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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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有効打という認識と視点その1

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有効打という認識と視点〜その1

 

デジタル空手武道通信のためのコラム(読み物)として書きました。長いので、本日と明日の2回に分けて掲載します。

興味がある方はデジタル空手武道通信・第61号の巻頭コラムで全文閲覧可能です。

 

 

 

 

 

【組手技能を獲得したければ】

 先日、私の主宰する空手道場において昇段審査会が行われました。その総評で私は「攻撃が上手く、防御が下手なものは、まだ本当に上手くない」「防御が上手く(巧みで)、攻撃が下手な者は、まだ本当に上手くない(巧くない)」「攻撃と防御の両方が上手い者(巧みな者)が本当に上手い者(巧い者)」と述べました。

  なぜなら、私は相手を攻略するには、打撃技の精度は当然のことながら、防御技と攻撃技の両方を活用する能力を高める必要があると考えているからです。その能力を私は組手技能と呼びますが、その技能の獲得は誰でもできることです。然しながら、その技能が必要だとの認識がなければ、その獲得の可能性は拓かれません。より端的に述べれば、組手技能を獲得したければ、先ず以って「攻撃法(術)のみならず防御法(術)の両面から修練を行わなければ技能は身に付かない」となります。

 

【戦術的修練】

 然しながら、私のいう組手技能というものがどういうものなのかが理解できない人が多いのかもしれません。その証拠に、多くの空手流派の組手修練では攻撃法(術)の強化のみに注力しているのではないでしょうか。具体的には、攻撃技のスピード強化、パワーアップ、さらに組み手の際のスタミナ強化が主だと思います。もちろん、それらの修練は武道修練の柱となるものです。また、それらの修練は、武術の修練に付随する訓練的な要素であって、武道の核にある武術修練とは異なるものです。また、そのような修練ばかりを行えば、体力が全てだというような誤認をしてしまう可能性があります。本来の武道修練は、もっと戦術的なこと、技術的なことを習得するものだと思います。

 私がいう戦術的修練とは、攻撃技と防御技の運用法を学ぶことです。そのような認識を前提にするからこそ、攻撃技の精度や技の活用のための技能が養成されるのです。

 

【他の打撃系格闘技の空手競技者の技能を比較した場合】

 おそらく戦術的感覚及び打撃技の技能の面で、空手競技者とボクシングやムエタイ、キックボクシングなど、他の打撃系格闘技の空手競技者の技能を比較した場合、明らかに空手競技者の技能は劣ります。「そんなの当然だ」「ルールが違うのだから」というのは簡単です。また、攻撃技を制限・限定することで、独自の蹴り技が発達したという面はあります。その発達した打撃技を以って、空手は最強、すばらしい、と肯定するのは噴飯物だと思います。さらに言えば、事をそんなに簡単に片付けて良いものでしょうか。

 客観的に眺めますと、他の打撃系格闘技は打撃技のルールにある程度の共通項があるので、技能の構成要素が共通しています。一方、空手の打撃技は、打撃技を当てない、あるいは当てても突き技による頭部打撃は禁じ手とするなどのルール設定により、技能が未発達です。もちろん、そのような組手ルールにしたのには、それなりの理由があることは知っています。その理由の最たるものは安全性の確保だと思います。そして、そのことにより格闘技系武術より老若男女に普及したかもしれません。しかし、そのことにより、武術としての感覚や技能が劣化しました。一方、防具空手や日本拳法などの防具を活用し、突きによる頭部打撃を認める流派には、武術としての感覚や技能が残っているかもしれません。

 ここで私が言いたいのは、どの武術や流派が良いとか悪いとかではありません。私が述べているのは、武術修練として大事な要素とは、その格闘技術(殺傷力)を磨き高め、かつ、様々な局面において活用するための技能の養成という認識と視点だ、ということです。

 もう一つ、空手の技能と感覚が武術として退歩している原因は、空手が現競技に囚われているからだと思います。また、そのルールの中での戦いに慣れすぎていることが原因です。多くの空手流派が「空手は武道だ」と謳っています。しかしながら、武道は武術の駆使という特殊な状況下における心身の運用と活用を核にするからこそ、その独自性と有用性がある、と私は思うのです。

 また、その独自性を忘れては、スポーツよりも劣るものに堕落していくでしょう。断っておきますが、私はスポーツを肯定する立場です。ゆえにスポーツとしての空手も肯定する立場です。

 一方、未熟なルールの中での勝利を盲目的に信じ、その勝利のために攻撃技のみに囚われている競技者の姿には、全体主義的社会における盲目的な視点と精神の抑圧を感じます(精神の解放性を感じない)。もちろん、流派の中での競技法は多様で良いとの立場ですが、然しながら、もし、競技者を数の面で増やし、社会的な影響を与えたいならば、そこには普遍妥当的な価値観がなければならないと思っています。これ以上述べれば、話が難しくなるのでやめます。

 平たく言えば、空手には防御の意識と防御技能が未発達の競技者が多すぎます。私は、その傾向に対する対策として提言したいことがあります。それは、試合判定に「有効打という認識と視点」を加えることです。

 もし、有効打が判定に加えられれば、当てる(攻撃)ことのみならず防御を考えるようになります。同時に、選手のみならず、審判、観客、そして愛好者に技能の優劣が理解できるようになります。また、その視点が加われば、空手競技に新たな価値観と魅力が付与されると思います。

 一方、ダメージを与えて、相手をKOするという判定基準、また短い試合時間、かつ、限定された、これまでの競技ルールを継続していては、技能の養成は困難だと思います。せめてキックボクシングのように5ランドあれば、選手の技能は変わると思います。また、有効打を判定に加えることで、選手の防御技能が高まるのみならず、後述する攻撃技をより有効化する打撃技を当てるための後述する「作り」の意識と技能が生まれるのです。

 

 

【競技選手として駆け出しの頃】

 ここで脱線して私が競技選手として駆け出しの頃の話をします。私は自分より攻撃力がある相手と戦う際には、相手の攻撃を絶対に被弾させないとばかりに「受け技」の稽古をし、戦いに臨みました。また、右手が負傷して臨んだ第18回全日本大会では、左手1本と足技のみで全て戦いました。負ける恐怖で2日間、ほとんど眠れませんでした。また、1試合ごとに「生き残った」と「次の一戦も命懸けで」と言い聞かせて戦い抜きました。その際、退き身や入り身、回り込みで位置取り、間合いの調節をしながら私は戦いました。また左右に位置取りをしながら戦う技能を使って戦いました。この位置取り、足使いの感覚は、高校生の頃、柔道の他にレスリングを経験したことが大きかったと思います。レスリングは接近戦ですが、フリースタイルは別です。タックルで脚を取ってくるので、瞬時に相手の動きに反応し、その技の防御を行い、かつ相手を崩し、さらに位置を変えます(バックを取ります)。

 

 私は、レスリングの基本的な動き・技能に強いインスピレーションを得ました。空手とレスリングは競技が異なり、戦う技術も違うと思われる人がほとんどでしょう。しかし、そこが私と他の人の感覚が異なり、理解されない原因だと思います。その時、私はレスリングの技能に内在する原理の中にあらゆる戦い、当然、空手にも活かせる技能の原理があると直感したのです。つまり、私は技能に内在する原理を感じていたのです。幼い頃は、それを原理などとは考えませんでしたが、今は違います。それは戦い(格闘)の原理であり、そこから技能が生じ、また思想が生まれるのです。

 

【自分の攻撃のみを正確に被弾させる技術を追求】

 長い修練の中で、私の戦い方は、攻め一辺倒の組手から、相手の技を受け崩し攻める、後の先とも言える戦い方に変化しました。言い換えれば、なるべく相手の攻撃を被弾(まともに受けないで)しないで、自分の攻撃のみを正確に被弾させる技術を追求すると言うものに変わりました。しかしながら、今持って、極真空手の世界で、そのような戦い方を目指している者はほとんどいないと言っても過言ではないでしょう。その根本原因を私は、極真空手が顔面突きを禁じていることではなく、有効打を判定基準にしていないという打撃技に対する認識、イメージの問題だ思っています。一言で言えば、攻撃技の判断基準が明確ではないと言うことです。

 

 ここでいう攻撃技の判断基準の曖昧さは攻撃技の精度を向上させないだけでなく、防御技術を等閑にします。また、攻撃技を審判が明確に判定しないルールを利用して、打たれ強さを強化し、手数で優位を得ようという戦術が生まれました。その結果、一撃必殺を謳う空手の組手なのに、その打撃技には一撃必殺の切れ味は見えません。もちろん、直接打撃制の空手競技のKOシーンは破壊力を感じさせます。然しながら、理合のわかる人から見れば、相手の防御技技術が未熟なところに攻撃技が当たっていることがほとんどです。

 

【私が若い頃に師事した浜井識安先生や山田雅俊先生】

 振り返れば、私は幸運でした。なぜなら、私が若い頃に師事した浜井識安先生や山田雅俊先生の指導法は、他の先生とは異なっていて防御技を攻撃技と一緒に教えてくれたからです。浜井先生の場合、まずは上段回し蹴りの当て方としてコンビネーション(拓心武術では連係技)を指導していました。同時に上段回し蹴りの防御技と反撃技(拓心武術では応じ技)を指導していました。そのような指導法は、当時、画期的だったと思います(極真会館では)。山田先生の場合は、まず門下生に下段回し蹴りを防御する「スネ受け」を指導します。そして相手に確実にダメージを与える堅実な攻撃技であるローキックを指導するのです。キックボクシングなら当たり前のことですが、当時の極真会館の空手では当たり前ではありませんでした。おそらく、山田先生は強力な下段蹴りの技を自分の得意技としつつ、その技の防御法も有していました。おそらく、下段回し蹴りの威力を知っていたからだと思います。その威力を知っていたからこそ、その防御技をセットとして修練に組みこみ、門下生が下段回し蹴りで負けないように、と考えたのでしょう。

 浜井先生や山田先生の指導法の共通点は、攻撃技の有効性と同時にその技を防御することを教えること。また、その情報を理論的に門下生に伝えてくれることでした。当時、経験も知識も貧困な幼い私は、もっと豊富な情報や知識を欲していたのです。さらに、浜井先生は私に情報のみならず、さまざまな経験をさせてくれました。そのことが本当に幸運でした。ただ、誤解を恐れずに言えば、他流派に出稽古し、色々と学ぶのは、中途半端になるし、面倒臭いことが多すぎるので嫌いです。浜井先生の場合は、余計な世話をせずに、私に豊富な情報を与えてくれるだけなので、私の性格にはあっていました(私も出稽古はしますが、私は人見知りです)。

 

【ムエタイの選手は攻撃力のみならず防御技術も優れている】

 もう一つ昔話をすれば、私は若い頃、大阪で1年間生活したことがあります。その時、山田先生の直弟子で後の全日本チャンピオン、故・大西靖人氏と同じアパートで生活していました。
当時、私より少し長の大西氏には世話になりました。良い思い出です。しかし、一緒に稽古しても、大西氏は山田先生直伝のその技を教えてはくれませんでした。山田先生の弟子である故大西靖人氏は強力な下段回し蹴りを得意技にしていました。私はその下段回し蹴りを稽古中被弾し、その威力を知り、懸命に防御技を考えました。大西氏は、私が防御法を聞いても教えてくれませんでした。いろんな技を直ぐに教えてくれた浜井先生とは違いました。おそらく、私をライバルだと認識していたのでしょう。懐かしい思い出です。私は、毎日、下段回し蹴りが脳裏から離れませんでした。あるとき、防御技が閃いたのです。その技を大西氏に伝えた時、大西氏が「苦笑い」をしたのを覚えています。しかし、悩んだ結果、大西氏の左下段回し蹴りは私の得意技にもなりました。そのような体験も新しい武道の修練法を考案するための良い体験になったと思っています。後に、その防御技術はムエタイでは基本的技術だったことを知りました。ムエタイの選手は年間に百戦以上も戦うので、相手の攻撃を被弾していては身体が持たない思います。それに加え、ムエタイの勝負判定基準が、膝蹴りやミドルキックをまともにもらうと有効打として判定するということもあると思います。また、テイクダウンも有効技(ポイント)として、判定に影響するようです。そのように判定基準がKOのみならず、有効打の競い合いという構造を有しているのです。私は、そのような判定基準(ルール)があるから、ムエタイの選手は攻撃力のみならず防御技術も優れているのだと考えています。いうまでもなく、ムエタイには打たれ強さもあります。

 

その二に続きます(明日)

 

 

 

 

一休.com

 

 

 

 

 

 

 

 


有効打という認識と視点〜その2

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有効打という認識と視点〜その2

 

長いので、昨日と本日の2回に分けて掲載しました。

興味がある方はデジタル空手武道通信・第61号の巻頭コラムで全文閲覧可能です。

 

 

 


【「作りと掛け」という概念】

 随分と脱線が長くなりました。これから、「攻撃法(術)のみならず防御法(術)の両面から修練を行わなければ技能は身に付かない」という私の考えについて説明します。

 まず「攻撃することしか知らない」、そのような認識と視点では、身体的に強く、あるいは技能に優れた相手には勝てません。身体的に自分より劣る相手、あるいは技能に劣る相手なら可能かもしれません。そのような戦いばかりを繰り返していてが、攻撃技を真に生かすための技能という発想・意識の萌芽はあり得ません。

 

 ここで想像して欲しいことは、攻撃技が有効になるためには、有効となる情況(状態)が条件として必要だということです。そのことが想像できるならば、いついかなる時も、自己の攻撃技を有効とするには、情況を瞬時に捉える感覚と技能と自己の技を活かす技能が必要なのです。もう一つ、自己の技を活かす技能の発揮には、精度の高い攻撃技と攻撃を有効とする「作り」のための防御技が必要なことです。しかしながら、私のいう「作り」の認識と視点を有する者は少ないと思います。

 私は、「作りと掛け」に視点が武道修練には重要だと考えています。この「作りと掛け」という概念は、柔道を創始した嘉納治五郎先生の著書から学びました。

 

 ただし、不遜ながら、柔道の理合を空手武道に適したものとして定義に変更を加えています。柔道関係者にはお叱りを受けるかもしれませんが嘉納師範の「柔よく剛を制す」というスローガンと「作りと掛け」という概念用語は、幼い私の心に強いインスピレーションを与え続けています。

  私は幼い頃の柔道経験から、その感覚と視点を学びました。私の柔道修行は未熟で終わりましたが、実は空手武道を修練する間も、心の中にいつも柔道が生きています。言い換えれば、柔道の「作りと掛け」という概念が残っているのです。

 

 柔道の「作りと掛け」という概念については、柔道十段の故三船久蔵先生が著書の中で以下のように記しています。

「相手の中心点を奪い変化に乏しい不安定の姿勢に至らしめるの作りと言い、その作った姿勢に技を施す事を掛けと言うのである。そして自分を作るとは、崩し作った相手に技を施しために都合の良いように構えることを言うのである」

 現在は、「崩し→作り→掛け」というように教えているようです。私が初めて「作りと掛け」という教えに接した時、インスピレーションを感じたのを覚えています。

 繰り返しますが、私のいう「作りと掛け」という概念は若干、拓心武術流に応用しているので柔道関係者は「間違っている」と非難するかもしれません。然しながら、打撃系武術にその概念を活用できると考え、かつ活用するために考えた上のことです。

 私が拓心武術の修練のために仮に定義したものは、「作りと掛け」とは、『拓心武術における「作り」とは、相手を防御困難な情況に陥らせることをいう。さらに、その機・情況を瞬時に捉え、自己の心身を最善に活用した技を繰り出すことを「掛け」という』となります。

 

【既存の競技に足りないところ】

 私は柔道でいうような「作り」の修練が重要だと思っています。それ以来、私の意識下には「崩しー作りー掛け」といった理法がいつも見えています。技能の修練とは「崩しー作りー掛け」の原理(理法)を習得する修練に他ならなかったのです。そう私は確信しています。しかし、確信すればするほど、自己の技能と未熟と既存の空手修練法の貧困を感じていたのも事実です。

 一方、柔道には、そのような「作りと掛け」の概念(思想)を学ぶ構造があります。しかしながら、競技が勝負偏重になったことで、柔道も変質した面もあるようです。例えば、相手の技を恐れ腰を引き、また組手争いを繰り広げて、頑なに護りを固めます。それは勝負の中では必要なことかもしれません。しかし、柔道修練、武道修練の真髄とはかけ離れていると思います。私は相手の技と自分の技を自由に交流させ、その原理を学び、かつ、その原理を活用する技能を体得する。

 言い換えれば、自他の崩れを知り、かつ、その情況を捉えるために「作り」を施す。その状況を「機」として捉えて、決定的な技を表現する。そこには、絶えず新たな技と高い技能が生み出されます。しかも、その境地には敵はいません。

 なぜなら、その境地における価値は、対立的な争いによる勝利とは一線を画するからです。そして、その境地における価値とは、新たな技と未開の技能を切り拓くという価値です。また自己を解放し、かつ、新たな自己を創造するという、新しい武道の価値と言っても良いでしょう。また、その価値観をもって行う闘いは、自と他が競争する行為を乗り越えた、共創する行為となり、空手武道のみならず、格闘競技に新たな意味と価値をもたらすと思います。

 要するに、どんな技が有効、かつ優れているのかという認識がより高まれば、すなわち有効打の認識と視点を持てば、さらに空手武道の価値は高まる、と私は考えています。これは柔道の話ではありません。空手愛好者に伝えたいことです。空手は柔道のような構造を有していません。なぜなら、空手には柔道のような柔術の理法がないからだと思います。また、空手には嘉納治五郎師範のような発明者がいないからです。しかし、空手のルーツを辿っていけば、共通性はあると思います。ただ、組手法が未熟なのです。もちろん、柔道の乱取り法も完全無欠だというわけではありません。

 

【実際の戦いは流れの中にいるようなもの】
 

 もう一つ、実際の戦いにおいては、自己は流れの中にあると考えてください。言い換えれば、情況が刻々と変化している中にある。さらに言えば、自己は過去ー現在ー未来へと流れている、そのように理解してください。戦いを制するには、そのような流れの中で、相手を防御困難な情況に陥らせ、さらに、その機・情況を瞬時に捉え、かつ、自己の心身を最善に活用した技を繰り出すことが必要です。つまり、流れの中で相手の崩れを知り、かつ、自己を活かすこと。それが拓心武術で目指す「作りと掛け」の意識です。同時に、そのような「作りと掛け」の視点が、流れを捉える視点なのです。

 さらに、口はばったい事を述べるようで恥ずかしいのですが、武道とは、相手の技をまともに被弾すれば、絶命にもつながるという武術の精神を核にした修練だと思います。もしそうならば、組手においては、相手の技を見下さず、その技を明確に読み取り、自分の技を最も善く活かす道(理法)を目指すのが武道の思想に合致します。

 是非とも、増田道場の門下生には、拓心武術で言うところの「技能」が重要だという〈認識〉をもっていただきたいと思います。一言で言えば、「攻撃と防御を表裏一体として修練する」ことです。しかし、この「表裏一体」という意味が理解できないかもしれません。 私のいう「表裏一体」とは、より効果的な攻撃技はより効果的な防御技と同時に誕生する、という原理のことです。言い換えれば、より善い攻撃に内在する「原理」は、そのまま自分を護るための「原理」を知るための理法(道)となると言うことです。つまり、攻撃することと護ること、この両方の原理は互いに相生じたものなのです。その根本を理解できなければ、自己をより善く活かし、自己をより善く進化させることはできないでしょう。

 

【不敗の境地】


 先述した「攻撃と防御を表裏一体」として修練を行うには、組手修練に対し「有効打という認識・視点」がなければ成し得ないと思います。現在のような、相手より手数、ダメージを与えれば良いという視点、そして、技を当てない、また顔面を含めた急所を打たないという組手修練では認識が困難です。しかしながら、絶対に不可能なわけではありません。 しかし、それを可能とするには、厚い壁があるのも事実です。そして、その壁の本質を多くの人が理解していない。しかし、その壁を自覚し、乗り越えなければ、極めて不明瞭な心理的反応に弄ばれる人間を多く作り出し続けるでしょう。
 もう一つ述べれば、「攻撃は最大の防御なり」は、日本人(他の民族にもみられる)に好まれる価値観だと思います。私は、その価値観を全否定はしませんが、ケースバイケースに改善しなければ、良くないと考えています。また、その価値観では不敗の境地には立てないでしょう。なぜなら、武術では「攻撃は最大の防御なり」の思想が生きるかもしれません。またスポーツでもそのように教えるようです。しかしながら、私なら「防御の心は攻撃の心と一致する」と教えます。さらに言えば、武道の境地においては不敗を目指すことが重要なのです。ただし、決して不敗の人間を育成するのではなく、敗けを恐れず、敗けの経験からそれを乗り越える知恵を生み出す人間の育成が武道の目的です。少なくとも私が考える武道修練とはそのようなものです。補足すれば、矛盾すると思うかもしれませんが、武術の目標は何が何でも勝つことかもしれません。しかし、私が考える武道の目指すものは不敗の境地なのです。要するに、武道とは、相手との生死を賭けた戦いを乗り越え、そこに新たな境地を切り拓くものなのです。

 

 

終わり

その1もあり

 

 

 

拓心武道論〜拓心武術の目指す能力開発

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拓心武道論〜拓心武術の目指す能力開発〜デジタル空手武道通信第62号、関東コラムより

 

 

 

【TS方式の組手法は野球選手ならばすぐに上達する?】

 

 実は、私には仮説がある。TS方式の組手法は野球選手ならばすぐに上達する、ということだ。なぜなら、野球選手は「相手の投げるボールを予測し、かつ、そのボールにより正確に反応する能力」が発達していると思う。それがボールをバットで打つ行為であり、グローブで受ける行為だろう。その能力、行為には、動体視力や反射神経の働きも含まれる。

 そして、野球選手は「より正確な反応(バッティングの場合)」、言い換えれば、ボールを打つために「素振り」「トスバッティング」「ティーバッティング」「フリーバッティング」「シートバッティング」などの練習を行う。また、ボールを投げ、受けるために「キャッチボール」を行う。

そのような練習により、野球選手は、ボールやバット、グローブという道具と自己の身体の動きを調整し協調させ、巧みに活用する能力が発達する。

 私は、野球のようなスポーツを行う際に必要な「相手の投げるボールを予測し、かつ、そのボールにより正確に反応する能力」があれば、拓心武術はすぐに上達すると考えている。もし、それが実現しないとしたら、それは正確な技術の原理と身体を動かす原理を理解していないところに問題がある。私は、真の上達とは原理の理解と体得にあると思っている。

 また、サッカーやバスケットボールの選手も野球選手同様の能力が開拓されているに違いない。なぜなら、サッカーにおいても「相手の投げるボールを予測し、かつ、そのボールにより正確に反応する能力」が発達する。また、ボールという道具と自己の身体を調整し協調させ活用する能力を基盤としていると思うからだ。だだ、もうひとつ重要な点は、サッカーやバスケットボールはデフェンスとオフェンスが空間を共有していることだ。ゆえに相手選手やボールの位置の変化に対する理解と予測、それによりよく反応する能力が必要である。この能力の有無がTS方式の組手法に生きる。

 それを裏付けることとして、先日の月例試合において、高校生の阿部大和君が組手に上達を見せた。相手は中学生の阿部君だったが、阿部君も組手が上手い。だが、勝敗を分けたのは、蹴り技の使い方に阿部大和君の方が長けていたことだ。また、相手との間合いの取り方が阿部大和君の方が長けていたことだ。後で、指導員に聞くと阿部大和君は部活でバスケットボールをやっていて、練習(バスケットの)に相手の動きへの対応という要素が多くあるからではないかという。そう見る指導員は、子供の頃バスケットボールをやっていたらしい。経験があるからこその視点である。だが、それを聞いて、私は閃いた。「なるほど、バスケットボールもサッカーも相手の位置とそこから出されるであろうボールを予測し、それに対応しなければならない」「その能力は格闘技に必要な能力と同様のものだ」…と。

 

 一方、その能力の重要性を理解できない者は、たとえボールゲームの経験があっても、意識が自己の動きのみに閉じこもっていて、相手の動きに対応できないのだと思う。本来は、剣道もレスリングもボクシングも自己の動きのみならず、相手の動きを予測できなければならない。他方、空手の場合、競技ルール、判定法の偏向により、その能力が等閑となる傾向がある。大人もそうだが、打撃技の攻防に対するイメージが良くない。それは、極真空手が植え付けたイメージの影響もあるだろう。その部分は丁寧に述べなければならないところである。近いうちに拓心武道論の続編でまとめたい。

 

 ここで断っておくが、私は野球やバスケットボールやサッカーが上手い訳ではない。私は元来、不器用だとの自覚がある。そんな私が空手においては少しは身体を使えるようになった。それは、不器用だと思われることが悔しかったからである。そのために、私は幼少の頃から、独自に身体操作の訓練を行っていた。そのような経験から得たものは、時間をかけ、かつ、身体を使う原理さえ理解すれば、大体のことは可能だという感覚である。ただし、練習に時間をかけることが可能かどうか、また原理を教える指導者に出会えるかが、一番の問題だということである。

 

 私の場合、野球やサッカー、バスケットボールを指導してくれる指導者には出会わなかった。だが、格闘技で私の可能性を評価、指導してくれる指導者に出会った。そのことで、自分の可能性を格闘技に集中することにした。それでも、私の幼少の頃、格闘技はマイナーだった。普通なら、モチベーションを保つのは困難だっただろう。恥ずかしいことだが、幼少の頃、私は日本の社会システムから排除されかかった。それゆえ格闘技によって(なんでも良かった)自分の可能性を証明しなければ、生きた心地がしなかった(大袈裟に思うだろうし、誰も理解できないだろうが、その時の恐怖と屈辱感が今も根底にある)。結果、そのことにより、格闘技へのモチベーションを保つことができていると言っても過言ではない。私は、そのような経験も含めて、さまざまな原理と構造を理解し、それに改良を加えれば、より多くの人の能力開発に役立つことができると考えている。だが、それには、既存の格闘技の価値観とそれを活かす構造を変えなければならないと思っている。

 話が脱線したが、私がここで言いたいのは、スポーツであれ、その構造と必要な技術を還元して理解すれば、誰でもそれなりに上手くなると思っていることだ。同様に空手もその構造と技術を還元して理解すれば、誰でも上手くなるということである。もちろん、他者と比較すれば、誰が一番というような視点になるが、私はそのようには見ていない。拓心武術の目的は、個々人の能力を最大限に開拓、活かすことが目的だからである。

 

 私はサッカーやバスケットボールが上手くなるには対人プレーにおける、相手の動きの予測と対応能力が重要だと思っている。もちろん、シュートやパスの正確さは言うまでもない。要するに、デイフェンス、オフェンス共に相手の動きに対する予測能力が備わっていないと、良いプレーはできないということだ。私は、そのような能力がある者ならば、すぐに拓心武術に上達すると思っている。もちろん、スポーツのみならず物事が上達するには、その事を考えることが好きでしょうがない、という気持ちが必要だろう。だが、私がここで私が述べたいことは、好きなことの能力を高めるには、能力の内容を理解することが大事だということである。

 

 一方、野球はサッカーやバスケットボールのように戦う空間を共有していない。しかしながら、投手が投げる球を予測し、それに対応するためには、実に多くの情報を投手から読みとっているに違いない。そして、打者はその情報を分析し、ある程度の予測の網を張って、バットで対応しているに違いない。そのような感覚と能力を有する打者のみが長年に渡り高打率を誇るに違いない。同様のことをサッカーやバスケットボールの選手も行っていると私は考えている。

 

【究極のプレー】

 

 その点をもう少し詳しく述べたい。私は、多くの球技選手には「相手の動きやボールの位置変化に対する予測や反射の能力」が形成されているに違いない、と思っている。そのことに加え、優れた選手には、状況・局面におけるさまざまな情報を察知し、その情報から次の展開を読み取る能力があると思う。言い換えれば、変化する相手の形(部分的かつ全体的な)から相手の次の動きを予測する能力が形成されているということである。そのような能力を得るには、状況判断とその状況への対応を選択することを追求した成果だと言っても良いと思っている。そのような成果としての能力の実現には、無意識の領域に相手の技(プレー)の形からその意図(目的)や性質(強弱)を理解し、データベース化することが必要である。その上で、無意識の領域に蓄積したのデータベースから必要な情報を取り出し、身体の反射神経と繋ぎ合わせる能力が必要だと考えている。また、そのような能力は誰にでも形成することが可能だ、と私は考えている。ただし、そのような能力を活用しようとする意識がない。またそのような能力の存在さえ信じない人がほとんどだろう。おそらく、近い将来、AIの発達と活用により、私のいうことが誰でも理解できるようになるだろう。しかし、そのような時代が訪れ、しばらく経った後、人工的なA Iによって自己の選択や人生が導かれることの違和感が生まれるに違いない。私は、経験のなかで感じたものを、自らの努力で活かしながら生きることに人間の尊さがあると思う。極論すれば、失敗や敗北感のない人生より、むしろ失敗や敗北感をいかに活かしていくかに、人生の尊い価値があるということを…。現代人は失敗や敗北を恐れすぎである。ゆえに既得権益者達は、システム、すなわち修練の仕方や未成熟な試合方法を変えず、新しい仕組みや行動を起こさないのだと思う。かくいう私もずっと行動を起こせずにいた一人である。だが、流派を大きくしよう、などと考えないようになってから眼が開けた。もちろん、ことは言うほど簡単なことではない。現実は、目の前には困難が多々あり、決死の気持ちだが…。

 もう一つ述べれば、私の目から見れば、格闘技と球技もは同じ面があるというとである。だが、格闘技の場合、痛みやノックアウトなどに対する恐怖が伴い、そこに対する耐性や覚悟が必要だと見るかもしれない。もちろん、そのような面は格闘技の特性であり、球技と異なる格闘技の特殊な面である。だが、その格闘技の特殊性を宗教のように掲げるのは良くないと思っている。もし、そこにあまり大きな価値を置きすぎると、格闘技は精神論が最上の世界となってしまう。と言っても、私は精神論に偏向しすぎると良くないと言いたいだけで、究極的には精神が重要だと思っている。そういえば、普通の人は理解できないかもしれない。

 

 無論、私にも格闘技とサッカーとバスケットボールとの間には、コンタクトを認めるか認めないか、という大きな違いがあることはわかっている。だが、究極のプレー(動き)を追求するならば、格闘技はコンタクトが生じる以前の時空間を読み取りこと。一方、コンタクトのない球技は、コンタクトを恐れず、コンタクトが生じる寸前の時空間を我がものとすることである。さらに言えば、真の究極のプレーは、失敗や成功を超越した、自己への挑戦の精華なのである。そして、その精華を知る可能性は、一人ひとりの心身と人生に備わっている。

 

 

 

【既存機能の再利用】

 

 拙論で言うところの「相手の投げるボールを予測し、かつ、そのボールにより正確に反応する能力」を司る領域は6歳ぐらいまでに最も発達するらしい。ここでいう領域は、敏捷性、平衡性、巧緻性などを司る神経回路であり、運動神経と言われている領域である。しかし、それらの運動神経のみが、武術の技の習得に必要な要素だ、とは私は考えていない。もちろん、ある程度の運動神経は必要条件だ。だが、スポーツに必要な運動神経の有無を気にする必要はない。また、運動神経は幼少期以降は発達しないと言われているが、私はそのように考えない。極論すれば、私は老齢期でもその領域は発達すると考えている。

 ただし、私の考えは通常の医学的見地からする発達ではない。それは、これまでに形成された既存機能の再利用(既存能力の活性化・活用)と言っても良いだろう。その再利用(活用)という目標を核にして、自己の心身の機能を高め、かつ新たな機能を獲得していくのである。また、そのような既存能力の活性化・活用によって、発達しないとされている領域もデータに反して発達するかもしれないと私は考えている。

 さらに言えば、私は既存の身体機能を組手の技能に変換していくならば、生きている限り、上達は可能だということだ。それが私の仮説である。ただし私は脳科学者でも医学者でもないが…。

 もちろん、歩くこともできない、物を掴み動かすこともできないという状態では、武術の習得は困難だろう。だが、歩くこと、物を掴み、動かしたり、投げたり、動くものを掴んだりする機能があるならば、武術の上達は可能だと思う。ただし、機能の再利用のための技術の原理を理解することが必要条件であるが。

 

【原理を追求する人】

 ここで断っておくが、私は原理にも深浅があると思っている。また、原理は頭で理解している次元と身体的に把握(体得)してる次元とがあると思っている。そして、目指すべきは、より深い原理の理解と頭と身体の両方の次元で原理を理解し把握することだ。もちろん、原理の理解を頭からアプローチするのでも良い。また、身体からアプローチするのも良いだろう。だが、最終的には、両方の次元で原理を掴み、かつ、さらに深い原理を追求していく。そのようなあり方を目指すことで、武術の次元が人を活かす次元へと昇華される。ゆえに武道人は、原理を追求する人でなければならない、というのが私の武道哲学である。ゆえに武道人とは単なる愛好者を意味しない。なぜなら、武道はスポーツと違い、その理念・哲学が明確でないからである。ゆえに、私は武道人という言葉に理念・哲学を込めたつもりである。

 かくいう私は、武術の先達が体得した技術の原理を理解はできるものもあるが、できないものもある、というのが偽りのない現状である。また、理解したと言っても、さらに深く掘り下げれば、さらに深いところに本当の原理があるかもしれない。ただ、浅いところ、みんなが理解、再利用できる範囲で原理と言っているに過ぎないと思っている。それでも原理を追求し、浅い原理でも良いから皆と共有し、それを高め、かつ深めていく。それが拓心武道のあり方である。つまり、私の一生では極まることはない。それでも道を求めていく。それが私の生き方、あり方なのである。

 

 【嬉しい成果】

 先日、私の仮説を裏付けるような嬉しい成果が月例試合であった。それは拓心武術は壮年でも上達するということである。その月例試合に参加した壮年部の一人に鈴木智氏がいるが、彼は幼少の頃、運動が得意な方ではない子供だったという。また、今でこそ山歩きを楽しみ、空手の有段者だが、幼少の頃はインドア派だったらしい。残念ながら、2試合中、1試合は勝ったものの2試合目は、優勢に試合を進めていたが途中負傷し、試合を中止した。それでも、鈴木智氏がTS方式の組手法に上達を見せていることは事実である。そのことから、ある程度の持久力とやる気があれば、たとえ幼少の頃に運動経験が乏しくてもTS方式の組手が上達すると思っている。また、別の見方をすれば、拓心武術の修練法は、老齢期に入っても既存の機能の再利用により、幼少期しか発達しないと思われている領域の機能を活性化する。その機能とは、大まかにいえば、運動神経と言われるものだ。そのような能力を老齢者には獲得できない、また必要ないと考えるのは勿体無い。なぜなら、それらの能力は、たとえ幼少期ほど発達しなくとも、刺激すれば活性化する。そして老齢になっても楽しい身体活動を行うために必要だからだ。

【「人を活かす技術・技能」の習得の手段となすために】

 私は、何歳になっても、先述した敏捷性、平衡性、巧緻性などを司る神経回路を活性化しておくことが身体活動の大きな柱だと思っている。また技術を習得しようと意識することで、身体のみならず脳を刺激し、心を活性化することも重要だと思う。さらに言えば、そのような効果を得る要素があるからこそ、社会体育としてスポーツが有用とされるのであろう。武術・武道も然りである。 

 私は、武術・武道もスポーツのように社会に有用なものとなる必要があると思っている。そのためには、武術・武道修練の原点や構造を明確に理解した上で、それに改良を加え活かしていく必要がある。もし、そのようなことが可能ならば、武術が単に「人を殺傷するための技術・技能」ではなく、「人を活かす技術・技能」の習得の手段となるに違いない。

 

 最後に、武術が「人を活かす技術・技能」の習得の手段となすためには、何が大切かということを述べておく。それは、磨き合い・高め合いとしての修練を行う仲間たちが、私のいう修練理念や目的を理解し、共有していることである。その理解がなければ、修練・稽古を楽しめない。また、修練仲間を自己の能力を向上させてくれるパートナーだと理解できない。ゆえに指導者は修練目的・理念を明確に理解し、それを伝える努力を怠ってはならない。また実践し続けなければなたない。だが、現実は打算的な価値観でもって、握手しているのが現状である。ゆえに私の考えが実現するには優れた指導者が必要だろう。または社会全体における価値観の転換が必要かもしれない。しかし、それを待つのではなく、まずはわずかな人達とでも良いから、その理念を具現化するために行動していきたい。その僅かな人達と、理念を盲信するのではなく、具現化するために行動し考え続けていく。私は、そのような生き方が、新しい社会のあり方、価値観の一つだと思っている。

 

 

 

 

 

 

デジタル空手武道通信 第62号 編集後記 

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編集後記 第62号

 

 【第14回 月例試合】

 

 外気温40度近くの中、第14回月例試合を実施した。真夏にもかかわらず、多くの人が参加した。

これまでは、参加者の会員種別(少年、中学、高校、大学、青年、壮年、女子)や学年で対戦相手を分けていたが、試合経験のある人の一部に対し、特別の対戦を組んだ。その一つが壮年部対高校生の対戦だった。年齢で言えば62歳対16歳。62歳対15歳である。

 

  結果は、1試合は62歳の壮年が勝ち、もう1試合は高校生が勝った。この壮年部は62歳というのに、組手技能が上達している。また足使い(フットワーク)や技のスピード、精度も向上しているように見受けられた。

 

  このことは、個人的な差異、特別なことかもしれない。だが、私はそう考えていない。我田引水かもしれないが、私はこの結果をTS方式の組手法に組み込まれた、防御技術、そして攻防のための応じ技の体系化とその技術を判定する仕組みの成果だと思っている。

 

 私はTS方式の組手法の基盤となっている防御技術と応じ技の技術の習得に努め、戦術理論を理解すれば、組手技能はさらに向上すると思っている。もちろん、個々人の体力によるところもあるだろう。それでも、打たれ強さや破壊力を競うことが主眼とする試合法ではないので、足使い(フットワーク)を支える体力、正確に突き蹴りを繰り出すための足腰、体幹の強化を行えば、必要な体力の基盤は出来上がる。また、その他の体力も組手修練を行うことで自ずから向上するだろう。

 

 問題は、指導員の技量とTS方式を行う愛好者の人数が必要なことだ。指導員も頑張っているが、指導員自体が、TS方式の修練体系の全体を把握していない。これは私に責任があるが、TS方式の組手法を活かした稽古を実現するには、意識改革(価値観の修正)が必要である。そして指導員自身がより技術・技能を向上させたいと強く願わなければ、進歩はないだろう。

 

 また、最も重要なことは同士(仲間)を得ることである。なぜなら、技術を磨き、向上させるには、理念とルールを共有する同士(仲間)が必要だからである。正直述べれば、私の考えている領域は、既存の価値観に満足している人達には奇異に写っているかもしれない。また、想像もつかないだろう。私は時々、寂寥感に襲われるが、いつか自分が考案した武術修練により、人間が有する心身の可能性を開拓し、自己が成長したと感じる人達が増えることを切に願っている。

 

【感想戦】

 兎にも角にも、今回の月例試合では、防具を使用し打撃技を当てる技術を競うので、ある程度の防御力や攻防の技能(応じ力)を体得した者どうしなら、年齢差があっても試合ができるというデータを得られた。時間があれば、初期の頃の組手と現在の組手を比較できるような動画を作成したいが、まずは参加者各自が試合動画を見て、自己の試合の内容を振り返るのみならず、過去の組手と現在の組手を比較してもらいたい。そのようなことを将棋界の方法を取り入れ、拓心武術修練では「感想戦」という。是非、感想戦を行なって欲しい。

 

 最後に、組手稽古を続け、試合経験を積む者は、試合当日も述べたが、まだまだ上達するだろう。そして、もう少し上達すれば、この組手法を行なっていない人との差が歴然としてくる。そうなれば、私が企図したことが具現化する。同時に組手試合では、私にも勝るものが出てくるに違いない。特に若い年齢の者の中から、そのような者が出てくると思う。

  もちろん、私は負けたくないが、それは自然なことであり、かつ良いことである。私は試合の勝ち負けより、拓心武術の完成を目指し、あらゆる角度から武術を考え、それを活かしつつ自己の感性と思想を深め、かつ高めていく。それが私の得たい価値であり、生き方である。現象としての身体の衰えは、気づきと悟りのための扉だと思って進んでいく。

 

 

 

悟りを形にしていく〜その1(拓心武道論)

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悟りを形にしていく(その1)

 

  1. 道場稽古の基本原則    
  2. 自己の中心を護る    
  3. 組手型修練の原則の詳細    
  4. 不動の中心への到達を目指して    
  5. 組手型と試合の修練は車の両輪の如し    
  6. 自己の中心を活かす対応    
  7. 悟りを形にしていく〜100人組手の修行    
  8. 拓心無限
 拓心武道論〜その2の草稿を書いています。すでに3万文字の原稿がありますが、私の道場における組手型と試合の修練の意義と目的、そして意味を理解してもらうために、今回書いた小論を付け加えたいと考えています。
 なお、この小論の内容は、上記に示したように7項に分けられています。また、その内容は、増田道場の修練法からより高い効果を得るために必要な考え方です。ただし、9000文字を超えてしまったので、分けて掲載します。

 

 もし、拙論の全文に興味がある方は、増田道場生専用の教本サイトを公開しています。そのページでお読みください。

以下は、デジタル空手武道教本・組手型(有段者)のページ

 

道場稽古の基本原則

 

 私の主宰する空手道場では、白帯から有段者までの幅広い力量の道場生が一緒に行う一般稽古では、まずは基本技の稽古、そして極真空手の伝統型の習得が重要です。また、それ以上に重要なのが、組手型と組手の稽古です。ただし、初心者に対しては、修練項目が多く、習得に大変な労力と時間を要します。よって、組手型の稽古は、必修組手型を設定し数少なくしています。それら必修組手型の稽古は組手稽古を行う際、最低限、必要な項目です。しかしながら、黒帯になった後は、さらに深い修行をしていきます。

 

 さて、初めて組手稽古を行った時のことを思いだしてください。おそらく、ほとんどの人が相手の攻撃技に戸惑い、また上級者の攻撃技の多様さに恐怖を覚えたに違いありません。そんな時、体力のあるものは「攻撃が最大の防御なり」とばかりに自分の技を出す。あるいは、体力に自信がないものは、適当に組手をやり過ごしたてはいなかったでしょうか。

 

 一方、少し組手稽古に慣れた時、組手が組手に慣れていない者が相手の場合、自分の技を何も考えず、自分勝手に繰り出していたことがあったのではないでしょうか。そのような組手の仕方、稽古態度は全て良くありません。これまで、私にも同様の態度があったかも知れません。しかし、そのような態度は、私が最も忌み嫌うものです。そのような態度、考え方を持ち続ける者はいつか敗れ、そして上達はないと思うからです。また、相手の攻撃技に場当たり的に対応したりすることもよくありません。さらに言えば、相手攻撃を無視するかのように自己の攻撃技(仕掛け技)のみを乱暴に仕掛けるような組手稽古は一利はあっても多大な害があると思います。また、そのような組手稽古は日本武道が到達した高次の理念を重視する、私の空手道場(極真会館増田道場)では強く戒めるものです。

自己の中心を護る

 私の主宰する空手道場において実施する組手型と試合修練について解説します。まず、一言で言えば、組手型と試合修練の意義は、「自己の中心を護る理法(道)を学ぶこと」です。しかしながら「自己の中心を護る」と言っても、抽象的すぎて理解できないと思います。ゆえに以下、より詳細に解説してみます。

 

 ここでいう「自己の中心」とは物理的な中心のみならず心理的な中心を併せ持った中心です。そのような中心を拓心武術の修錬用語では「中心」とします。そのような中心から技が発せられると考えるのです。また、自己の生命を脅かすような技、すなわち自己の中心を取り(奪う)にくるような技に対し、自己は中心を取られず、逆に相手中心を取らなければなりません(奪ってしまうこと)。そのような認識で行う修練が本来の武道修練です。しかしながら、皆、その認識に立っていないと思います。その原因は、技のやり取り、そして目的が、単なる「当て合い」または「投げ合い」をゲーム化し、そのゲームの勝敗に価値をおいているからでしょう。そのような考えは日本武術が到達した武道思想を忘却していると言わざるを得ません。もちろん、そのようなゲーム化による効用はあるとは思います。しかしながら、同時にその弊害もある、と述べておきます。そして、その弊害を取り除き、本来の効用を取り戻すためには、組手型と試合修練を車の両輪の如く機能させるべきだ、と私は考えています。なぜなら、武術の修練とは、単なる試合の勝敗を目的とするのではなく、自己の命を奪いにくる技から自己の命を護るために、その技を制するためのものだからです。そして、武の基本は、相手の技を未然に正確、かつ、より迅速に予知することです。

 

 そのような基本を見据てているからこそ、相手と対峙した時には、相手の中心を見極め、かつ自己の中心をそれと合わせることを組手型の修練(稽古)の基本とするのです。すなわち、相手と中心を合わせることができ、初めて、相手の技をより良く避け、かつ制する技を発現させることが可能となるということです。言い換えれば、相手と一体化して初めて、武のより良い技を創ることができると言っても良いでしょう。

 

 その原則を理解するために組手型の修練では、相手と対峙した時にまずは互いの中心を合わせるということを重要とします。そこから、相手の中心の変化とその変化によりよく対応するための理合と技術を体得していくのです。

 

 以上の前提に立ち、拓心武術における組手型の全ては、「自己の中心を護る」ということを武の理合の根本とするのです。さらに、組手型で学んだ理合を試合稽古において吟味すること。また、試合修練によって他(相手)の中心の多様な変化の形を学び、その変化に対し、自己の中心を奪われないよう、理法(道)を体得し、かつ不動の自己の中心を形成、育んでいくのです。このことが拓心武術の組手型と試合修練の意義です。また、私の主宰する道場では、空手や拳法の修練の他にも、相手を投げ倒したり、関節を決め、相手を制する「柔法」や棒などを使い、相手を制する「武器法」の修練を加えていきます。断っておきますが、私の能力と寿命により「拳法」以外の部分は未完成のまま終わるかも知れません。しかし、「拳法」の部分をより高いレベルにするために、柔法と武器法の修練が必要だと思います。なぜなら、柔法や武器法などの修練により、心身の働きや機能を、他の角度から見ることができるようになるからです。そして、他の角度から心身の理法を考えること(稽古)により、理法(道)の実相(じっそう)をより鮮明に見取ることができるのです。特に武器法の理解は重要だと思います。しかし、断っておきますが、私のいう武器法は古流空手の武器法を学ぶことではありません。その意義とは、日本武道の底流にあると思われる「太刀(日本刀)との対峙」による自己の中心との対峙と把握です。そのような認識を得て初めて「自己の不動の中心(心)」を掴み、育んでいける、と私は考えています。

 

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悟りを形にしていく〜その2

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悟りを形にしていく〜その2

  1. 道場稽古の基本原則    
  2. 自己の中心を護る    
  3. 組手型修練の原則の詳細    
  4. 不動の中心への到達を目指して    
  5. 組手型と試合の修練は車の両輪の如し    
  6. 自己の中心を活かす対応    
  7. 悟りを形にしていく〜100人組手の修行    
  8. 拓心無限

 

 

組手型修練の原則の詳細

 

 組手型修練の原則の詳細について述べてみたいと思います。まず組手型の修練(稽古)では、攻撃技を仕掛ける「受け」と攻撃技に応じる「取り」と立場を分けます。
その「取り」の側から見ると、「受け」とは、中心を奪うための攻撃技を仕掛けていく相手です。一方、「取り」とは、中心を奪いにくる「受け」の技から自己の中心を護る側です。同時に「受け(相手)」の中心を逆に奪い取る者のことです。つまり、型(組手型)の修練の意義とは、相手の攻撃から自己の中心を護るために、相手の技の中心を崩し奪い取ってしまう対応法(応じ)の原理を学ぶものなのです。そのために、攻撃技を原理的に細分化し、その細分化された攻撃技に対し、より良い対応法の型を規定しているのです。そして、その規定を習得することで、さまざまな攻撃や変化(相手の)に対し、自己の中心を崩すことなく対応できるようになるのです。また「受け」の側から見れば、他者の中心を奪い取るための攻撃技を仕掛ける場合の原則を学びます。その原則とは、自己の仕掛け方が粗暴で恣意的なものの場合、武の理法(道)を体得した者と対峙したなら、技は破れ、かつ自己の中心を奪い取られてしまうということです。平たく言えば、「取り」の応じの型を体感することで、斯様に攻撃技を外され、かつ崩され、反撃を受ける」という原則を学ぶ立場が「受け」の立場です。ゆえに「受け」の意識も、自己の中心を見極め、かつ技の精度を上げることを意識しなければなりません。また、中心に含まれる心の働きを純粋にすることが肝要です。さらに言えば、組手型の修練は、「受け」と「取り」、それぞれの立場における技の精度、意識の真(実相)を吟味することが必要です。

 補足を加えれば、組手型における「受け」そして「取り」の意識の共通項は、自己の中心と対峙することです。そして、武術修練における組手型の修練では、自己の中心との対峙の意味は相手(他者)の中心との対峙となるのです。もう一つ大事なことは、組手型の修練(稽古)を初めて行う際は、「受け」の立場には、組手型の意義、目的、意味のわからない者ではない方が望ましいと思います。要するに、攻撃を適当に行う者ではなく、相手の力量に合わせ、時にゆっくり、また、より正確に攻撃技を出せる上位の者が行うことが原則です。


 以上が組手型の修練(稽古)の意義と目的、そして意味の説明です。これまで私は先述した原則と原理を意識しながら、空手道でいう約束組手の稽古を行ってきました。しかしながら、40年以上も稽古指導をした中、その意義を理解した黒帯は皆無でした。その原因は私が以上の原則と原理を真に理解していなかったからだと反省しています。

 

「不動の中心」を掴み、絶対不敗の境地に立つ

 

 その反省点に立ち、私は長年の修練・稽古法の研究と改善を思案してきました。そしてようやく新しい修練・稽古法を編み出しました。それが拓心武術の組手型と試合修練です。
そこに至った経緯、そして考え方を誤解を恐れずに述べれば以下のようになります。まず、空手の稽古が私が考えるような武の真髄に至らないのは、私が修行してきた空手における約束組手という概念が形骸化し、浅いこと。
また、徒手武術の基本である顔面(頭部)への打撃を基本としないことだと思っています。
そこし脱線しますが、剣術のような絶対的な威力を有する道具である太刀(日本刀)を扱う武術に対し、徒手を基本とする空手武術は、絶対的な威力を有する武器に対峙するという覚悟が希薄です。この絶対的な威力を有する道具(武器)に対峙し、それと一体化し自己を活かすという覚悟による理法(道)の希求が日本武道の中心だ、と私は考えています。

 

 もちろん、空手の先達も絶対の技を追求したのだとは思いますが、肉体の力に頼る理法は、未だ道に到達してはいません。そのように述べることは、誠に不遜なのですが、あえて述べておきます。日本武道の先達が到達を目指した境地は絶対的な境地です。言い換えれば、「不動の中心」を掴み、絶対不敗の境地に立つことです。


 話を戻して、空手の場合、剣術における「組太刀」とは異なり、相手の攻撃に対する技の稽古を約束組手とし、型を独り型においていることが挙げられます。その結果、約束組手の意義が単に受け返しを技を覚えたり、反射神経を鍛えるのみのものだ、とほとんどの人が理解しているのだと思います。同時に型は、武術の意義から逸脱した価値によって判断、評価され、修練されています。もちろん、型を編んだ先達には、武の技への認識があったとは思いますが、それが継承されているとは思いません。また、新しい価値を空手に付与し、修練することにも一定の効用はあるでしょう。しかし、そのような浅い技の理解、また意識の稽古は、武の稽古ではないと思います。

 例えば、約束組手の稽古によって、受け返し技を覚え、かつ素早い反射神経で相手の攻撃に対応するとしましょう。そのような意識と動きには無駄な動きが多すぎるのです。いうまでもなく、武術の技術には、鋭い反射神経が必要です。しかし、もっとも重要なことは、反射神経、体の動きを無駄なく繋げ、相手の技の発動に対し間髪を入れずにそれを制する術と能力を養成し、同時に絶対の心(不動の中心)を育むことだと思います。そのような能力と心を体得するには、自己の動きや技の原理(理合)を突き詰め、それを活用する新たな原理を創出し、それを我がものとすることが必要です。かくいう私の能力はたかが知れています。しかし日本武術の先達が到達した技の理合や思想の片鱗に触れると、その深奥を尋ねてみたいという思いが湧き上がります。

 再び脱線すると、日本の剣術は、1000年以上の長い封建制度の時代において生成化育された日本の身体文化であると共に精神文化だと思います。その剣術と比べれば、空手はまだまだ浅い歴史しか経ていません。もちろん、私の剣術に関する知識などはないに等しいものです。しかしながら、その哲学の片鱗を読み知ると、私は古の武人と技に最大の敬意を払わずに入られません。
 話を戻して、私は不遜ながら、日本武道の思想を探求すると同時に我が極真空手に反映させようと模索してきました。そして改善点を多々見出していましたが、改善するには至りませんでした。しかし、ようやく50年近くたって、不動の中心への到達を目指して、稽古法の改善を試みています。その稽古法の改善が拓心武術・武道を基盤とする顔面ありのTS方式の組手法・試合法と組手型の稽古の実施です。しかし、私の考える武道、また日本武道の精髄が、物事を洞察するということ、すなわち哲学することだと誰も理解していません。

 

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2022年8月24日:一部修正

悟りを形にしていく〜その3

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悟りを形にしていく〜その3

  1. 道場稽古の基本原則    
  2. 自己の中心を護る    
  3. 組手型修練の原則の詳細    
  4. 不動の中心への到達を目指して    
  5. 組手型と試合の修練は車の両輪の如し    
  6. 自己の中心を活かす対応    
  7. 悟りを形にしていく〜100人組手の修行    
  8. 拓心無限

 

 

組手型と試合の修練は車の両輪の如し

 

 ここで、私の組手型と試合修練の指導法について少し述べてみます。私が稽古の際、心掛けているのは、「組手型と試合の修練は車の両輪の如し」「自己(取り)は「攻撃技を仕掛ける相手の中心を自己の技(対応)によって奪う(取る)」という原則を伝えることです。さらに伝えたいことは、本道場における武術修練とは、「自他の心身をより善く活かす理法(道)を求める修行」だということです。そのような修行のおける要点は、組手修練においては目先の勝ち負けに囚われず、その裏側にある道(理法)に目を目け、理合と一体化した技の体得を目指すことです。
 

 そのためには、皮相的な勝ち負けに一喜一憂するような組手稽古、試合稽古をしてはなりません。あくまでも、「組手型稽古と試合の修練は車の両輪の如し」です。その稽古の目指すところは、道(理法)の感得という境地(目的地)です。そのためには道(理法)を地図のように意識しなければなりません。そのような武道が極真会館増田道場の空手道です。また、その地図が増田道場の修練体系に組み込まれた、拓心武術の修練体系であり、拓心武道の思想なのです。
 もう一つ、先述した拓心武道の思想によれば、試合においてはたとえ規定(ルール)による勝ち負けが宣せられても、その勝敗に一喜一憂してはなりません。本道場が実施するTS方式の組手法は、「技あり」を点数に換算し、規定時間内における点数の多寡によって勝敗を決します。しかしながら、試合後は感想戦によって、その「技あり」を吟味すること、すなわち、全体の勝敗ではなく、「技あり」を取った局面における技のレベル(制心−制機−制力の一致)を吟味、分析することです。つまり、試合の勝敗よりも、試合の中で顕れた、技のレベルを判断、理解することが試合稽古の真の意味なのです。

 補足すれば、そのような感想戦、吟味を行うために「組手型」は「物差し」として使うものだ、とも言えます。また、試合稽古は「生死を分ける局面」において理法(道)合致した技を使えるかを目指すために必要な稽古だ、と私は思っています。その生死を分ける局面は絶えず流れるが如く変化しています。ゆえに絶えず自己の中心を奪われないためにも、「制心」「制機」「制力」の一致した技の執行を心がけなければならないのです。
そのような思想によれば、組手型と試合修練の際、意識すべきことは、相手と対峙しながら同時に自己の中心と対峙することです。これが相手との一体化の意味です。同時に、自己の中心を相手の動きや形に引きずられ、崩し、奪われることのないようにすることです。言い換えれば、相手の中心を自己の中心と合致させ、、相手の中心のわずかな変化に気付き、かつ自己の中心の変化に心を配ることです。さらに言えば、私が考える武道の修行とは、その自己の中心を他(自己以外の全て)に決して奪われることなく自己を維持することを目指すことなのです。

 

自己の中心を活かす対応

 

 武技と言わず、他によって自己に働きかけらる全ての技は、それによって自己の中心を奪われず、自己を失うことなく、「自己の中心を活かす対応」につながらなければならないと思います。もちろん、それができる人間は皆無かもしれません、しかしながら、私は人間には本来、そのような理法(道)を知っているはずだと思っています。例えば、生まれたばかりの赤子の中心は、その理法に則り、対応しているのではないかと思います。しかし、その無邪気でかよわい赤子に危害を加えようとするような行為に対し、自己の中心と心身を護るために創出され、かつ有事に発動される技と精神が日本武道と言えるものだ、と私は考えています。その精神と日本で育まれた神、仏、儒道の哲学が相まって醸成された武士の行動の原理原則が武士道だと私は思っています。もちろん、武士の全てが高潔で高い人格を有する人間だとは思っていません。しかしながら、武士道を体現するような武士も存在したと信じています。また、その武士道に現代の価値観にそぐわない部分もあると思います。それでも、遺したい普遍的な価値を有する部分もある、と私は思っています。残念ながら、その良い部分のほとんどが時代の荒波に飲まれ、変節していったように思います。

 その原因は、自我の成長のさせ方に諸問題の因があると思っています。もちろん自我の成長が人間の成長であり、また優れた自我は社会を発展させたりもするでしょう。しかしながら、その自我が社会を統べるために権力を形成し、かつ優れた権力者となり、その権力者が権力構造の中で変節していくのも事実だと思います。その権力者の裏に働いている自我の決定、言い換えれば、判断と選択、そして行為が無邪気な赤子、すなわち弱者に対し、邪心に満ち、横暴なものだとしたら、皆さんはどう思いますか。よほどのことでなければ、「仕方ない」また「法に触れていなければ良し」というように判断するのですか。私は、そのような消極的な考えを肯定しません。もちろん、本当に仕方のないこともあるかもしれません。しかしながら、もし重大な判断と選択に偏見や好悪の感覚が混じっているとしたら、私の性質では納得できません。なぜなら、そのような判断と選択は、大袈裟かもしれませんが、赤子の心を踏みにじる行為と同等だと思うからです。ここでいう赤子の心とは、まだ可能性が残された弱者の心と言っても良いでしょう。そのような判断と選択、そして行為は、次世代と子孫に必ず、怨念と禍根を残すように思います。もちろん、私はそのような怨念や禍根を乗り越えていかなければならないとも思いますが、赤子の心を踏み躙られるような体験をした側からすれば、していない者がそのような上から目線で諭しても、果たして納得してくれるでしょうか。赤子の心を踏み躙られるような体験をした私には、納得できません。

 随分と大げさな話になりましたが、私がここで述べたいことは、自我が成長し、優れた理性を発揮する大人であっても、今一度、その判断と選択を理法(道)に照らして、人間本来の中心を見失っていないか、見直す必要があると言うことです。また、繰り返しますが、自己の判断と選択が理法(道)から外れるのは、知識が増えたことによる損得勘定、そして偏見や好悪によって行われていないか見直すと言うことです。さらに言えば、百歩譲って、人間に偏見や好悪が生じるのは仕方ないとしても、それを自己の有する何らかの「力(権力)」を背景に押し付けるのはよくないことだと思います。かく言う私の論も私の偏見や好悪だと思われるなら、さらに私は耐え続けるだけです。ただ、そんな人間の在り方が、有史以来、さまざまな理不尽、争い、葛藤を生み出してきたのでしょう。そして、私は我が国が育んだ武の先達と時空を超えて対話し続けます。

 私のバックボーンである極真空手は、組手の際、相手に突き蹴りを当てるという修練方法を唱えてきました。また、突き蹴りを一撃必殺のものとせよ、と教えてきました。そのことは、弱い身体と対峙し、それを鍛錬し強化するという意義はあると思います。しかしながら、技の威力を高めるために身体鍛錬のみが武術の修練だとは思いません。私は身体鍛錬も技の修練にも共通するのは、自己の身体の限界に挑みつつ、自己の中心を掴むことだと思っています。それは「自己が強い」と無理やり信じるためのものではなく、本当の強さを自覚することと言っても良いことです。言い換えれば、「自己(心身)は弱い」あるいは「自己はまだ未熟だ」と言う認識を超えでるためのものです。言い換えれば、自己の心が作る限界や壁を乗り越えることです。その乗り越えるとは、例えです。その例えの企図するところは、自分自身を他者から与えられた言葉によって限定して認識してはならないということ。そして自己の中心の自覚によって自己の可能性を感じることが大事だということです。

 

次へ続く

 

2022年8月24日:一部加筆修正

悟りを形にしていく〜その4

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悟りを形にしていく〜その4

  1. 道場稽古の基本原則    
  2. 自己の中心を護る    
  3. 組手型修練の原則の詳細    
  4. 不動の中心への到達を目指して    
  5. 組手型と試合の修練は車の両輪の如し    
  6. 自己の中心を活かす対応    
  7. 悟りを形にしていく〜100人組手の修行    
  8. 拓心無限

 

 

 

悟りを形にしていく~100人組手の修行

 

   私が若い頃、挑んだ100人組手の修行を、私は自己の中心を掴むための修行だと認識し臨みました。それは、「悟り」の経験だった思います。ただ、そのような明確な認識を有する者はいないかも知れません。これまで、私は「自己の中心」や「悟り」という言葉は使ってきませんでした。なぜなら、誤解を与えると思ったからです。しかしながら、私の人生も最終章に近づいてきました。そして、新たな武道論を展開するにあたり、誤解を恐れずに書き記していこうと思っています。おそらく、歴代の100人組手修行者も私の思想を知れば、私の考えを理解してくれると思います。

  私の場合、大事な組手の世界大会の前に100人組手の修行を行ったが故に大きな犠牲を払いました。それは100人組手の修行による腎臓へのダメージで1ヶ月ものベットレスト状態、また退院後も食事制限などを余儀なくされ、一時的ですが持久力、筋力などの体力を大幅に失ったことです。しかしながら、その見返りに、と言えば、語弊がありますが、「悟り」のような感覚を得たのです。それは相手の中心の変化を自己の中心で感じ、かつ間髪を入れずに技で対応すると言う「応じ(技)」の原理と原則があるということです。さらに、真の勝、そして不敗とは、誰かの作った価値によって判断されることではなく、中心を奪われずに破邪顕正を執行するならば、自然と得られるものだという認識です。私はそのような認識と覚悟で100人組手の修行の後の世界大会に臨んでいました。その結果、誰にも負けなかったと確信しています。しかしながら、その悟りも、人間の欲心、そして自己の間違った判断と選択ゆえの争いに身を投じたことにより、自己の中心が奪われてしまいました。その結果、私の心身は衰え、体得した「悟り」は消えました。しかしながら、それから数十年の人生の中における思索により自己の愚かさ、間違いを痛感しています。

  その100人組手の修行から30年近くも経ち、私も還暦を越えました。残された人生もわずかでしょう。しかし、あの悟りを再び本物とするために最後の挑戦に挑むつもりです。確かに、体力や気力等は衰えました。障害もあります。しかしながら、今一度、私は自己の中心を信じ、それを活かしていきたいと思っています。

 具体的には、かつて自己の心身に浮かび上がった「悟り」を形にしていくことに尽力します。また、その後継者の育成です。その形を表すための枠組みが組手型と試合修練を車の両輪の如く体系化した拓心武術なのです。

 

 拓心無限

 

 昨今、私は世界には多様な文化的背景による様々な差異があり、完全な理解はできないと思うこともあります。だからこそ、その現実を打破するために芸術家や文学者、などが新たな価値を提示しようとしているのだと思っています。同様に、他を殺傷するような武を根源とする武術であっても、その修行の核に「自己の中心を護りことは自己を活かすことであり、自己を活かすことは他者を活かすことである」という「悟り」を見失わないこと。もし、そのことが真に体得できtれいれば、敵対する者にも偏見を持たずに理解、そして対応できるはずです。そして、私は武術修練を「悟り」を得ることを目標とするならば、武術が人類が平和共存に向かうために有効な人間修行の手段となりうると思っています。

  

 最後に、私の主宰する極真会館増田道場の修練体系に組み込まれた拓心武道は、極真空手のみならず、あらゆる武術を活かし、進化させるものです。その核心は拓心武道哲学の形成です。しかしながら、その哲学とは私のみの哲学を指しているのではなく、武術修行者の一人ひとりが自己の中心を自覚し、かつ活かす過程において形成されるものを指しています。

 また、私が拓心武術のゴールとしているのは、拓心武術の修練により、心の無限の可能性と中心を悟り、自己の霊性に目覚めることです。そして、その霊性と自己の中心を活かして社会をより善くしていくことです。(2022年8月21日)

 

 

小論〜悟りを形にしていく

終わり

 

本小論は、極真会館増田道場の門下生に向けて、私の武道哲学、修練理論を伝えるために書きました。私の思いが届きますように…。

 


従心への武道〜〜デジタル空手武道通信 第63号・号外編より

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極真会館増田道場のみなさんへ〜デジタル空手武道通信 第63号 号外編より

 

 

従心への武道

 

 コロナパンデミックと同時に組手稽古による飛沫感染防止のため、打撃技の修練方法の改定に踏み切りました。次は投げ技や逆技と打撃技を融合した稽古・修練の実施です。もうしばらくお待ちください。教本を作成しています。

 

 全ては、3年前に始まったコロナパンデミックの中、背水の陣の気持ちの判断・行動の継続と展開です。です。その展開についてこれない人もいたかもしれません。しかし、理念なき競技方法、組手方法、勝敗にこだわる修練は、武道の修練ではないと思います。

 

 さて、私はこれまで変化しない真を掴みたいと思って生きてきました。その思いが消えることはありません。しかしながら、未だ私は真を掴むことができていません。ただ、「変化し続けるものが変化しないものだ」と思っています。わけのわからないことを言っていると思うかもしれません。

 

 いつまでも大人になれず、かといって子供でもない、そんな私も「耳順(60歳)」の年齢を越えました。本来なら若い人の前に出しゃばらず、引退する年齢です。そんな年になり、また空手を始めてから約50年、ようやく迷いの雲が晴れてきています。もう、でしゃばるつもりは毛頭ありません。また、どこまでやれるかもわかりません。さらに言えば、途中で野垂れ死ぬ可能性もあります。 

 

 大袈裟に思われるでしょうが、まずは65歳まで。次に従心(70歳〜心の欲するところに従えども矩を踰えず〜論語)まで。体力は衰えましたが命懸けの冒険だと思って取り組んでいきます。

 

 最後に、増田道場には30年以上も私と一緒に稽古する黒帯もいます。本当にありがたいことです。これからも、歳を重ねつつも楽しみながら、共に生涯の武道を探す冒険をしていけたら望外の喜びです。

 

 

↓以下、拓心武術・柔法の動画

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中心論〜プーチン氏へ・中心を護る

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 中心論〜プーチン氏へ・中心を護る

 

 先日、今年の前期に昇段した有段者の補講を行った。技術的に不十分な面があったからだ。とはいえ、技術的に不十分といえば、他の有段者も十分なものなど、ほとんどいない。私も含めて。もちろん、段位によって、習得レベルが異なることは仕方ない。段々に習得レベルが向上するものだからだ。よって、初段位を習得してからも、上達を目指して、すなわち、より高いレベルを目指して修練・稽古を行わなければならない。

 

 とはいえ、黒帯取得を一つの目標とし、空手武道の修練をやめる人もいる。その理由は様々だと思うし、これもまた、致し方ない。また、空手修練に求めるものが、個々人によって様々あることは、空手武道の一つの可能性かもしれない。しかしながら、私はどうしても、私の伝える空手の中心を明確にしておきたいと思ってきた。

 

【私のいう中心】

 私のいう中心とは、物理的中心(重心)であると同時に精神的な中心と言っても良い。今、その考えを明示しようと思っている。私は、どのように価値観が多様化したとしても、人間とその社会には中心があると思っている。そして、その中心が多様なあり方、考え方の平衡を保っているのだ。そして、その中心を何らかの力、例えば、遠心力にような力によって失うことがあるとしたなら、その人間と社会のあり方といった形は崩れていくに違いない。それが創造的な破壊なら良い。だが、私が危惧するのは、中心を喪失した分裂・分断である。その時、おそらく、権力者は暴力的または権力を駆使した処方箋を考えるに違いない。だが、そのような処方箋は間違いである。私は、なるべく早くに「人間と社会の中心とは何か」をより多くの人が見直し、気づくことだと思う。

 例えるならば、人間は絶えず、その中心を意識し、軸足の変化、体重移動による変化を察知し、そのバランスをとらなければならない。さもなければ、人間は自己の身体のバランスを喪失する。

 バランスを失い、倒れたら立ち上がれば良い、と思うかもしれない。しかし、その転倒により、甚大な損失を被る可能性がある。それが社会全体、組織の話となると、弱者が犠牲になるだろう。

 

 

 

【どんな時も自分は自分だと胸を張れるようになりたい】

 ここで私の幼少の頃を思い出す。私の幼い頃の願いは、「どんな時も自分は自分だと胸を張れるようになりたい」ということだった。そんな目標を持ったのは、自己の中心を知らず、またバランスを取ることができなかったからだと思う。言い換えれば、何らかの力で中心を奪われそうになっている状態だったのだ。当時の私の状態を人は「お前の心が弱いからだ」と思っている人が多いに違いない。

 

 それは、半分正しいが、半分は間違っている。私は心が弱かったのではない。無知だったのだ。それは、自己の行動への欲求が強いにも関わらず、その行動のための軸の存在。そして軸の活かし方を知らなかった。ここでいう軸の活かし方は、本能的、かつ経験的に身につけるものかもしれない。それができないなら、行動の仕方(型)として身につけることが望ましい。だが、それが難しい。なぜなら、現代とは、世界的にも価値観が多様化し、かつ欲望が肯定され、先鋭化してきている状態だからだ。私の幼少期は特にそんな時代だったような気がする。もちろん、私の印象であり、真実かどうかはわからない。また、いつの時代も人間の欲望が社会の原動力であることも事実だ。決して私の幼少期のみがそんな時代だったのではないだろう。しかしながら、多くの社会問題の核心を人間の無知だ、と私は考えている。言い換えれば、個々人、そして社会の権力者が人生、価値観、時代の変遷の中で中心と中心軸の活かし方を知らなかったことが問題点だと考えている。

 

【根本的な知(智)】

 中心と中心軸の使い方の要点は2つある。まずは、周り(全体)の中でどのように自分を活かしていくかという理念(イメージ)と行動規範を持つこと。もう一つは、成りたい自分の欲求(欲望)を実現するための行動手段を持つことである。

 また、平たく例えるならば、防御(力)と攻撃(力)を充実させ、そのバランスを取ることが重要だということだ。言い換えれば、人が何らかの行動により生きていくには、他者からの働きかけから自己を防御し、かつ自己の欲求を実現するという感覚がなければならないということである。私は、優れた人の生き方は防御(力)と攻撃(力)のバランスが取れていると思う。中には攻撃(力)のみで生きることのできる者もいるかもしれない。だが、それができるのは、攻撃力に価値を置く他者がその価値を認めてくれている場合に限られるのではないか。また、それも人の見る一面でしかないはずだ。そして長期的に見て、防御と攻撃のバランスが取れていなければ、いずれ敗れるに違いない。かくいう幼少の頃の私は、生きる上での防御と攻撃のバランスが取れていなかった。断っておくが防御、攻撃と言っても、私の使う言葉の概念はそう単純ではない。また、幼い頃の私は、自由奔放に育てられた事により形成された、のろまで天邪鬼な性格だった。いうまでもなく、自由に生きるだけでは行き詰まる。それでも、私は自由が大事だと思う。問題点はフリーダム・自由の意義と目的を検証・吟味しないこと、また明確にその価値を理解していないところにあると思う。検証・吟味を通じ、個々人が自由の意義と目的を理解し承認する。そのプロセスが最も重要だ。そして何より、より善く生きるためには「根本的な知(智)」が必要だ、と私は思っている。また、それが中心軸の本体だと言っても良いかもしれない。では、その根本的な知(智)とは何か。

 

【自己と他者をより善く理解し活かすという感覚】

  根本的な知(智)とは、中心の感覚と言い換えても良い。私は、その中心の感覚がなければ、生きることが困難だと思っている。そして、その中心の感覚とは「自己と他者をより善く理解し活かすという感覚」だ、と言い換えても良い。つまり、中心の感覚をより善く活かすということは、人間としてより善く生きるということに他ならない。また、それが人間の可能性の本体だと思う。

 しかしながら、そんな説教じみた言い方ではない、別の言い方を試みれば、「防御と攻撃のバランスを保ちつつ生きる」ということになる。言い換えれば、他者の感覚を理解し認め、かつ自己の欲求(欲望)を実現すること言っても良い。果たして、そんな生き方ができるのだろうか、と思う向きもあるだろう。しかしながら、そのような生き方が出来る者が善く生きる者だ、と私は思う。また、自己が運よく良く生きるのみならず、他者の欲求(欲望)を最も善く活かす道(理法)を示していく者が社会のリーダーだ、と考えている。

 

 さらに言えば、最も重要なことは、人間が存在する社会において、社会(システム)自体が中心を喪失してはならないということ。そして、民衆に防御と攻撃の仕方を教えるということである。さらに、たとえ転倒しても、サポートする仕組みを構築することだと思っている。もちろん、成熟した社会にはそのような仕組みがあるに違いない。だが、時代の変化に伴い、今一度、原点に立ち戻り、個人のあり方、そして社会、そのシステムを見直す時期なのではないかと思う。

 

 私が社会及び社会システムの核心と考えるのは、「自己と他者をより善く理解し活かすという感覚」「防御と攻撃のバランスを保ちつつ生きる方法を伝える」ということだ。

 補足すれば、同時に、幼いころに大きく心身を使い、バランスを失うような体験をさせることが必要かもしれない。そんな体験の中から、バランスを取ることの大事さを体認することができる。大事なことは、バランスを失い転び、倒れることを否定したり、批判したりしないことだ。まずは失敗を恐れず行動する気分の醸成を目指すこと。そして、社会がそのような行動を担保することが大事だ、と私は思う。

 

 私が考える武道修練も、先ず以って自己の中心と対峙することが重要だ。そして自己の中心と対峙するとが他者の中心と対峙することにつながるということを自覚すること。自分の感情に任せ、相手の中心と対峙せず、力任せに自己の力を相手にぶつける。そんなあり方は、あまりにも未熟で浅はかである。もちろん、私にもそんな時、そんな面があるだろう。しかし、そのような状態を未熟だと自覚しないような修練では、道に出会うことはないだろう。そして武道とは言わない。日本武術、そして日本武道が到達した境地は、自己の中心と対峙し、それを護り続ける努力、そのことなのだ。

 

 

【武術・武道の中心〜プーチン氏へ】

 最後に、私の考える武術・武道の中心とは、形はないがあらゆる技の中にある。そして、あらゆる技を活かしめている。だが、多くの人にはそれが見えない。また見えたと思っても見えていない。

 

 ウクライナに侵攻したロシアの指導者、プーチン氏は柔道の愛好者だという。誤解を恐れずに言えば、私はプーチン氏は魅力的な人物だと思う。プーチン氏が講道館を訪れた際の振る舞いにその真骨頂をみる。しかし、ウクライナの人達の苦しみ、怒りを想像すれば、プーチン氏を支持することは到底できることではない。そして、私はウクライナの兵士たちの勇気に最大の敬意を持つ。もし、プーチン氏が日本武道の真髄が、単なる格闘技ではなく、物理的にも精神的にも「中心を護る」という感覚だということを理解していれば、行動が違ったものになったと思う。今からでも遅くはない。ロシアの中心を護るため、また人類の中心を護るために争いを止めることだ。

 

 問題は、多くの武道や武道家を掲げる人達のみならず、政治家にそれが見えないことだ。かくいう私に完全にそれが見えているかといえば、見えていない。また、中国の思想書、「老子」の一節だったと思うが「知る者はいわず」と言う言葉が浮かぶ。だが、そんな言葉の真意は言葉も自分の頭で考えるのではなく、実践、そして五感で感じること、そして吟味するこが大事だという示唆を含んでいると私は理解している。

 私は、五感で感じたもの、そして直感を頼りに残りの人生を生きていきたいと強く思っている。同時に言葉を吟味することも重要だと思っている。故に武道という言葉を吟味する。あえていうが、私は人間として未熟だろう。また変形しているかもしれない。そんな私が大仰なことを言うのは恥ずかしいが、私は武道を学んだ人が自己の中心を悟れるようにしたい、と思っている。そして、私の武道哲学が武道人自らを活かし、かつ他を活かしつつ生きるために、ほんの僅かでも貢献することを願っている。

 その願いを実現するためにも、より多くの人が老人となっても若い人たちと一緒になって、互いに学び合い、心を高め合うように修練できる武道(理念と修練体系)と道場を創設したい。

 そのためには、修練体系を改編することは当然のこと、「中心を護る」という理念を理解してもらえるように努力しなければならないと思っている。自己の中心のみならず、他者の中心を、また社会の中心を護るために…。

私が新しい組手法(TS方式組手法)を創った理由 ~新しいシステムを生み出す

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私が新しい組手法(TS方式組手法)を創った理由

 

 

【第15回月例試合】

 先日、第15回月例試合を実施した。今回は試合の経験の少ない黄帯の参加者が多かった。私の道場では従来の組手法を改め、新しい組手法を実施している。その初めはコロナパンデミック下における感染防止の効果があると思ったからである。当初、頭部に防具をつけ顔面を打ち合う組手法は、防具使用のめんどくささや顔面攻撃への戸惑いにより、躊躇する者もいたと思う。また中には恐怖感を感じる者もいたはずである。さらに述べれば、従来の組手法に対する愛着を捨てたくない者もいたかもしれないと思っている。色々と考えたが、私はコロナパンデミック下で、従来の組手修練は実施する気にはならなかった。あまりにも間合いが近いからである。そこで、私は従来の組手修練では得られない足使い(足捌き)や反応力を得ること、またボクサーのような顔面攻撃を巧みに避ける技を身につけることを目標に掲げ、新しい組手法を実施した。また、空手本来の護身のためには顔面への突きを避ける技術が必要だと賢明に説いた。幸い、師範代の秋吉と一部の黒帯はすぐに私の考えを理解してくれた。そして積極的に稽古を始めてくれた。しかし、これまでの稽古体系では、新しい組手法の上達は難しかった。ゆえに私は、従来の修練体系に独自の修練法を工夫し加えた。その効果が段々と出てきた。だが、中には思うように上達しない者もいるようだ。だが、挫けないで欲しい。おそらく試合経験が10回以上を超えた頃から、攻防の意識ができるようになると思う。もちろん正確な統計結果ではないが、慣れが必要だと思う。

 

【組手に上達したい人に対するアドバイス】

 さらに組手に上達したい人に対するアドバイスをしたい。まずは組手型の動画教本を見ること。1時間ぐらいである。少しづつ分けてみても良い。次に基本組手技の動画教本、そして運足法の動画教本を見て理解してほしい。独習で完全な理解は難しいかもしれないが、見るだけでイメージがインプットされるはずである。そのインプットが重要だ。また、組手稽古の仕方もいきなり「技あり」を取り合うような組手をしなくても良い。たとえば、私の道場独自の言い方である約束組手、すなわち受け側と取り側に分かれて野球のキャッチボールのように応じの稽古をするのも良いだろう。また、自由組手も突きのスピードを落として行うのも良いかもしれない。その時は、相手に攻撃が当たらなくても良い。先ずは、相手の攻撃(仕掛け)に対し、驚いたり、恐怖を覚えたりしないよう「防御技×攻撃技」でもって反応するという回路を作ることを目的とすることだ。また、その回路は完全な回路でなくても良い。以上のような組手稽古と組手型の稽古を繰り返すことによって回路の道筋ができる。と私は想像している。その上で、試合稽古を行い、試合の中で自分の反応と攻防の理法が合致した時、完全に回路ができたと言っても良い。

 

 我田引水だが、TS方式組手法は面白い。なぜなら、自分の反応能力と攻防技能の向上が実感できるからだ。また様々な現象を安全に体験、そして分析できる。同時に様々な武技に共通する、技を活かす理法が見えてくる。私の場合、時間と体力が無くなっていくという現実との対峙が厳しい。一方、若い人には時間と体力がある。ただ、全ての人に言えることは、良いと思えばすぐにやることである。誰にも先のことはわからない。今、最善を尽くすことが重要だと思う。

 

 もちろん、TS方式組手法以外にも良い方法があるかもしれない。だが、相手の出方を予測する眼を養い、また位置取りと足使い(足捌き)を良くする稽古法としては最上の方法だとお思っている。その一番の理由は、反復練習に適しているということだ。相手の動きと一体的に攻撃技を繰り出す技能の体得は、途方もないぐらいのデータベースの構築、反復稽古というプロセスが必要だ。

 

【なぜ新しい組手法(TS方式組手法)を創ったか】

 

 次に補足として「なぜTS方式組手法を創ったか」ということについて述べておきたい。TS方式組手法の構造を理解すれば、どのような意識と努力をすれば、組手に上達するかが見えてくると思うからである。

 私が新しい組手法を考案したのは、空手技を使うことに関し、他の技芸(芸術やスポーツなど)にも劣らないレベルに到達したいと言う理想を具現化したかったからである。

 そのためには、既存の競技の中心は何かと考えた。その結果、非常に空虚な理想と理念しか見えなかった。ゆえに、今一度原点に立ち戻り、中心的価値観を見直す必要があると考えた。

 兎にも角にも、私は、新しい組手法を創るに際し、組手修練により何を目指し、かつ何を目的とするかを明確にすることから始めた。言い換えれば、中心的価値観を明確にしなければと考えたのである。その結果、私と他の空手家とは全く別のものを見ているかもしれないと思っている。

 

【試合の中心的価値観とは何か】

 さて、これから私が考えた試合競技や組手修練の中心的価値観について述べてみたい。TS方式組手法における中心的価値観は、相手の攻撃を自己の技(防御技)によって無力化し、かつ自己の攻撃技を有効化する技術と技能の開拓である。開拓とは可能性への挑戦と言い換えても良いだろう。そして、その価値観に合致する技が「技あり」である。

 そのTS方式組手法は、野球に例えれば、ストライクを取られずにボールを的確に打つ。また、相手に打たれずにストライクを取るようなゲームである。またサッカーに例えれば、相手にボールを奪われずにパスを通し、最終的にゴールキーパーの防御をかいくぐり、ゴールにボールを入れるゲームのようなものだ。異なる点は、ボールゲームより恐怖心があることだ。それは武術だから当然だ。そこが武道の独自性だが、それ以外は、野球にしろサッカーにしろ、一流の選手達の技術・技能は卓越している。その部分からは学ぶ点が多い。

 現在、空手には多くの流派ごとに様々な組手法があるが、TS方式組手法と試合原理は、ボールゲームに近い。だが、ボールゲームといえば、その空手は武術であり、空手はそんな遊びではない、と空手家はいうかもしれない。しかし、その空手競技者に精緻な技術や理法を活用する技能を体得している者が多くないように思う。そのような技術や技能はシステム(修練体系)によって育まれるものだ。そして、そのシステムの中心には、明確な価値観があると思っている。

 

【武術において重要なこと】

 少し脱線するが、武術において重要なことは、技の殺傷力の向上と養成に努めることである。同時に他者の殺傷力に対峙することである。その部分・領域へのアプローチが武道修練とボールゲームを隔てる要素であり、武道の重要な要素である。ゆえに、徒手格闘技の空手は、武器の仕様を基本とする他の武術とは異なり、自己の身体を武器化するために部位鍛錬を行う。また、それで足りなければ、他の道具を用い、自己の戦闘力を増強する。またそのような肉体の殺傷を前提とするがゆえに、生死を掘り下げ、自己存在の究極を追求する。私の考える極真空手、そして拓心武道もそのような考え方を有し、そのための修練を行う。この部分も拓心武道では重要とするとことを断っておきたい。だが、その部分について述べるのは別の機会にしたい。

 

【自他の間に共通の価値観を設定しなければ】

 話を戻して、野球やテニスなどのトップ競技者が有する速い球(ボール)や道具を扱う技術や技能について思いを馳せて欲しい。

 そのような技術や技能を空手家は保有しているのだろうか。技術や技能は、道具を含めた他者と自己が交流することで生まれる。しかし、その交流(コミュニケーション)に方向性を与えなければならない。その方向性を与える事柄が、私のいうところの共有されるべき中心的価値観である。

 話が難しくなったので、話を早送りするが、剣術であれ、他の格闘技であれ、自他の間に共有されるべく中心的価値観を設定しなければ、その技術・技能は養成されない、と私は考えている。そしてスポーツ競技のように、明確な価値観の共有という基盤がある物事には、そこに関わる人たちに高い技術・技能が養成される、と考えている。しかしながら、空手の組手競技の場合、価値観が共有されていないのである。また、共有されていたとしても、それは明確な価値観ではなく、先述したように抽象的で曖昧である。そのことに多くの人が気づかないようだ。よって永遠に技術・技能の向上には限界があるだろう。

 

【新しいシステムを生み出す】

 再び脱線するが、社会の価値観とシステムに瑕疵があれば、それを作り直し、新しいシステムを生み出すことが必要だと思っている。また、定期的に価値観と現実を検証し、システムを更新する必要があると思っている。なぜなら、我々はシステムの奴隷ではないと思うからだ。そして、社会にはより善い方法を生み出す活力が必要だと思うからだ。ここまで語ると、私の考えていることが理解できなくなるに違いない。それは私の喋りすぎと言う悪癖、かつ伝え方の未熟ゆえだろう。ゆえに、どうしたらみんなの心に私の武道哲学が伝わるかを考え続けている。

 

【中心に明確な理念と中心的価値観の共有がなければ】

 

 話を戻して、最後に述べておきたい。TS方式の組手法を含む拓心武道(修練体系)はまだまだ成長する。言い換えれば、まだ未完成だということである。しかし同時に成長の可能性を有しているということでもある。最も重要なことは、システムの中心に明確な理念と中心的値観の共有がなければ成長しないということだ。私にはそのことが明確に理解できる。だからこそ、理念に共有してもらえるよう努力し続けなければならないと思っている。とても困難なことだが…。

 先日行われた、第15回 月例試合の合間に、私は参加者に対し期待を込めてあることを伝えた。それはTS方式空手武道競技のルールブックの第1条に挙げてある、競技理念・目的である(以下を参照)。

 突然のことに子供達は目を白黒させていた。また、黒帯は聞き流していたかもしれない。だが、改めて読み返してみて、修正を直感した。もっと良い伝え方があると。ゆえにすぐに競技理念・目的の文言を少し修正した。余計な文言を削り、新たな文言を追加した。その競技目的・理念が空手愛好者の心に届かなければ、この先、TS方式、そして拓心武道は結実しないだろう。だからこそ、これからも理念を高め続け、実践・精進を続けたい。

 

 

【TS方式空手武道競技規定 第1条 目的・理念】

 

本規程によって実施される拓心武道試合競技を実施する目的は、武技(武術)を用いた競技試合により自他の心身を最も善く活かす理法(道)を追求することにある。その競技方法は、突きや蹴りなどの技の有効と無効を規程に照らし判定しポイントに置換し勝敗を決することである。また技の判定基準は攻防の理法に合致しているか、また正確性を有しているかを第一義とする。その独自の判定基準と方法により老若男女が安全性を確保しながら武技を用いる競技試合が行え、かつ理法を理解できるようになる。なお本競技は能力の高低によって勝者と敗者を決するためにあるのではない。その目指すところは、競技者が共に自他を活かす武の理法を学び合い、その先に無益なダメージの与え合いを避ける方法を創出することにある。その意志を「武道人精神(BudoManShip)」と呼び、我々はその精神を涵養し、自己を最も善く活かす武道人の育成を以って社会の平和共存への貢献を行う。

 

 

 

 

師を思う

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師を思う

 

 

師が言った


リーダーに必要なことは


愛と誠実だと

 

師が言った


人間として何が正しいかを


判断基準にせよと

 

だが、そんなリーダーがいるか


愛ではなくて私情

誠実ではなくて打算

 

今、世界中に


きな臭い匂いが立ち込める中


私は確信する

 

世の中の
中心には


愛の意識が

必要だ

 

行動の
規範には


誠実の意識が

必要だ

 

そして判断に迷った時は


人間として何が正しいかを


問うことが必要だ

 

稲盛和夫


本当に
偉大な

師を失った

 

叶わぬことだが

師の気魄に

もう一度触れたい

 

(心一)

 

 

デジタル空手武道通信 編集後記 第64号

 先日、京セラ、KDD Iの創始者、稲盛氏が亡くなった。

実は、私は稲盛氏が主宰する経営者の塾で図々しくも10年以上も末席を汚していた。

 

 塾の草創期はまだ塾生も数千人と少なく、稲盛氏の話を数メートル前で聞くことができた。私のような市井の人間にとって信じられないような経験だった。

 

 稲盛塾長には先輩塾生の後押しもあって、私の主催する空手道大会の名誉会長を10年間務めていただいた。本当に僥倖だった。そんな幸運を手にしながらも、私といえば、いまだに掲げた理想が実現していない。稲盛塾長には恩返しとして、理想の実現を果たして見せたかった。

 

 一方の盛和塾は、私が入塾した頃から数倍に発展した。また晩年、稲盛氏は日本航空の再建のために尽力し、見事再建を果たした。こんな空手家と話す暇はなかっただろう。それでも、私はいつも稲盛氏に恩返しをしたい、と思っていたが、ついに果たせずじまいだった。

 

 ある日のこと、稲盛氏が私に微笑みながら言ってくれた。「お前さんは大丈夫だよ」「みんな助けてくれる」と。そんな優しい言葉をいただいた日がとても懐かしい。今、テレビで稲盛塾長の在りし日の勇姿を見ると、なぜか涙が溢れてくる。私は駄目な人間だと。だが、同時に「誰にも負けない努力をする」「愛と誠実」の教えを心に頑張れ、と声が聞こえている。

 

 師の教えを胸に、もう少し頑張りたい。

 

 

 

構えは全ての技の一(始まり)となる

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 拓心武道修練理論の執筆を急いでいる。拓心武道論では、理念的な事柄と方向性のみを述べた。今度は、具体的な修練理論をまとめた教本を制作したい。道場生の上達のために、より具体的な教本が必要だと思うからだ。以下は、その中の「構え」の章の草稿である。

教本では、写真等を使って解説したい。今回、動画教本(キャプションを修正した)を合わせて掲載しておく。

 なお、取り急ぎ、昇段審査、昇級審査を受審する人たちには、是非とも「構え」を見直していただきたい。また、草稿からの抜粋なので、前後を読んでいなければ理解しにくい部分もあるかもしれないが、ご了承のほどを…。

 

 

 

構えは全ての技の一(始まり)となる

 

「構え」とは全ての技の一(始まり)となる。その本質は「心の構え」にある。すなわち、他者をどのように捉え、それに自己をどのように対応させるかという意識が「構え」の始まりであると言っても良い。これから拓心武道における「構え」の意義について述べてみたい。

 

 拓心武道修練における「構え」の考え方は、「構えは全ての技の一(始まり)となる」というものである。その本質は「心の構え」にある。換言すれば、「構え」とは、相手の攻撃し、かつ防御するために、如何に基本技を活用するかに関する思想及び手筋が反映したものなのである。ただし、「構え」に囚われることは戒めなければならない。なぜなら、「構え」の本質が「心の構え」であり、その形が絶対としてとらわれれば、変化に対応するための「技」や「技能」を生み出すことができなくなる。

 しかしながら、強力な殺傷力・威力の可能性を秘めた刀剣を用いる剣術においても構えはある。その意義を突き詰めれば、如何に確実に斬るか、また如何に斬られないようにするかの心の準備、そして身体の準備だと言える。ならば、素手素足を用いる武術においても、心の準備、かつ身体の準備が必要なことは言うまでもないだろう。そして基本中の基本とするべき事柄なのである。

 先述した、心と身体の準備とは、抽象的な表現だが「最高の技」を創るための心構えでもある。より具体的に述べれば、「構え」とは、精度の高い基本技を創ることと基本技を用いる高い技能を体得することに向けての心身の準備、その2つを面を併せ持つものなのである。

 換言すれば、心身の準備が技を創ると言っても良い。さらに述べれば、「最高の技」を目指す修練とは、その準備の過程だといえる。また、準備の過程における、自他の心身に対する深い掘り下げを覚悟する表現でもある。

 以上に述べた「準備」に対する考えを元にした修練の「一(始まり)」が「構え」に対する理解である。そして体得のための手段が「自然体・組手構え」を設定することなのである。

 

自然体・組手構え

 ここで拓心武道修練における「自然体・組手構え」についての要点を述べる。「自然体・組手構え」の要点は、「相手の頭部をより正確、かつ素早く攻撃できる構え」そして「相手の頭部への攻撃をより素早く防御できる構え」ということだと言っても良い。もちろん、相手の戦い方(得意技)によって、「構え」の多少の変化はある。しかしながら、拓心武道では、徒手による頭部への攻撃に対し、より早く、より効果的に攻撃しやすく、かつ防御技を作りやすい体勢・構えを基本とする。

 より具体的に述べれば、自然体・組手構えは、立ち方としては「自然体」という立ち方を起点とする。ここでいう「自然体」とは、両足を腰幅ぐらいとし、両腕の力を抜き、自然に下げた状態だ。この自然体で膝の力を抜き、両腕を手首の内側を相手に向けないようにして両足の前に置く構えを「無形の構え」という。組手構えは、自然体で拳を作り(両手を握る)、その両腕を腕の力を拭いた状態で上に挙げる。その際、相手の頭部を攻撃する際より近くになるよう、また自己の頭部を腕で守りやすいように頭部(顔)の横におく。さらに左右の足のどちらかを一歩前に出し、少し膝の力を抜き重心を落として立つ。これが「自然体・組手構え」だ。

 補足を加えれば、前後の足の体重の掛け方は、前足に50%、後ろ足に50%が基本だが、感覚的には前に歩き出せるような意識を少しだけ強くする。「自然体」という立ち方は歩くように動くことが基本だからである。そして繰り返すようだが、組手構えの重要点は、両腕を腕に上げても腕には力を入れず、両腕(小手)によって頭部全体を蹴り技や突き技から守りやすい態勢にすることである。また膝の力を抜き、わずかに重心を落とすこと。なぜなら、下半身を素早く動かし、立ち位置を変化させたり、地面半力を得る際、極力、上下動を避けるためである(移動)。また、動く際の上下動は体力を消耗し、かつ体軸を不安定にするからである。体軸が不安定になる動き方を続けていると、他者が動き回る戦術を取る場合や複数の場合などにおいて、体力の消耗が避けられず、技の発揮ができない。それは、戦いにおいて敗れる可能性が高くなるということだ。

 さらに補足を加えれば、構えを「技」の一(始まり)として意識することは、身体を用いて基本技を作る一(始まり)の意識ともなる。なぜなら、その一(始まり)から基本技の動きが始まり、かつ軌道が生まれるからだ。また、その動きの軌道を予測(読み取る)ことが組手修練の目標の一つでもあるからだ。そして、対峙する相手の技の初動や軌道を予測するためにも、動きの起点としての「構え」に関する理解を徹底しなければならない、と私は考える。その理解があるからこそ、より高い技と技能が創出されるのである。大体、以上のような考えにより、「構え」とは全ての技が始まる一(始まり)と拓心武道修練では教えるのである。

 換言すれば、「基本技」の「一(始まり)」としての「構え(心構えと身構え)」から、「二」として攻撃技や防御技が生まれる。そして、さらに続く基本技(攻撃技や防御技)との組み合わせが「三」である。その一から三の構造を理解した者にのみ「技」を自在に運用・活用できる道が拓かれるのだ。

 

 

 

 

「負けを知る」 ための試合修練

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 ようやく私の空手理論書を書き終えた。原稿用紙で180枚ぐらいの文字数だ。取り急ぎ、遺言だと思い書いた。時間があれば、論文形式にしたかったが、私の修錬理論を述べるにとどまった。もう少し、寿命と気力をいただければ、書き直すこともあるだろう。

 今、内容をチェックしつつ、文字を削っている。その中から一項を掲載しておく。

 

 

「負けを知る」 ための試合修練

 ここで、優秀な技と技能を有するスポーツの競技者のあり方を参考にして、データ収集と試合経験の重要性を補足したい。

 私はさまざまなスポーツを観て、その競技方法の構造、そして競技者の心理について考えてきた。それは理想の武道を創出することに役立つと考えたからだ。そこから得た勝負論と競技論、そして上達論を野球というスポーツを譬えに述べたみたい。だが、私の幼少の頃とは違い、昨今は野球というスポーツを知らない人が多いようだ。ゆえに、私の喩えが、野球というスポーツの解説ではなく、局面的な勝負の構造から見た喩えだと思って読んでほしい。そしてもう一つ、拓心武道空手の修練理論においては、技を仕掛ける方(攻撃者)が投手、技に応じる方(防御×反撃)が打者だとイメージできる。さらに他からの攻撃に応じ、その技を制する技能の体得を目標とする拓心道空手は、野球における優れ打者を目指すという面が大きいかも知れない。ただ、少し脱線するようだが断っておきたい。拓心武道空手の修練目標は、野球における投手のどんな球にも的確に対応し、その球を打ち返す技能を有する優れた打者を目指すことだけではない。どんなに優れた打者に対しても三振を取ることができる投手、また「一球で打者をアウト(負け)」とする、優れた投手を目指すことだ。その意味では、最近、野球ファンの心を魅了している、二刀流の大谷翔平選手が拓心武道空手の理想かも知れない。だが、考えてみて欲しい。武術においては、攻撃側に立っても防御側に立っても相手(他)の技に対し的確に対応し、それを制することが重要だ。そんな単純、かつ本質的なことを理解できていない者が多い。

 ゆえに、先ず以って野球における投手と打者の勝負のルールを平易に説明したい。投手が打者にボールを投げることによって始まる。そして投手の投げる球が決められたストライクゾーンに三回投げ入れ、打者が打てなければ、打者はアウト。投手の勝ち、打者の負けとなる。また、投手の投げる球を打者が打ったとしても、投手をサポートする野手に上手く処理されればアウトとなり、投手の勝ち、打者の負けとなる。この場合、打者の打った球が野手に上手く処理されなければヒットとなり、投手の負け、打者の勝ちとなる。また、打者がボールを打ち、場外スタンドまで飛ばしたらホーームランとして投手の負け、打者の勝ち(空手で言えばノックアウト)となる。もう一つ、投手の投げる球があらかじめ決められたストライクゾーンに投げられないことが四球(回)続けば、打者は無条件で出塁できる。これは投手の負け、打者の勝ちだ。他方、打者が投手の投げる球を上手く打てずに空振りを三回すれば、三振・アウトとなり、打者の負け、投手の勝ちとなる。また、球を打ったがグラウンド内に球を運べず、かつ野手が上手く処理できなければ、ファールとなる。これも投手の勝ち、打者の負けだが、空手で言えば引き分けの様なものだろうか。そして、その引き分けは、投手と打者の勝負に結論が出るまで続けられる(永久かどうかはわからない)。以上は非常に大まかな野球におけるルールと勝負の見方である。

 

 さて、野球を局面的な勝負を前提に述べる。野球における投手と打者の勝負においては、打者側から見れば、一流と言われる打者でも百回に三十三回ほどしか勝てない。換言すれば、打者は投手と百回勝負をして、三十三回も負けているのである。では、空手的などちらが強いのかというような短絡的な価値基準で考えれば、話の本題から外れる。ただ、あえて言えば、野球という競技ルールにおいては投手が有利のように思う。だが、そんな観点ではなく、別の観点から野球と武道の共通点と重要点が私には観てとれるのだ。

 その共通点と重要点とは、野球における打者にも投手にも「自己の技を活かす技能」に対する明確な意識があるということである。

  具体的に述べれば、野球というスポーツにおける一流の打者は、如何に自己の打率を上げるかを意識している。その上で、ホームランや打点(空手で言えば相手へのダメージ)を上げることを意識するのだと思う。さらに三振による負けを少なくする意識があると思う。私の想像は、私の武道的価値観から見た想像であり、エンターティンメントスポーツという面では、私のいう一流の打者という観点が妥当かどうかはわからない。

 あくまで私見だが、投手の投げる球は組手における他(相手)からの攻撃技に置き換えられる。他方、打者が投手の球を打つ技は、他者の武技(攻撃技)に対する応じ技に置き換えられる。そのように見れば、野球における技と技能も武術における技と技能も、それらが形成される裏面には大量の勝負経験と技と技能を活かす意識と思考があると考えている。

 具体的には、優秀な投手が実際の勝負に臨む際、「球のスピード」を意識することのみならず「投げる球の精度」を意識していると思う。すなわちコントロールを意識しているということだ。同時に「変化球の活かし方」や「投げる球の配球」や「投球のリズム」を意識していると思う。

 他方、優秀な打者の場合は、投手の「投げる球の種別」と「配球に関する予測」を意識していると思う。さらに何らかの方法で「投手の投球リズム(拍子)」を自己のリズムに合うようにしていると想像している。その上で、投手が投げる速い球、変化する球に的確に対応するための「技と技能の発揮」を意識していると思う。また、その裏面には「自己の技と技能を活かして発揮するためのメンタルタフネス」すなわち、武道でいうところの「心法」を意識しているはずだ。

 以上で述べた意識を活かし目標を達成するために、打者も投手も実際の勝負と練習において、多くの情報収集と分析を行なっていると思う。その情報収集と分析があるからこそ、投手の投げる球を予測し、かつ、それに対応する技と技能を養成できるのだ。また、そのようなバックヤードにおける作業と努力がなければ、優れた技と技能は養成されない。つまり、野球における情報収集と分析のためのデータ、要素が武道修練における試合経験なのである。

 繰り返すようだが、その試合経験(勝負経験)において、打者の側からすると、打者は投手に百回に六十七回は負けている。だが、野球には、大量の試合経験を得られること、そして打者や投手にとっての明確なデータと意識を得られる構造がある。その構造により、野球選手は優れた技と技能を体得するのである。

 私は野球における勝負を見て「野球の本質とは、負けを知り、その負けの経験を活かすこと」だと直感する。そして、「負けを活かす」ことができれば、負けとは「究極的な敗け」ではないと考えている。私の抽象概念だが、「究極的な敗け」とは、負けを活かせないことだ。

 この節の最後に、拓心武道空手の修練においては攻撃を仕掛ける際は「野球の優れた投手のように」また、攻撃に応じる際は「野球の優れた打者のように」と伝える。また、試合経験のみならず組手修練では、相手に目先の勝負に拘ることではなく、自他の関係性による勝負の情報を収集し、かつ、それらの情報を分析するのだと伝える。その上で、より善く他に対応し、自己を活かす理法を探し出すことを目指すのだ、と伝える。さらに、以上の意識、心構えにより、自己の心身に優れた技と技能が生み出されると伝えたい。

 また、私の観た野球の本質と拓心武道空手の本質が同じだ伝えたい。端的には「拓心武道空手の本質は、負けを知り、その負けの経験を活かすこと」と言っても良い。さらに述べれば、抽象的だが、その先にあるのは相対的な勝利ではない。拓心武道空手が目指す地平は自己が他との関係性の中で「負け」を知り、その「負け」を活かすことである。つまり、自他を活かす地平に至れば試合修練と組手修練において敗けはない。蛇足ながら、既存の武道における試合法は、武術を掲げるがゆえに勝負の判定方法が検証不可能で稚拙なものがほとんどである。結果、適正な「負けを教え」かつ「負けを知る」ことはできない。

 

 

 

 

 

 

 

 

デジタル空手武道通信 第65号

サッカーW杯を見て2022を観て

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サッカーW杯を見て2022を観て

 

「日本の若者も捨てたもんじゃない」「フラットなコミュニケーションを大事にする森安監督のような指揮官の登場」

 

 日本全体が日本がサッカーのW杯で盛り上がった。もちろん、サッカーを見る暇もない人、サッカーに興味のない人もいるだろう。他方、もう走ることもできない老いた私だが、サッカーW杯で勇気をもらった。私はサッカーのみならず、メジャーなスポーツが好きだ。それはミーハー的な好みではない。メジャーになるにはメジャーになる要素があると思うからだ。と同時にマイナーでも良い点があると思うが、その点を活かす必要があると思っている。

 また、私には単純にスポーツを楽しむ面のみならず、他のスポーツから学ぶという意識がある。要するに勉強のために見ている。それは、熱狂的なファンからは邪道だと思われるかもしれない。だが、多くのファンと同様、スポーツを余暇の楽しみとしてのみならず、選手やその戦う姿から人生の学びと気付き、そして勇気を得ている。そんなスポーツのあり方(価値)から私は学ぶことが必要だと思っている。

 

 換言すれば、選手たちの「情熱」「技能」「闘争」、ファンの「熱狂」の中に我が人生と空手に学ぶことが多くあると思う。残念なのは、空手界の人たちが、他のスポーツを理解しているとは思えないからだ。もし、メジャースポーツの価値を理解しているなら、空手は変わっているはずだ。おそらく、空手界の人たちの多くは、他のメジャースポーツを全く別物と考えているか、それを否定するかのような価値を大事にしているのかもしれない。それを差別化と言えば、差別かもしれないが、私はそう考えない。

 

 私は、人を集めて何かを行うならば、サッカーのみならず、他のメジャースポーツに内在する「価値」をもっと分析する必要があると思う。その理由は、人間の「情熱」「信念」「技能」の発揮と昇華を通うじ、「感動」や「勇気」、そして「相互理解」と「連帯」を促す力を創り上げるためだ。

 

 私のいう「感動」や「勇気」、そして「相互理解」と「連帯」という「価値」は、活かし方次第では、社会をより善くしていく作用がある。ただし、活かし方を間違えると悪くもなる。だが、先述した「価値」を生み出す構造が民主的である必要がある。そうでなければ、手段が目的化し、その行為と場所で得られた「感動」や「勇気」、そして「相互理解」と「連帯」は排他的、かつ閉鎖的なものとなる。私は、スポーツとは民主主義のリトマス試験紙のようなもの、また試験管だと思う。もちろん民主主義が完全無欠なものだとは思っていない。

 脱線するが、今回のW杯でも、オランダとアルゼンチンの試合で選手同士で乱闘寸前のような状況になった。また、ベスト4以降も選手間のみならずサポーター間においても問題が起こる可能性がなくもない。そんな状態が良いのか、と思われる人も多いと思う。その部分がサッカー嫌いの人の共通項もしれない。テニスやラグビーでは、極力、紳士的に振る舞うことを歴史的に要求されるようだ(例外もあるだろう)。この点に関しては、ナショナルを掲げているW杯では、相手や敗者に対する尊重は必要である。ゆえにジェントルマンシップは必要不可欠だと思う。国内大会においては、ある程度の対立は国内で浄化されるから良い。だが、国と国とを掲げて戦うW杯では厳禁である。

 しかしながら、そのような点を許容するのも民主主義かもしれないと思っている。だが、スポーツが資本主義の道具に堕すことなく、その理念を高め続け、人類の精神的な成長と個の尊重を謳う民主主義に貢献していくためにも、紳士的なチームが優勝する必要があると思っている。

 

 私は、アソシエーション・フットボール(サッカー)とは、まさしく民主主義が世界に浸透していく、プロセスとこと軌を一にしているのと思っている。だが、問題があるとすれば、資本主義とあまりにも結びつきすぎて、民主主義の原点を忘却した時に危ういと思う。

 

 話を戻して、まだ終わっていないサッカーW杯の感想を述べておく。現時点において、私が興味深いのは、サッカーの審判と選手たちの違和感である。おそらく、W杯後、サッカー通の間では論争があるかもしれない。それは審判の反則の取り方によるゲームへの影響である。

 換言すれば、「反則の取りすぎ」あるいは「反則を取らないこと」による、ピッチ上の選手が感じたゲームの流れ、リズムへの影響、または違和感だと言っても良い。それがアルゼンチンのメッシ選手やポルトガルのぺぺ選手による審判に対する異議の本質ではないかと思っている。

 そのことと同じではないが、私が着目するのは日本代表の吉田麻也選手の発言である。吉田麻也選手が今回のベストプレイを聞かれて「イエローカードの出し方に対し審判に粘り強く異議を伝えたこと」という主旨のことを述べていたようだ。また、吉田麻也選手は語学が堪能だという。その話を家族から聞いた時、私の中で森安監督の若かりし頃のインタビューの映像と繋がった。森安選手(監督)は、サッカーの魅力を聞かれた「サッカーの魅力はチームプレイですかね」と答えていたように思う。私は、今回ミスがなかったとは言えないが吉田麻也選手が、チームを支えていたように思う。彼の高いチームとサッカーに対する意識が日本チームの躍進を生み出したと言っても過言ではない。

 補足すれば、ディフェンスにミスがあったと言っても、オフェンスにおけるミスの方が圧倒的に多いのが通常だ。ただ、ディフェンスの失敗は失点につながるので、印象に残るだけだ。その意味では、今回の日本チームは吉田麻耶選手のみならず遠藤選手や全員がディフェンスを頑張ったと思う。同時に前田大然選手や浅野選手、堂安選手、田中選手、三笘選手、などオフェンス面でも情熱的、かつ創造的なプレイを見せてくれた。また、忘れてはならないのはキーパーの権田選手のスーパーセーブだ。

 

【私の空手理論とサッカーを重ねて観た感想】

 ここで私の空手理論とサッカーを重ねて観た感想を述べておく。「攻防一体」は私の武道理論における戦術原則の一つである。また「応じ」という戦術概念と同じものである。その「応じ」の戦術概念を応用してサッカーの戦術を以下に定義してみたい。サッカーにおける「応じ」とは、「相手からのパス(攻撃)を防御(インターセプト、ターンオーバー)し、相手の陣形を無力化、あるいは弱体化するようなパス(攻撃)、あるいは攻撃を行い、相手陣形を崩し、かつゴールを決めること」となる(サッカーにおけるターンオーバーの意味はラグビーやバスケットボールとは異なるらしいが、相手のボールを奪い取って反撃することはターオーバーと言った方が良いだろう)。

 おそらく、私の定義はサッカーの一流の選手にとっては当たり前のことなのだろう。そのことを前回のW杯でも実感した。だが今回のW杯では、空手の理論書を書いていた最中だったので余計にそう感じた。また、そのような基本原則が空手の競技では理解されていないことも。私にはもう残された時間は少ないが、このことを突き詰めて、理論と実技を残しておく。

 

【にわかファンが何をいう】

 最後に「にわかファンが何をいう」と思われるかもしれないが、私は森安監督の続投を望む。なぜなら、森安ジャパンのコミュニケーション重視のあり方は、閉塞感漂う日本のあり方に打開策を見出す気づきになると期待しているからだ。さらに日本の若者が日本から世界へと自由に飛び出し、他国に人達と対峙し言葉によって交流することに期待している。そのことにより、自己、そして日本の活かし方が理解できると思うからだ。

 そのためには、若者を活かすことのできる日本人の監督が必要だ。その理由は、サッカーW杯の優勝という目標は、日本人の変革でもあるからだ。その変革のためには「苗木」を一次的に移植するような外国人監督の起用は考える必要があると思う。私は、監督をはじめ、まずは「土づくり」、すなわち「土壌改良」だと思っている。その点で川淵氏が率いたJリーグの発足は「土壌改良」と言っても良い。また、その草創期、JFAは外国人監督を起用したこともある。その理由はあるのだと思う。だが、これからは、日本独自の選手、そして監督、チームを作っていく必要があるのではないか。もちろん、そのぐらいのことはJFAの人達がわかっていないはずもない。

 さらに調子に乗って述べれば、日本選手の「技(技術)」は、現時点では海外の超一流には劣るが、いつか追いつき、日本から世界の超一流選手を生み出すことも可能だと思う。また、私はそのことを全てのスポーツ選手に期待している。必ず、日本の若者はやれる。ただし、注意すべき点は、年配者に若者の感性を受け入れ、活かす感性、そして土壌がないといけないと思う。

 

 繰り返すが、今回の森安監督のチーム作りの基盤には、サッカーの技術のみならず、コミュニケーション能力を重視していたのではないかと思っている(海外組は大体コミュニケーション能力は高いと思う。例えばキーパーの控えの川島選手なども見えない支えとなっていたと想像する)。

 もちろん、我の強い一流選手が意思の疎通を図るということは困難だと思う。だが、サッカーという競技が意思の疎通という志向性が根底にあるからこそ、技術を活かす「技能」というものを生み出すのだと私は考えている。換言すれば、個々の選手の中に、他者とコミュニケートするという意識があるからこそ、チームとしての技能が発揮されることを身体で理解しているのだと思っている。断っておくが、私が少し上から目線なのは、「技能」という概念が私独自の概念だからだ。私は、サッカーのみならず、ラグビー、そしてバスケットボールに至るまで、ボールを媒介としたチームスポーツには、個々の「技(技術)」のみならず、他者の「技」と自己の「技」とを一体化させる志向性・意識が必要だと思っている。また、1個のボールを共有するスポーツでは、その志向性・意識が生まれやすい。そして、その志向性・意識を他者と共有し、かつ他者と自己とをうまくコミュニケートさせた者、その上で個の技術を活かした者が超一流のプレイを見せるのだと思う。蛇足ながら、日本人は他の技術を真似ることは上手い。しかしながら、技術と技術、元素と元素を掛け合わせ、化学反応を起こさせるような志向性・意識に欠けると思っている。私はその点を変革して欲しいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 


鈴木大拙と永江会長

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 ここ3ヶ月ほどかけて書いていた拙著を上梓した。

だが、デジタルデータの扱いが上手くできず、現在修正中だ。後10時間はアップに要するだろう。この本は死んだつもりで書いた。そして再生するために…。

 

 私はかねてから修練理論を伝えなければならないと思っていた。自他を言語化しなければ、心と身体が創り出す技(花)と技能(花の在り方、咲かせ方)は理解できない。だが、より善い技(花)と技能(花のあり方・咲かせ方)を引き出そう(掴もうと)と思えば、畢竟、言葉では説明できない奥深い部分を認知し、引き出す必要がある。

 この二律背反的な経験を乗り越え、自由自在を認知するには、どうしても理論(言語化)によって心身を運用する枠組み(構造)を把握する必要がある。その理解を基盤にして、実践を繰り返し、繰り返す。そして、その奥にあるもの(自由自在)を把握するのだ。

 

 出鱈目に稽古しても心身を操作する前にあるものを認知できない。また、だた体を動かす、また人の真似をするだけでは、奥深い部分を認知できない。と言っても、誰も私の言うことに耳を傾けない。

 

 私は拙速でも言葉を残しておかなければならなかった。明日のことなどわからないからだ。ようやく、その言葉を書き留めた。今回の理論書は、まだまだ不十分だ。だが第一段階にはなるだろう。あとは方便を磨くだけだ。

 

 

 私は本書の上梓を新しいスタートとしたい。もしかすると、みんなから愛想をつかされるかもしれないと思っている。正直、不安だ。それでも仕方ない。これ以上、周りに合わせて入られない。

 

 そんな思いを整理するため、夜中、郷里に向かった。父の顔を見たかった。

 

「元気でしょうがない」

「お前の方が大丈夫か?」

「わしは誰にも負けん」

と私の顔を見るなり、父は言った。

 

 だが、私の父の半身は不自由である。世話をする妹は大変そうだ。

妹曰く、父は言うほど調子良くもないようだ。それでも、強気なことばかり言う。

父は弱気な私とは違う。私は、そんな父よりも妹が心配になった。

そんな妹とも3年ぶりにゆっくり話をした。

 

 兄として妹を助けられない、私が心苦しい。

その妹も亡くなった母と同じ年齢になるらしい。

妹には自由な老後を送ってもらいたい。

 

 夜は柔道仲間の友人と創業50年以上の行きつけの店で食事をし、お気に入りのバーで一杯飲んだ。

私は、ほぼ人前では酒を飲まない。

また、人の多いところも避ける。

だが、金沢だけは別だ。

 

 私の帰省は、ほとんど発作に近い。息ができなくなって帰省する。また、帰省して父の顔を見て、祖父母と母と息子の墓参りをすると、すぐに帰るのが常だ。

 

 今回もとんぼ返りしようと、朝早くに金沢を発ったが、ラジオで鈴木大拙の話をしていた。それを聞いて、鈴木大拙館(ミュージアム)を見に行こう、と思い立ち引き返した。実は今回で3回目の訪問だ。だが、新しい発見があった。これまで、何を見ていたのか、と反省した。

 

 

 私は三十代の頃、大拙先生が開設した鎌倉の松ヶ丘文庫の当時文庫長だった古田紹欽先生に手紙を書き、実際に鎌倉に行ってお話を聞いた。その時は、古田紹欽先生にサイン入りの臨済録をいただいた。それから数十年が経った。鈴木大拙先生が伝えた禅と仏教思想は、私の血肉になっていると思う。

 

 ちなみに、古田紹欽先生からいただいた臨済録にこう書いてあった。

 「常行一直心」

 

 鈴木大拙先生が好んで書いた言葉らしい。大拙先生は、私の生き方を叱るかもしれない。

 

 「本来無一物」

 

 

 その鈴木大拙館の駐車場の隣に、幼少の頃の恩人の一人、永江会長(永江トレーニングセンター会長)が務める、石川国際交流サロンがある。私はサロンに少しだけ立ち寄って、永江会長のお顔を拝見して帰ろうと思った。決して長居をするつもりはなかった。

 

 実は、私に鈴木大拙と西田幾多郎を教えてくれたのは永江会長だった。二十代の終わり頃だったか、三十代の初めだったと思う。鈴木大拙先生を知ってからの私は、数年の間、鈴木大拙と西田幾多郎の著作を読み漁った。

 特に鈴木大拙先生の著作はかなりの数を読んだ。大拙先生は禅の修行をされた禅者だが、親鸞、浄土真宗の思想にも造詣が深く、大谷大学の教授を長く務めていた。

 それゆえかどうかはわからないが、大慈悲心を中心とすることを説いていた。また大拙先生の宗教経験は、幼い頃から親鸞の教えが染み付いていた私には共時性があった。私は鈴木大拙先生の思想は浄土真宗と禅宗の合体融合だと思っている。

 鈴木大拙は、幼い頃の苦労と宗教経験(道心)を得て、深く、広大な思索を続けた。その宗教経験を活かしつつ努力を続け、世界中に禅の思想を広めると言う偉業を成し遂げたのだと思う。大拙先生は、私の最も尊敬する人間の一人である。


 若い頃は、永江会長とゆっくり話をすることはなかった。だが、私は歳を重ねる度に永江会長の素晴らしさを実感している。

 

 今回はアポ無しだったが、来客がいなかったこともあり、永江会長は私に色々と話をしてくれた。その話は哲学的で難しい話だったが、非常に独創的で興味深かった。永江会長は、良い意味で天才的な感じのする人だ。

 

 また、永江会長は物事を本質的に観ようとする人でもある。それゆえ、よくも悪くも言葉が鋭い。だがユーモアもある。また、失礼なことかもしれないが、齢80歳としては元気で美しい方だ(若い頃もそうだったが…)。

 

 

 

 

 

 

 

おすすめの鈴木大拙の本

 

 

以下の書籍は試し読み機能が使えるまで数日を要するようです。しばらくお待ちください。

 

 

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無心~WBCを観て

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無心~WBCを観て

 

●本コラムは、WBCが開催されていた時、私の日記に記録しておいたものである。

 

 

 WBCのメキシコ戦において村上選手が打って勝利した。まさに皆が望んでいた勝利だった。

ファンの中には、佐々木が完封し、打者が打ちまくる。そんな勝利を望んでいた人もいたかもしれない。

 

 だが、メキシコチームは弱くなかった。エンジェルスで大谷と同僚のピッチャーもすばらしい投球を見せ、さらに打撃も守備も素晴らしかった。日本チームは負けそうだった。

 

  日本チームは、メキシコチームに得点をリードされた中でも動じず、しぶとく得点を挙げた。だが、ダメかもしれないと思った人もいたのではないだろうか。だが、選手は勝つことを信じていたように思う。試合の終盤、日本はメキシコとの点差を山川穂高選手の犠打、 吉田正尚のホームランなどにより縮めた。

 

  そして、4対5で迎えた9回裏、大谷が2塁打で口火を切った。まるで、「みんな挑戦しろ、これからだ」とでも言うようにチームメイトを鼓舞したように見えた。まるで、勝利への「北極星」のようだった。私は大谷という北極星が、WBCの優勝へと導いたと思う。次に吉田正尚が四球で出塁した。そして、村上宗隆の打順。最後にお傷立てが整った。

 

 私は、それまでの村上を見て、「若いな」と思っていた。誰もがそう思っていたに違いない。私は村上を「ダメ」だと思っていたわけではない。むしろ、村上がみんなの期待に応えようと頑張っている姿に好感を持った。だが、その真面目さが不調の正体はだとも思っていた。

 

 村上選手に関しては、打席数が一定数に達すれば、調子は上がって来ると、野球関係者は言っていた。私も、最後になれば、村上は良い仕事をすると思っていた。そして、打てないのは、打つための準備期間だと思っていた。

 

 しかしながら、負けが許されないWBCでは、気が気ではなかったかもしれない。それでも私は、村上は最後に仕事をすれば良いと思っていた。

 

 本来、実力はあるのだから、打てないわけはない。しかし、実力があっても重要な試合において力を発揮することは容易ではない。プレッシャーか?そんな思いが観客にはあったかもしれない。

 

 野球のみならず、スポーツは少なからず賭博的な部分がある。その意味は、確率的な部分があるということだ。私は、他の選手に変えたところで、確率的に見れば、村上を使い続けることがベストだと思っていた。また、それならば、村上に気持ちよく、かつ全力を発揮させた方が良いと思っていた。

 

 私が期待していたのは、村上から「無心の一打」が生まれる瞬間だった。そして、ついに、その一打が生まれた。

 

 

 その「無心」を言い換えれば、「応無所住而生其心」だ。その意味を私流に意訳すれば、「とらわれるものなくして心を使う」ということである。しかしながら「無心」はむずかしい….。ゆえに、私は村上の打席を見ながら、いつも「只振れば良い」と思っていた。

 

 私は「あの球を狙う」とか「こう打とう」と、思う心によって、わずかなズレが生じているのだと思っていた。

 

 只、振れば良いのだ。これまでの積み重ねた経験を信じて。私は村上のサヨナラの一打は、まさに無心の一打だった、と思う。

 

 今、栗山監督が村上を信じて使い続けたことを、美談のように皆が語っているが、実は、野球は確率的な要素が大きいということ。また、日本球界を担うスラッガーの扱い方を考えることが重要だと思っていた。つまり、あそこで代打に変えても勝つ確率はしれている。ならば…。

 

 私はそのように考えていた。そして、無心の大切さ、自分を信じることの大切さが表れる瞬間を私は予測していた。

 

 

 これまで、私は野球のみならず、さまざまなスポーツを見てきた。その目的はスポーツ観戦自体を楽しむことためではなく、その中にあると思われる勝負の構造を見るためだ。そして、勝負の構造によって「技能」が創られ、かつ、アスリートの心技体が創られるという私の仮説を確かめるためである。

 

 私は、スポーツの素晴らしさは、その競技によって創られる「技能」の巧妙さと競技によって形成されるドラマの中で、人間の心技体が研ぎ澄まされるという点にあると思っている。

 

 アスリートとは、競技によって心技体が研ぎ澄まされた者のことをいうのだと思っている。また、競技のファンはスポーツの賭博性と選手のスキル(技能)に酔いしれている。

 私は、ファンを虜にする競技とは、ドラマがあり、かつ賭博性があること(ただし数値化でき、イカサマではない競技)。その上で選手のスキルと心技体の卓越性が理解できる競技だと思っている(断っておくがショーと競技は別、ここでいう競技とはスポーツのこと)。

 

 

 蛇足だが、後日、元巨人の篠原氏が村上のバットの握り方が良くないというようなことを言っていたらしい。また、WBCの開催中、それを伝えたかったらしい。

 

 私は村上の構えとスイングにずっと注目していた。野球の素人の私だが、打てない時の村上は上の方へ(上半身の方へ)意識が行き過ぎていたと思う。

 だが、無心になった時には、力が全身に分散し、ゆったりとした構えになっていたと思う。そして、スイングは滑らかになった。

 

 

 

 

 

 

デジタル空手武道通信・臨時増刊号・編集後記

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デジタル空手武道通信・臨時増刊号・編集後記

4月16日、私は長野県にいた。ホテルで寝ようとしたら、右足が痛くなった。見るとの足首あたりが腫れ上がっている。また、とても寒くてホテルの暖房をつけた。初め「東京と異なり、まだ長野は寒いんだな」と思っていた。しかし、段々寒くて、身体が震え出してきた。

一晩中、水を飲んでは寝て、トイレに起き、また寝る。こんなことを5回ほど繰り返しただろうか。結局、ほとんど眠れなかった。それでも、次の日に予定していた、空手指導は頑張ろうと思っていた。だが、どうも普通じゃないと思った。あまりにも寒く、足が痛い。私は、これまでの経験上、このまま頑張ると長野で倒れる予感がした。どうせ倒れるなら、家族のそばが良いと思い、予定は中止とし、東京に戻ることにした。

 

私は、同行した荻野氏に運転を頼み、急いで帰京した。途中、病院を探した。だが、東京に戻った時は、午後だったので、どの病院も受け付けてくれない。ようやく見つけた当番医の整形外科ににいくと、熱が三十九度あるので発熱外来に行ってくれという。

 

私は看護師に「コロナではないと思う」「足の炎症による発熱だと思う」「なぜなら、足が異常に痛く、腫れている」「コロナは昨年の暮れに罹患している」「コロナの可能性は低い」と伝えた。だが、受け付けてくれなかった。しかし、一人の看護師が、気の毒に思ったか、先生に掛け合ってくれた。だが、先生は受け付けてくれなかった。

 

他に行く病院がなかった私は、その整形外科で1時間粘り、その看護師に頼み込んだ。ようやく1時間ほど経った時、若い医師が外に出てきてくれて、診察をしてくれた。そして、蜂窩織炎だと診断し、抗菌剤を処方してくれた。その医師は、今回は応急ていな処置で、なるべく皮膚科に行った方が良いですよ、と優しく教えてくれた。

 

帰宅後、私はすぐに抗菌薬を飲み、足を冷やしながら寝た。だが、足が痛く、長くは寝ていられない。次の朝、ほとんど良くなっていないので、これはいよいよ大変なことになると思い、救急で対応してくれる病院を捜した。そして見つかったのが杏林大学病院である。

杏林大学病院は緊急外来で行き、すぐに血液検査を行なった。結果、即入院となった。百人組手の時もそうだったが、誰も私が具合が悪いと言っても信じてくれないようだ。体がゴツく、声も大きいので、元気があると思われているのだろう。

杏林大学病院には、2週間ほど入院した。病名は蜂窩織炎だった。入院中は点滴を1日6時間も投与し続けた。また、ほとんど歩かなかった。にもかかわらず、足の方は良くならなかった。それでも血液データは、ほぼ正常に戻ったので退院した。退院後も自宅療養が必要だった。なぜなら、足の腫れは引かず、痛みもあったからだ。私は毎日、足を冷やし続けた。患部に熱があり、冷やさなければ痛くて寝ていられなかったからだ。結局、退院後2週間以上、歩くことができなかった。だが、それでも治らない。

 

ようやく1ヶ月半が過ぎ、痛みと腫れが小さくなったので、5月の終わりから私は歩くことにした。だが、長時間のデスクワークはできない。足に血液が溜まり、腫れがひどくなるからである。

 

この編集後記も1ヶ月半ぶりにパソコンに向かっている。段々と足が痛くなってきた。実は、明日早くに病院に行く。おそらく、あと2ヶ月間ぐらいは必要だと思う。体力も落ち、仕事もできない。だが、私にはやりたいことがある。新しい武道を作る。それが、私が最後にやりとげたいことだ。今後、短時間に区切り、腕立て伏せやトレニングをするつもりだ。また、読書はできる。

 

おそらく、回復には時間を要するだろう。また、加齢により身体が弱くなっている。それゆえ、今回の傷病により、膝や腰の障害の悪化を招いている。だが、これで最期だと思って、挑戦したい、後悔のないように。

 

 

 

「凶」〜2023年6月12日、五行歌

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2023年6月12日、日記

 

毎年、鎌倉にある神社を訪れるのが、私の家族の恒例行事である。

だが、今年はコロナに罹患し、私だけは自宅で静養していた。

 

娘に私の分の「おみくじ」を引いてもらった。

 

自宅で、娘が引いてくれた「おみくじ」を見ると

「凶」だった。

 

家族全員が笑った。

特に家内は大笑いだ。

 

私の家内は、おみくじ、占い、血液型の類を全くと言っていいほど信じない。

神頼みもしないらしい。

一方の私は、幼い頃、神社を見かけるたびに、手を合わせ、幸運を祈った(笑)。

また、家内に血液型の話などしようものなら、すぐに馬鹿にされる。

「頭の程度が低い人だね」と(私の家内は私に対し猛烈に口が悪い)。

 

一方、私は子供の頃から、その類に関する本を商売ができるほど読んだ。

よほど、頭の程度が低いのであろう。家内に言わせると…。

 

誤解を恐れずに言えば、若い頃の私は毎日、生きるのが苦しかった(他者から見放された経験がどうしても受け入れられなかった)。

その苦しさを空手の道に吐き出してきた。

気がつくと61年もの歳月が経った。

 

今思えば、空手の道を往くことで、私の心は救われたのだろう。

しかし、その道の景色は変わり、険しい道となった。

 

私は「凶」の「おみくじ」を見て、銘記した。

今年で「おみくじを引くのを最後にしよう」と。

そして、今年の「凶」のおみくじを死ぬまで保管すると決めた。

なぜなら、絶えず「凶」の戒めを持って、毎日を生きようと思ったからだ。

同時に「私の運命がこれから「凶」なら上等だと思った。

そして「かかって来い」と…。

昨年12月にコロナに罹患し、ようやく回復した、今年の元旦のことである。

 

 

そして、4月の中頃に蜂窩織炎で2週間入院した。退院後も2週間は歩けなかった。椅子に座ることも足が痛くできなかった。

2ヶ月あまり経って、ようやく歩くことができる。

1ヶ月半ほどうまく歩けなかったことにより、下半身の筋力は落ちた。また、片足を庇ったことで、以前から悪い両膝の具合がさらに悪化した。現在、リハビリに奮闘努力している。

蜂窩織炎が軽くなく重くなった原因の一つには、私の脚の血管が壊れていることがある。

10年ほど前に下肢静脈瘤の除去手術をした。その頃から私の足及び全身は年々、血行不良で具合が悪くなっている。

 

ゆえに、私は毎日、自分の身体の具合と向き合わなくてはならなくなった。

 

だが、重い持病を持っている人は、私以上に自分の身体と向き合っていることだろう。それを思えば、「まだ良い」と気が楽になる。

 

これまで私は、アスリートでありながら、自分の体を酷使するばかりで、大事にすることに関し配慮がかけていたのだろう(それでも普通の人より知識はあり、管理はしてきた)。

否、知識が不足していたのだ。おそらく、ほとんどの人が身体に対する知識、認識がかけていると思う。そして、悪くなってから真理らしきことに気がづく。

 

最後に、人間はよく、真理とか、正しさを唱えるが、そんなものは悪くなった原因、また、失敗の原因を真に理解した時、少し垣間見る程度だ。人間は、決して真理や正しさを真に理解したわけではないと思う。

 

そして人間は、失敗を嫌い、かつ認めない。その結果、人間は永遠に失敗し続ける。

人間とは、実に愚かな存在である。

 

そんなことを思いながら、早くデスクワークをやめなければと、日記を書いている。

私は今年の5月で61歳。身体が悪いので、無理をすれば、すぐに人生は終わる。

今、長年のパートナーである身体にお願いしている。もう一度、目標を達成するために協力してください。そして、一緒に人生を楽しみませんか、と…(身体は、ふざけるな、と思っているだろうか?)。

段々、足が痺れてきた。身体からの警告だと思う。想いを五行歌に託し、すぐにデスクワークをやめたい。

 

 

 

毎日

凶も良し

吉も良し

生きているだけで

幸せだ

 

心一

 

 

 

 

 

 

 

増田道場・基本護身術

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増田道場・基本護身術〜極真会館増田道場会員用、デジタル空手教本より

 

 もうすぐ、久しぶりの修練合宿です。皆様におかれましては体調管理に気をつけてください。先日、合宿地の辰野町で打ち合わせをしてきました。私は、この合宿を増田道場の新たなスタートとしたいと思っています。詳細に関しては、合宿で伝えられるように、現在、1秒も無駄にせず、頭をフル回転させています。ただ、私の身体が不調なのと構想が壮大なので間に合うかどうかはわかりません。
 まずもって、合宿の下準備として、増田の護身術と武道に関する考え方をお伝えしておきます。会員の方は是非、読んでください。
ただ、皆さんの感覚では、奇異に感じるかもしれませんが…。必ず理解できるようにすることを私の修行していきます。
 
 

増田 章より(記:令和5年6月25日)

 2022年以降、極真会館増田道場では、極真空手の基本伝統技の活用を示す、基本護身術の修練を行います。その後、徐々に拓心道空手に含まれる投げ技や逆技、そして武器術を修練していきます。

 誤解を恐れずに言えば、私は「武道とは護身術だ」というのではなく、本来はいかに「相手を確実に殺傷する」か、という意識が原点だと思っています。しかし、その「相手を確実に殺傷する」ということ際しては、「相手を殺傷することに対し、短期的のみならず長期的に見て、意義や意味があるか」を瞬時に判断しなければなりません。なぜなら、そのことに対する洞察と見通しと覚悟がなければ、迷いが生じ、自己が殺傷される可能性が高くなります。また、恨みによって報復されたり、自己の存在価値を喪失する可能性が高くなるからです。

 これ以上は本サイトでは書きません。すでに人に聞かせる言葉としては不適切な言葉を用いています。しかしながら、本当の武道は、その部分を明確に意識できる感性を有する者にしか宿らない、一種の悟りのようなものなのです。また、その感性があるからこそ、真の武道人とは、普段に自己の心を制することを目指す、護身的な意識を有する者となるのです。

 それゆえ、私は護身術を護心術と書き換えて伝えます。つまり、身を守るとは、不断に心を守ることに他ならないのです。そのことが拓心道空手の心を制することの意義と意味です。まずは、格闘という状況のみならず、あらゆる事態を想定し、その対応を考えることが重要だと思います。しかしながら、多くの人が瑣末な技を大事とばかりに、修練に明け暮れ、またその技を見せびらかします。そのようなあり方は、拓心道空手の哲学とは反します。また極真会館増田道場の方向性とは異なるものです。

 最後に、私は極真空手に拓心道空手を合体させることによって、武術の原点、そして武道のあり方からは、逸脱した空手の軌道修正を目指しています。そして、空手の修練がより普遍的な道に繋がるよう、その理念と修練体系を修正し続けます。その弛まむ修正という行為が修行であり、修練の本質だと思っています。

 会員の皆さんにおかれましては、まずは「古伝極真空手・逆技」、「基本護身術」を習得してください。その後、意識が高くなった方々には、拓心道空手の修練をおすすめします。

 

 

 

 

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