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新しい武道スポーツをデザインする 2018年版〜”ヒッティング”の誕生に向けて その1

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新しい武道スポーツをデザインする 2018年版〜”ヒッティング”の誕生に向けて その1

 

親愛なる道場生と極真空手の仲間たちへ〜増田章の論文のメモ書きから

 

【TSスタイル(TS形式)について】

 

 5月に行われる交流試合の「ライトコンタクトスタイル」のクラスを「TSスタイル」のクラスに名称変更をします。キョクシンスタイルに関しては、これまでの試合規約に改定はありませんが、TSスタイル(旧ライトコンタクトスタイル)は試合規約の改定を行います。先ず以って、選手の皆さんにおかれましては心配しないで欲しいと思います。普段、道場の組手稽古を正しく行っているかどうかを試す試合形式がTSスタイルなのです。また、初心者も上級者も修練の基本としなければならない組手法が基盤となっているのがTSスタイルの試合形式です。

 

今回、大まかな試合規約の改定についてお話ししたいと思います。

 

 IBMA極真会館が採用する試合形式は、「TSスタイル」「キョクシンスタイル」「フリースタイル」と3種類あり、全て得点形式です。つまり、試合における勝敗は得点の多い方が勝ちとなります。ただし、キョクシンスタイルは、点差によっては〈旗判定〉を行うことがあります。そして旗判定を行うにあたり、キョクシンスタイル独自の判定原理(基準)があります。一方、TSスタイルは、延長戦を含め、その試合の勝敗の判定に際し、一貫して一つの判定原理(基準)を用います。ゆえに点差がないときは、延長戦を行い、点差が着くまで試合は続けられます。詳細は試合規約をお読みください。TSスタイルの試合規約には、少し改定部分があります。参加選手希望選手は、IBMA極真会館のホームページの案内と試合規約(ルールブック)を読んで、申し込んでください。

 

TSスタイルとは何か?実は、30年近く続く、極真会館増田道場の創設以来の組手法といっても過言ではありません。

 

 

 

【TSスタイルとは何か?】

 それでは、TSスタイルについて簡単に説明したいと思います。まず、相手の体力レベルが高くても低くても、強く当てない。つまり、相手を痛めつける攻撃はしない。そして相手の攻撃をしつかりと見切り、防御することを心がける。その上でより正確な反撃を行うこと。以上が、普段の組手修練において増田が心がけてきたことです。また、増田が実践し、かつ道場生に伝えてきたことです(例外が5件ぐらいあるかな)。

 

【「組手はコミュニケーションである」「組手の基本はキャッチボールである」】

 さて、道場生のみなさんは、こんな言葉を聞いたことがないでしょうか?「組手はコミュニケーションである」「組手の基本はキャッチボールである」。増田が稽古中に言い続けてきたことです。しかしながら、そのことが〈TSスタイル〉という試合形式を決断するまで、道場生には上手く伝わらなかったと思っています。そのように言えば、道場生は落胆するかと思いますが、決して落胆しないでください。増田の伝え方と稽古方法が悪かったのです。

 

 TSスタイルを基盤とした組手法とは、大まかに言えば、極真空手の組手法の原点に回帰し、一打一打の攻撃技を大事に考え、それに誠実に対応していくことです。それを実践するために必要な意識、心がけがあります。それは「相手に攻撃が効いたかどうか」「相手より手数を多く打てたかどうか」「相手の攻撃により後ろへ下がらなかったかどうか」などという価値観をいったん脇に置くということです。言い換えれば、先述したようなことができる者が、強い者、試合に勝つ者である、という試合原理を脇に置くということです。そのような要素が空手に必要ではないということではありません。しかしながら、その要素にとらわれてしまうと、組手における最も重要な、相手との間合いの取り方、間隙を縫うような感覚が、養成されません。補足を加えれば、偏った判定原理によって偏った感覚が養成されるのです。もう少し違う言い方をすれば、対人的なゲームにおいて普遍的に活用できる感覚が養成されません。少し、難しい話なので、このことは軽く触れる程度にしておきます。

 

【増田が組手において心がけ、意識してきたこと】

 

 ここで、これまで増田が、組手において心がけ、意識してきたことを簡単に述べたいと思います。増田は「相手に攻撃技をいかに上手く当てるか」「相手の攻撃技をいかに上手く防御するか」この二つを同時に意識してきました。先述の「上手く」ということがポイントです。ここでいう「上手く」の意味するところは、「いかに技のスピードを落として、相手に攻撃を当てるか」「いかにゆっくりと相手の攻撃を受けるか」です。お気づきだと思いですが、どちらも「ゆっくりと」ということです。そのような意識で道場生と組手を行うことで、体力差のある道場生との組手が一貫して技術を磨く手段となったのです。そのような組手法では、どんな相手と組手を行うときも、全てが一貫して、間合いや間隙を縫う技術に繋がったのです。体力がありスピードがある選手と組手をすることも必要だとは思いますが、増田はすべての者に対し、なるべくゆっくりとやろうと考えていました。もちろん、早く組手を行うことも可能でしたし、それを行うこともあったかもしれませんが、ほとんどそのような組手は行いませんでした。スピード練習はもっぱら「独り稽古」で行いました。

 

 なぜなら、私が意識していた「スピード」「速さ」とは、攻撃と防御をいかに途切れた事柄ではなく、一つの連関のなかにある事柄として行うかということでした。かなり大雑把に言えば、防御は、それで終わりではなく、そこから次の展開が始まるということです。また、攻撃もそれで終わりではなく、下手をすれば永久的に繋がるのです。ゆえに防御を考えなければならない。そしてその防御が、相手の攻撃心を挫くものであることが理想です。大雑把といいましたが、余計難しくなったかもしれません…。

 

【「眼」を養成するため】

 組手稽古の際、増田が意識していたのは、相手に攻撃した瞬間に相手の攻撃があるということです。また防御した瞬間に攻撃を行うことが、より効果的な攻撃だということです。

 

 先述したような組手では、相手の技の起こりをいかに早く察知するか、そして攻撃の精度をいかに高めるかが重要です。その意味は、組手においては、相手を攻撃するにしろ、相手からの攻撃を防御するにしろ、相手と自己の状況を認知する能力、言い換えれば「眼」が必要なのです。TSスタイルの試合形式は、その「眼」を養成するために最適だと思っています。

【“クリーンヒットポイント”という媒介物】

 下手な例え話をしたいと思います。まず、テニスや卓球を思い浮かべてください。増田 章がいつも言う、相手とのキャッチボールというのは、テニスでは、「ラリー」というようです。また、相手が打ってきたボールや球を自分のエリア、コート(身体)に入れられたら得点です。ゆえに、相手が自分のエリア(身体)打ち込んできたボール、球をしっかりとラケットで受け止め、打ち返すことが必要です。さらに、打ち返したボール、球は相手のエリア(身体)に入っていなければなりません。そうでなければ、相手の得点となります。また、打ち返し方は、相手が受け止め、そして打ち返しにくい場所を狙うのがテニスや卓球の試合では、定跡(基本戦術)なのです。つまり、私が道場生に伝えてきた「組手はコミュニケーションだ」というのは、先述した例えのように、相手の攻撃をしっかりと受け止め、かつ自分が意図した場所へ正確に返す。それを相手も行えば、その状況は、テニスや卓球がボール(球)を媒介とした、自他とのコミュニケーションそのものだということでした。しかしながら、極真空手では「相手の攻撃を防御する、かつ正確に攻撃する」という意識がないようにも見えます。非常に乱暴な言い方をお許しいただきたいのですが、そんな試合の仕方ならば、サンドバックやビックミットに測定器をつけ、手数と破壊力を比べたら、相手を傷つけなくても良いではないかと思います。換言すれば、極真カラテにはパートナーとして技術を磨き高め合という意識が希薄なのです。極真空手の後輩達を傷つけたくはないのですが…(もうすぐいなくなりますからお許しください)。少なくとも、このままでは、私が目指す、相手と心身の存在を楽しみながら、自他一体の境地を目指す道という増田空手の理念と永久に合致しません。それが道場生に伝わらなかったのは、極真空手には、テニスや卓球に存在するボール、球という媒介物がなかったからだと、今考えています。

 

【相手と自己を繋げる媒介物の創出】

 ゆえに私は、テニスや卓球などのボールゲーム?にはあるが、極真空手にはなかった、相手と自己を繋げる媒介物の創出が頭の中に”ヒット”しました。それが「“クリーンヒットポイント”という媒介物です。クリーンヒットポイントとは「限りなく限定された場所に正確な一撃を当てるという理念」です。理念というと、ボールのような実在物ではありません。ゆえにボールや球を使ったスポーツと同様にはならないかもしれません。しかし、たとえ実在しなくても、理念を共有すると覚悟すれば、それは実在物のように機能します。私はそのような仮説を持っています。補足をすれば、元々の極真空手はTSスタイルと同形だったと考えています。例えば、私の大先輩である、山崎照朝師範と盧山初雄師範の全日本大会決勝の試合を見れば、しっかりと間合いを取り、一打一打をゆるがせにせず、試合を行っていました。

 

 それが崩れてきたのは、試合ルールの中においては、相手に技を効かせて倒すことが難しいという点を利用するかのような戦術が生まれてきたことが、私がいうところの無形の媒介物であった理念崩壊の端緒だろうと思います。要するに一撃で倒れない現実を見て、その現実を利用した戦術が創出されたのです。具体的には、相手に攻撃技を数多く当てる。次に数を打って、相手に反撃の間を与えないようにし、かつダメージを与える。さらには、そのことを通じて審判の主観に、「負けてない」という印象を与える。大体のそのような戦術です。そして、そのような戦術を駆使するための稽古法は、ランニング、ジャンピングスクワット、打たせ稽古など、持久力の強化、また相手の攻撃を受けてもダメージを受けない、打たれ強さの養成が主になります。技術練習が皆無ではないでしょうが、先述したような戦術を採用すれば、当然、技術よりも体力面の強化が主になって行くと思います。そのような稽古法や戦術を私は全否定はしません。しかしながら、空手本来の一撃必殺という真剣勝負の意識、またそのような意識を前提とした技術のやりとりから乖離していき、体力と情念のみを頼りとする試合に堕していった、と見ます。かくいう私もそのような極真空手の意識並びに試合法の流れに飲み込まれて行きました。しかし、100人組手の前後から、一打の効力を限界まであげるための、見切り、増田流の後の先である”応じ”の技術を駆使し試合を行うようになりました。しかしながら、その試合レベルを審判や他の空手家は理解できなかったと思います。

 

まとめを急ぎますと、極真空手の試合の歴史では、極真空手の絶頂期の前あたりから、旗判定に勝利するために、打たれ強さを基盤に、相手より手数を出し続ける、そのような戦術が生まれました。そして、それが極真空手の試合の典型的戦術になって行ったのです。しかし、その姿は、自他がともに高まり合う姿ではなく、他者より自己が優れているという意識、そして他者との勝利に拘泥する姿です。そのような人間の情念が現在の空手界を形作っているように、私には見えます。さらに言えば、そのような勝利至上主義的な指導者たちが掲げる、打たれ強さ、手数、さらに言えば、そこから派生する、「あきらめない」という信念は、全否定はしませんが、私はもっとも不幸をもたらす信念だと考えています。

 

 その2に続く(明日アップします)

 

2018-3-31:一部加筆修正

2018-4-1: 一部加筆修正

 

 

 

 

 


新しい武道スポーツをデザインする2018〜 "ヒッティング”の誕生に向けて その2

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【「あきらめない」という信念とは〜個の尊厳】

 私は極真空手の試合における「あきらめない」という信念とは、人類の闘争の歴史に見られる”人命”や”個の尊厳”を軽んじる価値観に繋がっているように思えて嫌いです。また、情念に頼る、無理な戦術を正当化する常套句のように思います。

  私は、TSスタイルという試合形式、通称“ヒッティング(Hitting)”に込めた思いは、”個の尊厳”を最も重いものとして考える思想に立脚しています。それはTSスタイルに先駆け構想した、フリースタイルカラテに込めた祈りをTSスタイルにも引き継がせたと言っても良いでしょう。

 

 ならば、真(ほんとうの)の「あきらめない」という信念とは何か?それは「内発的な人間の良知と共振し合う希望」ではないかと、私は考えています。換言すれば「人間は希望がある限りあきらめない」ということです。そして、すべてのジャンルで必要なリーダーの最も重要な役割は「人が希望を失わないようなシステム(社会システム)」を作り上げることなのです。この辺でこの話はやめたいと思います。いずれ構想をまとめます。一冊の書籍ぐらいのボリュームになると思いますから。ただTSスタイルの試合に参加する道場生に、この新しい信念の萌芽を期待し、木曜日から悪化した腰痛に苦しみながら、この拙稿を書いています。

 

【人を幸せにする空手】

 ここで、これまでのフルコンタクト空手の変遷を俯瞰してみますと、フルコンタクトカラテの試合では相手を倒す、相手にダメージを与える、という共通目標があるようです。私はそのような目標を奥の間(奥伝)に封じ込めます。かって私も、すべての格闘技を「相手の戦闘力を奪うこと」とし、その命題の解明のためのの「フリースタイルカラテ」を考案しました。しかし、そのような命題の解明を封印します。そして、もう少し道場生のレベルが上がり、道場生が増えたら再開します。言い換えれば、壮大な理想を一旦傍に置き、再度、空手道の原点に回帰し、基本から空手流派を作り直すことに必要な要素が、TSスタイルという試合形式なのです。

 

 私はTS形式を採用し、それを優先させた方が増田空手の礎になると考えます。またIBMA極真会館の理念の具現化には良いと思います。なぜなら、増田空手を自分と人を幸せにする空手としたいからです。また誤解を恐れずにいえば、空手を人生を楽しむための遊具としたいのです。

 

 先述した増田空手の理念とは「武術の修練による心身錬磨を通じ天地自然の理法を学び自他一体の道を修める」です。武術の修練とありますから、伝統的な極真空手の修練にある、組み技や逆技や武器術の修練も行います。ただ、そのような修練を行う前に、組手技と組手の修練により、相手と共に技術を磨きあうこと。そして、相手と共に空手道を高め合っているということを認識することが重要だと思います。そのためにTSスタイルを基本にすることからやり直したいと考えています。さらに言えば、組手試合を通じて、真に認め合い、友達になるには、TSスタイルの方が良いと、私は考えています。

 

 今回は、TSスタイルの仮の説明です。TSスタイルの試合規約はすでに完成しています。道場生の皆さんには、いち早くお知らせします。今、その正式な論文を書いています。それは、フリースタイル空手の構想論文であった、「新しい武道スポーツをデザインする」の全面改訂版「新しい武道スポーツをデザインする〜“ヒッティング”の誕生」としています。おそらく正式な論文は、スポーツ論やこれからの社会スポーツ論、健康スポーツへの提言も含めて、100ページを超えるでしょう。資料等も見直す必要があるかもしれません。ゆえに時間が必要です。また現在、腰痛が悪化しています。この文を、音声入力を用いたり、10分間ずつ休みながら書いています。また、論文より前にやることがあります。それは防具の決定です。TSスタイルは下段、中段、上段に防具をつけます。下段、中段はインナープロテクターです。そのことにより試合における傷害を防ぎます。その防具のアイディアは既にあります。協力してくれるスポンサーがいればありがたいのですが、今は全て、一人でやらなければなりません(審判委員長の荻野氏がいつも協力してくれています)。気をつけたいことは、フリースタイル空手プロジェクトの時のように無理をすることです。無理をすれば、もう私の心身は持ちません。ゆえに「小さく産んで、大きく育てる」の気持ちで行きたいと思います。

 

 最後になりますが、私の新しい構想が実現すれば、相手の体を打ち合うような組手が、テニスや卓球と同じようなコミュニケーションの手段として生まれ変わるかもしれないと思っています。この構想の先駆けとなる、「フリースタイルカラテ構想」はこのTSスタイルによって、カラテ武道の基礎的技術、能力を養成してから、発展形として行えば、より空手武道の理想に近づくのではないかと考えています。誤解を恐れずに言えば、空手武道の基礎もできていない相手に、フリースタイルを伝えようとしたことに、大変な無理がありました。ゆえに私はさらに原点回帰を考えたのです。

 

 私は自己に対峙するものを否定するような次元に止まりたくはありません。これまで空手界では、仲間同士が否定しあい、喧嘩ばかりが続いてきました。もちろん私も、他者を否定するような発言をすることがあります。しかし、それに対し誠実に対峙し議論をしようというものは皆無でした。ゆえに、私の考えは全くと言っていいほど理解されないものだと考えてきました。

 私の「新しい武道スポーツをデザインする」という提案は、10年ほど前から構想しました。現在は、実践を経て、その内容を見直し、その改定版を準備しています。つまり、私の理論の未熟だった点を改善し、再編集しているのです。それでは、今までの構想は無駄だったかというと、そうではありません。TSスタイルもキョクシンやフリースタイルによる「相手の戦闘力を奪うこと」という命題の解明の中から誕生したのです。また、キョクシン、フリースタイル、TSスタイルは共通の基盤の上に成り立っています。これまでもそうでしたが、現在も極真空手家の宿命とも思える壁を乗り越えることに、私は挑戦しています。いつまで続けられるかはわかりませんが…。

 

 繰り返しになりますが、新しい空手道は、決して相手を傷つける手段、修練ではありません。新しい空手道とは相手と共に自分を生かす道である、という理念に合意することです。補足すれば、空手を相手と共に楽しみ、そしてより多くの仲間を作る手段としていくことがTSスタイルの根底にある思想です。是非とも、交流試合に参加する道場生の皆さんにおかれましては、TSスタイルを難しく考えないでください。これは増田道場の組手法、そのものなのです。また、今回は特に、勝ち負けに拘らず、試合を楽しむ気持ちで参加してほしいと願っています。

 

(終わり)

2018-4-1:一部修正
 

 

 

 

 

 

 

無形の媒介物〜人間を幸せにする空手 その1

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無形の媒介物〜人間を幸せにする空手 その1

 

【序文】

 拙論のテーマは、新しい武道スポーツ、そして試合形式のTSスタイルのプレゼンです。その誕生の肝になったのは、人間を律しつつ、一つの目標へ向かわせる無形の媒介物の創出と言うことでした。

 

 私が言う無形の媒介物とは「理念」に基づいた「判断基準」と言っても良いものです。私は、京セラの名誉会長である稲盛和夫先生の門人です。稲盛先生は、まず我々門人に理念の重要性を説きます。今回、その理念についての理解が足りなかったことを、新しい試合形式を考案する中で気づきました。それは、稲盛和夫先生の説く理念とは、その「理念」に基づく「判断基準」とセットになって初めて機能するということでした。

 

 会社の経営理念は、大体、「世のため人のため」という社会貢献、他者貢献という思想に収斂されていくと見ています。なぜなら、企業が存立するのは、社会と人に有益であればこそですから、至極、当然のことです。

 

 問題は、その上で「理念」に基づいた、より普遍的かつシンプルな「判断基準」の設定ができるかどうかです。また、そのようなことが社員に対し、どのような効果を発揮するかを、経営者が認識できているかどうかです。つまり「理念」とそれに基づく「判断基準」とは、無形物でありながら絶えず人の心に働きかけ、人の心を律します。その限定が、深く心に作用すれば、叡智とも思えるアイディアが湧き上がることもあるのです。その様なことが個々が経営者たる、変化に強い企業体には必要なのです。

 

 また、企業経営ならずとも、剣道においても「剣の理法」に基づく「判断基準」としての「有効打突」が規定されています。要するに、剣道は「有効打突」という無形の媒介物の創出によって、試合におけるゲーム性を制御し、武道性を維持しているのです。

 

 もちろん、剣道に試合に批判的な人達がいることを聞いています。また私自身は、剣道の試合を行ったことがありません。しかし、私には、その”志”が明確にイメージできるようになりました。そして、剣道においては、試合における無形の媒介物が理念の延長となって、作用しているのです。

 

 企業の話に戻すと、言うまでもないことですが、稲盛和夫先生の説く理念は、単なる企業イメージの向上のためのスローガンとして存在するものではありません。なぜなら、京セラには。その理念に基づく、実にシンプルながら本質をついた「判断基準」が存在するからです。

 

 さらに、私が感じたのは、稲盛先生には、想像を絶する企業経営の中、叡智を湧出させるために、たえず「理念」とその「判断基準」に照らして思考するという、日々の営為があったものと拝察します。さらに言えば、稲盛先生が「理念」に基づく「判断基準」を全従業員(社員)に共有させたことの効用は、「理念」に基づく「判断基準」いう無形の媒介物が、社員の間をつなぐボールゲームのボールのように機能し、そのことによって組織体の一人ひとりの能力が向上するからです。

 

 結果、組織全体の機能が活性化し、より高次の仕事が可能になっていったのだと思います。理想を言えば、空手界が京セラと同じようになれば、社会に対し、とても大きな力を発揮すると思います。

 

 今回、私が新しい試合形式を考案するにあたり、その「理念」と「判断基準」いうものの重要性を空手家のレベルで再認したことを記しておくために拙文を書いています。以下の拙論で伝えたいことは、IBMA極真会館試合規約にある「クリーンヒットポイント」と京セラにおける「理念に基づく判断基準」、剣道における「理念に基づいた有効打突」と同義であるということです。実は、そのことをTSスタイルの試合規約がほぼ完成してから気づきました。

 

 ここで一旦、フリースタイルやTSスタイルの試合形式の考えるにあたり、数十時間もの思考実験に付き合っていただいた大森氏、荻野氏に感謝したいと思います。いつもありがとうございます。また、今回の原稿に関しては、道場生の福岡氏の見解が参考になりました。彼は柔道4段、柔術4段、空手2段、その他、古流剣術や槍術、手裏剣術まで、武芸十八般を目指す、現代の武人です。また生物学者のレールから外れ、さらに大企業の研究所のレールからも外れた、変わり者です(失礼)。私は、そのような我が道を行くが如しの感がある、福岡氏が弟のように好きです。なぜなら、かくいう私も同様の人間だからです。腰痛が少し改善する中、いつものように取り憑かれたようにPCに向かいました。以下、拙論を掲載します。

 

【第5回全日本選手権の決勝戦】

 僭越ながら、極真空手の第5回全日本選手権の決勝戦における、山崎照朝師範と盧山初雄師範の試合を見ると、しっかりと間合いを取り、一打一打をゆるがせにせず、試合を行っていました。あえて言えば、私は両者の試合を勝敗とは別の次元、観点から見ています。そこには、私の試合理論でいうところの「無形の媒介物」の共有が見て取れます。同様の観点から、空手に先駆け、武術に試合形式を用いた、剣術(剣道)にも、真剣という武器を扱うことを前提とした試合ゆえの「無形の媒介物」、すなわち理念の共有が見て取れるのです。

 

 武道というには、組織的にも体系的にも貧弱だった沖縄の武術が先人の大変な努力と時代の要請により、本土において組織的にも拡大していきました。戦前の武徳会の影響もあり、一般の人たちや、学徒の教育に空手の修練が生かされるようになっていったのではないかと、想像します。その後の本土における空手道の発展は言うまでもないことでしょう。私が着目するのは、本土における空手発展の黎明期、組手は剣道と同じように、「無形の媒介物」の意識が存在し、相手との間合い、そして一打をゆるがせにしない組手を行っていたと思われます。

 

 ただし試合形式に寸止め形式を採用し、選手が増え段々とスポーツ化していく中、理念に基づいた判断基準が曖昧になっていったように想像します。また、打突が打突が剣道と異なり、寸止めであることから技の判定に誤審の可能性が高まるということもあるかもしれません。審判の眼が優秀ならばと問題ないと思うでしょうが、現実はそう簡単ではないようです。ゆえに極真空手のような直接打撃制が誕生し、急成長したのでしょう。そのあたりは、いずれしっかりと資料を調べ、検証したいと思います。

 

 そのような空手道の発展の過程の中で、直接打撃制を掲げた極真空手は邪道、異端児と嘲笑されました。それでも、元々は同じ空手です。黎明期においては、伝統的な空手道の趣、形態を残していました。その形態がガラリと変わった分岐点があるように思います。

 

 言うまでもなく、すべての物事は変化します。その変化の原因を述べるのは、本論の主旨ではないので省きますが、大体、真理であろうと思います。だからこそ、変化の波に流されずに、上手に波に乗り、それを活かしつつ、自己の存在意義を維持しなければならないと思います。万物が流転する現実の中で、我々人間が意識しなければならないこと。それは、人間が他者に肯定されるよう、人間の存在意義を高めて行くことです。かなり抽象的ですが、我々人間を生かしめているのは、人間のみではなりません。無数の存在、無数の働きが宇宙にあり、それによって生かされているのです。

 

 私は一介の空手家ですが、人間がこれからも力を合わせ、叡智を湧出させて、人類を存続して行きたいのならば、何が一番大切かを問い続けなければならないと思います。「何が一番大切か」、私がいつも自分に問いかける命題です。そして、「あれとあれと…」「そんなの決められない」「みんな大切だと」なり、心をさらに問い詰めます。「そんなことを考えるのは、お前のような暇人しかいないよ」と周りから思われているに違いありません。しかしながら、私がどうしても納得できない人生を自分の責任だと思いながらも、何かもう一つ、納得する物を掴みたいのです。そのような物も形のないもの、無形物かもしれません。もしかすると、無形物と思われているが、思考の中から現れてくる何かに、真の事柄があるようにも思います。

【試合形態が大きく変化した分岐点】

 さて、極真空手の試合形態が大きく変化した分岐点があります。それはある有力な選手の登場と勝利から始まりました。そのように書くと、その選手が極真空手を変化させたと、私が考えていると思われるでしょう。私の立場はそうではありません。なぜなら、まず、その選手の登場と勝利が、本当にその選手のオリジナルかどうかを検証しなければならないということ。また、変化というのは、社会的な変化も含め、その各時代の社会システムや社会のあり様から起きる事柄だと考えるからです。

 

 その社会システムの中核は価値観だろうと、私は思っています。それは我々のような大衆の価値観、そして権力システム、さらにメディアの喧伝が大きく影響します。ゆえに、極真空手の試合形態の変遷も、大きくいえば時代背景とその要請、大衆の価値観、メデイアの喧伝によって形作られてきたのです。

 

 以下に簡単に極真空手の試合形態の変化について述べて見たいと思います。私の分析を否定、批判する向きもあるに違いありません。しかし、すべての変化は我々人間の価値観とその変化によってなされるのです。そして、その価値観の本質が「眼」なのです。ゆえに武芸者、空手家の私は、その眼を鍛えることに、多くの現実を犠牲にしてきました。それは孤独に耐えることでした。そしてその果てに、皆の「心眼」がいつか開くことを、愚かにも念願しているのです。

 【極真空手の試合形態の変遷】

 さて、極真空手の試合形態の変遷について私の見解を述べたいと思います。極真空手の試合形式においては、相手に技を効かせて倒すことが難しいという点が現実的に、理解されてきました。そして、その現実を利用するかのような戦術が生まれてきたことが、極真空手の組手試合の変質の端緒です。そして、私がいうところの無形の媒介物であった一撃必殺の理念を基盤とした判断基準の崩壊が始まったのです。

 

 さらに平たく言えば、一撃で倒れない、かつ倒せない現実を見て、その現実により有利な戦術が創出されたのです。具体的には、「相手に攻撃技を数多く当て、ダメージを与える」。次に「手数を多くし相手に反撃の間を与えないようにする」さらに「手数やフットワークで審判の主観に、「負けてない」という印象を与える」。大体のそのような戦術です。そして、そのような戦術を駆使するための稽古法は、ランニング、ジャンピングスクワット、打たせ稽古など、持久力の強化、また相手の攻撃を受けてもダメージを受けない、打たれ強さの養成が主になります。技術練習が皆無ではないでしょうが、先述したような戦術を採用すれば、当然、技術よりも体力面の強化が主になって行くと思います。私はそのような稽古法や戦術を全否定はしません。格闘技において体力は必要条件です。

 

 しかしながら、空手伝統の一撃必殺という真剣勝負の意識、またそのような意識を排除することにより、だんだんと技術のやりとりから乖離していき、体力と情念のみを頼りとする試合に堕していく可能性が広がって行くということです。極真空手で採用された「体重判定」という価値観も、先述したような何が何でも「旗判定で勝つ」、そして審判の技量や試合方式の現実的な不備を利用した戦術の一種なのです。「体重判定で勝つ」「旗判定で勝つ」ために優先される戦術の内容とは、先述した「相手に攻撃技を数多く当て、ダメージを与える」「手数を多くし相手に反撃の間を与えないようにする」「手数やフットワークで審判の主観に、「負けてない」という印象を与える」などです。そのような内容により、試合における優位性を審判の主観に訴えかけ、引き分けに持ち込み、体重判定で勝つ。大体そのような戦術です。

 

 少し脱線しますが、私は幼少の頃の経験により、実は30代の半ばまで心理的外傷がありました。そのため、時々、嫌な夢を見ました。ハードトレーニングは嫌な夢を見ないための、私の処方箋でもありました。その経験により私は、先述したような人の評価を懇願するような判定方法や姿勢が、とても辛く、非人間的なことだと、考えています。おそらく、普通の人にはわからない感覚だとおもいます。極端に単純化して言えば、器量の悪い人間が美人コンテストの基準で審判される。そんな感覚をいつも10代の頃から感じていました。かなりの矮小化だと批判する人は、人間社会に今も巣食う、そのような判断基準に鈍感なだけです。しかし、一度で良いから、他者の主観により否定され、仲間はずれにさせられた経験がある人には、想像できると思います。

 

【当時を回顧すれば】

 話を戻して、当時の極真空手の状況を簡単に回顧したいと思います。私は石川県で極真空手を始め、その後、大阪で修行し、さらに東京で山田雅俊師範率いる城西支部で、道場を任されていました。山田師範の教えは、相手の攻撃をしっかりと受けるというものでした。その考えは、私が石川支部時代から引き継いだ意識です。

 

 また私は10代の頃、石川支部の先輩で、空手の天才と誉れの高かった、水口敏夫先輩と組手稽古を繰り返していました。その中で、なんとしてでも完璧な防御力を身につけなければならないと、受け技の大切さを強く植え付けられました。なぜなら、水口敏夫先輩は、相手の動きを見切り、技を当てるのが上手かったからです。しかし、城西支部のスタイルに批判的な他の道場では、下段などを受け必要はないと教えられていたようです。つまり、下段回し蹴りを受ければ、それだけ身体の軸は崩れ、反撃も遅れる、ということではないかと思います。そこにすでに勝つことの最先端を追求するという、勝負至上主義(勝負偏重主義)の萌芽が見て取れます。

 

 そこには、かつてあったと思われる「一撃必殺という理念」はありません。またその技術の基盤である「眼」そして志もありません。すなわち、当時の極真会を支配しつつあったのは、試合に勝てば官軍という意識だったのではないかと思います。言うなれば、勝利至上主義が支配していたのです。しかしその意識は、間違いだと断言します。その理由について述べるのは別の機会としますが、平たくいえば、単なる勝ち負けになって行くということです。

 

 かくいう私もそのような極真空手の意識並びに試合法の流れに飲み込まれて行きました。当然、そのような試合法に合わせざるを得ません。それは、とても苦痛でした。もし、もっと良い試合法があれば、野球選手のように40歳、50歳になっても試合を行っていたかもしれません。また、剣道のように70歳、80歳になっても、仲間と剣を交えること(組手)が可能となるでしょう。

 

 蛇足ながら、空手の試合には、生き死にで、決着をつけられないが故の、極めて政治的な勝負の姿が見て取れます。それは人間の社会活動における本質とも言えるかもしれませんが…。私は単なる勝ち負けとスポーツは異なると考えています。高次のスポーツとは、権力に左右されることなく、人間一人ひとりの深い了解と納得が前提となっているものです。そのような行為こそが、人間の心を解放する役割を担うのです。

 

 少し脱線しましたが、そのような試合に対する私の意識に大きな変化が見られた時があります。当時の私は、全日本選手権と世界選手権に10代の頃から10回ほど出場し、その中で極真空手史上最強と思われるような選手や極真空手の組手の強豪との修羅場を数多く経験していました。その中で旗判定の勝利を目指すことしかできない自分に疲れ切っていました。

 

 その時、私の中に「組手の質を転換するのだ」という意識が芽生えたのです。それが100人組手への挑戦の意味です。具体的には、一打の効力を限界まであげるための見切り、そして増田流の後の先である”応じ”の技術を駆使し試合を行うことです。しかしながら、その試合レベルを審判や他の空手家は理解できなかったと思います。

 

 再度、極真空手の試合の歴史を振り返ります。極真空手の絶頂期の前あたりから、「旗判定」に勝利するために、打たれ強さを基盤に、相手より手数を出し続ける、そのような戦術が生まれました。そして、それが極真空手の試合の典型的戦術になって行ったのです。しかし、その姿は、自他がともに高まり合う姿ではなく、他者より自己が優れているという意識、そして他者との勝利に拘泥する姿です。そのような人間の情念が現在の空手界を形作っているように、私には見えます。さらに言えば、そのような勝利至上主義的な指導者たちが掲げる、打たれ強さ、手数、さらに言えば、そこから派生する「あきらめない」という信念は、全否定はしませんが、私はもっとも不幸をもたらす信念だと考えています。

 【「あきらめない」という信念とは〜個の尊厳】

 なぜなら、極真空手の試合における「あきらめない」という信念とは、人類の闘争の歴史に見られる”人命”や”個の尊厳”を軽んじる価値観に繋がっているように思えるからです。また戦史においては、無理な戦術を正当化する常套句のように使われてきたと、見ています。

 

 私がTSスタイルという試合形式、通称“ヒッティング(Hitting)”に込めた思いは、”個の尊厳”を最も重いものとして考える思想に立脚しています。それはTSスタイルに先駆け構想した、フリースタイルカラテに込めた祈りをTSスタイルにも引き継がせたと言っても良いでしょう。

 

 ならば、真(ほんとうの)の「あきらめない」という信念とは何か?そして、真(ほんとうに)の「あきらめない」という信念は、「内発的な人間の良知と共振し合う希望」ではないかと、私は考えています。換言すれば「人間は希望がある限りあきらめない」ということです。そして、すべてのジャンルで必要なリーダーの最も重要な役割は「人が希望を失わないようなシステム(社会システム)」を作り上げることなのです。

 

 私の考案した試合方式には「キョクシンスタイル」のみに旗判定を残しています。しかし、「フリースタイル」「 TSスタイル」には、「旗判定」はありません。そのことによって、TSスタイルの試合に参加する道場生には、「自他を幸せにする空手」の追求を一緒に考えていただきたいと思います。また、理念と判断基準を合意しつつ他者と交流すれば、自他を理解し、尊敬できることが可能となると言うことを体感してほしいと考えています。

【総括】

 総括すれば、極真空手の試合の歴史では、極真空手の絶頂期の前あたりから、旗判定に勝利するために、打たれ強さを基盤に、相手より手数を出し続け、審判の印象を重んじるような戦術が生まれました。そして、それが極真空手の試合の典型的戦術になって行ったのです。しかし、その姿は、自他がともに高まり合う姿ではなく、他者より自己が優れているという意識、そして他者との勝利に拘泥する姿です。そのような人間の情念が現在の空手界を形作っているように、私には見えます。

 

 さらに言えば、そのような勝利至上主義的な指導者たちが掲げる、打たれ強さ、手数という要素は、格闘技的な強さには必要条件です。しかし「理念」に基づいた「判断基準」を媒介物にして自他を向上せせる、すなわち空手で言えば、技術を向上させていくこと。また、その技術を理念に基づいて、審判していくという面からみれば、勝負至上主義に陥り、「勝てば官軍」というような思想に傾いていくように、私は思います。ここで私が本当に言いたいのは、極真空手のみならず伝統派の空手でも、野球やサッカーのように敗けた原因が明確に分析できないことです。同時に勝てなかった理由が了解できないということです。はっきり申し上げて、判断基準が曖昧なのです。これが、一番の問題の核心だと、私は考えています。

【人間を幸せにする空手】

 格闘技の試合においては、相手を倒すという共通目標があります。そして、そのための典型的戦術は、相手にダメージを与える戦術を駆使するというのが打撃系格闘技の宿命だと思います。しかし、私はそのような目標を一旦、奥の間(奥伝)に封じ込めます。かつての私も、すべての格闘技を「相手の戦闘力を奪うこと」とし、その命題の解明のための「フリースタイルカラテ」を考案しました。

 

 しかし、そのような命題の解明を封印します。そして、もう少し道場生のレベルが上がり、道場生が増えたら再開します。言い換えれば、極真空手をオリンピックスポーツに変えるというような大きな理想を一旦傍に置き、再度、空手道の原点に回帰し、基本から空手流派を作り直すことに必要な要素が、TSスタイルという試合形式なのです。その内容は、理念に基づいた判断基準(判定基準)を明確にし、それを媒介物として了解し、試合を行うということです。

 

 私はTS形式を採用した試合の方が、IBMA極真会館の理念の具現化に良いと思います。また、それを優先させた方が増田空手の礎になると考えます。なぜなら、TS形式は、自他の行為を可能な限り明確に分析し、次の成長の糧にできるからです。私は勝敗ゲームを通じ、それを行う自他が共に成長していくには、負けた原因が明確に理解でき、そして納得できることが最低条件です。それが明確でなければ、敗者のみならず勝者の人間性もゆがんだものになると、私は直感しています。

 

 私は空手をそのような宿命から解放させたいと考えています。それが私の本当の願いなのです。そして、そのことが実現すれば、空手によって交流した自他が、互いの存在と関係性の中で、幸せの本質を掴みあっていけると思うのです。 私は今、"ヒッティング”の目標を「人間を幸せにする空手」としようと考えています。

 

そのためには、誤解を恐れずにいえば、空手ならびに試合を、それを行う者の人生を楽しむための遊具とすることが必要です。私は人間の営為の構造を一種の遊び、そしてゲームと見ています。また、人生を切り開くキーポイントは、そのゲーム性をいかに捉えるかだという直感があります。そのことに関して、いつかまとめたいと思っています(誰も望んではいないとは思いますが)。

 

 最後に、増田空手の理念とは「武術の修練による心身錬磨を通じ天地自然の理法を学び自他一体の道を修める」です。武術の修練とありますから、伝統的な極真空手の修練にある、組み技や逆技や武器術の修練も行います。ただ、組手は、相手と共に技術を磨きあい、空手道を高め合う手段だということを認識すること。そして私は、「見果てぬ夢」として、「相手と打ち合い、蹴り合う空手」ならびに試合が、「相手と認め合い、友達になる手段」となるようにしたいと考えています。

 

 蛇足ながら、現時点における「何が一番大切かという問い」に対する私の直感的な解は、「個の尊厳を護る」ということです。まだ、「新しい武道スポーツをデザインする 改訂版」は未完成です。また、私の心身の具合は良くありません。それでも、少しでも早く、広い世界に存在する同志に届くように、またそのことを信じて、この拙論を掲載しました(斃而後已〜礼記より/増田 )。

 

 

 

2018-4-2:なんども加筆修正しました。

 

 

 

 

老年になっても仲間と剣(拳)を交えること

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人間を幸せにする武道(空手)を内容の一部を加筆修正しました。今回、加筆修正した部分だけを掲載しました。

 

この拙論はとても長いものです。私はこのブログを道場生へのメッセージとして書いています。また、心の友に向けての手紙だと思って書いています。さらに言えば、私の思考実験の記録です。

 

今、私の頭の中に”ヒット”しているアイディアは、書籍化したいと考えています。後は時間との戦い。体力、気力次第です。

 

 テーマは、「自他を幸せにする武道」です。私はその内容を加筆修正し続けます。また必要な項があれば付け足します。そうして、最終的に200ページぐらいにして、武道空手への私の提言書、武道論の一つとしたいと考えています。

 

4月2日に掲載した、全文と合わせて見ていただければ、幸いです。

 

 

 

【当時を回顧すれば(極真空手の第2次発展期〜最盛期を振り返って)】

 

 話を戻して、当時の極真空手の状況を簡単に回顧したいと思います。私は石川県で極真空手を始め、その後、大阪で修行し、さらに東京で山田雅俊師範率いる城西支部で、道場を任されていました。山田師範の教えは、相手の攻撃をしっかりと受けるというものでした。その考えは、私が石川支部時代から引き継いだ意識です。

 

 また私は10代の頃、石川支部の先輩で、空手の天才と誉れの高かった、水口敏夫先輩と組手稽古を繰り返していました。その中で、なんとしてでも完璧な防御力を身につけなければならないと、受け技の大切さを強く植え付けられました。なぜなら、水口敏夫先輩は、相手の動きを見切り、技を当てるのが上手かったからです。しかし、城西支部のスタイルに批判的な他の道場では、下段などを受け必要はないと教えられていたようです。つまり、下段回し蹴りを受ければ、それだけ身体の軸は崩れ、反撃も遅れる、ということではないかと思います。そこにすでに勝つことの最先端を追求するという、勝利至上主義(勝負偏重主義)の萌芽が見て取れます。

 

 そこには、かつてあったと思われる「一撃必殺という理念」はありません。またその技術の基盤である「眼」そして、武道人としての高い「志」もありません。すなわち、当時の極真会を支配しつつあったのは、試合に勝てば官軍という意識だったのではないかと思います。言うなれば、勝利至上主義が支配していたのです。 

 

【老年になっても仲間と剣(拳)を交えること】

 

 しかしその意識は、間違いだと断言します。その理由について述べるのは別の機会としますが、大まかにいえば、確かに”勝利”という果実を想定するのは、人を動かすインセンティブにはなります。しかし、そのプロセスにおいて、自己と他者との深く、高いレベルでの成長がもたらされるものでなければ、それは、単なる博打、勝ち負けになって行くということです。補足すれば、一方、人生は予測不可能です。ゆえに決断という行為が博打的に見えることがあるかもしれません。確かに、見る前に跳ばなければならない様な状況があるにしても、その決断がもたらしたことをより正確に分析しなければならないと、私は考えています。たとえ、その答えがいくつもあり、人間の能力では、どの答えが正解かを決められないとしてもです。私は、試合における自己の行為を分析することによって、その技術と人間性が、より深まり、高まるものだと考えています。その「分析を行わないこと」「中途半端にしておくこと」また「更新しないこと」を、単なる勝ち負けで終わる、と表現しているのです。私が考える修練の本質とは、分析、更新、そして検証の連続のことです。また、それを行わないで、過去の実績にあぐらをかいて発言する事、その者を「老害」と言うのです。そう書いて、「お前こそが老害だ」との声が聞こえてきます。

 

 かくいう私も選手時代、そのような極真空手の意識並びに試合法の流れに飲み込まれて行きました。当然、そのような試合法に合わせざるを得ません。それは、とても苦痛でした。もし、もっと良い試合法があれば、野球選手のように40歳、50歳になっても試合を行っていたかもしれません。

 

 今私は、剣道のように60歳、70歳の老年になっても仲間と剣(拳)を交えること(組手)が可能となる空手を構想しています。空手家の中には「老年になれば、組手は必要ない」「型の稽古のみで良い」という様な考えもあるでしょう。一面では、その考えに私も同意します。しかし、それは相手を痛めつける、相手にダメージを与えることを、判断基準にしている組手の場合です。その様な意識の組手は、若い時の一時期、経験すれば十分です。一方、型(形)の稽古は、武道人である以上は、生涯必要だと思います。しかし、あえて言えば、型は独り型のみならず、相対型(組手型)の稽古と併行して行わなければ、その深奥には至らないと断言しておきます。それを理解した上での独り型の稽古のみが、究極の形稽古となるのです。

 

 

 蛇足ながら、空手のみならず武道の試合には、生き死にで、決着をつけられないが故の、極めて主観的な勝負ならびに勝敗の判定の姿が見て取れます。それは人間の社会活動のいたるところにみられる、人間の本質的な部分とも言えるかもしれません。しかしながら、私は単なる勝ち負けとスポーツは異なると考えています。高次のスポーツとは、権力に左右されることなく、人間一人ひとりの深い了解と納得が前提となっているものです。そのような行為こそが、人間の心を解放する役割を担うのです。翻って、そこが武道だというものがいるとしたら、私の考えとは異なります。私の考えは、真の武道と真のスポーツとは、心の解放という面で、共通項があるということです。

 

 私の言う「人間の心を解放する」とは、単なる快楽の追求を指すのではありません。その本質は、自分という壁を乗り越えることです。蛇足ですが、それを薬物に頼ってはいけません。たとえ、生きるということが苦しみの中にあると思えても、それ自体が心の壁だと知ることです。その様な心の壁を軽々と乗り越える、真の心の強さ(抽象的なたとえですが…)を引き出すことを、私は「心の解放」と言いたいのです。

 

 

 

組手(試合)は対話だ? 〜道場生への報告

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組手(試合)は対話だ? 〜道場生への報告

 

 

 

 

 

 4月4日(水)、極真会館館長の松井氏と「ファイト&ライフ」という雑誌の対談を行なった。また、国際空手道連盟 極真会館の国際親善空手道選手権大会とセミコンタクト空手競技実施の表明の記者会見に出席した。

 

 その内容は、極真会館のホームページや今月の末に発売されるファイト&ライフを見て欲しい。当日は、前日に深夜まで、TSスタイルのプレゼンのための執筆作業をしていたので睡眠時間が少なかった。また夕方から空手の指導があるので体がきつかった。昼食もまともに取れなかった。しかしながら、腰痛の発症から一週間が経ち、歩ける様になってきたので、気分は良かった。また、対談がツッコミあり、笑いありの非常に和やかなものだったので、改めて、松井館長の計らいに感謝している。

 

 今回、極真会館の国際親善大会の記者会見に増田が出席していることに驚いている道場生のために説明したい。極真会館と増田のIBMA極真会館は友好団体である。その経緯は、極真会館がオリンピック開催を決めた全空連(JKF)と友好団体になるのを契機に、我々は松井館長率いる極真会館と友好団体になった。

 

 そして今回、極真会館がセミコンタクトルールという新しい競技方法を採用し、全世界の会員に普及していこうという段に際し、IBMA極真会館増田道場の増田がそのアドバイザー的な役割を担うということだ(正式には辞令は降りていないが)。この件につて、より詳しく知りたい方は、雑誌や極真会館のホームページを見ることをおすすめしたい。

 

 さて、私の立場は、新しいセミコンタクトルールの実施を支持し応援するという立場である。また、私は10台の頃から、全空連系の試合の経験や、ボクシングジムの経営の経験があることから、私の応援の意思を松井館長が了解し、私を会見に呼んだのだろう。とはいえ、私は組織的には部外者である。私は「まずは応援者として支持したい」とその立場を明言しておいた。おそらく、松井館長は「様子を見ながら、徐々に増田を協力者として受け入れていく気持ちなのだろう」。私は当然の配慮だと思っている。なぜなら、私がセミコンタクトルールを自分の道場生にやらせるということも決めていない。

 

 大事なことは、その様な大きなプロジェクトの実施には大変な労力がかかる。それは組織の規模が大きければ大きいなりに、また小さければ小さいなりに大変さがある。それを私は身を以て理解している。私が着目するのは、その判断基準と決断の勇気に共感と敬意を持っているということである。

 

 松井館長は、「新しいルールは、それを行いながら、改良を加えていく」という主旨の発言をしている。抑えておいて欲しいのは、従来の極真空手の競技方法を止めるということではないと言うことである。新しい競技には、従来の極真空手の競技方法を補完する役割をもたせたいという。松井館長と増田を繋ぐ生命線は、極真空手を通じた「友情」と「極真カラテの質のさらなる向上という意識」である。

 

 松井館長の考えを増田なりに咀嚼すれば、「極真空手家にある種、異質の刺激を与えることにより、自己の再認識を促したい」ということだろう。実は、その様なことをたえず増田は行ってきた。例えば、10代の頃、すでに柔道のみならずレスリングの試合経験をした。また20代の頃は、キックボクシングやボクシングの経験をした。さらに陸上競技や古流武術の経験など、実に様々な体験を繰り返しながら、極真空手を再認識し更新する作業を行ってきた。

 

 その様な異質とも思える経験をしながら、自己内部に定着しつつある感覚のさらに内部にある、と思われる“もの”を喚起、そして理解するのである。少々、難しい言い方になったが、この様なことを松井館長に言えば、すぐに理解してくれると思う。ただ、他の空手家はどうかわからない。

 

 あえて断っておくが、増田は松井館長の試みを全面的に支持しつつ、増田のアプローチは少々異なるという事だけを今、明言しておきたい。それは松井館長の行うことを、サポートするはずである。増田のアプローチは、既存の手段において、ちょっと方法を変えるだけで、その行為が深化するという、修練方法の提案である。まだ思考実験のレベルを超えないが、私はそのアプローチの効果はあると考えている。それがTS形式の試合法、“ヒッティング”という修練方法の導入である。

 

 松井館長と増田の違いを少し述べれば、増田は組織がないに等しい、ゆえに増田個人の技術と理論を旗印に交流し合わなければならない。その立場が明確ならば、増田は松井館長の内部に取り入れていただく立場、平たくいえば下請けの様な立場の方が、むしろやりやすい。

 

 松井館長は「いや、下というより“共に”だよ」と言ってくれた。私には、嬉しい言葉だったが、増田は友情と仕事を分けたいと考えている。セミコンタクトルール、そして増田のTSスタイルの創出は、私にとっては仕事なのだ。

 

 補足すれば、「極真空手の質を高める」ということは、私の命を賭けた仕事だと考えている。それを、体がポンコツになって、強く自覚している。ゆえに、孤独になっても、今再び原点に返って、新たな決断をしたいと考えている。そこに実は上も下もない。だからこそ、私は松井館長の下で仕事をすることもやぶさかではないのだ。また、真に自他が貢献し合う関係には、上下など、便宜上のことでしかない。本質的には対等なのだ。

 

【極真空手の質を高めることは、私の仕事である】

 さらにいえば、松井館長は増田の考えを一番よく理解してくれる可能性が高い。ただ、松井館長が増田をどれだけ信じているかわからない。これまでの言動を振り返れば、当然である。おそらく皆に伝わらないだろうが、私にとって「極真空手の質を高めることは、私の仕事である」と繰り返したい。全人生を賭けた…。ゆえに、死にたいぐらいに自分の非力と未熟を嘆き、あがいている。今後は、それを明確にしていきたい。同時に松井館長との友情は別次元である。その友情が死ぬまで続く様に、最大限の配慮をしたい。ゆえに私の行おうとしている仕事と、あらゆる人情的な関係を分け、私の役割分担を明確にしたい。

 

 振り返れば、松井館長に極真会館との友好団体化を打診された時も、「極真会館の試合に道場生を参加させるとかいうことは別にしてくれ」むしろ「極真会館の試合に道場生を参加させることはしないよ」という前提で話をした。それを松井館長がどの様に飲み込んだかはわからない。つまり、試合があるから付き合うという関係を松井館長と増田との友情には介在させたくないのだ。ただ、それは絶対ではなく、しかるべき体勢が、お互いに整ったら実現するかもしれない。これを聞いて、がっかりする道場生はほとんどいないと思う。なぜなら、増田の道場生は、大会参加や試合のみのために空手を行っているわけではないからだ。ただ、理想は松井館長の率いる、全世界の極真空手人と増田の道場生が対等に交流することだと思っている(そこには、とってつけた様な敬意などいらない。皆兄弟だ。敬意を持ってなどという背景には、まだ遠慮と虚偽がある様に思う…。TPOにもよるが、私はそんな虚偽を見逃さない)。

 

 その様な理想に向かうために、増田のTSスタイルという試合法がある。そして、やはり「武道の稽古の基本は組手、試合にある」と認識させる方法なのだ。

 

 詳しいことは、いずれ明確にしたい。あえて言えば、「試合の目的は相手に勝つことでもなければ、チャンピオンを目指すことでもない。ましてや強さを目指すことでもない」。同時に「試合の目的は自分に勝つこと、最高を目指すこと。そして真の強さを目指すこと」である。換言すれば、「自他の関係性を理解し、その中で自分を喪失しないこと、自己の存在レベルの最高を目指すこと。そして「あらゆる状況において、自他の認識のバランス調整を行う能力を持つこと」である。

 

 以上は全て、増田の経験上の直感である。それを古今東西の賢人の思想を紐解き実証するのが、死ぬ前にどうしても行いたいことである。

 

【すべての格闘技は最強、かつ最弱になりうる】

 対談で松井館長が「すべての格闘技は最強、かつ最弱になりうる」「ゆえに最弱になる部分をなるべく小さくするのだ」という様なことを言っていた。

 

 これは、松井館長のいつもいうことなんだろうな、と思って聞いていた。「立て板に水」の様に話していたから(笑)。しかし、みんな意味がわかっているのだろうか。増田が意訳するとこうだ。

 

「すべての格闘技には限定がある」

 

「また得意な戦い方がある」

 

「限定があるということは、心技体が高まるといいうことである」

 

「高められた心技体が”強さ”という概念の根拠(基盤)である」

 

「しかし、心技体を高めようとすればするほど、そのために削ぎ落とした部分と高めた部分とのコントラストがはっきりする」

 

「さて、その削ぎ落とされた部分を突かれたらどうなる」

 

「アキレスの例えを出さずとも、そこが突出して、わかりやすい弱点になる」

 

「ゆえに、弱点を自覚し、その弱点が露呈しない様にせよ」

 

「また、その弱点を補強しておけ」

 

ということである。

 

さらに言えば、「弱点と思われていた部分に、次の時代に必要な要素があるかもしれない」

 

「ゆえにその要素を最高に高めて行くことも視野に入れろ」

 

「それが変化に対応するということだ」

 

 

という様に私は考えている(その言葉を聞いた増田の直感なので、松井館長の考えとは異なるかもしれないが…とにかくみんな分かっていないと思ったから書いた)。

 

【どんな状況でも対応できる力を身につける】

 さらに松井館長が「どんな状況でも対応できる力を身につけるのだ」という様な主旨のことを言った。つまり、セミコンタクトという、新しい修練方法は、それを自覚する手段なのだ。先述した様に、私は10代の頃に、すでにそれを知っていた。ゆえに、私にとっての極真空手の組手法は、ただ単に試合に勝つためではなく、理想を目指した手段であったのだ。ただ、私の極真空手の試合にも勝つために排除した部分はある。ゆえに誤解を恐れずに言えば、その姿を見たくない。あまりにも稚拙だからである。同時に、今、当時の身体能力があればと、切なくなってくる。

 

 その様な思いから、フリースタイル空手・拓真道の構想をしたのだ。話を戻せば、松井館長の考えを、突き詰めていけば、IBMA極真会館で実施した、限定的ながら、打撃技のみならず、投げ技、掛け、掴みも使える、フリースタイルという試合法もありだと思う。ただし、上手な限定を行わなければ、ただ煩雑となり、あらゆる状況に活かせる、普遍的な感覚を養成することができない、ということはいうまでもない。フリースタイルでは、その普遍的な感覚を織り込み済みである。

 

 

 

【組手は対話である】

 また、対談で松井館長と増田が意気投合したことに「組手は対話である」ということがある。私は「組手はコミュニケーション」と言った。松井館長は「組手は会話だ」と指導するという。それは「組手は対話の様に」という考えに収斂されると思う。おそらく、この部分は雑誌に載ると思うので、今はこれ以上書かない。この話は、「極真空手の質を高める」という互いの仕事としてではなく、友情論としても面白いと思う。私は楽しく、かつ嬉しかった。この関係性がずっと続く様に願っている。その部分がファイト&ライフに割愛されていたら、私が書きたい。

 

 

 

【「心眼」の養成】

 

 最後に「どんな状況にも対応する」「強さ」「対話」などなど、のキーワードの解の共通項にあたりをつけている。それについて、少し書きたい。

 

 それは、武道の到達点は、増田空手の理念でいるところの「自他一体の道を修める」ということと言っても良いが、それを具現化するに何が必要か。

 

 私は「眼」だと思っている。あらゆることを、より本質的に観ること。かつ包括的に観ること。そのことは、畢竟、見えないものを観る、「心眼」の養成につながっていく。また、「観るとは、自分の身体に感じることを最高レベルで探求すること」かもしれない。

 

 私の身体も近いうちに動かなくなる可能性が高い。そうならない様、またそうならないうちに、健康な人たちの心身を、さらに健康に、かつ維持できる様な稽古体系を構築したい。そのために体が動くうちに、その具体的な身体の使い方と修練方法を残し伝えたい。同時に武道家としての「心眼」の養成を急ぎたい。

 

 

 

 

 

 

2018-4-8:有効→友好   10台→10代 変換忘れです。道場生に指摘してもらいました。

 

 

機前を捉える

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【機前を捉える】

 

 ヒッティングという打撃技を用いた試合法とは、テニスや卓球、あるいはサッカーのように針の穴を通すようなショット、パスを駆使することを目指す。言い換えれば、打撃技を駆使する「機」を重視する試合法である。では、そのようなことを具現化、体得するには何が必要か? 

 

 技の精度(正確性)は言わずもがな、究極的には「相手と一体化し、相手の攻撃の「機前」を捉える」境地に至ることである。今、私が書いていることをすぐに理解出来る者なら、ヒッティングを行えば、その感覚を体得することができる。

 

 しかし、私の言うことがすぐに理解できないものは、組手の上達は困難である。しかし、すぐに理解できなくとも、私が時間をかけて指導をすれば、必ず上達すると思う。

 

 ただし、週に1〜2時間程度の練習では感覚が養成されない。また、私が3時間22分をかけて行った100人組手、また、そこに至るまでの数千時間に及ぶ組手練習と同じことを行ったからといって、そこに至るとも思わない。では、増田の感覚を誰も理解できないということか?と言われるかもしれないが、決してそうではない。

 

 前述したような境地に至るには、厳しい修練のみならず、それを行わずにはいられない「機縁」が必要なのだ。つまり、まずは「より精度の高い技」「より完璧な防御」を心から欲すること。さらに、ヒッティングによって、「相手と一体化し、相手の攻撃の「機前」を捉えること」を内なるなる声として聞くのでなければ、生涯をかけてもそこには至らないであろう。換言すれば、意識の強さと方向が明確でなければ、自己の心身を変革することはできないという事だ。

 

 もし、私と同じような機縁を得たものなら、私の空手道理念と判断基準が理解できるはずである。そのような者は皆無かもしれない。それならそれで良い。私の空手道は私自身のためにあるのだから…。

 

 ただ、もし私が命を賭けた極真空手を、同じように極めたいと思う者がいるなら、少しだけ立ち止まり、ともに稽古をしても良いと考えている。誤解を恐れずに言えば、私の稽古と皆の稽古は、次元が全く異なる。それを合わせると言うことは、私の感覚を後世に残したいという人情とも欲望とも言えるような思いが私の中にあるからであろう。現在、私は空手道の修練体系を作り直そうと考えている。それは、大きく中身、フレームが変わるわけではない。ただ、その理念と判断基準を明確にし、組手の技術が段々と高いレベルに向かって行くようにプログラムを書き換えるのだ。そうすれば、人間の心身自体は大きくは変わらないが、脳および神経回路が大きく変化する。

 

【私の考えるスポーツ、そして武道の理想】

 

 最後に、ヒッティングという打撃技を用いた試合法においては、やがて熟練すれば、素晴らしいサッカーのゴールのような術が生まれてくるはずだ。その時、そのゴールのような術が、まるで相手の協力、演出によるもののように思えてくるはずである。その境地に至って、初めて天地自然の理法の何たるかがわかり、自己が自他の繋がりのなかで生かされていることを知るのだ。

 

 繰り返すが、私がTSスタイルの組手法、ヒッティングに託す命題は「機前を捉えること」「相手と関係性の中における瞬間を制すること」と言っても良い。

 

 その瞬間の中に真理がある。それは事象と事象の間、認識と認識の間にある真の意味を捉えるということだ。残念ながら、今後AIにその役割を奪われてしまうかもしれない。だが、AIにその役割を任せるということは、人間の行動が個人のものではなくなり、人間の行動が集団の意識や組織の意識に引きずられたものになっていくのではないかと危惧している(今後、AIの関する研究の進展を見てから再考したい)。

 

 そこで私は、ヒッティングによって、言葉によらない、事象と事象、行動と行動の間の真理を捉える力を養成したいのだ。私はヒッティングの普及をフリースタイルプロジェクトの改訂版として進めている。

 

 いつものように、誇大妄想は私の性癖である。これを読んだ人は、私を笑っているに違いない。それでも、ここで私の考えるスポーツ、そして武道の理想を述べておく。

 

 国家は人間を守る役割も果たすが、ブラックボックスを作り、権力を形成する。また、国家と国家の対峙は、権力や暴力を正当化する。ゆえに、スポーツの役割は、決してブラックボックスを作らないこと。また、何らかの利害によって形成された固定観念を基盤にした「言葉による自己の優位や正義の主張し合い」ではなく、「純粋な自他の行為としての試合(スポーツや組手)」が、各々の能力を向上させ、掛け替えのないパートナーだと認識していく手段となることである。

 

 現在、スポーツのみならず武道団体もエンターテインメントや教育を隠れ蓑とし、権力化が進み、同時に腐敗も進んでいる部分があるのではないかと、私は疑っている。また、自他の交流と理解、尊敬がスポーツの目的であることを忘れているかのようにも見える(もちろん全てではない)。私は国際武道人育英会の事業として、再度、”ヒッティング”スポーツのプロジェクトを構想してみたい。なぜなら、スポーツのみならず武道とは、個々人の意識をより高次化するための手段である、と思うからだ。

 

 ただし、人の選定と資金の確保の目処が経つまでは、ことを起こさない。なぜなら、これ以上家族を不幸にするのを避けたいのと、私の体がもたないからである。同時に時代がそれを求めているような気もする。まさしく機前を捉えるような感覚である。しかし歳をとると勇気がなくなるようだ…。

 

 

 

 

 追記

 風邪で体調不良の中、ほぼ1日、デジタル空手武道通信の更新の作業をおこなった。私がなぜスポーツにこだわるかといえば、私は幼少の頃から反権力だからだ。スポーツとは、本来、反権力でなければならない。しかし、現実はそうではなくなってきている。こだからこそ、新しい武道スポーツを提言したいのだ。

 

 私は幼少の頃、権力のブラックボックスに怯え、そして傷つけられた。それは死にたいぐらいだった(自業自得だと人は言うかもしれないが、そんな私だからこそ、良い社会変革の提言ができると思っている。そのためにはもっと力が必要である)。今朝、久しぶりに嫌な夢を見た。もう忘れたいのだが…。

 

 もう一つ、土曜日のTSスタイル(ヒッティング)の講習会に忙しい中、集まってくれた研究科の荻野氏、大下氏、宮村氏、スネイド氏、巧君に、ありがとうと言いたい。

 

 

 

緊急提言〜希望の党と民進党の志士たちに告ぐ

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緊急提言〜希望の党と民進党の志士たちに告ぐ

 

 自民党から民主党が政権奪取し、2大政党制の実現かと思いきや、その政権はあっという間に瓦解した。東日本大震災という災難による影響もあるかもしれない。その原因に関する意見をここで述べる時間はない。また、私は自民党の支持者である。これまではだが…。

 

 しかしながら、同時に我が国にも有力な野党の出現が必要だと思っている。

 

  話を一気に進めると、私は民主党の名前を変更することや分裂することは良くないことだと思ってきた。しかし、今それを言っても始まらない。

 

 さて、今しがた、希望の党と民進党が一緒に新党を作ると、インターネット経由で知った。 

 

  お党名を国民党とするようだ。また共和党という案もあるらしい。

 

 私は、断然「共和党」が良いと思う。なぜなら、アメリカにおいては2大保守政党が政権を交代で担うという形態が定着しているのは周知のことだ。そして民主党はリベラル、共和党は保守という大まかな色分けができている。

 

 一方、我が国においては、自民党が保守からリベラルな考え方まで、実に幅広い国民層を包括して掬い上げていると、私は考えている(実は日本国民はノンポリなのかもしれない、もうノンポリなど死語であるが)。

 

 そこで今、我が国に必要なのは、アメリカ的な保守政党としての共和党ではない。今こそ我が国に必要なのは、幕末の学者であった、横井小楠が説いたような「共和制」を我が国にもたらすという思想である。ゆえに、アメリカ的な共和党のイメージにとらわれる必要はない。我が国独自の共和政治を掲げれば良いのだ。この意味がわかるだろうか(随分上からで御免)。

 

 新しい政党は、単なる野党ではなく、その思想、理念の担い手となるのが、政党浮上の道である、と私は思う。そして、旧民主党の政治家ならば、その思想を汲み取り、10年はかかるかもしれないが、我が国に共和思想の実現をもたらし、真の開国に導くと思うのである。以上、かぜで体調不良のため、書きなぐりではあるが、書き記しておきたい。下層の国民のいうことではあるが、私が提言に込めた真の保守政党の創建という意味を、民主党の人達が理解し、それを掲げるのでなければ、この先も望みはないだろう。

 

追記

忘れてた。旧民主党には社会党崩れ(失礼)の政治家がいる。私は社会党がダメだとは言わない。しかしながら、現実には社会党は崩壊した(社民党があるが…)。誤解を恐れずに言えば、歴史的使命を終えたと言って良い。おそらく立憲民主党辺りが、旧社会党に変わるリベラル勢力となって行くのだろう。だからこそ、民進党は決断せよと言いいたい。いま、我が国にはリベラルな保守勢力が必要なのだ(リベラルな保守勢力というのは変な言い方だが、私の中では矛盾しない)。そういう意味では、いまの自民党はそんなに悪くない??

 

 

 

「堯舜孔子の道を明らかにし
 

西洋器械の術を尽くさば
 

なんぞ富国に止まらん
 

なんぞ強兵に止まらん
 

大義を四海に布かんのみ」

 

「心に逆らうこと有れども 人を尤(とが)むる勿れ(なかれ)

人を尤(とが)むれば徳を損なわん

為さんと欲するところ有れども、心を正(さだ)むる〈成果をあてにする〉勿れ。

心を正(さだ)むれば事を破らん

君子の道は身を修るにあり(原文書き下し)」

 

(幕末の思想家  肥後藩士 横井小楠1809~1869)

参考文献:大儀を世界に(東洋出版、石津達也著)

 

 

 

 

 

「より善い心身創出のための武道〜”試し合い”武道のすすめ

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【組手とは何か】

 空手における「組手」とは柔道でいう「乱取り」、剣道でいう「地稽古」のことである。 ところで、極真空手を学ぶ人たちは、どんな目的で組手を行なっているのだろうか。

 

 ここで急ぎ頭に浮かんだのは、⒈「相手に勝つ」 ⒉「自己の技の破壊力を試す」 ⒊「空手の技を試す」と、 3つの組手稽古の目的である。他にもあるだろう。一度、みんなに聞いてみたい。

 

 では、その意味を掘り下げれば、⒈の「相手に勝つ」という目的はあまりに抽象的過ぎ、具体性に乏しい。そもそも、修練者のレベルによって、勝つために身につけなければならない要素が異なる。もし、すべての要素をひっくるめて、ただ組手を行うのであれば、言語道断としか言いようがない。 ⒉の「自己の技の破壊力を試すため」も、異なるレベルの修練者がそれを行うには、具体的な目的と意識、手段を伝えなければ、言語道断といえるであろう。

 

 また、破壊力のある者が、技術的未熟者に、その技を強く用いれば、相手の技術の習得に悪影響を及ぼすのみならず、怪我をしてしまうことはいうまでもない。 ⒊の「空手の技を試す」はどうだろう。これは、多少、妥当性を有する目的と言えるかもしれない。ただし、そこに空手の上達への道筋が明確である場合、最も有効かつ有益となる。さらにいえば、相手のレベルなどを考慮し、傷害などによる稽古の継続に支障をきたさない様、技の破壊力を制御しながら行う必要があると、私は考える。

 

 もう一つ、上達の道筋の明確さとは、的確な分析、検証、再構成を行うだけの知識と能力を有していることである。それがなければ、単なる自己満足に終始し、結局、何年稽古しても上達はできないであろう。蛇足ながら、先述した自己満足はやがて、相手に自己の技の破壊力を試すという様な安直な行為につながることは必至である。

 

 

 

【私の組手に対する考え方】

 さて、ここで私があげたことは、多くの道場生、空手愛好者の組手に関する認識、すなわち技の試し合いに対する認識レベルの低さを自覚して欲しいからである。おそらく、 多くの空手愛好者が、先述した程度の認識しかないと、私は思っている。

 

 一方、私の組手に対する感覚ならびに考え方は、長年一貫している。それを一言で言えば「技が上手くなりたい」「技術を極めたい」との強い思いといっても過言ではない。もしここで、 増田は技術のみを追求するのか。人間形成は関係ないのか。という様な声があったならば、最後まで我慢して読んでほしい。

 

 私が若い頃、技術と考えたのは、「⒈破壊力のある技を作り出す技術」「⒉有効な技を相手に用いる(空手なら当てる)技術」「⒊相手の破壊力ある技を弱体化(無力化)する技術」である。 ⒈には、筋力や部位の強化が必要であろう。⒉と⒊には自己のみで行う鍛錬ではなく、他者と相対で行う練習が必要でと考える。その様な練習を私は組手型の稽古と呼び、長年にわたり、自分の道場で指導してきた。ただ、「受け返し練習」や「約束組手」という軽い名称がいけないのか、全ての道場生にその有用性が伝えられたとは考えていない。また組手型と呼んで、「応じ」の感覚を理解させようとしても、その本質をつかませることができない状態である。 では、私の考え、認識と道場生の認識がどの様に違うのか書いてみたい。

 

 私は、10代の後半から20代の初めにかけて極真空手の全日本チャンピオンや世界チャンピオンと組手の手合わせをする機会に恵まれた。それからというもの、その先輩との試し合いをイメージしながら組手練習を行なっていた。そのことの意味は、私にとっての組手稽古は全日本チャンピオン、世界チャンピオンになるためのものであった、ということである。そのことをもう少し掘り下げれば、その目標を実現するには、あらゆる者と組手ができ、かつ負けてはならないということであった。ゆえに、想定できる、あらゆる戦い方に対応できなければならないと、考えていた。その様に明確な目標を持ちながら、私は組手練習をおこなっていたのである。 しかし、現実の稽古を見てみると、相手は白帯、初心者ばかりであった。 その初心者を相手に、先述した「3つの組手稽古の目的」の⒉の「自己の技の破壊力を試すため」を実践すれば、将来、自分の組手練習の相手となるかもしれない稽古生もいなくなる。私はそれではいけないと、直感していた。初めは稚拙でも、しっかりと指導すれば、いずれ練習相手ぐらいにはなる、と考えていたのだ。

 

 また、⒊の「空手の技を試す(試し合い)」をより意味あるものとするには、「相手の技術レベルをあげる」ということを成した上でなければならないと、私は考えていた。なぜなら、先述した様に、自己の技術の上達を検証するために、よりレベルの高い技を前提にした、自己の対応力(より精度の高い仕掛けとより高い応じの技術)を分析、そのレベルを検証するためである。換言すれば、それが練習(組手稽古)からのフィードバックによる技術の構築ということである。さらに、相手(道場生)のレベルをあげなければ、技の試し合いによる、高度なフィードバック制御の能力向上や技術の再構成ができない。

 

 ゆえに、私の道場生に対する組手法は、ほんの数件の例外を除き、破壊力をコントロール(寸止め)したものであった。さらに相手の能力をなるべく引き出した上で、それに対応するというものであった。そうすることで、相手(道場生)の技術的成長を待ちつつ、自己の技術のレベルをあげるためである。自慢ではないが、私が若い頃、猛稽古に付き合わせた道場生の多くが、組手技術に上達したとの自負がある。ただし、その構造の理解がなされていないために、私の指導を受けなくなってからの上達はなくなったと思う。もちろん、体力面の向上はあったかもしれないし、その様な面も組手には必要である。しかし、私はその面の向上は、組手稽古とは分けて考えるのが良いと思っている。

 

【元来は不器用な私が】

 

 さらに言えば、元来は不器用な私が、その様な組手法を心がけることにより、自己の身体のみならず感情や知性をコントロールする術を学ぶことになったと、確信している。換言すれば、心身のみならず、感情をもコントロールするということは、非常に効果的なフィードフォワード制御の能力向上に役立ったと考えている。ちなみにその意識は、柔道で挫折し、極真カラテを初めた高校生の頃から続いている。そのおかげで、不器用な私が、なんとか人並みの器用さで心身を使える様になったと考えている。そして、身体能力向上と破壊力のある技を相手により正確に、より効果的に当てる技術のみならず、相手の破壊力ある攻撃を弱体化してから攻撃する技術(応じの技術)を身につけさせてくれた。その技術が、身長177㎝、体重90kg程度の私に対し、身長2m、体重110kgを超える相手に対し、自己の体力をより効果的に使うことを可能としてくれた(まだまだ理想には程遠く、未熟ではあったが)。

 

【これまでの空手界では】

 これまでの空手界では「寸止め派」と「フルコンタクト派」に分類するのが一般的であった。しかし、両方を見てきて、私が思うことは、どちらも寸止めではない様に見える。他方、かくいう私は、「寸止めの意識」で組手を行なってきた、と言いたい。また、「TSスタイル」で行なってきたと言っても良いだろう。その具体的な説明は、現在進めている、T Sスタイルの組手法(ヒッティング)の普及過程で伝えたい。一つだけ、自己の心身を制御する意識が武道修練には重要だとだけ書いておきたい。

 

【高齢化社会に役立つ、心身創出のための武道】

 2018年5月4日、記念すべき第1回の TSスタイルの競技会が開催された。審判法の修正や審判員や競技者の育成、防具の改良と制作などの課題はあるが、短い時間、大まかなプレゼンで、みんなよくやってくれたと思う。あとは私の気力、体力が続くかどうかである。  

 私も5月で56歳となる。もう若くない。最期には極真空手と出会って、本当に良かったと思いたい。また極真空手の先輩や仲間と和解したい。すでに松井氏とは和解した。松井氏とは、長い年月を経て、互いに様々な経験を重ねたこといより、互いを理解、尊敬できるようになったように思う。さらには、じっくりと話をしてみれば、一番の理解者かもしれないとも思うぐらいである。これ以上は、これから進める実験と検証後に書き記したい。

 

 最後に、TSスタイルの組手法(試合法)を、「ヒッティング」と命名した(通称)。ヒッティングは、空手技を用い、老若男女が一緒に組手で技術と意識を交換し合って、互いの心と身体を高め合う、良い方法だと、私は確信している。それが引いては自他を尊敬し合う感覚を養うことになる。そしてその要素こそが、武道に最も重要な要素、そして人間形成に必要だと、私は考えている。調子に乗り、さらに語れば、「ヒッティングこそ、高齢化社会に役立つ、より良い心身創出のための武道だと言える様にしたい。

 

 補足を加えれば、その様な方法が剣道の様に80歳になっても地稽古、すなわち組手を行うことが可能となるということに繋がっていく。また、生涯続けられる、試し合い武道の創建となる。そして、その時が極真空手が新しく生まれ変わる瞬間である。

 

 

追伸:これから企画書を作成しようと考えている中に、今回の”試し合い”武道のすすめに関する、重要なキーコンセプトがある。

これをわが道場生に理解してもらいたい。「試し合いは、型稽古ように、型稽古は、試し合いのように」である。これが増田の組手稽古と型稽古の極意である。ただし、ここでいう型とは組型であり、組手型のことである。型は本質的に自他を想定した組手型でなければならないと、ここで断言しておきたい。

 

 

 


サッカーと極真空手

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サッカーと極真空手

 

 ここ2ヶ月間弱、「試し合いとは何か?〜技と技能(仮題)」という論文を書いてきた。原稿用紙で70枚ぐらい。その論文を基調に、新しい試し合い方法(組手法)の入門書を作りたいと考えている。

 

 私は、知る人ぞ知る、「せっかち」である。本来は倍の日数を要するのを、一気に仕上げようとする。おそらく、それが原因で、ヘルニアの影響が出て、腰痛が悪化した。現在はリハビリ中である。快方に向かっているが、他の傷病も含めて、このままでは、身体が動かなくなる。もっと丁寧に使わなければと思っている。

 

 そんな中、サッカーのワールドカップが始まった。サッカーのワールドカップは面白い。もちろん、私はオールジャパンを応援している。初戦は、予想に反し、日本が南米のコロンビアに勝利した。試合開始早々の相手レッドカードによる欠員と得点が勝利に影響したとは思うが、ディフェンス陣の気合いやフォワード陣の集中力には目を見張った。「日本もやればできる」、そんな印象を全国民に与えたのではないだろうか。次の試合が正念場だが、私は期待したい。

 

 勝利のポイントは、より正確なディフェンスと、なるべく少ないタッチによるボール回し(パス回し)だろう。また、ディフェンス陣のとフォワード陣の連携である。さらに、ゴールエリア付近での針の穴を通すような集中力である。また、ドイツが苦戦したように、縦のカウンター攻撃によって生じる、崩れや隙をつくことかもしれない(にわかサッカーファンが何を言うと言う感じだが…)。

 

 サッカーの素人の戯言と一笑に付されるのは必至だろうが、言っておく。いつも私が言うように、メジャースポーツになる要因の一つには、観客が評論に参加できるような判定基準の明確さがある。もう一つは、見る者に感動を与える、ゴール(一本)が設定されているか、どうかだ。言うまでもなく、サッカーはスポーツの王様である。

   ここで、あえて言いたい。我が極真空手も第4回世界大会時、サッカーのようにメジャー競技に生まれ変わるチャンスであった。その意味は、当時の極真会には、単なる試合に勝つではなく、メジャーな格闘競技になるために重要な、身体能力と破壊力を有する選手が多く在籍していたという事である。アンディ・フグ、マイケル・トンプソン、ミッシェル・ウェーデル、ジェラルド・ゴルドー、大西靖人、松井章圭、全てあげれば、あと数十人はいるだろう。今夜、サッカーに日本代表と対戦するセネガルの選手も素晴らしかった。みんな本当に素晴らしい才能を持っていた、と思う。それらのタレントを活かせば、極真空手は、サッカーにだって凌ぐものになる可能性もあった、と私は確信している。しかし、極真空手のリーダー達は、そのチャンスを逃した。タレントを活かせなかったのである。このことについては、いずれ書いてみたい。もし、今書いている論文が日の目をみるなら、補足として書こう。命を削りながら…。

 

 兎にも角にも、今夜は多くの日本人がサッカーに熱中するに違いない。そこで、私が考える新しい組手法(試し合い)の目指すところを述べてみたい。

 

 【私の考える空手の理想形】

 現行の極真空手のみならず空手の組手法では、サッカーのような感覚(技能)そして、芸術的な一本(ゴール)は生まれないだろう。

 

 空手をサッカーの構造にたとえて言えば、左右の手、左右の脚、その他、禁じられていない身体の部分を使い、技を創り、その技を協力させ、相手をノックアウトすることだ。その構造は、まるで、各身体と各種技がチームメイトとして、一つの身体のようになることを志向しているかのようである。また、私の考える空手の理想形は、チームスポーツの理想形と近いのではないか、とも思っている。つまり、一つの身体のように、組織体を駆使することが、最高のチームだと言う事だ。そして、そのようなチームの監督には、勝ちたい、という欲望のみならず、チームを生かし、高めるという意識が必要だ。つまり私は、極真空手の組手にも、各種技が意識という監督に統合され、協力し合う、チームプレイの感覚が必要だ、と思っている。

 また、パスワークからゴール(ノックアウト)を決めるには、上段、中段、下段の蹴り技と突き技との連携が重要である。具体的には、空手の各種技を一本(ゴール)のための準備(崩し)として、運用するのだ。要するに、極真空手がサッカーの試合のようになるためには、パスワークのような、技の攻防がなければならない、ということである。

 

 今、サッカーを観て、私が「試し合いとは何か?」という論文で伝えたかったこと、その中の応じ(技)の重要性は、サッカーのパスワークに例えられる、と思っている。つまり、サッカーのパスワークのように応じ技を駆使して、組手を行えるように競技規定(ルール)を変えれば、もっと素晴らしい一本が生み出されるようになる、ということだ。換言すれば、新しい競技(試し合い)システムの構築が新しい組手法の目指す処なのである。

 

 具体的には、相手を出鱈目に近く、蹴り、打つのは、サッカーでいうパスワークではない。相手の攻撃を受け、それをなるべく少ないタッチ、かつ瞬時にスペースを見つけてパスを出すこと。それが、現行の極真空手にはないが、私の極真空手にはある感覚である。しかしながら、私の道場生にも、その感覚がない。否、技自体ができていないのかもしれない(技ができていないというのは破壊力が乏しいということ)。

 

 原因は、私が伝えられなかったこと、と現行の極真空手の構造によるものだ。すでに時期を逸したかもしれない。なぜなら、私の心身はくたびれてしまっているからだ。ただ、私が気力を振りしぼっているのは、最期に生きた証を残しておきたいと、強く思っていること。また、かつての組手の好敵手だった、松井章圭、極真会館館長が私の考えに理解と協力を約束してくれていることである。勿論、約束と言っても、契約書を交わしたわけではない。また、彼の下の門下生の反対があれば、それは実現しないかもしれない。それでも、私には松井氏の言葉がとても嬉しい。できれば、このような気持ちで最期を迎えたい。

 

【私が実践し伝えてきた空手の修練】

 これまで、私が実践し伝えてきた空手の修練は、応じ(技)の修練、つまり相対での型稽古と、組手修練である。ただし、その組手修練には、サッカー同様の感覚がある、と想像している。換言すれば、機を捉え、先手をとること。そして、全ての技を連携させる能力を体得することだ。繰り返すが、私のいう応じ技からの一本とは、サッカーのおける、パスワークからのゴールと同じなのだ。

 

 補足を加えれば、相手の攻撃を、時にインターセプトし、間髪を入れずに、スペースを探し、パスを出す。それが、ゴール近くであれば、そのままパスをせずにシュートすれば良い。いうまでもなく、ボールを蹴る力に威力(空手でいう破壊力)があれば、そのようなプレーの可能性が拡がる。ゆえに、身体能力並びに技の精度と威力を鍛え上げることが重要なのである。

 

また、私の新しい組手法では、技と技能とを分け、サッカーでいう、ボールを蹴る力とパスワークにより、ゴールを生み出す技と、その技を運用する感覚を体得する修練とを分けている。つまり、空手技の破壊力をつける修練と技を運用し、一本を生み出す修練とを分けているということだ。詳しくは書籍で説明したい。一言で言えば、攻防一体の組手である。

 

 現行を眺めれば、全てではないが、多くの極真空手、フルコンタクト空手の組手では、相手の攻撃を受けないでただ自分の攻撃技だけを駆使している。また、防御をしたとしても、それは防御のための防御である。それではいけないと、私は40年近くも教えてきたのに、誰も理解できなかった。身体が衰え、気力のみとなって、初めて、私の伝え方、手段に難があったと気付いている。

 

 繰り返すが、サッカーを見て欲しい。フルコンタクトの極真空手の組手競技は、サッカー競技と共通項が多い、と私は思う。ただし、私が考える極真空手であればではあるが…。要するに、サッカーのパスワークの基本は、まずはボールをトラップする、そして間髪を入れずに、スペースを見つけパスを出す。これが、私のいう応じ技である(トラップしないで蹴る場合もあるだろう)。

 

 もちろん、極真空手においても、受け返しを行う者はいる。そのような者は、上等の者だ。しかしそれは、私のいう「応じ(技)」とは異なる。私の応じ(技)とは、絶えず一本を目指すものだ。

 不遜ながら、サッカー選手にも聞いて見たい。「パスをするのが目的ではないでしょ」「ゴールをどのように創造するかの意識が、パスの中に内在していなければならないでしょ」と。

 その意識がなければ、空手で言えば、防御のための受け、そしてサッカーでは、判断能力と想像力の乏しいプレーなのである。

 

【松井章圭氏と増田章の組手には】 

 最後に、私の新しい組手法において、第一義とする、技能とは、職人的な技芸の要素で、芸術の要素とは対極にあると、これまで言われてきた。しかし、競技においては、芸術が生まれるための基盤となるものなのである。     

     また、空手もサッカーも、様々なパーツ、技、そして個性とも言える部分が連携された、総合力が必要な競技だ。そして、対戦相手というパートナーとしのぎを削るかのようにプレーすることで、生み出される芸術作品でもあると、私は考えている。私が経験した、松井章圭氏との組手には、そのような感覚があったと、今、改めて考えている。そして、相手は敵ではなかった。むしろ、自分の能力を引き出し、高めてくれた協力者(パートナー)だと、私は実感している。このことを、さらに詳細に書きしるしておきたい。そして、いつの日か、魂を磨き高めるために極真空手を続ける者に伝われば良い、と考えている。

 

 スポーツも武道も相手を尊重し、かつ互いが自己を高め合い、認め合うものにしなければならない。もし、武道はそうでないというなら、それは正しく高次化した姿ではなく、「変態」である。そして、私はその世界から去りたい。

 

2018-6-24:一部修正

2018-6-25:一部修正

 

 

 

サッカーと極真空手  その2 昨日の補足

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サッカーと極真空手  その2 昨日の補足

 

 【日本対セネガル戦】

日本対セネガル戦を見た。

「素晴らしい」

こんなサッカーができるとは思っていなかった。セネガル戦のようなサッカーができるなら、日本のサッカーもワールドクラスだ。

 

   にわかサッカーファンの私でも、日本チームの素晴らしさは理解できた。

 

  【“応じ(技)”の駆使がパスワーク】

 昨日、書いたように、私の空手理論でいう“応じ(技)”の駆使がパスワークに近い(たとえなので、完全に一致するわけ出はないが…)。また、サッカーのパスワークは、明確なゴールへのイメージ、そこへの連携が内在(意識)されていなければならない、と思う。そうではないパスは、空手でいえば、防御のための防御、また攻撃のための攻撃である。換言すれば、私が考える「応じ」とは、絶えず、ゴールをイメージしていなければならないのだ。ほとんどの空手家、そして、これまでの日本サッカーには、その意識がないのでは、と私は疑っていた。しかし、昨晩の日本チームのプレーには、正確で巧みな防御からの反撃、そしてパスワークがあった。何より、そのパスワークには、明確なゴールへのイメージがあった。その形は、武道の応じ(技)そのものだった。

 

【速い「寄せ」の感覚】

 昨晩、ゴールエリア内での針の穴を通すような集中力(と技)が大事だと書いた。それを見事に実践した。今一歩のシュートもあったが、そのシュートの多くは、攻撃のための攻撃、出鱈目な攻撃ではなかった。将棋でいう、相手を詰ませるための、速い「寄せ」の感覚が見えた。「寄せ」とは、将棋でいう、相手を詰ませるための準備、攻めと言っても良い。私は、将棋好きの友人から、そう聞いたことがある。

 

 私の空手理論も、応じは一本(ゴール)をイメージすること。さらにチャンス(機)あり、と見たら、速い「寄せ(準備の攻め)」が必須だ、と教える。

 

 その感覚が現行の極真空手にはない、と嘆いているのだ。判定勝利があるものなど、武道ではない。あるとしたら、それは悪しき権威主義的な武道である。ほとんどの武道の本当の姿は権威主義のお化けが、言葉の着物をまとっているようだ。そして、それを良しとする愛好者がいる。武道の本質がそうであってはならない。また、そんなものは本当の武術、武道の修練ではないと言っても良い、と私は考えている。

 

 

    さて、昨晩の日本チームの最もよかったことは、引き分けを意識していなかったことである。私は西野監督と選手に聞いて見たい。

 

 引き分けを意識しないで、勝ちに言った。勝ちに行く、と言ってもベテラン選手は勝つことの厳しさを理解しているので、闇雲に攻めるのではなく、攻守のバランスの重要性を知っていたと思う。ほとんど武道的である。

 

 繰り返すが、昨晩の日本チームには、サッカー素人の私が見ても、私の考える武道的な状況判断、そして応じ、さらに「寄せ」の素晴らしさがあった。将棋で言えば、想像力溢れる、寄せの連続、そして見事な詰み手を見せてくれたと思う。

 

【日本チームは美しかった】

 さらに言えば、日本チームはとてもフェアだった。換言すれば、日本チームは美しかった。柴崎、長谷部、長友は、私の好きな選手たちだ。もちろん、大迫、酒井、香川、昌子、岡崎、乾、本田、大迫、吉田、原口、川島、みんな素晴らしい。多くの人、特に相手国(セネガル)のサポーター達もそう感じたに違いない。本当に日本を誇らしく思った。昨晩の戦いは、将来を夢見る、若きサッカー選手に夢を与えたと思う。しかし、くれぐれも油断しないでほしい。まず、ファールをしないこと。全員が攻撃のみならず、防御のイメージを共有すること。とにかく、イメージ力、そして予測力が大事である。そして自分たちのサッカーに対する想像力を信じてほしい。

 

【最後に】

 最後に、ゴールエリア内での針の穴を通すような集中力と精度を、今後も維持して欲しい。もう一つ、サッカーは格闘技ではなく、ボールゲームだが、命懸けでプレーしてほしい。なぜなら、サッカーのゴールは極真空手で言えば、一本、技ありのようなものだからだ。ゆえにプレーには、どんな相手にも、またどんな状況でも気後れしない、闘争心が重要なのだ。

 ただし、感情的になりすぎてはいけない。そんなものはカラ元気、偽物の闘争心だ。そのような者のプレー(行動)は、試合巧者や実力者には、見透かされ、すぐに逆を取られるに違いない。つまり相手が見えなくなる。本物の闘争心は冷静かつ熱い。言い換えれば、最期まで希望と情熱に満ちているものなのだ。これは自分にも言い聞かせたい。

 また、感情的になり過ぎれば、想像力が発揮できなくなるだろう。サッカー日本代表の命懸けの仕事を、多くの人が見守っている。それを喜びとしてほしい。そして楽しんでほしい。極真空手に人生をかけた、増田 章がいうことだ。偉そうだが勘弁してほしい。

 私は、サッカー日本代表の戦いを、単なるスポーツではなく、武道の考究の一環として、私は見ている。そして、サッカー日本代表の次を期待したい。

 

【蛇足だが…サッカーアカデミーを作るぞ】

 蛇足だが、家族と日本サッカーの話をしていたら、中田選手の話が出た。彼は今、サッカーをしていないという。そしてカフェを作ったと言う。知的で才能溢れる中田選手のことだから、考えあってのことだと思う。悪いことではない。しかし、なぜ…。家族は、「日本サッカーに絶望したのでは?」と言う。もしそうなら、気持ちはわかる気がしないでもないが…。私も空手界に絶望しかかっているから。

 

 その時の私は、家族に対し、すかさず応じた。「バカモン」「俺なら、お金があれば、サッカーチーム、そしてサッカーアカデミーを作るぞ」。そして「日本の組織やサッカー選手の考えに惑わされず、増田の武道理論を選手にふきこむ」「まずはフィジカルだ」次に「応じ(技)からの極め(ゴール)の感覚を徹底的に仕込む」と、いつものように、まくし立てた。

 

 夢の中でも良いから、そんな仕事をしてみたい、と思っている。

 

 

 追記

昨日のブログは、極真空手をサッカーに例えた部分に書き間違いがあったので、加筆修正しました。道場生、極真空手に興味ある人は再読して見てください。

2018-6-27:加筆

 

サッカー日本代表の次を期待している

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 明日は、サッカー日本代表がワールドカップの決勝リーグに参加できるかどうかの試合である。深夜の放送だが、高視聴率になるだろう。私は、次の日、大事な用事があるのでリアルタイムでは見ることができないだろう。しかし、多くの国民と同じで、日本代表の勝利を祈っている。しかしながら、こんな風に期待すると負けるのが、いつもの落ちである。ゆえに、祈りを込めて、先日書いたブログに修正を加えた。以下が修正部分である。

 

 

【最後に】

 最後に、ゴールエリア内での針の穴を通すような集中力と精度を、今後も維持して欲しい。もう一つ、サッカーは格闘技ではなく、ボールゲームだが、命懸けでプレーしてほしい。なぜなら、サッカーのゴールは極真空手で言えば、一本、技ありのようなものだからだ。ゆえにプレーには、どんな相手にも、またどんな状況でも気後れしない、闘争心が重要なのだ。

 

 ただし、感情的になりすぎてはいけない。そんなものはカラ元気、偽物の闘争心だ。そのような者のプレー(行動)は、試合巧者や実力者には、見透かされ、すぐに逆を取られるに違いない。つまり相手が見えなくなる。本物の闘争心は冷静かつ熱い。言い換えれば、最期まで希望と情熱に満ちているものなのだ。これは自分にも言い聞かせたい。

 また、感情的になり過ぎれば、想像力が発揮できなくなるだろう。サッカー日本代表の命懸けの仕事を、多くの人が見守っている。それを喜びとしてほしい。そして楽しんでほしい。極真空手に人生をかけた、増田 章がいうことだ。偉そうだが勘弁してほしい。

 私は、サッカー日本代表の戦いを、単なるスポーツではなく、武道の考究の一環として、私は見ている。そして、サッカー日本代表の次を期待したい。

 

 

 

サッカー競技に例えて見ると

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以下の文章は、私が執筆中の技能論(仮題)の中の一節である。部分的に読むと意味がわからないかもしれない。

私は独自の技術と技能という概念用語を用い、武道の本質に挑戦しているつもりだ。私は、執筆中の原稿をなんとしてでも世に出したいと考えている。そして空手のみならず、武道の認識を根本から変えたいと考えている。

 

 

【サッカー競技に例えて見ると】

 ここで唐突と思われるかもしれないが、技術と技能についてサッカー競技に例えて見る。技術と技能の関係は、他のスポーツ競技に例えると分かりやすい。

 

 例えば、サッカー競技において精度の高いシュートやパスを駆使には5W1Hではないが「どのようなタイミング(機会/いつ)」「どのスペースに」「どの選手に」「どんなパスを」「なぜそのパスを出すか」、そして「どのようにパスを出すか」が明確になっていなければならないと思う。その意味は、その情況・局面における最適解(最善手)が、チーム、そしてチームと一体化した個(プレーヤー)のシステムのなかで認知されていることが、チーム全体のシステム(組織)のおける最適解(最善手)を導く条件となるのである。繰り返すようだが、そのような認知と判断の結果としてのパスワークやシュートなどの結果として優れたゴールを生み出すのである。また、サッカーにおいては、個(プレーヤー)の集まりとしての集団(チーム)に「認知と判断と行為のシステム」を有することが、強いチームに必要な基盤だと思う。同時に個(プレーヤー)においても、チーム全体の目的とチームの基盤としてのシステムを認識し、多様な情況・局面において最適解(最善手)を選び出すような「認知と判断と行為」の能力の高さが必要だと思う。言い換えれば、集団(チーム)のシステムと個(プレーヤー)のシステムが協働することが、チーム競技の理想形だ、と私は思うのである。

 

 ゆえに、能力の高いチームを創るためには、能力の高い個を創ることが先立つと考えている。なぜなら、そのような能力の高い個が結集することが集団(集団)の能力を高めると私は考えているからだ。ただし、私が考える能力が高い個とは、「優れた技術」を有するのみならず、本論でいう高い技能を有する者である。私は、高い技能を有する「個」が集団の目的と理念を了解し、かつ集団自体にも私のいう高い技能、すなわち「たえず変化する相手との相互依存的な情況、戦いの流れの中で「優れた技」や戦術をより善く運用する能力」が備わっていれば、より強い集団が形成されると思っている。しかし、私のいう技能の役割を理解できないならば、強い集団はおろか、強い個の育成も困難かもしれない。繰り返すが、サッカー競技では、絶えず情況が変化する。ゆえにパスを始め全ての行為には次を予測し、かつ次の局面を生み出すような想像力が包含されていなければならない。しかしながら、多面的かつ時間的な予測と情況判断を瞬時に行い、それに最適な行為が重要だと認識するからこそ、それが可能となる。

 

 そのことを理解するためのケース・スタディを見た。サッカーのロシアW杯の日本対ベルギー戦である。実は本論の執筆中、ロシアW杯が開催されていた。ロシアW杯における日本代表の戦いは眼を見張った。私も執筆の合間に日本代表を応援した。日本代表はベスト8には入らなかったが、優勝するぐらいの実力を有すると観られたベルギーチームと素晴らしい戦いをした。同時に非常に惜しいゲーム(試し合い)だったと思う。武道家でサッカーの門外漢である私の見立てを許していただけば、最後の逆転ゴール(ベルギー)は、単純に見れば、攻撃を意識するあまりに頭部のガード(防御)を忘れ、後ろ回し蹴りの一撃を喰らい、倒されたという感じである。つまり、私の空手道では、攻撃が終われば、すぐにニュートラル(自然体)に戻れと教える。つまり、攻撃をしたなら、瞬時に防御と攻撃のどちらにも切り替えられるように態勢を戻すことが基本なのである。おそらく、そんなことはサッカー選手にもわかっているというかもしれない。ならば、先述した「安定を求める心の中に不安定の因があり、不安定を了解し、それに乗り続ける中に安定の因がある」という面ではどうだろう。

 

 おそらく、日本代表は攻撃の心を維持し、あと1点取ることを目指すことを目指したのであろう。しかし、その判断が不安定の中の安定につながったのであろうか。もし、攻撃の心が安定につながるのであればそれで良い。しかし防御の心が安定に繋がることもある。反対にそれらの心が不安定に繋がることもあるのである。つまり、何らかの心がある種の囚われ、すなわち不安定を生み出したのではないだろうか。私はその時の選手の心情を聞いて見たい。その上で、分析しなければならないと思っている。もちろん、単純な技術と体力の問題かもしれない。しかし私は、どんな時も、情況・局面は変化するとの認識を持ち続けること、そしてそれに対応する技術と技能の養成に努めることが武道でもスポーツでも重要だと感じている。

 

 さらに言えば、私はサッカーをテレビで見る程度だが、サッカー解説を聞いていると、昨今はサッカーにも科学の力が応用されているようだ。例えば、試合におけるパスの数や成功数やシュート数などのデータを集め分析し、チームの戦い方の傾向や対策を講じるようになってきているようだ。その解析方法に関しては知らないが、そのような科学を用いた、オペレーションリサーチを駆使した、戦略および戦術の研究が急速に進むに違いない。それが未来の高度なサッカーだと私は考えている。そのように述べると、世の中のスポーツファンやオールドファンは「サッカーは数学ではない」などと怒り出すかもしれない。気持ちはわかるし、理論などと、気取って書いている私も数学に関しては無知だ。しかし、数々の自分よりも技術が上で、体力も優れる者と多くの好敵手と戦い、それに負けないように戦術と戦略の観点で戦いを考えてきた者からすれば、技術体力のみならず、オペレーションズ・リサーチの理論が示すような観点が必要だと思っている。そして技能が必要なのだと考えている。

 

 そのような認識があれば、技術のみならず、個の経験と心身を基盤に、スポーツ競技を通じ、高度な認知と判断する能力、すなわち「心・身」が養成され、優れた「心・身」を有する個(人間)の育成に役立つ。さらに、優れた個の育成が社会に有益となると思うのである。稚拙な例えだが理解していただけただろうか。

 

 私は、サッカー同様のことが空手をはじめとする武道に必要だと考えている。なぜなら、武道の目的は人間教育だからである。私は、多くの武道家が武道、武術は命懸けとの理念が必要だと説きながら、実はそこまでの行為ではないということを認識せずに、あたかも神秘主義による思考停止に陥ったごとくに見える。むしろ私は、武道に限らず、スポーツ競技も認識を正しく持ち、スポーツ競技も人間教育だとの理念を念頭に置くならば、命を賭す行為に勝るとも劣らない修練手段となると考えている。なぜなら、スポーツ競技や武道の試し合いのみならず、人生も「たえず変化する相手との相互依存的な情況、戦いの流れの中で「優れた技」(技術)を獲得するために努力し、それを用いる手段(戦術)をより善く運用すること」の結果だと思うからである。ゆえに人生にも「技能」が重要なのだ。

 

 

 

 

開拓者とは〜デジタル空手武道通信 第20号 編集後記より

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デジタル空手武道通信、編集後記より

 

【開拓者】

 

 今年の2月ぐらいから5月までは、TSスタイルの競技規定作りに集中していた。次に5月から現在に至るまで、TSスタイルの必要性について論文を執筆してきた。その間3回ほど腰を痛め、歩けなくなった。原因は長時間のデスクワークだ。いつものように、家内は「そんなことをしている場合ではないでしょ」といつものように冷ややかである。 しかし、私にとっては絶対に必要なことなのだ。なぜなら、極真空手に対する認識を変えなければ、私の空手道は誰にも伝わらないと思うからだ。つまり、私の空手と他との異なる部分を誰も理解せずに終わる。それこそが、死に値する。

 

 私は自分のために、そして私を支えてくれている、現道場生の本当の自尊心の形成のためにも認識を変えなければならないと思っている。今は理解できないかもしれない。しかし、必ず理解できるときがくる。全ての問題は認識の瑕疵によるものだ。ゆえに絶えず認識の瑕疵を改めなければならない。新しい認識を切り開く者、その者は開拓者だ。言い換えれば、「開拓者とは、未開の領域を普遍化し、その領域を未来の希望へとつなぐ者」である。

 

 ある日の少年部稽古の時、黒帯の生徒と黄帯の生徒の組手をさせた。黒帯の生徒には「絶対に相手にダメージを与えてはならない」「与えたらレッドカードだよ」と言った。私が、全ての道場生に口を酸っぱくしていうことである。 一方の黄帯の生徒の方は、空手が上手な方ではない。しかし、最近上達してきた。組手が始まると、黄帯の攻撃が一発も当たらない。黄帯の生徒は果敢に攻撃をしているが、黒帯の生徒は全てを防御する。そして黒帯の生徒の攻撃が黄帯の生徒に全て入ってしまう。私は黒帯の生徒に「もう少しスピードを落として」と指示した。黒帯はスピードを落としたが、それでも同じであった。 黄帯の生徒の顔が泣きそうになった。それは身体のダメージが原因ではない。心のダメージであろう。

 

 私は黄帯の生徒に対し「攻撃は良くなったね」。「でも応じ技を覚えないといけないね」と、すかさずフォローアップしたが、もう少し指導方法を考えなければと考えている。同時の少年部で起きたことが一般の黒帯と色帯の間でも起きなければならない思っている。

 

 要するに、初級者の攻撃は黒帯に全て見切られ、逆に黒帯の攻撃は初級者に見切ることができない。本来は、有段者にそのような技術と技能が備わっていてこそ、黒帯の価値があるのだ。私の考案したTSスタイルの組手法の確立は、そのようなゴールを鮮明にイメージしている。その上で、初級者にはやる気が無くならならないように、組手が楽しくなるように、と考えている。

 

 本当のスタートは、TSスタイルの組手法の練習体系の明文化ができてから始まるだろう。それには3つの役割を確立することだ。それは、1に競技規定の役割、2に理論の役割、3に修練方法(修練体系)の役割の確立である。これから休む間も無く、作業が続く。先述した、3つの役割の確立が空手道を変える方法である。空手道が変われば、道場生を変えることになる。そして、一人ひとりの道場生が変われば社会が変わる。それは、ささやかな人間教育でもある。しかしそれで良いのだ。何より、私の空手道が自分自身の教育となっているのだから…。

 

だが、あえて繰り返したい。私の武道理論の中心は、空手武道を通じ人間形成に必要な骨格を作り上げることである。それが私の提唱する武道人の育成の方向性だ。そして、そのような「武道」を創建することが私の人生をかけた悲願なのだ。その上で、様々な学びを取り込んでいく。つまり、私の考える「道」とは、骨格を作り上げる手段、法則と言っても良いのである。そうでなければならないと、武道家の立場で言いたい。もちろん、異なる立場もあっても良いだろう。ただ、学問、道徳、すべては人間の骨格に対する肉付けの部分だ。一方、道とは学問を活かし、道徳を生み出す主体と一体とならなければならないと思う。そのような意味でも空手武道の認識、理論を変えること。それが私の夢である。もう少し、待って欲しい。

 

 いま執筆中の論文は書籍化を目指している。書籍化というと商業出版であるから、”マーケットイン”的な内容にしなければならないようだ。本来は論文としたかった。しかし、論文なら理論を検証するためのデータを上げ、それを分析するような部分がなければならないことはわかっている。しかしながら、私の構想していることは、その部分さえ完備すれば、社会学やスポーツ科学の論文にもなると思っている。もちろん、私にはそのような研究資金がないので、その方向性では執筆していない。そこが中途半端だと言われるかもしれない。改めて、幼少の頃の精神的な病癖を悔いている。また、過ちをいつまでも後悔するところが私の病気の症状でもある。ゆえに私は自分に言い聞かせている。過ちを悔いるエネルギーがあるのなら、あらん限りの力を尽くせと…。

 

 

 

 

精神のルールを変える

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【精神のルールを変える】

 

 8月16日に私の故郷、金沢に用事があり、帰省した。過労気味だったが、その前後に用事があったので車で帰省した(車は融通がきくので)。私は帰省すると、いつも真っ先に墓参りに行く。私を可愛がってくれた祖父母、57歳で他界した母、長男が墓に入っているからである。

 

 その時、天気が悪かったが、雨はまだ降っていなかった。だが私が墓に着いた途端に雨が降り出し、あっという間に雨脚が強くなった。私にはそのあと、人と会う予定があったので、ずぶ濡れになるわけにはいかない。困ったと思ったが、なぜか雨で濡れなかった。実は墓に植えてあった樹の枝葉が生い茂り、傘替わりになったのだ。私は、これは母が護ってくれているのだと思い、しばらく墓前で手を合わせていた。20分ほど、墓にいただろうか、小降りになったのを見て、花を包んでいた新聞紙を頭に被り、急ぎ下山した(墓は山の中腹にある)。母が植えた樹のお陰で、私はほとんど濡れずにすんだ。

 

「私は今も護られている」。改めて今までの人生における感謝を実感した。と同時に「私の人生ももう終わりに近づいている」「一番大切なものは何かを問え」との声が聞こえたような気がした。

 

【私の一番大切なものは何か?】

 私の一番大切なものは何か?それは精神(想いの源)を考え、それを変革することである。そして、自らの心身が生成した精神を未来永劫の宇宙に残すために生きている。観念論的だと思われる人もいるかもしれないが、唯物論に近いだろう。ただ、どちらでもないかもしれない。また私は、自分が人生で感じた「想い」は、古今東西の人間の想い(思い)と繋がっていて、その想いは人間が作り上げたルールにより、化学反応のような現象を起こすことがあると考えている。さらに、人と人との想いと想いがどのように結びつけば、より良い化学反応を起こすか、また最悪の化学反応を起こすかを、人類が研究すべきだと思っている。それは、自己が他者と想い(思い)を交流させる時、その根底にある「精神のルール」を見直し続ける営みだ。

 

一方、現代においては、精神のルールではなく、肉体のコードを変えようと、挑戦している人がいるかもしれない。もし人類の多くの人が望むことならば、それは重要なことなのだろう。だが私は、それが本当に正しいことかどうかは疑っている。

 

【精神のルールを変えること】

 繰り返すようだが、私にとって一番大切なことは「精神のルールを変えること」である。なぜなら、それが想いの源を生かし、より良い自己を生み出すための方法だと思っているからだ。また、精神のルールを変えることは、人生を楽しむための方法を編み出すことにもつながる。ただ「お前の人生は楽しいのか」と聞かれたら、「?」となる。それは私が、ゴールがなければ虚しいというルールに縛られているからだと直感している。

 

 実は、人生をより楽しむ秘訣は、大きなゴールではなく、小さなゴールを喜ぶことのように思う。しかしながら、まだ私は、そのことを理解できない。そして、いつも大きなゴールを夢見ている。なぜなら、いつも「お前ならその大きなゴールを実現できる」という声が聞こえるのだ。もしかすれば、そのことを一種の病気かもしれないとも思っている。本当は辞めたい。ゆえに期限を決めている。そして、それまでは自分の肉体と精神が維持されるよう祈っている。同時に周りの人には、こんな生き方はダメだと言いたい。また、精神のルールを変えると言いながら、強い拘りを有し、自分自身の精神のルールを変えられないとは、笑止千万な話だと思っている。また、人間にはどうしようもない流れ、力があるように思うと言っておきながら、それに抗っている自分が愚かにも思える。しかし、もう少しだけ大きなゴールに拘りたい。

 

【その病気を直すための手段として】

 大仰なことを言えば、人類も資本主義だとか民主主義だとか言っていても、ある種、精神の病気を根治することができずにいるかのように見える。私は、その病気を直すための手段として、精神のルールについて、もっと考えた方が良いと思う。それが21世紀の宗教の役割である。否、私は哲学時代の到来だと思っている。私は、こんなことを考えて生きているので、誰からも相手にされなくなってきている。

 

 そのような想いを落ち着かせ、納得させるために、より高いレベルの空手道の修練体系の完成を目指している。もちろん、わたしの作ったものは未熟なものだろう。だが、これまでの私は、未熟ながらも少しづつ進歩、成長してきた。今後も同様である。少しづつ進歩、成長していく。もし、進歩、成長の時間が足りなかったら、後を継ぐ者が、私の死後に改善を加えれば良い。その者が私の目指したゴールの実現を目指すというのならば…。だが、私自身が進歩、成長し、ゴールを目指すにしろ、私の仕事をだれかに託すにせよ、組織の土台がまだ脆弱すぎる。また核ができていない。それは、極真会館の空手道も同じである。必要なのは、斯界のリーダー達に精神のルールを変え続けるという自覚、意志が備わることだ。

 

【自己変革】

 断っておきたいが、精神のルールを変えるとは、換言すれば「自己変革」のことである。しかし、自己変革とはとても大変な作業だ。本当の自己変革は自己のアイデンティティーを疑い、時にその認識を変更しなければならない。そのことを詳しく述べると、言葉が多く必要になる。そうすれば、より迷路に入る可能性があるので機会を待ちたい。

 

 自己変革について、私がいつも思うことがある。それは極真会館の分裂後、時々耳にする、大山倍達の残した極真空手を変えずに残すのが本当だという言に対する疑義だ。それは極真空手、極真会館のアイデンティティーの確立ではなく、各々の保身という次元に過ぎない。さもなければ、それは低いレベルにおけるベストだと認識できずにいるのだろう。あるいは、さらなる高みを目指していないか、慢心しているかである。どれであっても、私には恥ずかしくてたまらない。

  

   私は大山倍達先生が亡くなる直前、先生に館長室に呼ばれ「支部長になれ」と言われたことがある。その時、大山先生は「若い支部長と力を合わせ、極真会館を変革して言ってくれ」と仰った。また、「古い支部長たちは守りに入っている」「これからの極真会館を変革しなければならない」とも仰っていた。私は、大山先生に100年の寿命があれば、必ず現在の極真会館とは異なる状態に変革していたと思っている。否、人間に300年年の寿命があれば、必ず自己変革が必要だと思っている。否、自己変革の連続が本当であろう。事実、大山先生の生き方は、自己変革の連続であった。だが、志半ばで命が尽きただけである。私はたゆまぬ自己変革の実践こそが、伝統を護るというより、伝統を創出し、かつ生き残ることだと確信している。しかし、人の寿命は短い。ゆえに私の考えが正しいとは証明できない。ならば、「極真会館を高めるために大山先生がやらなければならなかったこととは何か」と考える。そうすると、「いかにして極真会館を社会において価値のあるものとするか」という答えが出てくる。私はそのことをいつも核にして生きてきた。館長室で大山先生に「支部長になり、極真会館を改革して行ってくれ」と言われた時、「私の夢は極真空手を世界最高の空手にすることです」と宣言した。

 

 その時の私は、すぐに大山先生が亡くなるとは思わず、私が極真会館のリーダーとしての所信表明、活動宣言のつもりだった。また次の世界大会で必ず世界一になると心に秘めていた。あまりにも大仰な私の物言いに、大山先生も若干、訝しげな感じだったが、「うん」と大きく頷いていた。

 

 大山先生の死後、極真空手の愛好者は増えた。だが、その質は高まっただろうか。また、社会的な地位は向上しただろうか。私が考える極真空手と極真会館のアイデンティティーとは、表は人間教育の手段であり、人間教育団体。裏は、武術の研究とその普及団体である。そしてその表裏が一体となって機能し、初めて武道団体となる。そのような団体の形成の社会的意義については、時間の関係で端折りたい。

 

 おそらく、私の意見は極真会館の仲間たちには疎んじられるだろう。だが私はこんな極真空手のままでは我慢ならない。私はこの程度の空手を修業してきたつもりはない。人の何倍もの時間を空手の研究に費やしてきた。とはいうものの、自己変革のみならず、組織の変革には、ものすごい力がいる。ゆえに、大きな変革は、なんらかの外的な環境変化、または技術革新によりなされることが多い。つまり、一人の人間の力では不可能と思われる。

 

 だが、先述したように一人の深い想いが、古今東西の深い想いの源につながっていると信じ、自己の研究を深めたい。だがその想いの源に辿り着ける者はほとんどいないだろう。そして、その僅かな志士たちが拓く道筋が、変革の始まりだと思っている。おそらく変革には、資金と時間と労力が必要だろう。また大きな犠牲を必要とするに違いない。それでも私は、そのような志士になりたい。否、私がやるしかないと思っている。

 

 

 

 

F氏との意見交換〜武道とスポーツの違いとは?

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 F氏との意見交換〜武道とスポーツの違いとは?

 

 貴殿の武道競技とスポーツ競技の違いに関する意見について、私も考えてみました。これは私の思索のメモであり、再考を要するものですが、貴殿のみならず、道場性とも共有したいと思います。

 

武道とスポーツの違いとは

 さて、貴殿の考えは、武道とスポーツ競技の違いとは、その技術に内包される「実用性」からくるのではとのこと。確かに武道には相手を殺傷する技術が内包され、その獲得を意識している面があるとは思います。一方、スポーツは、勝利というゴールが目的とされていると思います。そして、その勝利とは、必ず実用性とは合致しないかもしれません。では、武道と武道競技は、本当に相手を殺傷する技術の獲得をゴールとしているものなのでしょうか。また、本当に実用的な技術なのでしょうか。私はいま、どのような技術であれ、その精度と有事に際する実効性(実用性とは異なる)を追求すれば、やはりたどり着くのは、技術のみならず、それを運用する技能と心術の領域に至るという観点を持っています。また、技術面での実用性は、絶えず技術革新があり、本当に有用かどうかはわかりません。一方、スポーツ格闘技において創出された技術にも、人を殺傷する際、実用性の高いものがあると思うのです。しかし、その技術とは組み合わせを有するものなので、一見しただけでは判断できないかもしれません。そもそも私は、人を殺傷する次元を、通常の次元で考えていません。それはここで書くことは控えますが、ぼかしていえば、「人間からはみ出る」ということです。私は、そんな次元を考えるより、より普遍的な有用性という視点を持ちたいと思います。それが「技能」と「心術」です。

 私は、技術の運用力である「技能」と「心術」は、武道にもスポーツにも共通の部分だと思います。そう考えると、武道とスポーツの違いは、その「目的意識」と「心構え」の違いだと思います。

 

 その目的意識、ゴールとは、武道が負けない自己を確立すること。ゆえに自分の弱さに向き合い、それを克服していくことが第一義であるのに対し、スポーツは勝利する(勝つ)自己を確立すること。ゆえに自分の強いところ、良いところを見つけ、それを伸ばしていくことにあるということです。

 

 もちろん、武道においても自分の強い面を生かし、それを伸ばしていくことが全くないというわけではありません。一方、スポーツにおいても、自分の弱点を克服することが全くないというわけではありません。

 

 しかしながら、武道における自分の弱さと向き合うということ、また、それを克服するということとは何か。それは、生死を分ける有事に際しては、偶然性も含めて制するような「心構え」が必要となります。その意味は、耳なし芳一の伝説にも現れているように、わずかな隙もなくすことが、生死を分ける有事には必要だということです。ゆえに武道哲学は、畢竟、生死を超越する覚悟を体得すること。また、平時に際し、わずかな兆候もゆるがせにしないという「心構え」を忘れないということに帰着するのです。

 

 一方、スポーツのそれは、有事に際し、自分の可能性を信じ続けること。また、平時に際しても、自分の可能性を信じ続けることなのです。その思想は、絶えず新たな社会規範(ルール)を求める価値観に現れていると思うのです。

 

 現代においては、私が思索するような観点はなくなり、武道修練もスポーツと同じように、自己の可能性を模索する思想に向かっているように思います。その証拠は、そもそも武道とは全時代では、武芸と言われ、士族の出世のための手段、また自己の心身向上の教育手段であったということから伺えます。

 

 また本来、武道が生死を分ける際の技術と心身を養成するものであるのなら、それは門外不出、門弟も増やすことは困難でしょう。なぜなら、その究極の技術と心身は殺人術のものだからです。しかしながら、この件に関して述べるには、歴史資料を調べ、考証しなければならないでしょう。私は、そのようなことに興味はありますが、現代において武道を確立し、生かすためには些細なことだと思っています。私も、武道に内包される原点を個人的には追求しています。しかしながら、それは人には見せるものではありませんし、言葉で教えても無駄でしょう。それは自覚だからです。それよりも、グローバルな世界観を有する現代において、いかに人類の普遍性と独自性を融合、和解させ、真の自覚に至った武道人をより多く養成する思想とシステムを作るかが私にとっての目標です。

 

 私の足下の空手道場でもそうです。なぜなら、本当の武道のエッセンスを伝えようとしても、すぐには受け入れてもらえないでしょう。また、斯界の指導者たちも全ての競技武道が、スポーツ同様の価値観に飲み込まれていることに気づいていないからだ思います。ただ、そのことは決して悪いことではありません。むしろ、競技を避け、神秘主義に陥るかのような武道のあり方は、多様な人間の理解を妨げるものです。はっきり申し上げて、そのような神秘主義の傾向がある人たちは、自分の殻にこもり、共感を妨げる人たちだと直観するからです。一方、現代スポーツのように、自分の可能性を信じ続け、勝利を目指せと言っても、結果が伴わなければ、そこに意味を見出せなくなっていくのは目に見えています。

 

「今死んでも悔い無し」という境地 

 ゆえに、私が考える武道の第一の意義は、絶えず自分の弱点と向き合い、それを補い続けることです。それが生き続けることであり、かつ死んで生きることでもあるのです。それはどこまで言っても尽きることはありません。例えば、武術の目的が生き延びることだというのとは、若干異なります。その意味は、生き延びるために自己を否定する(ダメ出しをする、かつ殺す)。つまり、そのような人間が生き延びる者なのです。例えば、自己の保身、そして生き延びることばかりを考えている人間が、武の究極を知るものでしょうか?私は非と言いたいと思います。

 

私の考える武道

 私は、生きるために、自己を変革し続ける者、すなわち自己の弱点を修正し続ける者こそが、武を知る者だと直観しています。それような人間を作る手段が私の考える武道です。そして、そのような努力こそが、自分を信じ、そのアイデンティティを確立することにも繋がります。さらにいえば、その努力が必要ないときが、もしあるとすれば、「今死んでも悔い無し」という境地に至った時でしょう。また、その境地で生き続けることになります。ただし、そんな生き方、価値観を受け入れるには、かなり辛いものがあると思うに違いありません。

 

 しかし、そのような価値観をしっかりと伝えることが、武道の価値を高めると、私は考えています。ただし、私は門下生にそれを伝えられていません。それは私に権威がないからかもしれません。また、世の中の価値観に受け入れにくいプレゼンをしているからかもしれません。

 

 両方の価値観を併立させていく

 まとめますと、私はスポーツ的な価値観も受け入れながら、武道的な価値観を生かす。すなわち、両方の価値観を併立させていくことは可能だと思います。平たく言えば、スポーツ的観点からは、自分の可能性を伸ばしていく。一方、武道的な観点からは、自分の弱点を等閑にしない。絶えずそれを克服する努力を続ける。

 

 私は、その両方がバランスを取り並立したならば、スポーツにおいても武道的な観点が取り入れられ、また、一方の武道もややもすると、現実から離れ、神秘的かつ形式的になりがちなところをスポーツが補ってくれると思うのです。

 まだ、抽象的で伝わらないかもしれません。より具体的にいえば、私の道場では、修練において「ダメ出し」をします。それは人格否定ではなく、各々が自分の弱点を自覚し、克服するためです。昨今は「褒めることが大切」という傾向になっています。それには、自分の可能性を信じるということを第一にする価値観があると思います。それは人間の成長に必要です。しかし、その両方が必要なのです。私は、自分にダメ出しをするということが必要だと思っています。しかし、そこに客観妥当性がなければならない。それにはスポーツのシステムを取り入れることが良いのです。これまでの武道団体のシステムでは、独善的になるきらいがあります。

 

誰にも負けないという覚悟

 さらにいえば、私は自分の弱点と向き合うこと。しかし、そのことが他者に比べ自分が劣るという結論ではなく、自分の弱点の克服を心がけるならば、誰にも負けないという覚悟が出来ると思っています。そして弱点が良点に転換されるということです。それは、自分の生涯を受け入れられるようになることでもあります。また、それが「今、死んでも悔い無し」という境地に至ることなのです。

 

 おそらく、「自分の可能性を信じ続けること」と「今、死んでも悔い無し」ということが矛盾すると考える人には実践は困難でしょう。私には、その両方が究極的にだと直観します。ここまで書いてきて、やはり私の哲学は理解されないと思ってきました。ゆえに私の哲学は私一人のものとして封印します。それでも、私の哲学に共感する人がいれば、いつか勉強会を一緒しましょう。

 

追伸

F氏へ〜貴殿からのメールを受け、約3週間ほど、空いた時間に思索を行いました。あまり思索の時間が取れませんでした。ただ興味あるテーマなので、考えて見ました。貴殿の意見を聞き、再考したいと思います。それでは、季節の変わり目、風邪など引かないように。また、武蔵は「全てにおいて勝つこと」と伝えました。それを理解する時、「全てにおいて負けないこと」と置き換えたほうが良いと思います。

 

 


ある日の空手家の祈り

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ある日の空手家の祈り

 

 私の仕事は空手を教えることだ。しかし、いつも教え足りないと思ってしまう。なぜなら、誰もが私の認識と同じにはならないからだ。教えなければならない技術が10倍はある。まずは知識だけで良いのだ。それを伝えなければ、どこまで行っても同じものを見ることにはならない。

 

 だが技術や知識を教えることより大切なことがある。

それは私が人生の中で自覚した理念と行動指針である。それは武道のみならず人生に対する考え方、姿勢でもある。

 

 是非、道場生にも道場理念と行動指針を念頭において道場に通って来て欲しい。私は、その理念と行動指針をもとに生きている。

 

 だが私は、空手しかやってこなかった人間だ。一般の人に比べてある面の知識は少ない。道場生の方が立派な社会人だろう。

 

 私は、空手に関してだけだが、誰にも負けないほど肉体を鍛え磨いた。かつ思索もした。ゆえに私の直観は鍛えられたと思っている。学べば学ぶほど、古今東西の賢人たちが有した、ある種共通の感覚が私の心身にも宿っている。

 

 もちろん、空手以外の技術を持たない私は、賢人たちの生き様に遠く及ばない。ゆえに偉そうなことは言えない。でも、これだけは言わせて欲しい。どうか、私の道場の理念と行動指針を心に止めて欲しい。そして空手を各々の人生に生かして欲しい。それが空手に人生の全てというほどの時間を費やした者の祈りである。どうか空手道が人を生かす道となりますように…。

 

 

 

IBMAの理念

 

修練と修道を通じ

無限の可能性をひらき

高い人間性を発揮できる  

心を育む

 

 

解 説

修練とは、自己の心身を活用し、技を創ることです。また修道とは、普遍的な理(道理)を技の創出(修練)や人生に活かすことです。理(道理)を掴み、それを活用することは、人間としての無限の可能性を拡げるはずです。

 

我々は、自己の可能性の開拓を、利己のみならず、利他に繋がるようにします。

それを実践する心が、「良心(良知良能)」であり、それが高い人間性です。

 

 

 

武道–人(Budo-Man)の7つの行動指針

 

1)自分の心を磨くという心構えを持ちます。

解説)多くの自分の行動とその結果は、自分の心の働きとつながっていると考えられます。ゆえに、より良い行動とその結果を望むならば、絶えず、自分の心の状態を整えることが必要です。そして、心の状態を整えるとは、「自分の心を磨く」という「心構え」を持つことです。その本質(意味)は、「良心(良知良能)」を発揮するということです。我々は人間には良心(良知良能)があることを信じます。武道–人とは、自分の心を深く見つめ、良心の自覚とその働きをより高めるのだという「心構え」を持つ者です。

2)人と人、物事と物事、人と物事など、全ての繋がり(つながり)を活かすようにします。

解説)我々の生きる世界はあらゆるものが相互に補い合い、また、互いに依存し合っています。我々は、そのことを理解し、それを活かすことを考えます。

3)自分の事と他者の事、両面を理解するようにします

解説)物事を一つの面からしか見なければ、正しい判断は困難になるでしょう。なぜなら、一つの面からの情報に囚われ判断したことは、多くが臆見だからです。もし、より善い判断をしようと思うならば、物事を多面的に見るようにしてみましよう。更に物事の時間的変化を予測し、眺める視点をもつと良いでしょう。

4)自分のみならず他者の役立つようにします

解説)自分だけが良くなろうとすることは、物事を一つの面からしか見ていない証拠です。ゆえに相手も良くなるように考えることで、より正しい判断と行動ができるようになるでしょう。

5)絶えず考え方を吟味し、最も善いと思われることを選ぶようにします

解説)人生の結果とは、災難、困難と思える状況のみならず、良いと思われる状況も含め、それをどのように考え判断し、それを基に次の行動を選択していくかによって得られるものだと考えます。ゆえに些細な事の判断・選択もゆるがせにせず、絶えず自分の考え方を反省し、より善い判断と選択ができるようにしましょう。

6)目標を持ち続けます

解説)我々は人生において、意識的、無意識的に関わらず、絶えず自分のあるべき姿をイメージしているはずです。我々の考える人間的成長とは、自分のあるべき姿、イメージを目標とし、段階的に意識が変化していくことです。目標を持ち続ける限り、人間は成長し続けます。ゆえに、我々は目標を持ち続けます。

7)自分から(能動的に)行動します

解説)自分の人生が自分の判断と選択の結果だとするならば、自分の行動に責任を持たなければなりません。しかし、責任を持つことを恐れ、自分で判断と選択をしない癖がつけば、他者に振り回される人生を送ることとなるでしょう。ゆえに我々は、自己の声、すなわち良心からの指示に従い、自分から(能動的に)行動します。また、そのための「勇気」を大切にします。

 

 

 

近況報告〜「崩しと隙」と「防御と応じ」(From Akira Masuda) 

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 デジタル空手武道通信第23号で掲載したコラムは私のスマホに保存してあった、手書きメモを修正したものである。再考を要するが掲載したい。

 

 ここ2ヶ月間は、鈴木邦夫から始まり清水幾太郎の著作が気になり読んでいた。テーマは愛国心である。昔に「無思想時代の思想」など、清水先生の著作は何冊か目を通したように思うが、今回はじっくり読んだ。そのことについて書きたいが時間の余裕がない(インプットを優先させたい)。一つだけ書いておけば、愛国心と私が極真会館を思う気持ちとは共通項があるということ。また、真の愛国者は変革を唱える者であるということ。私は、伝統、伝統とお題目のように唱えるものは、自己の保身を第一とする、偽者ではないか、という直感の後押しをしてもっらたように感じた。それゆえ、清水先生の著作は、とても面白かった。誤解を生ずるかもしれないが、清水先生は知識人の中では終わった人のように言われているようだ。しかしながら、私はその全集を図書館で借り、読んだ。もちろん、清水先生の膨大な著作の全ては読んではいない。だか、とても共感を覚える先生だ。今後、もう少し読んでみたい。

 

 また私は、鈴木先生と清水幾太郎先生の著書の他に将棋ソフト、ポナンザの開発者である山本一成氏の著書が気になり、繰り返し繰り返し読んでいた。その本は1年前に上梓された本で、1年前に読んだのだが、ずっと頭に残っていた。再読すると、さらに面白く感じ、完全に理解するまで読み続けたいと思っている。人口知能、機械学習、ディープラーニング、ニューラルネットワーク、知識、知能、知性、エミュレート、シュミレート、評価関数などなど、まだまだ理解しきれていないが、興味が湧く、キーワードが多くある。今後も将棋ソフトの世界に興味はなくならないと思う。なぜなら、私の空手道体系の構築に山本一成氏の知見が参考になると思っているからだ。また、徒労に終わるかもしれないが、ワクワクしている。以下にデジタル空手武道通信第23号のコラムと編集後記を載せておきたい。

 

編集後記  第23号

 23号の発刊が2週間以上も遅れてしまった。申し訳ない。岡山での昇段審査、極真会館の全日本選手権大会への参列、山田雅俊先生が率いる極真会館城西支部40周年記念パーティーへの参列など、対外行事や私の会社の業務等で忙しかった。また、体調が良くなかった。2週間前には、膝の痛みが酷く、動くことが大変だった。毎日、夜に鎮痛のテープを貼っている。また、筋力トレーニングはできるが、歩行はきつい。また長時間の座位は良くないようだ。膝が痛くなる。

 岡山の昇段審査はよかった。IBMA極真会館岡山を率いる、中川師範の日頃の努力、黒帯の修練の跡に敬意を持った。また、松井館長率いる極真会館の全日本選手権大会は、若い選手の成長と試合ルールの進展が見られた。観戦して、とても感銘を受けた。

  松井館長と私は数年前に和解し、長年の対立を解消した。本号でも雑誌対談の模様を伝えているが、極真会館の分裂によってできた溝が、二人の極真空手に対する情熱を溜め込み、それを融和させる湖のように思える。

 

 もう一つ、長年の構想であった、新しい組手ルールの構築に希望を抱いている。今後、TSスタイルのブラッシュアップとフリースタイルの刷新を行いたい。また、私の研究してきた、各種武術のエッセンスを取り込み、大山倍達先生の空手技術の再現を可能とする枠組み、手段としての組手型(組形)の形づくりを急いでいる。組手型の体系化は、私の武道理論と哲学、そして技術を後世に残すものだ。誤解を恐れずに言えば、私が2人いればと思う。

 

 今私は、新たな自己との戦いと時間との戦いに明け暮れている。人は私をバカと見るかもしれない。また、人は私を理解しないかもしれない。それでも私は、この仕事をやり遂げたい。気がかりはある。それは家族への恩返しである。しかし、人生を賭けてでもやりたいことがある自分を幸運だと思っている。それが愚か者の証のような気もするが…。

 

 

【「崩しと隙」と「防御と応じ」 〜2016−6−11の手書きメモより】

 

 相手にダメージを与える。消耗させる。バランスを奪う。それらは全て崩しの目的と効果である。つまり「崩し」は攻撃により、相手を弱体化することである。相手を負かすには、相手の「隙」を衝かなければならない。また。相手を弱体化し、「隙」を作りだし、そこを衝く。

 

「隙」を見極めるには、相手の状態や情況を見極めることを意識することだ。「隙を衝く」とは、戦いの法則である。しかし、本来の戦いの原則とは、天地自然の理法を基に導き出した、行為選択の判断基準である。私は、攻撃の決定の際には原則を優先されなければならないと考えている。その原則を踏まえれば、攻撃の前段階において、防御を優先させることだ。

 

 ただし、戦いにおいては機先を制することが重要だ。だが、そのことを「先手必勝」のことだと思い込んではいけない。常に「防御」の意識があり、初めて機先を制することができる。また、どのような防御意識を普段に有するかによって攻撃の最善手が異なってくる。もし、「防御」に重きをおかないならば、エネルギーの暴走に振り回されることだろう。つまり、エネルギーの暴走の可能性を知り、大切に使う者は、決して攻撃を常としない。そして、その結果、自己のエネルギーをより多く用いることができる。なぜなら、攻撃は攻撃を生じるのが常だからだ。

 

 真の武人とは、そのような無駄をしない者だ。ゆえに、防御を常にし、隙を作らないことを志す。さらに、相手の攻撃には「瞬息」の「応じ(対応技)」を行うこと。そのことは、相手の二の攻撃を封じる。この「応じの理法」を体得することである。

 

 最後に、競技(試合)では、うわべの「勝ち」を競う。また、見るものはその高いレベルを判断できない。ゆえに「崩し」を優先する。だが、それは道を修めるあり方では無い。武人は、常に彼我の間に生じる隙に気付くこと。その上で自己の隙を衝かれないようにする必要がある(メモゆえ再考を要す)。

 

 

 

ふるさとにて〜父と妹に 

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ふるさとにて〜父と妹に 2018-11-3

 

 【父に〜  俺は泳ぎが下手だ】

 

 2018年11月3日、前日の深夜に金沢に実家に帰り、午前中、父と喫茶店でお茶を飲む。いつものことだが、往復1000キロ以上の旅程をほぼ、2泊2日でこなした。いつものことだが、無理をし過ぎたかもしれない、全身の痛みと頭痛がする。

 

 喫茶店では、近況を父に報告した。父はいつものように、うるさそうに、私の話を聞いていた。たが、そうして父に自分の近況報告するのは子供の勤めだと思っている。その中、いつものことだが、私は講釈を垂れた。

 

 以前は、帰ってこなくて良いと言う父だったが、最近は「帰れ」と言ってくれる。父も老いたのだろう…(父は半身が動かない)。

 

 また最近の私は、一つだけ私の講釈を聞くか?と聞いてから講釈を垂れる。父が、「聞くよ、話せ」というので、私は話し始めた。父は私の講釈を黙って聞きていた。以下に私の講釈(説法)を記録しておく。

 

 

 幼いころ、お父さんに海で泳ぎを教わったね。でも増田 章は、泳ぎが得意ではない。

 

でも、いくら泳ぎの上手い者でも、海では溺れることがある。多分、波に流されてしまい、力尽きるのであろう。

 

そこまで想像して、俺は気がついたんだ。

 

実は自分を泳がせてくれているのは、自分の周りにある大きな海の存在があってこそなんだ。

 

その海という存在と浮かぶと言う理法があるからこそ、自分が泳ぐことができる。

 

それを忘れ、自分の力で泳ぎ切ろうとすれば、やがて力つき、溺れてしまう。

 

海の力を知り、自分の我を捨てれば浮かぶ。本来は、その「浮かぶ力(理法)」を活かして生きれば良かった。

 

繰り返すけど、いつも俺は溺れ掛けていた。10台の頃、本当に生きるのが辛かった。

 

そんな増田章に、おばあちゃんや母さん、お父さん、家族は小舟だった。

 

俺はその小舟に助けられ生き延びることができた。

 

やがて、極真会という大きな船を見つけて、それに乗ろうとした。泳ぎが下手な増田 章だけど、その船の力で、俺は生きてきた。今は、その船から離れ、自分で泳がなければならない。

 

お父さん、もう一度言うだけ言う。

 

すでに残り時間がわずかだが、小さくても良いから船を作り、誰かのための船になりたい。それを目指したい。

 

そして忘れてはいけないと思っている。

 

自分の周りの大きな海の存在を認め、意識することで、自分が浮かぶんだ。その理法を信じることを。

 

最後に、もう一度言う、俺は泳ぎが下手だ。

 

だが、下手だからこそ、また、大きな船に乗れなかった人間だからこそ、その理法の体得が重要だと理解できる。

 

今、そんな自分を反省している。

 

そして、父母に感謝している。お父さん、ありがとう。

 

 

 父にそこまで言い、話を終えた。ただ、話終えてから、少し偉そうに話しすぎたかと、反省した。

 

 

 

 

 

【妹に〜 到る処に青山あり】

 

 夜に妹と話をした。

 

 私は、娘と共に父と暮らしてきたシングルマザーの妹と姪のことが気になっている。とは言ってもも、何もしてこなかった私には偉そうなことは言えないだろう。

 20数年間前、妹には娘がお前の心の支えになるから、大事にしていけと、私は言った。その娘も大学を卒業し、就職した。

 

 だが、色々と大変なこともあるようだ。

 

 その姪と会った。東京へ戻る、日曜の明け方、6時ごろだった。ほんの少しだけ話ができた。

私は偉そうなことは言えない立場だ。だが、もっと、ゆっくりと話をしたかった。

 

 帰京を急ぐ明け方のフリーウェイで車中から、金沢から富山までの景観に見とれていた(あまりよそ見はしてはいけないが、他車は1、2台)。

 

 そんな中、姪の仕事のことで、何かを伝えたいと思っていた。私は、途中休憩の際、妹に金沢滞在のお礼のメールと写真を送った。その写真は、増田家の墓の写真と石川、そして日本の美しい景観の写真だった。

 

 我がふるさとのみならず、富山、長野、山梨、特に富山は、海があり山があり、川があり田園があり、とても美しい土地だ(住んだことはないが)。

 

 また妹へのメールには「人生到る処に青山あり」と結んだ。

本来は「人間到る処に青山あり」と言う、幕末の日本人が作った漢詩からの引用である。

また、「人間到る所青山あり」とは以下のような意味である。

 

 故郷ばかりが墳墓の地(青山のこと)ではない、人間の活動のできる所はどこにでもあるの意。大望を達するために故郷を出て大いに活動すべきことをいう。(広辞苑)

 

 ただ私は、「人間」を「人生」と言い換え、「どんな場所でも、一所懸命に生きれば、そこが懐かしく、素晴らしい場所なり、やがて終の住処にもなる。と言うような解釈で伝えた。ダメだろうか。

 

 妹は自分自身のことを変わり者だと言っていた。また、とても臆病で人付き合いが苦手だ、とも言っていた。心配でならない。

 

 兄として、気にかけてあげなければならないと思う。ただ、私の妹は愛想が良くない。特に家族には。時に父はそれを責める。しかし、昨日は父に「父ならみっこの全てを認め、受け入れるべきだ」と諭した。「みっこには、悪いところなどない」と、私はさらに加えた。

 

 かく言う私も、妹の性格に閉口したことがある。だが喧嘩はしたことがない。

私は、俺はみっこ(妹の愛称)と喧嘩したことはないよね。と改めて尋ねた。妹は面倒臭そうに頷いた。それに続けて、「ただ、俺も変わり者で、妹としては嫌だったかもしれないけどね」と付け加えた。

 

 さらに妹には、「そのままで良いんだよ」と「増田 章編、荘子の無用の用」の説法を加え諭した。妹には、俺がアレンジした話だと言ったら、「真面目に聞いて損した」と怒っていた(本当に怒っていたのだろうか?いつか、本サイトにも掲載したい)。

 

 昔から私は、兄弟とは仲良く、そして力を合わせるべきだと、ずっと思っている。また、そうしようとしてきたつもりである。しかし、現実はうまくいかなかった。

 

 私は、その夢を私の息子と娘が実現してくれたらと思っている。私の心からの夢である。

 

 

 

 

 

 

稽古とは2018-11-11?

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稽古とは2018-11-11

 

 

 映像は、私も含め、未熟な点が多々あります(本文は映像テキストの解説に添えた文です)。45年以上も空手道に努力精進してきた私も、体力が落ちたり、体が硬くなったりして、技が衰えている面も否めません。それでも、今現在が最高点となるよう、絶えず努力精進をしています。

 

 私は、稽古をするたびに、自分の未熟さを再認識します。同時に、その意識がある限り、レベル(自己の立ち位置の次元)は上がる、と思っています。

 

 要するに、空手武道の稽古とは、絶えず、自己の未熟を再認識することではないかと思うのです。より正確に言えば、稽古とは、「過去の未熟さ」「現在の未熟さ」「将来の未熟さ」を認識することです。同時に「過去の良い点」「現在の良い点」「将来の良い点」を認識することだと思います。言い換えれば、「過去、現在、将来に内在する可能性」を認識することです。

 

 その可能性の開拓に、武道修練を通じ、果敢に挑戦するものが、私の考える武道人です。私は、稽古ということの真の意味がわかれば、すべての人が個々人の最高地点(レベル)に立てるものと考えています。

 

 それを、より多くの皆さんに伝えることが私の本当の仕事だと思っています(デジタル空手武道教本のワンポイントレッスン2018-11-11より)。

 

 

 

すべては一つに繋がる〜編集後記 第24号

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編集後記 第24号

 

 IBMA極真会館・研究科を発足してから1年が過ぎた。すでに2年目が始まっている。12名の一期生の内、3名が脱落した。脱落といっても、仕事の関係でどうしても時間が取れないとのこと。仕方のないことだ。1期目のメンバーの内、9名が2期目に入ったが、1期目は、私が怪我をした関係で思うようには進まなかった。誠に申し訳ないと思っている。その原因には、わたしの準備不足のみならず、研究科生の能力不足がある。

 

 しかしながら、それを承知で事を進めた。何につけ、高い目標を立てるのとせっかちは、わたしの性癖である。そんな私に、仲間たちは、よく付き合ってくれていると、時々感謝する。私には、努力しているという認識はないが、努力をしていると思うときがある。ただ、努力というよりは、本当は狂っていると言った方が近い。また、もし私が努力をしているとすれば、それができるのは、家族や師範代が私を陰で助けてくれているからだと思っている。そして、申し訳ないのは、私の努力が経済的な結果には繋がらないかもしれないということだ。ただ、私の時間感覚では、私が行っていることは、いつか役立つ時、実を結ぶ時が来ると考えている。その「いつか」を早めたい。そう思うからこそ、一層、私の焦燥感は強くなる。また、私の時間感覚は、一般的には狂っている。誤解を恐れずに言えば、障害者レベルである。おそらく、人からみると、私は何事につけてもマイペースに見えるだろう。それは半分正しいが半分間違っている。

 

 より正確にいえば、私は人とペースが合わないのだ。また、人にペースを合わせていたら、私の成し遂げたいことは、成し遂げられないと思っているのだ。

 

 一昨日の金曜日の祝日、私は6時間ほど、研究家のメンバーと稽古をした。私は、その準備に役20時間を要した。さらにその整理に10時間ほどを要している。 

 

 一体、みんなは私のしている事をどのように考えているのだろうか。時々、考えてみる。また、この1年間、思うようには進まなかったと、私は先述した。確かに地を這うような行進だったが、少しだけ景色が変わった。そして見えるものがある。現在、私は立ち上がっている。そして、ここからは走り出したいのだが、私の身体に故障があるのと資金不足で、歩くことが精一杯である。それも休みながらでないと痛みがある。この話は、私の構想実現への過程の例え話だが、実生活における、私の身体の状態も同様である。そのことに奇妙な感じがしている。おそらく、「無理をしてはいけない」「もっと天地自然の理法を掘り下げろ」という、内なる声なのだろう。

 

【IBMA極真会館空手道の理念】

 本日11月25日、昇段審査を行った。審査会の冒頭、非力で未熟な私が偉そうに、「まずはIBMA極真会館の理念、IBMA極真会館空手道の理念、IBMA極真会館の綱領、武道人の行動指針の4つを踏まえるように」と伝えた。

 

 その中の一つ、IBMA極真会館空手道の理念は「武術の修練による心身錬磨を通じ 天地自然の理法を学び 自他一体の道を修める」というものである。もう一つ、IBMA極真会館の理念とは「修練と修道を通じ、無限の可能性を開拓し、高い人間性を発揮できる心を育む」とあり、人間教育を目的に掲げている。私の考えは、大山倍達先生が唱えた、極真会館の道場訓および極真空手の理念は伝統として承継しつつ、団体として、より具体的かつ時代に適応した理念や綱領、行動規範が必要だというものだ。

 

【すべては一つに繋がる】

 要するに、IBMA極真会館空手道の理念とは、極真空手の道場訓にあわせて、武道修練のなかで、より具体的に意識することを明文化したものだ。本日、その眼目を「増田道場における稽古は、型で始まり型で終わる」「空手道の稽古は全て形稽古である」と私は伝えた。さらに、「基本」「型」「組手」その他、IBMA極真会館空手道では「相対型(組手型)」を重要とすると伝えた。また、それらは別のものではなく、必ず「すべては一つに繋がる」と伝えた(換言すれば、バラバラの事物との認識では、まだ本物ではない)。さらに伝統技と組手技も然り、一つに繋がるのだ、と私は続けた。

 

【私が考える武道はアートであり哲学だ】

 それを伝えるために、私は1000種以上の組手型を創っている最中だと伝えた。1000種以上の組手型などと言えば、初めてそれを聞くものは、増田とは頭がおかしい奴ではないかと思うかもしれない。しかし、いまに見ておけと思っている。「今は、私が見ている世界、構想を誰も理解しないが、組手型とその理論ができたら、少しは理解してもらえるだろう」と言いながら、私はある想定をしている。もし今生きている者が、私のレベルに到達しなくても、理論と技の体系を残せば、後世の誰かが、私と繋がる可能性があるということだ。なぜなら、今の私を真に支えているのは、書物等を通じて繋がった、武道のみならず社会の啓蒙者たる先達の情熱、執念、また愛を感じているからである。ただし、私の武道の到達レベルが、高くなくてはならない。そこが問題ではある。しかしながら、本日の昇段審査会で、参加者に祈るように伝えた。「私が考える武道はアートであり哲学だ」と。

 

 

 

 

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