「道」を追求する
極真会館増田道場の会員道場生に伝えたいことを書いた。共感してもらえなければ何のために書いているのかわからない。いつものことだが、不安と虚しさが追いかけてくる。私はそれから逃げるように先を急ぐ。そしてどんどん孤独になり、一層の不安と虚しさが追いかけてくる。そうなるのは、結果を急ぎ、期待しているからだ。しかし、本当のことは結果など期待してはいけない。また急いでもいけないのだろう。真心で考え、真心で行う。一歩、一歩…。
人に深い思索を望むのは、そもそも無理なことだ。それは人から言われて行うことではない。なんらかの強制力によって、それをさせるか、なんらかの機縁によって、それは行われる。
私の思索は増田自身に機縁があって行っていることだ。また、空手武道人のリーダーとしての責任感でもある。繰り返すが、私にとっての武道も人にとっての武道も機縁あってのことなのだ。しかしその多様なこと…。武道の本質に、そんな違いがあるのだろうか。私は、武道に限らず、「道」と言えるものは、考え続けるもの、否、考えること、そのことをいうのだ、と思っている。同時に実践するものなのだ。ただ、仕事、商売になると危うい。時代に流されるということも含めて、不純なものが入りすぎて変質してしまうからだ。ただ、私の直感は、不純物が入るから良くないということではなく、仕事、商売であっても、「道」を追求するものでなければならないということだ。また、それが高いレベルの日本人の生き方なのだと思っている。
日々、思索とその整理、そして実践、それが私にとっての武道なのかもしれない。焦らず行こう。読んでくれる道場生がいたら感謝だ。もう一つ、これまでの私は、スポーツと武道の二兎をこれまで追いかけてきたように思う。そうしたいが、もう資金も時間もない。ゆえに仕事は一つに絞らなければ、徒労に終わるという直感がある。一から出直すには遅すぎたが、仕方ない。悔いのない人生のために…。
武道論(試論) 〜作法に見る武道の本質
極真会館増田道場のカリキュラム(修練×修道)には、極真空手の基本(伝統技)に加え、拓心武道メソッドという増田 章の武道哲学をベースにした修練法が組み込まれています。
本道場で重視するのは極真空手の基本と拓心武道メソッドです。拓心武道メソッドで重視するのは組手形と組手法、そして作法です。そこに増田武道哲学の全てが含まれているのですが、そうは言っても理解は難しいと思います。そこで、拓心武道メソッドの核心を伝えるために作法について述べたいと思います。
【現代において】
現代においては、空手は武道というよりスポーツとして発展しています。その形態は、柔道がそうであるように、日本の武道文化が欧米のスポーツ文化を包摂融合し発展したものです。
ここでスポーツの良い点を考えてみます。スポーツの効用は、思い切りエネルギーを発散させ、自我を解放させることが可能であること。また、競技の勝利という価値、目標に欲望を集中させることで自我を抑制し、個人の有する潜在能力を開花させていくこと。さらに、それらのことを通じ、自信を得ることができること、などが挙げられます。
誤解を恐れずに言えば、極真空手が長い間、行ってきた組手競技も、そのような面をもつものです。しかしそれは武道ではありません。それはスポーツそのものです。しかし、もし極真空手のみならず他の空手も質の高いスポーツならば、その発展過程で競技の意味と意義が公共的なものとなり、文化となっていくはずです。
【武道とは何か?】
ここで武道とは何か?簡単に試論を展開したいと思います。まず、武道の特徴を3つの面に絞り込んで挙げてみます。そうすると、一つ目は、武道には技術的、かつ実用的な面があること。それは武道の原点が武術であるということです。二つ目に文化的(日本)、かつ精神的な面があること。三つ目は、社会的(日本)人間教育の面があることが挙げられます。
次に比較論的にスポーツの特徴も三つ挙げてみます。スポーツには、勝負的、かつ身体的な遊戯の面があること。それはスポーツの特徴が身体を使ったゲームであることだということです。二つ目に、文化的(欧米)、かつ精神的な面があること。三つ目は、社会的(欧米)人間教育としての面があることが挙げられます。
以上の観点を前提にして単純に見れば、「武道とスポーツは実用的な面で異なる」「文化的、かつ精神的な面で異なる」「人間教育的な観点で異なる(社会が異なる)」と考えられます。しかし、さらに深く掘り下げていけば、武道の技術習得のための修練には、勝負的、かつ身体的な遊戯との親和性があるし、精神性にも文化的な面を構造的にみれば共通項があるかもしれません。また人間教育と言えば、社会形態の違いからくる形が異なるだけで、教育という点では共通するでしょうし。しかし、その辺を本論では、これ以上掘り下げません。
さて、先述したように武道がスポーツ文化を包摂融合し発展したのは、社会がグローバル化する中での必然だった、と私は考えます。また、社会的な人間教育という面で、武道とスポーツは親和性が高かったからです。
その点を踏まえた上で、武道とスポーツにおける、最も異なる点、武道の特異性を一つだけ挙げるとしたら、私は「文化的、かつ精神的な面」を挙げます。多くの人は、技術的、かつ実用的な面だ、というかもしれません。しかしながら、西洋のスポーツの中にはフェンシングやレスリングなど西洋の武術と言えるような、「技術的、実用的な面」を有するスポーツも存在するからです。もちろん、そこには私の知らない特別な理由があるのかもしれません。また人を殺傷する「技術的、かつ実用的な面」を武道の特異性とすることに与する人は多いでしょう。それでも私は、武道とスポーツを区別する最たる部分は、文化的、かつ精神的な面だと考えます。そして、我が国の文化を基礎に進化した「精神性」こそ、武道の特異性であり、日本人が最も大事にするべき事柄だと思います。
昨今、柔道や空手の選手の中に、お辞儀(作法)ができない人が増えています。ただし、柔道に関して言えば、ここ数年の間に、段々と元に戻ってきているように感じます。一方、空手は酷いものです。私は試合における礼法(お辞儀)が丁寧でない人が多いのは、武道がスポーツに飲み込まれた証左だと思っています。そんなことでは、私が近代武道哲学の創設者だと考えている、嘉納治五郎先生が落胆すると思っています。断っておきますが、私が作法というのは礼法(お辞儀)だけではありません。それは、まだ皮相的なことです。その意味は最後まで読んでいただければ、賢明な方なら理解していただけると思います。
少しだけ脱線を許してもらえば、武道とスポーツの融合は時代の流れ、社会のニーズだったのかもしれません。しかし、私には、背景に文化の侵食、悪く言えば文化による植民地化をももたらしたグローバリズム(私の考え)が観て取れます。もし、私の見方が正しければ、大問題ではないでしょうか。我々の文化が侵食されつつある。本当にそれで良いのでしょうか。その点に関して、多くの人が無頓着です。なぜ、世界トップクラスの文化を有する日本人が自分の文化に無頓着なのでしょうか。それは我が国のリーダー達の見識が低いのでは、と疑わざるを得ません(決してそうではないと信じています)。そのように言うと、私が極端な思想を有する人間だと思う人もいるかもしれません。ここで私が言いたいのは、以上の事柄を理解していない人が武道を唱える人達の中に大勢いるということです。私は、そのような人達は、日本武道の真髄を理解していないと思います。
私は、空手がオリンピック競技になった今こそ、武道の意義を見直し、空手武道の修正を試みたいと考えています(現在、新型コロナウィルスの件でオリンピックの開催が危ぶまれていますが)。その修正の要点が、武道の文化的、かつ精神的な面の復興です。なぜなら、繰り返しになりますが、その面が武道の伝統であり、日本の精神性だからです。そして日本人が世界に誇れる要素だからです。では、「その要素とはなんだ」と言われるに違いありません。その要素を端的に表すのは、「道」という概念です。「道」という概念、思想、価値観が日本人の文化的、かつ精神的な特異性を表しているのです。同時に、その思想的特異性が人間教育に影響を与えているのです。ところが、その精神性がスポーツを取り入れたことによって喪失しかかっています。
大袈裟に聞こえるかもしれませんが、決して大袈裟ではではないと思います。ゆえに、今こそ日本人として、その面を明確にし、武道人はその面を反映させなければならないと思っています。それが日本の精神を継承することになり、ひいては日本人が世界から一目置かれることにつながると思うのです。ゆえに、我が道場では日本の文化性、精神性につながるものを活かします(神棚は関係ありません)。その一つが「作法」の重視です。
【作法が武道の本質?】
私は「作法」が武道の本質だと言っても過言ではない、と私は考えています。例えば、「勝ったときの作法」「負けたときの作法」「戦う時の作法」「稽古を行うときの作法」など、それらの立ち居振る舞いの中にこそ、もっとも日本文化的な精神性が含まれているのです。
ゆえに、作法、すなわち局面における立ち振る舞いを考え、実践することが。その行為者の心を磨き、人格を高めることにつながると考えます。その道筋が見えるものが武道なのです。その精神性は、我が国において、武士団が勃興し、諸国を治め始めた頃に萌芽があり、その後、徳川が長く全国を統治した時代に精華があった、と私は見ています。
ここで断っておきますが、スポーツにも作法があります。それはマナーと言われるものです。実は作法とは、社会的な作法、かつ文化的なもの(作法)なのです。要するに、私の言いたいことはスポーツが駄目だということではありません。武道には社会的、かつ文化的な作法があり、それが心なのだということ、それを継承することが使命だということです。また、言いたいことの核心は、スポーツであれ、武道であれ、作法を重視しないものは駄目だということなのです。
私はガッポーズが嫌いです。また負けたときに悔しがることも見苦しいと思います。正直いえば、私も幼い頃、先輩の立ち振る舞いを真似て、あるいは先生に言われて、そのような立ち振る舞いをしたことがないとは言いません。もちろん西洋社会では、それが自然であり、なんら違和感のないものなのでしょう。私も「郷に入っては郷に従え」と言いますので、西洋の社会に入って行くときには、西洋のスタイル(形)を真似することもあります(親愛の気持ちを表すために)。しかし、日本独自の作法と西洋の作法は意味合いが異なるのです。あえて言いますが、こと武術に関しては日本人の作法に含まれる精神性の方が、高いレベルだと考えています。それは西洋の宗教に匹敵するほどだと思います。否、日本武道は武術に宗教性を包摂融合しているのです。それを現代武道家は自覚、説明できない。
昨今は武道よりも武術の面を強調する人が多くなってきましたが、武術も追求すれば精神性にたどり着くと、私は直感しています。尤も武術の面を追求する人達は、武道の欺瞞、胡散臭さを理解しているのかもしれません。しかし、私は武道が誕生したのは、我が国の精神性の精華だと思っています。ゆえに、その片鱗が、まだ残っているうちに、復興しなければならないというのが、私の立場です。伝統は、一度失うと取り戻すことは非常に困難だと思います。ゆえに日本人は再び、日本武道の深奥を尋ねると同時に、武道の精神が包含されている作法という形(型)を大切にし、かつ他の社会でも自信を持って自分たちの形(型)を示した方が良いと思います。言い換えれば、作法を継承、実践することで、日本の心を伝えて行く。それが、先人から託された、我々の使命だと思います。ただし、そこまで考えた上で、多様な文化的作法を知り、それを受け入れて行くことも、これからの社会には必要かもしれません。
【型のない自由社会】
さて、作法は親が子に家庭において、本来教えるべきものです。それが親の仕事です。しかしながら、物質主義の現代においては、拝金主義者が大手を振り、人間としての崇高さよりも、いかに社会的に強くなるか、また勝利を得るかが至上の価値となり、親が作法を教えること(それは愛を伝えることと同義だと私は考えています。それは動物も自然界で生き延びるための作法を教えているのではないか、と言う考えに繋がって行きます)が等閑になっているように思います。しかし、親がそれを教えるには、所属する社会において、公共的な作法が明確になっていなければならないのです。公共的な作法が日本社会に皆無かと言えば、皆無ではないでしょう。しかし、不明瞭になってきているのでしょう。私は、もう少し、明確に確立されても良いと思っています。そして学校教育システムの中でそのことを教えるべきだと思っています(豊富な資金が投入されているのですから)。
それができないのは、価値観が多様化し、自由を尊重する社会では、作法を強制することは自由社会と反対の封建社会のやり方だと忌み嫌われ、その確立が困難となっているのでしょう。私も閉鎖的、かつ独善的な封建主義より自由な社会が良いとは思いますが、型を教えられない、否、型のない自由社会が良いとも思いません。少なくとも平和という観点では問題を孕んでいると思います。それは絶対的な強者が支配する社会のあり方だと思います。そんな社会を手本にしてはいけません。絶対に。それはグローバル社会を見れば明らかです。
【武人の作法〜学ぶ態度を正していく】
私は微力ながら社会に貢献したいと考えています。だからこそ、そのような現状をより正確に把握し、その上で私達のできることに注力したいと考えているのです。私と私の道場のできることは、体力に自信のない人や運動の苦手な人、気の優しい人に武道の修練を通じ、身体に対する自信や優しさを活かす勇気を得てもらうことです。そのために私の修練、研鑽してきた空手武道を役立たせたい、と考えています。ゆえに極真会館増田道場では、エネルギーの発散よりも、学ぶ態度を正していくことに重きを置いています。なぜなら、私自身がそうだったように、自分自身の考え方や人生に対する態度を変えることから、成功が始まるからです(成功という言葉は、単純に自分が望む成果を得ること、と捉えてください。あまり好きな言葉ではありません。あまりにも成功しないので、嫌いになってしまったのかもしれません)。つまり、その時その時に学ぶ態度を正さなければ真の上達も精神の高次化(魂の深化)もないと思うのです。
もしかすると、無作法な私が作法を重視すると言って噴飯する人もいるかもしれません。しかしながら、私が気づいた作法の本質、そして形の重要性とは、そのことと対峙することを通じて自己に対峙することに他ありません。また、今ここにおける自己の態度を調整して行くことに他なりません。
私は今、日本社会で育まれた空手武道の継承を、我が使命として、作法(武人の作法)を重視し、武道を育んだ日本人の精神性を伝えて行きたいのです。また、その精神性に到達するための「道」を伝え、空手武道を学ぶ人の幸福を実現し、かつ長生をもたらしたい、と私は考えています。
(以上)
補足3:加筆修正しました。
補足1:今回は日本人の精神性を一番にあげたが、技術論、教育論から見ても独自性があり、面白いと思っている。それでも全ては精神につながるのだろう。なるべく早いうちに資料を読み込みたい。また、こここでは取り上げていないが、武道と武士道に関してもいずれ考察したい。武士道も偽物が多いと思うが、現代武道ほどではないだろう。また武士道も畢竟、我が国の文化的な精神性の精華だろう。今回の武道論もメモ書き程度のものだ。早く、大塩平八郎のように隠居し、研究に没頭したい。
補足2:拙論を読む人が誤解するかもしれないので補足を加えたい。私が精神性というのは、観念的な意味合いで言っているのではない。技術と言っても理論と言っても、その背景には精神性がある。そこを見なければならないということだ。また、私の道場では試合を大いに行いたい。その意義は、勝つ時、負ける時、戦う時の態度を見るためである(指導者ではなく自分自身が)。その時の作法の指導というのは、態度に現れる形、作法という形から心を見つめさせるということである。さらに、そこから普段の稽古の態度を振り返っていく。言い換えれば、試合の際の精神状態、心の在り方を丁寧に観て、自己の心を磨き、練り上げるのだ。
以上のように形から、現象から心を観る(想像する)という感覚が古の日本人には強いように思う。また、それが道の精神(私の造語)を誕生させたのではないか。ところが、現代日本と日本人において、その感覚が消滅してきているように見える。私は、その部分を見つめ、かつ復興して行くことが、武道的な人間教育であり、その使命だと思っている。しかし、その部分だけに特化して指導したら、誰も武道を行わなくなるだろう。ゆえに、極端に形に拘る指導を私はしない(逃腰だと批判されるだろう…)。あくまで、少しづつ、個々人に考えさせるような指導にしたいと思っている。私の筆力がないので伝わらないかな。ただ、その部分に武道独自の見識と精神性がないのであれば、日本武道などとは言えないと思っている。