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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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デジタル空手武道通信 第34号 編集後記より

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 空手武道教本の製作に20時間以上もかけた。腰と脚が痛くなってきている。長時間のデスクワークは腰と脚に悪い。ヘルニアは2箇所、膝は変形性膝関節症で、空手の稽古が辛い。幸い、ヘルニアも良くなり、腰痛との付き合い方がわかってきた。だが、膝は手強い。車の運転を含め座っていること自体が良くない。このことは、膝が悪化する前に両足の静脈がダメになったときから続いている。私は1時間以上座ったままでいると、脚がむくみ、血行障害で夜も寝られない。実は、こんな状態が10年近く続いている。ゆえに、現役時以上に体のケアにお金と時間をかけている。

 なぜなら理想の武道への夢を諦めきれないからだ。また、アイディアが湧くのだ。勉強意欲もある。もっと本を読みたい。もっと稽古したい。もっと書き記したい。もっと意見交換をしたい。もっと思索を行いたい。誰よりも深く、そして高い境地の武道を切り拓きたい。家内は、「もっとお金になることをしなさいよ」と手厳しい。だが、苦労をかけて申し訳ないが、いつも理想の武道の事ばかりを考えている。  

 おそらく、私ほど空手武道のことを純粋に考えている者はそういないはずである。確信がある。なぜなら、一日24時間の70パーセント近くを空手武道の創作のために使っている。そんな人間がいるわけがない。まず、できるわけがない。私にそれができるのは、私の内側から、水のような思いが溢れ出ているからである。その水が行き場を求めているのだ。私が勉強をし、途方もない思索を行うのは、全てその水のようなものの行き場と道を作るためである。今、私の中から湧出する水のような思いは、行き場が見つからず、また大きな川のように流れを作るまでには至っていない。  

 思うに、その水のような思いは、大きな流れにならなければ、力を生み出さないし、人の役に立たないかもしれない。それでも、それが水のように誰かの乾いた喉を潤すぐらいできるなら良い。  

 だが問題は、それが誰かの乾いた喉を潤すようにもなっていないことだ。私の想いはいつも垂れ流しだ。だが、それでも構わない。私は自分の内側から湧き出る思いを止めることだけはしたくない。私の内側から湧き出ている、水のようなもの(思い)は、私が私から自由になるための何かでもあるからだ。  

 おそらく、お前のやっていることは、人のためになっていない、という者がいるに違いない。だが、私は私の内側から湧き上がる水のようなものが、必ず人の役に立つと信じている。家内には、私を信じて欲しいと願っている。否、許して欲しいと思っている。

 今、ものすごい勢いで、水のようなものが内側から溢れ出て、それが行き場を探しているのだ。今、その行き場を作っている。もし、私がその行き場を作れなかったら御免…。


ヒッティングセミナーを前に〜道場生へ

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 ヒッティング・メソッドとは、増田の空手武道理論、TS組手法を理解するためのカリキュラムです。また拓心武道メソッドの中の一部です。TS方式組手法(ヒッティング)はIBMA極真会館増田道場の有段者ならば、全員が理解して欲しい内容です。あらゆる物事は更新されています。

 

 皆さんは、有段者認定を允可されたときのことを覚えていますか?黒帯とは、完璧な空手家の象徴ではありません。初心(自己のレベル)を明確に認識した者の証なのです。ゆえに、その認識は耐えず更新し続けなければなりません。そのように自己の認識を高め続けることが黒帯を締めて修行する者の責任と義務なのです。

 

 もちろん、白帯から努力を重ね、黒帯まで到達したことは賞賛に値します。しかしながら、その地点に居着いてはいけないのです。その地点に止まり、歩みを止める人たちが多すぎます。その原因には、地位が上の指導者がその地点に止まっていることが挙げられるでしょう。

 

 ゆえに、芸道の世界はくだらない権威主義がはびこりやすいのです。そして、真の修行者、求道者は、その世界を飛び出て行かざるを得ないのです。これは増田の遺言です。何卒、増田道場の門下生は、権威に媚びず、本当のものを追求してください。 

 

 あえて言えば、仲間を大事にしながら、それを追求できれば、最高の幸せだと思います。

尊敬の和(WA of Sonkei:Accord of Respect)

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尊敬の和(WA of Sonkei:Accord of Respect)

TS方式組手セミナー参加者の方々へ
FromAkiraMasuda〜TS方式空手武道競技の理念について
 

 TS方式組手セミナー(ヒッティングセミナー)に参加する皆さんい、お願いと断っておきたいことがあります。私はフリースタイル空手プロジェクトにより新しい競技の創設によって多様な流派の人たちをつなぐことを考えました。しかしながら、それは失敗でした。その理由を述べることは難しいですが、あえて一言で言えば、競技大会がチャンピオンや勝利を目指すだけの場所だからです。それは悪いことでは無いかもしれません。しかし、それだはダメなのです。それでは真の意味で人と人との和(輪)はできません。私が考える和(輪)には中心が必要なのです。中心があってこそ和(輪)ができる。そして、その中心は理念(哲学)でなければならないのです。私は考えました。フリースタイル空手プロジェクトをやり直したいと。そして新しいプロジェクトでは、大きな大会を主宰することではなく、理念(哲学)を中心とした人の和(輪)を作るのだと。また、私に残された時間で後悔のないように生きるには、これまでの人生経験で掴み取った武道人哲学を中心とするような競技を創ることだ、と。

 さらに言えば、その中心にある武道人精神を承認し、共にそれを具現化しようという人間のみと空手道を追求していきます。ようやくその決心がつきました。私は最も身近な門下生にそのことを虚心坦懐に伝えました。その内容には、「もし道場運営に支障をきたす恐れがあるなら、私を切り離せ」「私は喜んで道場から身を引く」「もちろん、混乱が起こらないように準備と段階を踏んでのことだ」と。しかしながら、その門下生は私の提示する空手道の方向性を理解してくれたようです。

 今後、さらなる困難も予想されますが、私は大きく帆を揚げて、進みたいと思います。現在、海は嵐のようにも見えますが、私の往く海には嵐は見えません。なぜなら、利害を脇に置き、私の考えた武道人精神と競技規程、そして仲間の規約の遵守を絶対とすることを決意しているからです。展開について、これ以上は書きませんが、とにかく、新しい一歩です。そして私にとっては、最期の冒険です。悔いのないよう頑張ります。少ないですが、心許せる仲間がいます。その仲間をがっかりさせないよう、全ての力を出しきります。

 

 最後に繰り返しになりますが、ヒッティング競技は理念と武道人精神(BudoManShip)が最も重要です。この理念と精神から始まり、競技はそこに到達し、各々の武道人哲学が普遍的な領域で共鳴しあうことです。その時のキーワードが「Sonkei:尊敬」です。これは例えるならば、ラグビー競技の「ノーサイド」と同じ精神です。また、競技者は己の内側から「仁・智・勇」を湧出させることを決意してください。それが武道人の人格的基礎となって、他者と良心を結び、尊敬の和(輪)を創り上げるのです。

 

ヒッティング競技規程 第1条

第1条 本規程によって実施される競技の目的は単なる競技スポーツではなく、技術の研鑽と技能の体得による武道人という価値観の醸成である。ゆえに繰り返すが、競技は手段であり、その意義は競技を行うことで、各々の心身訓練の精華としての技術のみならず、自己表現としての技能を高めることにある。ヒッティング競技においては、突きや蹴りなどを当てあうことによるダメージを防具により軽減し、その有効、無効をポイントで表し、そのポイント数で勝敗を決するポイント制・武道スポーツ競技である。なお、ポイントの判定基準の第1義は、技の正確性である。また、身体的ダメージによるノックアウトは判定基準に設定していない。そのことにより、安全性を確保し、老若男女が、突きや蹴りの当て合いなどの武技の試し合いを繰り返し行えるよう考えてある。その意義は、老若男女が、長期にわたり、競技を行うことで、各々の心身訓練の精華としての技術のみならず、自己表現としての技能を高めることにある。さらに、古伝武道の「一撃必殺」と言う価値観を「心撃相活」と言う自他共生の価値観へと昇華させることにある。ゆえに、その競技の目的は、勝者を決するためにあるのではなく、競技者が共に武の理法を学び合い、無益なダメージの与えあいを避ける道を追求することにある。その道とは、自他一体の理法を知ること、他者を生かし自己を生かす道を知ることである。なお、本競技規程を活用する武道人は、武道人精神(BudoMan Ship)を念頭に活動すること。

 武道人精神とは『空手武道競技を”交流(Communication)” ”理解(Understanding)” ”尊敬(Respect)”の手段とし、”仁(Perfect Virtue)””智(Sense)””勇(Courage)”の醸成と人間完成を図るための”悟り(Enlightenment)”をゴールとする意志のことである』

本競技は、第一条を遵守し競技を普及し、人と人との心を繋ぎ、そこに良心を結び、人類の平和共存へ寄与することを目的とする。

 
●本メッセージはIBMA極真会館増田道場本部サイトに掲載したものを転載しています。

ラグビーW杯決勝戦を前に

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 私の悪い癖である。世の中の勝負事を人生の賭けのように見ることである。実は私と同じ性癖の人もいると思う。私はラグビーW杯の決勝戦に賭けている。しかも1パーセントしか勝つ見込みのないところに。もちろん、ラグビーは素人の直感である。多くの人が接戦にはなるが、99%、イングランドの勝ちと思っているに違いない。しかし、私は南アフリカに賭けた。なぜなら、私の人生も、周りには勝てないと思われてきたからだ。今もそうだ。私は勝てないと言われたら倍の力が出るような性格である。苦い人生経験の中、少し屈折したのかもしれない。だから逆風の方が力が出る。決して逆風が好きなわけではないが…(追い風は嫌いかな、疑ってしまう)。

 さて、確かにイングランドは鉄壁の守りを誇っている。南アフリカに勝ったニュージーランドを破り、また接戦を繰り広げたウェールズを大差で退けた。全て鉄壁のディフェンスと強固な闘志とチームプレーの結果だろう。素晴らしい選手たち、そして監督、素晴らしいチームである。一方の南アフリカは、データ云々より、私の好みのチームなのだ。これまでも、そう書いてきた。地味なラグビースタイル(失礼、本当はスキルフル)だが、強い意志がある。また個性豊かだ。

 おそらく、イングランドの鉄壁のディフェンスを破れるかが鍵になると思うが、私は小柄だが闘志の塊のようなデクラークを軸に、真っ向勝負で、イングランドのディフェンスを破壊するように思っている。

 もちろん、そこが私の好みだ。1%と言えば、南アフリカのファン、そしてラグビー関係者にお叱りを受けるだろう。だが、そのぐらいだと思っている。

 そして、その上で私は南アフリカに賭ける。こんな言い方はよくないかもしれないが、私は黒人と白人が混ざっているチームが好きである。そこにラグビーの深さを象徴する何かを感じるのだ。そういう点ではイングランドにも素晴らしい黒人選手がいる。おそらく、決勝では、その選手が活躍するだろう。

 とにかく、勝負は計算外のことが起こる可能性がある。もちろん奇跡というようなことを言いたいのではない。準備は重要なことはいうまでもない。しかし、勝負には数字とは別の強い意志が作用するのだ。私は、南アフリカの黒人と白人の混在したチームプレーに期待したい。どちらにしても最高の決勝になるに違いない。余計なことを書いてしまったかもしれない。少し恥ずかしい。だがラグビーは素晴らしい。今回のワールド杯ラグビーから多くのことを学んだ。今後の空手道に活かしたい。

子供たちを目一杯褒めて欲しい〜拓心武道メソッドは心から始まる

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 【子供たちを目一杯褒めて欲しい】

 ヒッティングセミナーを終えた。5時間の予定が7時間にも及んだ。希望者の紅白試合や新しい競技ルールの体験を含んでのセミナーだったので超過は予想していた。私は参加者の反応に注意しながらセミナーを進めた。

 反省点は、少年部には厳しいセミナーだったかもしれないということである。しかしながら、小学生の参加者は今後、受験や就職、様々な試練を体験しなければならない。

 7時間を及ぶセミナーの中、真剣に講師のいうことを聞き、訓練を続けたという経験は必ず、後々の人生に役立つに違いない。保護者の方々は是非とも、子供たちを目一杯褒めて欲しいと思う。また、このセミナーに子供を参加させた保護者の方々には感謝している。多分子供達には難しいことはわからなかったかもしれないない。しかし、私がセミナーで再三伝えたこと。「反則は許さない」「正確性が大事だ」「尊敬」「スペースを探し、そこに撃て」などなど。いつか心の中に芽を出すはずである。

 実は前日、短い時間で何を教えるかを検討していたら、夜更けまで眠れなかった。さらに朝早く起き、検討を重ねた。私の採点では、セミナーは70点ぐらいか。100点をいつも目指しているので悔しい。しかし、今回のセミナーは次回の経験値になった。活かしたい。だが、次回は同じようなセミナーはしない。私は1回のセミナーに全力を尽くしている。ゆえに仕事のエネルギーを貯めるには、それなりの目的が必要だ。

 セミナーでは、細かいところに目が行き届かない面もあったと思うが、同時に私には普通の人と異なるところに異常に目がいってしまう(この性癖には私自身が苦しんでいる)。例えば、保護者の顔や態度、講義を聞いている時の参加者の顔や態度である。実は、人の足の組み方、腕の形(腕くみ、貧乏ゆすり、手の形など全てが対象)、また事細かな動作が常に気になっている。ゆえに人を教えるということは私にとってストレスである。ゆえに私の目指すことは自然体である。補足すれば、私は子供達の自然体を大事にしたい。大人は不自然体の人が多い。極論すれば、日うわべの道徳や礼儀作法など、本当の心を隠す手段でもある、と私は考えている。ゆえに礼儀作法こそが「武」の究極であり、護身の本質(護心〜拓心武道メソッドは護身術の要素も含むが、本質的に護心道である)に繋がっている。しかしながら、そのことを理解していないで形ばかりを強制している人がいる(もちろん、その様な形を身につけることが有意義であることは否定しない)。しかし、礼儀作法の本質を知らないで強制する人は裸の王様になる可能性が高い。私はそんな人間になりたくない。

 断っておくが、ヒッティング競技における「礼」とその「尊敬の精神」は形であるとともに、ヒッティングの理念、哲学を表している。言い換えれば、そこに到達する様に、相手と正確に対峙すること。そして自他を正確に透視すること。最後に自他の関係性の中から新しい事柄を創造するというキーコンセプトを実践しなさい、ということである。さらに、そのために自分のすることに全力を尽くしなさい、ということだ。しかし、そんなことを理解できる人間は一人もいないだろう。ゆえに私の仕事は理想の空手道を追求することであり、それを伝えることが仕事だと言い聞かせて生きている。ここで、はっきり言おう。私の話を聞かないものは、やはり空手は下手だ。おそらく自分は上手いと思っている人が多くいるに違いない。しかし、本当は下手だ(セミナーでは、ダメ出しを私の中で禁じ手にしていた)。私自身が自身の未熟さにいつも悩んでいることを誰も知らないと思う。

 

【拓心武道メソッドは心から始まる】

 拓心武道メソッドは心から始まる。その意味は「科学の言葉を借りれば、心は原因となる独立変数なのではなく、それ自体、従属変数なのである」「心は目に見える行動と同じ原理で制御される“行動“なのである(行動分析学入門:杉山尚子著)」という言葉を借りたい。

 心のあり方が態度、行動にでる。行動できないのは心が変わっていないからである。つまり「心を変えること」が「心を拓くこと」。それが拓心武道メソッドの核心なのである。それは、私の言葉や技を直接みて感じること。その直接経験を見直すことが、心を拓く原点なのであるということだ。つまり、今回のセミナーで私が導入した顔面突き有りの組手の体験は、各々の直接経験を通じて心を変えるために組み込まれた種子なのである。だが、その意味を過去の経験に居ついて、“ピン”とこない人が多い。そのような傾向のある人は、きつい言い方をすれば、上達しないだろう。

 

【初心、忘るべからず】の本当の意味】

 上達とは、絶えず現時点での自己のレベル(自己のあり様)を認識すること。そして、それを活かしていくことなのだ。それが世阿弥の言った「初心、忘るべからず」の本当の意味であり、上達の道なのだ。言い換えれば、現時点の自己のあり様をより正確に認識し、それを忘れるな、ということだ。それは先述した様に「心(初心)は原因となる独立変数なのではなく、それ自体、従属変数なのである」ということだ。つまり、その様な心と行動の法則を認識することが大事ということである。

 

【次回は】

 次回は、同じようなことを秋吉か別の黒帯に行わせたい。そのセミナーに参加した者を次回の私のセミナーに参加させる。また、次回のセミナーがあるとしたら、顔面ありのヒッティング・アドバンスのセミナーである。そして合宿としたい。今回のセミナーでは、私の足腰は歩けないぐらいに疲労した。立っているだけで膝が痛む。やはり休みながら行わなければ、私の体が壊れる。

 私はヒッティング競技を含む、拓心武道メソッドを理解してくれる仲間を増やしたいが、当初は門戸を広げない。なぜなら、さらなる研究が必要だからである。ヒッティング・アドバンスは今回セミナーに参加した、少ない同志だけで十分だ。あとは、極真会館増田道場の会員とは別に、拓心武道メソッドの会員を通信教育で募集したい。誰も集まらないかもしれないが、どこかに危篤な人がいると信じたい。ただし、私をよく理解してくれる極真会館の松井館長とは交流の約束をしている。松井館長の依頼があれば喜んで私のメソッドを紹介したい。あとは交流を断つ。なぜなら、身体の治療と研究の時間が必要だからである。ただし、私の身体が良くなり、態勢が整えば、諸国を行脚することもあるかもしれない。身体の具合からすれば困難だが。

 

【追伸〜ラグビーW杯決勝戦について】

 仕事の合間にストレッチをしながらラグビーの試合の録画を繰り返し見るのが楽しみである。同時にそれはスポーツの研究でもある。

今回、南アフリカの優勝、イングランドの準優勝だったが、試合後のイングランドチームの態度が良くない、と問題になっているらしい。帰宅してから家内から聞いた。

 私はヒッティング競技のキーコンセプトに「尊敬(Sonkei)」と「武道人精神(BudoManShip)」を掲げた。セミナーでは試合の前後は必ず「立礼(日本式礼法)」を丁寧に行い、勝者、敗者共に敬意を表せと言った。それがラグビーの「ノーサイドの精神」と同様の競技コンセプトと言っても良い「尊敬の精神」である。

 よほど悔しかったのかもしれないが、判定に問題があったわけでもない。また完全に完封され、2トライも決められた試合である。翻って、イングランドに負けたニュージーランドが、そんな態度をとったであろうか。イングランドは素晴らしいチーム、そして監督だと、私は思った。しかし、アルゼンチン戦の時の態度の悪さを感じたのは、アルゼンチンサイドのみだろうか。私はアルゼンチン戦の時にイングランドチームの態度の悪さを感じていた。そして、それは国と国との因縁によるものかと思ったぐらいである。その印象が変わったのは、ニュージーランド戦、相手のハカに対する、V陣形を見たとき、イングランドが勝つかもしれないと直感した。そしてそれが当たった。その時は、私もイングランドチームのファンになった。それがどうして…。これ以上は書かない。

 

【南アフリカは】

 ラグビー決勝戦で、私が直感したこと。それは「イングランドチームはラグビーに勝つために戦っていた」。一方の南アフリカチームは「南アフリカ人のアイデンティテーと国民統合の象徴であるラグビーを背負い、かつ楽しみながら戦っていた」と私は見る。その違いが現れたゲームだったと思う。

 ある時、世界で一番危険な国はヨハネスブルグだと、ニューヨークに住み、世界中を回っている極真会館の松井館長に聞いた。南アフリカには、かつてアパルトヘイト政策があり、現在も人民の中に様々な問題があることは、私も知っている。映画でも見た。しかしながら、現実は想像以上に大変なのだと思う。そして日本人が天皇陛下を国民統合の象徴とする様に、南アフリカでは、ラグビーが国民統合の象徴なのだ、と私は思う。

 今回のW杯で、黒人と白人が力を合わせ戦う、南アフリカに、私はシンパシーを感じていた。だが、素人の私が見ても優勝する確率はとても低いと思った。それが優勝した。優勝候補のニュージーランドがイングランドに敗れるという番狂わせがあった。その様な中で、南アフリカは優勝した。ノーサイド後のチームメイトの白人と黒人が抱き合うシーンに感動したのは私一人ではないだろう。そして、こんな言い方はよくないが、私は南アフリカの黒人たち、全員の姿形(内面が見える)が大好きである。

【ラグビーから学び、空手界に活かしたいこと】 

 私が今回のラグビーW杯から学び、空手界に活かしたいこと。それは「勝つことは手段である、しかし勝つことよりも尊いことがある」ということだ。うまくは言えないが、自分のアイデンティティのために仲間を尊敬し、仲間のために全力を尽くす。つまり自分のために見えるが、深い所の自己を活かすために自分を投げ出す。また自分を使い切る。その精神が競技に勝つことよりも大事なのだ。その精神が人に希望を与える。そして、それを必ず天が見ている。

 

 

 

基本と応用〜稽古とは? 

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デジタル空手武道通信 第35号 巻頭コラム/ 基本と応用〜稽古とは? より

 

【基本があって応用がある?】 

 基本があって応用がある?私は、むしろ応用を意識するからこそ基本が重要だとわかると考えています。 ゆえに、ある程度の基本練習を行った後には、応用を意識させ、その上で基本の役割を理解させることが良いと考えています。なぜなら、基本とは、優れた応用に内在する要素(原理)だからです。 

 言い換えれば、優れた応用から抽出した、応用の原理が基本である、と言う事です。おそらく基本と応用を別物と考えている人には、優れた応用、そして物事を発展させることも不可能でしよう。

 物事をより良く発展させられないのは、より良い応用のための原理が理解できていないからです。優れた応用を実現する人には、原理としての基本を徹底的に体得している人です。私が拓心武道メソッドで編み上げた組手型の修練体系は、優れた応用を実現するための原理体得のための手段であり、道具なのです。

 さて、物事を教え伝えるには、基本を徹底的に教え伝えることが重要だ、と私は思っています。しかし、基本を徹底的に教え伝えるという意味が誰にも理解できていません。また、誰にもできていません。繰り返しますが、基本を徹底的に教え伝えるということは、優れた応用に内在する原理を教え伝えることであり、指導者は、それを意識しなければならないのです。 

【その時々の状態を吟味する】  

 では、優れた応用に内在する原理を教え伝えるとはどういうことか。それは、優れた応用を構造的に理解させることです。言い換えれば、その人の応用の仕方を徹底的に分析することなのです。ただし、応用の仕方は、徐々に発展していきますから、一時の状態だけを見て、是非を判断してはいけません。ただ、「その時々の状態を吟味する」だけで良いと思います。  

 「その時々の状態を吟味する」とは、その応用形態(状態)が、どのような基本(原理)と意識(目的)を基盤としているのか。それを分析することです。  言い換えれば、応用から基本を考えること(稽る)ことなのです。そのことが、私の考える「稽古」の本当の意味です。  

 整理しますと、①基本練習→②応用練習→③自己の心身に内在する基本を考える(基本練習)→④自己の応用を考える(応用練習)と稽古を続けた後、①基本練習に戻り、後は②→③→④→①と繰り返す。そのような練習、すなわち修練を行うことが上達のためには大事なのです。私の考える空手武道修練とは、以上のような考え方を基盤に行います。

【稽古とはどのようなもの】 

 以上のような考え方を基盤にすると、稽古とはどのようなものになるか。例えば、伝統技の基本稽古は「暴力的な行為を自己に加えてくる相手を想定した状況に対する空手技の使い方(応用/護身術)」を想定しています。そのような伝統技の応用修練は、ルールによって勝ち負けを設定した競技(スポーツ)的な組手とは別の型(組手型)や限定組手稽古によって行います。 

 一方、勝敗をルールによって設定した競技的な組手稽古は、「伝統的な空手武道の技を発展させ、それを活用する技能(間合い、運足、リズム、呼吸、感情、力などの調節能力)を体得するための修練」です。技能の習得は、人間の生きる活力となり、かつ、新しいものを創造する活力となります。ただし、そのような競技的な組手稽古と伝統技の応用修練は繋がりを持たせる、それが増田式武道修練です。そのためには、競技的な組手稽古のルール設定を改善しなければならないというのが、私の立場です。もちろん、競技的な組手稽古も、空手武道の上達への手段です。おそらく絶対的に正しい稽古法というものはないと思います。それでも、技能の習得は重要です。ゆえに改善を試みながら実施するのが良いでしょう。ただし、単なる勝ち負けを喜ぶことを目的とした練習は、本来の稽古とは逸脱しています。時にそのような体験も有益かもしれませんが、基本的には、本来的な自己をより良く進化させる、「上達」とは異なることです。 

【武道の稽古の真髄〜すべからく自己の心技体の現状を考えるべし】  

 私が考える武道の稽古の真髄は、「すべからく自己の心技体の現状を考え、改善すべし」と言っても良いでしょう。補足を加えると、心は絶えず変化し、身体は必ず衰えます。だからこそ、その状況を正しく認識し、その状況の改善、活用を考えていく。言い換えれば、「他己と対峙しつつ、自己の心身を動かす、同時に不動のものとしていく」です。  

 訳のわからない言い方になりましたが、それが増田章の武道哲学です。平たく言えば、最期まで、心と身体を考えていく。そして、それらに感謝していく。それが、私の考える武道修行です。 つまるところ、相手との相対的な評価は手段にしか過ぎず、目指すべきは自己の心身の最善活用なのです。

【最期までにやりたいこと】 

 最後に、心に秘めて置くのが良いかとも思いましたが、最期までにやりたいことの一つを書き記しておきます。それは「従心への武道」と「九法」の執筆です。まだ、準備が不十分ですが、自分の人生に納得し、感謝するためにも、老いが究極の学びの法則であること。そして、それに感謝できるような武道哲学を完成させたいと思っています。 

 

 

   

私はイチロー選手が大好きである 〜編集後記第37号

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私はイチロー選手が大好きである〜編集後記第37号

 

デジタル空手武道通信第37号はこちらから

 

 毎年のことだが、年末を迎えると、時の流れの早さを感じる。

さらに言えば、私は数年前のことを思い出せない。これは私だけのことだろう。脳のスペックが低い。残念ながら。それにもかかわらず、いつも未来を見据え、考えを巡らしている。もちろん、今何をするかで手一杯だというのが現実だが、その行動は明確に未来を見据えている。補足を加えれば、未来はすぐそこにあり、今をどう生きるかが未来を決める、と私は考えている。

 時々、息苦しくなるが、幼い頃からの性格である。しかしながら、もう還暦近い歳になった。もっと足元を見つめなければと反省している。

 

 先日、仕事の合間、テレビに目を向けると、野球選手のイチロー選手のコメントを映し出していた。私はイチロー選手が大好きである。私はそのコメントに痺れた。テレビでは皆、同様のコメントをしていた。

 

【「経験を大事にしてほしい」「自分が自分の教育者になって欲しい」】

 イチロー選手は、知識が豊富な時代だが、だからこそ、「経験を大事にしてほしい」と語っていた。拝聴すべきは、その経験の中で感じることを大事にして欲しいと語っていたところである。それを子供達に優しく語りかけていた。

 

 また「自分が自分の教育者になって欲しい」と語っていたように思う。できれば、再度、その番組を観たい。その言葉にも痺れた。

 

 少し自慢めいて聞こえたら勘弁して欲しいのだが、「経験の中で感じることを大事にする」「自分が自分の教育者になる」ということは、私の人生から得た、哲学と同じである。

 

 だからこそ、私は空手の稽古を試合経験、組手経験の中にこそ、最も重要なことだと、伝えていきたい。誰よりも厳しい試合を経験したから言える。勝敗は関係ない。だが、少なくとも、試合の結果を寝ても覚めても考え続けた、若いころがある。なぜ、勝てなかったのか?そんな問いかけを毎日、寝ながらも続けた。おそらく、イチロー選手にも、同様の問いかけがあったに違いない。

 またイチロー選手は過去に以下のように言っていた、と記憶する。それは「4000本安打の裏には、8000本の悔しい思いがある」「僕はその悔しさに真剣に向き合ってきた」「その結果が4000本だが、その結果には、あまり興味がない。むしろ、その悔しい8000本の体験の中に私の真の誇りがあるし、大事なものがある」

 私は、その言葉に痺れた。増田流に解説をすれば、イチロー選手にとって失敗は失敗ではない。その失敗を大切に抱きしめ、その中から生まれ出てくるものをつかんでいるのだ。その生まれ出るものが成功に導く何かだ、と言えば、安直な解説だ。おそらく、イチロー選手は成功とか失敗とかいう言葉は使わないだろう。彼は「悔しさ」と表現していた。だが、仮に失敗という言葉を使えば、イチロー選手はその失敗(悔しさ)に誠実に対峙し続け、それを糧にしていたように思う。その態度、姿勢が最も尊敬に値する部分だ。

 

 同時に、イチロー選手は、相手が納得し、観客が納得し、自分も納得する。否、相手が感動し、観客が感動し、自分も感動する。そんなプレーを生み出すために、ひたすら自己を磨き上げていたのだと思うのだ。それがイチロー選手にとっての成功ではないだろうか。否、実は成功という言葉はイチロー選手にとってのゴールではないだろう。換言すれば野球から得られる感動を観客、相手選手と共に味わう。それがイチロー選手のゴールだと直感する。

 

【拓心武道メソッド(増田式武道メソッド)〜全身で他者と対峙し、コミュニケーションするということが、経験ということの本質】

 

 そのようなゴール設定をすることが、増田章が極真空手に求める未来像だ。ゆえに組手試合の方法を変更した。なぜなら、試合の結果をより正しく振り返ることが重要だからである。情緒的な価値観はその振り返りには邪魔なものである。もちろん人間が情緒的な生き物であり、それを制御することが人間にとって重要なことは理解している。だが、スポーツや武道修練に関しては、もっと明確なデータ解析が必要なのだ。 私は、空手武道をそのような手段にしたいと考えている。  

 

 ゆえに増田式武道メソッドでは試合を重要視したい。しっかりと準備をすれば歳を取っても体験できるようにメソッドを考えてある。その意義は、野球がそうであるように、相手との交流、コミュニケーションが人間を成長させる、重要なキーである、と私は確信しているからだ。また、全身で他者と対峙し、コミュニケーションするということが、経験ということの本質なのだと考えている。そして、そのことをより正確に掘り下げて行くことが人間を高めて行く。蛇足だが、それがヴィクトール・フランクルのいう「意味への意志」ではないか、と私は直感している。

 

 また、私の道場で柱とする武道人哲学とは、経験を恐れず、経験の中から、他者とのコミュニケーション技能を体得すること。また自分が自分自身のリーダーになることを目標にすることが核である。イチロー選手が子供達に語った、「自分が自分の教育者になる」とは、武道人哲学で唱える、リーダーシップとほとんど同じだと確信している。

 

 最後に、あまり人に憧れたりしてこなかった偏屈な人間だが、イチロー選手には、胸が高鳴るような憧れを感じる。時にイチロー選手の悪口を聞いたことがあったが、多分感性が合うんだろう。今後の野球界での活躍を楽しみにしている。繰り返すが、私はイチロー選手が大好きである。

 

 

 

火星が出ている〜新型コロナウイルス感染拡大による危機に際して

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「火星が出ている」新型コロナウイルス感染拡大による危機に際して〜美学を思う…。

ブックカバーチャレンジ第2回

 

 中学生の頃だったろうか。私は高村光太郎の詩に惹かれた。実は小学生の頃から、詩が好きだった。10代の頃、感傷的な性格をいつも持て余していた。そんな厄介な性格の私の心に、国語の教科書に出ていた詩が突き刺さってきた。また、私は図書館や本屋が好きだったので、詩のコーナーを物色し、自分の心を癒してくれる詩を探していた。多くの詩人に憧憬の念を抱いた。その中でも、高村光太郎の詩が好きだった。

 

 幼少の頃の私はと言えば、いつも思いが空回りし、挫折感に苛まれていた。詩人達の言霊は、疲弊する私へのビタミン剤となった。そして、優しい心を忘れさせないようにしてくれた。高村の詩の中で、私が特に好きだった詩が、以下の「火星が出ている」である。

 

 現在、社会が新型コロナウイルス感染症拡大の有事に直面している。そして、我々の心中に徐々にではあるが変化が出てきているようだ。それと何の関係があるのかと思われるだろうが、私には今、高村の心が少し見えたような気がする。

 

 「火星が出ている」とは、理念、理想に対峙する意識(自我の核心)のレトリックではないだろうか。それは、人類が時代時代で掲げてきた理念を含む。言い換えれば、人類が追い求めてきた理想に対するレトリックといっても良いかもしれない。しかし、その理念や理想の違い、その衝突で、数多の争いが起きた。また、様々な問題が生じている。

 

 「予約された結果を思ふのは卑しい」「正しい原因に生きる事」「それのみが浄い」つまり、『「何のために」ではなく、心の奥底から感じたことに対し正直に誠実に対峙し、それを行うこと。それが人間にとって、最も良い生き方である』と高村は思っているのだと思う。

 

 私は20数年前に、鎌倉の東慶寺の奥にある松ヶ岡文庫に故古田紹欽先生を訪ねたことがある。その時、松ヶ岡文庫を開設した、鈴木大拙先生の書斎を見せていただき、そして、「常行一直心」と書き添えた「臨済録」をいただいた。

 

 それからの私の生き方はどうだった。精一杯やったつもりだが、全くもって納得できない。また自分の見識と勇気の無さが悔しい。

 

 今回の新型コロナによる有事の中、今こそ原点に戻りたい、と思っている。原点に戻り過ぎれば、空手を捨てることになるかもしれない。そこはよくよく考えたい。

 手がかりは「人間が天然の一片であり得る事を」「人間が無に等しい故に大である事を」という言葉だ。そして「無に等しい事のたのもしさよ」だ。

 最後に「見知らぬものだらけな不気味な美がひしひしとおれに迫る」とは、本当の美とは、不気味なもの、不安なものと真剣に対峙することにより感じ取れるものだということではないだろうか。意味が伝わらないかもしれないが、言い換えると、『安易に「美しい」などと消費できるものは本当の美ではない』ということだ。おそらく「火星が出ている」と言う詩を書いた高村は、安易に消費されるような美しさではない、本当の美を見つめながら生きていく決心をしているのだと思う。そのように私には感じる。

 

 

 

 

 

 

 

火星が出てゐる 高村光太郎 

 

火星が出てゐる。 
 

要するにどうすればいいか、といふ問いは、
折角たどった思索の道を初にかへす。
要するにどうでもいいのか。
否、否、無限大に否。
待つがいい、さうして第一の力を以て、
そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。
予約された結果を思ふのは卑しい。
正しい原因に生きる事、
それのみが浄い。
お前の心を更にゆすぶり返す為には、
もう一度頭を高くあげて、
この寝静まった暗い駒込台の真上に光る
あの大きな、まっかな星を見るがいい。


火星が出てゐる。


木枯が皀角子の実をからから鳴らす。
犬がさかって狂奔する。
落葉をふんで
藪をでれば
崖。


火星が出てゐる。 

おれは知らない、
人間が何をせねばならないかを。
おれは知らない、
人間が何を得ようとすべきかを。
おれは思ふ、
人間が天然の一片であり得る事を。
おれは感ずる、
人間が無に等しい故に大である事を。
ああ、おれは身ぶるひする、
無に等しい事のたのもしさよ。
無をさえ滅した
必然の瀰漫(びまん)よ。


火星が出てゐる。 

天がうしろに廻転する。
無数の遠い世界が登って来る。
おれはもう昔の詩人のやうに、
天使のまたたきをその中に見ない。
おれはただ聞く、
深いエエテルの波のやうなものを。
さうしてただ、
世界が止め度なく美しい。
見知らぬものだらけな不気味な美が
ひしひしとおれに迫る。


火星が出てゐる。 

 


  

 


闘争の倫理(大西鐵之祐)

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闘争の倫理(大西鐵之祐)

〜ブックカバーチヤレンジ第4回より

 

【人間の内側から顕れてくる意味】

 私にはラグビーの経験はないが、空手選手時代に仲良くした友人がラグビー選手だった。彼は明治大学のラグビー部出身で、NECのラグビー部で監督を務めたこともある。現在はラグビートップリーグ、日野ドルフィンズの監督である。

 その縁もあってか、ラグビーの試合は新日鉄釜石と神戸製鋼が鎬を削っていた頃から見ている。だが、ルールがよくわからなかった。それがわかるようになったのは、数十年以上も経ったワールドカップラグビー日本大会だ。つまり昨年のことである。 この本は、ラクビーをやっている人達も読んでいないと思う(失礼)。それは、ラグビー観が異なるだろうし、倫理などというのは堅苦しいからだと思っている。だが、この本に書かれている大西鐵之祐の思想は、ラグビーの戦術的なことより、大事なことだ。その大事なこととは、ラグビーやスポーツの社会的意義を説き、かつ、ラグビーをやることの根源的な意味を問うことだ。なぜ、ラグビーをすることの根源的な意味を問うことが大事であるか。それは戦略的なことであり、引いてはラグビーの社会的存在価値を高めることにつながるからである。

 

 勿論「ラグビーをやることの意味などない」あるいは「ラクビーをやることの意味は人それぞれだ」という向きもあるに違いない。だが「ラグビーというゲームを行うことによって、人間の内側から顕れてくる意味がある」と私は言いたい。その「内側から顕れてくる意味」の中にルールは異なっても、極真空手とラグビーの共通項がある、と私は感じる。「その共通項とはなんだ」と聞きたい人のために書いておく。

 

【極真空手とラグビーの共通項】

 その共通項とは、実は極真空手にあるものではない(ないから分裂した)。それは極真空手の競技試合に人生を賭けた増田 章があって欲しいと希求した競技哲学だ、と言っても過言ではない(もしかすると、ラグビーにも希薄だったのかもしれない)。ないからこそ希求し、この本と出会ったのであろう。しかし、読めば読むほど、極真空手や他の武道の欠陥が目についた。私がいう共通項とは、大西鐵之祐先生がラグビーに見出したロマン、また増田章が極真空手に求めたロマンだ、と言っても良い。それが「闘争の倫理」だと言ったら、大西先生のお弟子さんたちにお叱りを受けるだろうか。

 

【自己目的的行動」「ルールの前に人間あり」「自己コントロール」】

 さて、大西先生のロマン(私が思うところの)を表すキーワードがいくつかあるが、その中からいくつかあげておきたい。まず「自己目的的行動」次に「ルールの前に人間あり」そして「自己コントロール」だ。それらのキーワードについて、少し説明したい。

 

 まず「自己目的的行動」だが、意訳すれば「それをやる目的(行動目的)が外部の価値観に左右されているのではなく、自己の内面にある価値観(良知と言いたい)によって判断されること」と私は理解したい。20代の頃、「自己目的的行動」という言葉が難しかった。

 

 次に「ルールの前に人間あり」というキーワードだが、イギリスで作られたラグビーというスポーツは「ラグビーの理念のためにはルールは変えても良い」という考え方らしい(私の解釈だが…)。この部分が、私が苦しんできたテーマの答えでもある。補足を加えれば、ラグビーというスポーツは、ラグビーのあるべき姿が、競技ルールの前に問題とされているようだ。

 

 誤解を恐れずに言えば、これまで「できそこないのチャンピオンを作るルールよりも、空手道として、あるべき姿を前提として、ルールは変えても良い、むしろ変えるべきだ」と私は考えてきた。その考えが非現実で非合理、非常識なものではないということが、イングランドで生まれたラグビーというスポーツの歴史を学んで理解できた。そして幼い頃の私の直感が間違いではないと確信している。

 

 また「自己コントロール」については簡単にのべるにとどめたい。実はこの部分がスポーツとしてのラグビーと武道としての極真空手の最も親和性のある部分かもしれない。しかし、それが深く自覚されていない。本当は一番重要な部分だと思うが、機会を待ちたい。私の理解は「人間がコントロールできない状況になるということを把握しつつ、自己をコントロールすることが大事だ」ということである。例えば、制御不能の状況を承知の上で、だからこそ、そのような局面に陥る前に、ある種の予測を行い、自己を制御する。そのような判断と行動(知行合一)の訓練としての側面がラグビーというスポーツにはある。大西鐵之祐先生はその部分を大事にしたいと述べていたのだと思う。これは、東日本大震災や新型コロナウイルス感染症の拡大に際しても重要な観点である。人類はそのような自己コントロールを念頭におかなければならないと思う。

 

 私の考え方は少数派にもならない考えかもしれない。だが日本では少数派という概念すらないような感がする。良い意味での討論、対立(戦う)という気概、感覚がまるでないかのようだ。だが、今年のはじめ、私の考え方を裏付けるかのような本に出会った。その本は、「ラグビーをひもとく〜反則でも笛を吹かない理由(リ・スンイル)」という新書だ。この本を全てのスポーツ愛好者にお勧めしたい。

 

【出版物(本)がもたらしてくれる、時空間を超えた人間との邂逅】 

 最後に先のワールドカップ大会では、私を始め多くの人がラグビーから元気や勇気をいただいた。ほんの少し前のことなのだが…。ところが、いまは新型コロナウイルス感染拡大の危機で日本のみならず世界中がストレスフルな状況になっている。改めて本当にラグビーからは多くのインスパイヤーを頂いた。あの時の感動が懐かしい。その感動を空手に生かすべく「今年こそは…」と準備をしていた。それが頓挫し、今後の見通しはと言えば、霧に覆われたままだ。今後、存続も困難かもしれない。正直言えば、本など読んでいるときではないし、こんなことを書いている状況ではない。故にブックカバーチャレンジは適当に行いたい。適当というのは、自分の好きなように変更してやるということである。1日一冊で7日間というルールは守らない。数千冊以上ある蔵書の中から、特に思い出深いものだけを掲載する。コメントはそのときの気持ちの書きなぐりだ。

 

 自分勝手だが、ルールは私流に変更する。今回のコラムのように大事なのはルールではなく「ルールの前に人間あり」だ。「出版物(本)がもたらしてくれる、時空間を超えた人間との邂逅」という文化を見直そうということが、より大切なことだと理解しているからこそ…。自分勝手で御免なさい。

 本当は書評などを読んだり、書いたりすることが大好きな私ではある。だが余裕がない。体調が悪く、また突発的な問題が生じているのだ。とても憂鬱である。 

 


 

 

 

 

 

 

 

【このブックカバーチャレンジへの参加方法】

・好きな本を1日1冊、7日間投稿する

・アップするのは表紙画像だけでよく、本についての説明を書く必要はない(書いている人もいる)

・毎回、投稿するごとに、1人のFB友達を招待して、このチャレンジへの参加をお願いする

・(追加されたルールだそうですが)参加を依頼された人は、気分次第で、スルーするのも次の人を招待しないのもOK

 

 

 

 

「孟子」と大塩中斎の「洗心洞劄記」

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「孟子」と大塩中斎の「洗心洞劄記」

ブックカバーチヤレンジ第6回

 

 

 私は昔から中国古典に興味があった。だが、そのくせ三国志などの歴史には興味がない。と言うと極端であり、当然、中国古典を勉強すれば、三国志に登場する人たちのエピソードなども目に入る。要するに、頭が悪いのと、空手修行に忙しく中国の歴史までは手が回らなかった。芸能人のことも知らないし、テレビもあまり見なかった。

 

 さて、私が初めて手にした中国古典は「論語」だったように思う。中学生の時、なかなか良いことを書いてあるなと思い購入した。それから論語の本だけでも十冊近くあるだろう。だが「論語読みの論語知らず」だ。また、全ての内容を把握しているわけではない。さらに悪いことに、反骨精神旺盛な私は、途中、孔子よりも老子や荘子の方に惹かれていった。さらに「論語なんて、要するに秩序を形成したい為政者が下の心を縛りつけるものだ」と言うように考えていた。そして韓非子の方が本当だなんて思う次第であった。

 断っておくが、そうは言うものの、これまで幾度と手にとった論語の教えは、私の心の中に収まっている。ただ、それを勧める行為が眉唾なだけである。そこまで言って、ここで一応、謝っておきたい。「論語を勧める人たちは悪い人ではありません」「悪態をついてすみません」。

 

 ただ、失笑を承知で言えば、還暦近くになった私が好きなは、論語より「孟子」だ。周知のように孟子は孔子の弟子である。若い頃の私は「性善説なんてちゃんちゃらおかしい」「荀子、韓非子の方が本当だろう」なんて思うこともあった。今は違う。笑われても、孟子の理想を信じて見たい。

 

 さらに、老荘思想が好きな私が言うとおかしいが、王陽明の陽明学、特に中江藤樹や大塩中斎(平八郎)の思想が好きである。特に大塩の「洗心洞劄記」はお気に入りだ。先におかしいといったのは、大塩は、老荘の思想を嫌っていたとあるからである。大塩は歴史の教科書では謀叛を起こした人物ぐらいにしか紹介されていないが、日本の歴史に影響を与えた吉田松陰や西郷隆盛にも影響を与えたに違いない(時間があれば勉強したいが私の想像です)。 

 

 言うまでもなく暴力に訴えることや死ぬことは良くない。だが大塩中斎のような、勉学と社会経験(与力だったかな)を積み、見識を有しつつも、打算ではない、良知(心の奥底から湧き上がる認識)によって行動する。さらに、その行動が命をも賭さなければならないようなことであってもやる。若い人にはそんな気概を持って欲しい。まず、おっさん(お前)が持てよ、と言われるかな…。 

 

 

 

 

 

ブックカバーチャレンジも、あと1回で終わり。

 

 

 

北斗の人(司馬遼太郎)

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北斗の人(司馬遼太郎)

 

ブックカバーチヤレンジ第7回

 

 

【北斗の人】

 「北斗の人」は、江戸時代後期の剣術家。北辰一刀流の創始者、千葉 周作を描いた司馬遼太郎の小説名である。私は、この本を100人組手の後、1ヶ月の入院生活を送った病院のベッドの上で読んだと記憶する。もう30年近く前のことではっきりとは覚えていない。それまで歴史小説はあまり好まなかった私だが、歴史小説をよく読んだという家内から司馬遼太郎、山本周五郎などの小説を教えてもらった。それからしばらくは、司馬遼太郎、山本周五郎、山岡荘八などをかなり読んだ。

 

 私が初めて手にとった歴史小説は司馬遼太郎の「燃えよ剣」だった。病院のベッドで一気に読んだ。この本は歴史小説の手始めにオススメの痛快な小説である。読後の感想は、人の評価や結果はどうあれ、自己の信念を貫いた生涯がとても魅力的に思えた。その後、次々に読んだ歴史小説は、私に人生の面白さ、魅力を教えてくれたように思っている。

 

 そんな読書遍歴の中、司馬遼太郎の「北斗の人」には、特に心踊らせ、憧憬の念を持った。そして極真空手が精神主義(独善主義的な意味での)ではない先端の空手になることを夢想した。そのころが懐かしい。

 

 さて、千葉周作は江戸時代の後期に江戸で一番の道場を開いていた。その門下生の中には、坂本竜馬、山岡鉄舟、山南敬介など、明治維新に名を残す有名な剣術家が名を連ねている。ここで増田流「千葉周作」の紹介をしたい。少し妄想が入っているが御免。

【増田流「千葉周作」の紹介】

 千葉周作は、我が国の封建時代末期、多くの権威主義で精神論や神秘主義に傾く(要するにこけおどしが多い)剣術家の中にあって、徹底した合理主義者である。

 その合理主義は、当時の権威的かつ神秘的な鎧を身にまとった剣術(武術)を誰でも理解できる物とした。千葉の剣術は精神主義ではなかった。あえていえば実証主義であった。ゆえに千葉の剣術理論や心法は現代剣道にも通用する。さらに大きく俯瞰すれば、千葉周作は剣術を人間教育の手段にした。もちろん、それまでの剣術にも芸道としての人間教育的要素はあるが、それは人間教育の手段というより、もはや権威獲得の手段であろう。

 

 千葉周作の剣術理論が提示したことは、剣術は事上磨練、事理一致の修行でなければならないという事である。そしてその業績は剣の修行を人間教育の一環として改良した事にある。現在、千葉周作の興した剣術道場、玄武館は残っていない。その理由は知らないが、後継者が育たなかったことと、江戸から明治と時代が代わり、剣術が一時衰退したことによると推測する。しかしながら、千葉が蒔いた合理思想は、剣術諸流派のリーダーたちに良知を呼び起こすことに貢献したと思う。その結実が、武術の世界では珍しい「全日本剣道連盟の設立」という合意形成なのだ。

 

 

 断っておくが、私は剣道に関しては門外漢であり、私の考えは全くもって当てにならない。ただ司馬遼太郎の「北斗の人」を読み、千葉のような人間になりたいと思った感動をもとに自分の理想を投影した表現をしているだけだ。残念ながら、あまりにも非力で足元にも及ばなかったが…。とても悔しい。だが、千葉の目指した「北斗」、すなわち真理、理想を目指して、努力してきたつもりである。ここまで続けられただけでも感謝だ。あとは、もっと正直に、かつ真剣に生きてみたい、と願うだけだ。

 

 最後に、本書に私が印をつけておいた箇所をいくつか紹介したい。まずは、キコリとサトリのお化けの話である。この話は、司馬が千葉周作の剣の思想を伝えるべく挿入した部分であろう。また、実際に千葉周作の遺稿にも記されているらしい。タイトルは私が勝手に付けた。

 

【キコリとサトリという獣の話〜無心の心得(無心の極意)】

 

「小仏のキコリ仲間では」と与八が言った。

「知られている話だがね。あるキコリが山中で樹を伐っていると、妙な獣がそばに寄ってきて、キコリを嘲笑った」

きこりが驚いて振り返ると。かつて見たこともない異獣なので、生け捕りにしようと思った。ところが異獣には、人の心がいち早くわかるらしく、

「お前、わしを生け捕りにしようと思ったであろう」

と、いよいよあざ笑った。キコリは覚られたか、と思ったであろう」

と、驚くと、

「お前、覚られたか、と思ったろう」

と、移住が言った。キコリはいち早く心中を見透かされるので、

(いっそこの斧でひと打ちに打ち殺してくれよう)

と思おうと、異獣は、

「そら、殺そうと思った」

と、赤い口をあけて笑った。キコリはもうばかばかしくなり、こんな面倒な相手はうちすてておこうと思い、斧を取り上げて樹を伐る仕事を続けようとした。

「あっはっは、キコリよ、こう心を見透かされてはかなわぬといま思ったであろう」

異獣は勝ち誇っていたが、キコリはもう相手にせず、杉の根方に丁々と斧を打ち込む作業に没頭した。そのうち、斧の頭がゆるんでいたのか、ふりあげたとたん弾みで柄から抜け、キラリと空を飛んで異獣の方角に飛んだ。

斧は無心である。無心にかかっては、さすがの異獣も、避けることができない。頭蓋を打ち砕かれ、二言も発せず、即死した」

 

「その異獣、なんと言う獣かね」

「サトリ(悟り)という獣よ」

与八郎人の話はそれだけである。サトリという獣がどんな顔をし、どんな尻尾を持った獣かは、与八も知らない。

「なるほど」

周作は深い感動を覚えた。周作が生涯のうちでこれほど剣理の深奥に触れた話を聞いたことがない。

(わが剣は、智剣であったかもしれない)

敵の来るべきを未然に察知して瞬時に制圧するのが剣というものだが、周作はその「察知」に智を用いすぎてきたようだった。

(剣客のうち下の下なる者はそのキコリであろう。いちいち企図を察知されるようでは問題にならぬ。なるほどさとりという異獣は敵の企図を察知する点、これはいい。この異獣が、今の私に相当している。しかし)と周作は思った。

(剣客は、その斧の頭でなければならぬ)

 

 

以上は、周作が「無心」の心得を教える例えに使った話のようだ。それを司馬は巧みに場面に取り入れている。また千葉は「夢想剣」という極意を伝えているが、我が極真空手にも「夢想拳」という極意がある。おそらく、北辰一刀流の極意を真似たのだと思われるが、少し浅い。

 

【小説の中で千葉周作が語ったセリフ】

 

「剣は理から入る方が良い」

「剣は理である」

 

「剣の扇は、ついには相討ちである。春斎は生き延びるつもりがなかったために、剣士が生涯かかって到達しうる心境に、一瞬で到達した」

 

それ剣は瞬息

心気力の一致

 

「呪術の誕生(岡本太郎)」

 最後に愚痴を。若い頃の情熱が懐かしい。何も無かったのだが、無いからこそ掴もうという情熱があった。今も多くは持ってはいないのだが、僅かに掴んだ物(得た物)を離すまいとしていて、何かを握り続けているから掴めなくなっているかのようだ。

 その握りしめているものを離せとは言わないが、そのことが邪魔になっているような気がする。だが、多くの人の人生も大なり小なりそんな感じだろう。今回でブックカバーチャレンジを終わりにしたい。余裕があれば、じっくりと本を読み、丁寧に書評などを書くのも悪く無いかもしれない。子供の頃から本に囲まれて生活したい、と思ってきた。いつかそんな余裕が出てくれば幸せだろうなと思っている。実は今回、最後の本をどれにしようか迷った。何冊もの候補があったが、私が憧れる芸術家、思想家の岡本太郎の本を一冊だけ挙げておく。岡本太郎は画家であると同時に文筆家のようだ。何冊もの著作がある。そのどれも面白い。その中から「呪術の誕生」を紹介したい。この本は変な本では無い。要する岡本太郎の芸術論である。その内容にはとても触発される。

 もう一つ、これから緊急事態の継続への対策を考えなければならないが、政治家と行政、感染症専門家と医師、メディアと経済人の連携が悪い。なんでもっとチームプレーができないのだろう(チームプレーになってる?)。とても不安な生活がこれからも続くと思うと憂鬱である。

 リーダーが「持久戦」を意識するのは良い。だがそれを国民に強いるのは良くない。歴史を見てみろ。我慢は重要だが、我慢できるのは理想を信じているからなのだ。また、国民が政府からの愛を感じればこそ頑張るのだ。本当の意味で国民の命を護るということを政治家が解っているのだろうか。また、いまの日本に理想はあるのか?これまでの日本にはそれが本当にあったのか?もしかすると、それを考える機会ではないのか。

 

 


 

 

 

 

【このブックカバーチャレンジへの参加方法】

・好きな本を1日1冊、7日間投稿する

・アップするのは表紙画像だけでよく、本についての説明を書く必要はない(書いている人もいる)

・毎回、投稿するごとに、1人のFB友達を招待して、このチャレンジへの参加をお願いする

・(追加されたルールだそうですが)参加を依頼された人は、気分次第で、スルーするのも次の人を招待しないのもOK

ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム(A Change Is Gonna Come)〜サム・クック

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ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム(A Change Is Gonna Come)

 

It’s been too hard living but I’m afraid to die

Cause I don’t know what’s up there beyond the sky

It’s been a long, a long time coming

But I know a change gonna come, oh yes it will

 

 この曲に初めて出会ったのは20代はじめの頃、日本のR&Bミュージシャンの柳ジョージが歌っているのを聞いてからである。だが英語の勉強をしなかった私は、歌詞の意味を理解していなかった。それから数年後、上京した私は支援者の一人で若い頃歌手だった木下氏からR & B、ソウルミュージックのことを教えてもらった。私と一回りぐらい年齢の違う木下氏は田舎者の私に色々と教えてくれた。兄貴のような人だった。若い頃の私は、木下氏以外にも年上の人達に色々と教えてもらった。兄や姉のいない私は、その人たちが大好きだった。本当に感謝している(空手の浜井先生も年の離れた兄貴のような人だった)。

 

 実は中学生の頃の私は小林旭のファンだった。またフォークソングも好きであった。中学生で小林旭のファンというと、想像力のある人なら、幼い頃の私のメンタリティーを想像されてしまうだろう。恥ずかしいが、私はかなりの変わり者だった。否、早熟だったと言った方が良いだろう。戦後の演歌も黒人のブルースにも共通点があるかもしれない。ブルースには情けない男が好きな女のこと(自分を見捨てた女の事)を思う歌が多い。演歌は愛する人を幸せにできないダメな自分を慰めるような歌が多い。今、若い人達がそれを聞けば、「なに、それ?」と違和感どころか笑うかもしれない。だが演歌やブルース、フォークやロック、歌謡曲も含め、音楽が様々な壁や格差による疎外感に苛まれる者の心を慰めたことは事実だろう。

 

 ここで「そんなことを中学生が知っていたのか」とツッコミが入るに違いない。正直、知ってはいなかった。そんなことを中学生の私がわかっているといったら嘘になる。だが似たような感覚だったのは間違いない。

 

 さて、どうしようもない壁や格差、そして理不尽な差別に苛まれながら生きる。アメリカにおける黒人の魂の叫びが米国で誕生したアフリカ系黒人音楽のルーツだろう。

 

 米国の黒人が体験した絶望感や苦しみに比べたら私が体験した疎外感や苦しみなど比較にならないことはいうまでもない。

 

 私は新型コロナウイルス感染拡大予防のための自宅待機の中、「リマスター:サム・クック(Netflix)」上映時間:74分/監督:ケリー・ドゥエイン・デ・ラ・ベガ/キャスト:サム・クックを観た。それ以外、ニナ・シモンという黒人女性歌手のドキュメンタリーも同じくネットフリックスで観た。また、クインシー・ジョーンズのドキュメンタリーも。これまで、背景や歌詞もよく知らなかった黒人音楽の姿を少し垣間見た気がした。実は、新型コロナウイルスのことと身体の不調で、私のメンタルは最悪だった。だが「アフリカ系アメリカ人公民権運動」に傾倒した、ニナ・シモンやサム・クックが体験した葛藤や絶望感から比べたら大したことはないと思った。

 

 彼らは絶望と同時に歴史に名を残すほどの僥倖も手にしている。自分と彼らを比較するなど噴飯ものだ。また彼らの絶望感は僥倖を手に入れたゆえに与えられたものかもしれない。兎にも角にも、彼らが見える敵のみならず、見えない敵とも戦っていたこと。そして戦い続けながら死んでいったのだ、と私は感じずにはいられなかった。ドキュメンタリーの内容はあえて書かない。観たら面白いと思うだろう。また音楽の素晴らしさのみならず、社会の理不尽と戦う一人の人間の生き方に感銘を受けるに違いない。同時に黒人音楽に羨望を持つ人もいるかもしれない。

 

  最後に新型コロナウイルス感染に立ち向かう全ての人達に、もし知らなかったなら、名曲、サム・クックの名曲、「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム(A Change Is Gonna Come)」を送りたい(すでに私よりも知っている人が多いと思うが)。ユーチューブを探せば、楽曲や歌詞もすぐに見つかるだろう。

 

 以前から私は米国の「アフリカ系アメリカ人公民権運動」に命を投げ出したキング牧師を尊敬している。ごく最近、ネットフリックスのドキュメンタリー作品によって、マルコムX、ニナ・シモン、サム・クック、そして優等生だがクインシー・ジョーンズの生き方に勇気を得た(ネットフリックスの術中にはまっている?)。

 彼らのように命を投げ出し生きて見たい。私は極真空手を彼らにとっての音楽のようにできると思っていた。だが周りを見渡せば、恵まれているのに、あまりに貧困な…ばかりだ。もちろん私の身の程知らずの誇大妄想を反省しなければならない。これまで失敗と挫折ばかりで、やっと立っているような状況だが、まだ少し力が残っている。どんな形になるかはわからないが、その最後の力を出し切って死んで行きたい。

 

 

 ユーチューブでサム・クックの楽曲を聴く際は以下から。他にもいろんな人がカバーしています。どれもかっこいい。

参考までに書いておきますが、ウィキペディアのサム・クックの説明は不十分です。

「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム(A Change Is Gonna Come)」

 

 

 

 

以下もかっこいい

 

 

 

 

 

身体を拓く心を高める〜空手ヒッティングのススメ

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 5月24日 22日に58歳の誕生日を迎えて

 新型コロナウィルス感染拡大による、経済環境の疲弊と被害は、これから様々な形で顕在化してくるに違いない。だが、そんなに深刻でない人もいるようだ。全員が深刻だと、それはそれで困るかもしれないが、これ以上続けば、回り回って、みんなが深刻になるに違いない。どの辺で気持ちを切り替えるか。正直言えば、私は深刻である。トヨタのコマーシャルではないが「深刻にならずに真剣になれ…」中々良い言葉だ。同様の言葉を私は年始にも聞いた。

 ゆえに今年は原点に立ち戻り「真剣にやる」と気負っていた。ところが新型コロナに皆が怯え、社会状況が一変した(私はいち早く正しく新型コロナウィルスに気をつけていた。しかし世間は…)

 今、我々に未来があるのか…。そんな暗い言葉を書いてはいけないと思いつつ、20時間をかけて、企画とプレゼン資料を3本ほど作った。また性懲りも無く、無駄なことをして、と周りの冷ややかな反応が頭をよぎる。だが、私にとっての問題はそんなことではない。本当に原点に立ち戻るかということである。できれば断捨離をして整理整頓したいが、人生には捨てられることと捨てられないものがある。その判断が物のようにはいかない。

 私にとって極真空手は捨てられない。しかしながら、ただ握りしめているだけでもダメだろう。人生、あと10年あるかないかとして、60歳までは己の信念を見つめ続けたい。その信念のイメージは、何も掴んでいなかった頃、素直だった頃の気持ちに立ち戻りことで掴めると思っている。言い換えれば素直に夢を信じ追い続けることだ。未来がないと書いたが、実は若い頃も今同様に未来がないと思っていた。また謙虚になどと自分で言うのは大嫌いである(みなさん謙虚にしている奴の胡散臭さ、いやらしさを感じない?)。一方、変に強がる奴も面倒臭いから嫌いだ。いつも素直に、そして正直でありたい。

 本来私は自分に自信がなく、だからこそ人一倍勉強し努力している。外見がどうあれ中身は謙虚なのだ。私はだから夢を信じ続けた。そしてがむしゃらに努力した。そんな生き方をもう一度しよう。だが商売はダメかな。こんな性格じゃ。だから他の方法で人と社会に貢献するつもりだ。あと数年、家族に見捨てられないことを祈りつつ…。

 

 

空手ヒッティングのススメ〜身体を拓く心を高める

極真空手の修正

 極真空手の基本である直接打撃制の組手稽古は、長い間人々に評価され普及してきました。その組手法を採用する空手人は世界中で100万人以上にもなるでしょう。その良点は多くの人が認めるところですが同時に欠点も見えています。もちろん物事には長所短所があり、長所を見て短所は大目にみるとの考え方もあるでしょう。しかしながら極真空手の原点に思いを馳せ現在を見てみますと、空手武術に必要な「攻撃と防御の技術」「間合い調整の感覚を始め攻撃と防御技術を活用する応用力」などが不十分です。ひらたくいえば、顔面への攻撃技術と技能が不十分だということです。その不十分さは現在の極真空手の組手法が未成熟な競技ルールに縛られているにも関わらず、勝利偏重ゆえに発生した瑕疵部分だと思います。言い換えれば、競技によって極真空手が本来目指すべく理想を喪失し、その形が偏向したということです。私はその理想喪失と形の偏向を修正したいと考えてきました。その結果、極真空手の修正のためには、新たな組手法の創設が必要だという地点に辿り着いたのです。

 

これまでの極真空手の組手競技は

 もちろん、これまでの極真空手の組手競技は残すべきだと思いますし、私の道場でも残します。なぜなら、私はその組手法により、誰よりも長い期間、また多くの経験を得、かつ多様な仲間を得ました。私は20代から30代の前半、世界数10カ国を回りましたが、私の想像以上の多様な空手人が存在するに違いありません。私は、その物語と伝統を継承することは我々の使命だと思います。しかしながら、このままではより高いレベルの武道とはならないでしょう。

 私が考えるより高いレベルの武道とは、その機能と内容に「技術」「技能」「理論」「心法(心理学)」を創出していく力のある武道です。しかし現在の極真空手は機能が脆弱で、内容が貧困です。このままでは人間を根本から変える人間教育としてのシステムではなく、単なる鎧(よろい)としての武道となるでしょう。しかし本来の空手には競技試合の勝利だけの価値しかないのでしょうか。空手とは身体と心を鍛え、多様な仲間を作り、その仲間達と共に社会に貢献していく。そんな価値、そして物語があるのではないでしょうか。

「技術」「技能」「理論」「心法(心理学)」
を創出できるシステム~空手武道学校の創設

  現在、空手界を見れば、団体や流派間の仲が悪く、自団体の良さのみを誇ることが多いように見受けられます。私はそのような立場から離れ、独立自尊で理想を追求します。具体的には新しい組手法と競技会を創設し、先述したように空手本来の「技術」「技能」「理論」「心法(心理学)」を創出できるシステムを作ります。そのシステムを作るために、まずは自分の団体のみで普及者を大事に育て上げます。なぜなら、普及をあまり急ぎ過ぎれば、既存の団体同様、やがて本来の価値を喪失して行く可能性が高いからです。また余計なことに労力を必要として、このシステムをより良いものにして行くための時間がなくなるからです。 

 もちろん、私の提言とシステムを理解し、修練方法の一つとして採用してくれる人、かつ協力者になってくれる人とは、共に研究、研鑽していきたいと思っています。 空手ヒッティングの詳細は、私が開校を準備、予定している、通信制道場の拓心空手武道学校で伝えていきます。

 

空手ヒッティングのススメ

 ここで空手ヒッティングの大枠をお話しておきます。 

 空手ヒッティングにおいて最も重要とすることは、「1)理念(目的)」「2)作法(礼法)」「3)攻撃と防御技術の精度」「4)試合経験量の確保」「5)試合結果の正確な分析(感想戦)」の5項目です。それら5つの要素を具現化するために、空手ヒッティングでは防具を採用します。その形態は既存の防具空手団体と似ています。しかし異なる点は、ムエタイや様々な格闘技の技術を柔軟に取り入れてきた極真空手の組手法を基盤にしています。ゆえに伝統的な空手の組手法を基盤とする既存の防具空手の組手法とは少し異なります。いうまでもないことですが、私は既存の防具空手団体の方々の理念と先見性には敬意を持っています。

 

空手ヒッティングの目指すこと~極真空手を本来あるべき姿に軌道修正する

 あえて申し上げておきたいことは、空手ヒッティングという組手法並びに競技会を確立する意義は、極真空手を本来あるべき姿に軌道修正することが目的です。

 また繰り返すようですが極真空手が空手のみならず、ムエタイ、中国武術、レスリング、柔道、そして日本柔術など、あらゆる格闘技術を融合したものであったこと。

 さらに空手ヒッティイグは、将来的な可能性として、投げ技も可能とする競技法としての「空手ヒッティング・フリースタイル」として発展することも視野に入れています。ただし、私がまず心魂を尽くすのは、打撃技に特化した空手ヒッティングです。

 

アプローチを変えなければ理想は実現しない

 最後にもう一つ述べておきます。かつて私が始めた「突く、蹴る、投げる」を可能とした「フリースタイル空手競技とプロジェクト」は一旦停止します。その代わりにその改訂版として「空手ヒッティング」の普及とプロジェクトを開始します。改めてフリースタイル空手プロジェクトに協力してくれた皆さんには感謝すると共に、私の考えを理解していただきたいと思います。ただ私は、決してフリースタイル空手プロジェクトを始めた意義を喪失したのではなく、アプローチを変えなければ理想は実現しないと考えたのです。

 

 

空手ヒッティングのススメ(増田章  2020/5/22記)より

 

(終わり)

 

 

 

 

組手形とは何か?〜拓心武道メソッド教本用テキスト

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組手形とは何か?

 おそらく、拓心武道メソッドを知らない人に組手形と言えば「それって何?」となるでしょう。子供たちに組手形について大雑把に説明すれば「組手形」とは言葉で言う例文のようなもの、となります。補足して「組手形や組手の中で使われる空手技は言葉のようなものだ」と付け加えます。しかし、そのように言えば「言葉の使い方なんて無限にあるじゃん」「空手の技なんて自由に使えばいいんだ」と思うに違いありません。私はそうではないと思っています。

「言葉を自由に使い相手に自分の意思を伝える」

それはとても難しいことだと思います。もしかすると、言葉の豊富な現代人は言葉を大事にあっかっていないのかもしれません。同様に空手技を使った組手稽古が世界中で盛んになっていますが、それを行う人たちは空手技を大事に扱っているでしょうか。

自己というもの

 例えば言葉をつかった交流(コミュニケーション)とは、単語を相手に投げかける(発話)だけでは十分な意思疎通(意味伝達/コミュニケーション)はできないと思います。前提として、言葉を使う人が言葉の意味を正しく理解し、その意味をつなぎ合わせて意味を構築しそれを伝える。かつ言葉を受け取る側にも同様のことがでできなければ意思疎通は、一方的、かつとても乱暴なものになるに違いありません。そんな意思伝達は、ときに誤解を生じ、かつ他者との歪な交流(コミュニケーション)は、時に自己と言うものを間違って受け取るに違いないと考えています。言い換えれば言葉(記号)のやり取りによって我々人間は他者を人間として理解できる存在になるのだと思っています。難しい話になりますが、自己というものは広義の言語(言葉のみならず身体表現も含めた記号)のやり取りによって形成されるイメージではないか、と私は直感しています。

組手稽古は相手との対話のように

 拓心武道メソッドの組手稽古では組手稽古は相手を打ち負かすことを目的としません。拓心空手武道メソッドの組手稽古は相手との対話のように行います。勝利は目指しますが、その勝利とは自他との協力によってより良い自己の創造ができたということです。裏を返せば他者との協働による自他の創出、すなわち自他共存です。そのためには空手技を言語のように扱います。ゆえに言語に発音が大事なように、身体の使い方がより正しくなるよう心がけます。また言葉と言葉の組み合わせ方を理解していないと、よりよく相手に意味を伝えられません。つまり空手技の組み合わせ、使い方の構成型を学ぶことが組手形の意義です。言語における構文のような構成型を理解することで、より正しい(より良く)空手技を使って組手が行えます。

正しい(より良い)組手稽古とは

 正しい(より良い)組手稽古とは、正しい言語と言語の活用によって、より良い自分を構築していき、かつより良い自他の関係を構築しいく対話形式の組手稽古です。そのための技術と技能の基盤形成が拓心武道メソッドの役割なのです。それが実現すれば、現代における武道が人間性の良い部分を必ず引き出すと思っています。少し難しい話になりますが、拓心武道メソッドにおける組手形の稽古は言語における構文の学習のようなものです。組手形の種類は数百種にも及びますが、それらの大部分はより原理的な組手型の応用形です。組手型とは組手形の基盤となるような形のことです。その組手型を習得することはそんなに難しいことではありません。もしその組手型を習得したなら、難なく多種の組手形ができるようになるでしょう。

 皆さんの能力は正しい理論、考え方で稽古すれば想像以上に向上すると思います。

 

 

 

 

 

 

「考える」ということ

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「考える」ということ〜空手の上達、段位について

 

 緊急事態宣言が解除されました。こらから道場を再開しますが、第2波、3波を予想し、気をつけながらの再開です。

 

 ゆえに稽古は感染予防のための衛生面への注意、稽古時間の短縮など、皆さんの協力をお願いしながら行います。また私は、そのような状況だからこそ、皆さんには心機一転、習得技術の見直しを勧め、より意識の高い稽古を心がけたいと思っています。そのために増田道場ではデジタル空手武道教本の活用を勧めて行きます。なぜなら、上達のためには道場稽古のみならず自習(独習)が必要だからです。自習の本質は「考える」ということです。「考える」ということが深く、広く、高くなければ、物事の上達は成りません。

 

 是非、テキストを見て、また読んで、空手について考えてください。それが上達への道であり。空手が会員一人ひとりの人生に役立つことにつながります。ただ、より正しく(より良く)考えるということが厄介で困難です。かくいう私も正しく考えているかどうかを、いつも問い続けています。それを聞いて、みなさんは不安に思うかもしれません。

 

 しかしながら、誰よりも深く、広く、高く考え続けているということが私の自負なのです。おそらく、これからも問い続けるでしょう。当然、自分の技術が完璧ではないと考えています(しかし技能で技術の不味さをカバーしています。また全体の機能としての技術とは、なかなか深いものなのです。人間は機械のようで機械とは異なります)。

 

 繰り返すようですが、「より深く」「より広く」「より高く」考え続けることが求道というものであり、真を極める、また心を極めるということだ、と私は思っています。断っておきますが、私のように空手武道の研究をしなさい、と言っているのではありません。

 

 私は、空手初心者のみなさんとは楽しく空手の稽古を行いたいと思っています。また、本道場はみなさんが空手の稽古をより楽しめるようにします。しかし段階を経て、より確実に空手武道の初段位、二段位、三段位、四段位、五段位、と到達できるようにカリキュラムと教本が必要だと考えているのです。

 

 最後にもう一つ、空手には名誉段位もあります。しかし本来名誉段位の取得を目指すことが修行の目的ではないことは言うまでもないことです。空手武道とは自分自身を拓き、高めていく道なのです。段位はその意識の深さと広さと高さに与えられるものだと考えています。その意識のなかには「技術」「知識」「経験」など、全てが含まれています。私が考える段位、そして段位制度とはそういうものです。

 

 

 

極真会館増田道場初級テキストの紹介映像(一部抜粋5分)

 

 

 


イメージは無限   6月10日少年部指導より 

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イメージは無限   6月10日少年部指導より 

 

 先日、初級教本用に少年部の稽古の内容の一部を撮影しました(YouTubeにアップしました)。その映像は拓心武道メソッドの組手技の稽古法を一例です。現在、新型コロナウィルス感染拡大抑止の対応中なので「マスク着用」です。また相手と接触を伴う稽古を禁止の中での稽古内容です。

 

 マスク着用で生徒に触れずに行う稽古(手袋をつけて少しは接触します)は大変です。しかしながら相手と接触しない稽古法もやり方次第では、相手と行う稽古以上の効果をもたらす、と私は考えています。また本教本では、最後に仮想組手を行っています。生徒たちの多くは初級者で未熟ですが、この稽古を継続し、かつ対人稽古を行うならば、より繊細な対応力を必要とするTS方式の組手(空手ヒッティイング)の上達が早まると考えています。

【拓心武道メソッドは形を整えることが重要】

 また拓心武道メソッドは形を整えることが重要です。形を整えながら、身体の使い方の本質に至り、より高次の技を生み出して行くのです。そういう意味では、増田も未熟で完璧ではありません。形を意識することで、自己の未熟を実感しています。ただ、拓心武道メソッドにより、自分のどこに欠陥があるのか、また、なぜそうなるのかを理解することができます。もちろん仮説ですが…。ゆえに拓心武道メソッドの修練体系を片時も忘れず、自己の形を見直し、自己更新をしたいと考えています。

【イメージは無限である】 

 本映像の最後に私は重要なことを伝えています。しかし、多くの空手愛好者に誤解や反発を与える言動かもしれません。子供達に私が伝えたかったことは「イメージは無限である」ということです。無限であるイメージを相手にするからこそ妥協なき研鑽となるのです。そして自由自在、言い換えれば無限の対応力の養成につながるのです。しかし、過激に「下手な相手とやり取りをするくらいならイメージを相手にする方が良い」と私は付け加えています。そこが問題です。相手と対峙し、真摯にやりとりをする経験は重要です。しかしながら、そうではない意識の低い相手との対峙ややりとり(応答)は、時に悪い癖を自己にもたらす、と私は考えています。それを思わず子供達に伝えてしまいました。いつも反省するのですが、なかなか直らない私の悪い癖です。よく言えば、私は誰にでも真っ正直に向き合ってしまう。もちろん、いつもは難しいことは言わないようにしてはいます。しかし、時々、特別の技(意味)を出してしまうのです。おそらく、子供たちは、それが特別の技(意味)だとは認識していないでしょうが。

【負ける経験】 

 多くの格闘競技やスポーツ競技は、ルールの中で勝つことを第一に考え、かつ、その最短距離を行こうとします。そのようなあり方は、ルールが確立され、理念(目的)が明確なスポーツや競技である場合、かつ指導者が競技に勝つことの先にある原理を理解している場合、競技を通じ原理を体得し、その後の人生に競技を役立たせることができるかもしれません。

 しかしながら極真空手を始め多くの空手競技はルールや理念が明確ではありません。そのような競技によって勝ち負けを競うことは、一部例外はあるでしょうが、人生の役には立たないかもしれません。それでも競技、勝ち負けを競うことが有益だ、と私が思うのは、どんなに理不尽な勝負、経験でも、負けることを体験することは人間を慎重にするからです。また理不尽な負けは人を深甚にすることもあるでしょう。

 ただ「負けた」ということには明確な理由(価値基準)が必要だと思います。なぜなら、その自覚、受取りによって人は成長すると考えるからです。一方、「どちらが好きか嫌いか」「どちらが美人か」というような曖昧な価値基準による勝ち負けは勝者も敗者も正しく成長させないでしょう。ところが、社会には理不尽な(意味不明な)勝ち負けがあります。ゆえに多くの人が勝った理由のみならず、負けた理由すら正しく理解することができません。ゆえに必要以上に勝ち負けに拘ってしまうのでしょうか。また勝ち負けはゴールではないと勝負以外の価値を見出していくかもしれません。

  それらを人の考え方は様々だとして片付けてしまうことはあまりに大雑把で耐え難い、と私は感じます。私が最も忌み嫌うのは、負ける原理のみならず勝つ原理も理解していない者が勝負を語ることです。断っておきますが、決して勝者のみが語る資格があるというのではありません。そこのところを誤解しないでください。むしろ原理を理解せずに「勝った」と喜んでいる人間が一番タチが悪いとも思っています。

 ここで私が言いたいことは、正しい評価、評論ができる土壌が必要だ、とでも言えば理解されるかもしれません。例えば、空手のみならず野球を考えてください。私は野球の原理を理解していない者が、その勝ち負けを語ることが一番我慢できない、と言いたいのです。ただし野球の場合、全てが武道よりも明解、かつエンターティンメントですから鷹揚に見たら良いかもしれません(評論家やメディアが無知なのはダメでしょう)。しかし空手や武道はそうでは無いはずです。非常に不明瞭な部分があり、かつエンターティンメントではありません。それがわかっていない…(むしろエンターティンメントスポーツ愛好者よりも眼が開いてないかもしれない)。

 やや強引に話をまとめると、それでも私はスポーツや競技で負ける経験をすることは必要なことだと考えています。そして様々な考えで、勝負に向き合っていくのも、また良しと思っています(人間はそんな程度だからです)。ただ私がこれだけは伝えて行きたいことは、勝ち負けを設定することで、その先に技と技を運用する原理を発見し、それを理解していくことです。そのような原理を想定し、勝ち負けを体験するならば、勝負はまた違った姿に見えるはずです。もしかすると「勝ち負けは無い」「無いところから勝ちや負けが生まれている」と感じるかもしれません。そこまで行けば、全ての形が整ってくるはずです。私は全てにおいて形が整わないのは原理を追い求める過程にあるからなのか、それとも原理が理解できず出鱈目だからだと思います。前者は良いのですが後者はよくありません。もう一つよくないことは、原理を理解していないのに、無理やり形を整えることは偽物の形であり原理から生じる形ではありません。そのような形は偽物です。私はそう直感します。

 

【「形が整う」とは】

 私が考える「形が整う」とは、無駄が一つもない境地です。そのような境地とは、形ではなく心が中心となった動きを体得した境地であり、その心は身体と離れた心ではなく、身体と一体でありながら独立し、また有心でありながら無心です。

 残念ながら、極真空手の競技法、それを見ている空手家は正しい形の意味を理解していません。かくいう私も形も未熟、心も生かし切れていないと考えるからこそ精進を続けます。

 

 最後に繰り返しますが、イメージによって自己を修正していく。その方が相手との関係を前提に自分を変えるよりも有効な場合があると思っています。ゆえに、私は絶えず正しいイメージを探し求めています。そして形(型)を意識しながら自分の型を発見し、それを活かしていく。それが自分の型を創るということであり、不動の自己の本質だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新型コロナウィルス感染拡大抑止中の組手稽古について

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 本道場では、飛沫、接触を控えるために面防具を必ず使うことにします。それに伴いこれまで顔面への突き技無しのTSベーシック方式の組手稽古を基本としてきましたが、顔面突きありのTSアドバンス方式(ヒッティング方式)も積極的に採用して行くことにします。また本道場では顔面突きありのヒッティング方式を初心者が安全に習得できる練習カリキュラム(拓心武道メソッド)を作成しました。ただし稽古方法の講習を受けていない指導員のクラスは、ベーシック方式の実施のみとします。今後、速やかにTS方式アドバンス方式の指導講習を受けてもらい、TSアドバンス方式の稽古ができるようにします。

【組手に上達するには】

 TS方式アドバンス(ヒッティング方式)は、正しい稽古方で稽古すれば、誰もが必ず顔面突きありの組手ができるように考えてあります。しかしながら、TS方式の稽古を軽く考えないようにしてください。「運動神経が発達しやる気があれば顔面突きぐらいすぐにできる」と考えているなら間違っています。

 組手に上達するには、優れた空手技術の習得と体力の向上という視点と認識のみならず、意識の高次化と身体の回路の開拓、感覚(センス)と技能(スキル)向上という視点と認識が必要なのです。その視点と認識を得るには「何をゴールとするか」「どんな技術を身につけるか」「技術をどのように使うか」ということの体系が修練法(稽古法)の中に構造化されていなければならないのです。

【空手武道人の誇りと仲間意識を醸成】

 おそらく拓心武道メソッドを行えば、誰もが顔面ありの組手稽古ができるようになると思います。しかし拓心武道メソッドは、増田が様々なスポーツや格闘技の体験と研究から修練法を編み上げています。あまり簡単に考えてもらうと残念です。私の願いは、TS方式の組手法(ヒッティング)を心ある人達に実践していただき、空手武道人の誇りと仲間意識の醸成にTS方式の組手法(ヒッティング)を役立たせることです。さらに低レベルなことをあえて言います。本道場では「最強の格闘家」を養成しません。また体力、根性を鍛えることを主眼とはしません。

【修行のゴール】

 本道場が大事にするのは、老若男女が仲良く、自己の可能性を開拓していくことです。その成果(ゴール)は明確ですが、先ず持って稽古に対する考え方を正さなければ成果を得ることは困難でしょう。本道場における稽古に対する考え方は、空手技の攻防に於いて、相手に自己の技を正確に用いること。同時に相手の技を正確に防御すること。そのような指標を持ちつつ技術の研鑽と技能の学習を行います。また大仰ですが、究極の目標は心の眼を開くことであり、空手武道修練は修行だと考えています。さらに言えば、修行のゴールは修練者の幸福と長生の実現です。

 

   もう一つ、より良い成果を得るためには自他の協働も必要です。協働には、自他が価値観やゴールを共有しなければなりません。我々は小さく未熟な団体です。だからこそ「仲間を尊重すること」「仲間を自己の成長を促してくれる存在として見ること」また「目先の勝ち負けに拘らず、仲間と楽しく仲良く修練をすること」という価値観とゴールを共有してもらいます。なぜなら、私の夢は仲間を尊重できる団体として、本道場が永続していくことだからです。

 

 最後に、これまでのような明確なゴールを有する研鑽と学習とは言えないような練習をしても、一時的なトレス発散や体力向上にしかなりません(それも悪いことではないでしょうが)。本道場は伝統的な基本と型を継承しながらも、その技の活用法を発展させます。それが組手形の修練です。また組手稽古も伝統的な組手法は残しながらも、武道修練の原点である人間的な成長の核心につながるTS方式の組手法を加えます。ただしTSアドバンス方式の講習をすべての指導員に行えていません。速やかに指導員には講習を受講させ指導できるようにしたいと考えています。併せて有段者の人達は空手武道の原点回帰とも言える組手法と組手形稽古の習得を始めてください。大袈裟ですが、それが空手道の黒帯を締める者の使命です。それが道を求めるということなのです。是非ともデジタル空手武道教本に目を通し、自習するようにしてください。今後、デジタル空手武道教本の内容を充実させていきます。

 

 

組手形(組手型/Kumitekata)について

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 腰の具合が良くないのと左の足首の具合が良くない。自粛中に痛めた足首が治らない。腱を痛めたのか骨を痛めたのか神経なのかを考えると、腓骨か踵骨の結合部分に何らかの傷害があるとしか思えない。いずれにせよ、素人にはわからない。早く、ドクターに見てもらわないといけない。歩くことに障害が出てきている。

 

 自粛中もそうだったが、寸暇を惜しんで教本作りを行っている。残念なのは私の門下生が、その教本を活用しないことだ。これは昇級や昇段のシステムが良くないのが原因である。武道は身体だけでなく、頭も使わないと駄目だ、と言うのが私の考えである。否、最後に残るのは身体ではない。武道人の思想、認識である。それを見識と言っても良いだろう。また精神と言っても良いかもしれない。にも関わらず、思想面での進展があまり見られないのが武道(?)の世界でもある。同時に精神などと言っているのもの見識などいかほどのものか疑わしい。返す刀で武道人の見識などと言う者の(私の事である)見識を疑ってしまう。

 

 兎にも角にも、残された時間が僅かだと言う感覚が強い。1日でも早く、わが道場の門下生が仲良く、誇りを持って空手武道を続けていけるように基盤を作らなければならない。現在の基盤では脆弱である。同時に空手界の基盤(土壌)がもっと良くなったらと思っている。とは言うものの、空手界の人たちも私以上に頑張っているに違いない。それには敬意をもつが、種子が悪いかな…。今回、教本の修練用語辞典のページに載せた一文を掲載したい。

 

 


組手形(組手型/Kumitekata)について

 

 

 

 単独で武術を表演する伝統型と相対で武術を表演する組手形(型)

 極真会館増田道場で行う空手武道の修練法には、単独で武技を表演、かつ稽古する伝統型修練法と相対で武技を表演、かつ稽古する組手形(型)修練法の2つがあります(組手形を単独で行うことも可能です)。

 

 伝統型と組手形、この二つは別のものではありません。単独で行う稽古も相対で行う稽古も他者を想定し、かつ一体となることを目指す点では同じものと言っても過言ではないでしょう。このことは単独で表演する際も相対で表演する際も武技に対する深い理解と体得の深浅が問われることを意味しています。

 

 しかしながら現実は、武技に対する深い理解と体得は、武技を用いる経験とその研鑽がなければ困難です。ゆえに極真会館増田道場では、伝統基本の稽古を伝統継承の根幹とします。ゆえに組手稽古法を見直し、組手形の稽古法によって、伝統型を見直し、かつ伝統技を見直すのです。

 

 ただし極真空手は、伝統的な空手技のみならず、他の格闘技、武術から包摂融合した技を修練体系に含んでいます。おそらく伝統を有すると空手流派においても、同様な他者(外部)からの技を包摂融合する過程があったことは間違いのないところでしょう。ゆえに極真会館増田道場は極真空手を基盤にしながらも、極真空手の特質である、包摂性、開放性を重視しています。ゆえに新しい組手技と組手形の修練体系を組み込んでいます(拓心武道メソッド)。

 

組手形の稽古とは

 さて、ここで極真会館増田道場の組手形は単なる組手稽古の前の攻防の形を学ぶためのものではないということを申し上げておきます。では組手形の稽古とは何か。それは相対で繰り返し技を用いることで、自他の技を受け取り直して、より深い技の理解に到達するためのものと言っても良いでしょう。

 

 先述した技の受け取り直しとは、伝統技の修練においても必要なことです。なぜなら、「技は使い、考えることで、その深きに到達できる」からです。ゆえに、使い方が出鱈目では駄目です。つまり、重要なことは、ただ使うだけではなく、使いながら使い方を考えていく。さらには、その使い方を成立させている根拠や背景までも考えていく。

 

 そのようなことが本当の稽古なのです。さらに私の考えを述べれば、本当の稽古は伝統を解体し、革新にたどり着きます。同時に革新を行いながら伝統にたどり着きます。ゆえに極真会館増田道場では単独表演の伝統型の稽古のみならず、全ての技を相対で用いる稽古体系を有しています。また創設していきます。そして技のより深い理解を目指して行くのです。技の深い理解とは、技を最高に活かすことです。言い換えれば、技を使い、人間をより高いレベルに導く。そして人間に幸福をもたらし、感謝を教えること。それが、極真会館増田道場の創設者である私の思想でもあります。ゆえに、すべからく稽古とは古きを温ねて新しきを知るべし、です。

 

 武道の価値

 極真会館増田道場の組手形の稽古は、極真空手の伝統技や型、また封印された大山倍達師範の空手技の深奥を尋ねるためにも必要な事です。おそらく初心者は、組手稽古を行う準備のための稽古ぐらいに考えているでしょうが、黒帯がそのような認識では駄目です。

 

 私は組手形(型)を残し、伝えることが武道の価値だと言っても過言ではないと考えています。しかしながら、形は決して数が多ければ良いと言うものではありません。また、単なる形を学ぶだけではなく、その技に通底する真の型に到達すること、そこが含まれているかが組手形の真の価値です。

 

 極真会館増田道場では数多くの組手形があります。しかし、数多くの形は、その中から真の型を導き出すための媒体のようなもの、だと言っても良いかもしれません。補足すれば、極真会館増田道場では、数多い組手形を組手形、その中でより原理的な技を含む組手形を組手型と微妙に分けて表記します(まだ組手型は制定していません)。

 

 組手形の稽古により、様々な技を知り、形を見る意識を得る。そこから、次段階で本当のこと(型)が観えるようになると思います。もちろん格闘技術のすべてを知ることは困難だと思います。また、その必要もないでしょう。繰り返しますが、より大事なことは稽古に対する意識です。

 

 武道は個を活かし、自他に幸福と感謝をもたらすもの

 最後に、相手に勝つためには相手の知らない新しい技が有効です。しかし、単に相手に勝つために技の修練を行うことは、決して意識が高いとはいえません。もちろん勝つことを目指すことで思考が活発化するでしょう。また、競技には勝利と言う価値が措定されているから厳しい稽古にも耐えられるのでしょう。それでも、目先の勝利、技術の獲得に傾倒してはなりません。それは、目の曇りとなって、生涯にわたり自己を苦しめるでしょう。武道はそんなものではありません。武道は個を活かし、自他に幸福と感謝をもたらすものなのです。ゆえに本当の武道を知るには長い期間にわたる稽古(実践と思索)が必要です。

 

(増田 章の小論、「組手形について」から)

 

 

武道論  〜作法に見る武道の本質

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 「道」を追求する

 極真会館増田道場の会員道場生に伝えたいことを書いた。共感してもらえなければ何のために書いているのかわからない。いつものことだが、不安と虚しさが追いかけてくる。私はそれから逃げるように先を急ぐ。そしてどんどん孤独になり、一層の不安と虚しさが追いかけてくる。そうなるのは、結果を急ぎ、期待しているからだ。しかし、本当のことは結果など期待してはいけない。また急いでもいけないのだろう。真心で考え、真心で行う。一歩、一歩…。

 人に深い思索を望むのは、そもそも無理なことだ。それは人から言われて行うことではない。なんらかの強制力によって、それをさせるか、なんらかの機縁によって、それは行われる。

 私の思索は増田自身に機縁があって行っていることだ。また、空手武道人のリーダーとしての責任感でもある。繰り返すが、私にとっての武道も人にとっての武道も機縁あってのことなのだ。しかしその多様なこと…。武道の本質に、そんな違いがあるのだろうか。私は、武道に限らず、「道」と言えるものは、考え続けるもの、否、考えること、そのことをいうのだ、と思っている。同時に実践するものなのだ。ただ、仕事、商売になると危うい。時代に流されるということも含めて、不純なものが入りすぎて変質してしまうからだ。ただ、私の直感は、不純物が入るから良くないということではなく、仕事、商売であっても、「道」を追求するものでなければならないということだ。また、それが高いレベルの日本人の生き方なのだと思っている。

 日々、思索とその整理、そして実践、それが私にとっての武道なのかもしれない。焦らず行こう。読んでくれる道場生がいたら感謝だ。もう一つ、これまでの私は、スポーツと武道の二兎をこれまで追いかけてきたように思う。そうしたいが、もう資金も時間もない。ゆえに仕事は一つに絞らなければ、徒労に終わるという直感がある。一から出直すには遅すぎたが、仕方ない。悔いのない人生のために…。

 

 

武道論(試論) 〜作法に見る武道の本質  

 

 

 極真会館増田道場のカリキュラム(修練×修道)には、極真空手の基本(伝統技)に加え、拓心武道メソッドという増田 章の武道哲学をベースにした修練法が組み込まれています。  

本道場で重視するのは極真空手の基本と拓心武道メソッドです。拓心武道メソッドで重視するのは組手形と組手法、そして作法です。そこに増田武道哲学の全てが含まれているのですが、そうは言っても理解は難しいと思います。そこで、拓心武道メソッドの核心を伝えるために作法について述べたいと思います。

 

【現代において】

 現代においては、空手は武道というよりスポーツとして発展しています。その形態は、柔道がそうであるように、日本の武道文化が欧米のスポーツ文化を包摂融合し発展したものです。

 ここでスポーツの良い点を考えてみます。スポーツの効用は、思い切りエネルギーを発散させ、自我を解放させることが可能であること。また、競技の勝利という価値、目標に欲望を集中させることで自我を抑制し、個人の有する潜在能力を開花させていくこと。さらに、それらのことを通じ、自信を得ることができること、などが挙げられます。

 誤解を恐れずに言えば、極真空手が長い間、行ってきた組手競技も、そのような面をもつものです。しかしそれは武道ではありません。それはスポーツそのものです。しかし、もし極真空手のみならず他の空手も質の高いスポーツならば、その発展過程で競技の意味と意義が公共的なものとなり、文化となっていくはずです。

 

【武道とは何か?】 

 ここで武道とは何か?簡単に試論を展開したいと思います。まず、武道の特徴を3つの面に絞り込んで挙げてみます。そうすると、一つ目は、武道には技術的、かつ実用的な面があること。それは武道の原点が武術であるということです。二つ目に文化的(日本)、かつ精神的な面があること。三つ目は、社会的(日本)人間教育の面があることが挙げられます。

 次に比較論的にスポーツの特徴も三つ挙げてみます。スポーツには、勝負的、かつ身体的な遊戯の面があること。それはスポーツの特徴が身体を使ったゲームであることだということです。二つ目に、文化的(欧米)、かつ精神的な面があること。三つ目は、社会的(欧米)人間教育としての面があることが挙げられます。

 

 以上の観点を前提にして単純に見れば、「武道とスポーツは実用的な面で異なる」「文化的、かつ精神的な面で異なる」「人間教育的な観点で異なる(社会が異なる)」と考えられます。しかし、さらに深く掘り下げていけば、武道の技術習得のための修練には、勝負的、かつ身体的な遊戯との親和性があるし、精神性にも文化的な面を構造的にみれば共通項があるかもしれません。また人間教育と言えば、社会形態の違いからくる形が異なるだけで、教育という点では共通するでしょうし。しかし、その辺を本論では、これ以上掘り下げません。

 

 さて、先述したように武道がスポーツ文化を包摂融合し発展したのは、社会がグローバル化する中での必然だった、と私は考えます。また、社会的な人間教育という面で、武道とスポーツは親和性が高かったからです。

 

 その点を踏まえた上で、武道とスポーツにおける、最も異なる点、武道の特異性を一つだけ挙げるとしたら、私は「文化的、かつ精神的な面」を挙げます。多くの人は、技術的、かつ実用的な面だ、というかもしれません。しかしながら、西洋のスポーツの中にはフェンシングやレスリングなど西洋の武術と言えるような、「技術的、実用的な面」を有するスポーツも存在するからです。もちろん、そこには私の知らない特別な理由があるのかもしれません。また人を殺傷する「技術的、かつ実用的な面」を武道の特異性とすることに与する人は多いでしょう。それでも私は、武道とスポーツを区別する最たる部分は、文化的、かつ精神的な面だと考えます。そして、我が国の文化を基礎に進化した「精神性」こそ、武道の特異性であり、日本人が最も大事にするべき事柄だと思います。

 

 昨今、柔道や空手の選手の中に、お辞儀(作法)ができない人が増えています。ただし、柔道に関して言えば、ここ数年の間に、段々と元に戻ってきているように感じます。一方、空手は酷いものです。私は試合における礼法(お辞儀)が丁寧でない人が多いのは、武道がスポーツに飲み込まれた証左だと思っています。そんなことでは、私が近代武道哲学の創設者だと考えている、嘉納治五郎先生が落胆すると思っています。断っておきますが、私が作法というのは礼法(お辞儀)だけではありません。それは、まだ皮相的なことです。その意味は最後まで読んでいただければ、賢明な方なら理解していただけると思います。

 少しだけ脱線を許してもらえば、武道とスポーツの融合は時代の流れ、社会のニーズだったのかもしれません。しかし、私には、背景に文化の侵食、悪く言えば文化による植民地化をももたらしたグローバリズム(私の考え)が観て取れます。もし、私の見方が正しければ、大問題ではないでしょうか。我々の文化が侵食されつつある。本当にそれで良いのでしょうか。その点に関して、多くの人が無頓着です。なぜ、世界トップクラスの文化を有する日本人が自分の文化に無頓着なのでしょうか。それは我が国のリーダー達の見識が低いのでは、と疑わざるを得ません(決してそうではないと信じています)。そのように言うと、私が極端な思想を有する人間だと思う人もいるかもしれません。ここで私が言いたいのは、以上の事柄を理解していない人が武道を唱える人達の中に大勢いるということです。私は、そのような人達は、日本武道の真髄を理解していないと思います。

 

 私は、空手がオリンピック競技になった今こそ、武道の意義を見直し、空手武道の修正を試みたいと考えています(現在、新型コロナウィルスの件でオリンピックの開催が危ぶまれていますが)。その修正の要点が、武道の文化的、かつ精神的な面の復興です。なぜなら、繰り返しになりますが、その面が武道の伝統であり、日本の精神性だからです。そして日本人が世界に誇れる要素だからです。では、「その要素とはなんだ」と言われるに違いありません。その要素を端的に表すのは、「道」という概念です。「道」という概念、思想、価値観が日本人の文化的、かつ精神的な特異性を表しているのです。同時に、その思想的特異性が人間教育に影響を与えているのです。ところが、その精神性がスポーツを取り入れたことによって喪失しかかっています。

 大袈裟に聞こえるかもしれませんが、決して大袈裟ではではないと思います。ゆえに、今こそ日本人として、その面を明確にし、武道人はその面を反映させなければならないと思っています。それが日本の精神を継承することになり、ひいては日本人が世界から一目置かれることにつながると思うのです。ゆえに、我が道場では日本の文化性、精神性につながるものを活かします(神棚は関係ありません)。その一つが「作法」の重視です。

 

 

【作法が武道の本質?】

 私は「作法」が武道の本質だと言っても過言ではない、と私は考えています。例えば、「勝ったときの作法」「負けたときの作法」「戦う時の作法」「稽古を行うときの作法」など、それらの立ち居振る舞いの中にこそ、もっとも日本文化的な精神性が含まれているのです。

 ゆえに、作法、すなわち局面における立ち振る舞いを考え、実践することが。その行為者の心を磨き、人格を高めることにつながると考えます。その道筋が見えるものが武道なのです。その精神性は、我が国において、武士団が勃興し、諸国を治め始めた頃に萌芽があり、その後、徳川が長く全国を統治した時代に精華があった、と私は見ています。

 

 ここで断っておきますが、スポーツにも作法があります。それはマナーと言われるものです。実は作法とは、社会的な作法、かつ文化的なもの(作法)なのです。要するに、私の言いたいことはスポーツが駄目だということではありません。武道には社会的、かつ文化的な作法があり、それが心なのだということ、それを継承することが使命だということです。また、言いたいことの核心は、スポーツであれ、武道であれ、作法を重視しないものは駄目だということなのです。

 私はガッポーズが嫌いです。また負けたときに悔しがることも見苦しいと思います。正直いえば、私も幼い頃、先輩の立ち振る舞いを真似て、あるいは先生に言われて、そのような立ち振る舞いをしたことがないとは言いません。もちろん西洋社会では、それが自然であり、なんら違和感のないものなのでしょう。私も「郷に入っては郷に従え」と言いますので、西洋の社会に入って行くときには、西洋のスタイル(形)を真似することもあります(親愛の気持ちを表すために)。しかし、日本独自の作法と西洋の作法は意味合いが異なるのです。あえて言いますが、こと武術に関しては日本人の作法に含まれる精神性の方が、高いレベルだと考えています。それは西洋の宗教に匹敵するほどだと思います。否、日本武道は武術に宗教性を包摂融合しているのです。それを現代武道家は自覚、説明できない。

 昨今は武道よりも武術の面を強調する人が多くなってきましたが、武術も追求すれば精神性にたどり着くと、私は直感しています。尤も武術の面を追求する人達は、武道の欺瞞、胡散臭さを理解しているのかもしれません。しかし、私は武道が誕生したのは、我が国の精神性の精華だと思っています。ゆえに、その片鱗が、まだ残っているうちに、復興しなければならないというのが、私の立場です。伝統は、一度失うと取り戻すことは非常に困難だと思います。ゆえに日本人は再び、日本武道の深奥を尋ねると同時に、武道の精神が包含されている作法という形(型)を大切にし、かつ他の社会でも自信を持って自分たちの形(型)を示した方が良いと思います。言い換えれば、作法を継承、実践することで、日本の心を伝えて行く。それが、先人から託された、我々の使命だと思います。ただし、そこまで考えた上で、多様な文化的作法を知り、それを受け入れて行くことも、これからの社会には必要かもしれません。

 

【型のない自由社会】

 さて、作法は親が子に家庭において、本来教えるべきものです。それが親の仕事です。しかしながら、物質主義の現代においては、拝金主義者が大手を振り、人間としての崇高さよりも、いかに社会的に強くなるか、また勝利を得るかが至上の価値となり、親が作法を教えること(それは愛を伝えることと同義だと私は考えています。それは動物も自然界で生き延びるための作法を教えているのではないか、と言う考えに繋がって行きます)が等閑になっているように思います。しかし、親がそれを教えるには、所属する社会において、公共的な作法が明確になっていなければならないのです。公共的な作法が日本社会に皆無かと言えば、皆無ではないでしょう。しかし、不明瞭になってきているのでしょう。私は、もう少し、明確に確立されても良いと思っています。そして学校教育システムの中でそのことを教えるべきだと思っています(豊富な資金が投入されているのですから)。

 それができないのは、価値観が多様化し、自由を尊重する社会では、作法を強制することは自由社会と反対の封建社会のやり方だと忌み嫌われ、その確立が困難となっているのでしょう。私も閉鎖的、かつ独善的な封建主義より自由な社会が良いとは思いますが、型を教えられない、否、型のない自由社会が良いとも思いません。少なくとも平和という観点では問題を孕んでいると思います。それは絶対的な強者が支配する社会のあり方だと思います。そんな社会を手本にしてはいけません。絶対に。それはグローバル社会を見れば明らかです。

 

【武人の作法〜学ぶ態度を正していく】

 私は微力ながら社会に貢献したいと考えています。だからこそ、そのような現状をより正確に把握し、その上で私達のできることに注力したいと考えているのです。私と私の道場のできることは、体力に自信のない人や運動の苦手な人、気の優しい人に武道の修練を通じ、身体に対する自信や優しさを活かす勇気を得てもらうことです。そのために私の修練、研鑽してきた空手武道を役立たせたい、と考えています。ゆえに極真会館増田道場では、エネルギーの発散よりも、学ぶ態度を正していくことに重きを置いています。なぜなら、私自身がそうだったように、自分自身の考え方や人生に対する態度を変えることから、成功が始まるからです(成功という言葉は、単純に自分が望む成果を得ること、と捉えてください。あまり好きな言葉ではありません。あまりにも成功しないので、嫌いになってしまったのかもしれません)。つまり、その時その時に学ぶ態度を正さなければ真の上達も精神の高次化(魂の深化)もないと思うのです。

 

 もしかすると、無作法な私が作法を重視すると言って噴飯する人もいるかもしれません。しかしながら、私が気づいた作法の本質、そして形の重要性とは、そのことと対峙することを通じて自己に対峙することに他ありません。また、今ここにおける自己の態度を調整して行くことに他なりません。

 

 私は今、日本社会で育まれた空手武道の継承を、我が使命として、作法(武人の作法)を重視し、武道を育んだ日本人の精神性を伝えて行きたいのです。また、その精神性に到達するための「道」を伝え、空手武道を学ぶ人の幸福を実現し、かつ長生をもたらしたい、と私は考えています。

 

 

 

(以上)

 

 

補足3:加筆修正しました。

補足1:今回は日本人の精神性を一番にあげたが、技術論、教育論から見ても独自性があり、面白いと思っている。それでも全ては精神につながるのだろう。なるべく早いうちに資料を読み込みたい。また、こここでは取り上げていないが、武道と武士道に関してもいずれ考察したい。武士道も偽物が多いと思うが、現代武道ほどではないだろう。また武士道も畢竟、我が国の文化的な精神性の精華だろう。今回の武道論もメモ書き程度のものだ。早く、大塩平八郎のように隠居し、研究に没頭したい。

 

補足2:拙論を読む人が誤解するかもしれないので補足を加えたい。私が精神性というのは、観念的な意味合いで言っているのではない。技術と言っても理論と言っても、その背景には精神性がある。そこを見なければならないということだ。また、私の道場では試合を大いに行いたい。その意義は、勝つ時、負ける時、戦う時の態度を見るためである(指導者ではなく自分自身が)。その時の作法の指導というのは、態度に現れる形、作法という形から心を見つめさせるということである。さらに、そこから普段の稽古の態度を振り返っていく。言い換えれば、試合の際の精神状態、心の在り方を丁寧に観て、自己の心を磨き、練り上げるのだ。

 

以上のように形から、現象から心を観る(想像する)という感覚が古の日本人には強いように思う。また、それが道の精神(私の造語)を誕生させたのではないか。ところが、現代日本と日本人において、その感覚が消滅してきているように見える。私は、その部分を見つめ、かつ復興して行くことが、武道的な人間教育であり、その使命だと思っている。しかし、その部分だけに特化して指導したら、誰も武道を行わなくなるだろう。ゆえに、極端に形に拘る指導を私はしない(逃腰だと批判されるだろう…)。あくまで、少しづつ、個々人に考えさせるような指導にしたいと思っている。私の筆力がないので伝わらないかな。ただ、その部分に武道独自の見識と精神性がないのであれば、日本武道などとは言えないと思っている。

 

 

「道」を追求する

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「道」を追求する

 

機縁によって

 先日、極真会館増田道場の会員道場生に伝えたいことを書いた。私の書くものは、巧みな例え話を用いたものではない。ただストレートに想いを綴ったものである。そのなものを誰が読むか、と言う声が聞こえる。いつものことだが、不安と虚しさが追いかけてくる。私はそれから逃げるように先を急ぐ。そしてどんどん孤独になり、一層の不安と虚しさが追いかけてくる。

 

 そうなるのは、結果を急ぎ、かつ期待しているからだ。しかし、結果を期待し、行動することは卑しい。誰かが、そう言っていたのを覚えている。真心で考え、真心で行うことだ。一歩、一歩…。そんな声が聞こえる。

 

 そもそも、人に深い思索を望むのは無理なことだ。深い思索は、人から言われて行うことではない。なんらかの強制力によるか、機縁によって行われる。ただし、機縁とは「道心」があって自覚されるものだ。

 

 私の思索は、増田自身に機縁があって行っていることだ。同時に空手武道人のリーダーとしての責任感の自覚によるものだ。繰り返すようだが、人にとっての武道も機縁あってのことなのだろう。しかし、その深浅、その多様なこと言ったら…。

 

 武道の違いは、その本質によるものなのか、もう少し考え続けてみたい。それはさておき、武道に限らず、「道」と言えるものは考え続けらたもの、否、考え続けさせるもののことをいうのだ、と思う。また、「道」というものは、実践知であり、実践と思索の相互作用の結果、辿り着くものなのだろう。

 

柔道の嘉納治五郎師範は

 私は、先達の経験と思索によって編まれた体系を伴う思想・哲学、それが「道」を顕すものだと考えている。私には、そこに結晶(型)が見える。そして、先達の道を辿る者の作法として、先達同様に経験と思索を行うことが基本だと思っている。近代武道の創設者である、柔道の嘉納治五郎師範は柔道の修練体系の柱として、形、乱取り、講義をあげた。嘉納治五郎師範は、講義、すなわち思索(反省と究理)の重要性を明確に自覚し、柔道の中に組み込んだのだと思う。しかし、多くの柔道家はそれを行わない(一部の先生方を除く)。空手に関していえば、そのような自覚すらない。

 嘉納師範があげた講義、すなわち思索をせず、ただ先達の遺したものを神棚にあげておくのは武道ではない、と私は考えている。私が「道」と考えるのは、道の先達が結晶にたどり着いたように、体験と思索を繰り返すことで、各々の結晶に辿り着くことでもあるのだ。言い換えれば、「道」とは、その人の本当を照らす光のようなものでもある。

 

高いレベルの日本人の生き方

 道心のない、仕事、商売、人生は危うい。本質を忘れること、また不純なものが入りすぎて変質してしまうからだ。一方、優れた仕事、商売、素晴らしい人生には「道」がある。だが、武道はどうだろうか。道をつけながら、「道心」がないものがほとんどだ。たとえ、似たようなことを言っていても、観る人が見れば、噴飯ものだろう。古の日本人が言う道徳も、道心によるものなのだ。しかし、日本人の道徳が外からの不純物によって変質してきているどころか、喪失しつつある。そのことは、日本人が歴史的な機縁と道心により形成しきた「道」を喪失しつつあることを意味している。

 繰り返すが、良い仕事、商売には「道」がある。また、そこに「道」を内在し、「道徳」の見えるものが、高いレベルの日本人の生き方なのだと思っている。だが、道徳を教え過ぎれば、本質から遠ざかる、とも私は考えている。その意味は、道徳を教条として教えるこに欺瞞が見えるということだ。道徳は個々人の道心の結晶でなければならない。つまり、「道」の顕現が道徳なのだ。とは言うものの、そのようなものがある、と教えなければ理解できるものではないだろう。

 先日、武道と作法についての考察を行った。言いたかったことは、作法が本質というより、作法を含め技術に内在する心(意味と意味の生成システム)を観るということ、そのような思索が「道」に到達する、唯一の手段だということだ。意味の生成システムなどと難しいことを書いて申し訳ないが、簡単にいえば「文化」ということだ。意味の生成システムとは、私の造語、そして文化に対する定義だ。

 

私にとっての武道の追求

 繰り返すが、私にとっての武道の追求とは、機縁があってのものだ。私には悩み、足掻いた青春、そして人生がある。その時のことを忘れたことはない。実は、今もその真っ只中なのだろう(実はそれが真に生きると言うことだと思う)。日々、思索とその整理、そして実践である。正直、武道論も読んでくれる道場生がいたら感謝だ。多分、誰も読まないことはわかっている。武道に対する自覚があまりにも異なるからだ。

 最後に、「道」という概念を簡単に定義しておく。私が用いた「道」という概念は、物事の理法であり、かつ理法を志向して編み上げられた伝統のことでもある(伝統も定義しなければならないかな)。

 これまでの私は、スポーツと武道の二兎をこれまで追いかけてきたように思う。だが、もう資金も時間もない。ゆえに仕事を一つに絞らなければ、これまでの経験と努力が徒労に終わるという思いがある。とは言うものの、一から出直すには遅すぎる。ゆえに基本を変えずに方向性の微調整をしている。

 

 

 

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