【型とは何か?2018年12月15日版】
型とは何か?私は、空手道の型のみならず、各種武道の型について、その本質を考えてきた。そのために武道のみならず、茶道や芸道の型についての論文も読むこともあった。つまり、私の考える型とは、人間が創出してきた、文化創出と継承という営みに内在する「型」という概念(コード)および、手段としての「型」という視点が含意されている。
さて、多くの武道、そして芸道には、型を形とすることが多いようだ。しかしながら、私は「形」を「型」と言い表してきた(今後は形という言葉も使うかもしれない)。それに関して厳密に語るとなると、少々論を展開しなければならないので、ここでは簡単に述べておくに止めたい。繰り返すが、私の考える武道では、形という言葉は使わず、型という言葉を使う。当初、伝統空手や柔道などでは「形」を使っているので、「形」と表記しようとも考えたが、極真空手では、「型」という言葉を使っていたので、それに合わせた。
私なりの定義をすれば、「形」という言葉には、技を表演する目的が強く含意されているとみる。より噛み砕けば、形という言葉に内在するのは、人に見せるという目的が強く意識されていると見る。一方、「型」という言葉には、技を承継するという目的が強く内在していると見る。
勿論、形、型の双方に、技を伝える、承継するという目的があるに違いない。ただ、私がここで言いたいのは、人に見せるという目的に対する意識の度合いだ。
「形」と「型」、どちらにせよ、「技を伝える」「技を承継」するということが重要であることには違いない。だが、その目的を問い続けるならば、「伝えたい技とは何か」が問われなければならないと、私は考えている。
言い換えれば、「型とは何か?」を問うとは、流派において真に「伝えたい技(原理技)とは何か?」を問うことなのだ。ここまで書いて、申し訳ないのだが、私には時間がないので筆を端折りたい。この命題に関する、私の攻究を書き記すには、まとまった時間が必要になる。いずれ、組手型の体系作りに合わせ、型と形に関する文化論、武道哲学として書き記したい(私の野望だ)。
【型を有するとは】
論を端折りついでに、型の概念に関するメモを掲載したい。昨晩、深夜に帰宅し、研究科の稽古時、メモとして撮った映像を整理した後にメモを取った。
「型を有する」とは、「自己の形」に再現性があり、かつ、その理合を他者に説明ができることである。「自己の形」に再現性がないものは、時分の花(世阿弥の概念用語)のようなものであり、「真の型」ではない。また、理合いを説明できない形は、どんなに優れていても、個体が獲得した「癖」でしかない。
「形」は人に伝えられ、大事にされてこそ、時間はかかるが本物となっていく。そして、その伝えられた形に内在するものが「真の型」である。
だが、「真の型」を伝えることは非常に困難である。なぜなら、「真の型」を自己のものにすることは、非常に困難だからである。
「真の型」を自己のものとするには、多様な経験を通じ、自己の癖と型とを一体化させなければならない。それには、たゆまぬ自己との対峙が必要である。また自己変革が必要だ。それは、自己の自由自在を得ることを目標とすることと言っても良い。同時に、不自由の極みに対峙することでもあることを忘れてはならない。
さらに言えば、武道や芸道の究極は、自己の最高の形を創出すること、また自己の自由自在を体得するものである。ならば、型を通じ、自己を鍛え直さなければならない、私はそのように考えている。
深夜のメモ書きだから、再考を要するだろう。こんな思いに至ったのは、木、金と忙しく、疲れているからある。疲れていると、せっかちが焦りに変わる。できるならば、矯正したい私の悪い癖である。私は曲がり、偏狭な人間である。しかし、これは矯正できないと思う。すでに老齢の域に入りかけた私は、曲がり、偏狭な性格ならば、曲がり、偏狭なまま、自分を使おうと考えている。
【道場生へ〜デジタル空手武道通信 第25号 編集後記】
道場生向けに、型稽古に関するレトリックを掲載したい。
現在、我々が稽古する「伝統型」とは、たとえ20挙動、20の技を稽古したとしても、それらはほとんど繋がっていないと考えたほうが正しい。伝統型の技とは、一つ一つ別物で、かつ、その技は、ファイルのタイトル名程度の「技」を学んでいるようなものだ。より大事なのは、そのファイルを開ける努力である。ただし、その作業は簡単ではない。なぜなら、ファイルを開けたと思ったら、その中にまたファイルがあるからだ。そのファイルを開け続けること、それが型稽古だ。武道を極めるものは、その稽古を続けることで、無限の技が一つに繋がると悟る。また、ファイル名として表わされた技が、深い意味を持つ技となっていく。それが伝統の継承、否、伝統の創造ということなのだ。
この意味がわかるには、少し時間が必要かもしれない。口幅ったいが、私の道場で研究している組手型の稽古とは、伝統型の稽古に併せて、必ず行わなければならない、空手技の活用法、伝統型の分解応用を学ぶ稽古なのだ。
私の稽古法は多くの技を学ぶことを第1義とする。だが、その目的は、単に多くの技を覚えるということではない。その目的は、絶えず基本技を傍らに置き、多様な技に内在する真の型、すなわち原理技を体得することである。そして、その原理技を体得し、自由自在の組手、最高の組手(形)を実現することなのだ。
その目的のために型稽古は、組手のレベルを上げ、その形を最高のものとするために絶対に必要な稽古法だということを肝に命じてほしい。増田の武道空手は、型に始まり型に終わる。そして、個々人の最高の形を顕現していくものだと覚えておいてほしい。繰り返したい。もし、皆さんが増田の弟子だということを認識するなら、そのことを絶対に忘れないでほしい(もし認識していないのなら結構だが…)。
昨晩は、研究科の仲間と、組手型の研究を行なった。私は、自分の技術の未熟さ未熟さに気が狂いそうになったが、必死に堪えた。ただ、薬指と小指の力と使い方が未熟だということがわかった。今後、基本稽古(私の基本稽古だが)に棒振り(半棒術)を加えたい。深夜、棒を片手500回ほど振ったが、5万回ぐらいが特異点だと思っている。今後、修練したい。また、映像等を含め、現在はラフスケッチ程度ではあるが、必ず絵として完成させたい。