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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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傘がない

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【TS方式の試合】

 さて、昨日、1年がかりで構想したTS方式の試合が行われた。私の道場の師範代の秋吉を始め、黒帯有志が審判、試合参加と私の夢に協力してくれた。結果を正直にいえば、審判は70点、選手は55点である。合わせて割ると62.5点である。この点数が80点以上になれば、人前に出しても理解され、受け入れられるものになると予想している。だが、今回の62.5点は合格点だ、とも思っている。あとは、自分の40年以上の経験と研究の力を信じ、もう少し我慢するだけだと考えている。また、ここまで持って行くのに大変な苦労があった。師範代の秋吉の理解、そして黒帯有志の理解と協力があればこそ、と感謝している。

 あえていうが、TS方式は、私の武道哲学、そして、極真空手家増田章の全人格、そして魂がやらせていることだ、と言っても言い過ぎではない。また、完全ポイント制のTS方式は半端なダメージ制の極真方式を補完するものとなる。否、TS方式、すなわち増田空手メソッドを取り入れる、または真似しなければ、極真空手のレベルは上がらないと思う(そう言うと、ある者は攻撃し、またある者は耳を塞ぎ、また見て見ぬ振りをするだろうな)。

 断っておくが、増田式空手メソッドは、抽象的なものではない。現実的かつ合理的な訓練システムのことである。「僕もそれを意識していますよ」とかいう人間は、まだ、わかっていない。

 私の考えでは、人間を変えるには、その手段をシステム(文化)に落とさなければならないのだ。ゆえにシステム化できていないものは、メソッドではない。

 換言すれば、TS方式、すなわちヒッティングは、訓練システムであり、新しいスポーツなのだ。さらに言えば、人間を変えるには「スポーツ=ゲーム=システム=文化」というところまで落とし込まなければならない、と私は考えている。だが、流行にのって空手を行なってい人たちは、それを理解するまで至っていないだろう。私は今、絶対の自信があるとは言えないが、増田空手メソッドと優秀な若い黒帯を数人でも産み落とせれば、いつか必ず夢は具現化されると信じている。その時、この世に私はいないかもしれないが…。

【私は猫が好き】

 昨晩は予定の開催時間が長引き、選手、関係者、保護者ともに疲労困憊の帰宅だったことだろう。私も1週間ぐらい、競技規程の修正とイベントが上手くいくかとの不安感で、よく眠れない日が続いていた。だが、TS方式のみならず、極真方式で試合した選手たちにも良い試合があった。増田式空手メソッドを基盤に体力をつけ、極真方式を行うならば、極真方式も見違えるものとなる。正直言えば、胸をなでおろしながら帰宅した。すると、1匹の猫が家にいた。まだ赤ちゃんである。娘が猫の「里親探し」のボランティア活動から、赤ちゃん猫を貰い受けてきたのだ。それらの猫は引き取り手が見つからなければ殺処分されるらしい。

 実は昔、私は20年もの間、猫を飼っていたことがある。義理の妹は大きなシベリアンハスキー犬を飼っていた。私は犬も好きだ。だが、特に私は猫が好きである。特に性質が似ているなと感じるからだ。散歩にも連れて行かなくても良いところも良い。

 

【猫はとても臆病】

 イベントから一夜明け、メールを確認すると師範代の秋吉から写真と試合に関するフィードバックがあった。前向きなフィードバックだったので嬉しかった。イベントに関して、自分の至らなさに神経をすり減らしていたからだ。本来なら、私は人前に出たくない。人前で神経をすり減らしている姿を見せれば、秋吉の足を引っ張ると思うからだ。私は嘘がつけない。

 朝、新しく加わった家族の子猫のことが気になって見にいくと、まだ檻のすみで私のことを警戒している。独りでは生きていけない子猫は、母親猫や兄弟猫から引き離され、不安感があるに違いない。猫はとても臆病だ。私の妹もそうであった。人見知りが激しく手を焼いた。だが、歳を重ね、様々な人間の姿を見てくると、その姿が今、とても愛しい。小さい頃、親や家族から引き離される不安感。それは動物も人間の同じであろう。私にはそんな経験がない。しかし、そのような経験がある人間のことを思うと、胸に込み上げるものがあった。私にはまだ知らないことがたくさんある。また、恵まれていると。私には親がいた。また兄弟がいた。友達もいた。柔道や空手もあった。そんな中、井上陽水の「傘がない」という楽曲を思い出した。ここで少し井上陽水について書いて見たい。

【傘がない】

(省略)

 

行かなくちゃ君に会いに行かにゃくちゃ

君の家に行かなくちゃ雨に濡れ

冷たい雨が僕の目の中にふる

 

(省略)

 

行かなくちゃ君に会いに行かなくちゃ

雨に濡れて行かなくちゃ傘がない

 

 

(井上陽水〜傘がない、より)

 

 私の好きな楽曲、井上陽水の「傘がない」のフレーズからの抜粋である。私が初めて井上陽水の楽曲を聞いたのは中学生の頃、「氷の世界」だったと思う。その後、「人生が二度あれば」という楽曲を聞いた時、私は衝撃を受けた。その後は、熱烈なと言うものではないが、井上陽水のファンである。井上陽水の楽曲と歌声には、いつも心惹かれている。その中でも「傘がない」が、私のお気に入りである。

 ある時、偶然テレビをつけたら、井上陽水が自分の楽曲について語っていた。陽水は「傘がない」という楽曲について、自身が年を重ねて歌って見ると、様々な意味があるな、と感じるようになった、と語っていたと記憶する(自信がない)。おそらく、意味不明だとは思うが、増田流にさらに言えば、陽水は「傘がない」をそんな難しい意味を考え作ったわけではないようだった。けれど、ファンが感じる、様々な思いや解釈を知り、また、自分も年を重ね、自分の楽曲と向き合いながら、気づくことがあると言うことだった。テレビで見た井上陽水は、あまり理屈っぽいことを語ることが好きではなかった。自分の楽曲について語る番組だったようだが、控えめに、かつ照れ臭そうに自分の楽曲について語っていた。それが良いところだと思った。ここで僭越ながら、増田流の評論を試みれば、以下のようになる。

【評論〜「傘がない」増田哲学より】 

 この楽曲は、人は傘を欲するものだ。たが、傘がないと今、感じている人たちがいることだろう。だけど、僕は傘なんてどうでも良い。そんなことよりも、今、誰かがそばにいる事、そばにいてあげるということが大切だろ(いいことだろ)、と陽水は歌っているのだと思う。

 さらに言えば、今、雨に濡れながらも、やがて傍にいる人同士が傘を作っていく。そんなことも陽水の意味世界には含意されていたのではないだろうか。

 誤解を覚悟で言えば、この楽曲は在日として生まれた、井上陽水の体験と自己認識によるものではないだろうか。しかし、その体験による身体知には普遍性がある。つまり、そこには「人間の実存とは相対的でありながら”独り(個々の実存と尊厳)”のもの(絶対的なもの)」という矛盾的統一感の内在が見て取れる。

 そのような井上陽水の意味世界を独特のメロディーラインに載せて、この楽曲は表現されている。その全てが、井上陽水の身体知、言い換えれば、独自のセンス( 増田で言うところのSense/智・身体知)により「傘はない」は産み落とされたものなのだと思う

 

(ごめんなさい。井上陽水ファンに怒られるかもしれない。この評論はイベントを終え、久しぶりに熟睡でき、一息ついている増田章の妄想遊びである。解釈は個人的な解釈で間違っているだろう。だが、是非一度、インターネットで「傘がない」を聞きながら、私の評論を読んでほしい)

【大きな傘を作りたい〜「ナナ」と共に】

 話を猫の話に戻せば、我が娘には、いつも子猫のことを思い、そのそばにいなければならないという、責任を感じて欲しい。そのことによって、自分自身の存在が肯定され、自尊心を持てるようになる。そして、より大きな傘のような存在に感謝を感じるようになるだろう。

 私の夢は、増田空手メソッドを生かして極真空手を再生し、大きな傘を作ることだ。否、極真空手を大きな傘にしたいと思っている。そして空手を続ければ、いつも傍に仲間が入るよ、親がいるよ、と伝えたい。また、その夢を信じることで私の魂が救われるだろう。これからは猫の「ナナ」と共に暮らしながら、夢を信じて生きて行きたい。

 

 最後に、ちなみに猫の命名者は私だ。いつも家族全員からダメ出しばかりをもらう私だが、今回は家族から褒められた。

 

2019/6/24:夜に加筆修正しました。

 

 

 

 

 


評論〜「傘がない」増田哲学より

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 昨日、日誌の中で取り上げた「傘がない」という楽曲の評論を加筆修正した。私の妄想であるし、陽水ファンからはお叱りを受けるかもしれないが、私がこの楽曲と陽水が好きなことだけはわかってほしい。また、増田哲学と書いているが、私は一人ひとりが哲学を持つべきだと思っている。哲学は難しいものではない。自分について考えること。そのぐらいのことである。確かに深浅はあるかもしれない。もちろん、ただ考えればよいということでもない。しかし、私は将来、世界中の人たちが、哲学という枠組みを共有し、様々な事柄を議論し合うようになったら良いと思う。断っておくが議論というのは悪いことではない。勝ち負けがあるわけでもない。それも遊びなのだ。意味不明かな…。

 

【評論〜「傘がない」増田哲学より】 

 この楽曲は、雨の中、人は傘を欲することだろう。だが、傘がないと今感じている人たちがいる。だけど、僕には傘なんてどうでも良い。そんなことよりも、今、誰かがそばにいる事、そばにいてあげるということが大切だ(いいことだろ)、と陽水は歌っているのだ、と思っている。

 さらに言えば、今、雨に濡れながらも、やがて傍にいる人同士が傘を作っていく。そんなことも陽水の意味世界には含意されていたのではないだろうか。

 誤解を覚悟で言えば、この楽曲は在日として生まれた、井上陽水の体験と自己認識によるものではないだろうか。しかし、その体験による身体知には普遍性がある。つまり、そこには「人間の実存とは相対的でありながら”独り(個々の実存と尊厳)”のもの(絶対的なもの)」という矛盾的統一感の内在が見て取れる。

 そのような井上陽水の意味世界を独特のメロディーラインに載せて、この楽曲は表現されている。その全てが、井上陽水の身体知、言い換えれば、独自のセンス( 増田で言うところのSense/智・身体知)により「傘はない」は産み落とされたものなのだと思う。

 

(ごめんなさい。井上陽水ファンに怒られるかもしれない。この評論はイベントを終え、久しぶりに熟睡でき、一息ついている増田章の妄想遊びである。解釈は個人的な解釈で間違っているだろう。だが、是非一度、インターネットで「傘がない」を聞きながら、私の評論を読んでほしい)

 

 

追記

 

井上陽水の「傘がない」を聞いて喚起するものがあった。少し前に書いた拙歌を掲載しておく。この形式は五行歌というもの。口語体、五行で詠う詩型と言っても良い。これを短歌というと、既存の短歌と競合してしまうので、私はそのように説明したい(先生に怒られるかな、間違っていたら直します)。なお、私は五行歌の会の主宰者、草壁熖太先生の門下生である。

 

 

 

 

私が私を自覚する限り

寂しさは無くならない

その寂しさを

かき消そうと

私は詩を詠う

 

詩を

詠うとは

私への慰めか

それとも

私への祈りか

 

一つ

言えることは

詩を詠うことで

私は私を

抱くことができる

 

 

心一

 

デジタル空手武道通信 第31号  編集後記 2019/6

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デジタル空手武道通信 第31号  編集後記 2019/6

 

 交流試合が終わり、ホッとしている。なぜなら、この交流試合では私が考案した拓心武道メソッド(増田式空手メソッド)の柱である組手法の実験でもあったからだ。

 組手法の正式名称は「TS方式空手武道競技規程」である。だが、競技の通称を「ヒッティング」としている。競技というのは、組手法イコール競技法と考えてもらって良い。その競技は、極真会館が50年以上行ってきた組手法を補完する組手法といっても良い。

 私が見るに、極真空手は発展した部分もあると思うが、大まか、かつ乱暴に言えば、退歩している。言い換えれば、武道空手を標榜する大山倍達先生の理想からは、どんどん乖離して言っている。その辺について、あまり大まかな表現をすると、誤解を招くのは分かっている。だが、私と極真会館の松井館長との対談や、現在、論文をしたためているのでそれを読んでいただければ理解できると思う。ただし、論文は修正中で、まだ発表はしていない。もう少し時間をいただきたい。

 私の提唱するTS方式も、道場生に対し伝えてから半年も立っていない。実際は1年ほど前から伝えているのだが、空手のことをあまり知らない道場生にとっては、理解が進まなかった。補足すれば、現在、巷に溢れている、極真空手の真似をした空手競技の技や試合のみを見ていれば、そうなるのも無理はない。

 

【我が極真空手を眺めたならば】

 これまで45年以上、私は極真空手、伝統空手、防具空手、キックボクシング、ボクシング、柔道、レスリングなどを体験するだけではなく、研究してきている。その情報量から判断するのと同じにはならないのは当然かもしれない。

 しかし、他のメジャーな格闘技、スポーツを見て欲しい。一流、超一流には技術の正確性、タイミング(機)や間を制するスキル(技能)の芸術性(制心、制位、制機の3制一致の制勝の理法の顕現)、そして、それらの明証性があるではないか(少なくとも増田はそう確信する)。我が空手には、それがないに等しい。それはプロトコルとコードがなっていないのだ。言い換えれば、規程と技術・戦術体系がないに等しい。ボールゲームで例えれば、ボールは1個しかないから、ゲームが成立する。攻防が生まれる。そして、技術と技能が生まれるのだ。空手は、ボールが2つあるゲームの様だ。だから攻撃しかなくなる。攻防ではなく、攻攻だ。テニスで言えば、互いがサーブだけ行っている。サッカーで言えば、互いが2つのボールを持って、別々にゴールを狙っているかの様だ。こんな競技法では、戦術した様な芸術的な技能(スキル)が生まれるわけがない。まずもって、大山倍達先生の創設した直接打撃制を行うものは、技の正確性を基本として欲しい。そのことは技術修行の基本であると同時に、修行の心構えなのだ。それを覚悟している者だけに、武術の試しあいをさせたい。それがIBMA極真会館の思想であり、方向性だ。我が道場生には、もっと深く物事を考えてもらいたい。私にとっては武道もスポーツも遊びではない。否、真の遊びとは、自己と生かす道であり理法を知る叡智なのだ(できれば、あの世でホイジンガや大西鉄之助先生と意見交換をしたい)。それは武道の到達する境地と同じだ。断言する。

 みんな、もっと広く情報を集め考えようよ。と言いたい。もちろん、私は先述した格闘技のみならず、サッカー、テニスなど、他のスポーツの構造、そして歴史も研究している。

 その様な見地から我が極真空手を眺めたならば、残念ながら、武道、スポーツ、興行、教育、あらゆる観点から眺めても、中途半端である。ただし、それは改善すればよくなるという可能性を否定するものではない。むしろ、再構築すれば、十分な発展の可能性とポテンシャルを有すると考えている。

 今回の交流試合は、よく見て、審判70点、選手55点、合わせて割ると62.5点が私の評価である。そして、そのスコアが80点を超えれば、より多くの人に受け入れられるだろうと、予測している。しかし、現在はもう少しである。協力道場の理解が5パーセントに近かったこと。我が道場の黒帯の理解も50パーセントほど。もちろん、感覚的な数字であり、根拠はない。

 蛇足ながら、空手に関するすべてのことは、いっ時の思いつきで行なっていることではない。極真空手の価値をより高めるために行っていることだ。それには命を賭けて責任をとるつもりである。

 人生も残りわずかだ。なんとしてでも、増田章がどれほどの研究をし、どれほど極真空手を愛していたかを残したい。たとえ、それが批判と取られても。 

 ただし、その愛し方が、否定に見えるかもしれない。だが、それはその人間の見ているものこそが、偽りの姿で、大山倍達先生が見た夢とは異なることを知らないからだ、と思っている。私は確信を持ってそう言える。断っておくが、今回のTS方式の競技が極真空手にとって変わるとか、思っていない。あくまでも極真空手を補完する修練法として確立したいのだ。

時間が欲しい。だが、体が弱っている、片目にものもらいが出来、10日間ほど治らない。左足も感染し腫れがひどい。現在、薬剤を処方してもらい、服用しているが、完全ではない。身体が弱っているのだろう。それでも、資料を読み込み、メモを取り、映像の編集や執筆でPCに向かっている。

 そんな中、心が癒されるのは、私のいうことを信じて戦ってくれた選手達、そして審判の姿である。詐欺師みたいなことを言うが、増田章はあなた方が思っている以上に努力している。信じて欲しい。ただし、せっかちと早口を許してもらいたい。2倍速で生きているのだ。

 

身体で考える〜小論/極真空手の試合法における反則判定について

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身体で考える〜小論/極真空手の試合法における反則判定について

 

 私の主宰する空手道場の交流試合における反則判定について討論が行われている。選手から反則判定について異議申立てがあったからである。

 断っておくが、私の道場では試合方式が2種類設定されている。一つは伝統的な極真空手の試合方式に若干の改訂を加えたもの。もう一つは増田章が考案した完全ポイント制のTS方式、通称ヒッティングである。ヒッティングではポイントの判定については、若干の訓練が必要だとは思ったが反則はなかった。競技規程の中心が技術の正確性と技能の巧みさであるからだ。

討論が行われているのは極真方式の試合における反則判定についてである。この問題は2週間ぐらい討論をしてから、審判委員会の長から今後の判定も含め、見解を発表してもらうことにした。

 私は今回の異議申立てを良い機会だと思っている。極真空手をよりよくするためには、試し合いの方法(競技法)を作り変えることが必要、というのが私のアプローチだからである。つまり、競技規定が不十分だから、今までも様々な問題が生じてきた。これからもなくならないであろう。このままでは。多くの人はそれに見て見ぬ振りか、影で不満を言って自分勝手なことを行っていく。それらは全て安易な妥協だと思っている。

 今回、試合審判員も誠実に審判に取り組んでいた。私も様々な案件の処理で体調が良くない。眼と脚が化膿し、抗生物質の投与をしている。良くはなってきたが、完治はしていない。今回の問題は、競技規程を作成し、競技大会を主催している私の責任だと考えている。ゆえに、完全な正解には至らないかもしれないが、思索を試みて見たい。

 まず前提として、極真空手の組手では、顔面に突きを当てることは反則となっている。しかし、顔面突きの反則をとる場合、その突きが軽いものか重いものか、すなわち、相手にダメージを与えたか、与えなかったかで判断を変えるべきではないか、という意見が出ている。また、そもそも、当たっていないとの異議申立てが出ている。審判委員は何度も映像を見て確認したが、映像にも限界があるようだ。

 

【小論】 

 IBMA極真会館では、故意に反則を犯せば即刻、レッドカードによって、警告を宣告し、その後、反則を犯せば、失格、選手登録、組織からの除名も検討する。また、故意であってもなくても、相手に深刻なダメージではないが、顔面突きと当てた場合、「イエローカード」によって注意を宣告する。  

 だが、問題は顔面への突きがダメージを与えないほどの軽微なもの、かつ突きとは言えないようなものの場合、ややこしい。「イエローカード」の宣告を複数回受けた選手は、試合の勝負判定に影響が出るからだ。ゆえに選手は、「イエローカード」の宣告に異議申し立てをしている。確かに、極真空手の競技試合においては、受けのための押さえ突きや突きのリードのために腕を伸ばしたものが当たる場合がある。今回の場合がそうであるということではないが、私の経験でもそのようなことがあった。20年ほど前になるが、副審をしていた時、現行ルールに則り、選手に顔面突きの反則注意を促さなければならないと思い、旗を振った。だが、一方の選手も押さ突きが当たっただけなのに、大げさに転倒し反則をアピールしていたと思っていた(シミュレーションを問う意識とそのような状況を判断、捌くルールがなかった)。私は反則注意を促された選手の試合内容が互角以上だったので引き分けとした。それが誤審だと言われれば、私は誤審で結構だと思っている。のちにそのような行為はサッカー競技でも横行し、「シミュレーション」という名称で、逆に反則行為となっていることを知った。極真空手は遅れていたのである。

 一方、これまでも審判員から、故意でないものは反則としない、と言う意見がでた。その時、私はその意見に反対してきた。なぜなら、ダメージを受けた選手が「やられ損」になるからだ。その問題の核心は、ダメージの有る無しという物差しの妥当性であると思う。それは反則のみならず、競技試合全体にも言える。人間である審判にそんなことはできないというのが私の考えである。ゆえにダメージ制の格闘技の競技試合は、KOかギブアップをゴールにするような枠組みでなければ公正でなくなる。その前提で有効打の多寡が判定の物差しとなる。残念ながら、極真空手の競技試合は曖昧なダメージ判定と有効打の判定を検討もせずに、見た目の気合いや手数、そしてスタミナの多寡を判定材料にしている。そんな競技試合は他の優れた格闘競技者から見たら噴飯ものである。少なくとも、私はそのことを極真空手をはじめた時から理解している。なぜなら、他の格闘技を経験したこと。人知れず実戦を経験したこと。そして、早くから極真空手のトップ選手との試合を経験したからである。

 

 ここで考えて欲しいことは、ダメージがあるないと言うのは個人差があるということ。つまり、屈強な男性にはなんともないような攻撃でも、子供や女性の場合はダメージを受ける場合がある。また、見た目や戦っている最中は気づかない場合もある。それらを全て、審判の主観に任せていたら、必ずばらつきが出てきて、公正さ欠く事になると、経験的に思っているからだ。  

 下手な例えだが、道路で40キロ制限の法律がある。それを45キロで走っても違反にしない、ということあると聞く。そのような考え方を採用すればよい、との意見もあった。つまり、今回は、一応、40キロ制限の決まりだが、実際は45キロほどの反則だから見逃す。極真空手の競技方法肯定派の多数意見であろう。私はそのような考え方を了解できない。もっと明確、かつ明文化された競技規程でなければならない、というのが私のスタンスである。 

 また、先述したように、ダメージには体力的、感覚的な個人差がある。さらには、審判の主観や感覚の相違、また、先述したように選手側のオーバーリアクションに影響されることもあるかもしれない。ゆえに先述したような反則注意の執行に猶予を設けようという気持ちはわかる。だが、そんな競技規程は不十分である。ただ、ダメージのないものを取らないではなく、顔面に手を当てることに対する意識の低さに対し指導を与え(IBMA極真会館に競技規程には指導注意という、口頭注意とは別の明確な反則がある)、その指導注意に従わなければ、その従わないことに「注意」を与えるという方法となれば、別次元となり、かつ顔面突きのダメージがどうあろうと、顔面突きの反則の抑制となるだろう。また、試合自体の流れの妨げにもならないかもしれない。 

【私が空手を始めた頃】

 少し脱線すれば、私が空手を始めた頃のことである。私は試合で相手の顔面突きを何度もらい、唇が切れ、嫌な思いをした。私は自分の顔が不細工だ、とコンプレックスを持っていた。特に分厚い唇がコンプレックスだった。それゆえ、口を殴られるのがもっとも嫌だった。この意味がわかるだろうか、おそらく女性だったら、少し理解できるだろうか。おそらく、男性以上に顔に傷がつくが嫌なはずだから。また、ボクシングは裂傷を防ぐために、グローブやマウスピースを着用する。一方の極真空手は、顔面突きは禁じ手としているのでそれを必要としないのだ。「蹴りはどうなんだ」といえば、蹴りも危険だ。ただ回し蹴りなら裂傷の可能性は低くなる(ただし、上段前蹴りは危険なので、防具を使用しない稽古では禁じ手としている)。また、顔面突きを禁じ手としているルールを破るという心構えが不誠実で良くない。

 そんな思春期の私が、一番嫌な顔を打たれた。その場合、相手は私の勢いに押されている者、試合において感情的になる選手に多かったように思う。私はそんな行為が大嫌いだった。なぜなら、顔面突きありなら、最初からその前提で戦うし、私自身も相手の顔面を打ったり、投げたりしようと思えば、いくらでもできるのに、それをやらない理由は簡単である。空手に強くなるというのは、正確な技を自由自在に駆使する技能を身につけることだと、柔道やレスリングの経験で理解していたからだ。もう一つ、私は空手の試合では感情的にはならない(気合いを入れることはある)。そんなこと説明するのも嫌になるくらいだ。戦いはどんなに怖くても、否、怖いからころ冷静に状況を判断しなければならないと思っている。空手家にはその意識が希薄のようである。根性でどうにかなるとでも思っているのだろう。そのような考え方では、そもそも試合を行う心構えがなっていないと思う。また、それを行うレベルではない。百歩譲り、そのような者も普段は悪い人間ではないかもしれない。しかし、相手がそれを抑制しているのに、と腹がたった。また、そんな奴ほど、試合では勝てないが喧嘩では負けないなどと、影で言うと、私は思っていた。もちろん、例外もあるだろうが…。

 さらに言えば、私には160試合ぐらいの試合経験がある。その中で、反則行為を行ったことは1、2回である。おそらく反則は取られていないので、記録は0回であると思う。ただ、私は試合で相手を投げたことが数回ある。それは反則である。しかし、打撃技では皆無だろう。なぜなら私は不器用だったが、技は正確性が大事だと思っていたからだ。それが極真の試合では勝つために、だんだん崩れて行くのがわかった。私は自分の組手法のみならず極真空手の組手自体に疑問を持っていたが、現状の審判法において勝つため、それらを受け入れるしかないと割り切っていた。その疑問に対し、確信を覚えたのは、100人組手の前後からであろう。しかし、極真の審判法には変わりはなかった。私は、このままでは極真空手の武術、武道としてのレベルは上がらないと思っていた。話を戻せば、顔面突きの反則の問題は、その反則をどのような目的でとるのか、ということを原点に戻り、問うたら良いと思う。そうすれば、どのような時に取らないのかが見えるかもしれない。

【3つの眼目】

 私は新しい競技規程を作成する際に重要としたのは3つの眼目。一つ目は安全性の確保。二つ目は「正確無比な技術」を競技において養成するということ。3つ目は、相手との関係性の中で「正確無比な技術を芸術的に駆使する技能」を養成するということである。私はその3つの眼目を軸に競技のプロトコルを作っている。

 少し脱線すれば、極真空手の競技試合にはスペクタクル性が考慮されている。それは興行だからだ。それによって極真空手は短期間で発展した。私はそれを全否定はしない。だが、それを武道性などと勘違いしている人が大勢いるが、その武道観を変えたい(無駄かな。変な宗教みたいだから)。もちろん論破には批判と論破で対抗されるかもしれないが、それで良い。試合も議論なのだ。それは勝ち負けがゴールではない。議論によって発見や気づき、そして創造が生じて、物事が発展的解消される。それが進歩なのだ。

 

【安全性の確保という面】

 話を戻せば、一つ目の安全性の確保という面で顔面突きを考えれば、相手の顔面への裂傷や脳への損傷を防ぐということが考慮されなければならない(蹴りに対する安全性の確保のために我々はヘッドギアーを着用する)。今回はヘッドギアーを着用していたが、それは顔を打ち合うためのものではなく、蹴り技に対する脳への損傷を軽減させるためと顔面突きの反則に対する顔面と頭部の保護のためである。ゆえに、もし、その突きによって顔面に損傷が想定されるなら反則をとるべきであろう。それは、そうでなければ口頭注意などで注意を促すという考えを補足するものになるかもしれない。   

【「正確無比な技術」「正確無比な技術を芸術的に駆使する技能」】

 次に、二つ目と3つ目の「正確無比な技術」「正確無比な技術を芸術的に駆使する技能」を養成するという面で考えれば、審判のみならず選手もそのことを念頭に、「ただ勝てば良い」ではなく、組手を行うこと。それが十分にできない人には、組手試合を安易に行わせてはいけないと、と思っている。それが格闘技を基盤とする武道、すなわち人間教育の指導者の責任である。だが、現実は人間教育、人格形成などと、掲げながら、安易に組手試合をさせている指導者がほとんどである。私も含めて。少なくとも私は反省をしている。故に、今後はTS方式の競技試合で、動いている相手への正確な打撃技術とともに相手の打撃を防御し反撃する、「応じ」の技術の基本をある程度身につけた人間に、ダメージを与え合う極真空手の競技試合をさせたいと考えている。

 今回の討論で一番、乱暴な意見は、蹴りで頭部を蹴ることを認める競技試合が、顔面に突きが当たったくらいで、いちいち反則を取るな、という意見であった。そのような考えかには断固として、私は反対したい。確かに極真空手の競技試合は、今、半端なダメージ制競技となっている。このままでは格闘技として必要な技能は高まらない、と思っている。 だが、私は極真会館の人間である。ゆえにバカ真面目にその伝統を守りたいのだ(最近、松井氏に増田はバカ真面目だと評され、苦笑した)。

 私が考える、極真空手に一番かけているものは、技術の正確性と技術を駆使する技能の卓越性である。それらが極真空手の競技試合で養成、表現され、かつ理解されるようにしたい。そのことが私の人生を賭けた悲願である。そのために極真空手を補完する「ヒッティング競技(TS方式)」という試合法を考案した。蛇足ながら、ヒッティング競技には極真空手の組手法に準じた「ヒッティング・ベーシックスタイル」と顔面突きを取り入れた「ヒッティング」。そして、投げ技も可とする「ヒッティング・フリースタイル」がある。フリースタイルは将来の夢として、まずは原点に戻り、打撃の技術と技能を見直そうというのが、私の構想である。

 

 少し自慢めいた話になるが、私が行ってきた極真空手の競技試合はそのようなものだった。代表的な例が第17回全日本大会における、私と松井氏(現極真会館第2代館長)との対戦である。その試合の解説者だった極真会館の役員である待田京介先生が、「二人とも受けが上手すぎる」というようにおっしゃっていたように記憶する。大変名誉なことであった。我々の行っていた組手試合は間違いなく「攻防」であり、相手の技を見切りあいながら、僅かな隙を正確につくことであった。最近、松井氏(館長)とその時の話をしたら、「17回の全日本大会の後、18回全日本から増田の空手が崩れてきた」と言っていた。私は確かにそうかもしれないと、松井氏の意見を聞いたが、18回大会全日本の時、私の右手は握力10キログラムもない状態だった。そして、突き技が使えなかったのだ。ゆえに松井氏と対戦する決勝戦までは左手一本と蹴り技だけで戦っていた。決勝戦前に痛む右手首に麻酔を打ち戦ったのである。松井氏もそれを知っているはずである。だが、その後も2年間ほど、右手は不自由だった。その時は不自由な身体であったことに加えて、チャンピオン以上の力があるのにチャンピオンになれないと、焦りがあり、どんなことをしてでも極真空手の競技試合で勝ちたいと、理想を忘れていたのである。その時、松井氏が感じたように、私は空手の理想から離れて行っていたのかもしれない。 だが、そのことに気がついてからこそ私は、全日本チャンピオンになった直後、世界大会前にもかかわらず、100人組手に挑戦したのだ。そして入院生活を1ヶ月以上。自宅療養を数ヶ月というハンディを背負ってしまった。だが、そんな経験があるからこそ、極真空手の欠陥を補正したいと強く念願している。

 

【「尊敬」「正直」「勇気」】

 ここまで書いてきて、これを読む賢明な読者は、良いアィディアが浮かんだことだろうと思う。私はせっかち(もう本当に時間がない)なので、方向性を示しておく。今回の問題は、競技規程の責任者である増田章の責任であるから、これをより良い形を目指し修正する。その前提の中、審判の責任や選手の権利に関しては審判委員会のメンバーと委員長の荻野氏と話し合い、決める。ここで重要なのは、選手の尊厳を核とする権利、同時に審判員のそれである。 私は荻野審判委員長と十分に話し合い、結論を出したい。 ただ、私は競技規程を修正する。そして言いたい。競技試合は遊びではない。 特に相手を傷つける可能性のある格闘技や武術の競技試合は、選手の尊厳を守り、かつ試合をする目的を明確にしなければならない。  

 私が考案したヒッティング競技規程は、そのことを十分に考慮してある。しかしながら、極真空手の競技規程には、それが反映されていなかったのだ。繰り返すが、新しく作ったヒッティング競技は、私の心身でもある極真空手を補完し、それをより善く進化させるためのものである。ゆえに、私の主宰する団体の競技試合においては、共通の理念、目的で空手修行に励んでもらいたい。 そして、道場の仲間たちが互いに尊敬しあい、正直に交流し、勇気を持って行動していく。「尊敬」「正直」「勇気」、それは「仁」「智」「勇」という、私が制定した「武道人精神(ブドーマンシップ)」というコンセプトから発しているものである。

 

補足〜小論/極真空手の試合法における反則判定について

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補足〜小論/極真空手の試合法における反則判定について

 

 ここ数日間、体調不良の中、この問題の検討で30時間以上を使った。ここまでやったら、もう少し徹底して考え、それを記録しておきたい。今回の顔面突きの反則の判定の問題は極真方式の競技試合において起こったことである。

 私は、経験豊富な極真空手の審判、また格闘技の審判に意見を求めたが。そして、経験豊富であればあるほど、ダメージのない顔面突きは反則を取らないという意見だった。しかしながら、考えて見て欲しい、極真空手の愛好者はそれを真似する流派も含めれば、世界中に100万人はいるであろう。そして、それらが似たような競技試合を行っているはずだ。また、それを行う際、顔面突きの反則は、私の道場ほど厳密には取らないはずである。

 

 その前提で、想像してみる。一体、その中で顔面突きの反則が起こる割合はどのくらいであろうか。私の想像だが、1割もないはずだ。もしそれが、当たっていれば、それがどのようなことを意味するか、わかるだろうか。もし、私が空手道の世界組織の役員だったら、世界中の空手選手の反則がどのような状況でどのような選手がどのように反則を取られるか、また怪我の実態などのデータを集める。それが、必ず組織の「知の力」となる。脱線するが、最終的には「知の力」が物をいう、と私は考えている。だから、子供達に「考えろ」そして「読書し(情報を集め)」それについて「検証しておけ(書け)」と言いたい。それが将来の自分の人生を左右する。

 話を戻せば、現時点では、私の想像であるが、おそらく同じような傾向を有する状況、そして同じような傾向を有する選手が、同じように反則を取られていると思う。つまり、結論を急げば、反則の原因は、選手の組手に対する意識と競技ルールに対する、双方の選手の戦術の選択が主原因なのである。もちろん、相手との身長差がある場合、相手が頭を下げ、間合いを詰めてくるといった条件も、そこには傾向として見られるかもそれない。しかし、私も含めてだが、無差別で戦う極真空手の競技試合においては、そのような状況は珍しいことではない。最近は体重別で試合をするようになった。ゆえに身長差は少なくなったかもしれない。また、頭を下げて間合いを詰めて戦う戦い方を良くないという指導者も出てきた。実は極真の歴史上、そんな選手が増えた時期がある。それは極真空手の問題点でもあった、と私は思っている。にも関わらず、私は反則を犯したか、ということである。私だけではない、多くの選手が何らかの戦術の工夫をし、反則を避けて戦っていたに違いない。でなければ、顔面突きの反則だらけになってしまう。ただ、もしかすると海外の試合では、顔面突きの反則が多いのかもしれない。みんなマウスピースを着用するからだ。それでも、1割を超えるであろうか。その結果の意味するところは、やはり選手の意識が低いのだ。ただし、断っておくが、反則を犯す選手の問題のみならず、頭を下げ間合いを詰めて戦う選手の戦術にも反則を誘発するような面がある。ゆえに、そのことも指導しなければならないだろう。さらにいえば、このような問題が起こるのは極真空手の組手指導者の問題だと思っている。ゆえに、今回の問題は私の指導力の問題だということになる。補足を加えれば、審判にも、選手が反則を犯した場合、組手技術が未熟で余裕がないことが原因で犯した反則に関しては、その状況を理解してあげるような気持ちの余裕も必要である。反則を犯したものを者を単純に非難するような判定の仕方はよくない。ゆえに前回の小論で提案した、「口頭注意」と「指導注意」を効果的に用い、選手双方が反則行為に至らないよう誘導する仕組みが良いと思っている。今回のような、1割ほどの人間の意識と行為、問題で競技全体のイメージが左右されることもあると思う。これは反則行為に限ったことではない。私は今、自分の指導力の無さを強烈に嘆いている。

 

 話は変わるようだが、今回の交流試合では、極真方式の競技試合と併せて、完全ポイント制のヒッティング・ベーシックスタイルの競技を行った。良い意味で極真方式の競技試合の選手と比較できた。極真方式の競技試合も、拓心武道メソッド、すなわちヒッティングを稽古で体験している選手に関しては、素晴らしかった。なぜなら攻防が明確に見て取れたからである。あとは身体能力の向上という課題が見えた。また着目すべき点は、極真方式に対しヒッティングの競技試合では、怪我をした選手が10分の1だったことだ。

 我が道場の交流試合における選手の怪我は、道場生でもある鍼灸整骨院の先生がデータを取ってくれている。その先生は、鍼灸大学の教授で研究者でもあるから、毎回データを報告してくれるのだ。

 私は有り難いなと思っていたが、そのことが、今回のヒッティング競技の実験で役に立ったと思っている。今回のヒッティング競技では怪我が少なかった。ほぼゼロであった。そして、そのような視点で反則行為を見た場合、反則もゼロであっった。

【全ては選手の意識が決める】

 それは、優れた防具で安全性を確保していることが大きい。だが、それだけではないだろう。極真空手、百戦練磨の増田も防具をつけて、普段ヒッティングを行っているからわかる。防具をつけ、ポイントを意識すると、うかつに相手に近づくことができないのだ。また技も出せない。

 もちろん、前提は1発もポイントを取られず、自分の技は正確に決めようと意識するからである。それは防具とポイント制の「見えない効果」と言えるものだと思っている。その核心は、技術と技能向上の全ては選手の意識が決めるということだ、と確信している。また、同時にそれは意識しているルールの影響を強く受ける。それは社会における人間形成も同様だ。意味がわかるだろうか、人間も親の価値観、社会の法律、そして文化の影響を強く受ける。それらはある種、人間の意識を形成するプロトコル、ルールのようなものだ、と私は考えている。ゆえに教育とは、まず指導者側がプロトコル、ルールを絶えず見直し、かつ修正し、個人が自分自身の力で意識を変えていうように導かなければならないのだ。

 今回の問題は、審判の間違いではないかとの異議申立てがあるのだ。正直、ビデオ判定でも難しい。これ以上は、審判員と審判長の判断に任せたい。私はこの問題は、審判の意識の問題のみならず、選手の意識の問題、そして全道場生の意識の問題として捉えている。ゆえに時間を割いている。

【伝統的な極真だったら】

 確かに、荻野審判長がいうように、伝統的な極真だったら引き分けで、納得行くまで試合をさせたかもそいれない。だが、私の道場はルールを遵守する。しかし今回、そのルールが「あだ」になったかもしれない、と思っている。

 審判が悪いと断言することではなく、また選手が悪いと断言することでもなく、全ては私の競技規程の不十分さだったと反省している。ヒッティングの競技規程は競技の目的と理念が第1条に書かれている(おそらく読んでいる人は数人だろう、自分をピエロだと嘆いている)。競技者はその目的のために競技を行うと書いてある。今後は極真方式の競技規程も改訂する。

 ただし、テニスにしたって、どんなメジャーなスポーツにも発展途上時には誤審はあった。今回のことは話し合いで解決したい。

 

 今回の件に対する私の意見は遺言だ、と言ったら大袈裟でうざいと思われるだろう。だが、私の考えの中心にあるのは、審判も選手も、またボランティアスタッフ、応援者も含め、競技試合、ゲームとは、全ての人が協働し、競技という手段を通じ、高いレベルの技術と技能を創出することを楽しむことだと思って欲しい。言い換えれば、競技とは人間の可能性と尊厳を守り、それを高めるために協力し合うことだ、と言いたい。それが増田の考える武道(拓心武道)の思想、そして武道スポーツの理念である。さらに言えば、技を決めたり、反則を注意したり、勝つことを目指したり、負けて悔しがったり、全てがそこに至るための手段でありプロセスなのだ。また、その目的の実現を審判、選手、スタッフ、応援者全員が目指す。それがスポーツと武道競技の普遍性である。

 繰り返すが、前の小論で書いたように、私が考える競技は、理念の具現化を目指し、正確な技術と優れた技能を創出するという目的に行うものである。競技会という場、そして審判、スタッフ、選手、応援者、全てがチームである。過去に感じたことだが、自分の道場の選手に体験を積ませたい、また勝たせたいと、他団体の競技大会を利用するような考え方は、私は行わない。現在、極真会館とは友好団体であるし、選手の交流もあったほうが良いと思っているが、松井館長の組織を利用するようなことは考えていない。とにかく、松井館長の理念を理解し、それを共有した上で、できるならば極真空手が高まるように、斯界が発展するように協力し合いたい。もちろん、私のような小団体が大団体に協力するなど、笑止千万な話だとは思う。ゆえに私はマイペースを崩すつもりはない。誰に対しても。

 最後に、わがIBMA極真会館の道場生には、そのこと忘れ、目先の勝利だけを求めるようなことになってはいけないと言いたい。また、今回のことを機に、改めてなんのための競技なのかを道場生につたえたい。そして、ルールに不備があれば、これからも異議申立てを聞き入れたい。そして修正をしたい。ただし、みんな懸命にやっている。今回のことで道場生が私のどのような思いを持つかわからない。しかし、そんなことはどうでも良い。ただ私は、誰にも肩入れせずに、私は天(真理)を相手に行動していく。ゆえに選手や審判の意見とは異なる解決策を私は選ぶかもしれないということだけは言っておく。なぜなら、私がこの空手の創設者で責任者だからだ。だだし今回、審判員、審判委員長には苦労をかけている。感謝したい。

 

2019-7-1:一部加筆 

「それは防具とポイント制の「見えない効果」と言えるものだと思っている。その核心は、技術と技能向上の全ては選手の意識が決めるということだ、と確信している。また、同時にそれは意識しているルールの影響を強く受ける。それは社会における人間形成も同様だ。意味がわかるだろうか、人間も親の価値観、社会の法律、そして文化の影響を強く受ける。それらはある種、人間の意識を形成するプロトコル、ルールのようなものだ、と私は考えている。ゆえに教育とは、まず指導者側がプロトコル、ルールを絶えず見直し、かつ修正し、個人が自分自身の力で意識を変えていうように導かなければならないのだ」

 

「今回の件に対する私の意見は遺言だ、と言ったら大袈裟でうざいと思われるだろう。だが、私の考えの中心にあるのは、審判も選手も、またボランティアスタッフ、応援者も含め、競技試合、ゲームとは、全ての人が協働し、競技という手段を通じ、高いレベルの技術と技能を創出することを楽しむことだと思って欲しい。言い換えれば、競技とは人間の可能性と尊厳を守り、それを高めるために協力し合うことだ、と言いたい。それが増田の考える武道(拓心武道)の思想、そして武道スポーツの理念である」

 

「ただし、断っておくが、反則を犯す選手の問題のみならず、頭を下げ間合いを詰めて戦う選手の戦術にも反則を誘発するような面がある。ゆえに、そのことも指導しなければならないだろう。さらにいえば、このような問題が起こるのは極真空手の組手指導者の問題だと思っている。ゆえに、今回の問題は私の指導力の問題だということになる。補足を加えれば、審判にも、選手が反則を犯した場合、組手技術が未熟で余裕がないことが原因で犯した反則に関しては、その状況を理解してあげる気持ちの余裕も必要である。反則を犯したものを者を単純に非難するような判定の仕方はよくない。ゆえに前回の小論で提案した、「口頭注意」と「指導注意」を効果的に用い、選手双方が反則行為に至らないよう誘導する仕組みが良いと思っている」

反則行為の判定に関する異議申し立てについて〜結論

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 交流試合の後、試合における反則判定について検討してきました。本サイトには、私の殴り書きを載せました。本ブログはいつもいうように私のメモ書きです。また、本サイトは増田の思想を道場生に理解してもらうためのものです。

 とはいうものの、全ての道場生に、私の考えが理解されているとは思えません。それは、あまりに殴り書きだからでしょう。将来、私の武道哲学と理論をまとめたいと思っています。それは、私が命懸けでやりたいことです。今は、必死に耐えながら実験を繰り返しています。

 

 

 

【反則行為の判定に関する異議申し立てについて】

 交流試合から約3週間、反則行為の判定に関する異議申し立てについて検討してきました。その事に際し、私は有段者討議会を設置し、審判員、他に試合映像を確認してもらいました。また、荻野審判委員長にまとめ役を要請しました。

   私の基本的な考えは、映像を見て、誰が見ても誤審が明らかな場合は、審判を説得し、誤審を認めさせるというものでしたが、ことは簡単ではありませんでした。

   その結果、映像による判定に関して意見が分かれました。映像を見ての判定が分かれたのです。同時に反則に関する考え方の相違が浮き彫りになりました。

    団体を主宰する私の立場としては、映像を見ても意見が分かれ、かつ審判が自分の目視に信念がある場合は、現場の審判の判定を覆すことはしない、というものです。

   因みに私が意見の取りまとめを要請した荻野審判長の見解は、誤審があり、荻野氏が審判を行えば、引き分けというものでした。それは間違いではないかもしれませんが、映像を見ての判断です。荻野審判長にも経験があると思いますが、いかに近くで試合を見ていても、選手の近くで試合を見るのとは異なるということです。

【その経験の中で】

 話は脱線しますが、私には誰よりも多いと思われる極真空手の試合経験があります。その経験の中で、誤審と思われる判定が多々ありました。また、信頼できる選手の意見も現場での判断と映像による判断とでは異なる、ということを記憶しています。極真空手の試合では現場の雰囲気によって見方が変わるということが多くありました。当の選手(私)にはダメージがなく、試合をコントロールしていると思っていても、審判には周りには異なる風に写っていたのでしょう。そのようなことが起こるのは、極真空手の試合の判定方法は主観に頼る面が大きいからです。私には、その主観を信用することができません。私の空手、私のレベルを理解できない人が審判などできるわけがないのです。

 私は著書で、それを「美人コンテスト」と批判しました。大山先生に対する冒涜と思われるでしょうが、極真空手の試合にはそのような「プロレス的」「ショー的」な感覚が否めません。もちろん、「プロレス」や「ショー」の否定ではありません。また、それらには意味や目的があります。ゆえに極真空手の判定方法にも、なんらかの意味や判定基準があるのだと思います。しかし、その基準が競技や武道として妥当な基準だとは思えません。私の空手家の人生は、それらの問題点を改正するために、人生を費やしてきたと言っても過言ではありません。それは、大変労力の必要な努力でした。また、その努力が報われてもいません。ゆえに、多くの人が「増田は無駄な努力をしている」「頭が悪いな」と言っていると思います。

 そのような声を聞くたびに、私は「全てを捨て、独り、我が道を往く」と思ったものでした。幸いに、こんな私に協力してくれる人たちが身近にいてくれたおかげで、今日まで独りにならずに生きてこられました。また、直接打撃制の空手競技のルールに変更を加え、新しい競技を創るという試みを行ってきました。

 

【今回の問題は】

 今回の問題は、TS方式(ヒッティング・ベーシック)という新しい競技方法の実施と極真方式の競技の2種類を実施したことによる、現場の混乱というよりは、これまで私が改訂した極真方式の競技ルールに瑕疵があったと考えています。実は交流試合前に極真スタイルは従来のクラシックスタイルに戻すと、秋吉に伝えていました。しかし、それはあまりにも乱暴な指示でした(秋吉ごめん、もっと私に突っ込みを入れろ)。

 私は、どのように変えるか、秋吉に指示していませんでした。今回、競技規約を確認すると、私の道場では極真方式(極真スタイル)の競技の判定も基盤は点数表記にしていました。大まかにいえば、一本、技あり、有効、などの有効技のみならず、反則行為も点数化し、その獲得点数の多寡で優勢を判定するというものです。

 

 今回の交流試合では、完全ポイント制のTS方式(ヒッティング)の競技規程を急ぎ取りまとめ、試合を実施しました。大変な急ピッチの作業だったので、もう一つの競技方式の極真方式のルールを忘れていました。なぜなら、TS方式の競技も何年もかけ、何度も瑕疵を修正し続けていました。その修正は、数ヶ月まで続きました。

 要するに、極真方式を見直す時間がなかったのです。今回の件があり、3週間の間、多くの思考実験を行いました。その結果、瑕疵が見つかりました。おそらく、瑕疵の発見とその修正は、本来、どんな分野でも行わなければならないことだと思っています。それを行わない、また修正が多いと混乱する、などいう考えもあるでしょう。しかし、そのような考え方は、自己中心的な考え方です。また怠惰な考え方です。私も面倒臭いのです。昔のまま何も変わらないことが良いという向きが理解できません。もしそれが本当ならば、技術革新や進化などが起こるわけはないと思います。理解できるのは、私もそうですが、変化に対応して行くことには労力が必要だということ。面倒臭いということです。

 しかし、より良いものを追求するということは、面倒臭いことです。仕事とは、そのような面倒臭いことを誰よりも高いレベルで行い、人に感謝されることだと思います。私もそのような仕事をしたいと考えていますが、あまりにも理想が高く、時間とエネルギーがたりません。人はその姿を愚かと思うのでしょう。

 今私は、私の内側からの声に従い、それをやり切らなければならないと思っています。まだ、道半ばです。ですが残された時間が僅かです。それでも前に進みます。そして必ず、私の仕事を理解する人が出てくると信じます。

 

【団体の長としての結論】

 さて、話を戻しますが、私の団体の長としての結論と決定は、異議申し立ては受け入れるが審判の判断を覆さないということです。しかしながら、十分な討議を行い団体および競技会の基盤となっているプロトコルやコードの瑕疵を発見し、それを修正しました。具体的には競技規程の改訂です。怪我の功名と言っては語弊があるかもしれませんが、今回の討議と検討の意義は少なからずありました。

 今回、競技規程の改訂に併せて、私の空手団体としても理念と目的、そして手段の見直し、また、修練システムの見直しです。端的にいえば、競技規程のあり方が、団体の理念と修練体系と連携するように修正、明確化します。

 その結果を端的に言えば、今後「異議申し立て」は認めないことにします。その代わり、審判長の意見を取り入れ、イエローカードやレッドカードの告知の前に数回の「口頭注意」の権限を与えます。その権限によって、主審に互いの選手が、純粋に空手技術と技能を高め合う状況を維持できるように管理する仕事を与えます。それに伴い、イエローカードは2枚の告知は、伝統的な極真方式の「減点1」に相当します。また、レッドカードは「減点2」失格と考えて良いです。また、一本や技有りなどのダメージの判定はそのままとしながらも、旗判定基準を増田独自のものに設定します。その旗判定基準を理解、承認できる選手のみに試合に出ることを認めます。

【審判委員会と有段者討議会を創設】

 以上の結論と決定は、増田道場の空手理論、思想と繋がりますから、それを理解できないものは、道場から除名も考えています。ただし、私はあと数年で引退しますから、後を継ぐものが、私と異なる考え、運営方法を持つなら、早めに進言してください。また、審判の判定基準の統一のため、審判委員会と有段者討議会を創設します。さらに有段者が競技のことを深く理解することは、空手道の上達に必要だと思っています。もちろん、競技は空手道修行の一手段だと考え、他の修行と分けて考える人もいるかもしれません。しかし、拓心武道(増田武道)では、全ては一つの道に繋がると考えています。さらに、試合の経験もないものが、戦いのことを言うのは笑止千万ものだと思っています(こんな言い方はよくないと思いますが)。

 さらに言えば、昇級、昇段の認定にはTS方式の試合を行い、それに勝てないような技術と技能の者には段位を認定しないとい言うことです。また、TS方式の試合で勝てない者には極真方式の試合も行わせないと言うものです。このことに関しては、もっと丁寧な説明が必要だと言われるかもしれません。しかし、TS方式の3種類の競技方法によって得る、技術や技能は、極真方式の競技で勝つための十分条件ではありませんが、必要条件だと考えています。また、それらは極真空手の古典的な競技にとどまらず、空手家として必要な技術と技能の体得に役立ちます。これまで私の道場で段位認定を受けた者は、このことを深く認識し、自己の空手技術と技能を更新してください。更新しない者は、残念ながら私と同じ空手道を歩む者ではありません。

 

【自己超越】

 最後に、私の考える空手道は「自己超越の道」です。それは、自分というものをしっかりと掴み取る生き方です。それは他者との関わりを通じ、遠ざかっていく自分(自我)を乗り越える行為です。人は、自分という自我を乗り越えようと必死に生きる時、その自我と本当の自分(自己)が一致する瞬間があります。それが自己存在、そして「生きる」ということの本当の在り方なのです。

 繰り返しますが私の道場の有段者には、自分の体得した技術や技能、そして思想を更新してもらいたいと思います。私は、空手に限らず、人間は死ぬまで自己を更新し続けなければならないものだと思っています。それが我が団体の理念です。

井上雄彦の「バガボンド」を観て

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【バガボンド】

 最近、友人から井上雄彦の「バガボンド」を見るように勧められた。私は読書が好きで8千冊以上の蔵書があり、いろいろなことを知るのが好きだ。にもかかわらず、漫画やテレビはあまり見ない。特に漫画は高校生の中頃から、あまり読まなくなった。空手の練習で時間がなかったからだ。でも、子供の頃は好きだった。中でも手塚治虫や石ノ森章太郎、そして赤塚不二夫が好きだったかな。最近は映画が好きだ。気分転換になるから。

 そんな私でも、何人かの漫画家の作品は大人になってから読んだものだ。そのほとんどが友人の勧めである。しかし漫画はハマると、何時間も要することになってしまう。なぜなら、私は少しづつ読み続けるということが好きではないからだ。面白いと思うと、一気に知りたい。ゆえに気にいると、まとめて読みたくなってしまう。だが最近は、そんな心の余裕もない。

 最近、私が空手界の低レベルを嘆くと、「バガボンド」の30巻以降でいいから見ろ、と友人に言われた。「とにかく見せ方がすごいから」「絵が最初の頃と、ガラッと変わったから…」と。その友人は、時々、映画やアニメを勧めてくれる。彼は井上雄彦のバガボンドの画力が凄いという。また、レイアウトが勉強になるからと言う。さらに、増田の発想を人に伝えようと思っても、見せ方が良くなければ人はついていかない、といつも説教をする。

 そういえば、彼の勧めで井上雄彦の「スラムダンク」を正月に一気に読んだことがある。随分と前のことだが。スラムダンクは、とても面白く、引き込まれ、いろんなことを気付かされた。その後すぐに、井上雄彦の「バガボンド」を購入した。井上雄彦の漫画を読みたいと思ったからだ。しかし、絵を見ただけで、読むのをやめてしまった。

 

「バガボンド」に関しては、井上雄彦ファンからみれば、「今更?」と言われるであろう。バガボンドの感想を言えば、何かが見えた。否、感じた。読む必要がないぐらいに。ゆえに、30巻から7巻を2時間ぐらいで読んでしまった。

 数日後、そのことを友人に話した。私は「バガボンド」は黒沢明の作品のようだと思った。つまり、絵が映画のスチールのように感じたのである。黒澤作品も映画だが、映画のスチール写真が素晴らしい。否、優れた写真の連続が黒澤作品だとも思う。

 私は、残念ながら絵を描かない。しかし写真の勉強をした。そして詩歌を愛する。僭越ながら、井上雄彦のバガボンドは、絵が写真のようであり、セリフが詩歌のようであった。言うまでもないが、アニメや映画、動く絵が動かない絵よりも良いとは限らない。むしろ、動かない絵の方が、より多くの情報を封じ込め、かつそれを喚起することが可能だ。

 優れた写真はそのようなものである。私は井上雄彦氏のバガボンドにそのような感想を持った。バガボンドのひとコマひとコマが完成した作品であった。

 友人が言う通り、それはバガボンドの初めよりも最近の作品にその傾向が顕著だと思った。素人の私でもわかる。とにかく、私はバガボンドのファンになった。稚拙な言い方だが、まるで井上雄彦氏に武蔵が乗り移っているかのようだ。

 

【武蔵のように生きろ】

 実はバガボンドを第1巻から読み直している。そして、友人からのメッセージは井上雄彦からレイアウトを学べということではないと思った。「増田章は武蔵のように生きろ」というように受け取った。正確には井上雄彦のようにと言った方が良いかもしれない。それがバガモンドを見ての感想である。しかし、世界に誇る大作家である井上雄彦氏と貧乏空手家と一緒に考えることは馬鹿げている。同時に、増田はすでに、武蔵のように生きているとも思う。おそらく、友人の伝えたかったことは、もっと徹底し、かつ考えろ、ということだと思う。随分と厳しい要求である。しかし、極真空手家、増田章の生き方をもっともよく知る友人だからこそ、そう思うのであろう。

 同時に「お前はいつも迷いすぎている」との声が聞こえた。大山倍達先生が亡くなってからの増田章の20数年間は無駄だったかもしれない、と息苦しくなってくる。そんな声を「我事において後悔せず」武蔵の言葉を思い出し、打ち消す。そして、今からでも遅くはない…と。

 バガボンドの第3巻のカバー裏に以下のように書いてあった。『読んで得する漫画は」人気があるようだ。…省略。ここで言っておかなければなるまい。この漫画は「得」はしません。ただの娯楽です』

 まるで黒沢映画と同じではないか。私は井上雄彦氏が言いたい「娯楽」とは、暇つぶしではない、と思っている。そして、その意味は「感動」だと思っている。そして、その感動がエデュケーション(教育)となるのだと思う。つまり、感動が見る側の何かを引き出してくれるのだ。また、その感動こそが本当の教育に必要な現象なのだと思う。時に私は、人間教育などという言葉を使うことが、本当に恥ずかしくなる。それよりも、感動により一瞬にしてその人の感性を変えてしまうこと。そのような体験を与えること、それが優れた教育だ、と私は思う。しかし、お前にそれができるのか、と問われれば、答えに窮する。

 しかしながら、私が体験した、極真空手における、世界の強豪たちとの試合、極真会館の世界大会への参加、そして世界の強豪たちとの交流。その体験こそ、真の人間教育だったと思っている。その体験が私の感性の核を変えてしまった。しかし、それは極真空手が内包する「悲しみ」を知ることでもあった。井上武彦氏のバガボンドには、そのような悲しみを昇華するだけの光があった。その光が照らす先は、自分を生きる、と言うことだ。あえて難しい言い方をすれば、「自己超越」と言っても良い。私の師である、大山倍達先生も若い頃、武蔵のように生きたいと思ったらしい。繰り返すが、今からでも遅くない。武蔵のように生きたい…。

 

【自己超越】

 30年程前、私は一人2分、100人を相手にほとんど休みなく、3時間22分戦い続けるという修行を行った。100人組手である。その直後、急性腎不全で1ヶ月以上の入院生活を送った。私は1ヶ月の間ベッドの上で過ごした。私が夢に描いた世界チャンピオンになるための最後のチャンスだと思った大会の5ヶ月ほど前のことである。

 その時、空手の修行で腎不全になった変人を一目見ようと思ったのか、大学病院の内科教授をはじめ、多くの医師が病室を訪れた。その中の一人の青年医師がいた。その先生が私に言ったことを思い出した。

「増田さん、空手をやっているらしいが、自分に追い越されていかないように頑張ってね」「その意味わかるよね」と言うようなことを言われたように思う。私は「そうですね」とわかったように答えたが、その医師が何を言っているのか、よくわからなかった。その時のことを、「バガボンド」を見て思い出した。その医師は私より10歳ぐらい年上だったと思う。

 

【自分を乗り越えろ】

 

 「自分を乗り越えろ」

私がバガボンドを観て感じたこと。その意味は、30年前に日医大の内科の先生が、私に投げかけた言葉の意味と同じだ、と思った。30年の歳月を経て、理解できたように思った。

 増田流に翻訳すれば、人間とは他者との関わり合いによって、浮かんでは消える、また絶えず遠ざかっていくような自分(自我)を観ている。それが存在ということだ。しかし、自分を生きるとは、その遠ざかって行く自分(自我とそのイメージ)を掴むことではないだろうか。その掴むということが、自分を乗り越えるということである。つまり人間には、自分という自我を乗り越えるような生き方をした時、絶えず遠ざかるような自我と本当の自分(自己)が重なり一致する瞬間がある。その一致する瞬間が自己存在、そして「生きる」ということを実感する瞬間だ。そして、それが本当の自分を掴む瞬間なのだ。その自分には形も文字も音も色も何もない。他者も自分もない境地、その境地に立ったとき、はじめて本当の自分がわかる。

 話は変わるが、日頃世話になっている若き女性治療師(トレーナー)に「バガボンド」の話をしたら、「リアル」もおすすめですよ、と言われた。そのトレーナーは体育大学でバスケットボールをやっていた、優秀な方だ。彼女は私の娘ほどの歳だから、とても可愛らしい。

 私は「わかりました」と答えながら、「私には井上雄彦氏の目指している境地が見える」というようなことを言ったら、「それを言いたかったんですか(本当に調子に乗って)」という感じで叱られた。おそらく、このおじさんは、なんでこんなに自信たっぷりなんだろうと、思っているだろう。この先も、老いぼれの増田は、変なオヤジと笑われて生きて行くに違いない。しかし、それで良いのだ。中途半端に理解などしなくて良い。素のままの私を受け入れてくれる人が、私の本当の理解者だと思っている。これまでもそうだった。これからもそうだと思う。 

 

 

追記

井上雄彦氏は、宮本武蔵の書画が国宝だということを知っていると思う。私も武蔵の鵜図や自画像、枯木鳴鵙図、戦気の書を知っている。その武蔵の世界観を伝えるのに映画やアニメや小説より、井上雄彦氏の作品の方が優れていると思うぐらい、バガボンドは良いな。

 

 

井上雄彦のバガボンドを観て 〜追記

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 宮本武蔵は「勝つ」ということを掘り下げた武人である。井上雄彦氏の描くバガボンドには「強く」というキーワードがよく見られる。私には、井上雄彦氏のバガボンドで見られる「強く」という言葉の裏側には「自分を生きろ」というメッセージを感じる。

 

 そう思っていたら、友人から電話があり、バガボンドと「天才バカボン」は語源が同じだと聞いた。もちろん、語源が同じだというだけである。実は赤塚不二夫の「天才バカボン」の原名は「天才バガボンド」だったらしい。「バガボンド」とは「放浪者」の意味のようだ。当時の赤塚不二夫の担当編集者は、「天才バガボンド」というタイトルよりは、「天才バカボン」とした方がギャグ漫画にふさわしいと考えたらしい(本当かどうかはわからない)。

 

 そこで、井上雄彦氏は天才バカボンからインスパイヤされたのか?と私が聞いた。友人は、井上雄彦は赤塚不二夫の天才バカボンからインスパイヤされてはいないだろうと言っていた。

 しかし、これは偶然の一致だろうか。世間では、天才バカボンはギャク漫画との見方が普通である。だが、天才バカボンこそが赤塚不二夫の魂が表現されている、と私は見ている。何を隠そう、私が一番好きな作家、そして漫画が赤塚不二夫。そして天才バカボンである。

 また、私は天才バカボンを単なるギャク漫画だと思っていない。もし、天才バカボンをただのギャグ漫画だとするなら、それと正反対とも思える、梶原一騎の世界観こそが、ギャクではないか、と私は思ってしまう。その意味がわかるだろうか。要するに、天才バカボンの方が真実を描いている、と私は感じていたのだ。もちろん、梶原一騎のセンスも素晴らしいと思うし、そんな単純に考えてはいけないとは思う。

 とにかく、井上雄彦の世界は、これまでの漫画の域を超えているように思う。そして、放浪者、すなわちバガボンドとは、人間の生きる姿そのものではないだろうか。

 

 

 

追記:井上雄彦の漫画が、これまでの漫画の域を超えていると言っても、すでに古典とも言える手塚治虫や石ノ森章太郎の漫画は、時代が変わっても人は感銘を受けるだろう。また、個人的には水木しげるも良いな。また最近、白土三平の漫画を入手した。これも古典と言えるが、私は好きである。補足ではないが、Dr.スランプやドラゴンボールなどで有名な鳥山明の漫画も良いらしい。以前、読もうとして書棚に積んである。漫画のみならず小説もだが、その世界に凝ってしまうと、私の仕事ができなくなる。あえていうが、漫画に関する私の話など、あてにならない。増田がそう思った、というだけである。漫画を読む量が少なすぎる。ただ、他の世界を広く深く観ている。その者が、漫画を読む物としてではなく、観る物として見た場合、バカボンドのレベルが群を抜いてきたように観えるだけである。


清水哲太郎先生

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【盛和塾の最後の世界大会】

 

 本日は17年ほどお世話になった盛和塾の最後の世界大会に参加していた。

思えば、盛和塾の塾長である稲盛和夫塾長を始め、塾長の皆さんには大変お世話になった。道場経営者として団体の長としての心を高め、道場を発展させたかった。そして、自分の空手を広めたかったが、広まらなかった。おそらく、それはお前の学びが真剣ではないからだと言われるだろう。一時は、道場が3倍になった。しかし、それが半分になった。私の体が壊れたことや色々と原因はわかっている。しかし、その原因をどうすることもできなかった。しかし、真剣に稲盛哲学を学べば、道場は発展したはずである。応援していただいた、稲盛和夫塾長に申し訳ない。

 だが、稲盛経営哲学の芯の部分は理解できたと思っている。その努力はまだ続いている。まだ、完全に諦めているわけではない。また、目に見えた成果をあげられないのは、私の目標、目的がビジネスとは異なる部分が多いからだ思っている(一方、同じ部分もある)。だが、必ず成果を上げたいと思っている。ギリギリの瀬戸際だが。

 

 そんな盛和塾が今年で解散となる。私はお世話になった方々に挨拶をしようと、予定をやりくりして参加した。本当はそんな余裕などない。

 本日は、とても狭い座席に体を小さくして長時間座り続け、帰りは膝が痛くて歩くのが辛かった。膝の具合が年々悪くなり、長時間の座位はかなりのダメージなのだ。また、この世界大会は明日も続く。そして、その後すぐに石川県に合宿指導に向かう。正直、しんどい。それでも、盛和塾の塾生の話には刺激を受けた。また良い出会いがあった。 

 ただ、私は体を壊さないように気をつけたいと思っている。体を壊したら、大きく後退するからだ。焦らず、もっと日々慎重に生きていかなければと思う。今日は朝から頭と首が痛かった。葛根湯を飲み、さらにロキソニンを飲み、会場に向かった。

 実は、私は脳溢血を恐れている。家系的に気をつけたほうが良いようだからだ。ゆえに昨晩から多めに水を飲んでいる。

 私は身体をメンテナンスしないで頑張っている自分を含めた中高年を見ると、「あんまり頑張ると脳の血管が切れるよ」と心配している(バカだな、余計なお世話?)。

 

 【清水哲太郎先生】

 そんな中、 同じ盛和塾生の清水哲太郎先生と会った。清水哲太郎先生は私の尊敬する芸術家である。また日本を代表するバレイダンサーであり、松山バレイ団の代表、そして森下洋子先生のパートナーでもある。

 数年前、私は清水哲太郎先生からバレイのレッスンを受けた。すでに身体を壊していた時のことだったから、ダメなやつだと思われたかもしれない。現在は、その時より回復している。数年前に、先生の舞台も拝見したが、見た感じでは年齢がわからない。それは、若い頃からの体型を維持していること。また動きも熟練の動きで、専門家でなければ、若い頃との差がわからないからだ。さらに、見た目も若い。

 

 その清水哲太郎先生の年齢は71歳である。私は、現在57歳だが、清水先生の年まで、現役でいられるだろうか。正直、自信がない。命さえ心配だ。

 

 久しぶりにお会いして、清水先生を目標にしようと思った。数年前に松山バレイ団の稽古風景を少しだけ見学したが、バレイの稽古は凄まじい。私が見たのは数十分だったが、それを7〜8時間続けると聞いた。そんなことが毎日できるとは、正直理解できていない。普通に考えれば身体が壊れてしまうはずだ。

 

 私は身体が壊れてから、身体のメンテナンスと機能維持の勉強をしている。もっと早くに知りたかったことも多いが、最悪の状態になる前に気付き、良かったと考えている。

 今私は、自分の体を実験台に、シニア向けの稽古の仕方、トレーニングの仕方を研究しているところだ。私のトレーニング法は良いと思う。しかし、私と同じシニアがそのトレーニングを必要だと思わなければ、やらないだろう。当たり前のことだが。

 

 つまり、いくつになっても良いパフォーマンスをしたいという意思があればこそ、身体は維持される。おそらく、清水哲太郎先生にはその意思が強いのだ。身体芸術家(バレイダンサー)だから当然といえば当然だが。

 

 私の道場生、空手メソッドを学ぶ人に、あえて言いたい。まず、いくつになっても良いパフォーマンスをしたいという願望を持って欲しい。そして、空手は自分の体を用いた芸術だと思って欲しい。そう思えれば、またそのことを信じることができれば、必ず身体は協力してくれると思う。しばらくぶりの対面だったが、清水先生を目標にして頑張ろうと思った。

 

 

 

 

石川県の田賀道場で講習

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すふ 【金沢へ】

2日間に渡る、盛和塾の世界大会に参加した翌日の金曜日、金沢へ。IBMA極真会館増田道場に新しく加わった、石川県の田賀道場の夏季合宿で講習を行うためだ。身体の調子が良くなかったが、荷物があるので車で移動した。ここ3日間ほど頭痛がある。頭の血管が破裂しないことを祈りながら、水分補給をしつつ休憩を多めにとり、8時間かけての移動だ。

 金沢の実家に着いてから妹と父のこと、そして家のことについて話す。その日は、脚が痛いので早めに寝ることにした。しかし、エアコンの無い実家の部屋は蒸し暑かった。扇風機をつけて、なんとか寝ることができた。

 

【ゴールドジムV10野々市に挨拶】 

 土曜の朝、IBMA極真会館増田道場の教室のあるゴールドジムV10野々市に顔を出す。ジムのオープン前だったと思うが、支配人はフロントのペンキ塗り、新保社長も仕事をしていた。テニスの全日本チャンピオンだった新保社長は40歳台ながら、将来、石川県を牽引すると思われる有望な経営者である。余計なお世話だが、身体が心配である。V10は今後、富山県にもゴールドジムをオープンするらしい。そんな忙しい中、突然訪問で申し訳無かったが、テニスに関する話を聞きたかった。

 現在、私には拓心武道メソッドを広めるための理論書の構想がある。それにはテニス競技の構造は参考になる。そして、V10の新保社長の考えは、とても参考になった。今度ゆっくりとテニスの話をしたい。いつものことだが、大仰に言えば、私の理論は新たな比較スポーツ論、または比較文化論ともなる視点だと思っている。

 

【テニスは9割がメンタル】

 V10の社長の話で、特に印象深いコメントは、「テニスは9割がメンタル」ということである。そのことに対する確認と私の考えを述べ、意見交換した。それは武道界や日本のスポーツ界に蔓延っている「根性論」を批判し、新たな「根性論」を編むことにつながるだろう。いずれ分かる。

 私は、先のウィンブルドンの決勝におけるジョコとフェデラーの試合はすごかったと話をしながら、偉そうに以下のように述べた。「テニスも空手の組手も虚と実が入り混じり、耐えず変化する中、機会を捉えなければならない」またその際、「虚に実をぶつけるというような意識はまだレベルが低い」「虚と実との間の空(虚空)を打つようなテニスや空手がレベルの高いものだ」と続けた。新保社長はルールが明確なテニスは、確率論がウェイトを占める、というようなことを述べていた。そのほか、とても印象深いコメントを聞いた。是非ゆっくりと意見交換をしたい。競技の本質的な部分の。今回も顔を出してよかった。とても短いやりとりだったが得るものがあった。今後、研究を進めたい。

 

【講習時間は5時間】 

 さて、石川県での合宿セミナーは小学生から社会人まで入り交ざった合宿だったが、稽古は12時からから5時まで。講習時間は5時間だった。

 冷房もない体育館。しかもなれない板張り。正直いえば、劣悪な環境の中、子供達の体のことを気遣いながらも、1本勝負だと考えて、徹底的にやった。

 セミナーレベルは10段階で2から3段階である。それでも、私の稽古方法は初めて、しかも暑い中、5時間。みんな頑張った。こんな言い方をしたら怒られるかもしれないが、田舎の子供は素直だった。みんな、素直に私の指導する稽古に汗を流した。是非、参加者の心に増田の武道哲学、理論が届いていることを願っている。

セミナーの内容は、IBMA極真会館の道場生には、映像テキスト、増田メソッドの映像稽古として閲覧できるようにしたい。

その中から抜粋した、拓心武道メソッドの核心の部分をアップしておく。全ての増田道場生の心に届くことように祈りながら。

 

 

体育館の使用時間を超えたので急いで記念撮影をした

 

 

 

 

 

やさしさの武道

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五行歌 やさしさの武道  〜井上雄彦「バガモンド」の武蔵へ捧げる

 

人の弱さは

自分と向き合い

自分を変える

努力の

起源となる

 

人の努力は

やさしさを

養分にして

人生の試練から

人を変え、救う

 

強さとは

他者と向き合い

他者を変える

希望の

起源となる

 

知るがいい

人の強さは

時に自分と異なる

他者を嫌い

遠ざける

 

知るがいい

人の弱さは

時に自分と異なる

他者を恐れ

攻撃する

 

人の強さは

やがて無くなる

残った強さは幻想だ

そんなものを

信じてはいけない

 

なぜ人は

弱さを強さに

変え、救う

やさしさという

養分を忘れるのか

 

もし自分の中の

やさしさを自覚し

大事にして生きるなら

いつか世の中を

救うことになる

 

いつの時代も

人は弱さを忘れてはいけない

人は強さに溺れてはいけない

やさしさそのものになるのだ

より善く自分を生きるために

 

やさしさは

時に人を救い、時に人に厳しい

だが、その本質は

人に真実の愛を

教えてくれるもの

 

武道とは

弱さの自覚から始まる

やさしさを

取り戻す

 

心一

 

 

▼初夏の妙高山

 

五行歌 子供の頃

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 【日誌】

 拓心武道メソッドの組手講習会における講義の編集をした。これまで講習会および講義は2回に及んだ。また、講習会を行いたい。全ての黒帯が参加するまで。そう思っていても、全ての黒帯が参加しないかもしれない。残念ながら。ゆえに、2回の講義の内容をサイトに記録しておく。道場生には聞いてもらいたい。

 正直、拙い講義かもしれない。だが、最期の時まで、自分の考えを更新させ、みんなに伝わるよう、講義の技術と技能を高めて行きたい。自分を更新する。それが生きることなのだから。

 さらに拙詩を掲載しておく。詩作は、拓心武道メソッドの一環である。本当は拓心武道メソッドを広めていく中で伝えて行きたい。武道を興した武士の修養にも武芸のみならず、哲学(儒学が中心)や短歌や俳句などの修行が含まれていた。そのような総合的な教養体得の修行が武士道を生み出した。また武道を生み出した、と私は考えている。ゆえに、詩歌の創作により、物事の本質を探求する。私は、そのような修行も武道を切り拓く一環だと考えている。
 私は、いつか1年で良いから、放浪の旅に出たいと思っている。とても贅沢な望みかもしれない。だが、私には必要なことなのだ。私の魂を見つめるために。
 
 
 

 

五行歌〜子供の頃 

 

子供の頃

いつも山を見ていた

山を見ると

強くなれと

いう声が聞こえた

 

子供の頃

いつも川を見ていた

川を見ると

辛いことも続かないよと

いう声が聞こえた

 

子供の頃

いつも海を見ていた

海を見ると

必ず仲間がいるよと

いう声が聞こえた

 

子供の頃

いつも空を見ていた

空を見ると

神様が僕を見てるよと

いう声が聞こえた

 

 

 

 

 

 

 

不自由が自由〜パラリンピックに注目/研究科報告

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不自由が自由〜パラリンピックに注目

【研究科生へ】

  研究科生へ、私がIBMA極真会館増田道場研究科なるものを発足して、早くも2年の歳月が経った。本当に月日の経つのは早い。その間、私は極真空手の伝統技と組手技(IBMA極真会館では空手の伝統的な基本技を伝統技、増田がボクシングやキックボクシングなどから取り入れた基本技を組手技として分類している)の応用を研究してきた。同時に、伝統技と組手技の種類を全て括った基本技の確立を考えてきた。更に言えば、私が考える稽古では、伝統技の基本の延長線上に伝統型の稽古があり、組手技の延長線上に組手の稽古がある。そして、伝統技ならびに組手技の応用を学ぶ稽古法に組手型の稽古がある。

 もう一つ付け加えれば、組手型の稽古は伝統技と組手技を繋ぎ、護身術と組手を繋ぐ。そして、武道の哲学を修練者の心身に結ぶ。 ここまで読んだとして、意味のわかる人がほとんどいないかもしれない。残念ながら…。それを理解させるための修練メソッドを作るために研究科を発足した。

【研究科の1年目】

  研究科の1年目は、組手型を作ることに費やした。2年目は、そこにTS方式という新しい組手方式(修練法)の創設に費やしてきた。結果は、目標を100として、到達度は35ぐらいであろう。正直、身体を壊すほど努力した。しかし、私の力ではこれまでしかできなかった。ただ、組手法に関しては、枠組みに関しては80%できた。ただし枠組みだけである。言い換えれば、アプリケーションソフトの枠組みはできたが、その使用者である稽古生が、そのソフトウェアを用いて空手道の上達を果たすには、もう少し仕組みを作り込まなければなければならないだろう。実を言えば、組手法の枠組みができたのは、4ヶ月ぐらい前である。それまでは、ソフトとして機能するかどうか、不安だった。しかし、十分効果的な修錬法として機能することが予測できるようになった。なんとか、ここまでたどり着けたのも研究生の協力だと、感謝している。だが、依然として私の気は休まらない。のは、私の武道修錬メソッドが製品だとして、全ての道場生に、その製品を使ってもらうためには、完成度が、不十分だからである。私は今年中に完成させたいが、困難を極めている。製品としての完成度とは、世界中の空手家が私の製品を使用して、すぐにその効果を実感できるようになることである。それには理念、理論、稽古システム、競技法、評価方法などなどをわかりやすい形で完成させることである。さらに必要なことは、教本サイトをスタートさせ、それを道場生が閲覧するようになることだと考えている。私の経験では、あらゆることに上達するには、道場稽古をコンスタントに行うこと。そして独り稽古を行うことである。「独り稽古」とは、自宅、あるいは人の見ていないところで空手のことを考えることである。

 恥ずかしながら、私は時々愚痴的なことを思ってきた。「増田がもう一人いれば…」。また「優れた事務処理能力と理論構築能力を有する仲間がいれば…」。などなど、もうそんなことを考えないようにしたい。覚悟を決めろとの声が聞こえる。つまり、私は覚悟が足りないのである。とはいうものの、「えぃ!」とばかりに気合いを入れ、孤軍奮闘、いつも頑張ってきたつもりだ。振り返れば、そのように思うのは、その必要性と価値がわかるということでもある。そこまで至らない人がほとんどだろう。私は、全ては、自分の社会的な意味での「からだ(身体)」の能力を高める機縁なのだと思いたい。さらに言えば、その能力がなければ、今自分にあるもので、その機能を代用する創造性が発揮されるための機縁なのだ(此処が大事である)。そして、その機縁が自己の感覚と能力を向上させる機縁なのではないかと思うのだ。言い換えれば、その不自由感が真の「自由」を知る機縁なのである。

【基本ができていない】

 さて、研究科生のみならず道場生に伝えたいことがある。皆さんは、基本ができていない(それは指導する私の責任かもしれないが)。基本を体得するには、基本稽古が重要だと認識し、その稽古をゆるがせにしないことである。私は、組手競技に集中していた若い頃、基本稽古を組手稽古に必要だと認識して、熱心に行っていた。それは、私が自分の突き蹴りが未熟だと認識していたからでもある。おそらく多くの空手流派の稽古生は、基本稽古をあまり行わないだろう。また、仮想組手(シャドー)やビックミット、そして組手稽古が空手の稽古だと考えているのだろう。しかし、組手試合に勝つための手数を増やす稽古は基本稽古ではない。

 

 拙い例えで伝えることを試みるが、私の空手道は書道の習練と同じである。私は、書道の習練に、まず大事なのは、文字の理解は当然として、筆の理解と操作法の体得だと思う(墨や紙の理解も必要かもしれない)。それができてから筆と書と書き手のイメージ(心)の一体化、そして、その表現の卓越性が問われてくるのだと思う。空手に置き換えれば、基本の動作をより正確に行えること。それが文字の理解と墨と筆の操作である。漢字が間違えたら、それで終わりである。また、筆の操作は、自分の体を理解し、それを自由に使えるようになることである。 そのことを考えながら、空手の基本稽古を行っていますか?聞きたい。これまで47年近く空手道の稽古をしてきた。そして空手を稽古する者を見てきた。もちろん、ほんのわずかであろうが…。ここでいう基本とは、回し蹴りのみならず、あらゆる蹴り技、そして突き技、多様な技の稽古を通じ、技を作る際の体の使い方を掘り下げているのかということである。私の武道メソッドは、型だけ、試合だけ、というものではない。口幅ったいが、「武道修練においては、試合(組手)があるからこそ型がある」。また、「試合(組手)と型の稽古によって最高の自己と技を創出し、かつそれを表現したいなら、基本を忘れるな」と言いたい。

 【新たな始まり〜60歳からの空手武道が面白い】

  かくいう私も、未だに未熟な技しか使えない。また未熟な試合しかできない。だからこそ、「初心、忘るべからず」、今の自分を明確に理解し、新たな始まりにしたい。また、私が未熟な理由は、身体的な能力不足と、充分な身体の理解不足だろう。私は、その不足分を、必死に補おうとしている。私もあと数年で還暦である。身体の具合は、皆が想像する以上に良くない。「時すでに遅し」と言われるかもしれない。だが、歳をとり体が衰えた今だからこそ、身体的な能力不足、理解不足のみならず「技」に対する理解不足をより深く自覚できると考えている。そして、60歳からの空手武道が面白いと考えている。また、そのようなテーマで武道を極めたいと考えている。とはいうものの、あと10年もないかもしれないが。

【パラリンピックに注目】

 昨今、テレビでスポーツ番組が多い。東京オリンピックが1年後に近づいてきているからだろう。オリンピックを想定して、スポーツを盛り上げるのは良いことだ。私もスポーツを推奨する人間として、様々なことを学んでいる。私は、各種スポーツを注目しながら、若い人の頑張りが眩しく、頼もしく感じている。オリンピック競技ではないが、ラグビーや高校野球も良い。私もそうだったと思うが、若い人が目標に向かって頑張っている姿は心惹かれるものがある。また、パラリンピックに注目している。なぜなら、パラリンピアンの考え方に、健常者が学ぶべき点があると感じたからである。そして、パラリンピックに対する雑感を前に書いた時とは異なる視点が生まれている。今回、研究生に伝えたいと思うので書いておきたい。

 

 パラリンピアンの価値は、無いものにこだわらず、あるものの機能を最大限に発揮し、競技を行い、自己を表現するということだと思っている。その姿が健常者にも新たな地平を感じさせるのだ。もう少し具体的に言えば、パラリンピアンは健常者の機能と比較して、明らかに不自由と思われる身体を開拓している。それは、健常者には不自由と思われる、身体機能を受け入れ、その不自由な部分を補う機能を開拓しているということだ。換言すれば、「不自由」な境地から「自由」の境地に至っている。

【本当の自由を得ること】

 実は、今年のお盆休み、金沢から東京へ戻る途中の車中、鈴木大拙の講演を何度も聞いていた。鈴木大拙とは、禅と東洋哲学を世界に英語で広めた世界的な学者である。また、鈴木大拙の友人である西田幾多郎は、禅を基盤にした哲学を世界に発信した、日本を代表する哲学者である。2人は石川県が育んだ偉人であり、私の思想に多大な影響を与えた先達の一人である。鈴木大拙氏は講演で、「真の自由とは不自由が自由である」「自然というのはおのずからしかる」というようなことを述べていた。 そんな中、私はNHKのパラリンピックの番組を見ていた時のことを思い出していた。その番組で片足のない自転車競技者のアニメのワンシーンに感銘を受けた。そのシーンは、片足のない選手と健常者の自転車競技者とが一緒に自転車に乗っていた時の会話のシーンである。「片足で自転車を漕ぐなんて考えられない」と健常者が言葉を発したのに対し、「僕は生まれたときから片足がないんだ。だから片足がないことが自然なんだ…」。私は「自然」という言葉にピンときた。 そうだ、自然ということが大切なんだと思う。「俺が俺がと我を張るが我とはどこにあるんだ」と鈴木大拙先生が語っていた。そして「おのずからしかる」ということの奥にあるものを掴む、ということが、本当の自由を得ることだと言っていた。そして、「我にとらわれずに、自ずからと一体になった時」それが本当の自己を知ることであると、私は理解している。つまり、私の武道哲学は、自己の心身を介し、他者の心身と対峙する。そのことを通じて、真の心、そして真の身体を理解すること。それはパラリンピアンの体験の中にある、自由の実感、そして自己の解放に、武道哲学の究極の境地があると思うのだ。私の身体は、まだ強い面もある。しかしながら、ある面はかなりの不具合がある。それは、若い頃から目指している高い境地の動きのイメージの実現を前提とした場合ではあるが。そのように言っても、理解できないかもしれない。つまり、私のイメージは通常の人よりはるか高い境地にあった。しかし、そのイメージを実現できなくなってしまっているのだ。それは身体の傷病のみならず、私が心身の修練を怠っていたからだと思っている。

 言い訳になるが、武術家という芸能者として、横道にそれた生き方をしてしまったが故だと思う。あえて言えば、横道にそれたなら、そのままいけばよかったかもしれない。しかし、その横道に、私は納得できず、また求道的生き方に戻りたいと思っている。だが、若い頃と異なり、多少の社会的な責任もある。また、残りの人生もわずかになってきている。だからこそ、後悔のないよう、もう一度自分の心身に挑戦し、それを開拓したい。同時に私の思想を理解できる若い人や老人と共に空手の可能性をもっと高めたいと考えている。

  最後に、私の人生最期の目標は道を極めることだと言っておきたい。その結果、私がみんなの肥やしになれば良い。心は決まった。だが、現実は厳しい。その現実に負けないように、なるべく妥協しないように、頑張りたい。

 

写真下:研究科生と共に

▶︎デジタル空手武道通信 第33号

ラグビーの記事から

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競技のデータ収集と分析

 

 優れた競技の世界では、競技結果のデータを取り、それを分析する。ランチェスター理論を知った高校生の時から、空手競技もデータを取り、それを分析して戦略と戦術を構築する必要がある、と私は考えている。しかしながら、まだ空手競技はデータを取ってもそれを生かせるだけの競技にはなっていない。

 昨今はサッカー、テニス、野球、あらゆるスポーツがデータを取り、それを分析するようだ。勿論、そのデータ収集の仕方、分析の仕方によって、導出される理論は異なるものとなるだろう。しかし、そのことを含めて競技を考え続けることで競技が進化、そして発展する。

 私が40数年前に直感したように、世の中はデータを取り、そのデータを分析、活用する時なっている。おそらく全てのジャンルのおいて。しかし空手界や武道、武道と言っているもの達の世界は遅れている。だが、ここで言っておきたい。データを収集し、それを分析、活用するには、「人間の弱さ」「愚かさ」に気付いていることが前提になる。同時に、その地点から人間性を回復、維持するようなシステムを永続的に作り上げることなのだ。それが人間の強さであり、より高い知性の働きなのだと思っている。

 

スポーツも武道も人間教育システムである 

 振り返れば、子供の時から考えることがより本当のことが知りたかった。もっと勉強をして学者になりたかったが、身体的な才能を伸ばすことに全エネルギーを投入した。その配分には反省点もある。また、学校が嫌いだった。しかし、優れた学者の本を読み、その弟子になりたかった。だが、学校の嫌いな者が優れた学者の弟子になれる訳が無い。私の言い分を聴いた者の多くは噴飯するだろう。また、ある者は私の性格の未熟を指摘するに違いない。それは半分正しいが半分間違っている、と思っている。その意味は、日本の教育システムに良くないところがあるということだ。断っておくが日本の教育システムの良点が今日の日本の繁栄を築いたということは認めたい。しかし、本当にこのままで良いのだろうか?社会環境や生活スタイル、同時に価値観も変化している。そんな中、もう少し改変しても良いと思っている。勿論、日本の教育システムの全てが良くないということではない。だが、そこに既得権益者の自己保存の欲求からくる瑕疵があるのではないかと疑っている。また、その瑕疵を見逃していては、少数だが優れた素材を生かせない。また、劣化した人間を再生産してしまうと考えているのだ。そう書くと言い過ぎだろうか。いまの私には、その意見を裏付けるためのデータや例を挙げることが出来ない。

 いま私が武道の普及を通じて思うのは、スポーツも武道も人間教育システムであるということである。同時に、より良い武道とは?またより良い教育システムとは何か?残りわずかな人生の中で問い続けたいと思っている。

 

追伸

最近、日本社会はスポーツバブルの様な様相である。オリンピック後、どうなるのだろうか?難しいことは棚上げし、スポーツを見て欲しい。様々なことに気付くはずである。そして、高い意識を持った同士と会話を楽しみたい。そのためには、決して「日本頑張れ」などという感情的な面からのみ観てはいけない。もっと深く観れば、色々と楽しめるはずである。私もスポーツ観戦を楽しんでいる。そして多くのことを学んでいる。そう声高に言えば、「難しいことをいうな」「楽しめればなんでも良いんだ」、また「日本を応援することが悪いのか」と多くの人から反発を受けるかもしれないが…。本当の「スポーツを愛する」「スポーツを楽しむ」とは、何だろう。そして言いたい。「何が楽しい??」「何が??」「なぜ、日本を応援する?」…。私は、人間を応援したい。また、スポーツを応援したい。勿論、日本代表も応援する。

 

 

記事の閲覧はこちらから  https://bit.ly/2kp6tsN?fbclid=IwAR3vwfwX--metmhE4j48t8uWOYcr_e9_BCuLLucwXc48sX48duZlKT5bN3k

世界大会とは何か? 未来の極真空手へのメッセージ  その1〜序文

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世界大会とは何か? 未来の極真空手へのメッセージ 

 その1〜序文

 

【とても怖い言葉】

 現在、オリンピックを前にスポーツ関係者のみならず、経済人やメディアの広報活動のなかに、「日本のために〜」という言葉が溢れている。

 しかしながら、「日本のために〜」というような言葉はとても怖い言葉だと思っている。それは、我が国の戦時中、多くの人が国の命令に従い、命を投げ出さなければならなかった。それは、とても理不尽なことだと思う。そんな状況を喚起してしまうのは私だけだろうか。「誰かのため〜」ならまだ良いかもしれない。増田は、自分のことだけを考える自己中心的なやつだと思う人もいるだろう。だが私には、たとえそれがスポーツであっても同じである。否、スポーツなら尚更である。命を投げ出して戦うためには、もっと明確な理由と動機が必要だと思っている。要するに私は、みんながそう考えるからではなく、自分が本当に納得できなければ気が済まない性格なのだ。私は、そんな子供だった。だから学校が嫌いだった。先述したように誰かのために学校へ行くのだと考えたら少しは気が楽だったかもしれない。しかし、学校や勉強は誰かのためにするものではないと思った。断っておくが、私は勉強が好きだった。ただ本当に学校が嫌いだったのだ。本当は何事にも本当に納得できる考え方を、親に提示してもらいたかった。だが、親からも教師からも、誰からも本当に納得できるような答えは帰ってこなかった。それは金沢という田舎で、インターネットもない時代、情報がなかったからだと思っている。だから本を読み、色々と自分で考えてきた。

 

【極真空手と極真会館の未来に向けてのメッセージ】

 そんな中、「ファイト&ライフ」という雑誌から「日の丸を背負った気持ち、覚悟とは?」というようなテーマのインタビューの話があった。私は極真会館の世界大会に四度出場(正確には三度)している。そのテーマに沿うことが聞けると考えたからであろう。私には、幼い頃からの思いと併せ、極真空手と極真会館の未来に向けてのメッセージを発信したかった。そう考えながらも、当日忙しかったのと体調が悪かったことなどで、言いたいことが上手く語れなかった。その日は、悔しくて寝られなかった。木曜日のことである。その日はギックリ腰の症状が出ていた。おそらく、土曜日に極真会館の世界大会に出場する日本代表選手並びに全日本強化選手へのセミナーのために少し無理をした影響かもしれない。また、他の仕事が重なっていた。特に10月に行う予定の合宿には、私の道場の命運をかけている。実は、今回のセミナーは、極真会館の松井館長から2週間前に直接オファーを受けたものであった。即、受けたものの、全日本の監督の木山元世界チャンピオンや代表選手とは交流したことがない。一体、どんなセミナーをしたら良いか、直前まで悩んでいた。これまでの私は、極真空手が良くなることを考え続けてきた。だが、そのやり方が悪かったのか、その思いがいつも空回りし、遠回りをしてきたと思っている。すでに軌道修正するには時間も力も無くなってきている。今回のオファーは光栄だが、大変な仕事だと思った。

 木曜日のインタビュー、土曜日のセミナー、日曜日の交流試合と今週はストレスが限界点近くに達していたと思う。毎日頭痛が酷く、鎮痛剤と水分補給をし、血圧チェックしていた。大変つらい毎日だったが、そのおかげで極真空手と極真会館の未来向けてのメッセージが見えてきた。

 

 【拓心武道メソッドの実験として】

 初めての極真会館でのセミナーは、極真空手の未来に向けて、私が考案したTS方式の組手法と拓心武道メソッドの体験とした。内容は、私の道場生の小学生から大人まで一貫して教える、基本的なものだった。拓心武道メソッドの第1ステップの基本と言っても良いものだ。そんな基本的な稽古が極真会館の世界大会メンバーに役立つか?受け入れてもらえるか?と不安があったが、それしかないと判断し実行した。松井館長の見学があったせいか、皆、真面目に取り組んでくれた。途中、「増田師範がこんなに真剣にセミナーを行っているのに緩い、もっと真剣にやれ」と松井館長から檄が飛んだ。とても嬉しかった。同行した増田道場の荻野先生は感動して熱いものがこみ上げてきたらしい。しかし、当の私は、私の道場生に比べたら十分だよ、と言おうと思ったがやめた。 

 その檄のおかげか、拓心武道メソッドの実験として、良いデータが得られたと思っている。誤解を恐れずに言えば、基本的メソッドの指導において、私の道場生の10倍のスピードでTS方式の組手法を理解してくれたことだ。具体的に計算すれば、30時間かかるところが、3時間のセミナーで伝えられた。極真会館のトップ選手たちだから当然といえば当然だろう。私の収穫は、私の考案したメソッドと組手法は理解できるものだということである。ただし、極真会館の選抜選手がTS方式を良いものだと認識してくれたかどうかはわからない。だが、私は確信した。TS方式には顔面突きのあるヒッティングを体験してもらえれば、同様に10倍のスピードで理解するだろう。ということは、極真空手のトップ選手がヒッティングと拓心空手メソッドを取り入れれば、少なくとも立ち技格闘技の中では最強になるという結果が私には見えた。

 考えてほしい。185センチ以上、体重100キログラム以上の選手たちが、皆、蹴り技が上手く、しかもフットワークが良い。中量級も良かった。逆に軽量級は手数足数の組手なら良いのかもしれないが、おそらく戦略、戦術的なイメージに極真空手特有の瑕疵が見えた。だが、それも拓心武道メソッドで必ず変わる。そう確信した。また、極真空手家の豊富な運動量を質的に転換すれば、ものすごい空手に極真空手が生まれ変わる。おそらく私だけの確信だろう。問題は私以外の人のは、それが鮮明に見えていないところにある。私になぜそれが見えるか。それは簡単である。拓心武道メソッドは、57歳の増田章を変え続けているメソッドでもあるからだ。

 土曜日はセミナーの映像を確認し反省した後、2時ごろ就寝した。日曜日の朝は頭痛と右膝の痛みがあったが、腰の方は楽になっていた。

 

その2に続く


世界大会とは何か? 未来の極真空手へのメッセージ  その2〜場所

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【自分のために】

 

 「日本のために何かを行う」「誰かのために何かを行う」、どちらも尊いことだと思う。それでも「自分のために」ということが基本ではないか、と私は考えている。なぜなら、チームの力が一つになった姿をスポーツでは賞賛する。メディアはそのことを素晴らしいことだと喧伝する。私もその姿を素晴らしいと思う。確かにチームスポーツでは個の力を一つに結集しなければ勝利を得られない。一方、個人スポーツでも個(自己)が有するあらゆる力を結集し、他者の戦術を封じ込め、勝利しなければならない。それを理解している者は集団のチームプレーも理解、実践できると考えている。だだし、優れた理念とシステムの下ならばだが。要するにチームに所属する個が信頼をベースに交流し、力を合わせる。また、個が有する様々な力を理解し、協働させる。その感覚は、高度なチームプレーを実現するために必要な根本原理なのだ。

 

【真にチームに貢献できる人間】

 話を進めれば、「日本のために何かを行う」「誰かのために何かを行う」ということも、畢竟、「自己(自分)の有するものを深く自覚し、それをより善く発揮すること」で成し遂げられることなのだ。同時に、より善く自己(自分)の有する力を発揮するとは、他者のためになるというゴールに繋がってこそ真実になる。そのことを理解できる者(個)が、チームプレーにおいても、真にチームに貢献できる人間だ、と私は考える。それを自覚していない個の行為は、自我の充足のために行う利己的な行為だと思う。

 つまり、私の考える「自分のため」とは、自然、他者に生かされている自分を、最高レベルで自覚し、それを磨き高め、かつ生かすことだ。言い換えれば、さらに言えば、自分を最高レベルで生かそうと考えた時に自然、同じ意識を有する他者の個体(個性と能力)と協力すれば、より強大な相手に立ち向かうことができるのではないか。そのように考えた結果が人類の歴史にも垣間見える。つまり、チームプレーは人類の叡智でもあるのだ。

 しかしながら、先にあげた国と国が、人間と人間が殺しあう戦争の際、そのチームプレーとは一体なんなのか。ということを私は考えてしまう。そして、その答えを捜すキーワードが「自分のため」「自分を最高に生かすため」というキーワードだ。まずそれを起点に考える。おそらく全ての人が自分を最高に生かすためには死にたくないだろうし、殺されたくないだろうし、他者から恨まれたくないだろう。私が言いたいことは、自分以外の他者を尊重する。その考えを起点にしなければ、個を最高に生かすということはできないということである。同時に協力する他者(他個)に対してのみならず、自己(自分)を尊重できなければならない。なぜなら、自己(自分)を尊重できない者は、長期スパンで見た場合、個(自己)が有するあらゆる力を結集することはできない。そして、「エゴ(自我)の充足」でしかなかったとなるだろう。

 

 【眼差し】

 ここで少し脱線するようだが、日曜日に行われた私の道場の交流試合の話をしたい。土曜日の11時過ぎに道場に戻った時、師範代の秋吉が交流試合の備品の積み込みをしていた。秋吉も通常の稽古指導にあわせ、試合の指導、準備と大変だったに違いない。私は監督するだけの立場だが、選手のみならず運営スタッフ、また応援する選手の家族ら尽力に敬意を持ち、それを眺めていた。その眼差しは、交流試合の前日に参加した極真会館の世界代表選手と選抜メンバーの合宿においても同じだった。その意味は、極真会館の合宿においても、選手とそれを支える師範、先生、他の尽力に対し、私は敬意を持って眺めていた。ただし、私もセミナーの中ではプレーヤー(アクター)だったので、松井館長がその眼差しを持って合宿と私を眺めていたのだろうと思う。誤解を恐れずに言えば、私の姿は見えないほうが良い、と思っている。だが、見えなくとも影響するものを作りたくて私は生きている。その意味がわかる人は、すぐにでも心友になれる。畢竟、私が創り上げ、残したいもの。言葉で言えば、100年以上のこる価値観、勝負哲学、武道哲学と言っても良い。繰り返すが、私は人前に出たくない。なぜなら、誰よりも高尚なことを考え、かつ言いながら、人前に出ると醜い姿を晒すような気がするからだ。

 そんな私の「思い」がほとばしる瞬間があった。それは、交流試合の最終試合 最中、バックヤードで談笑してうるさかった協力道場の生徒たちによって、私の「思い」が増幅されたことによる。うるさくした者たちに対する怒りではない。交流試合を準備した者たち全ての人達に対し、「何のために行動するか(試合をするか)」と言う答えだった。そして「世界大会とは何か?」という問いの答えでもあった。

 

【閉会の挨拶で】

 閉会の挨拶で、私は「国のために戦うのではなく、自分の誇りのために戦うのだ」と言った。口が滑ったが、「ナショナルアイデンティティーの前に自らのアイデンティティーの確立のために全力を尽くせ」と難しい言葉を使ってしまった。そう言った後、「自分を大事にして欲しい」。また「自分と向き合う、そのことで自分の周りにいる家族のみならず、この場所にいる相手、仲間達のことも考えられるようになる」。そして、そこから周りの人達や自分が生きる場所に感謝できるようになる。その感覚が社会や国を愛する気持ちに変わる。「皆さんには是非、自分に誇りを持てるようになって欲しい」「私は空手をその手段としたい」と私は言った。

 

【自分とは何か?】 

 交流試合の総評で私が言いたかったこと。それは「自分とは何か?という問いかけ」を空手という手段を通じて、深く行うことが大事だということだ。さらに、まずは自分自身との対峙、その行為が重要だが、自分自身との対峙とは、実は目の前の他者と対峙することに他ならないと言うこと。そして、自分自身のことを客観視できるようになると、自分の周りのことを考えられるようになる。言い換えれば、他者を通じ自分と対峙する。その深い対峙を通じてようやく自分を存立させてくれた父母のこと家族のこと、仲間のこと、そして社会、国のこと、ルーツ(根っこ)が考えられるようになるのだ。もう一つ、親であっても子であっても、地位が上であっても下であっても、自己(自分)を深く考えられる者同士が交流すれば、自他とは支え合っているものということが自覚される。ならば、より良い支え合いを目指すことが大事だと思う。そのより良い支え合いもチームプレーではないか、と私は考えている。

 

【世界大会とは何か?】

     ここで、あらためて「世界大会とは何か?」を考えてみる。まず、競技において「個(自己)」が最高のパフォーマンスをしたければ、まず他者と平等に対峙できるルールを有する場所が必要になる。さらに、その場所で相手とより正確に対峙する事が必要だと考えている。

 その上で、相手と自分の関係性を透視し、相手の優位性と同時に自分の優位性をより正しく理解する。さらに、その優位性を生かし、かつ、より良い行動を選択していく。その結果がスポーツでは「ゴール」だ。また、その道筋が見えないスポーツは良いスポーツとは言えない、と私は考えている。これを言ってはおしまいだが、そういう意味では、現時点での空手競技は良いスポーツでない。

 それを無視して話を進めれば、試合規程が定められた優れた競技において勝利するとは、「自他の交流の中で生じる状況に応じ、自己の優位性を生かし、新しい意味を創造すること」に他ならない。

 言い換えれば、「勝利」に真の意味があるのではなく、「勝利の創造」に真の意味があるということだ。優れた競技スポーツにおいて、真に感動を喚起するのは、「勝利の創造」とそのプロセスなのだ。また、その「勝利の創造」を担保し、かつ古から未来まで繋いでいくのが、競技を成立させている「場所」なのだ。ここまで難しいことを書いてきたが、理不尽で納得のいかない点が多かったが、それでも、私にとっての極真カラテの世界大会は、そのような場所であったのだ。

 私の参加した世界大会は、大山倍達師範が一代で築き上げた、言語、宗教、文化、国家の異なる世界80カ国以上の選手(同志)たちが交流し合う壮大な場所だった。そのような場所を創設した、大山倍達師範の業績は、簡単には表現できないほどすごことだと思う。また、その場所を皮膚感覚で感じることができた経験は、私の哲学に強い影響を与えている。ただし、良い面ばかりではなかった。人間の愚かさや弱さを含んでのことである。だが、その様々な要素、感情を経験する中、人間性の真善美を垣間見ることもあった。

 

 【場所の経験】

 場所とは「意味生成の機能」の基盤となるものである、と私は考えている。その「場所」を深く自覚することによって、他所と対峙すると同時に自分と深く対峙する。そして、自他を尊重し合い、それを理解し合う。そのような体験をさせてくれた場所が、私にとっての世界大会だと言っても良い。付け加えれば、「人間はみな同じだ」という感覚を身体に喚起させた場所が私にとっての世界大会であった。

 断っておくが、比較にならないほどの規模の交流試合という場所で会っても、参加する皆がその場所に対する神聖な気持ちを自覚すれば、世界大会に勝るとも劣らない意味が生成されると思っている。逆に言えば、どんな大きな規模の場所でも神聖な気持ちがなければ、どんな小さな規模の場所より、意味のないものになる。

 ここで、私にとっての「世界大会とは何か?」を書いておきたい。それは自分のアイデンティティーの一部だ。そして増田章の自信の基盤かもしれない。自分よりもはるかに大きい相手と力と力、真っ向勝負を体験できた。また、世界中の多様な人々の「思い」を受け取った。今、その「思い」は、伝統という価値を私に感じさせている。

 

 【大きな後悔】

 そのような感覚を感じた時、大きな後悔の念が湧いてきた。それは極真空手の世界大会という自分のアイデンティティーの一部、自信の基盤を増田自身が自ら壊したという声が聞こえたからである。実は、それを書きたくて、この小論を書いていると言っても過言ではない。

 私にとっての世界大会、それは「最高の自分」を表現する場所でもあった。同時に「最高の空手」を目指すのだ、と衝動させる場所であったと思う。さらに、伝統の価値を保存する場所でもあった。

 それは非日常的な場所であるかもしれない。しかしながら、その非日常の場所は、日常における地味な努力と覚悟、そして準備の場所と繋がっている。だからこそ、その尊い日常と尊い非日常を繋ぐ「場所」として重要なのである。その尊い場所を私は壊してしまった。今、私は命を賭して、増田流ではあるが、自分のやれることを行いたい。

 

【なぜ、空手は発展しないのか?】

 現在、多くの空手流派が存在する。極真会館がするまでは、寸止め空手(伝統空手)と防具空手、そして直接打撃制の極真空手と3つだったと言っても過言ではない。伝統空手や防具空手は私も経験があり、それは優れた点がある。あえて言うが、伝統空手や防具空手以外で、今も乱立している流派の多くは大山倍達師範の創設した極真空手に影響を受け、それを真似して派生していると言って過言ではない。

 ここで私が言いたいことは、伝統空手、防具空手以外で直接打撃制の空手は、大山倍達師範が極真会館、極真空手として統一できていれば、空手界が統一する道が見えたかもしれない、と言うことだ。さらに言えば、私が考える極真空手を最高の空手とするための道とは、極真空手を西田幾多郎先生のいうような「意識の野」、すなわち場所として認知させることである。もし、それができれば、空手界の統一と発展が飛躍的に早まったと思う。あえていえば、現在は遠のいていると言っても良いかもしれない。

 一方で、伝統空手が、競技的にも組織的にも進化し、オリンピック競技としての地位にたどり着いた。空手がオリンピックスポーツとして認知されると同時に文化的公共財として認知される地点に立っているのである。だが、次のオリンピックでは競技として不採用だという。歯に衣着せぬ言い方をすれば、まだ未成熟、不十分な点があるのだろう。他方、極真空手も同様である。武道としてもスポーツとしても不十分な認知のままである。

 「なぜ、空手は発展しないのか?」。愛好者が増え、発展しているではないかという者がいるかもしれない。では、空手は最高の武道となっているだろうか。

 極真空手に限って言えば、最高の極真空手になっていないと思う。その原因は、最高の極真空手を認知させる場所、「世界大会の力」が衰退しているからだと言いたい。また、直接打撃制を真似して乱立する流派の存在の影響もあるだろう。さらに言えば、大山倍達師範が命がけで作り上げた世界大会という場所を破壊した増田章の責任である。また、私同様に世界大会を分裂させた者たち。そして、その場所において恩恵を被った者、また最高の競技者の称号を得た、チャンピオン達の思考停止、怠慢によるものだと思っている。

(その3に続く)

2019ー9−25:一部修正

 

世界大会とは何か?〜未来の極真空手へのメッセージ その3/競技についての小論

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競技について小論

 

【私とラグビーとの出会い】

 現在、我が国においてラグビーのワールドカップが開催されている。私とラグビーとの出会いは、20代前半の頃だ。ジムで知り合った友人が明治大学のラグビー部だった。その友人は現在、ラグビー・トップリーグの監督である。国立競技場に大学選手権を観戦に行ったこともある。当時、ラグビーの大会は、サッカーの大会よりも人気があった。私もラグビーが格好いいとは思ったが、ルールがよくわからなかった。おそらく友人は呆れるに違いない。その私がメディアに乗せられ、にわかラグビーファンとなっている。だが、メディアのおかげで、ようやくラグビーのルールがわかってきた。ルールが理解できると、本当に面白い。何事も同じかもしれない。

 少し脱線すれば、実は、ここ10年近く、私は新しい武道スポーツの創作に多くの時間を割いてきた。初めはフリースタイル空手という競技だった。誤解を恐れずに言えば、それは失敗作だった。しかし、そのおかげで、様々なスポーツのルールとその本質を研究できた。その研究を生かして、ヒッティングという新しい武道スポーツを考案した。それを披露するには、まだいくつかの課題をクリーヤーしなければならない。時間や気力、体力、そして経済的にも私の遺作になるだろう。

 

【メジャースポーツの魅力】

 話を戻せば、ラグビーのみならずサッカーもW杯は世界的に人気があり、個人的にも大好きなイベントである。私は、その様なメジャーなイベント、スポーツには普遍的な要素、必要十分条件が備わっていると考えている。詳しくは、現在書き進めている論文に記したいが、メジャースポーツの魅力を大まかに述べたい。

 まず、する者(競技者)のみならず見る者(観客)にとって競技の魅力がわかりやすく示されていること。具体的には、ラグビーなら「巨漢同士がフィールドと走り回り、ぶつかり合う、その迫力」。さらに「ボールをキープしゴールを決めるためのテクニックとスキル」。もう1つ付け加えれば、「巨漢のみならず、比較的小柄な選手も参加できるという点(多様な個の可能性とチームプレーの物語)」。サッカーならラグビー同様、「ボールをキープしゴールを決めるためのテクニックとスキル」。さらに「巨漢のみならず、小柄な選手も比較的参加しやすいという点(多様な個の可能性とチームプレーの物語)」

もう一つは、「ドリブルやパス、そしてシュートのスピード」でだと私は考える。

 さらに言えば、その様な要素、魅力を基盤にした競技の世界大会を開催できれば、ナショナルアイデンティティーの喚起という要素も魅力に加わるかもしれない。また、世界中の多様なバックボーンを有する人間の参加。すなわち、多様な国籍、文化、価値観を有する人間の相互理解の契機、手段という社会的価値が高まり、競技者の自己実現を後押しするだろう。そのことは、競技選手のモチベーションとなり、かつ競技を文化的公共財としての価値まで押し上げる。

 

 【理想の空手競技の魅力】

 ここでメジャーな空手競技が存在するとしたら、という想像で書いて見たい。一つは「巨漢が突き技や蹴り技を巧みに操り、相手の身体にダメージの認識を与える迫力」さらに「防御と攻撃が巧みで、違いの攻防の中で生じる、針の穴の様なスペース(隙)を見つけ出し、其処を衝くスキルの卓越性」。もう一つ付け加えれば、「巨漢の競技者に身体のサイズで劣る競技者が技術とスキルの卓越性で対抗できるかもしれないというロマン」である。残念ながら、現時点での空手競技はそうなっていない。

 要するに、多様な人間が全知全能を発揮し戦う、メジャーな世界スポーツは面白くなる原因があって面白いのだ。言い換えれば、スペクタクル性、物語性(人間理解のための)、卓越した技術、創造的なスキルなど、知性、感性を刺激する、全ての要素が卓越しているから面白い。

 もちろん、競技が世界に正しい形で普及していることが前提であるということはいうまでもない。しかしながら、鶏が先か卵が先かわからないが、私はその魅力の根本要素を把握しているか、大事にしているかが、今日の発展の分かれ道になっている様に思う。

 

【大西鐡之助】

 実は、ラグビーW杯の日本開催とメディアのおかげで、ようやくラグビーのことが理解できてきた。やはりメディアに取り上げられ、頻繁に意識するということは、理解すること、理解されることのためには、必要条件だと感じている。改めてラグビーの面白さがわかった。そして多くのことを学んでいる。

 先述したように、私はこれまでラグビーのルールをよく知らなかった。だが、日本のラグビーの草分け的指導者である、早稲田大学ラグビー部監督、大西鐡之助先生のことは知っていた。なぜなら、私は本好きで多くの本を読んできたからだ。その中に大西鐡之助先生の「闘争の倫理」という本がある。その本には付箋が多くつけられ、メモ書きがある。その本を初めて目にしたのは、極真会館が分裂した後だったと思う。私はその考え方が極真空手にもあてはまると歓喜しながら読んだ。当時、禅の思想、仏教哲学のみならず西洋哲学などに傾倒していた私は、大西先生のスポーツ哲学とも言える理論に衝撃を受けた。また、大西先生の著書には大西先生の盟友である判先生などとの対話記事があり、それらも哲学的で強い共感を覚えた。「闘争の倫理」の読後も、私は哲学、仏教、社会学、文化人類学など、分不相応の著作と格闘してきた。その読書体験が大西先生の読書遍歴と重なる部分が多いのは、最近、闘争の倫理の文庫本を手に入れ、再読して気が付いた。

 

 【私が空手に求めているもの】

 私が空手に求めているものは、大西鐡之助先生がラグビーに求めたものと同じだと言っても過言ではない。今、断言できる。端的に言えば、人間教育とリーダー教育、そして人間性の回復と賛歌だ。

 だが、私にとっての大きな問題は、空手競技がラグビーの様に哲学を反映した人間教育、そしてリーダー教育にふさわしい競技になっていないところにある。断っておくが、ラグビーは英国で生まれ、英国の貴族階級の子弟のリーダーシップ教育にふさわしいものとして発達したものだ。

 一方の空手は、空手自体は哲学的な部分がないとは言えないが、全て後付けだというのが私の見解である。極論すれば、空手はスポーツではない。そして武士が始めた武道でもない。芸能の派生形だ。そう書くと反論が出るに違いない。ゆえに、競技に関しても、英国の知識階級が考案したラグビーのような哲学的、かつリーダー教育的な部分が希薄だ。

 翻って、空手競技は格闘技、武術であり、戦う技術を競うものだと言われれば、長い時間をかけて論破を試みなければならないだろう。しかし、それは機会を改めるとして話を進めたい。

 

【増田の戦術理論】 その4へ続く

未来の極真空手へのメッセージ〜増田章の戦術理論

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【増田章の競技戦術理論】

 

 先日の極真会館の世界大会代表選手等の合宿でセミナーを行った際、食事会での質疑応答で、ラグビーの戦術理論を例えに増田の戦術理論を披露した。実はセミナーの内容もその戦術理論を理解するための1段階ではあった。私の道場では子供から大人までが学ぶ基本としたいが、指導的立場の有段者の理解が追いついていない。先日のセミナーでは、3時間強という限定の中で、基本的な修練方法しか披露できなかった。だが、極真会館のトップ選手の理解力は高く、10倍のスピードで理解してくれた様に思う。繰り返すが、このことは私の理論が身体的にも理論的にも理解できうる再現可能性と普遍性を有しているという証明となるだろう。機会をいただいた松井館長に、心から感謝したい。

 また、セミナー後に選手との食事会と質疑応答の場を松井館長に設定していただいた。その時、私の研究のため、代表選手の空手以外のスポーツ経験のアンケートをとった。代表選手の中に大学ラグビーの経験者がいたからではないが、私の戦術理論を少しだけ披露した。以下、その内容を紹介、補足したい。

 なぜなら、極真空手の組手競技が、いつか私が考える優れたスポーツになって欲しいとの思いと世界大会という場所の伝統を護りつつ革新して欲しいと考えているからだ。

 

【「接近、展開、連続」と増田の戦術理論】

 

「接近、展開、連続」とは大西鐡之助先生が提唱した、ラグビーの戦術理論のキーワードである。サッカーでも同じ早稲田大学出身の岡田武史監督が提唱した。サッカー競技でいえば、「攻撃の際、接触は避けつつギリギリまで相手に「接近」し、巧緻性を生かしてパスを出す。つながったパスは素早く味方に渡し、グラウンドを広く使って「展開」する。このような攻撃をチーム全員が粘り強く繰り返す(「連続」)」(時事用語辞典より)というものらしい。

 この理論は、大西鐡之助先生が身体の小さい日本人が欧米のラグビーに勝利するには、日本人の特色を生かした独自の戦術を実践しなければならないと提唱したものだ。サッカー界では批判もあるようだ。一方のラグビー界では、日本のみならず、世界のラグビーの基本戦術として認識されているようだ。だが、ラグビー界でも戦術理論は進化しており、批判というよりはより高度な戦術が生まれていると推測する。私が20年前、この言葉を見た時、極真空手の競技戦術にも応用できると思った。

 

【現在の極真空手の競技では】

 詳しくは書かないが、極真空手は相手と激しく対立する競技だ。それゆえ、相手の圧力に対し、それを受け止める力と同時に、それを回避するかのように横に動きながら位置取りし攻撃する。そしてそれを連続するという戦い方が有効だ、と私も考えてきた。だが、本当は20代半ばから、そんな戦い方はあまり高次の戦法ではないと思っていた。しかし、それに対する明確な答え、対案が見つからなかった(見つからなかったというより、それを見つけ、王様は裸だと唱える勇気がなかった)。

 最近になって松井館長率いる極真会館が、少しだけ変わってきたが、現在の多くの直接打撃制の空手競技を見る限り、変化はない。現在も直接打撃制の空手競技における多くの選手がそのような戦い方をする。私はそのような戦い方は良くないと考えている。良くないというより、そのような戦い方で勝利する選手が多くなれば、皆、そのような戦い方に習い、打撃格闘技としての組手スキルが生まれないだろう。また競技として知的ではないし、かつ創造的ではない。

 

【極真空手の競技における「展開」】

 おそらく、ラグビーやサッカー競技と極真空手の競技では「展開」の意味が異なっていると思われるかもしれない。なぜなら、ラグビーやサッカーのゴールは、自分の前方、かつ相手の後方にある。一方の極真空手は目の前にある。ゆえに「展開」の意味が全く異なっている、という向きもあるかもしれない(ボールゲームは相手のディフェンスを突破しなければならない)。だが、私は同じだと考えている。また極真空手家は、先述したように「展開ー連続」を理解してはいけないと考えている。

 私は、極真空手の競技における「展開」とは、相手の防御態勢を崩すために回し蹴りなどの曲線的、かつ外側、横からの攻撃と直突きや前蹴りなどの直線的、かつ内側、縦からの攻撃を組み合わせるものだと考えてきた。そのような攻撃を相手の攻撃を防御(かわすこともふくめ)しつつ継続しながら、相手の態勢にスペース(隙)が見えたら、そこに渾身の一撃を極めるものだと考えてきた

 テニスに例えれば、攻撃と防御をテニスのラリーのように行う「攻防」を繰り返すことで、相手の構え(陣形、心構え)にスペース(隙)が生まれ、そこに一撃が決まるようになるのだ。私が極真空手で実現したいのは、ただ前に出るだけの戦術、手数で勝つ戦術というものではない。また、スタミナを競うかのような連続攻撃というものではない。

 相手の圧力に屈しないメンタルとフィジカルは当然のことである。また、パワーに対しスタミナで対する持久戦に持ち込むことは有効な戦術ではある。だが、真に競い合う部分は、相手の優位性を認めつつ、自己が有する独自性を、相手の優位性に対し勝るとも劣らないものに高め活かすことだ、と私は考えている。そして、競技の意義は、そのようなテクニックと戦術スキルを体得することなのだ。そして、そのスキルの創出の原則が攻撃方法の「展開」である。それは、テニスやバトミントンのラリーにも見て取れる。連続とは、展開と併せ、相手の崩れが生じるまで、スペースが見えるまで繰り返すことなのだ。その先に勝利がある。以上のような点を踏まえ、私が考える未来の極真空手の競技者に向けて、「接近—展開—連続」を基本原則の見直しを提言したい。同時に、その原則をさらに一歩進めた「対峙—透視—創造」という戦術的キーワードの視点を提案したい。

 

 

【「対峙—透視—創造」とは】 

「対峙—透視—創造」とは、相手とより正確に対峙すること。その意味は、否定し合う対立ではなく、相手とコミュニケートすること。その上で自他の状況を俯瞰しつつ、自己の可能性、優位性を見つけ出すこと。そして優位性を生かす戦術スキルの創造を通じ、ゴールの新しい意味を創造していくことである。

 そのことを若い極真空手の世界大会選手に伝えた。現状の競技ルール、審判法では、私の理想は実現できないかもしれないし、私の伝えたことは一笑に付されたかもしれない。それでも、私が実現したいのは、より精度の高い技術(破壊力も含めて)とそれを駆使する戦術スキルが創造、示されるような競技なのだ。ラグビーのW杯を見ていて、私の戦術理論が実践されていると感じるラグビーチームがあった。それはニュージーランド、オールブラックスである。

 私がオールブラックスの試合で着目したのは、彼らの試合でよく見られる「ターンオーバー」である。「ターンオーバー」とは、オフェンス側とディフェンス側、すなわち攻守が入れ替わることである。それは、私の空手理論の「応じ(技)」と同じである。武道の世界でいう、「後の先」という攻撃法とも捉えられるかもしれないが、そんなに簡単なことではない。また、決して単なる相手のミスを待つような消極的な戦術だと理解しないで欲しい。

【応じ(技)とターンオーバー】 

 「応じ」を簡単に定義すれば、相手の攻撃を確実に防御し、間髪を入れずに相手の隙(スペース)を攻撃する戦術であり、戦いのイメージである。それは100人組手をより高いレベル完遂するために考えた、戦いのイメージ、そして会得した戦術である。

 少し脱線すれば、私が先日行ったセミナーにおいて、はじめに掲げたセミナーテーマは、「相手の攻撃を一撃ももらわずに、一撃(自分の)一撃を決める」だった。また、さらに高次のコンセプトとして「一撃を追い求め、心撃を極める」というキーワードを掲げた。たった10分の説明だった。その後、おこなった基本練習とTS方式の組手法の目指したことは「応じ」の認識であった。また、組手の基本は相手とのコミュニケーション、対話であり、同時に自己内部にも同じコミュニケーションがなければならないと言うことを伝えたかった。そこまで理論的に伝える時間はなかっが、松井館長、ただ一人理解してくれたように感じた。それは新たな友情の萌芽でもあった。兎にも角にも、私の言う「応じ」の理論と意義が認識できなければ、今、私が書いていることも理解できないかもしれない。

 話を戻せば、ラグビーチーム・オールブラックスの「ターンオーバー」は、あらかじめ意識され、かつ準備された戦術であると見る。彼らは、強力なフォワードの圧力を真っ向から対峙しながら、冷徹に相手の陣形と自陣を透視し、そこから流れるような展開ラグビーを見せていると感じた。つまり、オールブラックスが実践している戦術は「対峙—透視—創造」である。彼らのプレーに見える、「対峙—透視」から生まれる巧みなスキルとしてのパスプレー(連携プレー)やキック、そこから生まれるトライ、ドロップゴールこそが、新たな戦術スキルとゴールの意味の創造なのである。それを、新しい意味へのブレイクスルー(突破)といっても良いかもしれない。

 

【闘争ゲーム(競技スポーツ)の意義】

 これまでのラグビーは闘争ゲーム(競技スポーツ)だった。その闘争ゲーム(競技スポーツ)の意義を大西鐡之助先生は、闘争における倫理性と問題発見解決型の真の知性を育むこと。また真の知性を有するリーダー教育だと考えた。私は、そのことに強い共感を覚えた。だが、新しい武道スポーツの創出を考えている私は、これからは大西哲学を承継しつつ、ゲームが敵と共に人類の良知良能を顕現させるのだ、という価値を提示し、闘争ゲームに内在する、創造スポーツとしての面に着目したら良いと思っている。その認識を持てれば、本当の敵は頑迷で卑屈な自分だということに気づくはずだ。また、それを認知できれば、スポーツ競技を通じ真の友情を理解できる。さらに、それを認知できる人を増やしていけば、闘争ゲーム(競技スポーツ)の普及が人類社会の融和と共存により貢献できるようになると考えている。

 それには、私が「その2」で書いたように『「勝利」に真の意味があるのではなく、「勝利の創造」に真の意味があるということだ。優れた競技スポーツにおいて、真に感動を喚起するのは、「勝利の創造」とそのプロセスなのだ』。という価値観が共有されていなければならない。大変困難なことだとは思うが、未来の極真空手はそのような方向性で発展してほしい。

 極真会館の世界大会代表選手に伝えたかったことは、以上のようなことだ。少し難しすぎるかもしれない。だが、選手等にも時にはラグビーでも見て、気分転換と勇気をもらうことを進めたい。

【蛇足】

 これから書くことは、戦術理論とは関係ない蛇足である。私はラグビー自体を楽しむのみならず、自分の戦術理論を確かめるためにラグビーW杯に注視している。私は日本におけるラグビーワールドカップの優勝チームは、ニュージーランドと予想しているだ(ただフォワードが強いチームが勝つかもしれない。私もフォワードが強い選手が好きだ)。

 私はオールブラックスのラグビーを創造的で素敵だと思いながらも、一方でフォワードが強く、前へ前へと圧力をかけ続ける南アフリカチームが好きだ。また、彼らの戦い方のひたむきさは、最も好きである。選手たちは全盛期の極真空手家のようだ。もちろん、一番応援しているのは日本であるが。また、アイルランド、ウェールズ、南アフリカ、イングランドの活躍も楽しみである。

 ここで思い出されのは、20年ほど前にNECラグビー部で講演をしたことである。その時はラグビーのことがわからず、また、自分の戦術理論も上手くまとめられなかった。その時は、攻撃のみならず防御の重要性と守りを固めれば、相手にミスが生まれるはずだ。そのような態勢と心構えを作れば、負けないチームが作れるのではないかと言うような話をしたように思うが覚えていない。しかし現在は、若干考えが変わった。20年前に考えたことは完全な間違いではないかもしれない。ラグビーでは、相手の圧力に負けず、相手に圧力を加えられるようなフィジカルやメンタル、そして戦術は必要であることは間違いない。また、そのような拮抗した状態で慎重に戦い続ければ、相手がミスすることもあるだろう。新日鉄釜石の全日本選手権の連覇を阻止した、平尾誠二率いる神戸製鋼の戦い方は、相手のミスによって得点を確実に稼ぎ、接戦を制する。そんな戦い方をしていたように記憶する。私も延長戦が限りなく続けば、全試合勝てるはずだと思っていた。負けると考えた選手は一人もいなかった(当時は)。なぜなら、誰よりも体力があり、攻撃力があり、防御技術があった。それでも勝てなかったことに対し、その意味がわからず、死ぬほど悩んだ。その意味を解明するのはここではしない。ただ、その戦い方は理想形ではなかったことは書いておきたい。

 最後に、私がラグビーをやるとしたら、味方のみならず、敵ともコミュニケーションを取るように戦うこと。そして、対峙(アタック、接近)から、自他の陣形を透視しつつ、水が高きから低きに流れるようにパス、キックとスキルを発揮し、展開していく。さらに、そのような戦い方を連続しながら、新しいトライ、ゴールを創造していく。そんなラグビーを目指すだろう。田村選手がスタンドオフを務めるジャパンが最高に機能するとしたら、アイルランド戦では、そんな展開になるだろう。そして、そのような展開になれば、4年前の再来となるかもしれない。ただ、そのような展開は困難だと思う。なぜなら、アイルランドのフォワードの力に対しジャパンのフォワードが持たないように思うからだ。また選手たちがそんなイメージで準備していたかどうかはわからない。ラグビーのことをほとんど知らない私がここまでいうと、お叱りを受けるだろうが。否、素人が色々と評論できること。それもメジャースポーツが有する要素、特徴である。

 

その5に続く

2019-9-28:加筆修正

 

奇跡ではない!ラグビー 日本代表対アイルランド代表戦を観て

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【奇跡ではない】

 

 奇跡ではない。これは選手の覚悟と準備の結果だろう。しかしながら、こんな結果になるとは思わなかった。前半は感動で熱いものがこみ上げてきた。

 

 前半から基本的なプレーが正確、かつ慎重だったとように思う。ミスがない。しかも積極的だった。得点には結びつかなかったが、前半は互角。むしろ、相手の焦りによるミスが目立った。アイルランドにリードされていたが、この感じを継続できれば、ひょっとしたらと思った。

 

 まず私の印象に残ったのは、前半、的確なキックでエリアの優位性をキープしようとしていた、アマナキ・レレイ・マフィ選手だ。その後も良いプレーをしていたうように思う。とてもいい選手だと思った。そのマフィ選手が怪我で退場する前、リーチ選手の顔がテレビの画面に写った。とても冷静で、「この試合いけるぞ」という顔をしていたように見えた。私はリーチ選手と田中選手のファンである。

 

 その後、脚本があったかのように負傷したアマナキ(マフィ)選手に代わりリーチ選手が加わった。そのリーチ選手のプレーで、日本のプレーに勢いと圧力が増し、アイルランドチームに反則が生まれた。その反則によるペナルティーゴールを確実に決め、3点差で終えた。

 

 今回のW杯によって、ラグビーのルールが7割、理解できた。ゆえにラグビーの面白さを実感している(残念なことは、テレビではプレーの際の攻守の陣形が全て見えないことだ)。加えて、日本チームが頑張っているので尚更である。後半、福岡選手が加わり、逆転トライを決めた。それを守り切ってくれと観客の私は願った。

 

 その後も選手のプレーの集中力は途切れなかった。わずかなミスもあったが、それ以上にアイルランドチームの焦り、ミスが目立った。また、日本の基本的なプレーが徹底していたように思う。田中選手が加わり、スクラムからのプレーに慎重さと巧さが加わった。また体格で世界に見劣りのしない姫野選手が良い仕事をしていた。さらに今回、私は改めてフォワードの堀江選手が好きになった。なぜなら、ラグビーで重要なスクラム、フォワードの最前線だということ。その頑張りが今回の結果に繋がったと思うからだ。私には彼は命がけに思えた。少なくとも、私にはそう感じた。彼の気持ちが世界ランキング1位(現在2位)のフォワードに対抗できた力になったように思う(もちろん彼だけではないことはわかっている)。

 

 また、これまで緊張感のあった田村選手の顔が落ち着いているように見えた。おそらく眠れなかったに違いないが、その顔は悟りを得たような顔だった。変な言い方だと思われるかもしれないが、命懸けの境地にたつと、ふっと優しくなる時がある。だが、その優しさが強さにつながるがある。自分を信じ、仲間を信じる。そしてチームのために全力を尽くそうという気持ちになったのだろう。いい顔だった(もともとハンサムだが)。

 

 結果、世界ランキング2位のアイルランドに勝つことができた。勝因は専門家がこれから検証するだろう。だが、私のような素人でも理解できるぐらい、今日のジャパンチームは素晴らしかった。ターンオーバーの戦術スキルが2〜3回ぐらい見えた。また、キックからのトライを数回試みていた。もう一歩だったが、イメージ、フィーリングは良かったのではないだろうか。

 修正すべきは、パスのキャッチミスが数回あったこと。ポイントからの球出し、展開の判断、スピードが遅かったプレーが数回あったことではないだろうか。もう一つ言えば、福岡選手が抜け出し独走する瞬間、誰か福岡選手をサポートするような選手(相手ディフェンスを撹乱する選手)がいても良いのではないかと思った。素人だからわからない。その辺のプレーが修正され隙がなくなったらすごいことになるかもしれない。

 

【理念を有するスポーツだからこそ】

 最後に、物事を行う前の心構えとして、誰かのため、日本のためなどという前に自分のためだという心構えを持たなければならない、と私は考えてきた。それが基本だと思っていた。しかし少し迷いがあった。だが、今回の試合で、その答えが見えてきた。これから考えをまとめたいと思うが、メモとして書いておきたい。やはり本質的には、みんな自分の矜持のために戦っているのだと思う。しかしながら、仲間のため、日本のためという意味と価値をそこにプラスした時、自分の矜持が倍加し、自分の力が120パーセント発揮される時があるのだろう。

 今日の日本チームは仲間のため日本のために命懸けで戦っていたように見えた。正確には、彼らが愛するラグビーのため、そして観客の暖かい応援の気持ちを自分の力に変えていたのだろう。だからこそ、私は、政治や国家権力などが、そのような崇高な気持ちを利用してはいけないと私は考えている。また、「ノーサイド」「ワンフォーオール、オールフォアワン」という理念を有するスポーツだからこそ、その価値が崇高になるのだと思っている。

 試合開始前、アイルランドチームの選手の数人が国歌を歌っていなかったように見えた。一方の日本チームは全員が国歌を歌っていた。ある者は高らかに、ある者は噛みしめるように。思い過ごしかもしれないが、私にはその差が出たように思う。膝がと腰が痛いのでブログを書くことをしばらくやめようと思っていたが、あまりにも感動したので、これを書いている。そして学びがあった。繰り返すが、これは奇跡ではない。選手の覚悟と準備の成果である。スコットランド戦もこれまで培ってきた、ゲームイメージを信じ実力を出し切って欲しい。

 

人生万事塞翁が馬

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【困難とは】

 

 台風19号の爪痕が痛々しい。

被害に遭われた方々には、心からお見舞い申し上げたい。

 

 今回の台風に際し、私は土曜日から予定していた道場合宿を急遽中止した。実は、この合宿は来年の私の仕事の命運を占うような重要なものだった。

 

 実は、合宿内容に関して、私は大変に悩んでいた。それは現在の道場生のレベルで私の考えている空手道が理解できるかという懸念である。

 

 合宿の数週間前になって、ようやく決心がついた。同時に私の身体は限界点に近づいていた。私は今、私の空手道の理念と哲学、そして修練体系を明確にしておきたいと強く願っている。なぜなら、これ以上皆を引っ張って行く自信がないからである。

 私は幼い頃から闘争心が強い。それは自分の人生を台無しに仕掛けた。かろうじて軌道修正ができたのは極真空手と出会ったからである。

 

 私は極真空手のレベルの低さに、「これも大衆の求めることなのだ」「大衆が求める物を使い、人心を掌握して行くことが良いことなのだ」と自分に言い聞かせようとしてきたが、もう限界である。その理由を今、詳しく述べることはしない。だが、ラグビー界の躍進と日本代表の選手達の頑張りを目の当たりにして、「このままではダメだ」という思いが強くなっていることだけは確かだ。そんな中、わずかな道場生を率い、私の理念と技を伝えたいと思っていた。

 

 それが中止になり、とても残念である。振り返れば、これまでの人生も「困難」だらけだった。そんな人生の中で、「困難」に際しては、これは良いことなのだと思うような性癖がついた。言い換えれば、「困難とは何かを伝えてくれる機会」。また「困難とは新しい何か、また大切な何かを見つけ出す機会」だと思う習慣がついている。私はみんなに「困難だと感じたら、すぐに視点を切り替えろ」と言いたい。だが、問題は「困難」だと感じない人が大勢いると言うことである。否、地位が高く、お金を持っている人ほど、その感覚が鈍いように思う。

【人生万事塞翁が馬】

 私は半生を綴った拙著で「人生万事塞翁が馬」という言葉が好きだと書いた。

それは、何事も現時点の視点だけではわからない。長期の視点で考えること。また多様な視点で考えることが大事だということを、人生の中で感じたからだ。

 

 今、私の身体はあと少しで右足が使えなくなるかもしれない、という状況の中だ。それでも、私は来るべき勝負の時に備え、鍛え続けている。

 トレーナーには、使い過ぎだ。休んだ方が良いと言われた。それは正しいアドバイスかもしれない。しかし、そんなことはわかっている。しかし、そんな呑気なことは言ってられない。死んだら誰が責任を取るのだ。私は、自分を信じたい。とはいうものの、今回の台風で合宿が中止になったのはよかったかもしれないと考えている。

 

 台風の被害に遭われた方々は、本当に気の毒である。一方、私がもし合宿を実行していたら、右膝は完全に壊れていたかもしれないと思っている。さらに、考えを切り替え、その間にこれまで後回しにしていた書斎の整理整頓を進めた。

 そのことによって、頭が整理され、良いアイディアが湧いている。右膝は相変わらずだが、使いながら直したい。同時に最悪、右足が使えなくなっても戦えるような技術を考えている。端的にいえば、右手にペンを持っただけで、相手を殺傷できる技術(テクニック)と技能(スキル)を開発するということである。

 そこまで考えていくと、一般の道場生について来られるわけはない。しかしながら、そこにたどり着くためにも「ヒッティング」と言うメソッドが必要なのだ。今後も相変わらずの孤独を覚悟したい。

 だが、僅かだけれども、私の武道哲学に共感してくれる者が必ずいると信じている。なぜなら、私の考えは究極的、かつ普遍的だからだ。決して際物的ではない。

【ラグビーW杯の日本対スコットランド戦】

 さて、本日はラグビーW杯の日本対スコットランド戦がある。とても楽しみにしている。私は、にわかラグビーファンだが、リーチ選手、田中選手、松島選手、田村選手、堀江選手のファンだ。しかし、試合を何度も録画で見ていく内に、チーム全員のファンになった。みんなすばらしい。空手もそんな風に思えるようになったら良いなと思う。

 

 蛇足だが、野球は巨人と西武のファンである。西武は敗れてしまった。幼い頃からの悪い癖だが、私は贔屓のスポーツチームや選手に自分の人生を重ねてしまう。

 今回のラグビー日本代表選手の多くは困難の体験を乗り越えてきたようだ。

 

【闘争心】

 最後に、リーチ選手がスコットランド戦を前にして、闘争心を言葉に表していた。リーチ選手は合宿中でも集中力が高く、寡黙な感じだった。そのくせ、言葉を発するときは、闘争心が溢れ、かつ人の心を奮い立たせるようなキャプテンシー(統率力)があるようだ。

 彼は、テレビでスコットランド戦に際し「優しさは必要ない」と言っていた。まるで私が田村選手に見た「優しさが強さに変わった」という言葉に反するかのような言葉だった。リーチ選手の直感は正しい。勝負には何より闘争心が必要なのだ。だが同時に、真の戦いには優しさも必要だ、と言うのが私の考えである(いつか説明したい)。

 

 だが、あえて言う。「闘争心は必要だが、冷静さも必要だと」具体的には、闘争心を空回りさせて、反則やミスをしないこと。また、怪我も心配である。

 さらに相手の焦りやおごりの気持ちや戦術を透視することを忘れないことが重要だと思う。つまり、試合において相手を見切ることである。その上で、これまで積んできた自らの戦術を無心に遂行するような集中力と冷静さが、闘争心以上に重要だと言うことを書いておきたい。ラグビーや格闘競技は相手を○さない、○しあいだ」と言ってもよいだろう。相手に臆してはいけないのは当然のことながら、決してカッカせずに、冷徹に仕事をして欲しい。

 

【対峙(Opposition)ー透視(Perspective)ー創造(Creation/Breakthrough)」の原則】

 もう少し言えば、アイルランド戦もそうだったが、相手の強みを認めつつ、しかしそこを絶対に発揮させないと言う、冷徹な判断力。そして自らの戦術を120パーセントの力で遂行する集中力を発揮してほしい。そして、「対峙(Opposition)ー透視(Perspective)ー創造(Creation/Breakthrough)」の原則でクリエイティブなラグビーを実現して欲しい(上から目線で偉そうだが)。今回のジャパンチームならできる。

 

 また、多くの人が応援しているが、あまりそれを気にかけず、それを力に変えて欲しい。自分の人生を背負えるのは自分だけだ。それを忘れないで、とにかく力を出し切って欲しい、と願っている。ラグビーオールジャパンの戦いに勇気を得ている一人として…。

 

 

 

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