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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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型とは何か?2018年12月15日版

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【型とは何か?2018年12月15日版】

 

 型とは何か?私は、空手道の型のみならず、各種武道の型について、その本質を考えてきた。そのために武道のみならず、茶道や芸道の型についての論文も読むこともあった。つまり、私の考える型とは、人間が創出してきた、文化創出と継承という営みに内在する「型」という概念(コード)および、手段としての「型」という視点が含意されている。

 さて、多くの武道、そして芸道には、型を形とすることが多いようだ。しかしながら、私は「形」を「型」と言い表してきた(今後は形という言葉も使うかもしれない)。それに関して厳密に語るとなると、少々論を展開しなければならないので、ここでは簡単に述べておくに止めたい。繰り返すが、私の考える武道では、形という言葉は使わず、型という言葉を使う。当初、伝統空手や柔道などでは「形」を使っているので、「形」と表記しようとも考えたが、極真空手では、「型」という言葉を使っていたので、それに合わせた。

 私なりの定義をすれば、「形」という言葉には、技を表演する目的が強く含意されているとみる。より噛み砕けば、形という言葉に内在するのは、人に見せるという目的が強く意識されていると見る。一方、「型」という言葉には、技を承継するという目的が強く内在していると見る。

 勿論、形、型の双方に、技を伝える、承継するという目的があるに違いない。ただ、私がここで言いたいのは、人に見せるという目的に対する意識の度合いだ。

 「形」と「型」、どちらにせよ、「技を伝える」「技を承継」するということが重要であることには違いない。だが、その目的を問い続けるならば、「伝えたい技とは何か」が問われなければならないと、私は考えている。

 言い換えれば、「型とは何か?」を問うとは、流派において真に「伝えたい技(原理技)とは何か?」を問うことなのだ。ここまで書いて、申し訳ないのだが、私には時間がないので筆を端折りたい。この命題に関する、私の攻究を書き記すには、まとまった時間が必要になる。いずれ、組手型の体系作りに合わせ、型と形に関する文化論、武道哲学として書き記したい(私の野望だ)。

 

 

【型を有するとは】

  論を端折りついでに、型の概念に関するメモを掲載したい。昨晩、深夜に帰宅し、研究科の稽古時、メモとして撮った映像を整理した後にメモを取った。

 

 「型を有する」とは、「自己の形」に再現性があり、かつ、その理合を他者に説明ができることである。「自己の形」に再現性がないものは、時分の花(世阿弥の概念用語)のようなものであり、「真の型」ではない。また、理合いを説明できない形は、どんなに優れていても、個体が獲得した「癖」でしかない。

 「形」は人に伝えられ、大事にされてこそ、時間はかかるが本物となっていく。そして、その伝えられた形に内在するものが「真の型」である。

 だが、「真の型」を伝えることは非常に困難である。なぜなら、「真の型」を自己のものにすることは、非常に困難だからである。

 「真の型」を自己のものとするには、多様な経験を通じ、自己の癖と型とを一体化させなければならない。それには、たゆまぬ自己との対峙が必要である。また自己変革が必要だ。それは、自己の自由自在を得ることを目標とすることと言っても良い。同時に、不自由の極みに対峙することでもあることを忘れてはならない。

 さらに言えば、武道や芸道の究極は、自己の最高の形を創出すること、また自己の自由自在を体得するものである。ならば、型を通じ、自己を鍛え直さなければならない、私はそのように考えている。

 深夜のメモ書きだから、再考を要するだろう。こんな思いに至ったのは、木、金と忙しく、疲れているからある。疲れていると、せっかちが焦りに変わる。できるならば、矯正したい私の悪い癖である。私は曲がり、偏狭な人間である。しかし、これは矯正できないと思う。すでに老齢の域に入りかけた私は、曲がり、偏狭な性格ならば、曲がり、偏狭なまま、自分を使おうと考えている。

 

【道場生へ〜デジタル空手武道通信 第25号 編集後記】

 道場生向けに、型稽古に関するレトリックを掲載したい。

 

 現在、我々が稽古する「伝統型」とは、たとえ20挙動、20の技を稽古したとしても、それらはほとんど繋がっていないと考えたほうが正しい。伝統型の技とは、一つ一つ別物で、かつ、その技は、ファイルのタイトル名程度の「技」を学んでいるようなものだ。より大事なのは、そのファイルを開ける努力である。ただし、その作業は簡単ではない。なぜなら、ファイルを開けたと思ったら、その中にまたファイルがあるからだ。そのファイルを開け続けること、それが型稽古だ。武道を極めるものは、その稽古を続けることで、無限の技が一つに繋がると悟る。また、ファイル名として表わされた技が、深い意味を持つ技となっていく。それが伝統の継承、否、伝統の創造ということなのだ。

 この意味がわかるには、少し時間が必要かもしれない。口幅ったいが、私の道場で研究している組手型の稽古とは、伝統型の稽古に併せて、必ず行わなければならない、空手技の活用法、伝統型の分解応用を学ぶ稽古なのだ。

 私の稽古法は多くの技を学ぶことを第1義とする。だが、その目的は、単に多くの技を覚えるということではない。その目的は、絶えず基本技を傍らに置き、多様な技に内在する真の型、すなわち原理技を体得することである。そして、その原理技を体得し、自由自在の組手、最高の組手(形)を実現することなのだ。

 その目的のために型稽古は、組手のレベルを上げ、その形を最高のものとするために絶対に必要な稽古法だということを肝に命じてほしい。増田の武道空手は、型に始まり型に終わる。そして、個々人の最高の形を顕現していくものだと覚えておいてほしい。繰り返したい。もし、皆さんが増田の弟子だということを認識するなら、そのことを絶対に忘れないでほしい(もし認識していないのなら結構だが…)。

 昨晩は、研究科の仲間と、組手型の研究を行なった。私は、自分の技術の未熟さ未熟さに気が狂いそうになったが、必死に堪えた。ただ、薬指と小指の力と使い方が未熟だということがわかった。今後、基本稽古(私の基本稽古だが)に棒振り(半棒術)を加えたい。深夜、棒を片手500回ほど振ったが、5万回ぐらいが特異点だと思っている。今後、修練したい。また、映像等を含め、現在はラフスケッチ程度ではあるが、必ず絵として完成させたい。

 


IBMA極真会館空手道の修練〜団体方針2019

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IBMA極真会館空手道の修練〜団体方針2019

 新年を迎え、あらためてIBMA極真会館の団体方針を述べたいと思います。

 

【「基本(修練)」「型(修練)」「組手(修練)」の稽古】

 IBMA極真会館空手道の修練は、「基本(修練)」「型(修練)」「組手(修練)」が3つの輪です。そして、「基本」「型」「組手」、3つの輪をつなぎ、その内容を充実させていくものが「組手型の修練」です。つまり、3つの輪を繋ぐ、輪の中心になるものが、「組手型(修練)」と言っても過言ではありません。また、基本には伝統技と組手技のほか、「礼法」「心法」があります。「心法」とは、心の活かし方を学ぶこととです。さらに心法は、武道人としての哲学を構築する基盤となります。

 

道徳心の発揮】

 また、武道哲学の構築と攻究を、一人ひとりの高い人間性の発揮と人格形成に空手道を役立たせることが、我々団体の理想でもあります。さらに言えば、IBMA極真会館空手道の武道哲学は、祖先と祖国への「感謝」と「孝」を原点に自己のアイデンティティを確立を目指します。また、他者と対立するのではなく、自尊心を基盤に自己の独自性を確立すること。言い換えれば、親を敬い、他者と争わず自己を確立・自立し、かつ他者との共生を実践することです。

 ゆえに我々の武道哲学は、人間性に内在する「道徳心の発揮」を志向します。言い換えれば、我々の武道とは他者と対立し戦う手段としての武術の修練により、高い人間性、徳を養育していくことです。なぜなら、他者との一体化を目指す技術修練は、相手を打ち負かす道ではなく、他者を生かし、自己を生かす理法の体得だからです。我々の考える武道とは、そのような理法の体得を目指すことです。そして武道人とは、その理法の実践者のことですです。

 

【組手修練は】

 IBMA極真会館空手道における組手修練は、試合に勝つことがゴールではありません。我々の目指すことは、戦いにおいて、自己を見失わないようになるための修練でもあります。また、伝統技修練は、空手本来の武道としての護身術を体得を目標としています。しかしながら、その護身術は、敵から自己を護ることのみならず、不断に油断をせず、危険を予防する心構えを養成することが本質です。言い換えれば、自己の心を護る、護心の道の攻究が護身術の修練です。

 

【独自の組手型の修練法】

 以上のような稽古がIBMA極真会館空手道の概要です。その稽古法には、独自の組手型の修練があります。組手型の修練で重要なことは、全ての技や術に内在する普遍性の追及と体得です。その普遍性とは、空手の技のみならず、人間存在の普遍性も追及しています。人間存在の普遍性とは、アイデンティティーの確立(自己実現)と幸福感の獲得の願望だと、私は考えています。ただ、その願望を実現するためには、他者より優れた者となることだけでは不十分でしょう。私は、たとえ他者より優れていなくとも、その独自性を発揮し、他者に貢献できる人間存在となることが、より重要だと考えています。つまり、他者と共に生きている自己を実感することが、アイデンティティーの確立と幸福感の獲得へ繋がると思うのです。

 

【IBMA極真会館空手道は武道空手】

 ここで明言しておきますが、IBMA極真会館空手道は極真空手を基盤としながらも、増田章が武道修錬の根を深く張りつつ構築した武道空手です。なお、我々は、武道のみならず、スポーツの本質も掴んでいないにも関わらず、スポーツを否定し、武道の優位性を唱える者とは一線を画していきます。我々は武道空手の確立を目指しつつ、スポーツ空手も肯定します。また、互いに相補的に協働しつつ、社会に貢献できればとも考えています。ただし、そのような理想を実現するためにも、我々は武道団体としてのアイデンティテーを確立し、その立場を明確にしなければなりません。

 本団体の2019年を迎えての抱負は、今再び、原点を考え、そこに立ち戻り、武道空手としてのアイデンティティを確立していくことです。道場生の皆様におかれましては、何卒、IBMA極真会館の一員であることに誇りを持って努力精進していただきたいと思います。

 

下の写真:1月14日 上級、有段者稽古

政治家の資質

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政治家の資質

 

 水泳の池井選手が白血病に罹患しているとの報道に驚いている。最初、「えっ」と驚きの声をあげてしまった。自宅だったので、素直な反応が出てしまったのだろう。その後すぐに、若いのに気の毒だと、熱いものがこみ上げてくるのを抑えた。

 「なんて理不尽な」と私が続けると。すぐに家内から、白血病といっても、現在の医学では不治の病では無いと聞かされた。

 確かに、俳優の渡辺謙氏も白血病を完治されたとのこと。今は、医学を信じて、最善を尽くすことが大事だろう。しかし、それでも、まだ幼い、しかもオリンピックを前にしたスポーツ選手には、厳しい試練であるに違いない。だが、どんな理不尽と思えることも、それを試練だと受け止め、最善を尽くせば、必ず、深い愛と深い幸せが与えられると、私は信じている。

 さて、そんな中、オリンピックを担当する政治家から、唖然とする発言がでた。その発言に対し、誤解を恐れずに言えば、その政治家自身は、悪気はなかったと思う。しかし、悪気がなかったでは済まされないことがある。つまり、政治家として、しかるべき発言とは思えない、大変お粗末なコメントとだったということだ。

 私も家族からは、発言をたしなめられることが多い人間である。それを毒舌と高を括っている。しかしながら、その大臣の発言は毒舌という次元ではなく、教養と見識を問われる問題だと、多くの人が感じているに違いない。

 あえて言えば、政治家たる者、志と信念があれば、多少毒舌でも良いと、私は思っている。だが、その裏には深い人間洞察がなければならない。つまり、国の立法府の構成員としての政治家たる者の発言は深い人間洞察に基づいていなければならない、と私は考えている。また、政治家には、社会や人間に対する「愛」そして「仁」が基本になければならないだろう。ただ、失言をした政治家に「愛」がないと言えば、その家族がかわいそうだと思うし、実際は優しいところや良いところがあるに違いない。では、なぜ今回のような失言をしたのだろうか。

 ストレートに言えば、教養、見識、そして想像力に乏しいということだ。それは国会議員のみのことではない。県議会議員や市会議員などを見渡したら良いと思う。ただし、政治家、個々人の問題が、その本質ではないと思う。その本質は、日本の政治家を選出する側の見識と選出の仕組み自体が未成熟なのではないかと思っている。

 

【政治家の資質】

 さらに口幅ったいことを書くが、政治家の仕事とは、本来、社会システムやルール(法律)を修正したり、作ったりすることだと、私は考えている。そのシステムやルールは、国の伝統や良い文化を守ること。また、将来世代と国際社会に対応する国家と社会を牽引する人材育成の骨格と筋肉、そして精神を作る基盤だと思う。文化や教育は、精神を作る器官のようなものだ。また、21世紀における国家の精神とは、その骨格と筋肉、そして技術、技能を使い、高い人間性を、歴史(人類史)に表現していくことだ、と私は言い換えたい。つまり、政治家は国の骨格と筋肉、そして精神と技術、技能の基盤を整備するのが政治家の仕事であるというのが私の考えである。

 そのように定義、例えれば、政治家とは、国家を運営、経営するためのルール、システムをどのように改善すれば良いかを、国民とともに協議、提案すること。そして、より良いルール、システム構築に向けた改善を他の政治家との合議により、実現しなければならないのである。

 それには、まず「より良いシステム、ルールが必要だ」という「志」がなければならない。同時に「より良いシステム、ルールの構築と修正を実現するのだ」という「情熱」がなければならない。さらに、古今東西の人間の営みの普遍性を「看取する力」が必要だ。そのような基本的な政治家の資質を有する者に対し、国民は政治家として扱い、物心両面の支援をするものだと思う。そのような関係が、政治家と国民のあるべき姿だと、私はイメージしている。大変に稚拙な例えだとは思うが、それが私の政治家と国民、そして民主主義のイメージだ。

 

【国民の資質】

 今年、参議院選がある。今回の政治家の失言のみならず、これまでの政治家の失言の本質は、政治家個人の資質の問題であると同時に、私たちの資質の問題だと言いたい。つまり、これまで起こった数々の政治家の問題は、国民一人ひとりに対し、民主主義の国民としての資質を問われているのだと思っている。要するに、今回のことは、私たちに民主主義を実現する資質があるかどうかの試金石でもあるということだ。言い換えれば、私たちが、いかに社会システムならびに民主主義を理解しているか。また、民主主義に対する自覚が問われている、ということだと言っても良い。おそらく、多くの日本人は、社会が壊滅的なところまでいかなければ、それを気付かないかもしれない。しかし…。これから私は、そんな視点で、与党のみならず、それを批判する野党をも見て行きたいと思っている。

デジタル空手武道通信 第27号 編集後記

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 11日に上級者と有段者対象の特別稽古を実施した。

 

 北海道と石川県からの参加もあった。私は、楽しい空手修練を目指しているのが、受け手によっては、厳しいものと受け取られているかもしれない。特に、私の指摘が受け手にとっては難解で、楽しくないものかもしれないと、いつも反省する。

 

  今回も「見取り稽古」「初心、忘るべからず」「組手型を基本にする」「相手とシンクロナイズ」など、難解な用語を使った。しかし、それらの用語は有段者のみならず子供達にも十分に理解できると思っている。もう少しだけ時間があれば、より腑に落ちたはずだ。

 

 だが、空手の場合、講義よりも体験で理解することが先決である。すなわち身体で理解するものだとの一般的な認識がある。 だが、あえて言っておきたい。私も昔は空手が下手であった。今も昔と比べれば上手にはなったが、まだ下手だと思っている。ただし、着眼点をより広く、かつ本質的にとった場合は異なってくる。言い換えれば、認識が変われば、空手の見方が変わってくる。さらに、現在、考案中の増田式の修練体系と空手理論をものさしのように用い、今の自分を省察すれば、形(技の)に未熟な点がよく理解できる。私は、道場生に教えるのみならず、まずもって自らの技を速やかに修正したい。つまり、私にとっての組手型稽古は、人に空手を伝える手段のみならず、自らの技をさらに高い次元に引き上げるための手段なのだ。その稽古は、たえず自己の認識の更新。そして技術の修正と言っても良いだろう。

 

 繰り返すが、より重要なことは、型(組手型)を通じ、自分の技を省察するということである。最近は、映像で自分を簡単に観察できるようになった。 補足を加えれば、私の考えでは、能の先達である、世阿弥の残した「初心を知る」という言葉は、自己の着眼レベル(認識レベル)を客観的に知るということだと考えている。

 

 また、私は武道のみならず、芸道、そして全て物事の上達が、「相手とシンクロナイズする」ということ、だと確信している。この理論は、武道界ではまだ誰も唱えているものがいないであろう。私はその境地を目指しているのだが、それを目指せば目指すほど、自己の未熟さが自覚される。同時に恐怖にも似た孤独感に襲われてしまう。

 

 

 

IBMA極真会館の道場生へ〜TS方式の組手法について(上級、有段者稽古を終えて)

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TS方式の組手法について〜上級、有段者稽古を終えて

 

 2月11日(月)、連休の最終日、今年2回目の上級、有段者稽古を行った。

 

 前回よりも参加者が少なめだったが、今回の稽古はIBMA極真会館の門下生にとっては重要な稽古だった。現在、私は修練体系のバージョンアップの準備をしている。このバージョンアップをしなければ、私の門下生の空手は、武道、武術とは程遠いレベルで終わるだろう。私のいうバージョンアップとは、パソコンで言えば、OSの積み替えぐらいに意味がある。そのOSの骨格は、組手型を中心とする型稽古と新しい組手法である。また、それに伴い基本稽古に若干の追加をしなければならない。しかし、長年使って来たOSの変更は大変な作業となるに違いない。ゆえに私は、インターネットを活用し、どこにいても私の指導を受けられるようにデジタル教本のサイトを準備している。

 

 今回は、新しい組手法の稽古だった。2時間30分ほどの稽古では、不十分ではある。だが、何らかの気付きを、参加者が得て欲しいと願っている。経験的な推定だが、私の組手指導を120時間(1日2時間で2ヶ月間)ほど、受ければ、一般的な運動能力がある人なら、どんな人でも組手が上手くなるだろう。ただし、私の理論を理解する気持ちはもちろんのこと、空手が澄んだ「気」と「頭脳」を使うことが必要だいうことが腹に落ちる人ならば、だが。

 

 さて、私は新しい組手法をTS方式と名付けた。TS方式を普及するための12項目は以下のようになる。まだ、メモ程度の12項目である。今回の稽古では、全ての項目を実施できてはいない。今後、講習会の企画などを通じ、速やかに12項目を実施したい。同時に改善点があれば、迅速な改善を行いたい。

 

 実は、TS方式の試合ならびに組手は、昨年からスタートした。しかしながら、改善点が見つかり、その部分を改善した。私は、良いものを作るには、絶えず改善することが必要だと考えている。日本人は、あまり多くの変更を行うことを好まないように思える。だが、私はなるべく早く変更を行う方が良いと思っている。なぜなら、変更を行う中で、中心軸が鮮明になってくると考えるからだ。

 

 現在、新しい組手方式を実施してから早くも9ヶ月ほど経ったが、試合方式の浸透と普及は遅い。だが、私は、このTS方式を基盤にすれば、フリースタイル空手プロジェクトで構想した試合形式に代わる、より良い試合方式を考案できると考えている。その案には、頭部打撃も視野に入れている。

 

 私にもう少し資金と時間があれば、スピードアップできる。だが、今は命懸けで研究を続けるしかない、と思っている。急がなければ、私の体の中から、高い空手技術の感覚がなくなってしまう。そうなる前に、できる限りの組手型を創出したい。また組手の稽古を通じ、門下生に組手の真髄を伝えたい。ただし、加齢とともに体力が落ちてから、本当の原理技に到達する場合もある。ゆえに組手型の稽古は生きている限り有効である。兎にも角にも、新しい組手法のプロトコルの移植の仕事を急ぎたい(もう限界に近づいている)。もし、その移植ができれば、必ず新しい感覚が、生命のように生まれてくるはずである。さらに言えば、私が創設する組手型の修練は、極真空手を武道のみならず武術として本物となすだろう。また、修練は厳しさも伴うが、真の楽しさと自信を修練者に与えるようになるに違いない。

 

【私の夢と目的】

 

 補足を加えれば、私は、フリースタイル空手プロジェクトを6年前に始めた。しかしながら、資金不足と私自身の身体の問題を含めた、人的問題で休止せざるを得なかった。しかし、私は研究を続け、新しい組手法を考案中である。

 

 誤解を恐れずに言えば、TS方式の組手法の確立は、フリースタイルカラテプロジェクトの第2期と言っても良いものだ。だが、現在の私には体力が不十分である。何より、ハードトレーニングができない。また、空手の稽古後には、十分な休養を取らなければ、下半身が痛くて動けなくなる。人には気付かないかもしれない。ゆえに、辛抱強く、やれることを積みあげて行くしかない。それは、大変な作業である。だが、それは辞世の準備でもある。そして希望に満ちている。なぜなら、私と一緒にTS方式の組手を稽古する道場生が組手に上達し、楽しく組手稽古ができている。また、この組手法を基盤とすれば、長年研究した様々な武術の技を生かしていける。「より良いものと人を後世に残す」、そんな思いが私の心の中で信念となっているようだ。

 

 20代前半の頃、「あどけなさが残る選手」と言われた私も、老年の域に差し掛かった。偉大な先輩の中には、鬼籍に入った方々もいる。私は極真空手と関わり、試練の連続だった。しかしながら、その試練のおかげで様々な本を読む機縁をいただいた。様々な人の話を聞き、様々な手が無限にあるとの考えが湧いた。大げさに聞こえるかもしれないが、空手に関するアイディアにおいては、誰にも負けないと思っている。だが、私の夢とその真の目的は、空手を通じて、道を極めることだ。それは、仲間(武道人)を本当に成長させる空手を作ること。そして、他のジャンルの人材に勝るとも劣らない見識と技術、哲学を兼ね備えた、武道人を育成することだ。更に老若男女、強いも弱いも一緒に、また、上手いも下手も一緒に仲良く武道修練を続けられるような空手武道団体を作りたい。

 

 

特別稽古の模様

 

 

 

【TS方式を普及するための12項目】

 

1)試合(組手/ゲーム)のゴール(得点/ポイント)

 

2)ゴールを得るための技の種類とその使い方を型で伝える(組手型の指導)

 

3)ゴールを相手からゴールを奪われないで、自身がゴールを奪う方法(組手理論の伝授)の指導

 

4)試合稽古の仕方(組手法の創出)の指導

 

5)試合の仕方(試合方式の完成)の明文化

 

6)上手な試合の仕方の指導(組手クラスの開設)

 

7)試合と組手理論の確立

 

8)試合理念の普及

 

9)審判員の育成

 

10)指導者の育成

 

11)防具の研究と開発

 

12)組手型の教本の製作

 

 

 

 

増田 章の言う「武道人」とは

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増田 章の言う「武道人」とは〜フリースタイル空手プロジェクトの転化

 

 

 最近、親しい友人から、「僕は〇〇家と安易に名乗る人間は好きではない」というようなことを聞いた。彼は、〇〇家というなら、その〇〇という業界(家族)全体のことを考えるべきだと続けた。私は「その通りだ」と応えた。

 確かに、格闘家、武道家、空手家、〇〇家と、最近は自ら呼称する人が多いようだ。もちろん、人がそのように呼ぶ場合もある。

 

 

【一人の武道人として】

 実は、私が独立して、自分の組織を創設した時、経済人や政治家の集まる会合で挨拶をさせられた時、「私は己の組織のみを考える武道家というより、一人の武道人として、皆とともに斯界を変革していきたい」というような主旨の発言をした。実は、その会合に向かう新幹線のなかで「武道人」と言う言葉の意味を考えていた。その時が武道人と言う言葉の誕生の瞬間と言っても良い。おそらく、私以外で「武道人」と言う言葉を使った人はいなかったはずである。その会合の参集者は、皆「キョトン」としていたに違いない。数人が私に名刺交換をしてきた。その中に産経新聞の記者がいた。もう一度会ってみたいと思っている。

 

 その時、私の伝えたかったことは、国であっても企業であっても、空手界、スポーツ界であっても、自己の組織のことだけを考えるのは、レベルが低すぎるということである。また、もし多くの人がそうであるならば、私は偉そうに武道家、空手家などとは名乗らない。それよりも、一人の武道愛好者として、その対象をとことん掘り下げていくのだ、ということを心身に銘記するためだった。それは、国家、愛国ということに関しても同じである。それが武道人という言葉の誕生の瞬間であった。更に言えば、その一人の武道人と武道を掘り下げてきた帰結が「空手武道を通じて人と社会を良くしたい」と言うことである。それを言い換えれば、「自分の組織、家族のことだけを考えているのではいけない」ということだ。もちろん自分の家族のことを第一に考えるのは当然である。しかし、空手家というのであれば、自分の出身母体や空手界全体のことを考えることは、私にとっては至極当然のことである。それを、大仰とか分不相応と言われても困ってしまう。それは、自然に湧き上がる思いだからだ。

 

【真(ほんとう)を周りに伝える】

 もし、「私は空手家ではない」「ゆえに自分の道を行く」というのならば、「それは空手屋」である。私は、それは何もビジネスや商売が悪いと言っているのではない。また、空手や武道をビジネスと全く別のものと考えている訳でもない。ビジネス、経済界においても自分のビジネス、利益を考えるだけでは、やがて業界自体が行き詰まると考えているのである。つまり、ビジネスにおいても、業界全体のことを考え行動する。そのような視点が斯界(業界)の指導者(リーダー)には必要だということだ。もし、自分はリーダーなどではないというのなら、是非、弟子など集めないでほしい、と言いたい。あえて厳しいことを述べれば、黒帯の資格もないだろう。黒帯なら小さな行動、小さな思いでも良い、真(ほんとう)を周りに伝えるべきだ。また、あえて断っておくが、私が言う、業界全体の利益とは、なあなあで仲良くすることではない。時に破壊的にも見えることを行うこともイメージしている。

 

【野球人という言葉】

 補足すれば、私は野球人という言葉が好きである。先日、イチロー選手の引退会見があった。実は私はイチロー選手のファンである。彼の会見は、幼い頃から私が持っていた、ロールモデルと合致する。彼の生き方からは、実に多くのことを学んだ。彼に対する私の思いは、別の機会のまとめてみたいが、野球選手は、野球家とは言わない。なぜだろうか。それは、野球は選手、監督、コーチ、スポンサー、ファン、メデイアなどなど、全てを巻き込んだ社会的スポーツ、難しく言えば、文化的公共財だからだ。言い換えれば、社会全体に対する役割と責任を関係者が認識しているのだ。

 

【〇〇家という語源】

 おそらく、そこには〇〇家などという、大仰なラベルが必要ないのであろう。〇〇家という語源を遡れば、おそらく中国の春秋時代に遡る。その時代に「諸子百家」という言葉が生まれたようだ。

 私の理解では、その時代、様々な職種が発する理念および思想的なものを、各々が自己主張するため、かつ、それを社会が分類するために、〇〇家という言葉が生まれたのであろう。ゆえに〇〇家の中、また〇〇家同士で、互いに異論を唱えあい、自己の主張を繰り広げていたに違いない。しかし、その異論の中核には、社会全体を良くするという理念と思想があったに違いない。

 

【現代における、〇〇家】

 翻って、現代における、〇〇家を眺めたときに、社会全体を良くするという思想があるだろうか。おそらく、その指導者たちは「ある」と答えるに違いない。しかしながら、その中心は自分の保身ではないだろうか。

 

 先に述べた私の友人は、「〇〇家というのは家族のことであり、斯界のすべての人を家族と考えて行動することではないのか」と言葉を続けた。

 私は、「その通り」と応えた。更に「たとえ異論があったとしても、全体を家族と考え、斯界の発展を考えることだ」「それができて、初めて〇〇家という評価をいただけるのが本当だと思う」と続けた。

 

 今私は、友人と意見をかわしつつ原点に戻りたいと思っている。具体的なことは、次回に述べたいと思うが、再び方向性を明確にしたいと考えている。

 

【アイデンティテーの確立】

 私は、あと2ヶ月で57歳になる。振り返れば、私は極真空手に鍛えられ、極真会館に育てられた。その極真会館を自分のアイデンティテーとして、大事にすること。また、自分の心身を鍛錬してくれた、極真空手の伝統を保存しながらも、より良いものに変革していくということだ。私の極真空手に対する考えと半生を綴った著書に、私は生き方の目標を書いている。それは「どんな状況でも自分は自分だと胸を張れること」だ。それは、「どんな苦しい状況でも、どんな惨めな状況でも、自分に対する感謝を忘れないことと言い換えても良い。それは、自分を産み育ててくれた、親や家族、社会や自然に対する感謝である。また、逆に言えば、その感謝を忘れなければ、苦しく、惨めな状況にはならないということでもある。それが増田が考える、アイデンティテーの確立(真の自己実現)である。

 

 だが、周知のように、私の母体である極真会館は分裂を繰り返している。増田章の情緒的な表現だと、あえて断って言えば、「ふるさとがなくなりつつある」というような感じだ。ただ、数年前から松井館長と友人としても組織人としても和解した。それは、大変うれしいことであった。私の57年もの人生におけるドラマティックな展開の一つである。今私は、松井館長の努力、そして関係者の努力を尊敬し、私のみならず、多くの人のふるさとである極真会館を護ってもらいたいと思っている。また、思っているのみならず、私のやれることは喜んでやりたいと思っている。ただ、思ってはいるが、現実は生活に追われ、また自己の夢を追い求めた研究と修行に明け暮れる毎日である。

 

 また。残された時間が少ないことを意識し、可能な限り、欲望を抑え、これまでの付き合いを無にするかのように生きている。時々、古くからの知人や友人のことを時々思い出すが、私は自身の生き方でお返しをしたいと思っている。それを一言で言えば、「私はどんなに疲れていても、どんなに痛くても、どんなに苦しくても、死ぬまで元気である」と。変な言い方である。言葉が矛盾している。

 

 あえて翻訳すれば、「疲れることもあるだろう、痛いこともあるだろう、苦しいこともあるだろう、でも死ぬまで、私は一つの夢を追い続ける、もしそうであるならば、私はいつも元気だ」と言うことだ。

 

【私の夢〜フリースタイル空手プロジェクトの転じ(転化)】

 私の夢とは、増田式だが、私は他のジャンルの人達と共感しあえ、かつ一目置かれるように、極真空手をより良い、高いレベルのものにすることである。そのために私は、極真空手の伝統は保存しつつ、新しい武道理念と形式を付け加えたい。それは増田独自のものなのだ。ゆえに他の空手人には強要はしないが、我が道場の仲間、家族には共有してもらいたいと考えている。草案だが、その理念と修練形式に「拓心武道(TSB)」と名称をつけた。これはフリースタイル空手プロジェクトの転じ(転化)形だと言っても良い。詳しくは完成してから説明したい。

 

 その内容を簡単に述べれば、一人型ではなく、相対型を組手型とし、組手を「試し合い」とする。その試し合いのコンセプトは、「打撃を制する(制打)」「位置を制する(制位)」「心を制する(制心)」の3つである。それは、武術としての極真空手と大山倍達の空手の原点に戻ることでもある。

 

 私は、その修練の理念を修道とし、その稽古と鍛錬の体系の根幹を修練体系として、改めて明確にしたい。当然、そこには組技や逆技が加わる(大山倍達の空手の半分はそのような技である。そのようなことを踏まえ、拙著フリースタイル空手では、組技や逆技を紹介し、その方向性を示したつもりである。だが、多くの人のニーズに合わなかったようだ。昔、私の組織に所属したいという韓国の極真空手の組織から要請があった。その時は、フリースタイル空手を広めることを試み始めた矢先だったので、我々は極真空手のみならず、投げ技や逆技を修練すると伝えたら、我々の道場生には、そこまでの修練をする余裕がないというような趣旨のことを言われた。その人間は、柔道の五段位を有していて、自分には可能だが、道場生の希望とは異なるということであった。同様のことを自分の道場内などでも聞いた。

 

 平たく言えば、「増田の理想とする空手武道を行うには、自分のスペックでは難しい(私にはできない)」ということである。それでも、何人かは、一緒に活動をしてくれた。その仲間に感謝したい。しかしながら、なぜ空手に組技や逆技の修練を入れるかということの真の意味が理解されていなかった。しかし、それは私のプレゼン能力が低いからだ。また、私の展開スキームに難があったからである。私はそれを軌道修正するために数年を費やした。それがもう少しで完成する。

 

 新しいスキームの心棒を打撃技とした。それは、空手の原点回帰と言っても良い。新しい価値観の「試し合い法」の創設だが、伝統的な空手とも相性が良いだろう。さらに、組手型によって、極真空手のルーツである、大山道場の空手ではなく、大山倍達自身の空手技術を復元するという試みを考えている。その中に投げ技、逆技、武器術、護身術を含んでいる。そのことは、極真空手の真の意味での伝統の継承になるであろう。しかし、伝統の継承を唱える者の常として、悪い意味での権威主義に陥るに決まっている(絶対に)。ゆえに、私は「技-体-心の合致」を目指し、「道(天地自然の理法)」を体得するための試し合いを創設する。そこには、神秘的な事柄や他の権威を利用することはしない。

 

 だが、今までの経験上、自信が揺らいでいる。伝統的な極真空手の再現と新しい武道修練法としての「拓心武道」を現在の道場生が受け入れるかどうかである。慎重に行いたい。気をつけなければならないのは、私のせっかちな性分である。その性分を抑えられなければ、私は道場を譲り、死ぬ前に一人の道を行くだろう。私が小学生の時、本を読み感銘を受けた「親鸞」のように。

 

 もう一つの夢は、松井館長の極真会館を中心に、家族が和解することだ。そうなれば、私は胸を張って、肩書きを「極真空手家」とするだろう。

 

 最後に繰り返すが、野球人は自らを野球家と名乗らない。また周りもそうは言わない。しかし、中国の春秋時代の諸子百家の時代のつもりで現すならば、スポーツ全体を「スポーツ家」と呼称し、その中で特に優れた物(競技)と人を歴史に残すであろう。ここで抑えておきたいのは、〇〇家とは、その業界が現す思想的な事柄なのだ。皆に聞いてみたい。一体、空手界に、そのような普遍的かつ明確な理念と思想を持つ者がいるだろうか。もしいるのなら、こんな空手界ではないはずである。

 

 


 

10年前、拙著「フリースタイル空手」を上梓した頃。月日の経つのは早い。段々とお爺さんになっていく。それもよし。だが、残された時間はあとわずか。

 

追伸:「真(ほんとう)を伝える」のほんとうとは、「ポストトゥルース」で議論されているような概念とは異なる。私のいう真とは、事物、事象に内在すると考えられる、普遍的な構造を意識し認識しようとする感覚のことである。より正確に言えば、それには固定的な構造はないかもしれない。しかしながら絶えず変化し続けるような構造はあると直感する。それを言葉で表現しようとすれば矛盾するかもしれない。だが、絶えず変化し続ける構造を別の言い方をすれば、中国語の宇宙、すなわち世界(を生み出す)の原理のようなものがあると、私は直感している。

 

 

 

 

 

イチロー選手と「無用の用」

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イチロー選手と「無用の用」

 

 先日、イチロー選手の引退会見をTVで見た。実は私はイチロー選手のファンである。彼の物腰は、私が幼い頃、映画やテレビのヒーローから得た、ロールモデルと合致する。また、野球人としての彼の生き方からは、実に多くのことを学んだ。

 

 だが、十数年前、知人を介して話をした、スポーツのメディア関係者から聞こえてくるイチローの評価は、よくないものもあった。

 

 おそらく、イチロー選手は日本のスポーツ業界やメディア、ファンをあまり好きではないだろう。少なくとも不勉強なメディア関係者や軽薄なファンは好きでないと思う。もちろん、暴言とのお叱りを受けるのを覚悟で言っている。

 

 もちろん、心を許すメディア関係者やファンも多くいたと思う。しかし、全てではないだろう。また、そんな思いが強くなった時期もあったはずである。しかし、日本人は好奇心が強く、積極的である。そのような面は良いところではあると思う。しかし、一面、軽薄な感が否めない。また、日本人には独特の不寛容、狭量さがある。もちろん、それは一面的な見方であり、土地の広さや文化的統一感の影響下における、日本人の自己主張と他者を評価する際の傾向ではないかと思っている。もちろん、個人的な自虐的、自己分析の傾向によるイメージかもしれない。現時点では完全な分析を展開できない。

 

 かく言う私もそんな日本人の一人であるゆえか、軽薄にも、アイドルに対するかのように、イチローのキャラクターに惹かれる。だが、私が本当に好きなのは、彼の野球の能力のみならず、彼の「ゴーイングマイウエイ」のようなスタイルと哲学にある。その部分に強い憧憬がある。私はそんなキャラクターではないからだろう。ただ、おそらくそう言えば、「違う」と彼は言うかもしれない。

 

 確かに、人一倍気を使い、努力家かつ誠実で正直な人間にも見える。ゆえに、もっともっと上を目指したいと、可能性に挑戦していた若い頃、その面が、性格や行動の特殊性が他人に写ったかもしれない。しかし、それをとやかく言う人間もまた不寛容で狭量なのだと、私は思う。

 

たまたまではあるが、イチロー選手の引退の日の就寝前、私はある中国古典の「荘子」の本を読んでいた。その本は若い頃からの私のお気に入りなのだが、忘れかけてきたので再読していた。

 

「荘子」は「老子」と並び、儒家に対する道家と言われている思想家である。だが、荘子の思想は独特で、道家のみならず、仏教にも影響を与えたと言われている。禅がそうである。日本では老子と荘子の思想を合わせて「老荘思想」と呼ぶようだ。その「老荘思想」をよく表す言葉に「無用の用」と言うものがある

 

【イチロー選手の感性は素晴らしい】

 一つだけ、イチロー選手のコメントの中に、「無用の用」に通じるものがあった。イチロー選手の感性は素晴らしい。それを実感し、体現しているから。また、イチロー選手の築き上げた実績は、「無用の用」を知っているからこそである、と私は直感した。

 

 さらに言えば、私の直感では、無用の用を身体で知っているイチロー選手は、最も監督に向いている人間だ。楽天の三木谷氏あたりがスカウトして、楽天の監督などどうだろうか。一方の巨人は松井氏である。私の妄想だが、そうなれば、日本の野球界が大きく湧くだろう。そのイチロー選手のしびれることばを以下に記しておきたい。ただし、増田式に少しだけ言葉を変えたが。

 

「4000本安打の裏には、8000本の悔しい思いがある。僕はその悔しさに真剣に向き合ってきた」

「その結果が4000本だが、その結果には、あまり興味がない。むしろ、その8000本の体験にこそ大事なものがあるし、私の誇りがある」

 

 老荘が説いた「踏みしめる大地の有用はわずかだが、それ以外の大地の無用がそれを支えている。そんな老子の「無用の用」の教えが、イチローの生き方のなかに体現されていると思った。また、イチローが体験した引退式は、まさしく我が道を貫き通して、幾たびかの辛酸を舐め、かつ、それを乗り越えた人間しか、表現できないと思える内容だった。

 

 イチロー選手は、とやかく言うものに対し、いつも我が道を貫き生き続けた。

そうして、日本を離れ、ゴーイングマイウエイを貫きながら、一際大きい大木に育った。その大きさを例えるならば、日本野球が存続する限り、多くの野球ファンの心を休める木陰になるだろう。比類なき大木、イチロー選手に大きな感動を与えられた。ありがとう。

 

【増田 章は無用な人間】

 

 イチローは有用な人間である。一方、増田 章は無用な人間である(偉そうに師範などと呼ばれているが、本当は嫌いな言葉だ、恥ずかしい)。ゆえに人から相手にされない。だが、そんな無用な私でも、生きる術があると、今、思っている。それが以下の話から汲み取れる。いかに老子ではない荘子の「無用の用」のたとえ話を掲載したい。

 

 数ヶ月前、不器用だが真面目なシングルマザーの妹を励ました、たとえ話は、荘子に出典があった。私は記憶力が低下しているので自信がなかったが、今回、荘子を読み返して、改めて私の記憶に間違いはなかったと思った。今、私はおばけ大木になろうと思っている。そうして、痛い膝をいたわりながら、日々、金にもならない無用な研究を続けている。

 

 

 【お化け大木の謎】

 

 南伯子綦《なんぱくしき》は商丘地方を旅した時、ひときわ目を引く大木があった。近寄って見ると、馬車千台がその影で休めるほど大きい。

 

「いったい何の木だろう。きっと良い材木が取れるだろうな」と彼は考えた。

 

 だが、振り仰いでよく見れば、枝は曲がりくねって、棟木《むなぎ》に梁《はり》にもなりそうにない。

 

根元を見れば、根が絡まり合って、棺桶も作れそうにない。

 

葉を噛んでみたところ、たちまち口がただれてヒリヒリする。

 

葉の匂いを嗅いだところ、たちまち酔を発して3日ものあいだ苦しまねばならなかった。

 

 

 彼は今にして悟った。

 

「なんとこれは何の役にも立たない木なんだ。だからこそこんなに成長できたのだ。

 

ああ偉いものだ。

 

神人と言うのもこの木のように、無用を有用に転化した人のことなのか」

 

 

 徳間書店 中国の思想第12巻 荘子  「人間世〜お化け大木の謎」より

 

 

 

 

 

2019-3-24:20:00 一部加筆修正

2019-3-21:10:32 一部加筆修正

日本人には、独特の不寛容、狭量さがある。もちろん、それは一面的な見方であり、土地の広さや文化的統一感の影響下における、日本人の自己主張と他者を評価する際の傾向ではないかと思っている。もちろん、個人的な自虐的、自己分析の傾向によるイメージかもしれない。現時点では完全な分析を展開できない。

なお、このコラムは、デジタル空手武道通信 第28号の編集後記です。

 

2019-3-25:以下の修正  

「荘子」は「老子」と並び、儒家に対する道家と言われている思想家である。だが、荘子の思想は独特で、道家のみならず、仏教にも影響を与えたと言われている。禅がそうである。日本では老子と荘子の思想を合わせて「老荘思想」と呼ぶようだ。その「老荘思想」をよく表す言葉に「無用の用」と言うものがある

 

世界最高の空手道を 〜 利他により自利を得る理法

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 IBMA極真会館増田道場は府中、八王子のゴールドジムで道場を開設しています。この度、「ゴールドジムV10ののいち」が新規オープンするにあたり、増田道場を開設する運びになりました。


 「ゴールドジムV10ののいち」は、日本最大級の総合スポーツジムです。 トレーニングエリア、スタジオ、ヨガスタジオ、プール、インドアテニスコート、フットサルコートに加え、サウナ、露天温泉風呂、室内風呂などの施設がありました。今回、フットサルコート(2面)を全て、24時間利用可能のゴールドジムエリアに改装しました。その広さは、おそらく日本一でしょう。ゴールドジムエリアには、数多くのフリーウェイトトレーニング器具に加え、最新トレーニング器具が設置されています。新しい施設は、5000名ほどの会員に喜ばれるとともに石川県のボディビル愛好者、またスポーツ愛好者に良い刺激を与えるでしょう。

 

【世界最高の空手道を〜コラム From Akira Masuda】

 

 先週の金曜日から土曜日にかけて、ゴールドジムV10ののいち」の内覧会ならびに竣工式に参加してきた。私の星稜高校時代の先輩、元文科大臣、馳浩先生も地元の代議士(衆議院議員)として参加していた。聞くところによると、馳先生の専修大学のレスリングの先輩である尾山氏がV10のインストラクターを務められていた聞いた。馳先生も私も尾山先生の若い頃、インストラクターを務めていた、現在は廃業された永江トレーニングセンターの出身である。私も尾山先生にはお世話になった。今回、70歳を越えた尾山先生も、竣工式に臨席されていた。久しぶりの再会だったが、ボデイビルダーでもあった尾山先生は、「ゴールドジムV10ののいち」を手伝うらしい。それを知って、何かの縁を感じずにはいられなかった。

 

 ともあれ、私は日本でも有数のジムV10の新保社長が空手教室の開設を快諾していただいたことに感謝したい。また、「ゴールドジムV10ののいち」を紹介していただいた、ゴールドジムの運営会社であるスインク・フイットネス社長、手塚栄司氏のご厚情に本当に感謝している。

 

 かく言う私は、野々市市の隣の金沢市で生まれ、幼少期を過ごした。ゆえに、金沢に何らかの形で貢献したいと、長年思い続けてきた。その思いが、今回実現した。しかしながら、すでに還暦近くの年齢だ。かなり体力、気力が衰えている。どこまでやれるかは不安ではある。しかしながら、ここは気力を振り絞り、一番大切な夢の実現に向かいたい。

 

 その夢とは、私を育ててくれた極真空手を「世界最高の空手にすること」である。そのことを私は、大山倍達総裁の前で宣言したことがある。先輩からすれば、なんと不遜なやつだと言うことになろう。だが、私はそのことを念頭にこれまで頑張ってた。しかし、私の思いを真に理解してくれる人はほとんどいなかった。ところが、2年ほど前、極真会館館長松井章圭氏に、その思いを理解してもらえたと思っている。周知のように、松井館長と私は、20数年もの間、対立関係にあった。にもかかわらず、松井館長の方から声がかかり、和解できた。和解に至るまでに、たまには会合を持つこともあったが、ほとんど疎遠であった。和解するに当たり、松井館長と数回会い、長い話をした。そんな中、同じ時代、極真空手に打ち込んだ者同士の友情を再認識、共有できたことが何より嬉しかった。

 

【人間修行の大学】

 これまでの空手修行中、辛いこと、嫌な体験もあった。実は空手を止めようとも思ったこともあったが、映画のような感動体験や嬉しい体験も多くあった。また、10代の頃から挫折感に苛まれ、苦しみ、もがき続けていた私は、苦労かけた親に迷惑をかけたくないとの思いから、早々に大学を諦め、極真空手のチャンピオンになることだけに全てを賭けてきた。

 そんな私にとって極真会館は、多くのことを学ばせ、かつ鍛えてくれた場所だった。同時に私に先輩や後輩、そして仲間を与えてくれ、私を孤独から救ってくれた場所でもあった。まさに人間修行の大学のようなものだった。さらに極真会館の一員で有力な選手であることで、多くの人が助けてくれた。本当に極真会館があればこそ、今の私がある。さらに私は、選手時代のライバル松井氏との対立と和解の経験を通じ、極真会館の仲間は、まさしく学友、家族、そして共に極真空手の価値を高めるために戦った戦友だと感じている。同時にその経験は、その学び舎としての極真会館を次世代により良い形で残さなければならない、という思いの萌芽と言っても良いかもしれない。

 

 そのような経験は、なかなかできることではないだろう。また、大山倍達総裁との思い出の共有と極真会館並びに極真空手のことを考え続けてきた者でなければ、分かり合えないことだと思う。

 

 しかし残念ながら、現在にける極真空手に対する認識は様々である。私は、それらの認識を全て論破したいと思っているが、そんなことは不毛なことだ。ゆえに、増田式の空手修練法によって、極真空手に関する認識を更新させたいと考えている。おそらく、増田式の空手修練法は、極真空手ではないと、非難されるだろう。では、どこに本当の極真空手はあるのだろう。大会に勝つための修練法なのだろうか。また、大山道場時代の稽古法なのだろうか。私は、どれも極真空手ではあるが、どれか一つが極真空手であるといえば、それは間違いだと考えている。なぜなら、増田道場の空手と増田の空手とは異なる。もし、いま現在において、増田の空手を道場生の誰々が知っていると言ったら、「嘘をつけ」「私は道場生に100分の1ぐらいしか自分の空手を伝えられていない」と言うと思うからだ。おそらく、大山倍達総裁も同じではないだろうか。

 つまり、より大事なことは、大山倍達総裁が何を目指していたかを深く考えること。また、それを実現するまで、すべての極真会館道場生の母体である極真会館をより良い形で存続させること。そのことが極真空手を名乗ることに優先されなければならないことだと、私は思う。そのためには、互いが極真会館の存続のために、少しの妥協をし、かつ協力しあうことだ。

 

【極真空手の本質】

 さて、私の道場では、大山倍達総裁が創設した技術で伝統的なものに関しては、あるものは生かし、あるものは保存しようと考えている。ただし、伝統的な技の保存が極真空手の本質ではない。極真空手の本質は、大山倍達総裁の理念、哲学だ。そして夢にあると、私は思っている。ゆえに私はこう考える。「すべからく極真空手家は、大山先生の理念、哲学、夢の本質である、民族、宗教、国家を越えて人類社会を補益する武道、世界最高の空手道の確立を目指すべきだ」と。

 

 繰り返すが、私の道場では大山倍達総裁が残した競技試合を含めた極真空手の伝統的な稽古法を保存するが、それらの稽古法を中心とはしない。私は、伝統的な稽古法を基盤としつつ、増田式の新たな空手修練方法を創設する。その修練方法の眼目は、極真空手の修練を老壮青少のあらゆる年代の人が長く関わり、活用できるよう補完することである。それらの稽古法は、伝統的な稽古法と矛盾しないし両立も可能だ。断っておくが、現在の極真空手の基本や型の稽古、そして組手を行うだけでは、これ以上、極真空手家のの心技体のレベルは向上しないだろう。ゆえに私は、大山倍達総裁がそうであったように、空手武術のより本質的な事柄を考究しつつ稽古していく。それを平たく言えば、護身武道としての空手術と言っても良いかもしれない。だが、以前にも少し述べたように、私にとっての「護身」とは、「護心」でもある。さらに言えば、真理探求を志す、「護真」でもある。それらを包含した修練法が護身武道としての増田式 武道修練法である。

 

【仁、智、勇〜利他により自利を得る理法】

 最後に、私の道場では、大山倍達総裁が言い残した極真精神、理念である「頭は低く、目は高く、口慎んで、心広く、孝を原点に他を益する」を「仁」の具現化として目指したい。次に極真空手の修練を、より合理的、かつ科学的に改良し、体力増進に役立たせたい。また、空手道修練を、より良く考える「智力」を開拓する手段としたい。さらに言えば、真の己(自己)を育てるため、あえて己(自我)を捨てる、「勇気」という徳を伝え、醸成していきたいと思っている。そうして、利他により自利を得る理法を、道場生と共に学んでいくことが、私の主宰するIBMA極真会館増田道場のあり方である。

 

2019-4-6:一部加筆修正

 

 

以下の写真:ゴールドジムV10ののいち

 


拓心武道の礼法について〜礼論

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拓心武道の礼法について〜礼論  /TakuShinBudo哲学

 

 

【極真式の礼法】

 極真空手には極真式の礼法として、座礼、そして立礼としての十字礼がある。その特徴を簡単に述べれば、日本における礼は開手で行われるが極真式は閉手(拳)で行われる点だ。また十字礼は胸の前あたりで両腕を一旦十字にし、その腕を下におろす形となっている。

 

 

 私は極真会館の創設者、故大山倍達総裁の制定した形式を残すというのが基本であると考えている。しかしながら、極真会館においても、黎明期には十字礼は制定されていなかった。現在は、十字礼が基本となっている。だが、私の道場では、十字礼を道場内の作法としてのみ保存し、公(おおやけ)の場、すなわち道場生以外の観客に見せる試合などでは、日本の一般的な礼を実践している。

 

【日本の一般的な礼】

 日本の一般的な礼とは開手で気をつけの姿勢から屈体をする礼である。私の道場では、それを「立礼」とし、極真式の礼を「十字礼」として、それらを区別している。私見では、礼を含めた礼法は、我が国においても多様である。何かの本で読んだ記憶があるが、徳川時代の草創期、3代目将軍、家光あたりが、正座も含め、殿中における公(おおやけ)の礼法を定めっていったらしい。その際、基盤となったのが小笠原式礼法である。その事実は、礼法に絶対の正しさがあるわけではないということである。勿論、いうまでもないが、小笠原礼法の体系に優れた意味づけ、理合が存在したからこそ、家光は採用したのであろう。家光の慧眼は、その後の300年の徳川幕府の継承の礎をなしたと、私は考えている。補足すれば、ここでいう「公」というのは、現代における、社会全般のことではなく、徳川の支配体制内のことである。

 

 以上の見方をすれば、極真式の礼も極真会館内の礼としては、それも容認できるし、意義も理解できる。

 

【私の考え】

 だが、私の考えでは、礼に関しては、極真空手も柔道や剣道、他の日本武道と同じく、我が国の心を表す形式で行った方が良いと考えている。補足を加えれば、社会全般の中で、共通した形式、また通用する形式で行う方が良いと考えている。そのように考えれば、立礼は、十字礼ではなく、開手における屈体による立礼の方が良いと考えている。もちろん、極真会館の創設者、大山倍達先生が制定した礼法は残さなければならないと思っている。私の道場では極真会館で制定された礼法は、極真式礼法(伝統礼法)とし、私の道場の礼法は、拓心武道修練法の一環として、極真式礼法における十字例を道場内のみとした。その上で、公(おおやけ)の場では、立礼(IBMA極真会館式)と拝礼を行うこととした。ちなみに、気をつけの姿勢から手を開き(開手)30度の屈体を立礼、柔道方式のように、両手のひらを前腿に添えて滑らせるように、45度の屈体を行うものを拝礼とした。座礼も拳を握った(閉手)の座礼を極真式座礼とし、開手で行い、屈体を深々と行う方式を拝座礼とした。

 そのようにすることで、空手道修練を行う子供たちのみならず全ての道場生が、広く一般社会で礼を表す際、その磨き上げられた様式美と心を表現することとなる(特に日本社会ではあるが)。と同時にその形と心を認めてもらえる。それは理想の姿だが、その理想を目指さなくては、永遠に進歩はないだろう。

 

 補足を加えれば、礼法をことさら大げさに考えて、権威化の手段としてはならない。そう言えば、私のイメージしていることがわからない人もいるかと思う。端的に言えば、礼法の本質を忘れ、その形式を守ることを絶対視してはならないということである。「手段の目的化」、そのような例は、枚挙にいとまがない。

 

【日本の礼法の本質〜不自由の中から自由を得る(真に知る)方法】

 「心を高め、人生を拓くという」スローガンを掲げる拓心武道修練法は、不自由の中から自由を得る(真に知る)ことを目指す方法である。ゆえに、絶えず本質を考える。

 そう考えると、私は日本の礼法の本質は、自他の間合いを意識し、自他の呼吸を感じ取ること。そのことは、自己の確立と同時に他者の尊重と言っても良い。さらに百尺竿頭に一歩を進めるが如く考えれば、畢竟「自他の一体化」だと、私は考えている。それは、我が武道哲学と同根のものである。

 補足を加えれば、自他一体といっても、それは自他を分けている。しかしながら、「一体を意識しながら分ける」こと、また「分けることを意識しながら一体となる」ことが重要だと、私は考える。換言すれば、「自我を抑制し、他者に相対する」それが、一体化の極意である。私が観る、日本の礼法の本質とはそのような意識である。だが、現実は自己の確立、他者の尊重といっても、自我への囚われ、そして他者との差別意識であろう。差別と似た言葉に区別という言葉があるが、その意味は似て非なるものである。この辺に関して述べるのは機会を待ちたい。

 

【私の道場の立礼は】

 さて、私の道場では、礼の基本を立礼としている。ただし立礼とは、背骨を丸めず、正確に屈体(お辞儀)をすることが大事である。また、ゆっくりとした呼吸で行う。さらに相対の稽古(組手型や組手稽古など)時、互いに礼を行う場合、相手と呼吸を合わせることが肝要だ。そこから稽古が始まる。そのよう身体動作が言葉よりも雄弁に相手に対する敬意を表すのである。ゆえに、IBMA極真会館増田道場では、「押忍、お願いします」という声を出して挨拶をするより、所作、すなわち身体動作をより重要な事柄として優先する。言葉は嘘を内包する。それが私の直感である。ゆえに身体動作や身体反応を見なければならない。というのが私の人生修行からの直感である。ただし、身体動作や身体反応も然りである。なぜなら、我々人間の身体反応には、文化的、社会的に形成された、プロトコルを基盤とした体験により形成された癖が内包されているからだ。ゆえに、プロトコルを俯瞰し、癖を内包した、自己の身体を一旦解体して作り直す。そのことによって、新しい自己を、そして、より良い自己を作り上げていく。また、そのことが拓心武道修練法と増田武道哲学の究極的に目指すところである。

 

2019-4-13:換言すれば、「自我を抑制し、他者に相対する」それが、一体化の極意である。加筆

 

先師への拝礼と道場内の十字礼(極真式礼)

 

 

 

 

 

2019-4-13:タイトル変更

 

デジタル空手武道通信 第29号 編集後記

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編集後記  デジタル空手武道通信 第29号

 この間、大学に入学したと思っていた大学生の道場生が、もう4年生だという。なんと月日の経つのの早いことか。こんな感じだと、私の人生もすぐに終わる。すぐに先を考えるのが私の悪い癖だ。そのくせ、先が読めるわけではない。ゆえにいつも焦りにも近い気持ちを持ちながら生きてきた。小学生の頃、私の良くないところの一つに、物事を辛抱強く続けられないということがあった。すぐに物事を諦めるということだ。実際は、私以外の者たちは、私以上に辛抱強くなかった。ただ一部の打ち込む者を明確に持っている者と比較をすれば、そのように見えたかもしれない。だが、長い人生の中で、幼い頃、打ち込むことを持っていた者もやがて諦めることとなる。

 本当はすぐに諦めることが悪いことかどうかはわからないと、私は思っている。ただ、幼い頃、短気さえ起こさなければ、人生は変わっていたと思うことが、私には多くあった。それゆえ、空手の夢だけは諦めないと頑張ってきた。ある時、空手の先輩がしたり顔で「お前はしがみつくしかないな」と説教してきたのを覚えている。

 私は「違う」と心の中で思ったが、我慢した。確かに私はしがみついているのかもしれないと思ったからだ。だが、本当はそれまでの人生経験で、すぐに諦めては、素質があってもその素質が開花しないと、私は思っていたのだ。ゆえに「ここで諦めては、もっと高みに立てる可能性があるのに勿体無い」と考えたいた。今もそうだ。つまり、言い換えれば、私には誰よりも空手武道を極める素質があると思っているのだ。それゆえ、弟子が集まらなくても、仲間が集まらなくても、そんなこと御構い無しがごとく、空手武道を極める夢を諦めず、研究と稽古を続けている。

 そんな生き方だったが、私の人生も終盤にさしかっかった。大好きだった祖母がなくなり、母も20年前になくなっている。しかし、私には、まだ父と妹と弟、そして家内と息子、娘という家族がいる。あと10年、みんな生きているだろうか。おそらく全員は生きてはいないであろう。私の友人、道場生も同様だ。いつ別れがあるかわからない。当たり前のことだが、とても寂しい。

 昨晩の研究科の参加者は3名だった。皆、この時期、忙しいらしい。 私もいそがしい。今月は出張と合宿がある。その他の雑用も山積している。 その夜、私は3名の道場生に夢を語った。 大山先生は晩年、組織運営に忙しく、空手の稽古はできなかったようだ。しかし、私は死ぬまで、空手道を更新し続けるつもりだ。たとえ、少し身体が不自由になったとしてもである。

 

 なぜなら、稽古とはたゆまぬ自己の更新だと思うからだ。そして死ぬまで稽古することが自己を高める道だと考えるからだ。つまり、年老いて身体の機能が衰えるのは自然である。しかし、その自然を受け入れ、その上で身体の使い方を考えるからこそ、さらなる高みに立てると思うからだ。換言すれば、生きるとは稽古であり、修行だ。そして修行によって自己の認識を刷新、更新し続けることが、求道者の生き方である。だが、あえて断っておくが、求道者的な生き方とは決して苦しい生き方ではない。むしろ楽しい生き方である。私の空手武道は、その楽しさを道場生に実感させる手段である。

 昨晩、私は以下のように語った。「今後、IBMA極真会館増田道場の方針を刷新する」「また、老壮青少、全ての年代の道場生が生涯にわたり空手道の稽古を続け、さらに自己を更新していけるように修練体系を更新し続ける」「ゆえに、私自身も死ぬまで自己を更新し続ける」「みんなも、自己の更新をしてほしい」「それには教本を時間を作り、隅から隅まで見てほしい」「そうでなければ、私の空手は絶対にわからない」 おそらく、私の空手をわかろうと思っていない人がほとんどだろう。もし、そうならば、なんと虚しい仕事だろうか。だが、捜せば、昨晩の3名のような人間がまだいると思っている。志と感性を同じくする友と出会うためにも、その友と出会った時に、これまでの人生がその出会いのためにあったと思えるように頑張りたい。たとえ変人と思われても結構だ。これからも、金にもならない読書を始め、情報収集、稽古、鍛錬、治療を一秒たりとも無駄にせずに行い、芸術、哲学としての増田 章の空手道を確立したい。

 

昇段審査において:先師への拝礼と門下生同士の極真式十字礼

 

夢を信じる〜「令和」版

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夢を信じる〜「令和」版

 

 「夢を信じる」私が極真空手の選手だった頃に心に浮かんだ言葉である。

 

「世界一になる」と公言してはばからなかった10代後半から20代頭の頃、生意気なやつだと、言われていたに違いない。

 

 私は生意気だったが、同時にとても素直で正直な男だったと思っている。自分でいうのもなんだが…。それがアダとなったかはわからないが、なかなか人に認めてもらえなかった(本当は認められていたのかもしれないが)。そして、世界一になると言い始めた20台前半、生意気の絶頂の頃から、10年近くもの年月を要して全日本選手権で優勝することができた。

 

 周りは、増田はチャンピオンになれずに終わると、言っていたに違いない。99パーセントの確信がある。さらに言えば、私を支えた友人も内心はそう思っていたに違いない。それでも無邪気に夢を追い続ける私を友人たちは応援してくれた。感謝している。

 

 そんなことがわかっていたから、私は「夢を信じる」と言った。夢を信じるとは、自分を信じることだが、自分を信じるとは、人が言うほど簡単なことではない。当時、したり顔で、説教をする先輩はいた。今なら、論破できる。自分なんかどこにある。そんなものを信じてどうする。ならば、「夢とはなんだ」「夢は夢ではないか」と返されるに違いない。野球のある天才ピッチャーは、「僕は夢など持たない」と言うようなことをいった。私からすれば、それこそが生意気とも言える。自信の塊だったのだろう(今はどうか聞いてみたい)。私には、そんな自信などなかった。また余裕もない。だから、独りでありとあらゆる努力をし、勝つための準備をした。宗教にもすがった。全ては、予測などできない将来を信じるためだった。しかし、その準備をしては失敗し、また準備をしては失敗すると言う経験が、私の中に豊富なデータベースを作った。

 

 当時の私の考えは、何一つ完全な予想などできない、何一つ確信など持てない、極真空手の判定法や人生に対して。それでも、それを受け入れ、かつ自分の全てをそれに捧げる、ということだった。そして夢に賭ける。私にとって、それは祈りでもあった。またそれは、「いつ死んでも悔いなしという覚悟」でもあった。もう一度、そんな生き方をして見ようと思っている。

 

 もう、身体のあちこちが痛くて、思うように動かないにも関わらず。しかし、だからこそ面白いのだ。その方が知恵が湧いてくる。動かない身体になってきたからこそ、身体の気持ちがわかってきた。これからは、「身体」とは本当のパートナーになれると思っている。もちろん「心」ともだ。今だからこそ、もっと良きパートナーになれる。

 

 さて、今から20数年前、私の極真空手家としての生き様を見ていて欲しかった大山倍達総裁が亡なった。その喪失感の中、さらに追い討ちをかけるように極真会館が分裂した。

 

 私は、無我夢中で道を探した。だが、道は見つからなかった。それが今、憑き物が落ちたように、道が見える。それは蜃気楼のような、幻のようなものかもしれない。しかし、それは肉眼で見えるものではない、私の心眼に見えている。

 

 そんな中、「夢を信じる」という言葉を思い出した。

おそらく、私の人生は10年もつかどうかわからない。「そんなことを言う奴に限って90歳まで生きる」などと言う輩が多いが、「それならそれで良い」「嬉しいことだ」だが「それを誰が保証できると言うのだ」大山先生もそう言われて亡くなっていかれた。

 

 ゆえに私は、「いつ死んでも良い」と強く思うための準備をするのだ。もう一度。

私を支えてくれた家族には最低限のお礼はしたい。しかし、勘弁してくれ。

みんなが納得はしてくれないかもしれないかもしれない。だだ犬死だけはしないつもりだ、これまで57年近くも「理性」を磨いてきたから。

 

 私はただただ、天の誠を信じたい。そしてそれを具現化していく。ただ一つ心配なのは、明日、金沢まで車で出張の予定である。なるべく体力は使いたくない。そして、ゆっくりと眠りたい。

 

 

増田式空手メソッド

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 以下の「増田 章より」は、IBMA極真会館増田道場の交流試合に向けたメッセージだ。6月の交流試合から新しい武道スポーツに再挑戦する。この武道スポーツはフリースタイル空手プロジェクトの改訂版だ。競技名をヒッティング(Hitting)と名付けた。

 
 私の夢は極真空手を高めること。そして新しい武道スポーツを創設するということと言っても良い。ただし、断っておくが、私の夢は幼い頃からの人間や社会に対する願いや想い、そして私の武道理念と哲学から生まれているものだ。ゆえに流行を追うものではない。また、名誉を得ようとするものでもない。ただ、競技を競技のための競技とするのではなく、武道を行う武道人の意識と心の次元を高めるための手段とすることだけを考えている。何より、自分自身の身体と心と魂(精神)を高めたいという思いが強い。
 
 さらに言えば、私が10年前に構想した、フリースタイル空手プロジェクトと、新しい武道スポーツである「ヒッティング競技(タクシンスタイル空手武道試合)」は同根である。形になるまでは、1〜5年は必要だろう。私の最期の挑戦になるかもしれない。しかし、望むところだ。いつも最期を意識してきた。ただ、頭が回らないのと体力が失われつつある。あと資金も。とくに体力的に過酷な状況だ。現実の私の身体は、2ヶ月に一度の割合で、目はものもらいで痛む。足が痺れる。また、胃も痛い。時々、血圧も下がってきて辛い。でも、そんな時、みんなも大変だろうな、と思って頑張っている。「生きているだけで幸せ」誰かが、私に教えてくれた。楽しみながら進んで生きたい。
 
 強がりのような気もするけど、今、憑き物が落ちたようにさっぱりとした気分である。これからは、道場生をはじめとして、増田式空手メソッドを一緒に創り上げるのだという意識を持っている人との時間を大切にしたい。残り時間が少なくなってきているから。
 

増田 章より〜最高の打撃を追求する試し合い

 

 以下の競技試合規約は、正規の競技試合規約を若干変更しています。なぜなら、正規の競技試合規約で試合を行うには選手も審判も競技試合に慣れていないからです。正規の競技試合規約は、後日サイトにて閲覧できるようになります。そこに正式な競技規約は書いてあります。また、本道場におけるヒッティング(Hitting)試合は、今後、1〜3年を掛けて、アルファからベータに移行して行く予定です(ヒッテイングベータとは防具をつけて手技による頭部打撃も可とします)。繰り返しますが、ヒッティングとは、私が新しく考案した、完全ポイント判定方式の空手競技です。

 

 なお、今回の案内には間違いがあります。後日修正したものに更新します。例えば、ヒッティングの競技試合規定では、本戦で点差が1点でもあれば、勝者とすること。同点の場合は延長戦。延長戦でも同点の場合は、「ゴールデンポイント方式」を実施します。ゴールデンポイント方式とは、柔道のゴールデンスコア方式を取り入れています。ただ、ヒッティングは、増田章が、新しく考案した、完全ポイント判定方式の空手競技です。当然、柔道とは異なる技とポイント判定方式の競技試合なので、その名称を「ゴールデンポイント」としました。当然、柔道とは異なる技とポイント判定方式の競技試合なので、その名称を「ゴールデンポイント」としました。

 

 私は、この競技(ヒッティング)によって、極真空手の試し合いをダメージを与えあい、意地を張り合う試し合いから、精緻な技術を追求し、一瞬のミスも許さない、最高の打撃を追求する試し合いに変えていきます。

 

 ただし、伝統的なダメージを与えあう極真空手を保存するために、極真スタイルという競技試合方式も考案しました。なぜなら、ダメージを与えあう伝統的な極真空手の中にも格闘技に重要な事柄が含まれているからです。さらに、極真スタイル(極真方式)にもヒッティングにも、打撃技のみならず、掛け技や足払いなどによる倒し技も有効にします。そのことにより、打撃技を駆使するための精度や機動性に対する意識を向上させていきます。まずは当面の目標として、6月の交流試合を手始めに秋の交流試合(組手)に向けて、徐々にヒッティング競技試合の実施とより多くの人に競技試合を体験してもらいたいと考えています。

 

 最後に、私は極真空手を、空手本来の武術性を内包し、かつ身体の機能を高める「護-身」の武道、また、心の次元を高める「護-心」の武道に変えていきます。また、真理を探究する「護-真」の武道としていきます。

さらには、子供から老年まで、長く続けられる、人に優しい空手道にしたいと考えています。それを実現するためのものが「増田式空手メソッド」です。

合宿の夜

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 4月29、30、5月1日と山梨で合宿を行った。道場生対象の合宿ではない。研究と教本作りのための合宿である。その合宿は、秋吉への指導と黒帯指導員への指導と映像テキストの制作が主な目的であった。二泊三日で17時間ほど指導しただろうか。

 それでも足りなかった。いつもながら無謀な行動に反省している。おそらく、私に優秀なプロデューサーがいたら、効率は3倍となるに違いない(それほど私にはプロデュース能力がない)。しかしながら、これまで、そんな人間に出会わなかった。ゆえに、合宿の前後、合宿以上の作業を続けている。「1日も早く、増田式空手メソッドを完成させたい」そう熱望している。そう思うのも、アイディアがまとまったからだ。

 先日の合宿も全員の黒帯に参加して欲しかったが、宿泊場所の確保がわずかしかできなかった。ゆえに有志を選んだ。みんなクタクタになったに違いない。

  合宿の前の4月20日には、金沢において体験会があった。本当に休む間も無い。道場の師範代の秋吉も大変である。また、金沢の体験会に続き、山梨の合宿にも車の運転と私の精神的リラックスのために付き合ってもらったO氏に感謝している。O氏は、そこにいてくれるだけで安心する。私にはそういう人が数人いる。その人が、そこにいてくれるだけで良いのだ。

 

【合宿の夜】 

 合宿の夜、平成天皇の退位式の模様を痛むヒザを折り曲げ、正座で拝聴した。そして令和元年のカウントダウンを見届け手から、皆で乾杯し、寝床に着いた。

 就寝前、1時間だけと、皆と杯を傾けたが、その中、思いがけず、T氏の身の上話を聞いた。T氏は、非常に好奇心が強く努力家である。ただ、酒を飲むと気がとても大きくなる性癖があるようだ。その性癖により、家族との間に傷跡があるようだ。だが、彼には奥方や家族に対する愛情が溢れていた。正直言えば、私の家庭もあなたと同じだよ、と言いたかったがやめた。似ていると思ったが、それを言えば嘘になると思ったからだ。

 T氏と私は、当然同じではないが、共通点は、自由を愛し、自分の力を思う存分に発揮したいという願望が強いことだと思う。その夜、T氏は奥様との軋轢を私に吐露したが、結婚を決めたきっかけは、彼が山下公園でのデート中、寝てしまい、起きると夜だったにも関わらず、奥様がそばに黙っていてくれたからだと言う。また、「今回の合宿は、家内に行って来いと背中を押されました」とも言っていた。また「家内はしっかり者で頭が良いんです」とも言っていた。私は疑い深いから、「奥様は、T氏に家に居て欲しくないからかもしれない」とも思ったが、「奥さん賢く、素晴らしい人だから、大事にしろ」と偉そうに言った。

 さらに「君の良いところは正直なところだから、その正直さを相手に伝え続けた方が良いと」だけ言った。的確な言葉かどうかはわからない。何しろ、T氏の奥様に会ったことがない。しかし、彼と彼の家族との軋轢や傷跡は、生涯の戒めとすれば良い。何より彼には家族が必要だと思う。とにかく、この先、家族が大切だと心から思えれば、何もなかった人生より、生きている喜びとは何か、を知るに違いない。初心忘るべからず。私はそのような話もした。T氏が「悠恕」という深い愛、その初心を忘れなければ、必ず夫婦の関係は良くなると信じている。

 

【次の日】

 次の日、午前中の稽古後、午後に近くの新倉山に参拝した。富士山の絶景スポットである。合宿中は、あいにくの雨だったが、かろうじて雨が上がった。四百段近くの階段を登り、絶景スポットに立ったが、富士山は見えなかった。

 それから、山梨の合宿から東京に戻った。その日は、ふらふらになって寝床についた。次の日、痛む身体の治療に出かけたが、治療後、疲労感が出て、車を車庫にぶつけてしまった。おっとこちょいなのは子供の頃からだが、人に危害を加えなくてよかった。車の運転にはくれぐれも気をつけたい。連休中は、どこにも出かけず、読書と門下生を育成するためのデジタル教本作りに当てたいと思う。実は、明日のことを考えずにいられる連休は、とてもありがたい。また、私の家族は、私の性格と仕事を理解し、私と一緒に行動することを希望しない。正直、少し寂しいが、それゆえ全力を挙げて研究活動に集中できる。

 

【傲慢の極み】

 先日の合宿では、秋吉に今後の方向性を大枠だが、伝えられた。空手の技術の面でも、理解していないところが多いと思っていたが、案の定だった。とにかく早く、教本を完成させたい。同時に、これまで私の道場で教えてきたことは、私の空手の10分の一にも満たないと思っている。私は極真空手の伝統を尊重するがゆえに、その稽古モデルを変えることができなかった。ゆえに十分な空手の技を教えてこなかった。しかし、従来の稽古法を極真空手とするならば、極真空手は十分な空手ではない。しかし、それは正しくない。これまでの指導者が、稽古法を変えなかっただけである。大山先生の意思ではない。私はその十分でないところを補って行きたい。それが増田式空手メソッドである。先輩たちに、傲慢の極みだと貶されるに違いない。しかし、大山倍達先生が学んだ空手の真髄と現在の極真空手は異なると思っている。現在、極真空手の基本技(伝統技)は形骸化している(意味を伝えられていまい)。また、極真会館が始めた、直接打撃制の試合中心の稽古法は、単にチャンピオンという価値観を掲げ、修練のモチベーションをあげるためだけのものである。しかし、そこに技術探求による「道」がなければ武道ではない。それを喜んで行って人が大勢いるのだから、それなりの価値はあるだろう。精力善用という面では、良い面もある。しかし、柔道の創設者である嘉納治五郎先生が述べた、精力最善活用だろうか。最善という意味が抜けては、「道」として高まらない、私はそう考えるだけだ。

 私は、空手の修行を通じ、心を創り、身体を創り、技術を創る。そして真理を探求していくことが、武道であると考えている。同時に、それが極真空手だと、私は思っている。

 蛇足〜でも、あんまり本物の武道を行うと、道場生は集まらないかもしれない…笑い。

 

 

 

 

日本について〜令和元年の憲法記念日に

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【日本の社会システム】

 憲法記念日の今日、新書を1冊、斜め読みし、大仰なことを考えた。本日の午前中、テレビでは、政治家の憲法論議が行われていた。それを見ながら、政治家の前提に疑念を持った。私の前提は、日本は立憲民主主義の国ではない。我が国(日本)の文化的基盤(思想的基盤)は立憲君主制によって形作られている、ということだ(立憲君主制に議会民主制を付加している)。

 これまでの私は、我が国の社会体制は、立憲民主主義による共和制が良いと考えていた。だが、我が国は皇紀2679年の伝統を有する、立憲君主制の国体を保つのが良い、と現在は考えている。私が考える我が国の立憲君主制とは、良い君主が国民と協働し社会を形成する、と言うものだ。もし、社会に良い君主などいらないとすれば、どうなるか。君主に変わる国民を統合する権威を作らなければならないだろう。しかし、それは権威ではない、実態は権力なのだ。そしてその権力の正体は暴力装置である。憲法の本質は国家権力の道具である。それは、私の考える権威にはならない。人は権力を規定するのが憲法だと言うが、その正体は権力と一身胴体のものだと思う。ゆえに憲法は権力を規定しつつ、絶えず微調整をしなければならないと思う。一方、私が言う権威とは、社会に長い年月をかけて醸成された、文化的かつ内発的な良心の威光、そして力なのだ。

 私の言う「良い君主が統治する立憲君主制」の国家権力は、権威が背景になければならない。その権威が錦の御旗である。つまり、わが国の天皇制は、暴力を背景にした王政や国家の権力を正当化する国家主義や社会主義とは異なると思う。さらに言えば、他国に発祥した民主主義とは異なり、人間の人間(神ではないが神に近い君主という)による権威、そして日本的な民主主義的統治と言っても良いような社会システムなのだ。その社会システムが機能しているのが我が国だと思う。我が国においても、一時、欧米諸国と対抗するため、国家社会主義化した時期がある。その体制は、やがて国家主義的な指導者によって崩壊の道をたどった(私見だが、国家社会主義を提唱したのが安倍首相の祖父である岸首相であり、国家主義を提唱したのは、東條首相だろう)。

 いうまでもなく、暴力革命により誕生した民主主義は、我が国民の望むところではないだろう。これ以上は、とても急いで論を展開しているので、端折りたい。頭の悪い空手家の戯言だと、一笑に付されるかもしれない。それでも結構だ。だが、武を考え続けてきた者の哲学だとだけは言っておきたい。しかしながら、天皇陛下自体が、そのように考えていないかもしれない。そう言えば、不敬なことだとは思うが…。

 

【平成天皇の退位】 

 さて、私は今回の平成天皇の退位に感銘を受けた。天皇自身が将来の我が国のあり方を示したと、思ったからだ。そして、その本質は、若い人に夢を託すという、至極当たり前のことなのだ。それが権力者ほど、できていないように思う。

 そんな直感を得て、政治家の日本の未来への危惧を語る政治家の姿自体にも危惧を感じた。私は少子高齢化の社会に向けてなどという政治家やエセ知識人の常套句を信じていない。もし、そのことに本当に危機感を有しているなら、多くの人が若い人に道を譲っているはずだと思うからだ。今、重要なのは、若い人を育てる社会システムへの転換とその準備である。例えば、選挙制度や昇進制度などなどである。さらに言えば、若い人、有能な人にリーダーをやらせてみることだ。失敗しても良い。そう、失敗を許容する社会、失敗しても再チャレンジできる社会機能は重要である。

 国家という組織、そして社会システムの中で、メディアや知識人は、年老いた権力者に忖度することなく、若いリーダーを暖かく、時に厳しく見守らなければならない。断っておくが、若い人の登用と同時に老齢の人の再登用もシステムも重要である。これは、私の言っていることに矛盾があるのではない。むしろ、私は矛盾を内包するできるシステムが重要だと、直感する。私の言いたいことは、老年が良くないということではなく、若い人にチャンスが少ない社会は良くないと言うことである。

 

【若い人にチャンスを与える】

 若い人にチャンスを与える、そのような理念を核とする、ある種の社会運動により、国民全体が考え始める。そのことが永続的な社会システムには重要なのだ。ただし、それが革命主義やポピュリズム的な民主主義ではいけない、と私は考えている。例えば、他国の民主主義を見てみるが良い。立憲君主制でないところは、すぐに権力に不満を言い、権力に対し暴力(革命)を振るう。同時に暴力が連鎖する。それは戦争状態の発生の原因と同質のものなのだ。民主主義を謳っていてもである。

 そのような国は、古の王政、封建的独裁政治の時代が余りにも酷く、それが立憲君主の社会を遠ざけたのかもしれない。しかしながら、それは封建主義と悪しき君主制が一体となっていたからだ。民主的な憲法を掲げ、それをもとに民主的に運営する立法府と行政府、さらに憲法の権威を担保する司法が、社会システムの中で機能している社会。そのような機能を有しつつ、その社会機能に正当性を与える君主(天皇)が存在する社会が、我が国の立憲君主制だ。

 

【社会機能に対し多数決で正当性を与える民主主義】 

 私は、国民が社会機能に対し多数決で正当性を与える民主主義はよくない、と思っている(イギリスの国民投票が良い例である)。なぜなら、ポピュリズム(衆愚政治)が跋扈し、メディアを含む、自己の組織を拡大することが目的の者達が、そのことを煽る。もちろん、国民の自由を奪う、国家主義や国家社会主義を、私は好まない。

 私は今、社会システムの中で、大家族的な伝統を承継する君主(天皇)という権威の存在とその承継を願う、強い国民意識が必要だと考えている。そして、その国民意識がポピュリズムによる暴力革命という、民主主義がもたらす最悪の状況の抑止となる。何を隠そう、かのヒットラーを擁したナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)は民主主義のルールを基盤に誕生したのだ。では、天皇の権威が政治利用されたらどうなるかと言われるかもしれないが、そのような状況を回避するために憲法が重要である。また、行政府と立法府の機能が重要なのだ。天皇が政治利用される状況はすでに国家主義になった状態である。私の考える我が国の立憲君主制とは、国家主義とは異質のものである。

 

【かつての私】

 繰り返すようだが、かつての私は、民主主義を基盤とした共和制への移行を支持する、リベラル派であった。だが、考えを改めた。なぜなら、経験的に欧米的な民主主義が、日本の文化という土壌には適さないことを実感したこと(それが悪いと考えているわけではなく、日本人には合わないということ)。また、私自身が家族の存続を強く願う、保守層の人間となったからであろう。同時に現在のリベラル派の有すると思われる国家モデルには、我が国の良点を喪失しかねない、思想的瑕疵が伺える。また、昨今のリベラル派(左派)ほど、改革を好まない傾向がある。私は何を隠そう、安倍首相支持派である。もちろん、ご飯論法の面も否めないし、一部、考え直していただきたい点もないことはない。また、国家主義的な方向に進んでいる面を、危惧もしている。さらには、新たな選挙制度が生んだ、近視眼的な政治家が自民党には多いのも事実である。しかしながら、それは野党も同じである。また、安倍首相の良い点として、失敗を経験して、再び首相に返り咲いた点をあげたい。そして、少なくとも安倍首相の誕生が、戦前、戦後を考え直す、きっかけになっていることは評価したい。だが、そのことをポピュリズムの代表であるメディアが、オープンに取り上げないことが問題である。否、ポピュリズムの先導者だからこそか。また、あまり難しいことを考えたくない、国民性に原因があるのかもしれない。

 今、世間では参院戦では自民党が不利などと煽る人達もいるようだが、民主主義の綺麗に見える面だけを強調する、頭は良いが人間洞察に甘く、本当は冷たい政治家を私は支持しない。やがてボロが出るに違いない。もし、何かの間違いで野党が政権をとれば、移民が跋扈し、我が国の国民は子供を産まなくなり、自己の安定を図るようになるであろう。それがフィンランドのような高い税負担を課し、その代わりに社会福祉政策を安定させるような国家を目指すのならば、それも良いかもしれない。国民が受け入れられるのならばだが…。また、外国の人達に対する偏見は無くすべきである。そして、開かれた国家として、ある程度の移民は受け入れなければならないであろう。

 しかしながら、移民の安易な受け入れは、大変なことになるような直感がある。労働力の確保に端を発する諸問題は、全体のシステムに影響するだろう。また、一歩間違えば、日本の伝統や社会システムの良い面を崩壊させるかもしれない危険性がある。このことは政治家が真剣に考えなければならない問題だろう。

 

【暴力】

  もう一つだけ言っておきたい。「対立するものへの実力行使による意志の強要」、それが暴力である。かなしいかな、武術、格闘技の本質には、そのような側面を内包している。しかし、経験が浅く、能力も低い、全ての人間には、そのような行動を選択する傾向があるということを知らなければならない(経験が浅く、能力が低いとは、一人の人間があらゆる経験をし、全ての能力を有することは不可能だということを意味している)。同時に、理性による合意、対立関係の解消が、かけ離れた思想を有する人間同士には困難だと言う現実がある。だからこそ、科学技術が発展した現代においても啓蒙思想が必要なのだ。また、全世界的な社会システムが必要かもしれない。同時に、個々人の武に対する心構え並びに国民を守る意味での武力(軍事力)が、国家には必要なのだ。

 ただし、一人の人間に、それを行使する権限を与えるのは危険である。また、個人や他国に対する武力による意志の強要は、絶対にしてはならない。禍根を残すからだ。しかしながら、他者がそれをしてきた場合には、毅然として立ち向かい、その状態を切り抜けるという能力と勇気を持たなければならない。それが現実である。そして、その覚悟を持って、国として最善の道を真剣に模索し続けることが、将来の国民には必要なのだと言いたい。

 もし、我が国に再び、困難が降りかかったら、我が国の国民はどのように行動するのだろうか。無抵抗で暴力的な国家に従うのであろうか。それとも…。安倍首相に留意していただきたいことは、国家が決めたことに「NO」をいう権利だけは保証していただきたい。それがなくなれば、悪しき国家主義そのものである。

 

【私は戦争を行うことには絶対に反対である】

 だが、私は武を学ぶ者として、有事を想定せずにはいられない。断っておくが、私は戦争を行うことには絶対に反対である。だからこそ、女性や子供、前途ある若者を苦しめる戦争を絶対に回避するとの覚悟を有しつつ、あらゆる対応策を準備しておく。それが国家と国家のリーダーには必要なのだ。また、そのような想定をすればこそ、伝統ある君主の存在が物言う、イギリスのような国家モデルが参考になると思っている(ただし、現在のイギリスは混迷しているが)。

 もう一度言う。わが国は、こらからも理想の立憲君主制を目指すのだ。ただし、立憲君主制に、民主主義の立脚点である、基本的人権の尊重の思想を取り入れ、その国の文化的伝統に適した民主的な行政、司法、立法をはじめ、教育や地方自治体などなど、あらゆる社会システムを構築していくのだ。それには、たゆまぬ社会システムの見直しと更新、そして微調整が必要であることは間違いない。

 

 

2019-5-5:一部加筆修正

心眼を開く組手

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心眼を開く組手

 

 

 先月の18日と今月の2日、組手講習会を実施した。これは空手においては最後の挑戦となるかもしれない。その挑戦とは、技術を磨き技能を高めることを目的とする、新しいソフトウェアの様な増田式空手メソッド(拓心武道メソッド)の普及である。その手始めとして、わが道場の黒帯と上級者に伝えるための講習会を実施した。まずは、私の組手に対する考え方を自分の道場生に伝えておきたいと思っているからだ。

 断っておくが、増田式空手メソッドは、これまで40年近くにわたり、私が伝えてきた組手法、空手とは異なるものに思えるかもしれない。しかし、あえて言っておこう。TS方式を理解できないものは、過去に遡り、増田の教えてきた極真空手を理解していない者と言っても過言ではない。TS方式は、増田が人生を賭けて行ってきた極真空手の修行の延長線上にあるのだ。ゆえに「基本」は、ほぼ同じである(若干の追加、補足をしなければならないが)。私自身には、40年前から、その基礎となる認識があった。なぜなら、柔道やレスリングの経験を通じ、相手を攻略する技術と技能の重要性が嫌という程、身にしみていたからである。例えば、40年ほど前になるだろうか、多くの柔道家が愛読した、バイタル柔道は、私の愛読書でもあった。私は、柔道に挫折した。その体験の中で、技術と技能がいかに重要かが、骨身にしみたのである。その様な体験を経て空手を行なっている、私の認識と単に最強ブームに乗って極真空手を始めた者との認識は当然異なるものだったに違いない。

 今、その認識を共有するためのソフトウエアの様な増田式空手メソッドを考案できたと思っている。その内容を大雑把に言えば、これまでの「基本技」の運用ルール、プロトコルが増田式空手メソッドでは異なるということだ。当然、組手に対する理念、価値観が異なる。

 

 さて、講習会は時間は4時間ぶっ通しであった。本当は午前2時間、休憩を挟み午後4時間ぐらいの時間が必要である。そんなに長時間で大丈夫かという意見もあるだろうが、初めは講義と軽い練習。

 

 次に詳細な技術練習とゲーム(組手)体験。さらに、その組手を解説し、組手の理法を学び合う。そのような内容を通しで体験して、初めて私の考えていることを頭と体で理解できるようになるだろう。

 

 そうなれば、それ相応の準備が必要である。それなりの対価が欲しい。今回は、道場生の感覚に妥協して実施した。ただ、今回は私の講習会の練習だと思っている。同時に中途半端で50点だと反省もしている。本当は、私の空手哲学を本当に学びたいと思う人に対し、決して妥協せずに、かつ100点の内容を目指して実施するのが理想である(身内を対象にしているうちはダメかな)。

 だが、多くの人は「新しい組手法など必要ない」。「そもそも組手に難しさなどあるのか」「あるのは体力や経験の違い、センスの違いがあるだけではないのか」というような思いを持つのが現実であろう。また、そこまで思わなくても、新しい組手法、すなわち組手法の研究に関して、興味がないな、との反応が各々の身体から湧き上がってくるに違いない。もちろん、そのような反応になるのは、私のプレゼンの仕方が悪いからであろう。しかし、皆何を求めて空手の稽古をするのだろう。

 

 私は空手を始めた時から「強くなりたい」と念じ続けてきた。その結果が、極真空手のみならず、柔道やレスリング、防具空手やボクシング、キックボクシングの研究や体験だった。また、極真空手の選手としての挑戦だった。

 脱線するが、私は体力のピークに向かう途中で、選手を引退し、写真家になろうと写真の学校に通った。それは「強さ」の獲得に極真空手の選手であり続けることが、必要でないと思ったからだ。その感覚は、半分正しく、半分間違っていると、いまでも思っている。なぜなら、本当の強さとは、試合に勝つことやチャンピオンになることではなく、自分が価値あると思った目標に向かって努力し続けること。その過程の中で、「自分とは何か」「他者とは何か」「努力し続ける意味」などの命題との格闘、困難と向き合いながら、自分のバランスを保ち続けることではなかったかと思う。私は、困難な目標に対し挑戦しながら、局面的な挫折や目標に到達できないかもしれないという不安の中で自己のアイデンティティを保ち続けることができた。そして、そのような生き様の中で周りにいる人たちへの感謝を知った。私は、その感謝の体験の中にこそ、人間の真の強さの本質があると、私は直感している。それを自著では「やさしさ」と定義した。人間の「やさしさ」とは、人間のみの「やさしさ」である。

 

 話を戻せば、私は今、選手生活を引退してからの20数年間、単なる自分の空手の理想を追い求めてきたのではない。現実に改革に挑戦してきた。つまり、具体的に時間と労力、資金を投入し、改革を計画し実行をしてきた。その結果は散々なものだった。換言すれば、私の理想への挑戦は敗戦ばかりだったかもしれないと思っている。かもしれないというのは、敗戦の経験により、見えなかったことが見えるようになったのではないかと思うからである。もちろん、敗戦の原因を色々と考えることもある。例えば、「私の計画に無理があった」「資金が足りない」「私に能力がない」。「大衆のニーズがない」などなど、考えれば考えるほど、私の無謀と非力を思い知らされる。

 だが、私の理想の底流にある、より高いレベルの空手、そして真を追及したいという思いからすれば、それも良い経験であった。その経験があればこそ、今、新しい境地に立っている。

 おそらく、初めは理解者、共感者は少ないかもしれない。しかしながら、私が身近で接している者には理解するものも出てきた。問題は、大々的にプロモーションすることができないことが悔しい。だが、今回の講習会然り、今はまだ準備の時期だと考えようと思っている。不安なのは、私の体が日に日に壊れてきていることである。十分なのは髪の毛だけだ(笑い)。もう少しだけ「私の夢」に付き合ってくれと、私の最大の協力者である身体に、お願いしつつ感謝する毎日である。

 

 最後に、私の考える組手法、試し合い法は、フイジカルチェスと呼ばれるようなものにしたい。具体的には、「なぜ?に向き合い、それを自己の心身に取り込むような組手にしたい、ということである。そのように言えば、すでにクエスチョンが出ているだろう。もう少し具体的にいえば、「なぜ、技が正確に当たったか」を正確に理解できる様にすること。例えば、組手の結果をチェスや将棋、囲碁の感想戦の様に、互いの手(戦い方)を検証できる様にすることである。もちろん、理解を超えた「妙手」の存在に気づかされることも含めてのことである。また、「妙手」を自覚することで、人間はより謙虚になれる。そしてより高みに挑戦できるのである。

 

 私は講習会の第1回目の講義で「武道の目指すところは、究極、心眼の養成だ」と述べた。その直感に迷いはない。ただ、消えない孤独感を制する道を知りたいと、新たな目標が見えている。

 

 

【蛇足】

 2回目の講習会の講義では、増田式空手メソッドの組手法(TS方式)の理念を武道人精神、ブドウマンシップと仮に伝えた。武道人精神と武道精神は異なる。また、武道人とは私の造語である。ちなみに極真空手は武道精神と掲げるが、意味がよくわからない。また柔道の講道館は講道館精神を掲げ、試合を行う様だ。私はそのあり方に共感する。

 スポーツにおけるスポーツマンシップや柔道における講道館精神と同様なものの必要性を感じた私は、そのことを急ぎ伝えたかった。さもないと、「画龍点睛を欠く」ということになってしまうと考えたからだ。

 私は、土曜日、付箋のついた「ホイジンガのホモ・ルーデンス」や「嘉納治五郎著作集」を手に取っていた。講習会の前日、いけないと思いつつ、読書をやめなかった。否、やめられなかった。

 そして、武道人精神を「尊敬」「公正」「智慧」とした。その様な心構えで競技(プレー)をすることを新しい組手法、競技法の眼とするためである。同時に試合ルールも理念と合致する様、「尊敬」「公正」「智惠」を基盤に創設され、かつ、その様な徳目が醸成される様にしなければならない、と考えている。ただし、再考はしたい。

 

 

 

※感想戦とは:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

感想戦(かんそうせん)とは、囲碁、将棋、チェス、麻雀などのゲームにおいて、対局後に開始から終局まで、またはその一部を再現し、対局中の着手の善悪や、その局面における最善手などを検討することである。なお、「感想戦」は本来将棋用語であり、囲碁では通常「局後の検討」という言葉が使用されることが多い(NHK杯の司会者もそのような言い方をしている)。

 

 

 

 


6月5日のコラム「心眼を開く組手」に関する補足

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アメンバー限定公開記事です。

恩人・永江輝代氏と〜ウェイトトレーニングは哲学である

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「恩人・永江輝代氏と〜ウェイトトレーニングは哲学である」

 

 私の金沢の恩人の一人永江輝代氏の御宅を訪ねた。

アメリカ在住のお嬢様、美樹、牧子両氏が息子と帰国されていると、ご招待を受けたのだ。

 

 そこで思いもかけぬ話を伺った。

話は極真会館石川支部が金沢にできた当初の話から始まり、

ウェイトトレーニングは哲学であるとの話、教育や美についてなどなどに及んだ。

 

 永江輝代氏は今年80歳となる。

京都で生まれた永江氏は、昔も今も美しい容貌の持ち主、また知的な方である(話には独特のユーモアがある…そこも魅力の一つである)。現在も現役で金沢の文化人と交流されている様だ。

 

 永江氏との話は、お嬢様も交え、2時間にも及んだ。本当は、もっと話したかったが遠慮した。永江輝代氏と永江トレーニングセンターは、本当に増田 章の魂と命を救ってくれた。いつか丁寧にその感謝を綴りたい。

 

 永江氏は「ウェイトトレーニングは哲学であり、宗教だ」と言った。私が考える武道も哲学である。私が尊敬する、嘉納治五郎師範にとっても大山倍達師範にとっても哲学だったと思う。それは、上からインストラクションするものではなく、一人ひとりの内側から、自分を変えていく哲学である。その哲学は、決して、「何々が正しい」と教えることのみではない。私はそう考えている。

 

 永江輝代氏と対談は、増田 章のユーチューブ放送局にアップした(YouTubeを使い、増田章の対談等を記録しておきたいと考えている)。

 

 もし、増田章に興味ある人がいたら視聴して欲しい。そして、共感してくれたなら、私の心の友だ。いつか会いたい。もちろん、共感しなくても、全ての人は仲間だと思っている。

 

 もう一つ、私は、永江輝代氏に詩でお返しをした。拙い詩だが、掲載しておく。


 

 最後に、お会いしたことはないが、永江トレーニングセンターを創設された、故、永江会長に感謝したい。また、金沢での空手指導を兼ねての金沢への帰郷だったが、マコちゃんに誘っていただき、とても感謝している。もっとゆっくりしたかったけど、空手を指導した翌日、朝の4時半に起き、東京に戻った。現在、身体の調子が良くない。ゆえに、これが最後だと考えている仕事のこととで、毎日が息苦しい。そんな中、心と魂が癒された感がした。

 

 マコちゃんは子供の頃から、本当に可愛かった。また、アメリカで絵の勉強をした美樹ちゃんへは、お母様の哲学を簡単にして、絵本で表現したらどうだろうか、と提案したい。V10で空手体験をした、ベック、ペイトンとは、彼らが大きくなってから、日本についての話をしてみたい。その時は僕が英語を覚えて、英語で話せたら良いと思っている。

 

 

「美と光」~恩人・永江輝代氏に感謝を込めて

 

美とは何か

美とは見えるものか

美とは感じるものか

私は知らない

だが、それを感じることは事実だ

 

美とは何か

私は知らない

だが私は思う

美とは光とともに生じる

私は貴方から放たれる光を見た

そして、その光がその場を照らす

今、その場にあるもの全てが美しい

 

美とは何か

私は知らない

だが、美を知るには

美を感じるには

光が必要なのだ

否、光の作り出すものを美とさえ思う

 

ああ、美を感じるとは

こういうことなのだ

 

 

心一

 

 

 

 


対談で私は「常行一直心」を正しくは「じょうぎょう いちじきしん」のところ、「じょうこう いちじきしん」と言っている。間違いです。お恥ずかしい。後から気が付いた。昔から、せっかちなので、言い間違いが多い。

 

レスリング観戦は楽しかった〜レスリング全日本選抜 2019年

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新しい武道スポーツ競技の競技規定

 新しい武道スポーツ競技の競技規定に細かい修正を加えた。メジャースポーツを目指すようなものではないが、極真空手道を補完する役割、また生涯スポーツ、生涯武道として人と社会に有益なものになると思っている。その名称を最終的に「ヒッティング」とした。今後、理念と武道人精神を理解し、それを一緒に具現化しようと思ってくれる人達には仲間に加わってもらいたい。

 本日、修正した点で大きな点は、「画龍点睛を欠く」とならないよう、理念に力を入れ、再考を繰り返した。少々、力みすぎたかもしれない。仲間に意見を求めるため、掲載しておく。

 

 脚の治療とトレーニング、競技規定の修正、昇級審査項目の改訂、顔面突き有りのヒッティングの練習方法の確立、大山先生の古伝の研究などなど、時間が足りない。

 

レスリング観戦は楽しかった〜レスリングの全日本選抜

 さて、そんな忙しい中、レスリングの全日本選抜に向かった。私は、昨日も遅くまで作業していた。そんな中、午前中にコーヒーを飲みながら資料を読み込もうとしていたら、家内がレスリングの伊調選手のことを話してくれた。家内は伊調選手が贔屓らしい。私も伊調選手が好きである。もちろん、他の選手もみんな娘、息子のように可愛らしいが…(最近は若い人を見ると息子や娘のように可愛らしく感じる。例外もいるが)。

 単なる気まぐれだと思うかもしれないが、私はヒッティングの競技規定のためのヒントに出会うと感じた。私は作業を一旦中断し、アイデアが沸くことを願いながら駒沢公園へ向かった。

 

 もちろん、作業が山積していたので、伊調選手の試合だけ見たら、すぐに帰宅しようと考えていた。ところが、伊調選手の試合はほぼメインイベントだった。脚が痛い中、どうしようかと思っていた。私は太田先生のことを思い出し、先生にメールした。すると電話をくれ、挨拶に伺ったら、一緒に観戦することができた。太田先生とはかなりご無沙汰していたが、最近早大極真会の会合で久しぶりにお会いした。今回も突然のメールだったが、いつもながら飾らず、気さくで、親切な先生である。今回、グレコの選手の試合やフリースタイルの多くの選手の戦いを見ることができた。また、レスリングのルールが大体理解できた。何を今更、「お前はレスリングのルールを知らなかったのか」と思われるだろう。実はよく理解していなかった(だが、私は高校生の頃レスリングの試合に出たことがある)。まずはルールの理解だなと、改めて思った。

 

 競技ルールを理解すれば、競技に勝つために何をすれば良いかが想像できる。少し脱線するが、極真空手のルールはスポーツとしてダメである。私には勝つために何をすれば、真の意味でわからなかった。笑うだろうが、スーパーマンのように空を飛ばなければ勝てないのではないかと思うぐらいだった(私は空を飛べないにしてもムササビのように空中浮揚ぐらいはできるかもしれないと修練に励んだ…比喩であるが)。その意味を皆は理解できないと思うが、ある限定の中で競技を行い、その中で人より抜きん出るには、上に行けば行くほど、技術はどんぐりの背比べとなる。ゆえに技能の差が物言うはずなのだ。本来ならば…。その技能が発揮できない、また評価しない競技は、競技として欠陥があるのだ(意味がわからないだろうな、多分)。また、全日本で優勝する前、象徴的な出来事として、私の極真空手の先生が「極真会館の全ての支部長に年賀状をかけ」と真面目に教示してくれた。もしかすると、正しい教示なのかもしれない。もちろん、先生には感謝している。だが、私の求めているものと本質的に異なるという感覚は否めなかった。そんな世界が公正な世界だとは思わない。極真空手の致命的な欠陥はスポーツに必要な公正性がないことである。もちろん「VAR」のなかった時代のスポーツに、審判によるミスジャッジがなかったか、と言えば、あるのも事実である。だが、そんな次元ではないのだ。あえて言うが、極真空手の試合は大山倍達師範が自流を世間に顕示すために行った興行という側面が否めない。ただし、剣術が撃剣興行を経て、剣道となったように、空手が発展継承される過程で、大山先生が構想した戦略と戦術は、必要だったかもしれないとも思う。おそらく、新しいものが生み出されるためには、興行的なものが必要なのだろう。だが、剣術家はその哲学を剣道理念へと昇華させていった。その面は見習うべきだと思っている。断っておくが、私は剣道が完璧なモデルだと言っているわけではない。ただ、ひるがえって空手界を眺め、その精神の貧困を感じるだけである。このように書いて、ピンとくる人もいれば、何を言っているかわからない人もいるであろう。当然、後者が多いと思う。その原因は、多くの人が競技をやり込んでいないし、厳しい勝負の経験がないのだろう。また、極真会館には特権階級が存在している。その特権階級が損しないように組織が動いているからだろう。

 

 私は、斯界の発展には、改革を行うリーダーが必要だと思っている。また、リーダーは公正性を重んじなければならない。それは平等性とは異なる。「極真会館にリーダーはいるか」「社会にリーダーはいるか」「お前はリーダーか」それが幼い頃からの心の叫びである。極真会館には良いリーダーがいない。補足すれば、弟子にとって良い先生はいるだろう。弟子にとって良い先生というのは大事である。私にとっての浜井先生、山田先生は良い先生だった。感謝している。だが、私が言いたいのは、斯界のリーダーの養成を誰も考えないのか、ということだ。そのためには、まず志が重要だと思っている。先生は高い志を持てと、弟子を叱咤激励するべきだろう。異論はあると思うが、私の目には志の高いリーダーがいるとは思えない。皆良い先生止まりである。なかには、良い先生でもない人もいる。私も良い先生ではないかもしれない。ただ、志だけは高い。みんな、こんな先生はいらないかもしれない。厄介な奴だと思われているだろうな。多分。私も、一仕事、成し遂げれば、皆を暖かく見守るだけにしたい。

競技ルールを理解すれば、スポーツは面白い

 話を戻せば、競技ルールを理解すれば、スポーツは面白い。誤解を恐れずに言うが、面白いスポーツは、多くがポイント制である。もちろん、個人の好みもあるし、KOをゴールとする、プロボクシングなどの例外もある。ただプロボクシングはスポーツ(競技)とスペクタル(見世物)のギリギリの線での融合のパターンだと思う。断っておくがスペクタクル性が悪いと考えていない。メジャースポーツには、スペクタクル性が付与されている。また、私はプロボクシングがサッカー、テニス同様、大好きである。
 ゆえに、ゴール(目的)が明確かつ理解しやすい、と言った方が正しいかもしれない。そういう観点で、レスリングは面白かった。体が故障していなければ、かなりレスリングをうまくできるような錯覚に陥った。実はテニス観戦をしながら、テニスに関してもそう感じている。やりたくて、体がうずうずしてくる(残念ながら、それはかなり困難な状況である)。
 

 実は最近、テニス観戦が大好きである。たくさんプレーを見ていると、その動きができるような感覚に陥る。しかし、それは間違いだとわかっている。その道の一流選手のような動きができるわけがない。実際のプレーをするには技術が必要である。その技術の獲得がまずもって大変なのだ。さらに、技能の獲得がそれに加わる(実は本日、技能獲得の理論を考えるための資料を読み込もうと考えていた)。それでも、増田式空手メソッドを応用すれば、テニスだって、レスリングだってそれなりにできるとも思っている(誰でも)。

 

 それはさておき、スポーツは競技ルールが理解できると面白くなる。ただ、レスリングのルール場合、少し難しい部分があった。それはタックルとタックルに対する反撃の投げが交錯する状態でのポイントの部分。また、チャレンジという制度が1回のみであること。また、チャレンジして失敗すると、相手に1点が加点されるという点、などがテニスなどに比べ、わかりにくい。また、3ピリオド制から2ピリオド総得点制という方式も、それで良いのだろうか。もちろん、男子女子とクラスや階級が多く、あまり試合時間が長すぎると競技大会がし難いということだろう。特に男子は女子よりも展開が早い。ゆえに素人には理解が難しいように思う。一方の女子は、力がない分、わかりやすいと言ったら語弊があるだろうか。とにかく、レスリングとレスラーには優れた技術と技能がある。その技術と技能を観客と共有、共感できるようにすることが、メジャースポーツへの道なのではないだろうか。

 仕事の途中なのに、かなり長居をしてしまったが、新しい武道スポーツの競技規定作りにレスリング観戦は役立った。また、私が研究している「技術と技能」についての論文に関するひらめきもあった。大仰にいえば、運動学に関する論文だが、太田先生には、運動学という学問自体が古いと言われた。また、「スポーツや武道は哲学だ」と言ったら、「違う」と言われた。もちろん、嫌な感じではない。素直な意見であり、感謝している。しかし、私はドン・キ・ホーテのごとく見果てぬ夢に突き動かされている。現実の仕事よりも、その論文を書くための資料の読み込みと思索が大事だと思う、私がいる。困ったものである。そのうち家族からも見放されるときがくるかもしれない。

 

 私は、いつもアンバランスな自分と格闘している。それでも、今日は収穫があったと思っている。新しい武道スポーツへのヒントも数点浮かんだ。駒沢体育館から帰宅後、いつでもセミナーツアーができるよう、準備のためのトレーニングをしにジムへ出かけた。ただし、下半身は痛むので休めた。トレーニング後、アイディアが湧いた部分を追加、修正した。次は、練習体系の完成である。

 

 

 

修正:2019-6-17

「基本3分間の本戦と2分間の延長戦と再延長戦だが、トーナメントによる競技大会以外も想定し、競技大会の形式によっては、3セッマッチも有りとしたこと。すなわち、3回競技(試合)を行い、2セット先取した側を勝者とする形式も可と明記したことなどである。競技時間が長くなるが、レベルの高い選手同士なら、そのような競技形式もありだと思っている。前もって、そのような形式も可としただけである。実験をしてみたい」以上の文を削除した。

 防具をつけた試合で競技時間が長くなりすぎると良くないと、考えるからだ。まずは実験をして、よければ、競技規定に加えれば良い。失敗した。金曜日に胃カメラを飲み、問題なかったが、少々胃炎と逆流性の炎症があった。金、土、日とPCに向かいすぎた。睡眠不足と胃が痛い。気をつけたい。

 

 

 

 

第1節 ヒッティング競技の目的と理念

 

 本規定は、手足を用いた突き、蹴りなどの攻撃技を相手の身体に当てる技術を競い合う、ヒッティング競技の内容を示すものである。ヒッティング競技試合とは、突きや蹴りなどを当てあうことによるダメージを防具により軽減し、その有効、無効をポイントで表し、そのポイント数で勝敗を決するポイント制競技である。なお、ポイントの判定基準は、技の正確性である。また、身体的ダメージによるノックアウトは判定基準に設定していない。そのことにより、突きや蹴りの当て合いなどの武技の駆使を老若男女が行えるよう、安全性を確保する。

 その意義は、老若男女が長期にわたり、競技を繰り返すことを可能とすること。そのことにより、その技術のみならず技能を高め、一撃必殺の武道哲学を心撃必活の武道哲学へと昇華することにある。ゆえに、その競技理念の核心は、勝者を決するためにあるのではなく、競技者が共に武の理法を学び合い、無益なダメージの与えあいを避ける道を知ることにある。その道とは、自他一体の理法を知ることであり、他者を生かし自己を生かす道を知ることである。

 なお、ヒッティング競技者は、我々が唱える武道人の一員として、「仁(Perfect Virtue)」「智(Sense)」「勇(Courage)」の醸成を目指す、武道人精神(BudoMan Ship)を念頭に置き、活動することとする。さらに、ヒッティング競技は、競技の普及を通じ、自他の平和共存、人間完成を図るための「悟り(Enlightenment)」をゴールとする武道人の育成を目的とする。

 

 

補足

「智」を「sense」とするか「Intelligence」か迷っている。ここでは、「sense」とした。

なぜなら、インテリジェンスは、今後AIとの共同作業となると思う。そうなると、心身に内在すると思われる知性、すなわち感性が、人間としてより重要になるのではないかと直感している。ゆえに智性を「sense」とした。増田の論文のテーマもそこにある。

 

日誌/6月22日 

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日誌/6月22日 

 ここ10日間ほど、TS方式空手武道競技規程を改訂することや昇級審査の審査項目の改訂など、仕事に夢中になっていた。また、新たな決断の発表の準備をしていた。そのことは次回のブログに掲載したい。

 悪い癖だが、集中しだすと徹底的にやらないと気が済まない。PCに向かいすぎたせいか右目が腫れて見えづらい。眼科で「ものもらい」だと診断された。人相が悪くなったと娘に言われた。一方の家内と息子には、全然変わらないと、相手にもしてもらえない。娘の方に愛情を感じた。

 

 さて、TS方式空手武道競技規程とは、私が考案した組手競技法のことであり、今後、IBMA極真会館の組手修練や昇段審査の手段となる。また、その組手競技法は、私が長年構想してきた新しい武道スポーツの発展系である。これまで、私はフリースタイルという空手武道競技を作った。しかし、私の体の怪我や資金不足などの理由で、しばらく塩漬けしていた。

 TS方式とは、通称「ヒッティング競技」とした。詳しくは、まだ実験段階なので、書くことを省略したいが、ヒッティングはIBMA極真会館の修練体系の柱である、基本、型、組手、武道哲学の内、組手修練の核となる。また、ヒッティングは増田式空手メソッドの柱でもある。

 増田式空手メソッドに関しても、詳しく書くには、もうしばらく時間を要する。大まかに言っておけば、極真スタイルの組手法に増田章の技術と技能のエッセンス、武道哲学を盛り込んだ、「ヒッティング・ベーシックスタイル」。次に顔面突きを取り入れた「ヒッティング」、究極形として投げや背後取りなどを取り入れた「ヒッティング・フリースタイル」の3種類がある。フリースタイルは、10年前に着手した、フリースタイルカラテの発展系である。

 

 ここで断っておきたいが、今一度原点に戻り、突き蹴りの打撃技の習得に重点を置くということである。ゆえに、「ベーシックスタイル」と「ヒッティング」を主体とした稽古を門下生に指導していきたい。もし余裕ができたらフリースタイルもやりたいと思っている。約1年かかったが、6月23日「ベーシックスタイル(TS方式)」の試験的な交流試合がある。まだ理想形には程遠いだろうが、なんとかここまでたどり着いた。

 

 交流試合の前、秋吉以下、黒帯達はTS方式の理解に頑張ってくれた。だが正直、理解は35パーセントと言ったところだろうか。いつもながら、胃に穴が開くような毎日だが、必死に耐えている。

 だが、私の心中には希望がある。なぜなら、ヒッティングという組手法を稽古の中心に据えれば、一人ひとりの心身に空手武道の技術を植え付け、技能を引き出すための本当の武術修練を行うことができると確信しているからだ。これまでも理想を目指して頑張ってきたが、うまくいかなかった。だが、失敗ではない。あえていうならば、失敗・挫折経験の発展的解消、すなわち成功への道なのだ。

 

 私の直感が正しければ、極真空手が、柔道のようによりわかりやすい武道となる。武道愛好者の中には柔道を馬鹿にする向きもあるが、あらゆる角度から考え、嘉納治五郎師範が創設された新しい武道「柔道」とは、優れた教育システムであると思う。これ以上は、いつか武道に関する論文をまとめ発表したい。そして、誤解を承知で書いておけば、空手の伝統型など、単なる古典詩の暗唱と解読にしか過ぎず、真の身体知を引き出す教育としては不十分だと考えている。もちろん、古典詩のような型の暗唱や解読から学ぶことも多いし、それは嫌いではない。しかし、それが空手の全てだとは、少なくとも私の空手の真髄は組手と組手型にある。

 

 増田章は門下生に空手をより好きになってもらいたい。長く好きでいてもらいたい。そんな想いで一杯なのだ。ただ、空手に対する認識の次元が違いすぎるので、それを翻訳して伝えなけれなばらないだろう。これまで、私の道場に翻訳機があれば、もっと門下生は満足するだろうと思っていた。しかしながら、翻訳機はなかった。ベタな私は、私の言葉の文法を覚えて欲しいと教えてきた。それが、うざいことだとわかりながらも。だが、繰り返し言っておきたい。私のできることは、みんなもできる。より上手くできるかもしれない。ただし、私の言葉と文法を理解したならばだ。

 

 残念ながら、現在、私の考えを完全に理解するものは、1割もいないかもしれない。もし私の決意が、道場を悪い方向に向かせるのであれば、私は門下生に道場を譲りたいと思っている。

 今、実現しようとしていることの萌芽は、私が極真空手の全日本選手権に初出場した時に遡る。私は18歳、全日本選手権の2回戦で時の全日本チャンピオンの三瓶先生と3回の延長戦を戦った時からである。

 

 極真空手を最高の空手にする、それが私の人生をかけた悲願である。40年近くの歳月が流れた。そして極真会館は分裂した。それでも、極真会館2代目館長の松井氏と和解することができた。私は極真会館が未来永劫に続くように願っている。そしてそのために微力ながら尽力したい。松井館長も年齢を重ね、人間が深くなったと思う。現在の私は、松井館長の組織の人間ではない。しかし同じ大山倍達先生の薫陶を受けた者同士である。私は大山先生の遺産を引き継いでいる松井館長をできるだけ盛り立てられるようになりたい。なぜなら、それが大山倍達先生に対する恩返しだと思うし、かつ極真会館を残す道だと思うからである。ただ、極真空手を最高の空手にするという命題に関しては、私はうるさいことをいう男として嫌われるかもしれない。

 

 

 

師範会の廃止と新しい段位認定について

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以下は、私の主宰するIBMA極真会館のサイトに掲載した報告の内容である。

今後、私はIBMA極真会館の主宰者として、より多くの空手武道を生涯の糧とする黒帯を輩出することに尽力したい。そのためにも、私の考えを理解できないものとは、特別な事由以外では関わらないこととしたい。私が気力を振り絞る期間は、後7年。私は、そう決めている。もし、元気で入られたら、最期は好きな人と人生を送りたい。その時、好きな人がいっぱいいたら幸せだろうな…。

 

 

 

 

【師範会の廃止と新しい段位認定について】

 

 IBMA極真会館主席師範増田章の空手段位には、大山倍達先生から授与された四段位、極真会館支部長協議会派から授与された五段位、IBMA極真会館師範会(以下、師範会)が承認した八段位があります。IBMA極真会館師範会とは、IBMA極真会館の五段位以上を承認する機関のことです。

 このたび、師範会を廃止することになりました。それに伴い、増田章は八段位を返納します。同時に新しいIBMA段位認定規程を設けます。増田章は、段位を授与する立場の人間として、自らの段位は必要ないと考えます。

 これまでのIBMA極真会館の段位認定は、極真会館の創設者である大山倍達先生が制定された、極真空手の基本技と伝統型、そして組手を基に行われてきました。認定者の増田章には、国内外で40年以上の指導実績があります。また、大山倍達先生の薫陶を受けながらの10年以上の選手経験、100人組手達成の修行実績があります。つまり、その修行の過程で極真会館の基本と組手法を徹底的に突き詰め、その眼で基本と組手の技量を認定してきたと言えます。同時に、大山倍達先生が伝統空手、柔道、ボクシング、大東流柔術、中国武術、ムエタイなどから技術を取り入れたように、増田章が多様な格闘技術を体験、研究し、作り上げた新技術を修練体系に加えています。

 年月を要しましたが、その技術と技能体得のための体系を明確化することが可能となりました。それが増田式空手メソッドです。ただし、体系が出来上がったと言っても、これからも門下生とともに、技術と技能、さらに武道哲学を磨き上げていかなければならないと思っています。今後の目標は、IBMA極真会館から、より多くの有段者を輩出し、さらに、人格、空手技量ともに十分な国際武道人を誕生させることです。

 繰り返しますが、増田章が考える技能の核心は、増田章が空手家としの過酷な修行と研究によって培われた武道哲学、武道思想と言っても良いものです。そのことを門下生たちに理解、継承してもらいたいと思っています。

 なお、これまでの段位認定に変更があるということではありません。あくまでも今後の段位認定規程を更新するということです。ただし、更新された段位認定規程も従来の規程と大きく異なるものではありません。初心にかえり、組手型を通じた空手技術の習得と組手の技能習得、そして武道哲学の理解がIBMA極真会館では重要になるということを理解してください。

 最後にIBMA極真会館の門下生は、極真会館の道統を継ぐものとしての誇りと責任を胸に堂々と空手道修行に励んでいただきたいと思います。増田章も段位を授与する者として、責任を持って求道研鑽を続けて参ります。

 

▶︎IBMA極真会館サイト

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