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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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ストレッチの役割と効果について

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【近況報告】

先日、BMS用の撮影を行いました。前回と同じく女子部の和田さんに協力していただきました。和田さん、ありがとうございました。

その中に、ストレッチの写真があります。まだ一部しか撮影できていませんが、今後はBMSでストレッチの指導を行いたいと思います。

まずは、ストレッチに関する私の考えをまとめてみましたので以下に掲載します。ただし、ストレッチに関しては専門家が大勢います。今後、その方々の考えと私の考えを照らし合わせ、不十分な点を補いたいと思います。

今回の原稿は、日曜日に友人の奥様の誕生会&友人の集まりで富士山麓の友人宅を訪れた際にしたためたものです。

【薪割りの復習】

少し脱線すると、友人宅では薪割りの復習もしました。70~80%の上達です。薪割りのコツがほぼ掴めました。太い丸太がで一撃で、「パカッ!」と真っ二つになるのは、面白いです。

身体の使い方の研究になるので、詳しくまとめておきたいのですが、簡単に書いておきます。


私は最近伝統技の直突きの意識を若干変えました。簡単に言えば、体幹のしなりと停止(この辺は表現が難しい)を意識することです。そうすると突きに使う腕は自然に加速していきます。この感覚が薪割りの斧の振り方と似ているような気がします。また、斧を振り下ろす腕は、下半身の抗重力運動を体幹に伝えその下半身と体幹が作り出す運動を腕に伝えるだけです。つまり、腕は自然に振り下ろされるというような感じになります。丸太を割るときは、斧の重さを利用し振り下ろすので、力はさほど必要としません。ただ、丸太に斧が当たる瞬間に右の前腕を締める力が必要です。さらに言えば、斧を振り下ろす位置が重要ポイントのようです。私は打撃のポイントがずらして実験してみました。どうも丸太を一撃で真っ二つにするには、斧を当てる場所が1センチずれるだけでもダメなようです。

他にもいくつかの点に着目していますが、言語化し記述するには、時間を捻出しなければなりません。今回もみんなが談笑やバーベキューの準備をしている中、私だけがパソコンとにらめっこしていました。本当に研究には時間が必要です。また、言語化するには実験や検証のための資料の読み込み、考えの言語化と推敲などなど、1日があっという間に過ぎてしまいます。もちろん、その中で最低限、必要なことは行いますが…。

話を戻します。私が考えるストレッチの役割と効果は、武術の稽古のみならず薪割りにもつながるものです。また、私の悪くした膝が未だ完治しませんが(70%)、ストレッチが膝の機能の回復に役立つものと確信しています。それでは、サイト用の長文ですが、よろしければお読みください。




ストレッチの役割と効果について

※本稿はBMSにも掲載されています。▶︎BMS

【ストレッチの役割と効果~「身体を柔らかく使う」ということと「身体が柔らかい」ということ】

身体の動きは、大小の様々な骨と骨格筋で作られるようです。私は、良い動きとは柔らかい動きだと思います。では、柔らかい動きとはどういうものでしょうか?
私はまず、柔らかい動きについて、「身体を柔らかく使う」ということと「身体が柔らかい」ということを分けて考えます。

具体的に述べれば、身体を柔らかく使うということは、身体の各パーツ(骨と関節と骨格筋)の連携を上手に行うということです。また身体が柔らかいということは、一つ一つの筋肉や腱の伸縮性が高いということだと思います。そのことには関連性があり、一つのことと言っても良いのですが、厳密に言えば別のことです。さらに各パーツ(骨と関節と骨格筋)が高機能であるということとは別のことだと考えます。


【身体の各パーツの連携を上手に行うということ】

さて、身体の各パーツの連携を上手に行うということを考えてみます。各パーツの連携を上手に行うとは、身体の一つのパーツ(関節と骨、靭帯と骨格筋等)だけに過度の負担をかけないよう力を分散させることだと思います。同時に身体の各部分で生まれた運動量を統合することでもあると、私は考えます。

要するに、身体の各パーツの連携を上手に行うためには、骨を動かす骨格筋や関節や靭帯の状態をよりよく保つ必要があるのです。なぜなら、各パーツの連携を効かせて効率よく身体を動かそうとする時、状態(コンディション)の悪いパーツ(部分)があると、そこに障害が発生する可能性が高まるからです。また、足し算のように連携する身体の各パーツの一部に瑕疵(マイナス部分)があれば、全体として発揮できる力が減少します。つまり、身体の各パーツの機能をフルに発揮、かつ身体全体の機能を高めるためには、各パーツの機能をより良く保つことが重要なのです。

以上、身体を柔らかく使うということについて述べてきました。私が本項でお伝えしたかったのは、ストレッチの役割と効果が、ただ筋肉の柔軟性の確保という理解では不十分だということです。

【ストレッチの役割と効果】

繰り返しになりますが、ストレッチの役割と効果を、疲弊した箇所を自覚することや筋肉の血流を良くし、栄養分や老廃物の処理を促進するものだと考えてみてください。さらに身体の各パーツの状態を把握し、身体の機能を保持するために役立つと考えてください。

BMSにおいて、ストレッチを勧めるのは、武術としてのよりよい身体の使い方を目指すことの一環です。なぜなら、自己の関節の可動域や身体の各パーツの状態に絶えず気を配るということが、武術の技を探求することの同一線上にあると思うからです。

補足を加えれば、修練の中でも特に、上段廻し蹴りや後ろ廻し蹴りなどの習得には、股関節周辺の靭帯や筋肉の柔軟性などが必要です。しかし、ストレッチの役割と効果は、決してそのことだけではないと理解してください。

また、BMSが進めるストレッチの役割と効果とは、疲労や傷病からの身体の機能回復をはじめ、代謝機能などの促進も含んでいます。つまり、血流を促進することによる疲労回復や代謝の促進(ダイエット効果)など、より良い日常生活に効果があるということです。

BMSでは、毎日10分間以上、身体の血流の促進と姿勢の調整や骨の位置のリセットのために、ストレッチを行うことを勧めます。同時に体幹トレーニングや筋力トレーニングなどを行えばより身体機能の管理に効果的です。

最後に、これまで述べてきたことは、私が経験上感じたことを基礎にしております。ゆえにBMSでは、今後は専門家の意見を取り入れ、鍛錬やコンディショニングの方法を検証します。また、より良い方法を関する更新情報をお伝えしたいと考えています。


7/20一部コピーミス/修正済み
7/21一部修正











ようやく書けました!

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ようやく書けました。
数年にわたり書きたいと考えてきた、理論書の草稿を書き終えました。タイトルは、まだ言えません。

実はここ数週間、実は大変な難問に取り組んでいました。結局、その難問は解けそうもありません。忙しいのに何をやってるんだか…本当に。「馬鹿者」という声が聞こえてくるようです。

僕は毎日、膝のリハビリもしなければならないし、道場の業務も山積しています。でも、この暑い中、いろんな人が頑張って仕事をしています。僕は毎日、そんな人たちの姿をイメージすることで元気づけられています。

しかし、家族には呆れられています。そんな中、書籍に関する閃きがあったので、お盆休み、超高速で、一気に書き上げました。正直、フラフラです。30時間ほどかかりました。身体の具合も良くないので、ストレッチを行いながら書いていました。

この原稿は遺言のつもりだと言ったら、笑われるか、怒られるか?でも、そんな気持ちで書きました。

これから推敲です。また、残りは実技のページの撮影とキャプションの仕事があります。実技に関しては、盆休みに入る前、秋吉と友人のカメラマンとで行いました。しかし、仕事は進みませんでしたので、これから実技のページの構想をチェックし、まとめなければなりません(ということは、半分終わったというだけです)。

しかし、大筋は書けたので喜んでいます。
もちろん、それが採用されるとは決まっていないのですが…。

ただ家族には本当に申し訳ないと考えています。休み中、お金にもならない仕事に夢中になっている私を、一体どんな目で見ているのでしょうか。せめてもの罪滅ぼしに、娘に漫画の本を買ってあげました(笑)本当にごめんね。

最後に、僕は空手の社会的価値がより高まるように頑張ります。もう少し、お待ちください。
反発もあると思いますが、空手に人生を賭けた、増田章の描く武道空手の物語(?)を世に出します。


8合目?

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八合目

先日、書籍の草稿を書き終えたと報告したが訂正したい。
登山に例えれば、前回は5合目までたどり着いただけだ。

まず、私はそこから頂上を目指すか躊躇した。しかし、とりあえず引き返すのはもったいないと思い、8合目を目標に登り始めた。

5合目から8合目まで費やした時間は、草稿を書き終えたと吠えた前回の約2倍。何十回と草稿を読み返し、加筆修正を加えた。
「わかりにくい」
「これではダメだ」
「そもそも構想に無理がある」


見直せば見直すほど、無理がある気がしてきた。
「引き返すか」
心の中で、そんな声が聞こえる。

これまで私は自分の体力(知力)?を信じて登り続けた。

酸素が薄い?そんな感じがする。頭も痛い?高山病のようなものだ。身体も辛い。

そんな状態で、なおかつ8合目。

これからが本当の勝負らしい。ちなみに登山の経験は低い山で1回だけだ。

しかも、歩き続ければ頂上にたどり着くというような構想ではない。最も険しいと思われるルートを選んでいる。最後には断崖絶壁が待っている。今、その断崖を登る覚悟を決めなければならない状態だ。


本当に大丈夫か?

現実は、これまで原稿用紙にして120~130枚ぐらい書いただろうか。
私の書籍完成までのイメージは、あと30枚ぐらい書いて推敲し、写真や図を挿入すれば完成するというものだ。しかし、それが果たして、出版社のOKをもらえるかはわからない。

正直、自分を信じるしか他はない状態だ。
もう少し書いて、まとまらなかったら諦めよう。


とりあえず、師範代の秋吉からもらった、大好きな熊本の銘菓をいただいて一服したい。



感動体験、2連発!

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感動体験、2連発


感動体験その1~バレイ体験

【身体のケアに手間をかける毎日】
 左手術後1年が過ぎた。楽観的に見て、80%ぐらいの回復である。
しかし、運動後のアイシングは欠かせない。選手時代同様に身体のケアに手間をかける毎日である。そうしながらトレーニングを続け、身体機能の低下を少しでも抑えている。身体の機能の低下は、選手なら深刻な問題だ。しかし、人生の終盤戦を意識すれば、様々な学びの契機、その戦いの準備となる。

【取りあえず塩漬け】
 さて、お盆休みから約1ヶ月間続いた、前回のブログで8合目と書いたが、そこからが本当に過酷だった。例えるならば、断崖をよじ登るような執筆だった。それに起因するかは定かではないが、血圧が90まで低下し、ふらふらになった。現在は上昇し楽になった。書籍に関しては、220ページ分ぐらいを書き上げたが、塩漬けにした。出版社のOKがでないからだ。新しい構想で空手家を啓蒙しようという誇大妄想から書き上げたが、私の筆力では伝わらないらしい。最後に詳細な部分を修正しようと思っていたが、構成や出版方法を変えることも視野に入れている。「取りあえず塩漬け?」だ(一時保留)。


【先週の金曜日に念願が叶った】
 現在私は、自分のアイディアの無理なアウトプットをやめて、新たな学びのインプットに努めようと考えている。また「人里を離れる?(妄想?)」ために現環境の整理整頓を進めている。そんな中、京セラの稲盛和夫塾長の門下生の一人である、清水哲太郎先生と森下洋子先生が率いる、松山バレイ団の事務局の多家さんからメールが届いた。

 実は、バレイの身体の使い方やトレーニング方法に興味があった私は、同じ稲盛門下生で、極真空手家の安藤さんが清水先生と仲が良いと伺い、バレイの稽古を安藤さんにお願いしていた。先週の金曜日にその念願が叶った。正直言って、この稽古は一生の思い出となるだろう。それほど、清水哲太郎先生と森下洋子先生は、日本のバレイ界では偉大な存在である。私の心境は、清水先生への弟子入りという感覚に近い。

 補足を加えると、私がバレイの勉強をしたいと考えたのは、八王子スポーツ整形外科の間瀬先生との出会い、また理学療養士の佐藤先生からリハビリを受けたことが大きい。私は長いリハビリ期間の中、バイオメカニクスや身体に関する書籍を集め、勉強した。なぜなら、PTの佐藤先生は私のリハビリを理論的な説明を加えて進めた。その指導には、一般の人には難しい言葉が並んだ。私はその指導について行くために、専門知識を学ばなければならないと思ったのだ。断っておくが、そのような指導は私が望んだことである。通常は、なるべく簡単な言葉で説明をするらしい。私の場合、これを機会に、身体の構造について、もっと深く知りたいと思っていた。佐藤先生は、その私の希望に付き合ってくれたのだ。私が膝の手術後、研究のため集めた書籍の中に、「インサイド・バレイテクニック」というものがある。私はその内容を半分も理解していない。なぜなら、バレイの専門用語や解剖学?などの用語が並んでいるからだ。しかし、バレイという身体を使った表現芸術を行うためには、身体の構造について理解していなければならないということは理解できた。また、私は空手も本来は、身体の構造をしっかりと理解し稽古を行わなければならないと思っている。
また、そのように身体への理解が深まれば、身体の可能性をさらに拡げ、長きにわたって身体と付き合っていけると考えている。バレイの動きは身体の構造に精通していなければ続けられない、ハードな運動である。その上で、心と向き合い、心の素晴らしさ、身体の動きの美しさを音楽などと融合し「調和」を表現していく。そのような芸術がバレイではないだろうか。私はバレイには門外漢ではあるが、武道の動きも、動きの美しさ、リズムなどを生み出し、調和を感じさせるようなものになるべきだと考えている。

【バレイ体験にとても感動】
 話を戻せば、私はバレイ体験にとても感動した。詳細はいずれ書き直したいが、簡単に記しておく。まず、松山バレイ団の方々が稽古の合間、全員でお出迎えしてくれた。そして写真撮影。次に舞台稽古の見学。それから清水先生とのマンツーマンのレッスン。これは一生の思い出だ。日本一のバレリーナ、そしてバレイ団の方々にこのようなもてなしを受けるのは、稲盛和夫門下生であるからだが、また、私が大山倍達先生の創始した極真空手の日本一だからだと思う。改めて、稲盛和夫塾長、大山倍達先生への感謝を感じた。また、「極真空手を最高の空手にする」という志を全うしなければという思いを強くした。道はとても険しいが…。
【バレイのレッスン】
 清水先生のバレイのレッスンは情熱的である。また本質的である。一番大事なことを端的に伝えてくれたと思う(私の想像だが)。1時間30分ぐらいの時間が、あっという間に過ぎた。レッスンは最も基本的なことだったとは思うが、バレイは身体を伸ばすことが大切だと教えられた。また、足の指から手の指先までの意識をしっかり持つことなどを教えられた。レッスンでは、喪失しかかっていた、身体の意識が刺激され、身体のコアが活性化したように思う。下手な例えだが、稽古後、マッサージと同じように身体の血流が促進し、身体のアライメントが整えられたように感じた。バレイの基本レッスンは、シニアの機能低下の予防に最適だ。また、すべての空手家におすすめしたい。


 レッスン終了後、男性バレリーナの演技を見せていただいた。私は思わず、「かっこいい」と拍手していた。失礼だったかもしれないが、本当に男性のバレリーナの演技はかっこいいと思う。以下は、話半分で聞いて欲しいが、私は65歳ぐらいで、簡単なバレイの演技(単独で)とアルゼンチンタンゴの踊りを若いパートナーと踊ってみたいと思っている。断っておくが、私が若い人が特に好きということではない。これは、私が大好きなアル・パチーノの主演映画、「セント・オブ・ウーマン」のワンシーンの影響だ。その映画では、盲目の主人公が、アルゼンチンタンゴを若い娘と踊るシーンがある。そのシーンが私は大好きなのだ。踊りやバレイなど、表現芸術には、生の賛美や精神の解放の意味が見て取れる。それには、目に見えない部分での抑制や努力があると思う。できれば、そのようなことを表現できる老人になりたいと思う。もっとも、近い将来、65歳の方を老人とは言わないだろう(現在も?)。おそらく、今後、新しい概念や定義が生み出されるに違いない。また、65歳から90歳ぐらいまでを人生の新たなステージとして捉えられるような社会の創出を、若い人と壮年、老年が一緒になって考える時代が、すぐそこまで来ていると思う。大仰に聞こえるかもしれないが、日本にはそのような社会を創出する使命があると思う。

 最後に、私は誇大妄想癖があるが、清水先生のパートナーである、森下洋子先生の慈愛に満ちた雰囲気と、その演技に共通して感じるのは、「美しい心」ということだ。心とは抽象的な概念だが、私は心こそが人間の中心だとあえて言いたい。さらに、身体(組織)を通じ、その心を表現できる人が、どの道でも最高レベルの人間だと思っている。本当に清水先生、森下先生、多家さん、また松山バレイ団の皆様、ありがとうございました。今後もバレイの勉強を続けますので、よろしくお願いします。





感動体験その2~みんなで仲良くすることは良いことなのよ!
【全空連が主催するパーティー】
 実はこの日は、もう一つ感動することがあった。私は先日、全空連のオリンピック競技化推進を応援すると同時に、互いの団体活動を尊重し、友好的な関係を築こうという趣旨の松井氏の呼びかけに応じる記者会見に参加した。その辺の詳細に関しては、体調がもう少し良くなったら記したいと考えている。もう少し時間をいただきたい(急がなければならない仕事があるので)。

 その全空連が主催するパーティーが金曜日にあった。松井氏は、全空連の友好団体、国際空手道連盟・極真会館の館長として招待されたらしい。数週間前、松井氏から私に同伴しないかとの誘いがあった。

【仲良くするのが一番】
 繰り返しになるが、今回のパーティーに先立ち、9月の後半、私は松井館長の呼びかけに応じ、幾つかの団体とともに友好関係を結んだ。その理由には、難しいことは何一つない。始めに、改めて記すと言っておきながら、せっかちな性格なので、大雑把に書いておくこととする。

 私にとって一番大切な価値基準は、全空連云々の前に、同じ大山倍達門下として、仲良くするのが一番という価値観である。ゆえに、松井氏がこれを機に、過去のことを水に流し、組織を友好化しないかとの誘いがあったときに、断る理由が見つからなかった。むしろ、松井氏の変化を驚くとともに、私の念願が叶ったとの喜びがあった。

 私は、過去を水に流すというのは、問題を起こした当事者が軽々に口に出すことではないと思っている。また私は、「試合などを通じての交流には、互いの理念等の違いなどもあるし、軽々な言動は慎みながら時を待とう」というような主旨のことを松井氏に伝えたつもりである。なぜなら、そんな話を前提にしたら、最も大切なことが等閑になるからだ。また、和解していない他の極真空手の団体のこともある。さらに私は、極真空手の試合による交流は、もっと仕組みを明確にしてからでないと、行き当たりばったりで、良いものはできないと考えている。私は、松井氏の主旨は各団体の活動内容を尊重しつつ、これからは友好的に付き合おうということだと理解した。そのことに対し、「松井氏には何か魂胆がある」等の見方をする人がいたが、私の心にはそのようには映らなかった。

【極真空手や空手を大切に思う者は】
 私は、大山倍達の門下生で極真空手や空手を大切に思う者は、仲良くした方が良いと思っている。意見の相違は、将来を見据え、空手愛好者以外の目線や社会全体のことを念頭に置きながら、慎重に考えていけば良い。おそらく今の松井氏と私の見識なら、合意形成は難しくないと感じている。また私は、喧嘩をする相手は、空手家ではないと思っている。さらに、喧嘩するのではなく、真剣に向き合い、戦わなければならないのは、人間の欲深さがもたらす、各種のジレンマに対してだ。それが武道人の克服すべきテーマでもあると思う。おそらく、私の言っていることは、「ちんぷんかんぷん」で理解できないという空手家が多いと思う。それは仕方がない。

 今回私は、松井氏の誘いを私への友情と捉え、全空連へのパーティーへ同行することにした。同じ極真空手で育てられた者同士は、家族同然にならなければならないとの理想が私にはある。それが斯界の真の発展につながると思っている。増田はいつも青臭いと思われるだろうが、死ぬまでその思いを持ちながら生きていきたい。また、例え今後、私が人里から離れたとしても、時々はその思いを伝えていきたい。

 あえて記すが、極真会館の分裂後の20年は極真空手界にとって不毛な時間だったと、私は思っている。松井氏も共通の認識だという。私はもう、そのような時間を過ごしたくない。そのように考えている中、全空連のパーティーで感動する体験があった。それは、私が10代の頃、防具空手の試合で対戦した小林先生との再会だ。小林先生との対戦については、拙著「増田章 吾 武人として生きる」で少し書いた。私は、小林先生との対戦後、伝統派の試合方法を研究した。

 小林先生は現在、奈良県の全空連の理事長をされているらしい。職業は私の記憶通り教員だった。昨年、定年を迎えたらしい。小林先生との対戦は30年以上も前のことだ。お互い歳をとったようだ。小林先生は若い頃、精悍な面構えの美男子だったと記憶する。小林先生は、体型は若い頃と変わらず引き締まった感じで、男前ではあったが、頭髪に変化が見られた(笑、すみません軽い冗談です)。


【みんなで仲良くすることは良いことなのよ】
 小林先生は、パーティーの名簿の中に私の名前を見つけ、私を探し出してくれた。先生は、とてもフランクで、昔の印象と変わらなかった。私は、近いうちに伝統派の組手の研究に奈良県に出稽古に伺いますと伝えると、「ぜひ来て」と約束をしてくれた。松井氏が「僕も行くよ」と言う。「本当に行くの?忙しいでしょ」と私が言うと、「日程が合えば行くよ」と言う。最近の松井氏はサービス精神が旺盛なのか、フットワークが軽いようだ。その時、小林先生と同伴していた奈良県連の大木さんという女性空手家の方が、「こんな風にみんなで仲良くすることは良いことなのよ」「絶対に来てね」「ゆびきりよ」と私に小指を差し出した。私は、その女性と小指を絡めて「ゆびきりげんまんをした」。大木さんは、年齢不詳だが、おそらく私と同じぐらいの年齢だろうか?それとも年上か?。それはともあれ、大木さんは、目がまん丸で、顔も体も丸い(失礼)。大木さんは「子供たちに素晴らしい先生がいると紹介したいのよ」「絶対に来てね」と畳み込んできた。私は大木さんの邪気のない、純粋な目と言葉に感動してしまった。まるで、「アルプスの少女ハイジ」にお願いされているような感じだった(下手な例えでゴメンなさい)。私はその時、不覚にも落涙してしまった。なぜなら、打算と見栄を気にして生きている大人たちが多い中、大木さんの心は、年を重ねても美しいままだと感動したからだ。そして他流の空手家の中にも素晴らしい人がいることを実感した。同じく、剛柔会や和道会の重鎮方とも松井氏のおかげでご一緒したが、皆さん懐が深かった。

 笹川先生も紹介していただいたが、私の眼には、志が高く、信念があり、懐の深い方に見えた。ほんの少しだけ、口が悪い気もするが(笑い)。ストレートでオープンな性格なのだと思う。今回、私に良い体験をもたらしてくれた、松井館長に本当に感謝したい。また、お互い身体を大切にして、最低でも後10年は生きなければならないと思っている。

 最後に、この日は感動体験、2連発の影響か熟睡できた。次の日、私は山梨の友人宅へ向かった。紅葉が始まり、富士山麓も美しい季節を迎えている。これからの人生、美しい季節を体験できるよう頑張りたい。







みんなで仲良くすることは良いことなのよ!

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昨日、他のテーマと一緒に掲載したものを、加筆修正して、再度掲載したい。
IBMA極真会館の方向性について重要な伝達事項が含まれているからだ。



【全空連が主催するパーティー】
 私は先日、全空連のオリンピック競技化推進を応援すると同時に、互いの団体活動を尊重し、友好的な関係を築こうという趣旨の松井氏の呼びかけに応じ、その記者会見に参加した。

 その記者会見から約1ヶ月が経った。その全空連が主催するパーティーが金曜日に行われた。松井氏は、全空連の友好団体、国際空手道連盟・極真会館の館長として招待されたらしい。そのパーティーに同伴しないかとの誘いを、数週間前に松井氏から受けた。

【仲良くするのが一番】
 繰り返すが、今回のパーティーに先立ち、8月の後半、私は松井館長の呼びかけに応じ、幾つかの団体とともに友好関係を結んだ。その理由には、難しいことは何一つない。私にとって一番大切な価値基準は、全空連云々の前に、同じ大山倍達門下として、仲良くするのが一番という価値観である。ゆえに、松井氏がこれを機に、過去のことを水に流し、組織を友好化しないかとの誘いがあったときに、断る理由が見つからなかった。むしろ、松井氏の変化を驚くとともに、私の念願が叶ったとの喜びがあった。

 私は、過去を水に流すというのは、問題を起こした当事者が軽々に口に出すことではないと思っている。しかし、松井氏の立場からそのような言葉が出るということは重く受け止めなければと思っている。また、まずもって私は、試合などを通じての交流には、互いの団体の理念等の違いなどを踏まえ、軽々な言動は慎みながら時を待とうと、いうような主旨のことを松井氏に伝えた。なぜなら、試合等の交流など、現実的な話を前提にしたら、最も大切なことが等閑になると考えたからだ。また、和解できない他の極真空手の団体のこともある。さらに私は、試合による交流は、ゴールとそれを目指すルールをもっと明確にしてからでないと、行き当たりばったりで、良いものはできないと思う。また武道団体の交流には、試合による交流の前に人間関係が大切だと、私は考えている。一方、試合を通じて人間関係が構築される面もあるという考え方もあるかもしれない。様々な見方があるとは思うが、私は今回の松井氏の友好化の呼びかけは、各団体の活動内容を尊重しつつ友好的に付き合う中で、人間関係の再構築をしていこうという主旨だと、私は理解した。ゆえに試合による交流はこの先のことだと思っている。他はともあれ、私には、松井氏の呼びかけを断る理由はなかった。むしろ、素直に嬉しかった。蛇足ながら、今回のことに対し、「松井氏には何か魂胆がある」等の見方をする人がいたが、私の心にはそのようには映らなかった。私は、極真会館で大山倍達の薫陶を受けた者同士が仲良くすることは、最低限の師への報恩だと思っている。ゆえに、他の仲間や私の恩師と松井氏との関係が良くないことが残念だ…。

【極真空手や空手を大切に思うならば】
 私は、大山倍達の門下生で極真空手や空手を大切に思うならば、門下生同士が仲良くした方が良いと思っている。また、意見の相違は一時エポケーして、将来を見据えたい。さらに、空手愛好者以外の目線や社会全体のことを念頭に置きながら、現実に即し柔軟かつ慎重に考えていけば良いと考えている。「言うは易し行うは難し」かもしれない。しかしながら、現時点の松井氏と私の見識(状況認識)なら、諸事の合意形成は難しくないと感じている。さらに付け加えるならば、喧嘩をする相手は、空手家ではないと、私は思っている。また、喧嘩ではなく、真剣に向き合い、戦わなければならないのは、人間の欲深さがもたらす、各種のジレンマに対してだと思う。難しく言えば、人間がこだわってきた正義と自由という、人間に突きつけられた命題との対峙だ。武を掲げる武道人が考え続けなければならないテーマはそこにあると、私は思う。平たく換言すれば、多様な人たちが、どうしたらより良く生きていけるかを、真剣に考えるということだ。

 断っておくが、私は単なる迎合をしたつもりはない。また私の心中には、もう空手家を前に抜くことを止めようと考えている刀がある。おそらく、私の言っていることを誰も理解できないと思う。それは仕方がない。地に足をつけて生きている人たちには、「今」が重要だからだ。もちろん、「今」が重要であることに、私も異論はない。だからこそ、私は未来志向で生きていきたいのだ。

 今回私は、松井氏の誘いを私への友情と捉え、全空連へのパーティーへ同行することにした。同じ極真空手で育てられた者同士は、家族同然にならなければならないとの理想が私にはある。それが斯界の真の発展につながると思っている。増田はいつも青臭いと思われるだろうが、死ぬまでその思いを持ちながら生きていきたい。また、例え今後、私が人里から離れたとしても、時々はその思いを伝えていきたい。

 あえて記すが、極真会館の分裂後の20年は極真空手界にとって不毛な時間だったと、私は思っている。松井氏も共通の認識だという。私はもう、そのような時間を過ごしたくない。
【小林先生との再会】
 そのように考えている中、全空連のパーティーで感動する体験があった。それは、私が10代の頃、防具空手の試合で対戦した小林先生との再会だ。小林先生との対戦については、拙著「増田章 吾 武人として生きる」で少し書いた。私は、小林先生との対戦後、伝統派の試合方法を研究した。

 小林先生は現在、奈良県の全空連の理事長をされているらしい。職業は、私の記憶通り、教員だった(小林先生に35年ぶりに確認した)。昨年、定年を迎えたらしい。小林先生との対戦はおよそ35年以上も前のことだ。お互い歳をとったようだ。小林先生は若い頃、精悍な面構えの美男子だったと記憶する。

【みんなで仲良くすることは良いことなのよ】
 小林先生は、パーティーの名簿の中に私の名前を見つけ、私を探し出してくれた。先生は、とてもフランクで、昔の印象と変わらなかった。私が小林先生に、近いうちに伝統派の組手の研究に奈良県に出稽古に伺いますと言うと、「ぜひ来て」と快諾してくれた。傍にいた松井氏が「僕も行くよ」と言う。「本当に行くの?忙しいでしょ」と私が言うと、「日程が合えば行くよ」と言う。最近の松井氏はサービス精神が旺盛なのか、フットワークが軽いようだ。その時、小林先生と同伴していた奈良県連の大木さんという女性空手家の方が、「こんな風にみんなで仲良くすることは良いことなのよ」「絶対に来てね」「ゆびきりよ」と私に小指を差し出した。私は、その女性と小指を絡めて「ゆびきりげんまんをした」。大木さんは、年齢不詳だが、おそらく私と同じぐらいの年齢だろうか?それとも年上か?。大木さんは「子供たちに素晴らしい先生がいると紹介したいのよ」「絶対に来てね」と畳み込んできた。私は大木さんの邪気のない、純粋な目と言葉に感動してしまった。まるで、「アルプスの少女ハイジ」にお願いされているような感じだった(下手な例えでゴメンなさい)。私はその時、不覚にも落涙してしまった。なぜなら、打算と見栄を気にして生きている大人たちが多い中、大木さんの心は、年を重ねても美しいままだと感動したからだ。そして他流の空手家の中にも素晴らしい人がいることを実感した。同じく、剛柔会や和道会の重鎮方とも松井氏のおかげでご一緒したが、皆さん懐が深かった。

 笹川先生も紹介していただいたが、私の眼には、志が高く、信念があり、懐の深い方に見えた。ほんの少しだけ、口が悪い気もするが(笑い)。ストレートでオープンな性格なのだと思う。今回、私に良い体験をもたらしてくれた、松井館長に本当に感謝したい。また、お互い身体を大切にして、最低でも後10年は生きなければならないと思っている。

 最後に、この日はハードな1日だったためか熟睡できた。次の日、私は山梨の友人宅へ向かった。紅葉が始まり、富士山麓も美しい季節を迎えている。これからの人生、美しい季節を体験できるよう頑張りたい。


2015/11/5 一部加筆修正
2015/11/6 一部加筆修正
2015/12/18一部修正

Kyokushin way(極真ウェイ)

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2016年がスタートした。

実は年末に高田馬場道場の移転を決断した。
年末はその準備に追われていた。移転は年始に実行する。身体のリハビリと道場業務の整理整頓と併行しての準備は、大変なストレスを伴う。しかし、この道を避けては次に進めない。必死にやれることをやっている。とても大変だが、世の中にはもっと大変な人がいると、自分を奮い立たせている。例えば、昨年も自然災害の被害に遭われた方や病により夭折された方がいた。

不謹慎と云われるかもしれないが、そんな方々の状況を思えば、心が強くなる。さらに心優しき増田道場生の協力が私の支えとなっている。

さて、年末から身の回りの整理整頓が続いている。おそらく2016年は整理整頓であっという間に過ぎるであろう。しかしながら、確実に整理整頓がされるようにしたい。先ず、断捨離だ。もちろん、アーカイブも大切にしたい。しかし、一旦捨てることも必要なのではないかと思っている。なぜなら、そんなに時間が残されているとは到底思えない。幸い、良いソフトを手に入れたので、それを使ってデータベースの構築に努めたい。私はこれまで、情報をより迅速に処理し、それを活かす方法を確立したいと考えてきた。昨今のIT分野の進展による、様々なアプリケーションソフトの誕生はとても有り難い。しかし、重要なのは、自分にとって一番大切なものが何かを見極めることだろう。私の人生は、失敗の上に成り立っているようなものだ。また、これまで汚名返上と勇んで生きてきた。ゆえに、一番大切なものを忘れがちだが、その失敗の上に成り立っているような人生の中から見つけだした最も大切なものこそが、本当の宝だとも思っている。

今日、書類の整理の合間、極真空手の道場訓の英訳を見つけた。仕事の合間、「気晴らしに英語の勉強でもするか」と思いながら見直した。この英訳は、我が増田道場生のフイリップ(アイルランド人)が行なったものだ(フイリップ、いつも協力ありがとう)。

運動とは縁がなかったと、10年ほど前に語っていた、フイリップが弐段になった。そして武道の世界に浸り込んでいる。私は彼のような者の期待に応えるためにも、原点に還る。

極真空手の道場訓の最後には、「吾々は、生涯の修行を空手の道に通じ極真の道を全うすること」とある。その「極真の道」の増田流解釈を以下に述べたい。極真の道とは、現実(リアル)との対峙を前提に「自己の本性を見極め、自己にしかできない生き方を完遂することだ。言い換えれば、自分流(マイウェイ)を切り拓くことと言っても良いだろう。

補足を加えれば、その自分流が他者を利すること(他者を益し、他者に貢献することの意味)が最高の境地である。さらに言えば、増田流の「極真の道」の解釈は、自他を活かす理法、方法を意味する。当然、異論があるだろうが、私は以上のように解釈する。

蛇足ながら、昨年暮れ、眼の具合が悪く、眼科に2度、お世話になった。加齢による劣化が進んでいる。繰り返すが、一番大切なものを見つけだし、大切にしたい。あたりはついているが、それを確信に変えたい。空手道の普及と言う仕事に関しては、原点に還りたい。何を原点とするかは、人によって様々かもしれない。それにはあえて言及しない。大事なことは、私にとっての原点だ。私の原点は、心の浄化、魂を鎮めることだと思っている。ゆえに私は、絶えず理念(哲学)を見直し、その具現化に向けて取り組みたい。



1.Hitotsu, wareware wa, shinshin o renmashi, kakko fubatsu no shingi o kiwameru koto.

We will train our hearts and bodies for a firm unshaken spirit.

2.Hitotsu, wareware wa, bu no shinzui o kiwame, ki ni hasshi, kan ni bin naru koto.

We will pursue the true meaning of the martial way so that, in time, our senses may be alert.

3.Hitotsu, wareware wa, shitsujitsu goken o motte, kokki no seishin o kanyo suru koto.

With true vigour, we will seek to cultivate a spirit of self-denial.

4.Hitotsu, wareware wa, reisetsu o omonji, chojo o keishi, sobo no furumai o tsutsushimu koto.

We will observe the rules of courtesy, respect our superiors, and refrain from violence.

5.Hitotsu, wareware wa, shinbutsu o totobi, kenjo no bitoku o wasurezaru koto.

We will follow our religious principles and never forget the true virtue of humility.

6.Hitotsu, wareware wa, chisei to tairyoku to o kojo sase, koto ni nozonde ayamatazaru koto.

We will look upwards to wisdom and strength, not seeking other desires.
7.Hitotsu, wareware wa, shogai no shugyo o karate no michi ni tsuji, Kyokushin no michi o mattou suru koto.

All our lives, through the discipline of karate, we will seek to fulfill the true meaning of the Kyokushin way.


日本語の道場訓





初心を忘るべからず〜政治について

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初心を忘るべからず〜政治について

日曜日、我が愚息の初めての投票に同行した。ひとつ良き思い出が増えたと思っている。

私は安倍首相贔屓である。贔屓などとは不謹慎だと云われそうだが、政策面のみならず、人間性の好みがどうしてもでてしまうのは、仕方が無い。また野党の議員と候補の方々は、すべてではないが、人格面で貧弱な感じが否めない。

ただし、私は野党のすべてが良くないと思っているのではない。むしろ様々な意見がある国の方が善いと思っている。ゆえに野党に頑張って欲しい。繰り返すが、野党は戦略、戦術があまりにも稚拙で、候補者や議員の人格が貧弱である。

今、参議院選が終わり、次は知事選という段になり、その稚拙さが目につく。言うまでもないが、自民党のすべてが良いと、国民は思っていない。ただ野党が未熟すぎるのだ。

例えば、民進党を躍進させたいのなら、都知事選は蓮舫氏で行くべきだった。蓮舫氏の意志を尊重しなければならないのは当然だが、なぜ口説けなかったか。確かに国政と地方自治とは異なるが、東京都のあり方は、全国に影響を与える。その位置を野党が取り、反自民の「のろし」を挙げて行くのが野党として最善の戦術、戦略だと私は思っている。

現在、自民党は小池氏の出馬で、その弱点を露呈している。小池氏は、なかなか有力な政治家だが、国民が望んでいる政治家とは異なると思う。

話を端折ると、野党の問題、特に民進党の問題は、何と言われようが、共産党と是々非々で認め合い、仲間を尊重する姿を見せることだと云いたい。そうすれば、もっと勝てる。また、現在の状況では、都知事選は、宇都宮氏で一本化するべきだ。その度量をみせる事が、民進党が復活する、最善手なのだ(無理だろうな、民進党の度量では)。


イギリスのEUの離脱の予想も当たった。知事選の予想が当たらない事を祈りたい。私の予想では、小池氏が苦戦しながらも勝つ可能性がでてきたと考えている。なぜなら、民進党が人気投票路線という悪手を打ち、一方の自民も悪手を打っているからだ。断って置くが、私は自民党支持者だ。先輩が議員だし、自民党の人達と懇意にしている。一方でこの国の将来を心配する一市民でもある。ゆえに私は、バランスを取るという意味で、都知事は宇都宮氏が良いのではないかと思っている。おそらく、宇都宮氏は一筋縄ではいかない人だろう。だからこそ良いのだ。人気投票に勝てそうだから出るような人間は駄目だ。それを選ぶ市民もレベルが低い。現在、小池氏に叩かれている自民党都議連と宇都宮氏が正々堂々と勝負をするような政治を私は望んでいる。そして、メディアにも頑張ってもらい、我々市民の成熟を促して欲しい。


蛇足ながら、小池氏が苦しい戦いの中で、攻めなければならないのは、自民党の弱点だ。そこを認識できなければならないと思う。あえてそういうのは、そこが自民党の最も戒めなければならない弱点であり、そこを認識できれば盤石の体制が整うと考えるからだ。それは「言論統制、規制」ともとられかねない言動や措置をとらないこと、物事をなるべくオープンに進めるという事であろう。なぜなら、我々日本人が目指すべきは、最も成熟した民主主義国家だからだ。そのような国で最も重要なのは、言論の自由をどんな事があっても保証する事だ。そこを忘れなければ、都知事選のみならず、自民党の盤石な体制を築く事もできると思う。成熟した市民と国家は、自由でオープンな議論の中から形成されると思う。勿論、恣意的かつ無礼な言動と自由とは一線を画すのは言うまでもない。さらに蛇足ながら、小池氏には都議会を解散するなどと公約を掲げ、離党勧告に値する面もある。それでも、自民党は小池氏を離党に追い込まず、手を打つ方が良いと思う。なぜなら、今回の都知事選には、自民党と都議連に責任の一端があるのだから。ゆえに地方自治と国政は別とするなど、今回に限り、度量の大きさを見せて欲しい。兎に角、私が願うのは、この国が良くなっていくことだ。

最後になるが、私は、リーダーの政治の世界も庶民の生活の世界にも、世阿弥のいう「初心の教え」は通じるのではないかと思っている。今回、愛読書の一つである世阿弥の「風姿花伝」を「花鏡」と併せて紐解いた。御陰で、自分自身の未熟と不勉強に気づかされた。世阿弥の教えは、本当に素晴らしい。特に「花」の教えは、自身の思想に浸透させたい。(前回「初心」の続き)


政治について〜追伸

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交流試合で教え子たちが頑張ったので、上機嫌になっていた。
それで、調子に乗って政治について書いてしまったようだ。空手家の私が政治などを語っても無駄なことだ。しかし、書いてしまったからには、締めくくりを書いておく。

本日、宇都宮氏が東京都知事選の出馬を取りやめた。
とても残念だ。というより、これで都知事選が人気投票になってしまうと予想されることへの失望である。

宇都宮氏は私の好みの先生だ。前回も地方自治(東京都政)に思いがあり、出馬されたのだと思う。
宇都宮氏なら、格差社会へのセイフティーネットの構築に尽力したに違いない。いうまでもなく、東京は、我が国における、経済、政治、文化、教育の発信基地である。今後、それが地方に分散していくほうが良いとしても、首都、東京にふさわしい制度の整備をしていくことが東京都には必要だ。もちろん、生活者にとっては、それよりも前に東京都に安心して住み続けられるかということが大事な点だろう。ただ私は、生活者の安心も必要だが、それなりの義務も果たさなければならないという考えが妥当だと思っている。ゆえに、ただ都民にメリットのある公約をするのではなく、東京都にふさわしい制度設計ができる人が良いと思う。つまり、生活者の安心と共に長期的な展望を有する制度設計ができるリーダーが政治家になるべきだと思っている。

だた、問題はそのリーダーを選ぶのは、目利きではない市民なのだ。私だけだろうか。青島知事以来、大きくみれば、同じことの繰り返しだと思うのは。
百歩譲って、完璧な政治家などいないとしたら、私だったら誠実な人を選びたい。または、信念のある人だ。ただ信念の人は難しい。なぜなら、我々の目には、その信念の本質を見抜くことができないからだ。

兎に角、各党の存続をかけた利害のために政治家を決めるのは良くない。また人気投票では駄目だ。あえて言っておきたい。なぜ、野党は宇都宮氏を支持できなかったか?下衆の勘ぐりだが、次の都議会議員選挙などを睨んでいるのではないか。宇都宮氏を撤退させたことで、野党は必勝を確信しているようだが、そんなに東京都民は馬鹿だろうか(馬鹿かもね。何回も同じことを繰り返すのだから…)。

一応、偉そうに予想などしたので、予想の訂正をしておく。私は無難に増田氏を推したいが、勝つのは小池氏だと思う。ただし、小池氏にとっては凄まじい選挙になるだろう。正直、日本新党、新進党、小泉政権と、私の好みではなかった。しかし、その党を渡り歩いた、小池氏を応援したくなっているのはなぜだろう。

蛇足ながら
小池氏に言いたい(ブログに書いても伝わらないだろうが、テレパシーを送っておく)。
憲法改正の問題などお調子者に言わせておけば良い(おそらくもう言わないと思うが)。
小池氏に付け加えて欲しいのが、社会的弱者への思いやりだ、それをばら撒きではなく、モチベーションを喚起するような制度の提案を匂わすのだ。匂わすだけで良い。なぜなら、そのような制度設計は、宇都宮氏のような実務家などの衆知を集める時間が必要だからだ。軽く口走ってしまうと、これまでの政治家と同じになってしまう。断っておくが、社会的弱者とは老人のことでない。
むしろ若い人だ。そして女性だ。母親だ。心ある老人は、自分のことも大事だが、若い人、女性のことを考えているはずだから。歴戦の勇士である小池氏には、釈迦に説法かな(笑)。

以上、空手家の下らない話でした。これから自分の仕事に集中します。御免。


赤ひげ〜都知事選を見て思う

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「この病気に限らず、あらゆる病気に対して治療法など無い。医術などといっても情けないものだ。医者にはその症状と経過は分かるし、生命力の強い固体には多少の助力をすることができる。だが、それだけのことだ。」
「現在我々にできることは貧困と無知に対する戦いだ。それによって、医術の不足を補うしかない。貧困と無知さえ何とかできれば病気の大半は起こらずに済むんだ。」
「病気の影には人間の恐ろしい不幸が隠れている。」(映画、赤ひげより)


私は黒沢映画の大ファンだ。前記したのは、映画「赤ひげ』で主人公の医者(赤ひげ)が語る台詞である。私が「赤ひげ」を初めて見たとき、このセリフに痺れた。また、心も病んでいると思われる「おとよ」という少女に薬を飲ませるシーン。三船敏郎演じる赤ひげが、おとよに薬を飲ませ、「いい子だ」と一言いうシーンにも、私は痺れた。また、この映画の殺陣(柔術による格闘シーン)が斬新である。
さらに言えば、この映画の原作となった山本周五郎の小説が私は好きだ。思い起こせば、私が20代後半の頃、100人組手という荒行で身体を壊し、半年程、闘病生活を余儀なくされた時のこと。その時、今だと言わんばかりに、歴史小説を読んだ。私は司馬遼太郎も好きだが、山本周五郎の方が肌にあった。特に「長い坂」は、リーダーに是非一読して欲しい作品だ。

そして私は今、赤ひげのシーンを思い出している。赤ひげは、医術の分と役割をわきまえ、かつ世の中の問題の本質を「貧困と無知」だと喝破した。

私は貧困と無知の問題を改善するために、教育者はもちろんのこと、マス・メディアに関わる人達と経済人人にもっと頑張って欲しいと思っている(人間性の悪い経済人ならお前が頑張れと言い返すであろうが…)。また私は、赤ひげがいう医術を政治に置き換えてみた。すると、様々な社会問題に対し、より善い対策を考え、助力する。それが政治家ではないかと思えてきた。もし、それが妥当ならば、政治家の理想は、医者同様、深い人間洞察と仁愛の感性があることだと思う。しかし、そんな政治家は少ない(赤ひげは、無知と貧困に対して政治は何もしていないと喝破していたが…)。

さて、私が今、なぜ赤ひげを思い出したか?それは、都知事選を見ていて、暗澹たる気持ちになったからだろう。要するに、今回の都知事選後も、都政が良くなる事はなく、また似たような事態にになるような気がしてならないのだ。今まさに選挙戦の最中の方々には申し訳ないとは思うが、そのように、私は感じている。

ここで断っておきたい。私が政治について語るのは止めようと言いながら、こうも政治に関して冗長になるのはなぜか?その理由は、私の空手家人生の中心となっているのが、制度改革(システム改革)に他ならないからだ。私は、若い頃の挫折と極真空手での苦難に懊悩(おうのう)する中、ある思いが芽生えている。それは、システムを考え、それを創り変えるという事だ。ここでいうシステムとは、構造、制度、仕組みと言い換えても良い。大きくみれば、国家、家族、会社、業界等もシステムだ。また小さくみれば、人間もシステムであろう。


ゆえに私の仕事は、大げさに聞こえるかもしれないが、死ぬまでに空手武道による人間教育システムを創り上げる事だと言ってもよい。分不相応な夢を持つのは私の性癖だ。正直言えば、実現できるかどうかはギリギリの状態だと思っている。しかし、這うような感じで勉強とその準備を進めている。これまで、みんなに助けられてきたが、少しの油断も出来ないというような状態だ。そんな生き方をしてきているからこそ、この世の中の問題の本質がよく見えるのだ(よく見えるなど不遜だが)。

話を都知事選に戻せば、おそらく有権者には3名程の人間しか目に入らないだろう。正直言えば、どの候補者も今ひとつだ。もちろん、3人の中でより良い人はいるかもしれない。しかし、誰がなっても、都知事選後の混乱と落胆が明らかだ。

先日、私の良き理解者である荻野氏と電話で話をしたら、「上杉隆氏」はどうかという。

「上杉隆??」「なんか暗い感じのジャーナリストでしょ」と私は軽く答えたが、調べてみると、これが中々良さそうな人物だ。公約も良い。これで私の中に、上杉隆の名前が、インプットされた。しかし、当選はしないだろう。メデイアも取り上げないし、知名度が低過ぎる。

そもそも私は、東京都のみならず、国政に関しても、より本質的な事は、制度改革が必要だと考えている。その本丸は、選挙制度である。大雑把に言えば、政治家を選ぶ制度のみならず、政治家になるための制度と政治家に仕事をさせる制度の見直しも必要だと思う。それなりの選挙制度は確立されているとの反論が出ると思うが、私の見方では不十分だ。今回の都知事選も、知事を選出する制度に問題があると思っている。その辺を、マス・メディアや有権者に考えてもらいたい。何か、良い方法があるはずだ。

そのように考えていたら、自民党の河野太郎氏がSNSで良い提案をされていた。私は河野氏の提案は良い考えだと思っている。すぐに実現すべき提案だ。

最後にマス・メディアに対して、大衆が無知だと、おごるなと云いたい。無知を啓蒙するのがマス・メディアの仕事ではないか。しかし、そもそもマス・メデァアに読み手を啓蒙するほどの見識があるのか。私は疑っている(一方、メディアの方からは、啓蒙などというような傲慢な気持ちはございません、と嫌味な返答があるかもしれない)。ゆえに情報の受け取りに際しては、充分に吟味した方が良いだろう。また本当の問題点は、修羅場を経験し、真に考え抜いた人間にしかわからない事なのかもしれない。そして民主主義では、本当(真の問題点)の解決策が選ばれるのではなく、合意できる程度の事が選ばれる。否、本当の事は、志を高くもち続け、変革を続けた中で、見えてくると事柄だと思う。ゆえに、教育の理想とは、志を高める事だと、教育者は考えてほしい。

蛇足ながら、私がドラッグストアで買い物をしていたときの事である。私はレジの順番待ちをしていた。そこへ30歳〜40歳代の女性が、順番を抜かし、レジに向かった。私の前の60歳前半ぐらいの紳士が、「並んでいますよ」と優しく伝えた。その女性は見るからに不機嫌そうな顔をして、「そんなの、解らないわよ」とぶつぶついいながら、後ろへ回った。私は、女性の態度を酷いと思った。また、その紳士に申し訳なく思った。なぜなら、馬鹿な女性の相手を自分は放棄したのではないかと思いが芽生えたからだ。本来なら、私にも、その役回りをする必要があったかもしれない。先日、社会的弱者を子供や女性等とレッテルを貼ったが、それでは、購読者や視聴者を増やしたいメディアと同じである。弱者や女性などと一言で括らず、包括的、全体的な視点で、社会システムを考える視点と感性が必要だと思う。

2016/7/17 一部修正(誤字、脱字等を修正)







感謝〜 フリースタイル空手研究会の有志へ

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7月10日の増田道場の試合イベント(交流試合)の時、FK研究会の有志がフリースタイル空手の演武をしてくれた。

先ずもって、荻野聡氏を始め、宮村氏、坡場氏、スネイド氏、吉田健二氏、吉田晴夫氏、秋元氏、弥永氏に感謝したい。デモンストレーションをありがとう。

フリースタイル空手とは、私が考案した、打つ、蹴る、投げる等の技を駆使して戦う、新しい武道スポーツの名称である。

10年ぐらい前から構想し、4年ほど前にはトーナメントを開催した。
ここ2年は、スポンサーが降りたのと私の体の具合が悪く、指導が思うようにできないことで、休止状態であった。

それでも、今年はフランスで初のフリースタイル空手のトーナメントが開催された。また、私の道場生の有志たちが、フリースタイル空手の練習を続けていてくれた。今回は、その有志たちが私に代わって、フリースタイル空手のルールや技を、交流試合に参加した子供たちや保護者に披露してくれたのだ。みんな私が演武についてどう評価しているか、気になっていると聞いた。今私は、お礼の気持ちでこのブログを書いている。失礼だが、有志一同は若くない。また仕事もあり、演武の準備は大変だったろう。

改めて私は、彼らの気持ちに応えるために、理想の空手道を追い求めて、老骨に鞭打たねば、と思っている。構想はある。後もう少しで、自身の身体のリハビリと仕組み作りの第1段階が終わる。第1段階というのは、ようやく動ける段階である。さらに第2、第3の段階が、理想の実現には必要だろう。今回、私は有志に元気をもらった気がする。そして復活を急がなければと、思っている。日曜日は風邪気味で調子が悪かったが、有志の映像も作ってみた。後で見て欲しい。

話は変わるが、私の空手家としての座右の銘の一つに、「先達の真似をするな。先達の追い求めたものを求めよ」というものがある。私は先達の追い求めたものを真剣に追い求めているつもりだ。それが何であるかは、今回は多くを語らない。端的に言えば、空手家の技術のみならず哲学を高めることと言っても良いだろう。もしかすると、我が師は、「もっと空手を世界に広めよ」というかもしれない。もしそうならば、私は弟子として失格かもしれない。しかし、私は空手を世に広める前に、もっと深く空手を考え、その可能性を開拓したいと考えている。そして、その技術と哲学が本物ならば、普及は後から続くと考えている。


おそらく、多くの空手家が私を笑うだろう。なぜなら、まだ理想が形になっていないからだ。しかし、諦めるわけにはいかない。何をおいても、技術と哲学の完成だ(もちろん完成までは相当な時間が必要だが、まずは土台をと思っている)。断っておくが、フリースタイル空手という、新しい武道スポーツを広めることが、私のゴールではない。より高いレベルの武道哲学を完成させることがゴールだ。その部分が、今回の有志にはわかっていないかもしれない。有志には申し訳ないが、新しい競技(スポーツ)を作ることが私のゴールではないと繰り返し言っておく。あえていうならば、新しい武道を作るといったほうが良いかもしれない。私が新しい武道スポーツと目標を掲げたのは、まだ空手がオリンピック種目になっていなかったからだ。空手がオリンピックになったなら、新しい武道スポーツの創出は、私の目標の優先順位においては下位だ

ゆえに、これからはフリースタイル空手の方向性も修正が必要だと思っている。また、今回の演武で披露してくれた技も、100分の1程度のレベルにしか達していない。間合い、リズム、呼吸、虚実、投打(剛柔)一体、自他一体の意識が低すぎる。

現在、それを伝える稽古法を、私は考案中だ。実は大体の構想は出来ている。後はやりながら微調整だ。まだ、みんなには伝えていない。それを伝えることを楽しみにしている。ただ、これはやはり、増田流であり、拓真道流だ。ゆえに、これまでの空手の概念を一旦、棚上げできる者だけに伝えたい。なぜなら、素直な心持ちでないと、新しい技術の体得に時間がかかることが予想されるからだ。できれば、内弟子をとって教えるのが良いのだが…。



※FK演武は以下から〜下手で簡易な編集で申し訳ないが、ご容赦を…


https://youtu.be/jRCHpiWUpBk



故郷

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時々、発作のように故郷に帰りたくなる。

そこには、僕を支えた母はもういない。

僕を溺愛した祖母もいない。


だが、50年近くの歳月が一瞬に思えるほど、そこは変わっていない。

僕が幼い頃、そこには人が大勢いた。今はもう、その様子はない。

でも、そこに帰ると、その時のことを、この間の事のように思い出す。

同時に、東京にいる自分の家族が愛おしく思えてくる。

思い起こせば、僕の父は、幼い僕を車に乗せ、よく自分の実家へ連れていった。

僕は幼い頃、父の実家が大好きだった。僕は、もう一人の祖母にも可愛がられた。そして、いとこのお姉さんが大好きだった。


そんな僕も父親となり、わが息子を車の助手席に乗せるようになった。そんな時、昔の父の姿と幼かった自分を思い出す。

口うるさかったようにも思うが、優しい父だったと記憶している(記憶は良い思い出だけが残っているようだ。断っておくが父はまだ死んではいない)。

北陸新幹線が開通し、電車に乗れば、これまでの半分ほどの時間で帰れるようになった。

だが田舎で暮らす僕は、いつも車で帰省する。

もし、制限速度を守らなければ、5時間ほどで帰れるが、制限速度を守れば7時間はかかる。

もう僕も若くない。制限速度を守り、ゆっくりと帰る事にしている。

しかし、7時間の旅はきつい。それでも故郷へ帰りたくなるのは、父に会いたいからである。

幼い頃の僕は、いつも空手の練習に明け暮れていた。高校生の頃は、甲子園を目指す高校球児にも負けないぐらい、空手の為の訓練をしていたことを誰も知らないだろう。ゆえに、普通の若者らしい思い出はあまりない。本当にアウトサイダーだった僕は、自分の誇りの全てを空手に賭けたのだ。

若い頃の一時期、僕は家族に迷惑をかけた事がある。ゆえに、僕の残りの人生は、迷惑をかけた家族に対する贖罪だと思っている(大したことはできないが)。また、変わり者の僕と仲良くしてくれた友達の一人ひとりにありがとうと言いたい。

「まだ、人生が終わったわけじゃないのに」と人は笑うだろうが、日に日に故郷に対する感謝の念と懐かしさが強くなる。


さて話は変わるが、リオのオリンピックがこれから始まる。

諸問題があるようだが、僕は若い日本選手の活躍を期待している。

体操、陸上、柔道、レスリング、卓球、サッカー、フェンシング、バレーボール、ラグビー、水泳、重量挙げ、などなど。

全員が無事に力を発揮できることを祈っている。

僕には、リオのオリンピック、もう一つ注視したいことがある。それは、ブラジル日系移民の方々の日本人選手への感想である。

僕は、京セラの稲盛和夫名誉会長の主宰する塾の勉強会でブラジルを訪れたことがある。その時に、多くのブラジルの移民の方々の苦労とその偉大な業績を知った。

幼い頃、ブラジルは日系人が一番多い国と聞いたことはあったが、日系人について考えたことなど、それまでなかった。しかし、実際に日本からブラジルへ行き、日系移民の口から話を聞くと、認識は全く異なるものとなった。

日本から遠く離れたブラジルでの今回のオリンピック、関係者も大変だと想像する(人間の疲労度は移動距離に比例するときいた事がある?)。だからこそ、今回のオリンピックで、選手の頑張りのみならず、祖国からはるか遠く離れたブラジルで頑張った、日系移民の方々の気持ちを慮るのも良いのではないかと思う。

僕は移民の方々に対して、アウトサイダーとしてではなく、同胞として尊敬の念を持っている。

また、日本に住む我々には、「すぐにでも帰りたい」と、移民の方々が思うような日本・故郷を創っていくという自覚が必要だと思っている(もう移民1世の方々は存命ではないかな…?でも2世、3世の方に対しても同じだ)。






極真空手家が観た都知事選

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有権者の選択、特に無党派層の選択に注目している。
投票日2日前となっても、増田、小池、鳥越の3氏の内、誰に投票するかに逡巡している有権者が多くいるようだ。

選挙の情勢は、私が告知前に予想した通りになった。

まず増田氏だが、増田氏の支持基盤である自民党が序盤に打った一手が悪過ぎた。
次に鳥越氏だが、女性支持者を失うようなスキャンダルがでて、少なからずダメージを受けたに違いない。しかし、増田氏程ではないだろう。

最後に小池氏だが、都議会解散の突っ込みどころを、さらりとかわした。間髪を入れずに、既得権益者との対立と都政の改革者のイメージを印象づけ、さらに「知事報酬を半分」「任期を3年半」と心憎い程の小技の冴えをみせてきた。また、石原前都知事の「大年増の厚化粧」発言に対しても見事な「応じ」をみせ、「自民党崩し」のだめ押しの一手のように影響している。

小池氏は、私の武道理論で言うところの「応じ」を心得ている。「応じ」とは、「自己に不利な状況を有利な状況に転化する、という転じの理合をベースに、相手の攻撃を防御、間髪を入れず反撃を加える」ことだ。というより、自民党の攻撃が稚拙過ぎると云った方が良いだろう。

ここまで書いてきて、私が小池氏の圧勝になると言いたいのだと感じるかもしれないが、そうではない。普通に考えれば、「勝負あった」であろう。しかし、ほんの僅かながら他候補が勝つ可能性もあると思っている。

例えば、スキャンダル攻撃を受けた鳥越氏は、終盤になりふり構わず、与党を攻める姿勢をみせている。その攻撃姿勢は「それしかない」というものだ。やっと気がついたかというような攻撃方法だが。その意味を解説すると、鳥越氏は序盤戦、あまりにも戦い方が稚拙だった。想像だが、野党も頭を抱えていたと思う。それは、増田氏や小池氏が、歴戦の勇士で技術を持っているのに対し、鳥越氏は技術無しのような感じだった。しかし終盤にきて、増田、小池両氏の基盤である自民党に対決する姿勢を打ち出してきた。極真空手の試合で言えば、技術がないから最後は間合いを詰め、手数で審判に優勢をアピールしようと言う戦術だ。そのような戦術は、審判に見る目がなければ有効だ。ゆえに鳥越氏が僅差で勝利すると云う可能性もないとは言えない。しかし、今回の審判である有権者にとっての優先順位は、反自民ではないだろう。おそらく、そこまで都民は馬鹿ではないと信じたい。それでも鳥越氏が勝つ可能性は、自民支持層が分裂し、反自民が結束したときにある。

私は自民党支持、かつ都政の安定と進化を希望するので、調整能力と実務に長けた、情熱のある人を望んでいる。さらに言えば、過去に改革を唱えて、それを成し遂げた人はいるかどうかを考えている。勿論、小さな変革はあったかもしれないが、構造的かつ大きな改革を成し遂げた政治家はいないのではないか。また、そのような事を言う人を安易に信じてはならないように思っている。勿論、改革は必要であるし、また変革を志す事も必要だと思う。しかし、真の改革・変革は、長い時間をかけて成される事だと、私は考えている。また、有権者がその事(改革)に対して、その是非を十分に考える時間が必要だ。

ただ、選挙運動の期間が短すぎるので、考え選択する時間と材料が足りない。その事が、冒頭の、「誰に投票するかに逡巡している有権者が多くいる」という状況を生んでいる。勿論、それは有権者の政治への関心が高まった事の結果であり、民主主義の観点からは、進歩である。


最後になるが、私が今願っているのは、政治の混乱の抑止である。具体的には、今回の都知事選が与党のごたごたに発展しなければ良いという事である。勿論、建設的な侃々諤々は、与党内であっても、与党と野党とであっても必要だ。また、品格を保ち、真に都民の利益を考えた上で、丁々発止とやり合うことは、時に政治に必要かもしれない。しかし、決してそうではない、不毛な感情論に発展するようなことは、我々市民が迷惑する。

また私は、政治家には能力と情熱のある人を望むと先述したが、ここでいう能力とは「感性」の事である。政治家に必要なのは、実務能力もさることながら、「感性」と「情熱」であると私は思っている(経験は感性を磨き、情熱を湧出させるものだと考える)。

増田氏は同姓で、誠実な感じがするので期待したが、世論的には劣勢だ。その増田氏も、最後に都政に対する情熱と市民に対する感性を感じさせる事ができれば、逆転もあり得る。なぜなら、自民党支持者と公明党支持者の確実な支持を得られるだろうからだ。ただ、ここでいう市民に対する感性を感じさせるとは、難しい事かもしれない。本当に心の底から思う事でなければならないからだ。

平たく言えば、既得権益者、為政者の意見を聞くと云う感じではなく、名もない市民の声を聞くと云う姿勢である。また真の弱者への洞察力である。これは、与党から推薦されている増田氏の事を言っているのではない。私が観るところ、その感性は、増田、小池、鳥越、3氏すべてに足りないところかもしれないと、危惧しているのだ。

危惧が私の杞憂、妄想で終わるかどうか、それは選挙後にわかる。とにかく私は、3氏の中の一人に投票する。

蛇足ながら、リーダー、政治家には「感性」と「情熱」が一番重要だと繰り返したい。良い人がリーダーになりますように‥。




極真空手家が観た都知事選〜その2 追伸

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民進党の岡田代表が、次の代表戦への不出馬を発表した。
「なぜ、このタイミングで?」と首をかしげざるを得ない。

まだ、野党統一候補の都知事選が終わっていない。

このタイミングでの発表は、知事選の敗北を認めたと観られかねないと思うのは、私だけだろうか。真意はともかく、そう観られざるを得ないようなことをするというのは、鳥越氏に失礼のみならず、共闘した共産党などにも失礼だろう。

一つ前のブログで述べたが、反自民で結束し、最後の最後まで全力を尽くすべきなのだ。少なくともリーダーは。

おそらく、都知事選の有権者の優先順位(政策面の判断材料)は、社会保障や福祉の充実だと思う。また、東京オリンピックの準備(成功への)と開催後の体力の消耗を最小限に抑えることではないだろうか。さらに、震災やテロ等に対する、十二分な対策と準備に関する政策であろう。そして、それらの政策に対する実務能力と意志、すなわち統率力(キャプテンシー)をリーダーに問うている。要するに、私のような空手家でも問題点は目に見えているのだ。

それならば、与党では駄目で、我々に任せろと、最後の最後まで、なぜ唱えないのだろうか。

私の考えでは、この都知事選を落とすという事は、地方自治と国政は異なると云う次元で判断されるのではない。つまり、民進党と野党に、大きなシステムの統治能力が欠如しているという市民の判断が定着して行くことになるという事だ。この事は、旧民主党の大きな失敗でもあったはずだ。

私は自民党支持だが、野党も必要だと思っている。だからこそ、蓮舫氏で勝てるのなら、何が何でも都知事のポジションを取るのが良いと思っていた。

蛇足ながら、民進党の考えは、私のような空手家にもすぐにわかるというのは言い過ぎだろうか。おそらく、イギリスの首相が女性、アメリカも初の女性大統領の誕生を待っている(民主党がそのように喧伝しているだけで、私はそう考えていないが)、そして新しい都知事が女性。ゆえに、新しい代表も女性にしようと、目論んでいるのかもしれない。

こんな私にも解るシナリオでは駄目だ。勿論、これは私の憶測だから、間違っているのを望みたい。なぜなら、もう一捻りが欲しいからだ。

兎に角、都知事選が終わってから次の展開を述べた方が、野党第1党のリーダーとして、よりふさわしい行動だろう。

これで99%以上、鳥越氏当選の可能性はなくなった。

本当に政治はばかばかしい。それでも政治は人間にとって重要な事であると思っている、非力な自分が悔しい。さて、妄想はこのぐらいにして、明日からの合宿の準備と足のリハビリと治療に向かうこととする。









フリースタイル空手の概論(加筆修正)

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しまった!。下書きのままで掲載するつもりはなかったが、ボタンを間違えて押してしまった。しょうがないので掲載することとする。

 

今、インターネットによる空手指導用のサイトの修正を行っている。かなりの時間が必要なので、気力が持つか心配である。途中、空手理論のページに掲載していた小論が目に止まった。寄り道のように加筆修正を加えてみた。かなり時間が取られた。こんなことをしている余裕はないのだが…。ただ、フリースタイル空手の理念は、私の信念であるから、今後アプローチを変えてでも形にしたい。

 

最近、知人が早逝したとの知らせを受けた。私も年をとり、毎年のように同年齢の知人、友人の早逝の知らせを受けるようになってきた。私ももう少しだ。まだ早いと思われるだろうが、そんなことはない。本当に、健康であることは何物にも代えがたいことだと思う。眼をとじて、友人や家族の健康を祈らずにはいられない、毎日である。

 

フリースタイル空手の概論

 

【転じ(Turnaround)とは?】

転じとは、戦い(戦闘)の勝利を決定する局面に内在する、戦いの原理のようなものだ。私は、戦いの局面において、より善く戦う者の戦術には、転じの原理が存在すると考えている。

 

私は、それを「転じ(Turnaround)と名付けた。その定義は、「対手の攻撃を無力化し、反撃の効力を最大化する状況をつくること」となる。言い換えれば、自他の攻防の間に生じる「機」を生かすことである。

 

【戦術が多様で複雑】
フリースタイル空手という武道スポーツは、戦術が多様で複雑となる。なぜなら、相手を打つ、蹴る、倒す(投げる)ことが許されるからだ。他の格闘技スポーツは、あまり複雑になることを避けるかのごとく、戦いの局面や攻撃技術を限定し、戦術の選択の幅を狭めている。フリースタイル空手においても、関節技や寝技(グランド)の攻防(戦術)を排除し、戦闘局面を限定している。それは安全性を確保するためである。安全性の確保がなぜ必要かと言えば、答えは簡単だ。

 

【優れた技術の創出を目標】
それは、スポーツとして、格闘技を楽しみながら個々人の心身を強化することを、フリースタイル空手競技は目指しているからだ。また、優れた技術の創出を通じた、道理の体得により、有為な人材の育成に武道を役立たせることを究極の目標としている。そのような目標を達成するためには、反復可能な条件の確保、つまり安全性の担保が必要なのである。

 

一方、本当に優れた格闘技術は、生死の間の状況を体験しなければ体得できないと、容易に想像できる。しかしながら、それは極々少数の者に許されないことなのだ。また、私の感覚によれば、生死を安易に口にする者は怪しいとも思っている。さらに言えば、その領域が武道家と名乗る人達の隠れ蓑になっているような気もする。私は、この部分について、これ以上、公には言及しない。

 

【戦術の限定は、戦術や技術を研ぎすます】
さて、私は「戦い方、戦術の限定は、技術を研ぎすます」と考えている。

 

例えば、ボクシングやレスリングはその典型である。格闘競技のルールという観点から見たボクシングは、突き(パンチ)による頭部と上体への打撃という戦術に特化したスポーツだ。ボクシングが技術を限定するがゆえに、その技と戦術が優れている。またレスリングは、組み合いによる相手の支配という戦術に特化したスポーツだ。レスリングがボクシング同様にその技と戦術が優れているのは、技を限定するがゆえであろう。ここで把握しておかなければならないことに、技術評価の明確性を挙げたい。技の限定による、優れた技術の創出は、技術評価の明確性と表裏一体である。そこが曖昧だと、優れた技術は創出されにくい。

 

但し、ここでいう優れた技術とは、目に見える技術を指すのではなく、見えないところで機能している技術も含んでいる。ゆえに普通の眼では認識できない。そこが問題である。勿論、見た目が美しいというのは、優れた技術の機能美としての反映だとも言えるが…。しかしながら、真に優れた技術については、構造的な観点から説明しないと、私の考えがうまく伝えられない。今回は端折り、別の機会を待ちたい。

 

【空手の特異性の第一は】
一方、空手競技はどうか。空手は突きや蹴りに技を限定している。本来ならば、ボクシングやレスリング同様、優れた戦術が誕生しなければならない。しかし、安全性を確保するために、攻撃方法や戦術に限定が加えられている。また、技術の判定基準が曖昧である。ゆえに、優れた技や戦術が生まれにくくなっているように思う。

 

私は、空手の特異性の第一は、ボクシングやレスリングとは異なる間合い(距離)からの攻撃だと、考えている。つまり、中間や遠間からの攻撃だ。勿論、古伝の空手に見られる、接近戦での打撃技も空手の特異性の一つであろう。しかし、敵と離れた間合いからの攻防を行うための機動力が、空手と他の格闘技との最大の差別化になると思う。また、その機動力や技術は、ナイフなどの小武器などに対応する護身術の基盤となるであろう。しかしながら、そのような機動性と攻撃技術の片鱗を、フルコンタクト空手競技では見ることができない。むしろ寸止めと言われる、伝統空手の組手競技に、その片鱗が見られるといえば、言い過ぎだろうか。そのようになったのは、打撃技の攻防から逃れるための戦術としての接近戦を多用するからだと推測する。また、一撃必殺と言いながら、急所への打撃技や頭部への打撃技に対し限定を加えているからであろう。

 

さらに言えば、多少の打撃をもらっても、防御技術の未熟さとは考えないことや相手の攻撃と防御の間に一撃必殺の機があるということを理解していないからだろう。極論すれば、突きと蹴りなどの打撃技の特性を充分に活かしていないということだ。ここは丁寧に話さなければならないところだが、ここでは簡単に説明した。

 

【組手法の改善のために】
その傾向に気づき始めた空手経験者達は、技術の改善のために、グローブを使用し、頭部打撃の練習を取り入れたりしている。私は、それらの試みを否定はしない。また、安易な接近戦を反則とする、組手競技のルール改正を行なう空手団体も出てきた。私は、そのような組手法自体を変える方法も悪くないと思う。しかし、優れた格闘技術の創出を目標とする格闘競技を考えるならば、その方法には、少々難があるように思う。なぜなら、優れた格闘技術の創出を目標とするなら、仕組み(システム)として、自然に理に適わない状況が生まれにくくするようにした方が良いと考えるからだ。つまり、ある戦術の選択をすれば、それが不利になるという要素があれば、その選択は安易な逃避的かつ偽装的な攻防ではなくなる(現在のフルコンタクト空手競技には偽装的攻防や無駄な攻防が多すぎる)。つまり、リスクをとった上での攻防の選択とは、すべて積極的な攻防手段の選択となるのだ。そうなれば、その競技における技術の応酬が、すべて十分に意味のある攻防となる。ただし、あれをしてはならない、これをしてはならないと注文を付け過ぎると、選手の動きに自由度が奪われ、状況(環境)に対する、より善い変化と同時に優れた感覚の醸成が抑制されるだろう。ゆえに、接近戦も遠間の攻防も有効とし、それぞれの間合いでの有効な技を明確に評価する基準を設ければ良いと思う。

 

【フリースタイル空手は】
繰り返すが、フリースタイル空手は、安全性を確保しながら、あらゆる年代の愛好者に反復練習を可能とすることを目標としている。ゆえにグローブを使用した、突きにによる頭部打撃を採用するのではなく、フルコンタクト空手を基盤とする。しかしながら、近間では、組み合っても良いという、ある意味、当たり前のルールを設定した。

そのことにより、空手家の心身に、優れた間合い感覚、体捌き・運足の技術が引き出されるはずだ。本来、近間での攻防は、掴んだり、組んだりするのが自然だ。また、接近戦における、組み合いへの対応という戦術と技術を空手に加えれば(本来の空手では当たり前)、護身武術としての伝統的空手道の理念が復権するだろう。おそらく、突き蹴りのみが空手だと、単純に理解してきた人達は、戸惑いや違和感を感じるだろう。しかし、護身に空手を役立たせたいと考えるならば、多様な格闘状況(戦闘状況)を知らなければならなということはいうまでもないことだろう(もちろんすべてを知ることはできないが・・・)。

 

但し、徒手格闘における、格闘局面(戦闘局面)の全てを、組手競技で修練するとなると無理がある。要するに「打撃技の攻防」「組技の攻防」「寝技の攻防」と、格闘局面(戦闘局面)が多過ぎ、スポーツとしては過激になるということである。ゆえに、フリースタイル空手競技は、立ち技での格闘局面(戦闘局面)に限定した。

 

勿論、フリースタイル空手競技には否定的意見があるのも、私は承知している。その一つが、頭部打撃技を限定し、組討ちを認めれば、打撃技が得意な者に不利だというものある。その意見には一理はあるかもしれない。ゆえに柔道の寝技の攻防のように組み合いが許される時間に制限時間を設けた。

 

柔道は、打撃技を禁じ、立ち技からの投げと倒されてからの攻防を、武術として重要とし、それら両方の技を生かしている。一方、フリースタイル空手は、寝技を禁じ手としたが、離れての打撃技と接近しての組討ちの両方の技を生かしたのだ。

 

また、極真空手を代表とするフルコンタクト空手の蹴り技は、かなり強力な打撃技、攻撃技である。組討ちの状況と技術を理解し、打撃技と組み合わせて、新しい打撃技を生み出せば、かなり強力な格闘技術が創出出来ると確信している(時間がかかるかもしれないが)。

 

さらに補足を加えれば、戦術の範囲を広げ、戦闘局面の種類を増やせば、当然、組手が複雑になるだろう。しかし、それを我慢して、受け入れることができれば、組手(戦い)がチェスのような戦略ゲームに近づいていくはずだ。はじめに基本技の理解と、それを競技者が身につけることさえできれば、そんなに難しいことではないと思う。

 

もし、フルコンタクト空手競技が、以上のルール変更を受け入れることができれば、これまでの技術プラス、新たな戦術が誕生するだろう。また、競技者に戦略的観点が生まれるだろう。その戦略性は、観る者も納得するはずだ。

 

そこで初めて、人間教育に役立つ、ストラテジック・コンバット・スポーツ(戦略的格闘技スポーツ=武道スポーツ)が誕生するのだ。

2016/9/2 一部加筆修正

組手技について〜無心の技

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以下は、私の道場サイトのBMSの一部からの抜粋である。

これで道場生は減るかもしれないが、私は以下の意味が理解できる人間と武道を修練したい(正直言えば…否、一人で究めるのが真の武道であると、心の中から声が聞こえてきた…)。

ここで断っておくが、私の片腕である秋吉も道場の黒帯たちも、私とは全く異なる性格ばかりだ(当然のことかもしれないが)。私の家族も、私の話など聞いていない。聞けば、疲れるからであろう。私はそれで良いと思っている。私自身も私のような人間が近くにいたら「うるさい」と思うにちがいない。

むしろ、「こんな変な父親でごめんね」といつも思っている。

そう言いながら、「もっと変人になりたい」とも思っている。

今こうして前書きを書いているのも、回りと私の考えが異なる事への「免罪符」のようなものだ。

 

さらに蛇足ながら、近くで語れば「うるさい」と云われるに違いないから、無視されるのを覚悟で、うるさい事を、遠くからでも語り続けようとも思っている。

 

【組手技について〜無心の技】

少し難しい言い方になりますが、増田流の空手道で、最も重要なことを述べておきます。空手を始める前のみなさんに、難しいことを言うのは良くないかもしれません。

しかしながら、増田流は初めに重要なことを言っておきます。組手技とは相手と組手を行うための技であり方法ですが、組手稽古の目的は、優劣を競うことではありません。その目的は、相手との技の受け取り合いを通じ、技の本質をつかむことです。技の本質とは、自己を創造していくための原理であり道具のようなものです。つまり、技(既存の技)と格闘しながら、既存の技の殻を打ち破り、真の技(新しい技、無心の技)を生み出すことです。さらに、その過程において真の自己を掴むことが組手の真の目的なのです。

【真の自己を掴む】

真の自己を掴むためには、体験が重要です。しかしながら、ただ体験するだけではなく、技(行動)の目的を意識した体験が必要です。同時に自己の能力を向上を目指す意識が必要です。ここでいう自己の能力の向上を目指すとは、絶えず行動のゴールを明確にし、そこに達するルート(手段)選択の精度(ゴールに到達するスピードとその成功率)をあげる意識を持つことです。また、ここでいう真の自己とは、これ以上はないというようなところを目指す努力の中からの気づきとも言い換えられます。そのような気づきを得るためには、絶えず自己の行動を吟味し、行動結果からのフィードバックを大切にすることです。

 

組手稽古においては、絶えず自己(心身)からの「発信・指令」を吟味します。同時に他者や心身(自己)からの「返信・受信」を吟味します。そのような吟味を通じ、自己内部に構築された広義のコミュニケーションプログラムや回路を再構築していく作業がBMSの空手道の稽古・修練なのです。鍛錬やコンディショニングについては、組手稽古を行うための自己の基盤をより強靭にしつつ状態を維持、管理することだと考えて下さい。

 【BMSの目指す空手道とは】

さらに言えば、BMSの目指す空手武道とは、組手という他者とのコミュニケーション手段を通じ、自己の心と技を磨くことと言えます。言い換えれば、他者との関わり合いの方法を学ぶこととも言えます。例えれば、言語がそうであるように、空手武道の技も同様なのです。ゆえに、まずは基本を習得し、法則を型から学び、それを応用するという体験が必要です。

最後に、BMSの組手修練は仲間との関わり合いを重視します。また究極的にはコミュニケーション能力の向上を要求するものです。そのコミュニケーション能力の向上のために「応じ」と「転じ」という鍵概念を設定します。

 

【応じとは】

ここでいう「応じ」とは「転じ」の概念を内包しています。「応じ」は、一方的に相手を攻撃する行為ではありません。また一方的に防御するものでもありません。応じとは、状況や相手を受け入れながら、それに対し最善の対応を目指すことです。それが「転じ」の意味するところでもあります。攻撃一辺倒の戦い方は、まるで自我の中に閉じるこもるようなことだと思います。もちろん、そのような局面も時には必要かもしれませんし、最善の対応は個々人、状況に応じて多様です。しかしながら、最善の対応に内在する普遍的な要素を探求し、最善の対応を為すための心身の基盤をつくるのが増田流・極真空手です。

 

 


青嵐の志〜民進党代表戦を見て

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以下のブログは、一度は会員限定にした。しかし、政治家に対しては、一定の批評や批判は申し上げても良いと思ったので限定を解除したい。ついでに、辛辣なことを付け加えておいた。

 

蓮舫氏を代表に据える民進党の復権は、困難だと思う。

なぜなら、蓮舫氏を支持する人たちの判断基準が選挙優先かつ浅はかな人気取りだと思うからだ。なぜ、政治家と言われる人たちは、こんなにも選挙優先の考えをするのだろうか?

 

一方の前原氏や玉木氏は、政治家としてまともだと思う。確かに前原氏には欠点があるかもしれない。しかし、磨かれれば、もっと輝く人だと思う(随分上からの物言いだが…)。また玉木氏は、私が感じたように、かなり良い筋の政治家のようだ。

 

乱暴な言い方をすると、前原氏や玉木氏は自民党に入党した方が良いと思う。もちろん、それが困難なことは言うまでもない。

 

ならば、我が国の政治のバランスをとるための野党は、新しい党が担うに違いない。新しい党は、まだ出現していないが、そのうち出てくる可能性が高い。なぜなら、盤石に見える与党、自民党も足元から腐ってきているように見受けられるからだ。早くしないと…。世界の流れが変わりそうな気配がある。実際は、何が起こるかなどわかる訳はないのだが、だからこそ怖い。あくまで私の考えだが、リーダーは最悪の状況を想定しなければならないと思う。ゆえに我が国の首相も最悪の状況を想定し、それを回避して欲しい。

 

年老いてから国の混乱を目の当たりにするのはごめんだ。これからは、日本も40代から50代の政治家がもっと活躍するようにならなければダメだ。また、そのようなことが可能な国にシステム自体を変えていかなければ。かくいう私は、安部総理支持者である。是非とも安部総理に、若い政治家の育成とその(仕組み)システム作りをお願いしたい。もちろん、経験豊富な年配者の扱いも大切にするのは当然のことだ。しかし、現在のような縦の序列が強固なシステムは、機能的ではないと思う。これ以上は語らないが、必ず良い方法があると、私は信じている。

 

 

 

 

【青嵐の志〜民進党代表戦を見て】

 

民進党の代表戦をTVで見ている。

こんな事をしている場合ではないが、思わず見ている。

 

投票に先立ち、先ず蓮舫氏が演説をした。私は蓮舫氏が嫌いではない。物怖じしないスタイルが気持ち良いからだろうか?私自身にもよく分からない・・・。彼女のテーマは、平和と安心であろう。しかし、その学芸会的な説法スタイルがどうも引っかかる。

 

一方の前原氏は、自身が代表を努めていた時の失策の反省を前面に出している。そして、その失敗があるからこそ、それを活かし、民進党の再生に尽力したいと、訴えている。その考えには、一定の理解と賛意をもてる。しかし、選挙前の演説で前原氏は、「オール(ALL)フォア(FOR)オール(ALL)」という造語を訴えていた。正直言って、簡単そうで、結構難しい言葉だ。さらに言えば、個を埋没させる、悪しき全体主義へと繋がって行かないだろうかとの思いが、湧いた。勿論、前原氏の言葉は、全体主義を意識しての言葉ではないと思う。ゆえに私は、ここでその言葉を全否定はしない。ただ、リーダーは、その言葉の意味、哲学を、より多くの人に共有してもらわなければならない。それは言葉だけの問題ではないかもしれない。その点に関して、リーダーとして、前原氏には何かが足りない気がする。私は今回、前原氏に期待していたが、今一歩の感が否めない。万を持して選んだ言葉だとは思うが、その言葉が駄目だと思う。

 

最後に玉木氏が演説をした。玉木氏は若手で党内の支持者も少ないようだが、私には新鮮に思えた。その演説の仕方は、民進党の全体的カラーである、生徒会的な感じを拭えない。しかしながら、玉木氏の弁舌のさわやかさとその内容は、浪花節的ながら共感できるものだった。

 

政治のリーダーの演説は、もっと具体的でなければならないとは思うが、時には、青年の主張的でも良いのではないかとも思う。

 

確かに、世間の多くが感じるように、民進党は生徒会的のりに見える。しかし、私はそれで良いと思った。ずる賢い人間がたむろする政党より、いつまでも若々しく、青嵐のような志をもち続けながら、卓越した実務能力を構築かつ駆使できる政策集団。そんな政党になって欲しい。勿論、民進党だけに言いたいのではない。いつかそんな政党が現れて欲しいと思っている。

 

私だったら、たまき雄一郎氏を応援するが、これまでの実績と人気?で蓮舫氏が当選するだろう。

 

追伸

生徒会的のりとは、随分酷い言い方をしたと、反省している。

本当は、もっと辛辣な事を感じているが、ブログに書くのはよそう。このブログは、読者登録していただいた、特定の人だけに閲覧可としたい。

 

 

私が伝えたい事

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 私が伝えたい事

(小難しいブログでごめん。具体的なことは著書で展開したい)

 

 

【駄目だし】

黒帯のみんな、集まってくれて、ありがとう。精一杯、気を配り、稽古をしたつもりだが、不十分だったと思っている。

 

心配しないで欲しいが、黒帯合同稽古の後、血圧が90を切り、ふらふらだった。膝の具合も悪い。私の下半身は、血流が悪く、むくみやすい。また、冷え性である。数年前に両脚の静脈瘤の手術をした。医師の話では、静脈瘤は遺伝的な影響もあるという。私なりの見解は、遺伝的な事に加え、若い頃の下半身への過度のトレーニングの影響があると考えている。また、その血流の不良が2年前に手術した、膝の回復を遅らせているようだ。現在、黒帯有志に、何かと助けてもらっているが、とても感謝している。

 

しかしながら、身体の不調は、そんな事だけに起因するのでないと考えている。体力の消耗と衰えに加え、精神的なダメージが追い打ちをかけているようだ。その原因は、私自身の他者への伝達力の無さに対する、自分自身の駄目だしである。それほど、駄目だしをしているなら、もう少し、コミュニケーション技術に改善が見られても良いだろうとの突っ込みがあるに違いない。確かに言う通りだ。しかし、言う程の改善が見られない。なぜなら、私自身が未熟かつ理想を絶えず追求している、発展途上の人間だからであろう。ゆえに現実とのギャップは永遠になくならないかもしれない。そんな愚かな考えゆえ、いつも焦燥感が私の中にある。

 

【黒帯稽古の目的】

さて、今回の黒帯稽古における私の目標は、組手技と組手に関する認識を道場生に伝えたいということであった。

 

その認識の核心は、組手の要諦は、組手技と組手に対する認識が全ての基盤になるということである。体力差はその認識に内包される事柄だ。残念ながら、現時点における空手に対する認識の伝達程度は、両者の間に大きな河が立ちはだかっているかのようである。

 

 

【河を泳ぐ力】

 

私の長年の苦悩は、その河を自分の道場生に泳いで、私の立っているところまで到達させたいとの思いに起因する。また、河を泳ぐ力をつけることが、真の修練であり修業なのだと、私は考えている。

 

 

私は長年、道場生に空手を指導してきた。中には一緒に泳いできた者もいたが、多くのものが、新たな陸地(ステージ)に立ったという事に満足しているかのようだ。新たな陸地に立つことに意義はあるが、最も重要なのは、我々人類が河を泳ぐ力を失わないということである。つまり、河を泳ぐとは、未知のことへの挑戦であり、その基本は自分自身の心身に、深く問いかけることである。さらに言えば、自分と異なる他者との間を泳ぎ、他者の心に到達するようなことでもある(そのような広義ののコミュニケーション能力の開拓が組手修練の最も重要な点であると私は考えている)。同時に、その経験を通じ、自分自身と言う事象を全身全霊で感じることだと言い換えても良い。陸地に立つとは、その経験を振り返り、検証する場、そして一休みの場のようなものだ。

 

断っておくが、あたらたな陸地・ステージに立たせるために無理矢理に河を泳がせる。そんな乱暴な指導をしてはいけないと思っている。また、私の泳法も優れたものではない。あえて言えば、自己流でひどいものだ。さらに泳ぐ体力も衰えてきている。ただ、未知の物事を開拓したいとの思いは強くある。

 

増田は一体なにを言いたいのだと、思われるにちがいない。私が伝えたいのは、新たなステージに立とうとする、積極性、好奇心、そしてフロンティアスピリットの重要性である。

 

【否が応でも】

人生において、河は至る所にある。また陸地もある。補足を加えれば、空手界のみならず、格闘技界、すべての領域の認識レベルが進化していると言っても過言ではない。そのような中では、その進化に普遍妥当性があれば、それは理論として教えれば良いのである。ここでいう陸地とは、人類の認識が結晶化された地点である。しかしながら、その結晶は日々変化していると思う。そのような現実の中、我々人類は、否が応でも新たな陸地、ステージ(進化)を目指さなければならないのだ。

 

【小さな河を泳ぐ事】

私が重要に思うのは、個々人が自身の人生の中、多くの河を渡って行く事で、自己が開拓されるという事実である。それが人生の価値だと、私は考えている。補足を加えれば、何も大きな河、激流の河を泳ぎきる事だけが重要なのではない。小さな河を泳ぐ事が重要だ。ここでいう小さな河とは、未知の経験という事だが、一対一の対人関係において、その間に河のような障壁があれば、経験を恐れずに、泳いで渡るような心構えと能力ぐらいは誰もが経験できる事だろうという事を含意している。また、全てを経験しなくても、すでに普遍妥当だと思われる事に関しては理解すれば良いだろう。ただし、「泳がなくてはならない時があるかもしれない」ということは、覚悟しておいたほうが良いと思っている。

 

さらに言えば、いきなり河に放り込むのではなく、プールを作り、そこで泳ぎを教えても良い。また、すでに普遍妥当性があることは、河を泳がせなくとも河に架橋したりして、立たせても良いのである。その架橋が理論や修練カリキュラムと、私は考えている。

 

少し整理すると、私は空手愛好者(道場生)を自力で河を泳げるようにすることと同時に新たなステージに立つための架橋が必要だと考えている。指導者がその事を意識し、斯界を変革すれば、斯界は自然と発展するに違いない。なぜなら、人類の進歩に必要な構造と合致しているからである。

 

ところが、斯界が発展しないのは、自身のステージ(立場)を絶対とし、そこに安住しようとする人達がいるからである。私は、そんな人間になりたくはない。

 

ここまで書いて、増田は難儀な奴だと、思われたに違いない。しかし、この未熟で愚かな私を、かわいそうだと思ってくれたのか、協力を約束してくれている道場生がいる。私が云う、架橋を手伝ってくれる者だ。私同様、世間では変わり者かもしれない(失礼)。それゆえ私達はシンパシーを感じている。

 

最後に、私がここでいう河を泳ぎ、新たな陸地(ステージ)に立つとは、組手技における身体操作や組手における、攻防の術に対する認識を変えることだ。はっきり言えば、ほとんどの極真空手家の認識が間違っていると、私は思っている。今のはやり言葉で言えば、「エビデンス(根拠)は?」と突っ込みを入れられるに違いない。もちろん、すべての極真空手家ではないとは思うが、斯界が変革されないところをみれば、そう思わざるを得ない。

 

具体的な事は、私と道場生との間の架橋ともいえる、空手道修練教本の製作を通じて、世に問いたい。

 

私は今、衰える身体をいたわりながら、最後にもう一度、仲間と共に空手道に賭けようと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

オリンピックについて一言

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オリンピックについて一言

 

 

小池新都知事のスタートダッシュは素晴らしい。

公約通り、都政の諸問題にスポットライトをあてている姿は、なんとも頼もしい。一方、諸問題の解決には至ってはいないことから、諸問題の処理を一つでも解決した時に、初めて評価を下したいとする人たちもいる。

 

ともあれ、私は小池新都知事の誕生には使命があると思っている。また、そのことをメディアを含め、我々市民(都民)がどのように受け止めていくかが重要だと思っている。その辺の考えは、時間がある時に整理してみたいと思うが、まずはオリンピックの問題について、少しだけ記しておきたい。

 

オリンピックの開催のための諸費用が数兆円にもなるという。

オリンピックの費用対効果については専門家ではないが、そもそも都民の税金を使い、開催するイベントである。都民にメリットがなければならないのは当然だと思っている。

 

また、私は東京オリンピックに賛同する立場であるが、税金を湯水のように使って良いとは思っていない。

【アスリートファースト】

勿論、イベントを行うには費用がかかる。また、オリンピックのようなイベントでは、かなりの費用がかかるに違いない。イベントを運営する、オリンピック組織委員会は、コンパクトシティを掲げて、東京オリンピックを招致したと言う。ゆえに現在問題になっている、準備費用は必要経費だと主張しているようだ。また、アスリートファーストを掲げ、より良い競技場の建設が必要だと主張する。

しかしながら、観客席を増やすことが、アスリートファーストのオリンピックに必要なことだろうか。私はアスリート達に必要なのは、選手達の強化費や全国のオリンピックアスリートを養成するための施設や競技団体改革の必要性だと思う。競技団体改革とは、ずいぶん不遜な意見だが、オリンピックアスリートを養成するのであれば、なんらかの形で国や自治体と連携することが必要だと言うのが、私の考えである。おそらく競技団体のリーダー達は、国や自治体に口出しをしないでほしいと言うだろう。それならば、各競技団体はオリンピックに勝る国際大会を独自で作るべきだと思う。私が言いたいのは、すべての団体が公共性を意識し、より開かれたものになることが、オリンピック憲章に沿う形だと考えている。

 

また、コンパクトシティーに関してだが、コンパクトシティという発想は、運営等の負担軽減が含意されている思う。

【持続可能性】

しかしながら、考えをまとめるにあたり、最も重要なコンセプトは、オリンピック自体の「持続可能性」だと思う。

先のリオもやっとの思いで、オリンピックを開催し、終了した。無事成功したと言われているが、収支や今後の経緯を見た上での検証が必要であろう。

 

最近、ローマがオリンピック招致の挙手を取り下げたと聞く。賢明な判断だと思う。乱暴な言い方をすれば、今のオリンピックを続けるとなれば、よほど資金のある国、自治体しか、オリンピックはできないと考えるのがまともな見方だ。また、「失敗の結果責任は皆で、成功した場合の評価は声をあげた者に」というような無責任なリーダーが主催するイベントということになるだろう。

 

勿論、オリンピックをやろうと言うリーダーが悪いといっているのではない。

オリンピックの意義や予想しうる問題点を、皆のこととして考えた上で、透明性をもって、市民に了承を得ること。また、予定や構造に瑕疵が見られれば、正直かつ迅速に改善できるような仕組みを作らないと、大変なことになる可能性が大だと言いたいのだ。

 

大げさに言うと、震災や経済恐慌など、起こっては欲しくはないことが、もし起こった場合を考えずにはいられない。先に述べた「持続可能性」というコンセプトは、なにもオリンピックだけのことに限らない。東京都という自治体、また日本という国家、さらに言えば、すべての国家運営(組織経営)の普遍的なテーマでもある。

 

【私の提案】

私の提案は、東京オリンピックは、国と東京都、東京という巨大な自治体と地方の弱小な自治体を結び連携する、新たなシステム構築の試金石とするべきだと考えている。また、大学の施設の公共性を高め、活用していくシステムの構築も有りだと思う。

 

少し脱線するが、スポーツも教育や文化政策の一環であるならば、スポーツ界と大学との連携の見直しも必要だと思う。異論は必至だと思うが、あえて拙論を提示したい。私は、今後の大学はより開かれたものになる必要があると思っている。つまり、若い一時期のためにあるのではなく、あらゆる年代や層の人たちのコミュニティーとなることが、大学という存在に消費される、国民の財(時間や金)を無駄にしない方向性だと思っている(それは学歴社会の見直しも含む)。

 

話を戻すが、オリンピックの持続可能性を考えた場合、まずは施設にお金をかけないことだ。それよりも、選手と観客の記憶をより普遍的なコンセプトで残すこと。また、より開かれた形でアーカイブできるように考えるべきだと思う。その点、ロンドンは十分に考えられていたと聞く。東京はどうだろうか?もしかすると、直前まで、東京になるとは信じてなくて、決まってから考えれば良いと思っていた?まさか、そんな行き当たりたりバッタリではないだろう。小池新都知事とメディアに願いしたいのは、本当の悪とは何かということを追求して欲しいということである。そして、悪が支配する世の中とならないようシステムの中に魂を入れて欲しい。勿論、答えは出ないかもしれないということも想定しながら。また、それがメディアであるという意見も排除しないで。

 

ただ「いつの時代も本当の悪は究明されない」というのが私の所感である。もしかすると、それが人間の知恵なのかもしれないが…。

 

米国大統領戦について一言

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11月7日(月曜日)

 

膝の回復は70パーセントぐらいで停滞している。もうこれ以上は回復しないかもしれない。さらなる劣化、悪化を防ぐために無理をしたくない。

 

今日は、血圧が正常なので、少し気分が良い(今日は上が120、いつもは80ぐらい)。調子に乗って一言述べたい(家族からは嫌がられている…)。

 

 

【米国大統領戦について一言】

そんな一進一退の毎日だが、いよいよ明日に控えた、米国大統領戦について一言。

 

私は、大統領選に関するニュースが流れ始めた時、トランプ氏が勝つかもしれないと考えていた。理由は簡単だ。トランプ氏のような変人が大統領戦を争うということは、よほど相手に問題があると考えたからだ。

 

世間では、トランプのことを批判しながらも、グローバル化の波に乗れなかった中間層からの支持など、トランプの優位点を挙げていた。とにかく私は、トランプ氏にどんな優位点があるとしても、この状況の最大の要因は、クリントン氏や現政権(オバマ政権)の不人気にあると思っていた。

 

こんな候補に苦戦するとは、よほど人気がないのだと単純に推測できるのに、あまりメディアはそこを丁寧に説明しない。

 

ジャーナリストの木村太郎氏は大統領選直前の米国を訪問したようだ。その訪米の様子をテレビ番組でみた。木村氏は、いち早くトランプが勝つと予測していたらしい。昨晩のテレビ番組では、「トランプが勝つ」と言い切っていた。その理由を数十年に及ぶ米国特派員生活とジャーナリストとしての直感だと言っていた。

 

テレビで見る木村太郎氏は、70歳を超えるのに気力がみなぎり、颯爽としていた。私は木村氏に尊敬の念を持ちつつ、同時に大統領選に関して、私も同様の感じをもっていたので、少し嬉しくなった。しかし、すぐに思い直した。

 

私は、父親譲りなのか(最近、そう思うようになった)、意外と賭け事が嫌いではないようだ。また、人と違う方にかけたくなる、天邪鬼的なところがある(本当はものすごく読んでいるのだが、いつも当たらない?)。

 

今日のテレビ番組でも、学者の三浦氏と弁護士の橋下氏がトランプ氏の勝つ可能性が高いという意見だった。その理由を橋下氏は、「ヒラリーは現状維持という考えで、アメリカを変えよう(良いように)という意志がない」というようなコメントをしていた。要するに、米国民は現状に満足していない人達が大勢いるのに、ヒラリーではそれらの問題解決に着手しないだろうとの見方だった。つまり、一方のトランプ氏は、リスクはあるが、それらの問題解決に向けた何かをやってくれるかもしれないという期待感を支持者に与えているということだ。

 

私は、橋下氏のいう通りだと思った。実は、私の親戚にアメリカ人がいる。共和党支持者だが、4年前から、オバマの政策に関して、本当に辟易しているようだった。もちろん、米国民全ての意見ではない。しかし、日本の旧民主党にたいする嫌悪感にも似た空気が、米国にもあると思っていた。また、先のイギリスの国民投票でも感じた、エスタブリッシュメント(既得権益者、権威を有する者を指す)に対する嫌悪感という空気もあると睨んでいた。それを私なりに要約すると、急激に進んだグローバル化によってもたらされた、社会の格差に対する不満。また、それ(グローバル化)を素晴らしいものと唱え、既得権益者を擁護するかのような民主党支持者に対する嫌悪感とでも言ったら認識間違いであろうか。私の直感では、今回の大統領選の中心は、移民の問題や経済の問題も含め、民主党(米国の)政策や理念、そして民主党のあり方へのNOなのだと思っている。そこへ持ってきて、米国民はヒラリーがあまり好きではない。また、「共和党にトランプとは別の候補者がいれば」という人もいるが、そうではないだろう。民主党の欺瞞(反民主党陣営はそう思っている)を叩くには、トランプ氏の持っている破壊力が必要だったのだ。そう多くの人が判断したのだ。その戦略が功を奏している(…かも)。しかし、うがった見方をすれば、全てはマスコミが視聴率のために操作しているような気もする(アメリカのみならず日本でもそうだ)。

 

ここまで書いてきて、増田もトランプが勝つと思っていると思われるだろう。正直に言えば、トランプが勝つように見える。しかし、私は報道をそのままに受けとっているわけではない。マスメデイアの人達には悪いが…。

 

私の最初の予測は、トランプの勝利だった。それはメディアの報道の影響ではない。あくまで米国の状況を想像しての上である。しかし、私は本当に天邪鬼だ。真剣に選挙戦を戦っている方々に悪いが、トランプ優位の中、あえてここで、ヒラリー・クリトンが勝つと予測したい。

 

現在、期日前投票が前代未聞の数で多いと聞いた(聞き間違いか?)。米国民は、「このままでは本当にトランプ氏が大統領になってしまう」「自分の判断が変わらないうちに、ヒラリー氏に投票しよう」「少しでも米国民の意思はヒラリー・クリントン氏にあると伝えたい」などの思いが現れているのだと、私は感じる。

 

【日本だったら】

日本だったら、ここまできたら空気と勢いに押され、トランプに傾くであろう。否、そもそも、こんな意見の対立はないだろう。民主主義が最も進んだ米国だからこそ、今、現実と理念(本音と建前とも言えるが)との間で必死に足掻いているのだ。

 

想像を絶するような厳しい戦いのようだ。繰り返すが、私は最初の予想を変更し、あえてヒラリー・クリントン氏に賭けたい。

 

【進んだ民主主義では】

私は、良くも悪くも、進んだ民主主義では、リーダーは人格者でなければならないとの意思が働くと考えている。そうでないのは、民主主義が進んでいない証拠だ。さらに言えば、それを否定するのであれば、進化し続ける民主主義を理解していないからであろう。

 

私は、米国は様々な問題を抱えながらも、まだ民主主義の最先端を進んでいると信じたい。また、米国民はこの戦いで大事なことに気がつくだろうと考えている。今後、ヨーロッパやアジアでも、官僚的で行き過ぎた社会システムや格差社会への不満への対応や閉塞感の改善を急がなければならないということを(おそらく、その解決策は資本主義を進化させたような新しい社会体制だろう)。また、民主主義とは何かを考え直すことになるであろう。現在、日本の識者は対岸の火事を見るような感覚で見守っている。私は、是非、今後の日本のあり方を考えるきっかけにして欲しいと思っている。また、世界が共有できる価値観があるのかないのかを考える、きっかけにして欲しいと思っている。オリンピックのあり方もそこに通じる。

 

蛇足ながら、私は民主党のサンダース氏のような大統領が趣味である。しかし、米国社会や国際社会への対応という点では、論外だったのだろう。

 

とはいうものの、トランプ氏は大統領になったら、現実的に行動し、日本と仲良くするかもしれないとも思っている。人は漫画的だと笑うかもしれないが、先のことなど本当は誰にもわからないのだ。そんな中、私は物事のほんとうの姿を見極めたい、同時に理想を思い描き続けたいと思っている。そして、日本において似たような状況になった時、思いだして欲しい。そして考えて欲しい。出来事のほんとうの姿を…。

 

 

 

 

 

私のエネルギー源

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【この人達に空手の稽古の楽しさを伝えたい】

 

私の道場には子供たちのみならず、中高年の方々が少なからずいる。

 

私も来年、55歳だ。道場生の中には、私より年上で、還暦(60歳)を超える方々もいる。

 

子供達から見れば、私も含め、もはやおじいちゃんだ。しかし、私の道場の中高年の方々は、皆元気である。否、元気な人しか稽古できないというのが本当かもしれないが‥。

 

極真空手の稽古は、地味な基本稽古も初めのうちこそしんどいが、慣れてくれば、良い体操になる。ただし、蹴り技は関節に負担をかけるので、少しずつ行うことが必要だ。

 

私はいま膝の具合が悪い。その原因は、10代の時に痛めた関節の経年劣化と下肢静脈の不良、加齢による筋力や柔軟性の退化だと思う。

 

身内からは、10代から20代にかけ、常人の数倍もの負荷を身体にかけたことにより、以上の結果を促進したのでは、と言われる。しかし、私の感覚では、身体の訓練をしなければ、中学生の頃に痛めたひざは、もっと早くダメになっていたであろう。

 

反省するとすれば、下肢の血管の機能が弱いことを踏まえ、下半身のオーバーワークを控え、休養の取り方を工夫するべきだったということだ。

 

私は現在、鍛錬ともリハビリとも言える稽古を続けている。その意味は、からだの機能を考え、それをより良く生かすことを考え、鍛錬をしているということだ。

 

そのような状況の中、ある変化が見られる。それは、元気な中高年の方々が道場に現れると、「この人達に空手の稽古の楽しさを伝えたい」「体をより良く生かす方法を伝えたい」と思うようになったことだ。

 

 

そのための基本的考えは、怪我はなるべく回避すること(怪我の回避には技術の習得が重要である)。また、少しずつでも良いから、身体機能が向上するように考えることだ。さらに、より長く身体機能が維持できるように、空手修練のカリキュラムの見直しをしている。

 

稽古後、中高年の道場生に、半分、冗談で言う。「皆さんは、私の研究対象です」「私は、皆さんがより良く身体の身体機能を向上させ、空手が楽しくなるように稽古プログラムの研究を行っているんです」「それが私の生きがいです」

 

それを聞いて、道場生の一人は、「どうぞ、研究材料にしてください(笑い)」と言ってくれる。

 

道場生の心と私の心が通い合った瞬間である。

 

【私のエネルギー源】

ここ数年、私の左膝を執刀してくれた、間瀬先生と、リハビリを担当してくれている佐藤先生に触発されて、バイオメカニクスや運動学等の勉強をしている。

特に、間瀬先生は、膝の名医であると同時に、スポーツ整形に関しての第1人者である。頂いた著書は、何度も見直し、勉強している。

 

頭もそれを空手理論に活かし、発表したいと思っている。身体の不調を初め、諸問題が山積している中での勉強は大変である。諸問題を早く処理したいが、もう少しかかりそうだ。

 

私のエネルギー源は、私同様の中高年の道場生の稽古をする姿だ。子供達も歳をとる。いずれは、我々と同様の年齢になるであろう。ゆえに私は、長く空手を続けられるようより良い変革をしたい。現在、アイディアがあり、実験中である。まだ発表できないが、私が指導している中高年には、その成果が現れ出してきている。その成果をしっかりと理論化し確立したい。私には妄想癖があるようだが、現在、そんな夢想をしている。

 

 

 

 

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