の見方が変わる時に、人の行動も変わり、生き方も変わる、と思っている。私は、そのチャンスを掴むための準備を続けているつもりだ。辛いのは、チャンスを掴むための準備は、いつも絶望を感じるような逆境から始まるのだ。その逆境を乗り越えるには、その逆境を受け入れつつ、まずは自らが言葉(定義)を変えなければならない。きっぱりと。それが難しい。なぜなら、これまでの概念を否定する要素が含まれることがあるからだ。だが、その部分に誤解が生じる原因がある。ゆえに、よほど理解しあっている相手以外には、言葉を選んだ方が無難である。かく言う私は言葉を選ぶことが苦手だ。加えて、誤解を恐れたり、人の目を気にする自分自身の性質が嫌いだ。そう言うと、私を知る人には噴飯されるかもしれない。「お前、それで人の目を気にしているのか」と。しかしながら、幼い頃の私は、自分に正直にありたいと願う気持ちと、人からよく見られたいと言う気持ちが交錯し、自分をどのように表現したら良いのかと言うことにとても悩んだ。そんな私は、固定された空手家、増田 章というイメージなど必要ない、むしろ破壊したい、といつも思っている。また、そんなものにこだわることが、自己の可能性を妨げてきたと思っている。私が拘るとしたら、自分自身の奥底に横たわる原風景と原体験を忘れてはならないと言うことだ。それが自己の魂とも言える何かなのだから…。

 

本当の人間形成とは、芸術によらないとできない〜より善い社会とは

 さて、実は私の空手道は芸術表現だと思っている。そう言えば、唐突に思われるかもしれない。また、反論や異論、また嘲笑が起こるだろう。脳裏に「増田は何を言っているんだ」「増田は独善的で話にならない」など、様々な批判が浮かぶ。また、無視されるかもしれない、と思っている。そして私の発言を無視できない、我が空手道場の門下生には申し訳ない、と思いながら書いている。それでも、正直に思うところを書いておきたい。

 

 我が道場の門下生には、護身術的な部分、心身を鍛える手段という面など、空手修練の実効が重要なのだろう。だが、誤解を恐れずに言えば、私にとって空手武道は、私の芸術表現である。その芸術表現を転じて、道場生の欲しい効用を提供し、かつ、空手の価値を高める結果に繋げようとしている。しかしながら、私が望むことは、そして門下生に伝えたいのは、一人ひとりが空手を手段とする芸術家になってもらいたい言うことだ。そのことが了解できる門下生が私の求めている人間だと言えば、新たな誤解を生むだろう。

 

 武道芸術論

 一般的な武道は、修練において規律を教え、型を重視する。それゆえ、自由な芸術表現と武道とは、相いれない感じがするに違いない。だが、現実の写真芸術と言う表現手段は、自由なものでは無い。例えば、フィルムやカメラ、レンズ、光と影、などの特性を熟知し、その理合いを活用しなければならない。それが技術の部分だ。さらに、写真には撮影者の哲学、そして生き方が反映する。つまり、写真芸術にも技術が必要で、かつ、その活用には法則・理法を内在した「型」がある、と私は考えている。そして、写真家がその型(法則)をどのように使うかで、様々な個性的な作品が生み出されるのだ。さらにいえば、武道が「機」を捉えなければならないのと同じく、写真も「機」を捉えなければならない(特に昔のフィルム写真はそうだった)。

 

 30年以上も前、私が学んだ写真学校の校長の「写真芸術論」という著書を読んだ。そこには、「すなわち芸術とは、人間個性の十分な刻印を残しているところの技術の一部である(マンフォード)」「芸術創造における技術とは、常に個性そのものに他ならない」と書いてあった。私流に換言すれば、「優れた写真芸術は技術の一部でありながら、かつ個性の刻印を明確に表す物でもある」と言うことだ。その言葉を「武道」に置き換えれば、「優れた武道は、武術の一部でありながら、かつ個性の刻印を明確にあわわす物でもある」となるように思う。

 

 私の直感は、それこそが「人間形成」の究極だと言うことである。また、私は、「個性」とは写真芸術においても武道においても、精神性を内包した身体性そのもののことであると考えている。つまり、写真芸術と武道には通底する部分があるのだ。ゆえに私は、空手武道も芸術だ、と直感している。否、本当の人間形成とは、芸術によらなければできない、と私は言いたい。さらに言えば、より善い社会とは、そのような芸術活動を担保するものでなければならない、と私は考えている。

 

 言い換えれば、私が考える芸術表現とは、そこに「それが魂だ」と言えるような個性、精神を表現するものでなければならない。そのための表現手段が、ある時は詩に、ある時は写真に、またある時は武道になるだけだ。

 

 人の何らかの表現が、時に他者に誤解を与えるかもしれない。だが、それは当然のことである。なぜなら、意味は人の外にあるのではなく人の内にあるものだからだと思う。おそらく、人間はそれぞれの内にあるものを瞬時にして探し当て了解しているのだろう。それが自分の内にある物語上の意味と異なれば、了解できないに違いない。芸術表現とは、新しい物語を提示し、その人独自の意味を表現する。そのような行為が、他者の意味を否定、破壊する面があるのは当然である。

 

 そうであっても、芸術表現は、世界に新たな視点を付与し、世界に新たな意味と価値を創出する原動力になるものだと思う。それが芸術表現ではないだろうか。また、そのような芸術表現に魂が共振することが、本当の共感と言えるものではないだろうか。逆に言えば、なんらかの造形物によって自分が破壊され、かつ、新たな自分が誕生する契機となるような経験、それが共感でなければならない。さらに言い換えれば、既存の意識をある意味、破壊し、無意識と言う「心眼」の領域に働きかけ、それを動かす物、それが芸術作品だと思う。

 

 よって、安心を求める意識を基盤とした「現実意識」を壊すぐらいでなければ芸術とは言えないのだと思う。ただし、最低限の作法は必要かもしれない。写真も同じである。私が考える芸術としての武道は、高いレベルの技術を有し、かつ、個の魂(個性)を表し、かつ、他者の心眼を開かせるものだ。そのような武道が平和共存を実現する手段となるのである。

 

 あえて言うが、伝統を保存するだけの武道も価値あることだとは思うが、個の魂を表す手段とはならない。武術を保存するのは良い。だが、伝統的な武道というと、それは階層的な社会に適合させるための訓練として、権威形成を主目的とする事物に傾斜していく、と私は考えている。そして、そんな武道は、人間性を回復させたり、本当の意味での人間教育にはならないと言うのが、私の直感である。

 

 私のブログに表した私の五行歌には、社会が標榜する「希望」の欺瞞と同時に、社会が産み落としている「絶望」の正体を見極めたいと思う気持ちが含まれていた。

 無名の人達(少数の人達)の声を忘れてはいけない

 今、世界中でコロナ禍による苦難にあえいでいる人がいる。また、差別、紛争、貧困、などなど、様々な困苦に対峙し、生きる人たちがいるに違いない。沖縄の先人が経験した困苦は、現代人の想像を超えるかもしれないが、私には少しだけ想像できたように思っている。その経験は不幸なことにも思えるが、その経験を想像することは、人間の尊厳を喚起させるに充分だなものだ。ゆえに語り継がねばならないと思う。

 

 翻って、「そんな経験をしてきた人達と比べれば、俺の苦労なんて…」と私の人生を思う。だが、そうは言い切れない。人は些細なことでも苦しむものだ。それを弱く、愚かだとは言ってはならない。なぜなら、弱く、かつ愚かなのが人間だと思うから。そう書くと、また誤解を生むに違いない。

 

 もう少し丁寧に言えば、世界中に、老若男女、様々な困苦に喘ぐ人たちがいるに違いない。そんな人達を弱く、かつ愚かだと語るのではなく、同じ人間として、その痛みを少しでも理解してあげることが大事だと思う。同時に、少数の人たちの経験に目を配ることが大事ではないだろうか。それが、平和の礎になると思うし、「国民国家」という暴力装置の犠牲者となった人達への鎮魂となると思うのだ。平たく言えば、みんなで力を合わせ、協力して、より良い社会を築いて行くために、いつも無名の人達(少数の人達)の声を忘れてはいけない、と思う。そして、その少数の人達の声の中に、真実がある、と私は思うのだ。

 

生きると言うことの芸術家たれ

 日本は明治維新以降、欧米の思想に習い、チャンピオンを目指したのだと思う。そして、チャンピオン争いに敗れた。私はチャンピオン至上主義自体に問題があると感じている。その意味は、チャンピオンを至上とする考え方、つまりそれを支える基盤(社会思想)に瑕疵があると思うのだ。社会はチャンピオンのためにあるのではない。これは日本に言いたいと言うより、欧米の国々に言いたいことである。だが、「それなら、どうすれば良いのか」「代替案を出せ」と政治家なら問われるに違いない。しかし、そのような考え方自体が、覇権主義であり、より強大な者が弱小な者を従えると言う思想のように思えてならない。本当に、そんな生き方しかないのだろうか。私は人生を賭けて考えている。まだ、直感レベルだが、仏教学者、鈴木大拙の「生きると言うことの芸術家たれ」と言う言葉に呼応して言いたい。武術は技術であり技術思想の枠を超えでないが、武道は技術を一部としながら、それを用いる人間(個人)の個性(魂)の表現であり、技術思想の枠を超えでていくものだと思う。そうあってこそ、「武道とは人間教育だ」と言えるのだ。そうでない武道、人間教育など、何らかの暴力を背景にした訓練、または権威の形成の舞台装置(しかけ)に他ならない、と私は思う。

 

 そのことを言うのが、空手家、増田章らしくないというのなら、それは、あまりにも増田章のことを知らなさすぎるだけだ。そして、私は自分の信じる空手武道により、愚かな人間を救いたい、と考えている。そして、自分を弱く、かつ愚かな人間だと感じない、強く、優れた人間だと考えている者達に「何か」を伝えたい。自分が救われるために。それが、幼い頃から私が持つ、私の本当の望みである。そのことを実現するには、空手武道を写真芸術(芸術表現)と同等にしなければならないのだ。

 

 

拓心武道〜「井の中の蛙一天を見つめる」天は全世界につながっている〜母の愛

 『「井の中の蛙一天を見つめる」天は全世界につながっている。突き抜けていくと宇宙にも達する。高校の先生が言った言葉が私の沖縄の写真を撮影していく力となった(平敷兼七/山羊の肺より)』。感動して取り寄せた写真集の冒頭の言葉である。

 沖縄の写真家、平敷兼七先生の写真集も、先述の言葉のように、私の背中を押してくれたように思う。今回、沖縄の写真家の写真を見て想起するのは、これまで多くの人の物心両面の支えで生きてきたのだ、という感謝である。そして、決して忘れてはいけないことがあると言うことだ。

 

 おそらく、多くの人が母の愛を感じて生きているに違いない。もちろん私もその一人だ。多くの人間は、母の愛と母の愛との連携で生きているのではないだろうか(何も女性だけを割いているのではない、父親の中にも母の愛は生きている)。

 

 1960年代の沖縄の写真を見て、私は幼い頃を思い出した。幼い頃の私は、祖母達(父方と母方)にとても可愛がられた。母方の祖母は、とてもオープンな性格だった。私は祖父母のもとで生まれた。幼い頃の家は、金沢の花街の中の豆腐屋だった。小学校に上がる頃の家は、公衆浴場を営んでいた。裕福ではないが貧乏でもなかったと思う。だが、場末の公衆浴場では、水商売、看護師、ヤクザ、肉体労働者、などなど、実に様々なお客が通ってきた。祖母はそんな客の姿を時々、子供の私に話して聞かせた。

 

 私の祖母の話は、沖縄の写真にもあった、底辺というと語弊があるが、ひたむきに生きる、人間の本当の姿を想像するに十分な内容だった(良い意味で)。普通の家庭では絶対に聞けない話だと思う。また、花街近くに住んだ体験から、沖縄の写真家が見た世界を親近感を持って感じることができた。おそらく、思い出したくない体験だと言う人もいるに違いない。現代日本では、こんな写真は取れないかもしれない。様々な理由で。それゆえ、よくぞ残してくれた、と私は思った。そして感動した。私は、間違いなく、沖縄人の魂のようなものをそこに感じた。かつ、写真家たちの魂のようなものをそこに感じた。私もそんな人間になりたい。そして死んで生きたいと思っている。まだ死ぬには時間があるだろう。さて、どう生きるか…。だが、あまりにも世界は多様だ。そんな中で自己を貫くには、並外れた信念が必要な気がする。

 

 最後に、私は武道の精神、魂の中心に「愛」がある、と思っている。また、人間の精神の中心にも「愛」があるに違いない。もし、それが本当につかめたなら、世界中の人達はもっと力を合わせていけるだろう。それが、まだ完全でないように見えるのは、まだ全ての人の心眼が開いていないからに違いない。私は、まずは人がどうあれ、「天」を相手にして行こうと思う。だが、言わずもがな、天とは井の中の蛙が見つめる上ではない。この言葉にある、井の中の蛙が見ているのは、自分自身の内面なのだ。そこに「天」は広がり、そこを極めた時、世界は繋がるのだ、と私は考えている。

 

 同様に、拓心武道とは自分自身の内面、すなわち心を開拓し、それを拡げていく道だ。そして心眼を開く手段としたい。人生の終盤で、ようやく心が定まったような気がする。今私は、この思想を武道流派としてではなく、一人の武道家の在り方、拓心武道として伝えたい、と考えている。

 


 

 

備考:本編は2020年11月9日のブログの追伸〜その2に加筆、再編したものを掲載しています。ブログの内容が多くなりすぎたので、重要な部分を再編集して掲載する。私の気まぐれな思索に真摯に向き合ってくれた友人に感謝したい。ありがとう。

おかげさまで、新たな気づきがありました。

 

 

下の写真は一見、平凡な写真である(失礼)。だが、撮影場所、光、表情、笑顔だけを浮き立たせるような手法などなど、何か特別な意味があると感じている。また、作者の魂が見て取れるような気がする…。私がとても好きな写真の一つ。

撮影者:平敷兼七

 

 

 

 

 

 

 

 

武道芸術論〜自己の自由と個性を護る手段

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先日書いたものの中から武道芸術論だけを抜き出し加筆修正した。先日書いたものには、私の近況や先を見据えた思いが書いてある。それらが雑音と取られる可能性もあるので、論の核心部分だけを分けて見た。

 

武道芸術論〜自己の自由と個性を護る手段

 ここでいう自由とは、勝手気儘な振る舞いを指していう概念ではない。「自分にとって自由にならないと思われる事物(不自由)を抑え、かつ従えつつ自己の内面を確実に表出すること」と私は仮に定義したい。芸術とは、まさしく筆、キャンバス、素材、などなど、自由にならないものを抑え、かつ従えて、技と術を以って自己の自由を表現することだ、と私は思う。

 

 一般的な武道は、修練において規律を教え、型を重視する。それゆえ、自由な芸術表現と武道とは、相いれない感じがするに違いない。しかし、考えてみると写真芸術と共通する要素が見て取れる。

 

 まず、改めて写真芸術について考えて見たい。現実の写真芸術と言う表現手段は自由を表出するものではあるが、現実は表現するために不自由とも思われる操作(技術)を抑え、かつ従えて我が物としなければならない。例えば、フィルムやカメラ、レンズ、光と影、などの特性を熟知し、それを自己に従わせるために、その理合い体得し、それを活用しなければならない。それが技術の部分だ。

 

 さらに写真芸術には撮影者の哲学、そして生き方が反映する。撮影者の自由を表出し、かつ作品を芸術表現として昇華する。別の見方をすれば、写真芸術にも、まずもって技術が必要で、かつ、その活用には法則・理法を内在した「型」があるのではないか。しかしながら、写真家がその型(法則)をどのように使うかによって、本当の自由が見え隠れする。その自由を我が物とした作品が芸術表現と評されることになるのだろう。補足すれば、写真は「機(瞬間)」を捉えなければならない(特に昔のフィルム写真はそうだった)。

 

 要するに、写真芸術も武道同様に「基本技術」を我が物とし、かつ理法の体得としての「術」を我が物としなければならないのだ。その部分が武道でいうところの「型」の体得の部分である。そして繰り返すようだが、撮影の際は、「武道の技」を実際に使う際、技を生かすための「機」を捉えなければならないのと同様に「機」捉えなければならない。

 

 そのように見てくれば、武道と写真芸術との共通項が見えてくる。そして武道も単なる術の習得が目的ではなく、それを使う人間(自己)の自由を生かすために(表現)あるのだと思えてくる。また、自己の自由の表出が、即、魂(個性)の表現として成立すること。つまり、伝統的に形成された術を承継しつつ、自己の自由と個性を護る手段ともなる。それが私の考える「武道」である。それを換言すれば、「文化」ということになるかもしれない。

 

 今から30年以上も前、私が学んだ写真学校の校長の「写真芸術論」という著書を読んだ。そこには、「すなわち芸術とは、人間個性の十分な刻印を残しているところの技術の一部である」「芸術創造における技術とは、常に個性そのものに他ならない」と書いてあった。私はその定義と照らしつつ、優れた武術が芸術と等しいものであるということのみならず、武道とは何かを考えざるを得なかった。私は優れた武術は芸術と等しいものであると考えている。では、武道となるとどうなるか?私は「武道とは武術の芸術性を内包しながら、人と社会により有益な価値をもたらすもの」と考えた。さらに、その価値とは、「武術の修練により、一人ひとりの尊厳を守ること」にあるのではないか、と考えた。そのことを短く定義すれば、「優れた武道とは、武術の芸術性を内包しつつ、一人ひとりの個性を引き出し、人間社会を護るもの」だ。そして、それが文化の本質でもある。

 

 私の直感は、それこそが「人間形成」の究極だと言うことである。また、私は、「個性」とは写真芸術においても武道においても、精神性を内包した身体性そのもののことであると考えている。つまり、写真芸術と武道には通底する部分があるのだ。ゆえに私は、空手武道も芸術だ、と直感している。否、本当の人間形成とは、芸術によらなければできない、と私は言いたい。さらに言えば、より善い社会とは、そのような芸術活動を担保するものでなければならない、と私は考えている。言い換えれば、芸術活動の担保とは個人の自由と尊厳を担保するということと同義である。

 

 私が考える芸術表現とは、そこに「それが魂だ」と言えるような個性、精神を表現するものでなければならない。そのための表現手段が、ある時は詩に、ある時は写真に、またある時は武道になるだけだ。

 

個性を活かした生き方?〜デジタル空手武道通信 臨時増刊号 編集後記

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第41号 臨時増刊号 編集後記

 

【個性を活かした生き方】

 

 先日、沖縄写真家が観た戦後の沖縄の写真展を観た。その写真展に触発され、コラムを書いた。

 

 それが「武道芸術論」である。おそらく、増田の頭はおかしいのではないかと思う人が大半であろう。また、私の論など無視するに違いない。だが、私は全ての人の個性を生かせるようになったら良いな、と考えている。

 

 難しいのは、まずもって私の論を展開するために、「個性」を「個の哲学を内包した身体性」と定義しなければならないことである。そして、そのような個性を尊重をし合うために、一人ひとりの人生は、芸術表現の場だ、と定義しなければならない。

 

 おそらく、多くの人が武道などというと、何かの権威に絶対服従する封建的な思想の権化だと思っているだろう。もしくは、現実的にそのような形相となっているに違いない。だが、武道を体得する者が服従するのは、自己の良心でなければならない、と私は考えている。そして、その良心は、同時に他者の良心でもあるということを理解してほしいと考えている。また、その良心を活かして生きるための手段、かつ修行が武道だ、と私は考えている。

 

 言い換えれば、一人ひとりの個性を活かした生き方を支えるもの、それが武道である。そして個性を活かした生き方とは芸術に他ならない、否、生き方とは、また人生とは、本来、芸術なのだ、と私は思う。

 

 また個性を生かすとは、自己の個性のみならず、同時に他者の個性も尊重しなければならない。また、芸術として、生き方、人生を観るとは、他者との関わり合いの中にあって、個が自己でありつつ、かつ自己の喪失のないところを見なければならない。その上で、自己をよりよく生かし、かつ表現された事物を見ることができなければ、理解はできないだろう。

 なぜなら、芸術表現とは、主観的でありながら客観的で、能動的でありながら受動的でもあると思うからだ。そのようなあり方が、本当に主体的、かつ能動的なあり方、そしてより善い生き方だ、と私は考えている。

 

 ここで主体性とは何か?を考えて見たい。主体性とは、人間一人ひとりの底流にある、良知良能の働きを活かして行動、かつ生きることだ、と私は考えている。そして人間がその底流に到達した時、古くて新しい何かが生まれると期待している。

(デジタル空手武道通信 臨時増刊 編集後記より)

 

 

 

 

 

 

デジタル空手武道通信 第41号(臨時増刊号)

 

 

本号の内容について

 

  • IBMA空手武道チャンネル(MASUDAチャンネル)にヒッティング方式(TSアドバンス方式)の組手イメージの動画をアップしました。
  • デジタル空手武道教本の「昇級審査項目について」のページを更新しました。
  • デジタル空手武道教本の必修組手型2020改訂版のページを更新しました。
  • 第1回道場対抗組手交流会の対戦表をアップします(もうしばらくお待ちください)。

 

今月末の道場対抗組手交流会の参加者の皆さん、是非とも試合経験を活かすようにしてください!

以下に組手イメージをアップしておきます。もちろん、ルールを把握するならば、自分の思うままに試合をして構いません。

 

 

 


デジタル空手武道通信 第42号 巻頭言より

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【巻頭言】

 

 本号の巻頭言は、組手交流会の開会挨拶の動画とします。短くと思っていましたが、記念すべき第1回の道場対抗組手交流会であること。新しく採用したTSアドバンス方式(ヒッティング方式)の理念を全ての会員道場生に伝えるべく長くなりました。稽古は稽古に対する考え方が重要です。その考え方によって、得られるものが全く異なって来ると言っても過言ではありません。今回、私の空手武道哲学を伝えるために、65歳の中村雄一初段に試合参加をお願いしました。私の考案した TS方式なら、怪我の心配も少なく、中村氏の空手修練のプラスになると判断したからです。また、私を含めた、多くの壮年の方々に勇気を与えると思ったからです。TS方式の稽古を始めて2〜3ヶ月足らずで、しかもコロナの問題もある中、本当にありがとうございました。私の期待通り、みんなに勇気を与えたことと思います。

 

【本当の道】

 現在、私は伝統的な極真空手の組手方式を一旦、棚上げしようと考えています。そして、極真空手を進化させるために、今の内にやっておこなければならないこととして、組手に対する意識革命に取り組みます。それは極真空手の原点に立ち戻ることであり、同時に極真空手を進化させることだ、と私は思っています。おそらく、今回の試合映像を見て、「強そうじゃやない」「大したことはない」と表層だけをみて言う人がいるかもしれません。そのような人間は本当の「道」が見えない人です。本当の道とは目には見えません。そして目に見える道は本当の道ではない、と私は考えています。また、人の後を追い、また人の真似をして生きるだけでは、本当の道は見えません。かつての私も他者の作った価値を追い求めてきました。しかし、本当に大事な事は自分の身体と心を活かすための技術と技能を持つことだと気づきました。その時から、自他一体の理法を我がものとしたいと願ってきました。私には分不相応、かつ、高すぎる理想かもしれませんが…。

 

【「道」を体得する手段】

 TS方式は一人ひとりが自己の可能性を開拓し、最高の自己を作り上げるために必要な「道」を体得する手段です。そう私はイメージしています。とにかく、すぐには人の気をひくような結果が現れないかもしれませんが、私は「道」を追求します。そして、「道」と一体となれた時、私の人生が本当に有意義なものになると思っています。

 

 

 

技能から見た武道とは〜武道とは何か? 

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技能から見た武道とは〜武道とは何か? 

 

【技術の習得】

 技術とは、なんらかの目的を達成・実現するために用いられる手段・方法である。ゆえに空手武道における技術とは、相手を手足によって攻撃したり、相手の攻撃を防御したりする手段・方法と言っても良い。

 空手武道における、突きや蹴りといった技術は、日常生活における身体操作とは乖離しているので、習得に労力を必要とする。また、技術を表現する基盤が身体だということにより、その技術に個体の身体差の影響が出てくるのは否めない。だが、その個体差を努力によって埋めて行くのが稽古である。その努力の詳細は、単に身体をいじめるというようなものであってはならない。大事なことは身体を通じて(全身で)考えることである。考えるのは、「自己の心身について」と「技術について」である。その部分が自己の確立に役立つ、と私は考えている。最終的に技術の習得の稽古とは、自己の身体の可能性を開拓し、その可能性を開花させる方法論を導き出すものである。同時に、その方法論は、自己の確立に組み込まれて行く。そうなって初めて、技術習得が人間形成に役立つということとなる。ただ、そのことをどれだけの人が理解しているだろうか。あえて書くが、空手技の習得による優越感を自信と勘違いしたりするのも一時的には効用があるかもしれない。だが、本当はそんなことが大事なのではない。できなかったことが、自分の努力によりできるようになることを通じ、意識(目付け)の向上が認識できるようになることなのである。空手の基本稽古によって得られる効用とは、それ以上でも以下でもない、と私は考えている。

 だがここで、さらに意識の向上を推し進めるのが本当の武道の稽古であると言いたい。私は武道の稽古においては、技術の習得と併行して、その技術をいかに使うかという稽古をしなければならない、と考えている。言い換えれば、技能養成が武道修練の要諦だということだ。補足を加えれば、技能養成とは一人一人の心身の変革であり、高次化のことだと言っても良い。

 増田式の空手武道修練法と言っても良い、拓心武道の眼目は、「技術をいかに使うか」ということを考え、工夫する修練を意味する。言い換えれば、「技術をより善く使う技能」を追求する修練が拓心武道の核心である。

 少し脱線すれば、武道修練について私がその様に考えるに至ったのは、技術をより善く使うための技能の追求によって、基本技術との対峙、掘り下げが必要になって行くという経験的認識があるからだ。逆に言えば、そこまで至らなければ基本とは何かが真の意味でわかっていないと言っても良いだろう。長年にわたる、才能ある多くの空手家との対峙、そして極真空手そのものに対する対峙が私の身体による認知と認識を変化させた。繰り返す様だが、私にとっての空手武道修練とは、必然的に「基本技術の掘り下げ及び研鑽」と「より善い技能の追求」とが一体化した行為となった。

 

【技能という能力】

 さて、ここで技能とは何かを掘り下げてみたい。まず私は、「技能とは技術を活用する能力」と定義したい。また本論において、「技術とは、なんらかの目的を達成・実現するために用いられる手段・方法」だと先述した。

 私は、勝利への意識が高いプロスポーツにおいては、技術の使用と目的達成(成果)との間のズレを無くすための技術練習を徹底しなければならないと考えている。例えば「ゴールを決めるためにシュートをしたが、ゴールポストを外れて、ゴールに至らなかった」という場合、遊びでスポーツを行う人は深く考えないかもしれない。だが、プロはそうであってはいけない。うまくいかなかった原因を徹底的に追求し、改善しなければならないと思う。また、この様なケースを「技術」と「技能」という概念を用い考えると理解しやすいだろう。

 私の考え方は、シュート(ゴール)の失敗が、パスの受け取り(予測の部分)に問題があるなら技能が稚拙ということになる。また、ゴールキーパーの真正面にシュートするということも技能の問題であろう。一方、十分なシュートの機会が与えられているにも関わらず、シートを外したとなれば、技術の問題である。私はその様に考える。そして、その問題を解消、改善しなければならない。ただし、パスの受け取りからゴールにつなげる技能(スキル)の発揮には、パスを受け取る技術の精緻さがなければならないということも考えなければならない。

 補足すれば、なんらかの技術の発揮とその成果(結果)には、技術の精緻さのみならず技能の問題があるということだ。また、技能とは技術と連携して、目的達成の可能性をより高める能力と言える。

 

【武道における技能】

 次に武道における技能、武技(技術)の用い方としての技能について考えてみたい。敵対する相手の腹部や腕部、また脚部などを攻撃し、相手に致命傷を与えず、相手の戦意や戦闘力を一時的に奪うことが技術使用の目的だったとしよう。だが、間違った目標を攻撃し、相手を死に至らしめたとしたらどうだろうか。そのような技術は害悪となる可能性が高い。おそらく、この例えはわかりにくいだろう。また、相手から自分の身を護らなければならない状況にあって、そんなことを言っていられないと思う人もいるだろう。だが、私の言いたいことはそうではない。よしんば、相手の実力行使(暴力)から身を護る手段としての武術であっても、私の考える武道の目指すところは、より善い武技の用い方だということだ。また、武技の最善活用が武道の目指す究極だということでもある。

 断っておくが、武技の使用は、時に相手を粉砕しなければならない時もあるだろう。また、高いレベルの武技とは相手を確実に殺傷、粉砕できるものだ。だが、究極的には、より良い武技(技術)の用い方の追求を通じ、武技(技術)の使用による目的達成を超越するような新たな価値と方法の創出を可能とする意識(目付け、観点)を養成するあり方が武道というに値するものだ、と私は考えている。

 言い換えれば、より高いレベルの技能の養成を目指す修練が、個々人の身体のみならず心に働きかけ、より高次の哲学を生み出すことが武道の本義なのである。その次元に立って、初めて武術が武道という境地に立ったと言える。

 私の主宰する空手道場では、単なる技術の習得ではなく、その技術をより善く、かつ、どのように使うかということを考える。言い換えれば、技能の修練によって、自己を活かす道を体得することを目指す。それが拓心武道である。

 

 ここまで書いてきて、技術とは、なんらかの目的を達成するための「道具」のようなものだと言い換えられる、と私は考えている。だとしたら、その道具の使用目的がなんであるかを明確にすることが重要だと思っている。その意味は、「道具」を使う前に、道具を使う者の心のあり様が重要だ、ということだ。

 

 例えば、道具が人から人へと伝達されたとしても、それをより善く使うことに直結しないことがある。それは道具(技術)の本質が「なんらかの行為に役立つ」ということでしかないゆえのことだ。だが、そこに「より善く」という価値観が意識されると、方向性と成果は全く異なってくる。つまり、同じ道具(技術)を使うのでも、その目的、イメージが異なれば、道具の使い方のみならず、道具によって導き出される成果は異なってくるということだ。要するに、道具(技術)をどのように使うか、という理念によって、技術によって達成・実現、そして表現されるものが異なるということだ。つまり「どのように技術を使うか」という意思を具現化する能力が技能である。言い換えれば、「技術を持つ者の理念、意思を自在に表現、実現する能力が技能」ということになる。さらに言えば、その技能に導かれた哲学が私のいう武道哲学である。それ以外は自己の心身から導き出したものではないがゆえに本当の哲学ではない。それは誰からかの借り物であり、虚飾に満ちた、権威付けの手段に過ぎない。そんなものは武道哲学というには値しない。私は武道人一人一人が哲学(認識手段)を持って欲しいと思っている。ただし、その哲学が他者と同調するためのものではなく、個々人の良心に根ざした良知良能に導かれたものであって欲しい。さらに、そのような武道哲学が人類の平和に役立つことが、私が武道人として願うところだ。

 

【技能から見た武道とは】

 ここで武道という概念について考えてみたい。私は、多くの空手人が掲げる武道というラベルと武道論に違和感を覚えている。なぜなら、武道という概念には、日本思想の底流にある、「道の思想」が内在すると考えるからだ。私は、技、芸の世界の人間の思想と技が技、芸の次元から道の次元へと高次化されたものが武道だ、という立場に立っている。補足を加えるならば、そこには、あくなき技術の追求と同時に技能の追求、そして理念の追求がある。要するに、技術者としてのみならず技能者として、あくなき技能と理念の追求が、そこにあったがゆえに道の思想に至ったのである。言い換えれば、我が国における「道」の思想とは、より善く自他を活かすという技能、かつ理念の究極の境地を指し示しているのだ。ゆえに、その道の達人と称される者は、高い技能を有し、かつ「道の思想」を会得した者であるに違いない。

 残念ながら、我が空手の世界では、そのような技能を有し、「道」に到達した者をあまり見ない。皆無ではないと思うが、それは空手が普及という目的実現に急ぎ、その実現のために競技という手段を採用したことにある。だが、問題は競技にあるのではない。競技理念が曖昧で、その方法が稚拙だからである。そうなると、技術のみならず技能も曖昧で稚拙なものになることを予想できなかったのだろう。だが、それにも関わらず、競技に偏向したことが問題の本質だと思う。

 一方、競技を行わず、独りよがりの世界に没入して、自他を顧みない者も「道」には到達しないであろう。むしろ競技という手段を用いつつ高い理念と技能を追求することを忘れないならば、「道」に到達する可能性が拡がる、と私は考えている。

 断っておくが、人間の心身を用いる技能の追求は簡単なことではない。繰り返すが、技能の基盤は、先ず以って、たゆまぬ技術の研鑽、すなわち心身の道具化(技術化)が必要である。武道とは、技術の研鑽を基盤に道具(心身と技術)と自己(真己)との一体化を目指すことだ。そして、そのために全身全霊を傾け、高いレベルの技能の追求を目指す道なのである。それゆえ型が大切なのだ(空手の伝統型のことではない)。

 

【技能の追求とは〜一介の一武芸者であった者を変貌させる】

 もう一つ付け加えるならば、技能の追求とは、単なる競技における勝ち負けに一喜一憂するのではなく、稽古・修練を「理法との合致」を目指す行為と為すことである。そして自己の技(業)を理法と合致させるには、心構えとして、他者との対峙、かつ自己との対峙が必要となる。また心身という自然との対峙を基本としなければならない。その上で、自他一体の境地、そして天地自然の理法との一体化を目指すのだ。そこまでいけば、武芸(技能)の修練は修行となる。

 その様な認識に立つならば、武芸(技能)の修練が一介の一武芸者であった者を変貌させるのは必然である。言い換えれば、自己を存立させる社会における自己の確立に至ることは必然なのである。逆に言えば、社会における自己の確立に至らない者は高いレベルの技能を追求しているとは言い難い。

 要するに「武道とは技術(武技)を継承、かつ、新たな技術(武技)を創出し、その技術(武技)のより善い用い方(活かし方)としての技能(能力)を追求する道」である。そのような「道」が人間形成の道となり、かつ自己の確立の手段となるのだ。

 

 【「道」とは】

 最後に、私の門下生に明記しておく。「道」とは目指すべく究極の境地であり、かつ、そこに至るためのプロセスでもある。だが、そのプロセスには踏むべき理法があることを忘れないで欲しい。また、その理法が天地自然の理法に合致するものであることはいうまでもない。

 さらに自身を振り返り、銘記しておきたいことがある。それは、もし目指すものが武道というなら、先ず以って、たゆまぬ技の研鑽が必要だということ。もちろん技の研鑽には心身鍛錬を怠らないことも含まれる。もう一つは、門下生とともに、技術を用い技能を追求する武道(武道理念と修練体系)を確立することである。私にはそれができると信じている。

 繰り返すようだが、私の夢と希望は、道に到達する道筋を指し示す、武道と呼ぶにふさわしい空手武道を追求することである。たとえ現時点において、その考えが誰にも理解されず、誰もついてこなくても、何十年先、何百年の時を経ても朽ちることない思想とその体系を残すことを目指したい。

 

2020年12月19日

2021年を迎えるに先立ち、沈思論考。

自己を活かし、他者を活かす〜デジタル空手武道通信第43号&44号 編集後記

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自己を活かし、他者を活かす

 

「今年は1年過ぎるのが早かった」。私はそう感じている。聞くところによると小学生までが同様に感じているらしい。それがコロナウィルスの影響であることはいうまでもない。

 

 なんとかコロナウィルスに罹患せずに仕事を終えることができた。感謝だ。だが、これからどうなるかはわからない。今、1日1日、感謝しながら生きていると言ったら大げさに聞こえるだろうか。

 

 今回のコロナパンデミックに対して、私が直感したことは「原点に立ち戻る」ということだ、と以前にも書いた。その思いを念頭に日々やれることを行なっている。当初、その行動は周りを困惑させるかもしれないと思った。だが、私の原点回帰の核心は、「自分に責任を持つ」。同時に「自分の門下生、家族に責任を持つ」ということである。そのことを達成するため、私は自分の空手を最高のものとすることに邁進するのだ。だが、価値観は多様であるから、その方法は様々だと思う。私にとって最高のもの。誤解を恐れずに言えば、それは空手の修練を行う者(愛好者)に欲しい何かを提供することではない。空手を修練する者に「道」を感じさせることにある。

 

 ここでいう「道」とは、自分を磨き、最高の自己へ到達させる理法と言ってもよい。私は自らが道を追い求めつつ、それを皆に伝えたい。 そのようなあり方は、目先の利益を得たいと思う人間には理解されないかもしれない。ゆえに、その思想・価値観を取り入れようと思わないだろう。もちろん、人が欲しがるような「もの」をつくり、それを提供することは悪いことではない。

 

人生において大事な「もの」

 しかし、私は我々はすでに人生において大事な「もの」を持っている。外に「もの」を求めるな、と言いたい。だが、その大事な「もの」は目には見えない。そのように言った後で矛盾すると思われるかもしれないが、私は今、「ものつくり」をしている。ただし、その目的は、「より善いもの」を想像する喜び、かつ「より善いもの」をつくる過程において感性が活性化される喜びを得ること。さらに「より善いもの」が現実の形になった時の喜びが至福の感覚だと思うからである。決して「もの」を得ることが目的ではない。言い換えれば、「ものつくり」によって感性が活性化し、自己が高まる感覚が至福の喜びなのだろう。私が「目に見えない大事なもの」と先述したのは、一人ひとりの身体に宿る感性だ。だが、その感性は自らの意志で引き出し、かつ磨き上げなければ高まらない。つまり、私の達成したいことは、一人ひとりの感性を高めることに役立つ武道を創りあげることである。

 

 最後に私が極真空手を基盤に作り上げているものは、拓心武道(心を高め身体を活かす武道)という感性を磨く修練方法と武道哲学である。それを一言で言えば、「全てを活かすこと」だ。

 

「自己を活かし、他者を活かす」。それが出来たとき、道を得たと言っても良いだろう。

 

 

 

 

第2回・月例試合

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 緊急事態宣言の発出中ではあるが、予定していた第2回・月例試合を実施した。会場とする道場は、四方に窓と出入り口があり、換気の良い道場である。もちろん入館から退館まで、基本マスク着用、試合時は密閉度の確保された面防具使用を使用した。また試合はポイント制である(直接打撃制ではあるが)。また、床の除菌等も行う。だが、マスクと面防具の着脱時にウイルスが手についたり、ウイルスを吸引したりするかもしれない。そう考えると、面防具とマスクの切り替え時にもっと気をつけた方が良いかもしれないと考えている。

 

 さて、TSアドバンス方式(ヒッティング方式)の第1回目の月例試合から約1ヶ月。実は新しい組手方式自体の開始からまだ1年も経っていないのだが、参加者は日に日に上達している。相手に顔面を打たれないように間合いを取り、かつ機をみて飛び込み顔面に突きを入れる。あるいは相手の隙を見つけて中段や下段に蹴りを放つ。また、相手が顔面を狙ってくれば、ステップバック(退き身)してかわす。「なかなか良くなっているじゃないか」と、思って見ていた。また、「追い突きを受けるには肘受けを使えばいいんだ」とか、「足捌きの基本ができていれば、もっと間合いの調節が楽にできる」とか、指導する際の課題も見えた。もちろん、個人差がある。

 今回、試合に勝利できた人は、敗者と比べ、間合いの取り方、技を出すタイミングや出し方に一日の長があったように見えた。だが、ほとんどの人が顔面突きありの組手に必要な「理合」の理解が不十分だと思う。

 とは言うものの、「顔面突きを当てても良い」「正しく打撃技が当たれば技あり」というルール設定だけで動きが変わった。個人の感覚にスイッチが入るだけで動きが変わる。この事実は私にとって目から鱗の体験かもしれない、と思っている。

 

 また、「理合」に関する認識が不十分ながら、認識させるための道筋が見えてきた。これは顔面突きのある防具式組手法による新しい修練法、TS方式の実施がもたらしたことだ。これまで、顔面突きがない組手を行なっているときは、道場生との間に大きな溝があったように思う。今は、その溝に架橋できたと思っている。しかしながら、まだその橋を渡らない者、橋の上で迷っている者などがいるかもしれない。また、橋を渡っても周りには草木が生い茂っており、どの道を進んで良いかがわからないのかもしれない。私の仕事は草木を刈り取り道を作ることである。また、その道をさらに切り開き、新しい境地へ皆を誘うことだと思っている。あとは橋を広くするだけだ。

 

【人はルール設定で変わる?】

 私の脳裏に浮かぶことがある。それは、「人はルール設定で変わる?」と言うことだ。しかし、すぐに変われない人もいるし、変わりたくない人もいるだろう(その地に満足しているのだろう)。また、うまくガイドしてあげないと理想(推論)とは異なる方向に行くこともあるかもしれない。ゆえにルールを変えれば全て良し、というものでもないだろう。

 私は、人間を創るには、ルールよりも先に大事なことがあると思う。それは「初めに理念ありき」と言うことである。そして人間の生き方を高次化して行くには、その理念を、より気高く、かつ普遍妥当性のあるものとしていくことだと考えている。

 

 私は現在、日夜ヒッティング方式の組手法を含む、拓心武道メソッドという武道哲学を含む修練法を纏め上げている。それには資料の読み込みと同時に実験や検証も含んでいる。浅学非才な私にとっては、膨大な時間と相当なエネルギーを要する作業である。実は拓心武道メソッドの考案およびTS方式の組手法の考案は、7年ほど前に構想したフリースタイル空手プロジェクトの一環である。ここで、改めてフリースタイル空手プロジェクトの総括および今後の方向性ついて小論を書いた。

 

 小論と言っても長文なので少し推敲し、次回に掲載したい。

 

極真空手の偏向〜武道とは何か  その1

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【極真空手の偏向〜武道とは何か】

 

【はじめに】 

 実は、私の道場における組手法の改定(TS方式の実施)は、7年前に始めた「フリースタイル空手プロジェクト」の延長線上にある。だが、極真空手の組手法を基盤に組み技も認めるフリースタイル空手競技と顔面突きあり、かつ防具を使った組手法は別物と思うに違いない。

 それでも、私の意識内では同一線上にある。その事を理解してもらうためには、フリースタイル空手競技を考案した核心を伝えなければならない。

 フリースタイル空手の核心は、極真空手の偏向を修正するためだった。「極真空手の偏向」と言えば、誤解や反論を招くかもしれない。だが、あえてそういうのは、その事実を認識できなければ、私の感覚、考えは到底理解できないと思うからである。ただ、少し語気を和らげ、「偏向」ではなく、「改善すれば、さらに良くなるという課題」と言い換えれば良いかも知れない。以下、「極真空手の課題」として、並びに「フリースタイル空手プロジェクトの総括」として小論を書いてみたい。

 

【極真空手が永続的な発展を遂げるために】

 私は極真空手が永続的な発展を遂げるためには、重要な課題が二つほどあると考えている。課題の一つ目は、統括組織がバラバラになり、かつ極真空手の組手法を真似た空手集団(団体)が乱立していく状況をどうするかと言うことである。この課題を解決しなければ、極真空手の価値が低下していき、決して高まることはないだろう。このことは、大山倍達師範が極真空手として世界中に広めた独自の直接打撃制の空手競技の価値が下降の一歩を辿って行くと言うことだ。もちろん、私は過去における極真空手の価値が最高だったとは思っていない。だが、弟子の努力により、さらに高めて行くのが本来の道であろうと思っている。

 

 フリースタイル空手プロジェクトの開始当初、私は極真空手の普及度と人材(選手)のをもってすれば、オリンピック競技、あるいはそれを凌ぐ競技として確立できると考えていた。それには競技ルールおよび競技を統括する組織の修正が必要であると考えていた。そして、詳しくは書かないが、私は協力者を求め、様々なことを試みた。たが、その試みは失敗に終わり、かつ、ほとんどの人が共感しなかった。否、私の構想を理解できなかったのであろう。

 

 課題の二つ目は、実効性が高い打撃系格闘技、また武術、さらに武道として、その技術と技能、および理念、思想(武道哲学)が高い次元で体系化されていないと言うことである。現在、多くの人が目先の利益、要するに勝利、強さを追い求めている。言い換えれば、剣道のような日本思想の精華とも言えるような理合・理法の体系がないことである。当然、優れた技術や技能、そして哲学としての心法が存在しないと言っても過言ではない。

 だが、考えてみれば、剣道の創設は、日本刀の創出された平安時代あたりから始まる剣術諸流派の形成まで遡り、それを含めれば、1000年以上もの歳月を経ている。また、江戸300年の時代には、剣の術と思想は、武士の教育手段、かつ文化的なものとして昇華されたと考えている。その剣道から比べれば、空手の誕生は、ごく最近と言っても過言ではない。また、ごく最近、社会の時流に乗り、急激に拡大普及した近代武道と言っても過言ではないだろう。そんな空手に剣道と伍す修練体系を求めるには無理があるかもしれない。

 

【課題を解決するために】

 さて、先に挙げた二つの課題を解決するために、私は以下のような考えを持った。まず、一つ目の課題を解決するために、極真空手愛好者が協力し、文化的公共財として、すなわち武道スポーツとして再構築することを構想した。それは空手をオリンピック競技化するということでもある。(その後、空手はオリンピック競技となったが確定的ではない)。もちろん、空手のオリンピック競技化には、極真空手の組織ではないWKFという空手組織がオリンピック競技化を先行していたことは知っていた。だが、それが実現しないのは、空手がオリンピック競技にふさわしいものに未だなっていないからだという仮説を持っていた(ただし、必ずしもオリンピック競技ににふさわしいということが良いことであり、ふさわしくないということが悪いことだというわけではない)。

 また、私は一つ目の課題を解決すると同時に二つ目の課題も解決したいと考えていた。具体的には、現在行われている極真空手の修練法に希薄になった、「理合・理法」の意識を取り戻したいと考えたのである。

 

【理合・理法の意識】

 前述した「理合、理法の意識」というのは、剣道では基本とされる「間合い」の意識、また、「機先」を制する意識のことである。もちろん戦いの理合・理法は他にもあるが、まずは、それらの意識を取り戻したかった。そうでなければ、レベルの高い武道として発展しないと考えていた。そして、その課題を解決するために新しい組手法、競技法を考えたのである。それがフリースタイル空手であった。

 私は極真空手の創設時には、多少だが「理合・理法」の意識はあったと思っている。だが、競技が人気を博する中、愛好者達は、競技の勝ち負けを優先し、かつ勝利に拘泥していった。そんな中、どんどんと「理合・理法」の意識は希薄がなっていった。本当は武術としてさらに研ぎ澄まして行かなければならなかったのだ、と私は思う。だが、人間の欲望の追求が理念の高次化を妨げた。また、勝負を判断する側の眼力(認識力)がなかった事、そして試合法にも瑕疵があったのだと思う。

 以上のことをもっと早くに、そしてストレートに唱えればよかったのかもしれない。だが、当時の私には、極真空手を大事にするあまり、それを認識させるための良い手法が思いつかなかった。それゆえ、核心から逸れてしまい、フリースタイル空手プロジェクトの目的が的確に伝わらなかったように思う。

 もう一つ、伝わらなかったことの原因は、組織を作ろうとしたことにあると思っている。また、周りのレベルに合わそうとしてしまう私の気弱な性格にあると思っている。だが、その失敗を経て、かつ年老いて、より一層の「理合・理法」の意識を把持する事の必要性を感じている。なぜなら、どんなに体力を補強し、破壊力を求めても、身体の老化は進み、やがて死滅する。そのような身体を用いる武術にあっては、肉体的な強さなど、たかがしれている。ゆえに「理合・理法」の探求、すなわち「道」を求める志がなければ、本当の強さには至らない、と私は考えている。なぜなら、道(天の理法)との一体化こそが人間にとって、最も強い在り方だと直感するからである。

 実は、このことを全日本大会で優勝した、20代の頃から痛感していた。だからこそ、100人組手という非合理な修行に望んだのである。いずれ100人組手論についてはまとめてみたい。おそらく、ほとんどの人が100人組手に関して浅い理解しかしていない。否、間違った解釈をしている。

 

【拓心武道の「理合・理法」について】

 ここで、我が拓心武道の「理合・理法」について簡単に述べて見たい。「理合」とは日本の古典武道で使われる概念用語である。また、国語的に言えば、理合の理とは、「ことわり」「物事の道筋」「道理」と辞書にある。私は「理合」とは「理に合わせること」だと考えている。つまり、自己の心身を理に合わせる術が、武術の術である。ゆえに武術の修練には型稽古が重要なのである。ただし、「理に合うこと」となると異なってくる。繰り返すが、「理合」とは「道理」に合うよう自他を制御すること。そのような主体的な意識のことを「理合」というのだ、と私は考えている。また、私の研究している拓心武道では、「理合」を「理法」と呼び、事物が具現化するための道筋として定義している。例えれば、言葉を組み合わせ多様な意味を構築するために必要な文法のようなものだといっても良い。つまり、一つ一つの動作を組み合わせ、一つの意味ある技を具現化するための法則・原理と言っても良いかもしれない。いうまでもなく、紙に書いたり、発話したりする言葉と武術の技は異なり、武術の技は、自己の身体を用いて、その意味を相手に伝えなければならない。そのためには身体に意味を作り、かつ動きに意味を産みだすような技能が必要なのである。さらに言えば、心身を用いる技に必要な理法には、人間を中心にした理法と自然界を中心とした理法、二つの理法があると考えている。つまり、武道の修練とは、武の修練を通じ二つの理法を総合すること。すなわち、人間の理法を究めると同時に天地自然の理法を究めることになる。それら二つの理法を究めんと志すことが「道を求める」と言うことである。

 

 ここで脱線すると、「理」とは中国語、中国哲学に語源があると思われるが、「ことわり」は大和言葉ではないかと思う。そして、「ことわり」の意味とは、「ことーわり」ではないだろうか。つまり、「事を割っていく」。すなわち物事を細分化する事であると思う。そして理合となると、その細部化したことを総合し、活かしていくことだと思う。これは、私の「寄り道癖(脱線癖)」である。子供の頃から寄り道をしては時間に遅れた。寄り道の性壁を治したいのだが治らないようだ。なぜなら、寄り道がとても好きだからだ(このような論考も寄り道かもしれない…)。とにかく、この部分は寄り道なので忘れてもらって結構である。御免。

 

【「間の理法(間合い)」と「機先の理法」】

 

 話を戻せば、相手を打撃技で殺傷する空手術の修練で基本としたい「理合・理法」は、「間合いの理法(間の理合)」と「機先の理法」の二つである。ここで私の言う二つの理法について大まかに述べておく。

 

 先ず、「間の理法」の「間」とは、打撃技が有効となる空間的、彼我の距離的な意味合いでの「間合い」のことである。また、間には心理的な面も影響するが、そのことに何して、ここでは割愛する。剣道では、一歩踏み込めば相手が打てる「間」、一歩退けば打を避けられる「間」を一足一刀の間、打ち間と呼び、基本の間合いとしているようだ。私は、空手術には突き技と蹴り技があるので、「突きの撃間(うちま)」と「蹴りの撃間(うちま)」を設定し、それを基本としている。その他、接近し相手の突き蹴りを封じる「近間」、それ以外に、離れて安全圏に身を置く「遠間」も設定している。それらの間を認識し、かつ活用して自己の攻撃技を活かすことを考える。以上が「間の理法」の大まかな意味合いだ。

 

 そして「先の理法」とは、自他の距離的(空間的)な「間合い」を了解した上で、さらに時間的に優位になるように、いかに攻撃するかの理法である。これも大まかに説明すれば、機先の原則に「三つの先」を設定する。その一つ目の「先」は、相手が攻撃を仕掛けるより早く、自己の攻撃を仕掛けることを「先」の攻撃という。二つ目は、相手の攻撃にいち早く察して、それに応じて攻撃をすることを「後の先」の攻撃という。これを「応じ」と呼んでいる。また、我が空手では、相手の攻撃に合わせて攻撃する方法を「合撃(あいげき)」として、高度な「応じ」としている。三つ目は、相手の攻撃を飲み込むかのように相手の攻撃を読み取り、それに応じることを「先々の先」と呼ぶ。以上の「間の理法」と「先の理法」を念頭に、攻撃技と防御技、そして運足を駆使して攻防を行う。それが拓心武道における組手修練法なのである。

 

 さらに、拓心武道においては「運足の理法」「心の理法」「位置取りの理法」「体の理法」、その他を分類整理し、体系化したいと考えている(検討中)。以上のような「理法」の体得を目指してこそ、空手が道の追求の手段となるのだ、と思っている。

 

【戦いの原則・理法】

 人間の世界には様々な戦いがあると思うが、どんな戦いであれ、よく戦いを制するには、戦いの原則・理法の把握が必要だと私は考えている。そのような原則・理法の中で、彼我(相手と自己)における「間合い」の制し合い、そして「機先」の制し合いは基本原則ではないだろうか。ところが、極真空手では、そのような意識が皆無に近いと言ったら言い過ぎかもしれないが希薄になってきている。これは極真空手の組手競技が突きで顔面を打つことを想定しないことに起因する。その欠点を先ず持って認識しなければならない。

 

 断っておくが、極真空手の組手法の長所もある。だが、私がもっともよくないと考えるのは、競技の優劣の判断をダメージの与え合いを基盤に有効打突を無視した、単なる手数重視としたこと。またボクシングでいうランニングスコアによる勝負判定(試合全体の有効打、防御技術、攻勢を判定すること)ではなく、試合終了間際の選手の印象重視の勝負判定となってしまったことにある。そのような認識レベルと判断基準によって、スタミナ重視、打たれ強さ重視の競技に変質したのだ。

 技の精度、技能ではなく、見た目のダメージとも言える、印象重視の判断基準の元で競いあえば、競技者が「理合」軽視になるのは当然である。要するに、極真空手の試合競技に勝利することに拘泥し、理想的な理合の追求よりも、より勝つための近道である、肉体的なスタミナ増強や打たれ強さの強化、修練に傾倒するのは必然なのだ。だが、そこに極真空手人の誤解の原因があると思う。おそらく武術を知らない人たちから見れば、極真空手の選手たちの体力と精神に驚きを禁じ得ないに違いない。また、それが憧れになることもあるかもしれない。もちろん極真空手の競技者の努力は凄まじいものがある。しかしながら、そのことに満足し、それを至上とするのでは、本当の意味での日本武道の精華のような精神性、文化性には近づかない。あえて断っておくが、かつて我が国が軍国主義だった頃、その指導者達が利用し、かつ喧伝した武士道精神は、私が考える日本武道の精神とは次元が異なると言っておきたい。また、私はここで極真空手以外の武術、武道に極真空手よりも優れた精神性があると言いたいのではない。他の流儀(武術・武道)については今回、言挙げせず、あくまで自身の流儀(武道)について反省しているのである。

 

 これまでの私は極真カラテの魅力と純粋性を大事にしながら、なんとか精神レベルを向上させたかった。しかし、私のような未熟な空手家がこんな事をいえば、噴飯されるに違いない。また、この部分はもっと丁寧に解説しなければならないと思っている。まとめると、極真空手の偏向を修正し、本来の武道にふさわしい方向性に軌道修正する事。これがフリースタイル空手プロジェクトの目的であった。

 

その2に続く

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