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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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何も持たない者の武術〜プロローグ

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何も持たない者の武術〜プロローグ

   大山倍達先生が天に召されてから、はや20数年の歳月が経った。その後、大山倍達先生の名前を踏みにじるような出来事が数多く起きた。私も大山倍達先生に親しく薫陶を受けた者の端くれとして、非常に申し訳なく思っている。

 

  現在の私は、若い頃は100人組手を行うほどの、体力とエネルギーを有したが、だんだんと普通の人に戻りつつある。また、私も一人の人間として、人の親となった。さらには、その人生の中、良くも悪くも様々な経験を得ることになった。そうして、大山倍達先生を改めて思い出してみると、大山倍達先生の歩まれた道が、とても大変な道であったことが容易に想像されてくる。

 

   私は、晩年の大山倍達先生と、時に館長室、時に自宅で、また、一緒に旅のお供をさせていただいてきた。そんな中で大山倍達先生から感じたことは、大山先生は「愛情深き人」だということである。諸先輩たちが増田ごとき「知った風なことをいうな」と叱る声が聞こえるが。

外に真を求めない

  私は今こそ、大山倍達先生の心に立ち返りたいと考えている。また、大山倍達先生に関し、さも真実であるかのように事実を組み合わせ、真実とは程遠い物語を喧伝していくことに我慢ができない。

 

  私の空手家としての姿勢は、「外に真を求めない」ということである。言い換えれば、外の武術家に真を求める前に、まずは大山倍達の中に、武術の真を求めて見ようということである。この試みを体が動かなくなる前に行い、成果を残したい。

大山倍達先生は武術家として超一流であった

   それを始める前に、まず伝えたいのは、「大山倍達先生は武術家として超一流であった」ということである。もっとわかりやすく言えば、今、高名な武術家、武道家の先生方は多いが、その多くが大山先生の足元にも及ばないということである。もちろん、諸先生方には、それぞれの強みや弱みがあり、一様に比較するものではないということはわかっているつもりだ。しかし、あえてそう言いたくなるのは、我々門弟が、正確に大山先生の価値をわかっていないと思うからである。おそらく、先生は空手組織を大きくするという仕事に没頭されたことで、その技を弟子に伝えるということをしなかったのではないか、と私は考えている。同時に技の理論化を後回しにしたのではないか。というものの、大山先生の技に理論が乏しいわけではない。おそらく、組織の拡大に多忙だったのだと思う。それを体系化する時間がなかったのだ。その部分を武術家とどうかと言う向きもあろう。その辺に関してもは私なりの見方がある。その辺に関して一点だけ、述べておく。大衆を相手にする場合、技術探求などというテーマは、受け入れられにくいと判断したのではないか、と言うことだ。しかし、これからの時代は、大山先生も強く持たれていた、知的好奇心、探究心、そしてロマンチズムが必要となる。私は、そう確信しながら、人生最後の仕事のつもりで大山倍達先生の研究を始めたい。おそらく、批判や妨害があるかもしれない。しかし、何があってもやり抜きたい。

 

 

 

 

 


増田章の武道観〜昇段審査において

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増田章の武道観〜昇段審査において

 

 

 11月26日、昇段審査を行った。現在、昇段審査はジュニアと一般、さらに昇級審査と分け、年に数回実施している。ゆえに一般の昇段審査の受審者は多くない。また最近は、一般の受審者の年齢は壮年の方が多い。

 

  当然のことながら、壮年で社会人の審査では、怪我に気をつけながら審査を行っている。しかし、残念ながら組手審査で怪我人がでた。やはり、体には強度に個体差がある。昔の極真会では、体の強度がある者でなければ、道場に残れなかった。それほど稽古は荒く、激しかった。しかしながら、年月が経ち、様々な年齢、職業の人たちを迎え入れるような体制に道場を変化させてきた。おそらく、どこの極真空手の道場も同様であろう(中には昔ながらの激しい稽古を行うところもあるかもしれないが)。 

 

【ルールの強化】

  怪我をされた方には悪いが、そこまでの激しいことはしていないにもかかわらず、ゲガをされたということは、今後、一層のルールの強化をしなければならないと考えている。例えば、体力を年齢、体重、試合実績など、一定の基準(物差し)を元に数値化し、それによって防具の強度を決めるなどである。私の考え方は、「なるべく明確なルールを設定し、それを守り行動する」。そして、「ルールに不具合があれば、すぐに修正する」ということだ。そういうと、とても堅苦しい感じがするし、ルールがコロコロ変わるのか、との意見が出るかもしれない。しかし、私のような頭の悪いものは、一定のルールに従って行動しなければ、間違いを犯してしまう。また、同時に完全なルール、物差しはあり得ないので、必要に応じて、修正することは、最善の考え方だと思うのだ。

 

  私は、以上の考え方を、あらゆることに採用している。実は、私生活においても、である。さらに言えば、もっとルールを徹底したいと考えている。断っておくが、そのようなルール、もの差し、プロトコル(修練形式)と言っても良い、それを活用するのには理由がある。それは堅苦しいイメージとは逆で、皆がより自由に、そしてリラックスして行動するためだ。その核心がないと、似て非なるものとなる。ルールを絶対視して、人にルールを守れと、言わんばかりに対峙する。そうすると、心と行動の自由自在が妨げられる。同時に皆をリラックスさせない。また、自分自身もリラックスできない。そのようなあり方は、私のルール(原則)主義とは、にて非なるものなのだ。

 

  それは空手修練でも同じである。私が稽古において型を重視するのも、本質的には同じである。この意味が、まだ道場生には理解されていない。今後はさらにその考えを伝えたい。また、黒帯に私の考えを理解してもらい、道場の運営管理に協力してもらいたい。それが黒帯の責任であり、同時に自分達の価値を存続させる方法なのだから。

 

【基本修練項目の全ては型】

  さて、今回の審査では、伝統型と組手審査のみならず、IBMA極真会館の基本修練項目の中から抜粋した技の審査も行った。昇級審査に合格し、昇段に臨むみなさんではあったが、ほとんどの人が昇級審査において満点の皆さんではない。それをいかに改善してきたかを見なければ、黒帯の認可をしたくない。以前はそこの部分が大雑把過ぎた。

 

 何十年も言い続けているが、私は伝統型のみならず、基本修練項目の全ては型であり、より正しい形がある。また、その習得を目指して稽古を行うことで、自己の心と体に向き合い、それが磨かれる、と私は考えている。

 

【基本の形は皆、同じとなる〜「武の花」〜増田の稽古論】

 ゆえに「基本の形は皆、同じとなる」。もちろん各々の体の違いによって、多少の違いはあるだろう。また、初心者の場合、技の角度や位置に何ミリかのズレがある、というようなレベルで審査はしない。あくまで大枠の形ができているかである。そのような尺度では、ほぼ基本技は同じになるのというのが、私の考えである。もちろん上段回し蹴りや後ろ回し蹴りは、高度な体力(柔軟性やバランス感覚など)が必要であろう。そのような技は、私も減点されるだろう。しかし、まずは、正確な技とイメージし、自分の体を通じて、それを考える(稽える)ことが稽古の基本姿勢である。そして、段階を経て、技、特に組手型においては、相手との関係性において、その技が何ミリかのズレがあるとの視点と感覚を醸成していくことが、真の武道である。ただ荒々しく、相手をぶちのめせば良いというような心構えでは、日本武道の真髄に絶対に到達しない。そのような稽古延長線上に、各々の心身を通じ「武の花」が咲く。言い換えれば、各々が対峙する局面において、その基本型をどのように活用するかによって、個性の花が咲く。

 

【まず型を意識し、その上で組手や稽古を行う】

 私はこれまで多くの空手愛好者を見てきた。その中、形を整えるという点で、伝統型の稽古はしやすいようだ。一方、私の道場で行われる組手技や組手型の稽古の意味が伝わっていないようだ。おそらく、伝統型のみ、型というものを正確に覚えようと考えているのであろう。しかし、考えて見て欲しい。伝統技はもちろんのこと、組手技や組手型(約束組手)も型なのだ。しつかりと物差しを意識し行えば、誰もが同じになるはずである。断っておくが、まず形を同じくする。しかし、初めのそれは(形)は、皮相的な形である。まず型を意識し、その上で組手や稽古を行うことで、型に内在する普遍性が体認される。その段階に達して、初めて型の稽古の本質が少し見えたということなる。

 

 これ以上は理論書の中にしたためたい。しかし、これまでの黒帯は再度、自分の技と稽古法を見直して欲しい。私の及び腰が責任であるが、これまでのほとんどの黒帯が理解していない。私は単に技の巧拙を言っているのではない。運動神経の良いもの、体力のあるものは、見た目、技を身につけているようにも見えるが、おそらく武道の心には達していないということである。

 

 私はこれが我が道場生に理解されないのであれば引退したい。言い換えれば「老兵は死なず、消えゆくのみ」の心境である。また、武蔵のように霊岩堂に籠りたい。

 

【イギリス人のラリー(ファーストネーム兼愛称)】

 これまで厳しいことを書いた。しかし昇段審査において嬉しいことがあった。それは、イギリス人の”ラリー(ファーストネーム兼愛称)”がとても上達したことである。

 

 彼について少し書きたい。ラリーは私の道場で空手を行う前、ムエタイを練習していたそうだ。加齢と目を悪くした関係で、私の道場の門をくぐった。初めは、蹴り技(キック)や突き(パンチ)はともかく、伝統基本や伝統型などは全くと言っていいほどできなかった。正直言えば、空手のように型(形)を重視する稽古は続くだろうか、と思っていた。しかしながら、彼は先述したような稽古に対する基本的考えを全て受け入れたようだ。

 

 彼の心の深いところは知る由もないが、「極真空手の黒帯に高い価値を感じている」「空手の技を正確に覚える」という意識があることだけは確かである。それが彼の行動から理解できる。この事実を違う方向から眺めると、「彼のバックボーンであるムエタイとは文化は異なるが、その異なる文化(体系)を受け入れ、習得するのだ」との覚悟が見て取れる。補足すれば、バックボーンが異なるからこそ、その文化(体系)を受け入れる覚悟が必要だったのであろう。通常は、それが嫌で入門しないか、途中でやめてしまう。これまで、そのような心構えが、これまで多くの道場生に見られなかった。それは私の伝え方が拙く、かつ及び腰だったからであろう。責任は私にある。

 

 私の武道観のポイントの一つは、武道とは「文化(体系)を我がものとする」ということだということである(そこに内在される武術は、武道に包含されてはいるが、役割が異なる)。彼とはフリースタイル空手プロジェクトや審査で稽古を共にした。その都度、日本人以上に、我が道場の考え方を伝えた。誤解を恐れずに言えば、日本人よりも、文化に対する合意ができている。この意味をこれ以上説明するのは時間を要するのでやめにしたい。乱暴に言えば、基本、すなわち型に対する認識が甘いというか、学ぶ(真似ぶ)ということに対する認識が、学校教育や家庭教育において、自由を謳いすぎて、消滅しかかっているのではないか、とも思ってしまう。そして、僭越ではあるが、私も含めて戦後の日本人は、技、型に関して認識が甘くなってきているように思うのだ(私もダメだ)。その部分は、大山倍達先生は、「技に走る前に、精神力だと」著書で喝破した。しかし、その真意が誤解されているかもしれないと、危惧している。大山倍達先生は、決して技を否定し、精神力を重視したのではないと思う。もし、そう考えている人がいたら、それは間違いだ、と言えば、大山先生の逆鱗に触れるかもしれない。ただ、私が言いたいのは、技を徹底的に磨くことの中に体力的修練、そして、精神力というより、心的鍛錬が包含されているのだ。おそらく、その部分は、師と丁寧に話し合えば、納得していただけると思う。

 

【師の真似をすることが最も良くないことである]

 最後に、今年からスタートしたIBMA極真会館研究科の受講生に、私の考え方を伝え、それを明文化してもらいたい。私が明文化するのではない。研究科生が明文化することが必要である。それを私が承認したい。また、そこからのフィードバックを得て、考え方を修正し、より完成度の高い修練体系を創出したい。以上のことが理解できないようなら。研究科を落第とさせていただく。今後の私の方向性は、大山倍達先生が人生をかけた方法とは、若干異なる。具体的には、拡大より、より個別の、より少数対応の伝達方法を基本としたい。当然のことながら、私と大山倍達先生は異なる。一時期、大山倍達先生の真似をすることが良いことだと言わんばかりに、拡大を目指さなければならないとも思ったが、今はそう考えない。なぜなら、「師の真似をすることが最も良くないことであると直感している」。誤解を恐れずにいえば、「師がやれなかったこと、やり残したと思われることを追究するのが良い弟子である」と言いたい。私の能力は非力で、極真空手に何も貢献できないかもしれないが、大山倍達先生の深い愛情と求道的なロマンチストの面を継承したい。

 

 

 

武(BU)の花

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 先日、昇段審査の後、道場生へ向けて稽古論を書いた(増田章の武道観〜昇段審査において2017-11-26)。

しかし、あまりに急いで書いたので、わかりにくい部分があった。ゆえに重要な部分だけ書き直した。

 私は”せっかち”な性格である。しかし、それは良くないところだと反省している。なぜなら、私はいつも次の事に進みたいと思いつつ、事に処するのであるが、それが仕事が雑になる原因である。結局、やり直しに時間が取られ、遅れることとなる。もう少し、無心で事に当たりたい。また本来、ブログのような形で発信するのは好きではない。ただ、空いた時間に言葉を発するには良いツールである。また、現場で伝えても、時間を浪費し、徒労感が強い。ゆえに、わが道場生が、各々の時間の空いた時で良いから、私の考えを頭に入れてくれればと念願しながら書いている。これも徒労かな…。

 

【基本の形は皆同じとなる〜「武(BU)の花」〜増田の稽古論】

 「基本の形は皆同じとなる」。もちろん各々の体の違いによって、多少の違いはあるだろう。また、初心者の審査会では、技の角度や位置に何ミリかのズレがある、というようなレベルで審査はしない。あくまで大枠の形ができているかである。そのような尺度では、ほぼ基本技は同じになるのというのが、私の考えである。ただし、後ろ回し蹴りのような技には、高度な体力(柔軟性やバランス感覚など)が必要である。誤解を招くかもしれないが、そのような特殊な技は、知っておくだけで良い(私の流派では)。しかしながら、伝統的かつ基本的な空手の技は別だ。まずは正確な形を理解、イメージし、自分の身体(からだ)を通じて、それを再現することを目指す。そして、より良い表現を目指して、自己の身体(からだ)と向き合い、技と身体(からだ)を考えていく、その過程が稽古である。さらに次の段階は、組手型(組型)の稽古により、技の精度と使い方が理にかなっているかを判断する感覚を醸成していくことだ。そうして初めて、「今の技には、何ミリ、何秒かのズレがあるので、微調整しよう」というような感覚を得るのである。そのような感覚で行うのが真の稽古である。ただ出鱈目に荒々しく、相手をぶちのめせば良いというような心構えでは、日本武道の真髄に絶対に到達しない。先述したような稽古の延長線上に、各々の心身を基盤とする「武(BU)の花」が咲く。言い換えれば、各々が対峙する局面において、その基本型をどのように活用するかによって、個性の花が咲く。

「大相撲の横綱の暴行事件について」に追加する〜増田章の直観…「貴乃花親方を抜けさせるな」

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「武道と武道人〜大相撲の横綱の暴行事件について」に追加する

 

 少し前、「大相撲の横綱の暴行事件」を耳にして、武道と武道人の心得について書いたつもりだ。その内容に少し補足をしたい。ただし、まだ事実が完全に明らかになってはいない。事実が明らかになれば、それなりの共通見解を得るに至ると思う。ゆえに、最終の見解ではなく、私の直観を少しだけ記しただけと、理解してほしい。

 

 大相撲の横綱の暴行事件が起こってすぐに、この事件はいじめとかではなく、古い慣習を引きずったゆえの力士たちの暴発だと思っていた。しかし、どうも古い慣習自体の根に、我々人間が有する、情念の問題が横たわっているように思えてきた。

まだ、正確な情報が上がってきていないが、どうも”いじめ”に近い情況があったように見えてくる。これは問題である。なぜなら、そうなれば日馬富士、一人の問題ではないと想像されるからだ。

 

 ただ、このような問題は、大相撲にかかわらず、スポーツ界の世界にもあるだろう。また、会社や学校、学者など、人間が集まり形成した社会(村)には、必然的に生起する問題だと思う。とそのように断じれば、”言い過ぎだ”との誹りを免れまい。もちろん、程度の違いはある。しかし、感情の方が理性に勝る者たちの集団には、このようにわかりやすい形(実力行使)で現れているだけだろう(断っておくが、実力行使の能力がない者たちは、もっと陰湿な形で同質のことを行うに違いない)。相撲界は今回の事件で、うわべだけでも速やかに体裁を整えなければならない。(大変上からの物言いだが)。結果、「暴力は暴力として片付ける」だろう(それが基本形である)。つまり、暴行事件ではなく暴力事件として片付けられるであろう。さらに付け加えると、問題の本質の隠蔽と、そのストレスを与えられた腹いせに、貴乃花親方は人身御供(切腹)となるかもしれない。しかし、それでは問題の本質は、”藪の中”であろう。私の考えを端的に記しておけば、「三方一両損」ならぬ「五方?一両損」のごとく、手を打った方が良いと思う。

 

 私がここで真に言いたいことは、どんなことがあろうとも「大相撲の世界から貴乃花親方を抜けさせるな」、ということである。また貴乃花親方にも言いたい。「あきらめるな」と…。

 

 

 

緊急提言〜日馬富士を再び土俵に

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緊急提言〜日馬富士を再び土俵に

 

 日馬富士が引退を表明した。

多くの人が、「当然だ」「残念だが仕方ない」「潔い」などと、評価している。

 

 私は日馬富士の引退表明を受理せず、協会側から処分を伝えるべきだと思う。そして、その処分は引退ではない。一定期間を経て、力が落ちたとしても、日馬富士を再び土俵にあげたら良いと思う。その後の引退なら話は別である。

 

 なぜなら、引退を受理すれば、結局、問題の本質は“藪の中”となるからだ。また、貴ノ岩の復帰も考えての上である。以下は下手なシナリオの提案だが、日馬富士と貴ノ岩が対戦し、土俵の上で手打ちをするのだ。そうでなければ、遺恨を残す。

 

 無論、暴力は横綱でなくても、許されるものではない。しかし、私は再発防止という面で考えて、むしろ禁足などの処分により、一定期間を与え、心の面を見直す期間を設けることが良いと思う。それを日馬富士の問題としてのみならず、全ての力士の心の問題として見つめ続ける。そして、みんなが問題の本質を理解することができる。さらに同様の問題の再発を防止するための免疫力、抗体のようなものを醸成することができると思うのだ。

 

 これでは結果、問題の本質の隠蔽と変わらない。日本人は、すぐに「潔い」などの言葉を使うが、私は嫌いな言葉だ。なぜなら、思考停止と同じだと思うからだ。平和をどの国民よりも尊ぶ、日本人にかけているのは、物事を徹底的に考えることだと思っている(もしかすると、日本が平和なのは、あまり考えなくても良かったこと、かつ”考えないこと”が極意なのかもしれない…直感)。

 

 私の考えは失敗を犯した者に寛大になれという意味ではない。失敗に対して再チャレンジの機会を与える意味は、誰もが失敗をする可能性があるとの前提に立ち、再発の抑止方法を考えなければならないということである。また、その抑止方法を創出する機会、同時に問題の本質を考える機会を得ることになるということである。

 

 要するに、引退をしない方が日馬富士によっては辛いことになるかもしれないということを含意している。しかし、それこそが横綱としての義務だと思う。辛いことだが、みんなに己の心が磨かれる過程を周りに見せなければならない。

 そのような社会のあり方が、真に寛容なあり方だと思う。私は愛国者だが、同胞から「お前バカか」と誹りを受けたとしても言っておきたい。日本人は、本質からすぐに逃げるというという感じがしてならない。日本人同士なら、いずれ浄化され、水に流れると、思っているのかもしれない。それは、文化的信念のようになっているようだが、世界はそうではない。これからの日本人が持たなければならないのは、問題の本質を探求し、それが悪く作用しないように抑止する、”抗体の開発を目指すような意識”なのだ。

 

 以上のことは、貴乃花親方にも言いたい。正義を振りかざすのは良いが、真の正義とは何か、考えて欲しい。

 

 私の愛国者としての信念は、日本の国体は日本人全体が家族であるという信念に基づき行動するということである。それを現代においては世界の中の日本という視点において転化し、世界の家族を尊重し、それらと協調していく信念とすること。ただし、私も含め、日本人の心情も変化している。そんな中での信念や正義を理解するには、人間が人間らしくあり続けるために、正しさを追及することのみならず、悪の本質を見直しが必要である。そして、悪の本質を受け取り直したならば、その正しさの次元はより高くなると思う。同時に心の次元も高くなると思う。

 

 私のような貧乏で非力な空手家が偉そうなことを書いているが、私はそのようなことを考えながら生きてきた。ゆえに、これからも貧乏で非力のままだろう。私はそれで良いと思っている。むしろ、非力のまま語らなければならないと思っている。なぜなら、私は「何も持たない者の武術」に人生を賭けた人間だから。読者の方には意味不明だと思うが…。

 

 

 

 

 

日馬富士関の暴行問題〜増田章の直観…最後に

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【日馬富士関の引退表明】

 日馬富士関の引退表明をテレビで見た。前回私は、日馬富士関が引退するのは良くないと述べた。そして、その理由を書いたつもりだ。

 

 私はこの引退表明を見て、「もう大相撲に関して考えるのをやめよう」と思った(日馬富士がかわいそうだなという思いもあったが、同時にがっかりもした)。

これまで、大相撲の問題を、空手界や社会の至る所で起こりうる、普遍的な問題として見てきた。言い換えれば、その問題に内在する、普遍性を抽出し、空手界の発展や自分の人生に役立たせようと考えたからだ。

 

 しかし、第一印象は「大相撲は特殊な世界で、カタギの世界ではないな」という印象だ。それは悪い意味だけではない。もしそうなら、それなりの理解をしなければならないということである。しかし、それで良いのだろうか。大相撲は我々大衆が見て、とても魅力的なものであり、これからも存続してほしいと思っている。ただ、日本の国技とするならば、日本の心を承継するものがなければならない。それは髷やまわしや土俵のみならず、美学である。ならば、本当に日本の心が力士に現れているのかと思ってしまう。相撲協会は、横綱の品格として、その美学を含めた全てを規定しているようだが、十分なのだろうか。

 

 側から見て、横審や関係者のみならず、ファン、メディアも含めて、わかっていないのではと疑義を持ってしまう。部外者である私ごときが何をいうと思われるかもしれない。ゆえに、もう最後にしたい。

 

【国技としての大相撲の心】

 

 まず、国技としての大相撲の心は、日本の国柄を表現するものでなければならない。その国柄をキーワードで表せば、「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」更に「尚武」「謙」「和」である。私が幼少の頃、流行っていた南総里見八犬伝を思い出すが、そのようなものが、大相撲の世界に包含されていることが必要なのである。そこに、力士としての技術を追究するという「求道心」が相俟って、優れた力士に神々しい風格が備わるのである。さらに、そのような境地を顕現する者の代表として、横綱という地位が存在する。私はそのように考えていた。もちろん、国柄のみならず、大相撲の心も相撲の長い歴史の中で、幾たびかの変遷があった中で醸成されていったエートスかもしれない。もちろん、心といっても抽象的で実体のないものだと、言われる向きもあるだろう。

 

 しかし、どうも現実は、そうではないということが解ってきた(買いかぶりだったのだろうか)。そうなっていないのは、力士だけの責任ではない、親方のみならず、協会、そしてタニマチと言われる支援者も含めてそのよう意識がないのだろう。あくまで、部外者としての意見である。おそらく関係者からいえば、「知った風な口を聞くな」ということになる。ただ、外部から、そのような意見も言えないような斯界ならば、公益法人というのは、大したことはないなと思ってしまう。もちろん、大相撲は日本社会に大きな利益をもたらしているとは思う。しかし、それは日本社会があるからであって、日本社会を考える一人の国民が意見を言えないというのならば、日本国が民主的な国ではないということになってしまう。

 

【暴力は正義ではない】

 結論を急げば、まず当事者の問題としては、暴力は正義ではないということ。これは絶対に追及しなければならないこと。そして、そこに至った原因を、決して感情論をベースにした慣習を前提に正当化してはいけないということである。これは、他の社会に良くない影響をもたらすからである。その部分を協会やメディアが追及しないのであれば、「カタギの世界ではない」ということで、話は終わりである。次に親方の問題であるが、もし貴乃花親方が組織の一員としての行動に問題があるとするならば、公明正大に処分をしたら良い。しかし、もしそうするならば、協会の理事たち全員にも、横綱がこのような問題を起こすに至ったことに対する責任があるのではないだろうか(例えば、理事長は辞任しなければならないのでは…)。

 

 具体的には、勝負を競う力士たちが、協会以外に集団をつくり、所属する部屋の親方を飛び越して、何らかの影響を力士に与えることは良いことだろうか。大相撲には、賞金がかかった勝負の一面もある。引退したら所属するとか方法はいくらでもある。それを見逃していたから、このような問題が起こったとは言えないだろうか。この情念ドロドロの問題の解決のためには、日馬富士を引退させずに、もう少し土俵に上がってもらい、その上でなんらかの着地点を探す方が良いと当初から直観している。ゆえに私は日馬富士関にももう少し現役を続けてもらいたいのだ。

また、日馬富士関が「悌」の心から行ったことだと言うかもしれないが、ならば上が下の心を慮るというのも「悌」ではないかと、考えてもらいたい。誰もに若気の至りということがあるかもしれない。さらに言えば、問題発覚から現時点まで、何より高ノ岩関の扱いが民主的な感覚とは程遠い。このままでは、貴ノ岩関がどうなっていくのか心配になる。その部分は貴乃花親方になんらかの考えがあっての行動だと信じたいが…。

 

 そのようなことを踏まえても、さらに大相撲界は特殊な世界だと開き直るなら、そう表明して欲しい。それが真に「潔い」ということである。そして、それを我々大衆がどう見るかである。そのことに私は興味がある。

 

【日本の国体】

 ある時、白鵬関が言った。「私は相撲の神様から選ばれた」と。これは、実力でその座を奪いとった帝王が口にする、ある意味、共通の見解だと私は感じた。もちろん、私の考えすぎかもしれないし異論はあるだろう。また私は白鵬関は嫌いではない。また日本の天皇と比較するのは適切ではないと言われるかもしれない。しかし天皇陛下は、そのような感覚で国の象徴として君臨していない、ということ。そして私の言いたいことは、大相撲の象徴としての横綱のあり方に、天皇陛下のあり方が、参考になるということだ(横綱は勝てば良い、強ければ良いではないと、私は思うが…)。 

 

 日本の国体、国柄は天皇を親とする下々の者達が一体化している社会である。その意味は、天皇が暴力で下々を統制する帝王ではなく、ある意味、平等の立場の関係上の君主であるということではないだろうか(歴史的変遷により、だんだんと昇華された。これは本質的かつ直感を前提とする意見…)。そのように書くと、天皇信者の方からお叱りを受けるかもしれない。私がここで言いたいのは、天皇が「私は神様から選ばれた者である」と言うだろうか、ということである。もし、それを言ったならば、多くの国民の心が天皇から離れていくに違いない。 

 

 私が遠くから拝見する陛下は、国民の親のごとく、下々のことを考え行動していると思う。もし横綱が大相撲の象徴的地位ならば、そのような姿が参考になるのではないかということである。

 

 不敬な発言だが、現在の陛下の心情的な系譜は明治天皇から始まる。その明治天皇は、徳川時代の幕臣であり、剣と禅の達人(書も)、愛国者の山岡鉄舟によって、その国王としての心を教育されたと、私は聞く。そして、その道統は、大正、昭和、平成と引き継がれていると、私は思っている。

 

 昨今の平成天皇と皇后のその神々しい行動には、多くのものが心打たれたに違いない(私は平成天皇と皇后は最高レベルに達しているると思う)。この道統、そして感性が、日本の心、日本人の底流にあるエートスなのだ。そのエートスを大相撲の世界の者も表せと、私は言いたい。そういう意味では、貴乃花親方にも問題はある。

 

 だからこそ、我々は所詮、芸能人だという謙虚な立場に立つことである。しかしながら、その上で、されど芸能人として、斯道に精進したならば、そこに「相撲道」が見えてくると思うのだ。もうこれ以上のことは書かない。私は、そんな偉そうなことを言える立場ではないし、やるべきことが山積している。

 

【あえて貴乃花親方を支持する〜「日本的な和」】

 最後に、誤解を恐れず言っておく。

冒頭に大相撲に求められている日本の心、その中に「和」を挙げた。大相撲に求められているものは、国民の心を和ませる心である。また浄化するものである。同時にそれは祈りでもあると思っている。さらに言えば、「真に日本的な和」というのは、決して「談合的な和」ではなく、異種のものを、受け入れ飲み込んで行く「和」のことである。

 

 言い換えれば、異論を唱える者を受け入れ、融合していくという「和」が、「日本的な和」だと信じたい(間違っているかもしれないが、そうあって欲しい)。ゆえに貴乃花親方の行動にも行き過ぎた部分があると思うが、私は、「あえて貴乃花親方を支持する」と言いたい。私にも同様の経験がある。話し合いの余地はないと、若気の至りで考えたことがあるのだ。具体的には書かないが、もしかすると共通点があるかもしれない…。

 

 大相撲ファンの友人から聞いたことがある。貴乃花親方が横綱に推挙された時、記者が「これで親方の地位を超えましたね」と言うようなことを言ったらしい。それに対し貴乃花親方は「いえ、親方(先代の貴乃花)は絶対に越えられません」と答えたと言う。すばらしい「心構え」ではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

横綱の品格とは何か?〜ある相撲好き武道家の考え

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横綱の品格とは何か?〜ある相撲好き武道家の考え

 【「品格」とは何か?】

 「横綱の品格」と世間が喧しい。品格とは、誰かが言うような「礼儀礼節」「相手を尊重する態度」など、そんな紋切り型の言葉で表されることなのだろうか。私の考えは否である。そんなことなら、この作法はだめ。この作法は良いとして、作法として明確に規定すれば良い。

 私が考える「品格」とは、一人の人間の立ち居振る舞い、言動から香る「何か」である。それでは多くの人が理解できないに違いない。ゆえに、私は前回のコラムで天皇陛下のあり方を例えに出した。なぜなら、現在の国民統合の象徴としての天皇のあり方が、大相撲の力士統合の象徴としての横綱として、最もわかりやすい「品格」の手本だと、私は考えたからだ。

 しかしながら、そう定義すると、そもそも力士に品格の備わった者がいるのだろうか。倒した相手に敬意を忘れない。けがを負わせるような倒し方は極力しない。決して勝ち誇らない。などなど、そのようなことを、作法としてではなく内発的に行う者が、品格という評価に一番近いかも知れない。しかし、それでも疑問が多く残る。ここであえて品格の定義を試みたい(稚拙な定義だが)。そこから「横綱の品格」についての考究を始めてみたい。つまり手がかりとして、品格の定義から始めるということだ。最終的な定義ではない。あくまで考えるための手がかりである。まず、品格とは「人や仲間に対する仁愛を核に、全体における自己の役割を最大限に果たそうとする義務感(心根)で行動する、その人格から香る匂い」としてみる。再考は必至だとは思う。また「匂い」というのが抽象的すぎると思われるに違いないが、そもそも品格とは抽象的なものなのだ。また私自身、いかに品格がないかが見えてくる。

 

 本論に入る前に少し脱線する。大相撲の世界は、あまりにも不明瞭に思える。アメリカの大リーグには分厚いルールブックがあり、事細かに規定があるらしい。表向き、自由を重んじ多様な民族を受け入れている国家の方が、ルールが細かく決められ、行動を規定されている。このことを日本の識者が真剣に考えて欲しい。賛否は別れると思うが、私は誰が見ても納得に行くよう明確にルールを決め、それによって物事を民主的に判断するということを基本とする方が良いと思っている。おそらく、我が国は長い間、均一的な価値観が共有されてきた国のようだ。ゆえに物事をルールでがんじがらめにすることに抵抗があるに違いない。しかし、ルールはあくまでも手段であるとの前提に立つことである。おそらく日本人は、一度決めたルールは変えてはいけないというような価値観があるのであろう。現代は多様な価値観が許容されている。ゆえに大相撲の力士のあり方のみならず、それを見るもの(観客、ファン)の見方も多様であろう。ならば、アメリカ社会同様、ルール変更を前提に、ルールを明文化したら良いと思う。しかし大相撲は、何千年もの古から連綿と続く、日本の文化、伝統である。それは変えられない、という者がいたらこう言いたい。全く変化していない伝統などどこにあるのか、と。むしろ、たゆまぬ改善を続けてきた文化が伝統文化として、生き残っているのではないのか、と。

【誰が言い始めたのだ、品格ということを】

 話を戻したい。もし相撲協会が「横綱の品格とはこうだ」「大相撲はこうあるべきだ」と、唱えるものが明確にないから、時々、横綱の立ち振る舞いに関して物議が起こる。おそらく、目利きの大相撲ファンの中には、それが見えているのかも知れない。しかし、目利きのみがわかれば良いということでは済まされなくなってきているように思う。私は、大相撲の世界に生きる親方衆に品格の認識がないように思える。そして品格に限って言えば、親方衆も明確に把握していないと思ってしまう。否、そもそも理解することは困難なのかもしれない。なぜなら、そもそもモデルがないからだ。一体、誰が言い始めたのだ、品格ということを。

 私は、それを明確にしたい。それには、まずモデルを提示し、イメージを共有しなければならない。ただ先行するイメージがあると、かえって話はまとまらないかも知れない。しかし一度は、そのモデルを元に語り合ったら良いと思う。メディアもそのような試みを一度おこなったらどうだろうか。これまでの大相撲の諸問題は、物差し(判断基準)が明確でないまま、単なる大衆芸能ネタ同様の次元で語り合われているような気がする。

 今回の日馬富士の暴行事件には、勝負に生きる者の大変ドロドロした情念の問題が横たわっているようだ。それこそが、誰かが言った「膿を出す」ということだろう。そこに「横綱とは?」「横綱の品格とは?」という訳のわからない概念が加わって、余計にややこしくなっているように思えてならない。もし、大相撲界が品格という言葉を取り下げるならば、暴力は当然のこととして、全てコンプライアンスという尺度で判断すれば良い。だだそれだけだ。

 そもそも横綱は実力で上に登った者である。つまり横綱は、常人には想像を絶する厳しい世界の中を生き残り、上に上り詰めた覇者である。品格がないのが普通と言った方が妥当である。我が国の封建時代の武将を見れば明らかである。おそらく能力や人徳はあったのだと思う。白鳳然りである。しかし、その白鵬に品格という概念を当てはめると、途端にその枠からはみ出てしまう点が多くある、と多くの者が思っている。

 

 補足を加えれば、人徳と品格は厳密に言って別物だと思う。さらに誤解を恐れずに言えば、権力を有する人間に人徳はあっても品格はないこともありえる。また品格はあっても権力はないということがあり得ると、考えている。私は、品格という言葉をそのように考えている(人徳という言葉は非常に抽象的かつ曖昧で好きではない言葉だ。例えば政治家のグループの長には人徳がある??)。

【横綱の品格とは】

 さて、これから大相撲の横綱の品格とはどのようなものなのかを明確にしていきたい。でなければ、品格という尺度により人を批判する時、どのようにはみ出しているか、理解できない。そして、当事者は一体何を批判しているのだろうと思ってしまうだろう。もしかすると、モンゴル人の白鵬には、そのはみ出している部分が理解できていないのかもしれない。問題は、白鳳の数々の横綱らしくないと言われる行動が、確信犯的な行動であるかどうかである。もしかすると、モンゴル人の白鵬にとっては自然なあり方なのかもしれない。

 全ては、大相撲関係者が、外部から示された横綱の品格というものを理解していないということの証明のように思えてくる。おそらく、大相撲協会が横綱の不祥事を処理する際、品格という抽象的な言葉で、無理に体裁を整えようとしたことから、話がややこしくなってきている。

 その時に、明文化するべきであったかも知れない。今回の問題は、相撲取りであっても社会においてプロの職業人である。その者たちにコンプライアンスが求められるのは当然である。まず、その部分で協会が処理する。私の感覚では、様々なことを配慮し、引退処分は厳しすぎると思っていた。勿論、厳罰は必要だが。しかし、本人から引退してしまった。これは協会がしっかりと対応する問題である。そこが最も良くない。理事長や親方の責任問題である。結果、問題の本質の隠蔽となってしまった。おそらく、今回の事件はそれ以上のことが想定されるから、理事会としては大変なのであろう。しかし外部には、それがいじめ問題なのか、親方の確執なのかが見えない。国技を司る公益法人として数々の恩恵にさずかる大相撲協会としては、今回の件がこんなに不透明なのはよくないことである。

 また今回の問題で、大衆の大相撲を見る眼に、私は国民の民度を見る思いである。やはり品格という言葉が抽象的すぎる。それを関係者(親方)が理解していない。例えば、それが戦いの作法を指すのか。それとも言動を指すのか。それとも両方を指すのか。それを明確にルール化するしかないだろう。

 

【芸道者における品格〜世阿弥の風姿花伝の教え】

 それでは私の考える横綱の品格について述べてみたい。私は横綱の品格とは芸道を究める者の心と技の次元から湧出するものを判断する事柄だと考える。

 日本人が見る芸道における品格とは、その技のみならず、立ち振る舞いが時分の花ではなく、修業の段階を経て到達される、真の花を有していること。さらに幽玄の風(スタイル)に達していることから醸し出されるものである。

 実は私の芸道に対する考え方の根底には、私淑する世阿弥が残した風姿花伝の教えがある。世阿弥が言うところの花という概念。それが大相撲にも当てはまると考えている。これは、時分の花(若い頃の才能に根ざした技、個性)のみならず、真の花(修業の果てに到達した技、個性)を目指すことである。また、さらに上の技の位として、幽玄を設定することである。ここまで書いて、世阿弥を知らない人には理解困難かも知れない。

 あえて話を進めたい。世阿弥は奥伝として「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」という言葉を残している。私流に言えば、言葉にしないで、秘密裏に行うから花となる、と言うことだと思う。私はそこに芸道の究極を見る。

 つまり、横綱の品格も、優勝回数などの実績で見るものではなく、一瞬一瞬、その場その場において、観る者が全身全霊で感じ取るものではないかと思うのだ。

 そのような目利きのみの話を、万人に理解させようとするところに無理があるかも知れない。ただ私のような凡人に理解できるのであるから、大衆も理解できるはずである。しかし、そうなると花の価値、そして感動が薄れるということが、世阿弥の教えに含意されているのであろう。

 もしそうなら、横綱の品格を職業人としてのコンプライアンスの問題の隠蔽に利用するのではなく、正当な芸の評価のためにこそ使うべき概念ではないか。大変僭越だが、大相撲ファンの有識者がそこを再認識する必要があると、私は思う。また古くから、大衆向けの日本版エンターテインメントの代表とも言える大相撲に能の芸道論を当てはめるのには無理があるかもしれない。ならば、こう言いたい。そこまで考えて「品格」を語るか、あるいは「作法」と割り切り、その作法を事細かに規定し、その行動を縛った方が現実的であろう。

 

【日本人が見る「品格」とは?】

 要するに日本人が見る「品格」とは、長い歴史的経験、自然や人間の交流、様々な事物が交錯し、相互作用しつつ醸成された心である。つまり人間が自己、他者、社会、自然、歴史との関係の中で育まれるエートスのようなものかも知れない。すなわち、日本人の自然観である「自ずから然る」という感覚こそが何千年もかけて醸成され、承継された日本人の心性の本体である。

 しかしながら、モンゴルの人にもモンゴルの心性があるのだ。それを尊重し丁寧に、かつ明確に日本人の美学を伝えなければならない。体で理解しろというのは、少し乱暴であるように思う。それは、日本の心を喪失しつつある、現代の若者、大衆に対しても同様である。

 大横綱・貴乃花、その土俵の上での立ち振る舞いは、まさしく世阿弥の芸道を行くような感がある。一方の横綱・白鵬、日本の芸道を極めようと懸命なのは理解できる。しかし、私にはその中心にある、「自ずから然る」、つまりすべてのものが一体となり、そこから育まれる何か。そして、それを表現する技、立ち振る舞いが日本の心なのだとの理解がなされているかという面で疑義がある。日本人は太古から自然と一体化しようと生きてきた。自然と向き合う点は、人類の共通点ではあるが、それを征服するものではなく、それを自らの中に取り入れ、一体化しようとしてきたところに日本人の心性がある、と私は考えている。私が何を言いているか、わからないと思う。それは私の筆力が足りないことによる。申し訳ない。

 

【敷島の大和心を人問わば朝日ににおう山桜花(本居宣長)】 

 しかし私は、大相撲の問題から、「今後も日本人の美学を承継するか否か」、そう問われているように思えてならない。同時に「日本の美学を次世代の若者に了解させるか否か」という問題が問われているようにも思う。もし了解させたいならば、識者が丁寧に説明をし、明文化するのも一つだが、評論家自体が命懸けで、その芸を評価することである。そうすれば、自ずから花が育つかも知れない。結局、私自身、考えてみても「品格」に対する明確な定義はできなかったように思う。ただ、私の心の中に今、浮かび上がる本居宣長の歌がある。本居は「敷島の 大和心を 人問わば 朝日ににおう 山桜花」と歌に読んだ。つまり日本人の心性、美学とは、その美しい姿のみならず、自然とともにある、その個性(山桜)の中から香るものを感じる感性だということだろう。

 

【品格よりも大切なこと】

 ここで再認識しなければならないことがある。大相撲の世界は、エネルギー、生命力が強いものしか生き残れない世界である。ゆえにその世界で生き残り、実力者となった者の少々のはみ出しは当たり前である。ゆえに、白鵬が「我こそは帝王」という風に誇るのは当然であるかもしれない。ゆえに、それも良しである。白鵬は誰よりも努力家に違いない。それは十分に尊敬に値する。

 おそらく大相撲の世界に限らず、スポーツ界や政界も含め、実力が物言う社会は同様であろう。ゆえにメディアを始め、我々大衆も、少々の暴発は受け入れる必要があるのかもしれない。それを無理やり、品格という鋳型にはめるのなら、今回の件では、もっと明確に説明しなければならないだろう。

 私の感覚からすれば、当面の目指すべきゴールは、貴乃花親方も白鵬の和解である。確かに貴乃花の行動には理解できないところもあるかも知れないが、両者は相撲を愛する者として、もっと高い次元に立つべきだ。

 蛇足だが、私のいうことが見当違いなら、そもそも大相撲は芸能の世界だという認識に立つべきではないだろうか。その上で、メディアも悪いところは淡々と叩けば良い。例えば、八百長問題(無気力相撲)が依然としてくすぶっている。それを究明しないのは、権力を有するメディアが究明させないように動いているのではないかとも思ってしまう。ならばせめて、そんな泥の中でも花を咲かそうと、相撲道に精進する力士がいれば、それを「相撲道」として讃え、誰よりも賞賛してほしい。私は単なる数字や人気で物事の価値を評価するなと言いたい。大相撲は想像を絶する大変な世界だと思う。ゆえに数字などでは、技術の真の価値などわからない。私は日本の評論の世界は甘すぎると思っている。もしかすると、近代の日本人は目先の勝負に勝てば、それで良いのだろうか。私は絶対にそのような立場、視点を拒否したい。

 もう一つだけ、どうしても書きたいことがある。それは現在の大相撲界が外国人力士を受け入れ、横綱にしたのだから、後戻りするのはとても困難だということ。ならば、その前提を了解し、みんなが仲良くできるよう、より良い着地点を見出して欲しい。また貴乃花親方が信じる相撲道と殉じることがないように、その声を聞いてあげて欲しい。みんな家族ではないか。私は、そんなゴールを目指すこと、そして「思い」が品格よりも大切なことのように思う。

 


 

増田章の報告2017-12-10〜非情な男になりきれない

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増田章の報告2017-12-10

 

【良かったですね】

 

 先週の月曜日、主治医に腰のヘルニアの経過の診断をしていただいた。

「先生、ご無沙汰しています(増田)」

「どうですか?(増田)」 

 

先生はニコニコしながら

「増田さん、これ見てください(先生)」

 

「はあ?(増田)」

 

「ヘルニア、消えてますよ(先生)」

「はあ?(増田)」

 

 前回の画像(MRI)と並べられた画像を見てみると、

ボッコリと逸脱していたものがほぼなくなっている。

まだ少し逸脱があるが、初め逸脱が大きかった分、消滅感が強い(消えたように見える…腫瘍でなくてよかった)。

 

「良かったですね(先生)」

「今まだ、右脚の痺れと筋力の低下(右脚の力が左脚の約2分の1)がありますが、少しづつ痺れや痛みが軽減しています(増田)」

 

「あと1ヶ月半ぐらい様子を見ましょう(先生)」

 

 私のヘルニアはL3〜L4のヘルニアで、膝から大腿部(もも)、足の付け根付近に痺れ(神経障害)が生じるものだ。

 数種のヘルニアがあるとして、ヘルニアは大体3ヶ月で症状が改善されるというのが、現在の定説らしい。

 それにしても、少し気持ちが楽になった。このまま、体力が落ちていく一方の可能性もあると考えていたからだ。

 

 私は、ヘルニアの診断の後、安静の指示を破り、ストレッチ、上半身の筋力トレーニング、下半身を相撲スクワット(相撲の四股の形でのスクワット)、レッグエクステンション、レッグカール、半棒振り(ステッキ術の練習)を日課としていた。

 

 なぜなら、必ず治った後、速やかに空手の教本作成に入れるように体力維持をしておかなければ、治療に費やした時間の2倍から3倍の時間が機能回復に必要になると経験上、想定されたからである。エビデンスはないが、どうもそのリハビリが、ヘルニアを完全に逸脱させ、結果、消滅(吸収)させたのではないか、と言うこと。また、ヘルニアは腰椎の健全なカーブ(S字)を回復させたのかもしれない。とのことだった。

 

【スポーツによる障害(特に腰や膝、肩も含め)を防ぐには】

 いつか私の道場にサイトにきちっと掲載したいが、簡単にお知らせしたい。スポーツによる障害(特に腰や膝、肩)を防ぐには、姿勢の維持が非常に大事だと言うこと。特に空手やスポーツを激しく行うと、腹筋や腰部の筋肉、さらに大腰筋を緊張させ、腰椎や骨盤の位置(正確な言い方ではないかもしれない)や動きが悪くなる。つまり、自分の姿勢を絶えず気にかけた方が良いと言うことである。また、骨盤や肩(肩甲骨)周辺の筋肉のバランス調整に気遣いをすることだ。

 

 

 現在、日に日に痺れが軽減している。依然として右脚の筋力は低下したままだが、左脚が強くなったのと、右脚を支える臀部(お尻)の力が強くなってきたように思う。ただし、全盛期の体力からは、遥か遠い。あくまで膝の障害により低下した下半身の筋力と機能の回復を促進したのではないかと言う程度である。

 

【体の動きのイメージが深化】

 さて私は、ヘルニアで約2ヶ月、脚も肉離れで1ヶ月、合わせて約3ヶ月、十分な稽古ができなかった。若い時は劣化があっても、回復のスピードが早い。一方、初老を過ぎてからは、劣化のスピードが早まり、かつ回復は遅い。そんな認識のもと焦燥感に苛まれていたが私だったが、良いこともあった。

 

 それは、若い頃にはあまり着目しなかった、体の動きのイメージが深化したことだ(だだし、それがイメージできた時に、体が動かなくなってしまっている)。

 

 そのイメージを簡単に言えば、「体の動きをイメージするには、筋肉を優先にするのではなく、骨の動きを優先させること」と言うことだ。

 

 これは、診察後、お世話になっているPTの佐藤先生にリハビリ治療をしていただいている時、私の認識として確認した。私は理学療法士ほどの知識はないが、だんだんと理学療養士の知識を吸収しつつある。

 

 また空手の動きを考えるに、骨の動きに着目している。もちろん、その上で筋肉(骨格筋)がどのように動き、作用するかを考えている。さらに、そこに脳科学の知見も加味している。そのように考えると、「もっと勉強したい」「もっと実験したい(試したい)」と言う欲望が湧き上がってくる。同時に、自分に残された時間の少なさ、環境の劣悪さに胸が締め付けられる思いである。また、周りからどんどん離れていくと言う感じがしてならない(誰もついてこれない)。

 

 私の悪弊だが、周りに私の考えを理解させようとする。しかし家族も含めて、「私は私」とついてこない。それが自然である。天邪鬼な私は、「ついていきます」なんて、実は信じていない。おそらく、先を行く者の気持ちはわからないだろう。私の感覚は、いずれ分かる時がくるかもしれないが、それでは遅すぎる、という感じである。ゆえにいつも疎外感がある。また、そこに合わせていたら、私の人生が終わってしまう、と思っている。ゆえに先を行く覚悟のある者は、人の気持ちを振り切らなければならないのだろう。人には非情な男だと見られるかもしれない。若い時は、そんなことを考えなかった。また意識せずに先を進んでいるつもりだった。しかし、ちっとも先に進んでいない。ある意味、堂々巡りのようだった。そんな風にも思う。それは、自分の考えに自信がないからであろう。正直言えば、もっと自分の信念を信じたい。しかし、なかなかそれができない。非情な男になりきれないのだ。

 

  おそらく、自分のやっていることが、将来必ず役に立つとの確信、信念が足りないのかもしれない。また、そのような認識で生きると言うことは、「絶対的な孤独」と戦わなければならないということでもある。私は孤独に弱いのかもしれない。一つ言えることは、そのような孤独に立ち向かう者の中にこそ「真の覚悟」があると、私は考えている。

 

 

2017-12-10:一部加筆修正

 


20歳のお祝い〜川井くん伊藤くん

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20歳のお祝い〜川井くん伊藤くん

 

 

   府中の少年部の川井くんと伊藤くんが20歳になった。

府中の指導員の荻野先生が、その二人を連れて、誕生日祝いに飲みに行ったらしい。

 

  荻野先生が写真を送ってきてくれた。

荻野先生のメッセージには、

「2人のハタチの御祝い」

「今日の組手は年齢差3倍で手加減してもらいました。稽古の後に、酒ならまだまだ負けません(笑)」とある。

荻野先生らしい(いい感じだ)。

 

  20歳になった二人は、少年部から増田道場生だ。最近は少年部からから大人になっても空手を続ける道場生が多くなってきている。

  

  本当に嬉しいことだ。小学生から中学生、中学生から高校生、高校生から大学生、大学生から社会人と人が成長する過程で、空手が何らかの役に立つのであれば、こんな嬉しいことはない。そんな中、私は道場生を家族のように思っているのだが、なかなかコミュニケーションが取れないでいる。実際の家族も同様だ。私は、なんとか年に数回はコミュニケーションを取りたいと思っているが…。現在、道場行事に黒帯が集まる機会を作っているが、全員集まることは難しい。

 

  そんな中、指導員の荻野先生がコミュニケーションをとってくれた。良い先生だ。私にとって荻野先生は、気のおけない仲間の一人だが、彼らもそう感じているのかもしれない。

 

   最後に私から…。

「荻野先生ありがとうございます」

今度は荻野先生の還暦祝いをしなければなりませんね。

「川井くん、伊藤くん、20歳、おめでとう」

二人は、これから成人式かな。また、伊藤くんは茶帯なので、早く黒帯になってください。その気になれば、すぐに黒帯になれるよ。

 

 

 

増田道場の基本技は

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 増田道場の基本技は、古から継承された技の形を研究を通じて磨き上げ、それを修練技の基本形として規定しています。稽古の基本は、修練技の形を正しく学ぶ(真似ぶ)ことから始まります。そのような稽古を物差しのようにして、自己の身体を作り変えていくのです。そこには、身体の鍛錬のみならず、知性の基礎訓練とでも行って良いような要素が含まれています。

 武道の真の基本は、そのような稽古を通じ、単なる身体の強さを目指す前に、自己の心身と正しく向き合うことです。そして武道の目指すところは、その心身を創り変え、真に活用する道を学ぶことだと、わたしは考えています。それが真の強さに繋がっていくのだと思います。つまり、わたしの考える武道は、他者との競争ではなく、まず自分との競争に負けないようにすることが、その本質なのです。

 わたしの道場では、デジタル教本などで、基本の要点や伝統型の要点を自習できるようになっています。それらの教材を使い、稽古の予習、復習をしない人は、将来的に黒帯取得は難しいと思います。今後、指導員の指示に従い、教本を活用し、各種修練項目(審査項目)の学習をしてください(増田より)。

 

 

 追伸

 明日、空手武道通信の更新です。作業の途中、作成した文書を転載しました。これ以上やると、睡眠不足で交通事故か腰が動かなくなります。これまでの経験でわかっているのですが、どうしてもやってしまいます。相変わらず金にはならないことばかりですが、私は空手を極めたいので、現実の仕事を最低限こなしながら、勉強をし続けています。残された時間はそんなに多くないのですから。いつも考えることは何を捨てるかです。しかし私は、捨てることが下手です。また、上手に整理できれば、捨てたくないと考えています。

武道人への仲間入りを…朴さん、小泉さん、木村くん、ラリーへの手紙

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 11月に行われた昇段審査の結果が出た。私は全員が合格するだろうと思っていた。しかし、小泉さんが合格。朴さんは3種の型のうち1つは合格。2つを落としてしまった。ラリーは健闘したのだが、一つの型を落としてしまった。また、木村くんに関しては3種全てが再審査となってしまった。

 

 私の道場の審査が特に厳しいのではない。教本で形が示されており、その形を正確に覚えていなければ再審査となるだけである。それを審査するのに、独自の審査シートを使う(最近改定した)。その審査では表現力といったことは審査しない。ただただ教本と照らし合わせ、正確に覚えているかどうかをチェックするだけだ。私の道場の審査方式を大掴みに言えば、教本と照らして、間違っていないか、チェックするだけと言っても過言ではない(そこまで簡単ではないが…)。おそらく、間違いが多かったのであろう。

 

 おそらく再審査になった人は、さぞ落ち込んでいるに違いない。しかし、この方式は型審査のみならず、基本修練項目の審査、そして組手審査においても同様である。私の信念は理論と型を正確に覚え、それを再現することを稽古の基本形とすることだ。そのような形式と姿勢から、だんだんと技に内在する見えない技が見えてくる。同時に技術の世界の深淵に到達して行くのだ。

 

 

 今後は、さらにその信念を強固にすると同時に、指導員や黒帯の意識を高めたい。私の空手は武道空手である。スポーツではない。ただスポーツを否定はしていない。スポーツもまた良しである。しかし、あえて武道空手というのには理由がある。武道空手というのは、武道が武術を核とするがゆえに、その技術に実用性を追求する。ゆえに、自己の体を徹底的に鍛錬し、その技術を磨かなければならない。そのような過程があるからこそ、心身のレベルがより高まる。その修練方法は、まず基本の反復を行う事だ。それは修行のようにも見える。

 

 そのような修練方法は、初め難しいが、むしろスポーツや運動が得意ではない、体力も自信がない、というような人に適している。つまり、まず形の修練(ここでいう形とは基本技や組手型、伝統型、組手、すべての稽古を指す)を通じ、自己の心身と向き合い、それを作り変えて行く。それは他者との戦いというより、自己との戦いといった方が良いかもしれない。もちろん、優れたアスリートには、武道家に勝るとも劣らない面もあるかもしれない。しかし、大体が目先の勝負や勝つ楽しさに意識が向いてしまう。結果、自己の技術を深く探究しない傾向が多く見られる。

 

私はこれまで「このぐらいでいいや」「俺も上手くなった」などなど、自己の気持ちを緩める囁きと絶えず向き合い、そのような思いが芽生えるのは、怠慢によるものではないかと自らに問い、反復練習に挑んできた。私は、ずっとそんな考えで空手の修行を続けてきた。そのような中から作り上げた基本修練技の数々を道場生に教えている。

 

ただ、道場生が空手を好きになり、楽しんでいけるようにするためにはどうしたら良いかと、最近は考え続けている。現在はその変革の時期に当たる。私の手がかりは、「どんな人でも上達させるメソッドを作り上げる」ということだ。しかし、長年使ってこなかった心身の回路を、新たに構築するような作業は、大変な面もあるだろう。しかし、それが自己の心身が高まっていく喜びと同時に真に楽しいという感覚につながると私は考えている。また、それが健康増進にもつながると信じている。

 

 

 私は言葉でフォローするのは得意ではない。そして、いま悶々としている。これまでも何度も経験してきたことである。まあ、人に理解されないのは覚悟している。1日も早く、より完成度の高い、空手道の体系と修練メソッドを作り上げたい。あと10年ぐらいかかるだろうか。それでは人生が終わってしまう…。

 

 実は審査を受けた3人に向けて、合格した想定で手紙を書いていた。今回、みんな必ず黒帯となることを信じて、その手紙を掲載したい。

 

【武道人への仲間入りを…朴さん、小泉さん、木村くん、ラリーへの手紙】

 

 朴さん、審査では真剣でしたね。もちろん、朴さんは稽古も真面目ですが。

 小泉さん、地道に稽古を積んでいることが伺えました。

 木村くん、道場まで遠距離ながら、稽古を続けたことは、道場を主宰する者として嬉しいです。私の道場に通ってくれて、ありがとう。

 ラリー、イギリス人の貴君には、日本の文化をもっと好きになってほしいと思います。今回、みなさんが極真空手を大切に思ってくれることに感謝したいと思います。

 

 今、労を労いたいところですが、いつものように口幅ったいことを言います。年長の人に対しても上から目線だと感じたら許してください。大切な道場生だからこそ、言っておかなければならないのです。

 

 みなさんは、まだまだ上達します。そして、こんなレベルでは駄目です。私の空手道は武術を核とする空手武道です。言い換えれば、護身術を核とする武道空手です。護身術としての空手というのは、暴力に抗う、徒手の武力とも言えますが、それはまだ皮相的な事柄です。護身術の目的は命を護ることだと思います。そして、その核となる護身の極意は簡単なことです。それは「不断に気をつけること」です。

 

 例えば、絶えず人から危害を加えられないよう、いつも気をつけておくこと。また事故にあわないよう気をつけること。また、その可能性をなるべく狭めることです。さらに、自己の体調に気をつけること。また、気力、体力の衰えをなるべく抑えるべく努力をすることなども含まれます。筋力や体の柔軟性は鍛えないと退化します。継続して体を鍛錬しましょう。言い換えれば、私は生きている限り護身に気をつけることが、人の理想だと思うのです。理想というと、何かでの届かないことのように聞こえますが、この場合の理想は、誰もがそう信じれば、できることです。

 

 みなさんは良い大人ですから、黒帯になって肩に風きって歩くようなことはないとは思います。また、これまでも稽古に励み、健康に留意してこられたこと思います。どうか、これからも健康を始め、護身に気をつけてください。

 

 最後に、護身の大敵は欲張ること、威張ること、格好をつけることなどです。また、もう一つ大事なことは、人や物事を侮ることです。私の理想とする武道人は、「生活貧しくとも心は気高い人」「一生、学びを喜びとする人」「良いものは独り占めせず、みんなと分かち合っていく人」です。是非、一層の努力をして、さらに上達し、後輩の手助けをしてほしいと思います。私のためではありません。私はやがていなくなりますから…。ここで書いていることは、人間の使命なのです。繰り返します。私も多くの人に助けられて生きてきたように、人を助けることが、人間の正しい生き方、そして使命なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記〜近況報告(空手武道通信12号)

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【空手武道通信12号 編集後記〜近況報告】

 

 ヘルニアによる足腰の障害は、少しずつ良くなってきている。少しづつと言っても、発症から約3ヶ月である。当初のような痛みやしびれはないが、それでも右脚の筋力は左脚の半分以下であり、太もも内側と付け根に酷いしびれがある。ヘルニアは消滅しつつあるようだが、神経障害による筋力低下は改善されていない。正直いえば、障害に慣れて来たのだと思う。また左脚が強くなり、右脚をカバーする動き方を自然と覚えたようだ。また腰に負担のかからないような動きや姿勢も自然と覚えてきているように感じる。とにかく、全く稽古ができない状況は脱した。現在、少しは空手の稽古ができる。大事にリハビリをしたい。しかし、来年は今年よりも忙しくなりそうだ(今年も忙しかった)。例えば、松井館長が始める新しい空手競技を作るプロジェクトに絡む。それは松井氏の組織のプロジェクトであり、組織がないに等しい私が、私の技術を生かすための手段として仲間に入れてくれと頼み、彼が快諾してくれた案件である。すぐに私の仕事があるかどうかは、自分の組織ではないのでわからない。 

 

 それでも私の心はワクワクしている。なぜなら、極真空手を通じ、まさに鎬を削るという表現が当てはまるようなやり取りをした戦友と理想を共有し、一緒に理想に向かって仕事ができることが嬉しいからだ。その理想とは社会において極真空手の価値を高めるということである。それは極真空手家として、共通の志でもある。

 

 我々は偉大な師が逝去した後、組織を分裂させ、対立し合った極真会館の当事者同士だ。その当事者が和解し、協力し合うようになったプロセスは、いつか詳細に書き記さなければならないと思っている。もし今後、私と松井氏が人間的に成長し、共に極真空手の発展に協力し合えるならば、そのプロセスは少なからず、人の生き方に示唆を与えると思っている。しかし、今はまだ始まったばかりである。あまり欲張らず、急がず、仲良くやりたい。もう一つ付け加えれば、極真空手の変革を長年、私は訴えてきた。その考えを理解してくれる極真空手家が出てきたことで、長年の絶望感から解放されたような感覚を覚えている。年末と年始は、最後の仕事になるかもしれないプロジェクトに向けて、リハビリと読書と執筆を行いたい。

 

【追伸】

 

 以下の写真は、今年の6月、ラグビーの日本対アイルランド戦の時、アイルランドラグビーチームのフィジカルトレーナーとして来日したマイケル・トンプソン氏と松井氏を交えて再会した時の写真である。これはトンプソン氏がイギリスに留学していた極真空手家の神戸氏を通じて打診、実現した再会である。もちろん、私も松井氏もその打診を喜んだ。私はトンプソン氏が大好きである。その理由は私の著書(増田章 吾、武人として生きる 東邦出版)に少し書いた。

 私と松井氏、トンプソン氏、そして故アンディ・フグ氏の4人は、32年ほど前、映画の撮影のために10日間ほどスペインに滞在し、行動をともにした。その時以来、我々は4人は友人なのだ。その後、各人は立場の違いにより疎遠だったが、2000年にアンディが病気で夭折し、残った私たちも歳をとった。昔を懐かしんでの再会だ。ちょうど良い時期に、ちょうど良い訪問者が訪れるものだと、天の采配に感心する。その時の模様と感慨はいずれ詳しく書き記したい。

 

2017-12-24加筆

空手武道通信/第12号 編集後記より

 

大義を四海に

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【大義を四海に】

 

 

①「堯舜孔子の道を明らかにし
 

西洋器械の術を尽くさば
 

なんぞ富国に止まらん
 

なんぞ強兵に止まらん
 

大義を四海に布かんのみ」

②「心に逆らうこと有れども 人を尤(とが)むる勿れ(なかれ)

人を尤(とが)むれば徳を損なわん

為さんと欲するところ有れども、心を正(さだ)むる〈成果をあてにする〉勿れ。

心を正(さだ)むれば事を破らん

君子の道は身を修るにあり(原文書き下し)」

 

(幕末の思想家  肥後藩士 横井小楠1809~1869)

参考文献:大儀を世界に(東洋出版、石津達也著)

 

 

 日本の幕末のリーダー達、坂本竜馬、勝海舟、松平廣長、さらには西郷隆盛に至るまで、その思想の底流に、横井小楠の思想の影響があるというのが「知る人ぞ知る」説である。

 

 極真会館が分裂し、派閥闘争が激しい中、私は稲盛和夫先生が開く塾で、フェリシモ会長の矢崎先生と知り合った。その時、矢崎先生から陽明学を始め、横井小楠などの日本の思想家の話、また太宰春台、さらには渋沢栄一、稲盛和夫哲学まで、我が国の政治経済思想史に煌めく賢人の話を聞いた。その中でも特に心に残ったのは、横井小楠である。私は横井小楠の伝記等を読み感銘を受けた。また熊本にある横井小楠が晩年、晴耕雨読を続けた庵を尋ねたこともある。

 

 私は横井小楠の伝記等を読み感銘を受けた。また、横井小楠が晩年、晴耕雨読を続けた熊本の庵を尋ねたこともある。

 先に挙げた横井小楠の言葉は、私がずっと記憶していた言葉である。先に挙げた二つの言葉は、小楠がアメリカに留学させた二人の甥に送ったものである。

この文章を書くにあたり、横井小楠に関する書籍を書斎から取り出した。すると、横井小楠の言葉は2種あり、私は先の言葉だけを覚えていたことがわかった。私が2番目の言葉を読み上げ、音声入力メモをとっていると、側で「実践してよ」と家内が手厳しい。

 

 2017年は、隣国との問題を始め、老舗の巨大企業の失策、政治家達の集合離散や大相撲の内輪揉めなどなど、実に世間は喧しい。こんなに問題があるのに我が国は大丈夫なのかと思うくらいである。とはいえ日本人は楽天的なのだろう。

 誰も問題を追及しない。かくいう私も身内から叱責されるように、「言うだけ」かもしれない。しかし「馬鹿にするな」と思っている。心の中ではいつも歯を喰いしばるようにして頑張っているのだ。もし、私の成果が乏しいと笑うなら、笑えば良い。私の心の中には、いつも消えない火が灯っている。

 

【補足】

 横井小楠の思想を理解するにあたり、興味深い記述があったので以下に記しておく。何かの参考になるかもしれないので…。

 

   小楠は「和とか戦いとかいっても結局偏した意見であって、時に応じ勢いにしたがって、そのよろしきを得るのが真の道理である。信義をもって応接し、我が国に義があれば、万国を敵に回すようなことはない」とも書いている。時勢に応じて是々非々で考えよ、という柔軟性と現実主義。高い理念とこうした柔らかな姿勢が、当時の心ある人々をとらえたのだ。

出典:大儀を世界に(東洋出版、石津達也著)

 

▶︎デジタル空手武道通信 第13号 From AkiraMasuda

 

 

編集後記〜家族との思い出/デジタル空手武道通信 第13号 

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編集後記〜家族との思い出 

 

 年末、受験を終えた愚息から家族旅行を提案された。私も賛成だったが、家内からの反対にあい断念した。諸事情は理解できるが残念である。

 時にすでに遅しだが、もっと父母と旅行したかった。私の実家は家業を営んでおり、お晦日は元旦の1時過ぎまで仕事。正月は2日から仕事だった。当然、私も手伝いをする。また、毎日夜遅くまで賑やかだった(実はそんな生活スタイルが私は嫌だった…)。そんな家庭の情況だったが、私が父母との数回の旅行を記憶しているのは、父母が家族のことを大事にしていたからだと、ようやく理解できる。

 後悔しているのは、父母が忙しい中、寝る間を削り試みた、大阪万博への旅行を私が断ったことだ。その頃の私は、思春期性の悩みが多く、とてもそんな気分ではなかった。家族旅行をしたいなどという我が息子とは、ほど遠い子供だった。そんな私だからこそ、余計に家族への様々な思いが募る。本当に家族があればこそ生きて来られた私だ。そんな思いが実感となって心に迫ってくる毎日である。

 そんな体験を胸に、空手道の普及においても家族を大事にするという心を育まなければならないと、私は思っている。それは自分の家族のみならず、他者の家族をも尊重するということでなければならない。ただし、その家族の機能が不十分であったり、壊れているときはどうするか。その家族を離れ、別の家族に所属するという選択肢や家族の機能を補完する機能を創ることを考えるべきだと思う。また、家族とその機能のあり方を啓蒙しなければならないと言いたい。啓蒙などという言葉は時代錯誤だと、ある人から言われたが、私はそうは思わない。時代を問わず、見えないところ、理解不能な面は依然として多くある。むしろ見えていると思っているときが危ない。

 今こそ、もう一度、家族、あるいは組織のあり方とその機能を見直さなければならないのでないだろうか。集団主義、個人主義を超えた、新しい人間と社会のあり方を掴むために…。

 

▶︎デジタル空手武道通信 第13号

 

▼増田家の墓がある野田山からの眺め

  

 

 

 

編集後記〜デジタル空手武道通信 第14号

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編集後記〜デジタル空手武道通信 第14号

 

 今回、デジタル空手武道通信のFrom Akira Masudaのコーナーで取り上げた「武道空手攻究」(一橋空手道部一空会編 /久保田正一著)は、富名腰義珍先生の薫陶を受けた久保田正一師範の書かれた本である。数年前、私は学生時代の友人を介し、松濤館空手道の創始者、富名腰義珍師の弟子であった故久保田師範のご子息を紹介された。その時、故久保田正一師範のご子息には、空手つながりなので、「フリースタイル空手」と「増田章 吾、武人として生きる」、2冊の拙著を献本させていただいた。

 

 後日、再開し会食した時、「増田さんの空手は親父の空手と似ている」と感想を頂き、故久保田紹山(正一)先生の著書をいただいた。その本が「武道空手攻究」である。実はさらに後日、「俺にはわからない。増田さんならわかるだろう」と、ご子息から久保田先生の多くの研究資料が送られてきた。とても光栄なことで、嬉しかった。

 

   昨年の暮れには、久保田正一師範の墓参りをご子息とご一緒した。その時、故久保田師範の個性的な生き方について、少し話が聞けた。実は息子の眼から観た父親像は、私のとても興味のあるところである。ご子息は現在、河合塾の英語の講師で、有名な英語の教本の執筆陣の一人だ。推測だが、若い頃は転勤族で苦労されたようだ。また、私の友人と出会ったときは、高校の教師をされていた。失礼な想像かもしれないが、挫折し、自分の境涯に懊悩する人間の気持ちのわかる生き方をされてきたのだろう。たった一言だったが、拙著に対する感想が良かった。

 

 奇しくも、私の空手の恩師、浜井識安先生は、一橋大学空手道部、一空会の出身である。私が石川県で極真空手を習っていた当時、まだ一橋大学生で、空手部の副将だと言われていたのを記憶する。当時の私は高校生、浜井先生は大学生であった。拙著でも書いたが、本が大好きだった私は、浜井先生がいろんな本の話をしてくれると、とても元気が出た。浜井先生は少しオタク風だったように思う(失礼)。ただVシネ風オタクと言ったら、意味不明だろうな…(またまた失礼)。ちなみに高校生の頃、先生の書斎を拝見し、いつか、この蔵書よりももっと多くの本に囲まれて暮らしたいと思っていた。その目標は達成されただろう。何度も言うが、私の夢は図書館を持つこと、学びの塾を作ることである。虚言に思うだろうが、学校を作りたかった。もはや不可能に近いが、諦めてはいない。いつか宝くじが当たったら、図書館と学びの塾を作るだろう。そして若い人を励ます年寄りになりたい。完全に妄想であるが、一番やりたいことはそれである。もっとも私の性格にあっていることだ。

 

 

【追伸】

 年末年始の無理がたたり、年始から調子が悪い。先日はついに発熱し、数日間動けなかった。幸い、インフルではなかったが、家族にかぜをうつしてしまった。現在、私も含め具合が今一つである。風邪には、「免疫力を上げること」「睡眠不足にならないこと」「体を冷やさないこと」「疲労をためないこと」などが重要らしい。

 

 

 

 

 


平昌オリンピックの羽生選手の戦いを観て

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平昌オリンピックの羽生選手の戦いを観て

(FromAkiraMasuda~デジタル空手武道通信第15号より)

 

 平昌冬季オリンピックが熱い。全ての競技を見ているわけではないが、時々テレビを見る。オリンピックアスリート達のパフォーマンスのみならず、試合前の表情から、若い頃の自分を思い起こす。また、冬季五輪のアスリートのパフォーマンスや言動から、あらゆるジャンルの人たちに役立つことが見受けられた。

 

 本日は、フィギアスケートの羽生選手の演技に心が踊った。その素晴らしさは、フィギュアスケートをしたこともない私にも理解できた。周知のように、羽生選手は試合直前に怪我をして、コンディション調整が大変だったようだ。ゆえに、前オリンピックチャンピオンとしてのみならず、その立ち振る舞いに、より注目が集まったのだろう。私にとって特に興味深かったのは、そのような状況を、本人(羽生)が楽しんでいるかのようだったことである。

  

【怪我が良かったのかもしれない】

 気づいている人もいると思うが、羽生選手にとって怪我が良かったのかもしれないということだ。世界的なアスリートと自分を比べるのは不遜だが、私の経験の中に共通項を見つけ出せるものがある。実は私には空手の決勝戦に勝ち上がったことが数回ある(毎回決勝に上がれたと思うが)。その中で、直前のケガや病気を抱えていた時がある。

  自分に優勝するだけの力があり、自分も周りもそれを期待しているような状況の時、少なくとも周りからは、「それは無理かもしれないよ」というような眼で見られた方が、他者からのプレッシャーは少なくなると、感じた。

 

 補足すると、怪我や病気が周知となっていて、周りが「これはダメかもしれない」と認識している時の方が、周りからの期待のプレッシャーが少なくなるということである。ただし、怪我が周知されていないと、それを自分で抱えながら舞台に望むことになる。そんな時は、相当なプレッシャーが想定される。

 

 私の空手選手時代のことである。私は18回全日本大会に出場する直前、交通事故で右手が使えなくなっていた。試合の前日と1日目(空手の試合は2〜3日間続く)の夜は眠れなかった。否、手首を冷やし、回復を直前まで願っていた。第4回世界大会の時もそうである。歩くことも困難な状況だった。第5回の世界大会では、腎機能障害で何ヶ月も闘病生活をしていた後の出場であった。

 

【周りの目に煩わされる事なく】

   そんな時、不思議と周りの目に煩わされる事なく、自分の心理面のバランス調整能力が活性化されたことを記憶する。具体的には、これまでの自分の技術を俯瞰し、その良いところにフォーカスをあてて、その良いところを活用することに意識がいったということだ。言い換えれば、「自分のできる事を最大限に発揮する」という事だろうか。その結果、自分の良いところが、いつもより良いのではないかと思うぐらい発揮できたのだ。

 

【自分をプロデュースするプロデユーサーとそれを実行させるコーチ】

  私は、誰もが「お前はピンチだぞ」という目で見ている時ほど、自分を俯瞰できるのではないかと考えている。そして、そんな時ほど、「自分のやれる事を最大限にやる」また、「それを最大限に磨き上げる」など、自分の強み(持ち味)に集中できる。そんな基本的なことを我々は、よく忘れてしまう。そして自分の力を過信し、かつ見失い、自分を空中分解させてしまう。もちろん、並み居る強豪の中で最後まで生き残り、自分を輝かせるには、「地力」を生かし、かつ強大にしなければ、頂上の地位(最高)に立つことはできないに違いない。そのことをフィギアスケートの羽生選手は、知っているかのようだった。相当なメンタル調整力だと思う。おそらく、自分を俯瞰するということを耐えず行い、自分をプロデュースするプロデユーサーとそれを実行させるコーチが彼の心の中にいるのだろう。

 

 今回の怪我は、流石の彼も気づかなかった(本当は、それを気づきつつ、ギリギリのところでやっていたのかもしれない)、自身の身体疲労を除去し、かつ彼の持っている類い稀な精神構造を活性化させたと、私は想像する。また、メデイアは書いていないと思うが、ストレートにいえば、直前に怪我をしたことで、団体戦に出場しないことの言い訳ができた。また、外部をシャットアウトし、マイペースを貫けた。普段、羽生選手はストイックでマイペースのようだが、それでも、実は他者とのコミュニケーションにとても気を配っているに違いない。そんな気遣いを全てシャットアウトできた。またその行為が、怪我により免罪された。これは私の経験による感覚であり、羽生選手は、そのような感覚は持っていないかもしれない。また、少し意地悪な見方だと感じる方もいるかもしれないが、結果を出す人間というのは、ある種の「非情さ」を持っているものなのだ。人間をそんな綺麗なものだと考えてはいけない。通常の情や常識による感覚だけを頼りに判断していては、厳しい状況において心理的バランスを保てないと、私は考えている。

 もう一つだけ書いておきたい。昨日の朝日新聞の朝刊の記事に羽生選手のコメントが載っていた。技術を含めた自分の全てを研究する姿勢に感銘を受けた。私が空手でテーマとしてきた「普遍性の探求」と「人間探求」ということにも共通すると思う。以下に掲載したい。

 

 『羽生の言葉を借りれば、「最大公約数」を「連想ゲーム」のように、小学2年のころからつけ始めた「研究ノート」に記録する。つまり、成功や失敗した時に体の各部分がどう動いていたかを整理し、共通点を書き出すのだ。そして、ジャンプ成功のための「絶対に見つけなきゃいけないポイント」を絞っていく。だから、羽生は自分の精神状態や体の動きを、言葉で的確に言い表せる。特にミスした時ほど話す。「話すことで課題が明確に出る」と言い、「(自分の言葉が書かれた)記事を読み返すと、自分の考えを思い返せる。それは財産であり、研究材料。だから、しゃべる」(2月17日、朝日新聞)』。

 

 とにかく羽生選手は、その演技のみならず、コメントも魅力的だった。おそらく、これまでは彼の言動に関しては、異論もあったかもしれないが、これからは誰も異を唱えなくなるかもしれない。それは、良くないことだと思っている。羽生選手は、そのような異論を糧にし、自分の位置と状態を認識し、それを修正していくのだと思う。彼は現役引退を表明していないが、また当然のことながら、彼の人生は続く。彼がどこまで成長するのか。彼は類い稀な努力家であり、かつ強運の持ち主であることは疑いない。だからこそ、これからも思慮深さを深化させることを忘れないでほしい。人生と人間は、スポーツよりも複雑で色々あるに違いないから。そして、今は咲き誇る花だが、いずれは未来へ種子を残し、良き土を作るために貢献してほしい。

 

【蛇足】

 蛇足と言ってはなんだが、普段、所々ツッコミながら観る朝日新聞の朝刊が良かった。なぜなら、今朝の朝刊は、オリンピックと羽生選手の記事と将棋の藤井氏の記事で華やかだったからた。将棋は朝日新聞の主催だから当然だと、ツッコミが入ると思うが容赦願いたい。本日は若い人のみならず、年寄りにも夢を抱かせる良い記事が多かったように思う。私の好みだが、それをテレビやネットで見るより、新聞でじっくりと眺める方が楽しい。私は新聞好きである。しかし、普段、スポーツ欄はあまり読まない。今回は、羽生選手や藤井氏の活躍が次世代に対する希望を育むと判断し、大々的に取り上げているのだろう。そんなメディアの喧伝的なところを、私はいつも突っ込む。そして、エビデンスと哲学を問いかけている。もちろん良い記事もある。また、良い悪いということは別にして、好きな記事がある(朝日に関しては、良い悪いというより、好きな記事が多いかな)。例えば、秋山訓子、朝日新聞編集員のコラムが私の好みである。もちろん他紙の記事にも良いもの、好きな記事ががあると思う。できれば、そんな記事を読みながら、コーヒーなど飲めたら良いなと思いつつ筆をおきたい。

 

 

 

日本女子アイスホッケーチームが気に入った!

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速く、強く、美しく。「スマイルジャパン」、頑張れ!

日本女子アイスホッケーチームが気に入った!

 

【頑張って、輝いているよ】

 なんとか、デジタル空手武道通信の更新を終えた。更新は毎回大変なので慣性の法則?が働く。つまり、無理に「エイ」と掛け声を出すかのごとく、仕事に取り掛かるので、終わった後もアドレナリンが出て、仕事をやり続けてしまう。意味がわかるだろうか。そんなことはさておき、平昌オリンピックについて書いておきたい。

 

ここ数十年、私にはオリンピックに心を動かすような余裕はなかった。今も余裕があるわけではない。むしろ人生に対する諦念が芽生え始めている。そんな今日此の頃だ。ただ、自分の息子や娘の成長を目の当たりにして、若い人たちに対する思いの変化を自覚している。

 

【働く若い人を見ると】

 実は、コンビニ、ガソリンスタンド他、至る所で働く若い人を見ると、私は脳内に快感物質が発生する?ようだ。簡単にいうと、気分が良くなる。私は社会的に非力な人がひたむきに生きている姿が好きだ。そして、その姿をみると、心の中で「頑張って、輝いているよ」と声をかけたくなる。実際にそれを実践したいが、それをやると変人だと思われはしないかと、勇気が出ない。

 

【日本女子アイスホッケーチーム】

 

 さて、今回の平昌オリンピックは過去のオリンピック(冬季)の総メダル数を更新したと聞く。まだ、日本期待のスケートの「パシュート」「カーリング」「スノボ」などの競技が残っている。しばらくはメディア報道がオリンピック中心に違いない。

 しかし、私がメダリスト同様に感銘し、かつ気に入ったのはメダリストのみではない。私が気に入ったのは、日本女子アイスホッケーチームだ。私は日本女子チーム初戦のスエーデン戦を見て、その戦いの清々しさと凛々しさに感銘を受けた。

 日本女子チーム(スマイルジャパン)は、自分より格上のスゥエーデンチームを相手に、見事なパスワーク、そしてロングシュートで果敢に挑んでいた。初戦は惜敗したが、私はアイスホッケーの魅力を理解した。

 

【冬季オリンピックの特徴】

 まず、冬季オリンピックの特徴だが、氷上や雪上をスケートやスキー、ボードなどの「道具」によって移動する競技は、人間の足で地面を移動する競技と異なり、そのスピード感が異なる。おそらくその道具を用いた技術やスピード感が、我々の脳内を刺激するのであろう。優れたオリンピック競技の共通項をあげれば、独自かつ卓越したエンターテインメント性だと思う。そして、そのエンターテインメント性の要素を分析すれば、その技術、スピード感(躍動感)、勝負性(ギャンブル性)、同族意識(自己同一化?)、卓越した技術やリズム感(優れた技術・競技には独特のリズム感がある)など、それらの刺激による、感動・共感ではないかと思っている(大雑把であるが)。さらにもう一つ、見る人が勝負を理性的に納得できるという条件が必要だ(ここは説明するにもう少し字数が欲しいところだ。仮に、記号を意味として理解する際の普遍性を構造として有する、としておこう)。換言すれば、競技の有する卓越性をジャッジ(審判)する判定基準(ルール)に普遍妥当性がなければならないということである。

 私は5年前にオリンピック競技化を想定し、新しい空手(フリースタイル空手)を構想したが、そのベースには、オリンピック競技に対する、様々な本質分析と戦略があった。しかし、資金不足と仲間不足のため中断している。いつか空手がオリンピック競技として進化することがあるとしたら、私の考えと同一の認識が空手界に常識となった時だと思っている。

 

 話を戻すと、アイスホッケーは女子と男子では、少しルールが異なるようだが、そのスピード感のすごさは共通である。例えば、サッカーやラグビーで言えば、カウンター攻撃に当たるだろうか。そのスピード感は先述したように、氷上を道具を使って移動することで陸上のスピード感を凌ぐ。フィギアスケートの回転技こそないが、その加速、停止、転回などのスケーティング技術の切り替え、使い方が半端ではないように見えた。そして道具を巧みに使う技術が想像を超える。

 

 また、先述したように、女子アイスホッケーは、男子では認められている接触プレーが反則となっているようだ。それでも、ものすごいで接近してくるプレーには、ラグビーのタックル並みの迫力があると思う。つまりアイスホッケーには、相手選手に気後れしないメンタル面の強靭さを、格闘競技のように要求されるだろうと理解できた。そして、そのようなメンタル面の強靭さを日本女子アイスホッケーチームに感じた。

 

 そのことを2度目のスエーデン戦の勝利で確信した。なんと、日本女子アイスホッケーチームはランキング上位のスエーデンに延長戦で1点を獲得し処理した。その勝因は、スゥエーデンチームがおそらく連戦の疲労感と処理への焦りにより、連携プレーの精度が落ちていたように思う。スゥエーデンチームには、初戦では、日本に得点した、ボクシングのインファイトのようなゴール付近の攻防での連携プレーが見られなかった。一方、日本女子チームのミドルシュート(ロングシュート?)が2戦目(対スゥエーデン戦)では効果的だった。実は日本女子チームのロングシュート(ミドルシュート?)の連発に、私は批判的だった。なぜなら、実力が伯仲している相手には、ロングシュートのみでは勝てない。やはり、ボクシングでいえば、ミドルレンジからショートレンジの間合い(時空間)での連携技(コンビネーションプレー)が必要だと考えていた。それが、初戦の日本チームには見られず、一方のスゥエーデンチームには見られた。それが2戦目では、私の想像だが、スゥエーデンチームのディフェンスが甘くなっていた。ゆえに日本女子のミドルシュート(ロングシュート?)が効果的だったように思う。もしかすると、ミドルシュートの精度が日本女子の持ち味なのかもしれない。

 

【日本女子のスタミナとスピードとパスワーク】

私の見立てだが、日本女子のスタミナとスピードとパスワークは素晴らしいと思った。また、女子アイスホッケーは、男子とは異なり、インファイト(コンタクトプレー)はあまり見られなかったが、それでも、日本女子選手は体格に勝る欧米の選手のプレッシャーに、気持ちで負けていなかったように思う。他国がルールギリギリのラフプレーを仕掛けてきた時も毅然と対応していた。このような面も私が日本女子選手を気に入ったところである。

 

 さらに言えば、スポーツには強い感情がつきものだが、ルールギリギリのラフプレーを私は好まない。そのような選手が好きになれない。自分自身を鼓舞する感情は結構だが、それを対戦相手にぶつけるのは、スポーツ選手の哲学としてもいただけないというのが、私の考えである(ただし、時にはそれも必要か?)。ただ、格闘技さながらのアイスホッケーという競技にあって、そのような面においても、日本女子選手の姿は素敵だった。立ち振る舞いが高貴である。

 

 次は、5位と6位の順位決定戦だが、是非、メディアも取り上げてほしい。また、男子アイスホッケーの試合も見てみたい。兎にも角にも、今回のスマイルジャパン(日本女子アイスホッケーチーム)のパフォーマンスは、メダルを取った他のアスリートにも劣ることがなかったと、私は思っている。今、私の脳内には快感物質が出ているようだ。そして、日本女子アイスホッケーチームに心の中で「頑張って、輝いているよ」と声をかけている。

 

 蛇足ながら、私が空手選手だった昔、私の練習場所は、道場と高田馬場のビックBOXというスポーツジムであった。そこには、西武鉄道のアイスホッケーチームの選手が時々来ていた。その中の一人の選手と話をしたことがある。名前を思い出せないぐらい、ほんの少しの会話だったが、感じの良い人だった。その人は、私より少し年上の選手だったように記憶する。

 当時も練習などで余裕がなかった私は、試合などを見に行かなかったが、できれば今度、日本女子アイスホッケーの試合にいきたいと思っている。

 

2018-2-20:一部修正

2018-2-26:一部修正

 

 

 

武道への道〜From Akira Masuda 

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武道への道〜(FromAkiraMasuda /デジタル空手武道通信コラムより)

 

【真の武道への道】

 真の武道への道、そして上達とは、皮相的な技を習得(おぼえた)したということではなく、技の構造の認識レベル、かつ術の体得レベルの到達度で判断することです。言い換えれば、技術の深奥を尋ね、その理法を全身で理解していくことです。

 

 さて、我々の流派の初段、空手道の黒帯は、修練基本項目を一定レベルで習得した者です。もちろん、初段の技術レベルは、決して高いものではありません。しかし技術の習得レベルよりも大切なことがあります。それは、理念をしっかりと心身に刻印し、さらなる修練を志すことです。残念ながら、決して現実は必ずしもそうではないかもしれません。しかし、私は黒帯がそうでなければ、自らの価値を自らが貶めるがごとしだと考えてきました。また黒帯とは、その門下のリーダーとしての意識を持ち、互いに協力しあって、仲間を手助けし、かつ自らを高めていかなければならないと、私は考えています。ゆえに私は、黒帯として、自らの未熟を自覚し、たゆまぬ精進を続け、「浅から深へ」と、認識レベルを上げたいと思っています。

 

 ここで言う認識レベルの向上とは、決して単に空手技が強いということではありません。自己の心身の最善活用を成す、その方法を体得することです。

【私にとっての空手と空手道は】

 ここで、これまでの私にとっての空手と空手道を振り返れば、時に厳しく、また苦しいものだったように思います。しかし、同時に楽しいものだったようにも思います。そして現在、私にとっての空手と空手道は、さらに厳しく、苦しいものになりつつあります。

 

 そこで空手を山に、空手道を山登りに例えて見ます。すると、現在の私にとっての空手と空手道は、天候が崩れた、酸素の薄い、高い山で、次の行動をどうするかの判断と決断を逡巡しているような状況だと思えてきます。「山を降りるか?」「そこでとどまるか?」「それとも登り続けるか?」…。それは、空手を生業とするがゆえに生じる逡巡、要請される判断と決断かもしれません。私もすでに50歳台後半です。先輩には生意気だと叱られると思いますが、長く生きていると、全ては人間的な修業と思えてきます。また、それが斃れるまで続くことが理解できます。

 

 これまでの私が望んだことは、高い山に登ることでした。しかし、私の前には登るに困難な山はありましたが、高い山はなかったように思います。ここ数十年の私は、とても高い山に登ろうとしていました。しかし、その山は私の頭の中だけにある山かもしれないと、思い始めています。つまり、私の見ていた山は妄想であったと、いうことです。また、私にはその山を登る資格がないのかもしれないと思っています。それほど登り続けるには困難な状況です。その大変さは、高い山に登っている人間にしかわからないでしょう。

 

 今、そこに踏み止まりながら、状況を判断し、次の行動を決断しなければならないと、私は考えています。時間はそんなにありません。ただ、私に見える高い山は決して妄想ではなく、今そこにある現実だと思っています。だからこそ、一旦撤退してでも、準備をし直し、私が見ている高い山の頂(いただき)に立ちたいと考えています。そして、いつか頂(いただき)に立つことができたならば、そのプロセスを皆に丁寧に語りたいと思います。また、高い山に登ることのみならず、美しい山に登ることが大切だと言うことを伝えたいと思います。さらに山の高さよりも、美しい山を愛し、それを大切にすることが大切ではないか、と語りたいと思います。そして最期に、美しい山を愛する、より多くの仲間がそばにいてくれたら、とても幸せな人生にちがいないと考えています。 

 

2018-3-3:一部修正

 

空手道場生の皆さんへ〜修練と修道

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空手道場生の皆さんへ〜From Akira Masuda

   以下は、IBMA極真会館増田道場のホームページの〈稽古カリキュラムの案内〉のページに掲載されている内容です。現在、デジタル空手道教本の修整及びホームページの内容の修正を行っています。デジタル空手道教本は、見やすくなったと思います。内容はさらに増えて行きます。ただし、少しづつです。今後、内容の補充、更新は、私が空手道に邁進しているかぎり続くでしょう。

   ここで再確認して欲しいのですが、IBMA極真会館の空手道の核は、絶えず理念を高め続け、その内容をより良く更新し続けけることです。道場生の皆さんも、ホームページやデジタル空手道教本を通じ、IBMA極真会館空手道に対する認識を明らかにしていってください。それは事物の認識装置としての自己を更新し続けることです。言い換えれば、それが自己の成長であり、上達、進歩、発展だと思います。

 

修練と修道

 IBMA極真会館空手道の稽古カリキュラム(体系)の骨格は、「修練」と「修道」の大きな骨組みとそれに関連する様々な項目によって構築されています。

 

 その「修練」とは、空手武道の実践(実技)稽古を意味します。つまり、自己の心身を使い、それを磨き上げていくことです。また「修道」とは、修練による学び(経験や気づき)を理論と照らし合わせ、自己の認識(考え方)を吟味・検証することです。つまり、自己の心身に関する認識を更新し続け、より良い認識を得ることです。

 

 さらに言えば、稽古とは修練と修道の二つの面を併せ持った実践でなければならないということです。言い換えれば、IBMA極真会館空手道とは修練と修道の一体化を目指します。そのために我々は、IBMA極真会館空手道の理念等を指針に、自己の心身と真摯に向き合うことを基本とします。

 

 

平昌冬季パラリンピックを観て

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平昌冬季パラリンピックを観て

 

 

 

 【スポーツの素晴らしさ】

 周知のように平昌冬季オリンピックは日本人選手の活躍めざましく、私も多くのアイドル的アスリート達に感動をいただいた。断っておくが、アイドル的とは語弊があるかもしれない。ただ、選手達にスポーツ的感動以上の癒し的な感覚をいただいたのは私だけだろうか。

 

 現在、冬季オリンピックに続いて平昌冬季パラリンピックが開催されている。さすがに仕事が山積する中、オリンピックほど観ないが、それでも報道を観る。

 

 そんな中、感じることは、スポーツの素晴らしさである。テレビでもスポーツの素晴らしさを喧伝していたが、スポーツの素晴らしさとなんだろうか?

 

 厳しい状況の中での素早い判断と決断。また、非日常的な技術。それが見るものに直接的に伝わってくる。そのような要因がスポーツによる感動の源だろう。さらにメディアは、選手達にストリー性を持たせ、アイコン性を強化する。以上は私の直感である。正解があるかどうかは別として、増田流に少し考えて見たい。

 

【スポーツと武道の違いについて】

 まず、スポーツについて考えるにあたり、私の周りでよく聞くことに、スポーツは「遊びから派生し、楽しむこと…」。一方、「武道とは遊びではなく、命懸けの真剣勝負の道である…」などの大まかな定義がある。先述した言は、定義というには大雑把すぎるが、私の周りでは、スポーツに対する批判に近い評価があるのは事実である。そして、空手や武道に対する特別扱いがある。あえて、それを言うのは、私は、スポーツと武道を分けて考える向きに、若干の違和感を感じてきたからである。ここで少し、スポーツと武道の違いについての持論を展開したい。

 

 繰り返すが、私は先述したようなスポーツの定義には違和感を感じる。また、先述の武道の定義も同様である。なぜなら、そのような武道の定義の背景には、兵法があるとして、ほとんどの武道、武術が、兵法とは異なるものとしか思えないからだ。また、たとえスポーツが「遊び」から始まったとしても、その発展系は、「単なる遊び」とは思えない。その意味は、スポーツにおける高度の集中力の発揮される状態と武道における、それとは同一のものだと想像するからである。ただ問題は、インプットされる情報に質的に異なる部分が少々ある。そこが重要だと言われる向きに関して議論するには、もう少し丁寧に論を展開しなければならないだろう。あえて乱暴に言えば、「武道とは命懸けを想定する」と言うが、命懸け、そして兵法は理性を超えた領域を想定しなければならない。つまり、命懸けを扱うなら、理性を超えた領域を扱わなければならない、ということである。これ以上はここでは書けない。

 

 そこまで言わなくても、武術の原初は、扱いを誤ると死傷に至る武器と格闘の訓練であり、それゆえ不断の心構えと精進を必要とする。その部分が武道の武道たる所以だと言えば、楽しさ優先のスポーツのあり方は、武道とは異なると言っても間違いではないとは思う。ゆえに私も武道とスポーツの間に一定の距離をおいている。しかし、スポーツと武道が同一ではないとしても、双方に架橋し、長所、短所を補完し合えば、それぞれがより良いものに発展すると、私は考えている。

 

 少しくどくなるが、人間が武道や武術の訓練に精力を傾けられるのは、その行為の必要性のみならず、その行為の先に「遊びの要素」と「遊びの究極」があるからだと思う。ここで言う「遊びの究極」とは、単なる気持ちが良い、あるいは、楽しいというようなことを超越した感覚である。それは、禅でいうところの「三昧の境地」に至ることだ。また「三昧の境地」とは、「無心の境地」と言い換えても良い。補足すれば、「遊びの要素」とは多様な情報を一つにまとめ上げるために必要な行為なのではないかと想像する。そして遊びという行為の究極に、無心の境地があるように思うのだ。おそらく、予測不能の真剣勝負の中、自己を喪失しないために、そのような状態が必要なのであろう。同時に、無心の境地とは自己の全力を発揮する準備が整った状態でもあると思う。さらに言えば、その境地に至った後、初めて真の感謝が実感されてくると、私は直感している。そのようなことを、若い頃、スポーツとも武道とも言えぬ極真空手に人生を賭し、私は感じ取った。

 

 私は若い頃、私に対する理不尽とも思える評価に対し、どうしたら自己を喪失せず、自己のパフォーマンスのベストを現出させられるか、苦悩していた。その苦悩の解を求めて、一日8〜10時間の稽古を目標とした。そんな中、肉体を鍛えることの先に「無心の境地」が見えてきた。要するに、心と技と体を自由自在に活用するには、無心の境地に至る扉の鍵が必要だと感じたのだ。そして、その鍵を手中にすることが、トップアスリートの必要条件だと悟ったのである。

 

 私は極真空手のチャンピオンになるため、自己にハードなフィジカルトレーニングのみならず、徹底的なメンタルトレーニングを自己に課した。その中には宗教や信仰について掘り下げることも含まれる。また私は、いくつかのメンタルの状態のポイントを掲げ、絶えずその状態が維持されるように、絶えずキーワードとともに意識し続けた。そのキーワードをいくつかあげれば、「あきらめない」「積極」「集中」「楽しむ」ということである。もちろん、それ以外にキーワードがある。さらにそのキーワードの先には「感謝」があった。

 

 増田流の「あきらめない」とは、自分の頭の中で結果を出さないということである。最後の最後まで結果はわからないと、考えることと言い換えても良い。また「積極」とは、「必ず良くなっていくと信じること」である。そして「集中」とは、今この瞬間に全力を尽くすことである。また「楽しむ」とは、すべてのものを生かすことである。また生かしている実感をつかむことである。楽しむということは、「自分自身が生かされているという実感を得ること」と言っても良いだろう。さらに言えば、その実感を得るためのアイテム、呪文は、すべての物事に感謝することであろう。これまで、メンタル面について多くを語らなかったのは、精神的なことをいう人間が嫌いだったからである。なぜ嫌いか。今はまだ語らない。ただ、若いアスリートの情熱とひたむきさを目の当たりにして、その時の自分の姿を思い出した。

 

【家族の深い感動と愛】

 かなり脱線した話を戻したい。今回の平昌冬季パラリンピックにおいて、最も感動したのは、メダリスト達の家族に深い感動と愛があることを知ったことだった。私は、テレビで選手の家族らが、その勝利に涙を流している姿に、もらい泣きした。蛇足かもしれないが、私には障害者の家族はいない。当然、障害者スポーツを行う人、そして障害者のことも理解不能であることを承知している。しかし、これまでの人生で、障害者と障害者を持つ家族との出会いはあった。そして私はいつも、その人たちを通じ、障害者を持つ家族の気持ちを想像してしていた…。こんなことを言うと僭越ではあるが、「障害者を家族に持つことは、とても大変なことだと想像する」しかし「不幸なことではない」と信じたい。むしろ、可能性としては、「より深い愛を感じ取れる機縁をいただいているのではないか」と思っている。大変僭越な物言いであるが。

 

【自由かつ不自由】

 もう一つパラリンピックを観て思うことがある。おそらく、障害者スポーツを行う人たちの始まりは、自分の体を自由かつ不自由だと自覚したところから始まるのではないかと言うことだ。言い換えれば、身体の不自由を受け入れたときから、自由への道が始まるということである。

 

 私はかつて究極のパフォーマンスを追求していた。しかし、現実は厳しく困難であった。例えば、怪我などによる障害や思い通りにならない自己の心身に足掻いていた。そんな中、自分の心身とは、自由かつ不自由なものだと、私は考えていた。

 

【究極的には健常者も障害者も同じではないか】

 今私は、究極的には健常者も障害者も同じではないかと、直感している。否、健常者の方が自分の身体の自由に囚われ、不自由を受け入れられず、最期、不自由な身体と向き合い、人生を終えていくような感さえする。一方の障害者アスリート達は、不自由を受け入れ、むしろ自由の本質を掴んでいるように思うのだ。もちろん、健常者も身障者も、いずれ身体的に機能不全に陥り、人生を終えるに違いない。しかし、身障者アスリートの生き方には、本当の自由を掴もうとする、積極的精神、そして自己の人生を楽しもうとする情熱に溢れている。私は、その障害者のあり方、姿を肯定するだけで、社会的な意義があると思うのだ。断っておくが、私は障害者も不自由を克服し、スポーツを行えと言いたいのではない。ただ、障害者のみならず現健常者の身体も不自由になっていくのが通常である。しかしながら、考えてみてほしい。全ての人間は赤ん坊の頃、不自由だったではないか。それを家族が、また社会が守り、育ててくれたのではないかということを言いたいのだ。そして、その感謝を社会の一員一人ひとりが、今一度、深く自覚することで、より良い社会に向かうと思うのである。言い換えれば、人間の可能性の開拓を社会のみんなで保証していくことが、より良い社会を築く方向性だと思っている。そのようなことを、パラリンピックは感じさせてくれた。スポーツも同様である。みんながスポーツを通じ、無心の境地を目指し、自己の心身を解放させ、かつ感謝を感じていく。私はパラリンピックに関しては無知である。しかし、スポーツの思想が発展することに対し、武道の掲げる思想の貧困を、私は感じずにはいられない。

 

【社会に有益でなければ】

 最後に、障害者アスリート達の家族の愛情は、一般のそれよりも深く、そして強いのではないかと、想像する。ゆえにその涙に、もらい泣きするのは、私一人ではあるまい。

 

 パラリンピックが私に再認識させてくれたことは、人間の可能性の豊かさのみならず、家族や社会の有難さである。また、余計なことだが、パラリンピックは、商業主義を揶揄され、臭いものに蓋をされている感のする、オリンピックを浄化し、スポーツを公共的文化財として高める効果がある。

 

 遊びの究極を「三昧の境地」「無心の境地」と先述した。また武道を掲げる人たちが、本当に命懸けの真剣勝負を想定するならば、「無心の境地」に至らねば、究極的に役には立つまい。もちろん、その技や術を知らない相手には優位性を保つものぐらいにはなるかもしれない。しかし、それだけでは十分ではないだろう。

 

 繰り返すが、オリンピックアスリートが目指すべく「三昧の境地」そして「自由」とは、武道や武術を行う者が目指すべく、究極的境地、自由と同じではないかと考えている。

 

 さらに言えば、武道や武術は、近世においては兵法と切り離され、本質は武芸である。それは、スポーツと親和性の高いものである。否、同質と言っても過言ではないと考えている。ただし、武術や武道には、護身術としての側面があり、その部分は、スポーツと異なるところかもしれない。しかし、スポーツも国家有事における、国民の心身の訓練が含意されていると思う。見方を変え、拡大解釈していけば、スポーツと武道には、共通項とともに兵法にも繋がっていく。そこまで大きく俯瞰し、かつ掘り下げるるなら、論文を書かなければならないが。

 

 とにかく、武道と言おうがスポーツと言おうが、社会に有益でなければ、発展しないだろう。ゆえに私は、武道をスポーツと融合し、武道をより公共性の高いものにしていくことは、一案に違いないと思っている。

 

 

 

 

デジタル空手武道通信 編集後記

 

【心と心のつながり】

 私はかなり前、一昨年、急逝した元ラグビー日本代表監督の平尾誠二氏と神戸にある洒落たBARでお酒を飲んだことがある。私と平尾氏とは同じ学年である。その時は、共通の知人がセッテイングしてくれた。その時の話題が「スポーツは遊びか」だったように記憶する。たまたまだったが、私は遊びとは、人間にとって有意義な行為であり、それを深化させていくことは、崇高な行為であると、持論を展開した。それに平尾氏は合わせてくれた。その席をセッテイングしてくれた知人は、理論家の平尾氏とバンカラな空手家の話が合うか心配していたようだ。その知人も同学年である。平尾氏は私よりも少し背が高く、スタイルも良かった。一言で言えば、かっこ良かった。別れ際、自分の携帯番号を教えてくれ、いつでも電話してくださいと言ってくれた。とても社交的な人でもあった。当時の私は、空手界の揉め事の影響で毎日が憂鬱であった。

 私は平尾氏が亡くなったとニュースで知った時、とても残念だと思うと同時に、人の命の儚さを感じずにはいられなかった。ここ数年、同年代の知人が数人、夭逝した。そんな中、私が思うことは、「必ず人は死ぬ」。ゆえに「一番大切なものは何か?」「一番大切なものをもっと大切にしよう」ということである。

 私の一番大切なものとは何か?「健康」「家族」「…」?私が大切にしたいことは、抽象的だが「心と心のつながり」である。今現在、身体に無理を強いて製作している、デジタル空手道教本もそのためのツールである。今、非力な私が頼りにするのは空手であり、それを使って、我が心と他者の心が深くつながることを目指したい。今はまだ、私の発信する電波が弱く、人に届かなくても、いつか必ず受信できるようにしたいと考えている。

 私は平尾氏との出会いを進展させず、惜しいことをしたと思っているが、彼の心から発信された電波を受信したつもりだ。その平尾氏が夭折し、いつか平尾氏について書きたいと思っていた。その平尾氏とのことを思い出しつつ、今回のコラムを書いた。

 

 

▼合宿講習の下見にて

 

 

 

2018-3-18:一部加筆修正

 

 

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