新しい武道スポーツをデザインする 2018年版〜”ヒッティング”の誕生に向けて その1
親愛なる道場生と極真空手の仲間たちへ〜増田章の論文のメモ書きから
【TSスタイル(TS形式)について】
5月に行われる交流試合の「ライトコンタクトスタイル」のクラスを「TSスタイル」のクラスに名称変更をします。キョクシンスタイルに関しては、これまでの試合規約に改定はありませんが、TSスタイル(旧ライトコンタクトスタイル)は試合規約の改定を行います。先ず以って、選手の皆さんにおかれましては心配しないで欲しいと思います。普段、道場の組手稽古を正しく行っているかどうかを試す試合形式がTSスタイルなのです。また、初心者も上級者も修練の基本としなければならない組手法が基盤となっているのがTSスタイルの試合形式です。
今回、大まかな試合規約の改定についてお話ししたいと思います。
IBMA極真会館が採用する試合形式は、「TSスタイル」「キョクシンスタイル」「フリースタイル」と3種類あり、全て得点形式です。つまり、試合における勝敗は得点の多い方が勝ちとなります。ただし、キョクシンスタイルは、点差によっては〈旗判定〉を行うことがあります。そして旗判定を行うにあたり、キョクシンスタイル独自の判定原理(基準)があります。一方、TSスタイルは、延長戦を含め、その試合の勝敗の判定に際し、一貫して一つの判定原理(基準)を用います。ゆえに点差がないときは、延長戦を行い、点差が着くまで試合は続けられます。詳細は試合規約をお読みください。TSスタイルの試合規約には、少し改定部分があります。参加選手希望選手は、IBMA極真会館のホームページの案内と試合規約(ルールブック)を読んで、申し込んでください。
TSスタイルとは何か?実は、30年近く続く、極真会館増田道場の創設以来の組手法といっても過言ではありません。
【TSスタイルとは何か?】
それでは、TSスタイルについて簡単に説明したいと思います。まず、相手の体力レベルが高くても低くても、強く当てない。つまり、相手を痛めつける攻撃はしない。そして相手の攻撃をしつかりと見切り、防御することを心がける。その上でより正確な反撃を行うこと。以上が、普段の組手修練において増田が心がけてきたことです。また、増田が実践し、かつ道場生に伝えてきたことです(例外が5件ぐらいあるかな)。
【「組手はコミュニケーションである」「組手の基本はキャッチボールである」】
さて、道場生のみなさんは、こんな言葉を聞いたことがないでしょうか?「組手はコミュニケーションである」「組手の基本はキャッチボールである」。増田が稽古中に言い続けてきたことです。しかしながら、そのことが〈TSスタイル〉という試合形式を決断するまで、道場生には上手く伝わらなかったと思っています。そのように言えば、道場生は落胆するかと思いますが、決して落胆しないでください。増田の伝え方と稽古方法が悪かったのです。
TSスタイルを基盤とした組手法とは、大まかに言えば、極真空手の組手法の原点に回帰し、一打一打の攻撃技を大事に考え、それに誠実に対応していくことです。それを実践するために必要な意識、心がけがあります。それは「相手に攻撃が効いたかどうか」「相手より手数を多く打てたかどうか」「相手の攻撃により後ろへ下がらなかったかどうか」などという価値観をいったん脇に置くということです。言い換えれば、先述したようなことができる者が、強い者、試合に勝つ者である、という試合原理を脇に置くということです。そのような要素が空手に必要ではないということではありません。しかしながら、その要素にとらわれてしまうと、組手における最も重要な、相手との間合いの取り方、間隙を縫うような感覚が、養成されません。補足を加えれば、偏った判定原理によって偏った感覚が養成されるのです。もう少し違う言い方をすれば、対人的なゲームにおいて普遍的に活用できる感覚が養成されません。少し、難しい話なので、このことは軽く触れる程度にしておきます。
【増田が組手において心がけ、意識してきたこと】
ここで、これまで増田が、組手において心がけ、意識してきたことを簡単に述べたいと思います。増田は「相手に攻撃技をいかに上手く当てるか」「相手の攻撃技をいかに上手く防御するか」この二つを同時に意識してきました。先述の「上手く」ということがポイントです。ここでいう「上手く」の意味するところは、「いかに技のスピードを落として、相手に攻撃を当てるか」「いかにゆっくりと相手の攻撃を受けるか」です。お気づきだと思いですが、どちらも「ゆっくりと」ということです。そのような意識で道場生と組手を行うことで、体力差のある道場生との組手が一貫して技術を磨く手段となったのです。そのような組手法では、どんな相手と組手を行うときも、全てが一貫して、間合いや間隙を縫う技術に繋がったのです。体力がありスピードがある選手と組手をすることも必要だとは思いますが、増田はすべての者に対し、なるべくゆっくりとやろうと考えていました。もちろん、早く組手を行うことも可能でしたし、それを行うこともあったかもしれませんが、ほとんどそのような組手は行いませんでした。スピード練習はもっぱら「独り稽古」で行いました。
なぜなら、私が意識していた「スピード」「速さ」とは、攻撃と防御をいかに途切れた事柄ではなく、一つの連関のなかにある事柄として行うかということでした。かなり大雑把に言えば、防御は、それで終わりではなく、そこから次の展開が始まるということです。また、攻撃もそれで終わりではなく、下手をすれば永久的に繋がるのです。ゆえに防御を考えなければならない。そしてその防御が、相手の攻撃心を挫くものであることが理想です。大雑把といいましたが、余計難しくなったかもしれません…。
【「眼」を養成するため】
組手稽古の際、増田が意識していたのは、相手に攻撃した瞬間に相手の攻撃があるということです。また防御した瞬間に攻撃を行うことが、より効果的な攻撃だということです。
先述したような組手では、相手の技の起こりをいかに早く察知するか、そして攻撃の精度をいかに高めるかが重要です。その意味は、組手においては、相手を攻撃するにしろ、相手からの攻撃を防御するにしろ、相手と自己の状況を認知する能力、言い換えれば「眼」が必要なのです。TSスタイルの試合形式は、その「眼」を養成するために最適だと思っています。
【“クリーンヒットポイント”という媒介物】
下手な例え話をしたいと思います。まず、テニスや卓球を思い浮かべてください。増田 章がいつも言う、相手とのキャッチボールというのは、テニスでは、「ラリー」というようです。また、相手が打ってきたボールや球を自分のエリア、コート(身体)に入れられたら得点です。ゆえに、相手が自分のエリア(身体)打ち込んできたボール、球をしっかりとラケットで受け止め、打ち返すことが必要です。さらに、打ち返したボール、球は相手のエリア(身体)に入っていなければなりません。そうでなければ、相手の得点となります。また、打ち返し方は、相手が受け止め、そして打ち返しにくい場所を狙うのがテニスや卓球の試合では、定跡(基本戦術)なのです。つまり、私が道場生に伝えてきた「組手はコミュニケーションだ」というのは、先述した例えのように、相手の攻撃をしっかりと受け止め、かつ自分が意図した場所へ正確に返す。それを相手も行えば、その状況は、テニスや卓球がボール(球)を媒介とした、自他とのコミュニケーションそのものだということでした。しかしながら、極真空手では「相手の攻撃を防御する、かつ正確に攻撃する」という意識がないようにも見えます。非常に乱暴な言い方をお許しいただきたいのですが、そんな試合の仕方ならば、サンドバックやビックミットに測定器をつけ、手数と破壊力を比べたら、相手を傷つけなくても良いではないかと思います。換言すれば、極真カラテにはパートナーとして技術を磨き高め合という意識が希薄なのです。極真空手の後輩達を傷つけたくはないのですが…(もうすぐいなくなりますからお許しください)。少なくとも、このままでは、私が目指す、相手と心身の存在を楽しみながら、自他一体の境地を目指す道という増田空手の理念と永久に合致しません。それが道場生に伝わらなかったのは、極真空手には、テニスや卓球に存在するボール、球という媒介物がなかったからだと、今考えています。
【相手と自己を繋げる媒介物の創出】
ゆえに私は、テニスや卓球などのボールゲーム?にはあるが、極真空手にはなかった、相手と自己を繋げる媒介物の創出が頭の中に”ヒット”しました。それが「“クリーンヒットポイント”という媒介物です。クリーンヒットポイントとは「限りなく限定された場所に正確な一撃を当てるという理念」です。理念というと、ボールのような実在物ではありません。ゆえにボールや球を使ったスポーツと同様にはならないかもしれません。しかし、たとえ実在しなくても、理念を共有すると覚悟すれば、それは実在物のように機能します。私はそのような仮説を持っています。補足をすれば、元々の極真空手はTSスタイルと同形だったと考えています。例えば、私の大先輩である、山崎照朝師範と盧山初雄師範の全日本大会決勝の試合を見れば、しっかりと間合いを取り、一打一打をゆるがせにせず、試合を行っていました。
それが崩れてきたのは、試合ルールの中においては、相手に技を効かせて倒すことが難しいという点を利用するかのような戦術が生まれてきたことが、私がいうところの無形の媒介物であった理念崩壊の端緒だろうと思います。要するに一撃で倒れない現実を見て、その現実を利用した戦術が創出されたのです。具体的には、相手に攻撃技を数多く当てる。次に数を打って、相手に反撃の間を与えないようにし、かつダメージを与える。さらには、そのことを通じて審判の主観に、「負けてない」という印象を与える。大体のそのような戦術です。そして、そのような戦術を駆使するための稽古法は、ランニング、ジャンピングスクワット、打たせ稽古など、持久力の強化、また相手の攻撃を受けてもダメージを受けない、打たれ強さの養成が主になります。技術練習が皆無ではないでしょうが、先述したような戦術を採用すれば、当然、技術よりも体力面の強化が主になって行くと思います。そのような稽古法や戦術を私は全否定はしません。しかしながら、空手本来の一撃必殺という真剣勝負の意識、またそのような意識を前提とした技術のやりとりから乖離していき、体力と情念のみを頼りとする試合に堕していった、と見ます。かくいう私もそのような極真空手の意識並びに試合法の流れに飲み込まれて行きました。しかし、100人組手の前後から、一打の効力を限界まであげるための、見切り、増田流の後の先である”応じ”の技術を駆使し試合を行うようになりました。しかしながら、その試合レベルを審判や他の空手家は理解できなかったと思います。
まとめを急ぎますと、極真空手の試合の歴史では、極真空手の絶頂期の前あたりから、旗判定に勝利するために、打たれ強さを基盤に、相手より手数を出し続ける、そのような戦術が生まれました。そして、それが極真空手の試合の典型的戦術になって行ったのです。しかし、その姿は、自他がともに高まり合う姿ではなく、他者より自己が優れているという意識、そして他者との勝利に拘泥する姿です。そのような人間の情念が現在の空手界を形作っているように、私には見えます。さらに言えば、そのような勝利至上主義的な指導者たちが掲げる、打たれ強さ、手数、さらに言えば、そこから派生する、「あきらめない」という信念は、全否定はしませんが、私はもっとも不幸をもたらす信念だと考えています。
その2に続く(明日アップします)
2018-3-31:一部加筆修正
2018-4-1: 一部加筆修正