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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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教育について〜昨日の補足

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教育について~昨日の補足

 子供の教育は親の責任だと述べた意見を掲載した。しかしなら、保留にしていた理由を思い出した。教育は親から始まると言っても良いかもしれないが、それだけでもないからだ。誰しも、自分の周りを取りまく人間(家族)の影響のみならず、地域社会や国家体制など、外部環境の影響を受ける(厳密に言えば、影響を受け続ける)。その中に学校や教師が含まれる。

 私は、われわれ人間の本質は、外部との関係性による、身体ー組織ー意味の生成にあるかもしれないと考えている。大きく括れば、すべて外部環境への対応と言っても良いかもしれない。そう考えると、親ばかりに責任を押し付けるのも酷なことだ。私が言いたかったのは、子供への責任感が、親の心構えとして必要だということだ。また、皮相的な論議に終わるなということを言いたかった。

 私は、「他者との協働によって外部環境をより善く変える(適応可能な状態に)意志を持たせる」という要素が教育には必要だと思う。しかしながら、我々の前には、価値観の多様化という問題が立ちはだかる。勿論、価値観の多様化を容認することは、必要なことだろう。だが、共有しなければならない普遍的価値観が、人間には必要だと、私は考えている。また、多様な価値観と普遍的な価値観の両方を活かし共存させるような社会システムを創っていくのが、これからのリーダーの役割だと思っている。

 
 昨今、富の集中が問題となっている。富めるもの、力のあるものは、社会という子供にとっての外部環境の整備に尽力するべきだと思う。さらには、子供の親がより良い家庭を築けるようサポートして欲しい。同時に最善の社会システムの構築と維持に尽力するべきだと思う。そうでなければ、株価上昇だとか、東京オリンピックだとかで浮かれているが、その後の転落があるかもしれない。それが杞憂で終わることを祈りたい。


新手一生

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数日前、第73期将棋名人戦、行方尚史八段と羽生善治名人との対局の記事を新聞で読んだ。

第1局目は行方八段が羽生名人に敗れたそうだ(名人戦は7番勝負)。
しかしながら、新聞(朝日)の記事は行方八段に好意的な書き方だったように思う。以下は記事になった両棋士の言葉である。

「僕みたいな人間が名人戦までたどり着けたことになんらかの意義があると、示したい」(行方)
意欲的な指し回しだったし、強い手で来られたので、こちらも突っ張った指し方をした」(羽生)
「勝負手は独りよがりだった。気合いが空回りした」(行方)

また、名人戦の前夜祭では、行方八段が「勝ちたい…」と語った時、会場が沸いたそうだ。

私は、行方八段と勉強会の仲間を介して、一度会ったことがある。
仲間からは、生方氏は破天荒なタイプだと聞かされていたが、私が見た行方氏は、真面目で苦労人に見えた。また、記憶に自信がないが、東北人と聞いた。私は、生方氏に東北人特有の反骨精神と優しさ、粘っこさがあると感じた。実は名人戦の前に、行方氏と交流がある勉強会仲間から、行方氏の調子がよく、名人戦に挑戦できるかもしれないとの情報が入っていた(名人戦には挑戦資格の規定がある。名人戦を戦うということはそれだけで大変なことだ。それが実現した)。

今回の名人戦は、羽生という稀代の天才棋士と行方という反骨の棋士との異色の対局とってもよいだろう。

【新手一生】
私は将棋に関して門外漢だが、私の長年の盟友、岡田稔氏が幼少の頃からの将棋愛好家で、将棋の話を、昔からよく聞かされていた。岡田氏の好きな棋士は、「升田幸三名人」であり、「増田の空手は升田の将棋のようだ」と、言ってくれていた(私の空手など、とてもその域ではないが、岡田氏は、いつも私を励ましてくれていたのだと思う)。

極真空手の選手時代の私は、勝負師の心構えを学ぶ意味で、棋士の書いた本をよく読んだ。昔の私が惹かれたのは、「大山康晴名人」だった。行方氏に会った時、その大山康晴名人の最後の内弟子だったと伺って、驚いた。

それから数十年が経った。その中で空手や勝負の世界を俯瞰してみると、「新手一生」の将棋哲学を持つ、升田幸三に惹かれるものがある。また、羽生名人の将棋論(哲学)に興味がある。先日、 NHKの番組で、チェスの元世界王者のカスパロフと羽生名人のチェス対局と対談を見た。
その中、間違いではないかと思う部分があった。それは「新手一生」の意味が間違って放送されていたのではないかという点だ。テレビでは、「これまで、新手一生といわれ、新しい手を創り出せば、しばらくは安泰だ(優位性を保てるというような意味)と言われてきた」「だが現在は、どんなに新しい手でも1勝しかできない(新手はすぐに研究、分析され、優位性の維持は難しいとの意味)」との意味のナレーションがあった。しかしそれは、私がこれまで覚えていた新手一生の意味とはちがっていた。もしかすると、話の文脈を聞き直せば、違う意味に聞こえるかもしれないが…(おそらく製作者の間違いだろう)。

私が岡田氏から、聞かされていた「新手一生」とは、「1局1局、新しい手を創造し勝つことが大事だ」ということであった。また、「目先の勝ちに拘泥するのは、棋士の本懐ではない」というような内容だったように記憶する。

私は選手時代、「どんな理由があろうと、負けたら何も言えない」と思っていた。ゆえに、「負けてたまるか」と自らを追い込み、同時に「絶対に負けない」と心に誓っていた。そして絶対に負けない戦い方を作り上げた。しかし、勝つということと負けないということは異なるのだ。勝つということを説明することは難しい。おそらく、現在の羽生名人が見ている、勝つということの意味世界は、常人とは別次元で開かれているはずだ。


何かの縁だと思うので、この対局を見守りたい。私は、会ったことのある行方氏に勝って欲しいが、これまでの実績を考えると、困難だと思う。しかし、勝負はわからない。行方八段の中で何かが創造された時、行方八段が勝利の女神の微笑みを見るかもしれない。


蛇足~「守らざるところを攻める」孫子の言葉より

実はこの記事を読んだ時、羽生VSカスパロフ戦と「孫子」の言葉を思い出した。
余裕があれば、兵法論をまとめ上げたかったが、余裕がなかった。
私が思い出したのは、孫子の虚実編の「守らざるところを攻める」という言葉である。
増田章流の超意訳は、「相手の観ていないところを大切にしろ」「そこに勝機が潜んでいる」ということだ。さらに「通常の大局観をも超える視点を…」行方氏にエールお送りたいが、何より弱々しい自分に言い聞かせたい。


(このブログは数日前にメモ書きしておいたものです)

からだが喜ぶルールを考える

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日本人のDNAに効く/永田式/行き着く先のダイエット

著者:永田孝行

【からだが喜ぶルールを考える】

インシュリンダイエットで一大ブームを巻き起こした、永田先生の新刊が届いた。

永田氏とは数十年の付き合いになる。
永田氏は時々、忙しい中、声をかけてくれる。かなり前に、空手をウェルネスと結びつけられないかという提案をいただいたこともある。その提案は、なかなか実現しなかったが…。それから、数十年の歳月が流れた。永田氏は、お会いするといつも私に、体に関する良いことを教えてくれる。その情報は、いつも役だっている。その永田氏から最新の著作を送っていただいた。拝読したので、その報告をしたい。

その前に、最近、加齢(老化)と使いすぎによる、様々な障害が、私の体にではじめていることをお伝えしたい。手術をした左膝も完治していない。勿論、症状は改善され、少しずつではあるが、回復に向かっているとは思う。しかし、今も毎日のリハビリとケアは欠かせない。もう10ヶ月以上もケアを続けている。なるべく使わない方が良いのかもしれないが、私は使いながらの治療を行っている。おそらく、生涯ケアしなければならないと思う。大変にストレスがかかるが、身体についてケアをしたり、考えたりすることは、私の仕事上、必要なことだと考えている。この機会に、これまでの身体の傷病について考え、身体の最善活用について考えていきたい。

そのような中、自分の周りの人たちに、体を大切にして欲しいと、強く思っている。また、空手を心身の機能を高める手段、さらに、道場をそのようなことを伝える場にしたいと考えている。ゆえに、ここ数ヶ月、運動学やリハビリに関連する本をよく読んでいる。

【新刊の内容】
さて、永田氏の新刊の内容は、ダイエットに関するものである。これまで、ダイエットには縁がなかった私だが、身体の内的機能(内臓の機能?正しい言い方を知らない)に関して、示唆に富む著作であった(専門的なことも書かれてはいるが、けっして難しい本ではない)。

また、今回の本は、ダイエットに対する心構えに関する示唆を得られるものだと思う。言い換えれば、「こうしたら痩せる」という内容のみならず、「どのように取り組んだらよいか(ダイエットに)」ということが書かれていたように思う。そのような心構えの原則を確立することで、その効果(体重の調整)が長期的に持続するということだと思う。

ネタバレになるが、その核心だと思うことは、「からだが喜ぶルールを考える」ということである。それは、私の空手観と共通項がある。

私は、何事においても、心身の機能を深く見つめ、その機能をよりよく活用することが、重要だと考えている。それは、「体を働かせる」「心(無意識を含む意識の総体)を働かせる」「内臓を働かせる」と言い換えてもよいだろう。「働かせる」というのは、単なる使うということではない。内臓を含む、自分の心身を、能動的かつ合理的、効率的に使うことだと思っている。そのような面を永田氏は、「からだが喜ぶ…」と表現しているのだと思う。何事も無理は良くない…。

もちろん、短期の目的や目標を達成するためには、矛盾と感じるような原則・ルールに直面し、それを乗り越えなければならないだろう。しかし、長期的な目的や目標を考えれば、身体側の対応(無意識の反応)は、納得できる働きであると思う。具体的には、「痩せる」ということを、短期目標と捉えれば、我慢を強いることもあるということだ。例えば、「インシュリン値の高いものは控える」「炭水化物(ご飯などの)を摂取した後に、糖質を多く含むデザートは控える」など。

【炭水化物の摂取は必要】

ここで断っておきたい。永田氏は、炭水化物の摂取は必要だと言っている。
組み合わせや摂取のタイミングさえ考えれば(平たく言えばTPO)、炭水化物の摂取は必要かつ重要なのだ。つまり、永田氏の言うところのルールとは、絶対不変のルールではないと思う。あくまで、より良い生活(栄養摂取と活動)のルール(原則)が確立されれば、後は臨機応変である。例えば、「たまには、デザートを楽しむことも良し」と、永田氏は言うにちがいない(今度、確認してみる)。

【私が考える武術も】
最後に、私が考える武術も、つまるところは、心身を使うためのより良いルール・原則を確立することだと考えている。そのルールとは、個体と環境との関係性によって、自己の心身を柔軟に対応させるためのものだ。

私は今、そのような対応を実現するためには、心身の機能をもっと深く知らなければならないと考えている(細胞レベルまで…)。




組手を楽しもう〜増田道場生へ…サマーディの境地〜

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明日は 交流試合だ。
事故が起こらないよう、無事に終えられることを祈っている。

本日は、師範代を任せている秋吉が、孤軍奮闘で明日の準備をしていた。
私は、土壇場に駄目出しは悪いと思ったのだが、明日、選手に渡すリーフレットにチェックを入れた(文言に駄目出しを出した。もちろん優しくだが…)。
「増田道場は…身体を楽しむ、空手で遊ぶ…」
「駄目だ」
「身体を楽しむ、空手で遊ぶ…」、私がサイトに掲載しているキャッチコピーだが、これは駄目だ。
私は秋吉に「このフレーズは駄目だ。理解されない」「深い意味があるのだが、まず理解されない」「誤解される可能性が高い」「だから駄目だ」と伝えた。

一方の秋吉も、「そうですね、注釈がないと誤解するかもしれません」と応えた。
しかし本当は、「遊ぶ」という言葉には深い意味を込めていて、重要な概念でもある。

今回は、書き記す時間はないが、簡単に記してみたい。
ここでいう「遊ぶ」という言葉には、不真面目でいい加減な状態や感覚を含意していない。むしろ、「大真面目で」「真剣で」かつ「我をも忘れるぐらい集中している状態や感覚」を含意している。

私は、良い仕事や考えは、すべてそのような状態、感覚の中から生まれると考えている。
言い換えれば、良い仕事や考えは、真に自由でリラックスした状態、感覚の中から生まれるということだ。

ただ、大真面目な感じと、何かに囚われているような状態や感覚が似ているように見えるかもしれない。また、いい加減な感じが、自由でリラックスした感じに見えることもあるかもしれない。

しかし、そのような状態、感覚とここでいう「遊ぶ」という感覚とは異なる。
私がいう遊ぶとは「三昧(さんまい/サマーディ)」の境地に立つことだ。もう少し言えば、大いなる力、働きに身体を任せ、かつ自分の心を自分の枠から飛び立たせる(解放する)ことだ。

やめよう。時間がなくなった。連休中、富士山麓に住む友人宅を訪ねようと思っているが、そこで再考してみよう。

話を戻せば、秋吉は「では、これを載せましょう」と以下のエッセイを持ち出してきた。
以下のエッセイ(私は詩風で書いているのだが…)は、4年ほど前にブログにアップした組手に対する私の考えである。正直、以下のような考えも、みんなには「?マーク」が出るに違いない。
しかし、私の組手観だ。

私は秋吉に、身体が動くうちに二人で、「これが組手だ、というのを表現しようじゃないか」と言って、道場を出た。「秋吉がかわいそう…」「秋吉が大変そう…」という声が聞こえるが、私は空手を芸術に近づけたいと考えている。それは、皮相的な勝ち負けという価値観で観るものではない。もし、これが理解されないのなら、私は引退しようと思っている。



【組手を楽しもう~増田道場生へ】

組手を楽しもう
そう思うなら、僕の考え方を聞いてみて

僕は「技」を「音なき音」だと考える

音には長短や強弱、高低がある

また、良い組手には「良い音(技)」とその使い方があるんだ

最も大事なのは、メロディー(旋律)を奏でることだ

また、拍子を取ることだ
良い組手には、拍子(リズム)がある

組手を「いろんな音(技)」を使った曲作りだと考えてみよう

基本は、自分の中に音楽をイメージして組手を行なうことだ

ただ、組手で難しい部分がある
それは、相手と自分のフレーズを掛け合うジャムセッション的なところだ

それでも、否、だからこそ、相手は「音(技)」を楽しむためのパートナーと考え尊重した方が良い

なぜなら、組手は相手と共に「技(音なき音)」を創り、楽しむことだからだ

実は、音楽のことなんか一つも解らないが僕だけど、組手をそんな風に考えている

 2011年9月記/2015年5月2日加筆修正


富士山麓へ向かう〜その1

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富士山麓へ向かう ~その1

5月3日の交流試合終了後、娘と2人で富士山麓の友人のN氏宅へ向かった。膝の手術以来、リハビリと雑務で忙しかった。私は普段、子供の相手など全くしない、ダメな父親である。富士山麓に住む友人に電話をしたら、家族も連れて泊まりに来て良いよとのことだった。家内と息子には、受験の準備があるからと断られた。一方、娘は大喜びだった。私は、N氏の好意に甘え、娘と河口湖の方へ向かった。N氏は、昨年から河口湖町の豪邸に住んでいるが、いつもオープンで家族的なもてなしをしてくれる(今回は3度目の訪問)。私は、夜に行われる、ボクシングの世界戦を録画予約し、私はN氏宅へ向かった。そこで面白い体験をした。その体験のことを、次に書きたい。


日誌〜試合の意味とはなんだろう〜体験という価値

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日誌~試合の意味とはなんだろう

5月3日、連休の最中、交流試合が無事に終了した。運営のサポートをしてくれた道場生に心からの謝意を示したい。また、私流の謝意の表し方は、空手を人と社会により役立つものにすることと、したい。

さて、私は空手の試合や競技を、「人間的交流の手段」「新しい技を創造するための情報を得る手段」「自他の身体を一体化するためのセンサーや回路をつくる手段」などと、考えている。

しかし、競技を行えば、そこに勝者と敗者がつくられる。人間的交流や技の創造を傍に置き、勝つことに囚われる姿がそこにあっても不思議なことではない。そこが私の心を砕くところだ。

今回の試合でも、試合に勝った道場生もいれば、負けた道場生もいる。
私は、「試合に参加して良かったと思ってもらうためには、どうしたら良いか」と考えながら、会場を後にした。


私は今、負けた道場生にどのようなフォローアップをすれば良いかと、考えながら日誌を書いている。

【どうしたら、試合を前向きに捉えられるか?】
試合を行った人を眺めると、「前回は負けたけど、今回は勝った人①」「前回は勝ったけど、今回は負けた人②」「前回も今回も負けた人③」「前回も今回も勝った人④」などが見られた。
問題は③の人だ。私は気持ちが萎えないかと心配だ。私はこれまで、試合に勝てなくて、空手に対する意欲をなくす人を何人か見てきた。
そんな時、「試合だけが空手の目的ではない」「試合に勝つ事だけが空手の目的ではない」などというのは容易い。

私は、「どうしたら、試合を前向きに捉えられるか?」ということが大事だと思っている。例えば、「試合は負けたが、ここを直せば勝てたかもしれない」というように。しかし、そのような思考型にも限界がある。なぜなら、試合に勝つという事に価値を見出しているという、前提条件が必要だからだ(その前提が無くなれば、価値は無くなる…?)。

【試合の意味とはなんだろう?~体験という価値】
一体、試合の意味とはなんだろう。
一人ひとりに価値観があり、意味の違いがあるのは言うまでもない。その辺について、今回は多くを記さない。あえて、「そもそも意味とは創られていく」と一言、添えておきたい。
ここで私が言いたいのは、試合に勝てなくても、試合を体験するだけで、十分な価値と意味の可能性を包含しているということだ。

ただし、「どのくらい(何回?)体験するか」「どのようなタイミングで体験するか」「どのような心構えで体験するか」という事が重要だと思う。その上で、つまるところ、「体験」ということが最も重要な価値ではないかと言いたいのだ。

言い換えれば、身体全体で感じることが空手の試合であり、そこに意味が生まれ、同時に価値があると、私は考えている。

【息子の試合を見て以来】
少し脱線すれば、その昔、我が息子に空手を習わせた。期間は2年間ほどだった。その間、彼は1回だけ試合を経験した。

息子の試合結果は、1回戦負けであった。しかしながら、私は息子の戦う姿を遠くに見ながら感動していた。彼には、攻撃力はなかった。しかし、防御を固め、懸命に相手に対応していた。真剣さが伝わってきた。おそらく、緊張もしただろうし、怖さもあっただろう。また、相手の攻撃が痛かったかもしれない。

そんな経験を1回でもしたという事が、彼にとって貴重な体験になっているはずだ。私は試合後、息子を褒めた。「試合は負けたが、防御をしっかり固め、前に出ていた」「懸命に攻めていて、逃げていなかった」と。

私は「今後、攻撃技を覚えて、攻撃力をアップすれば、次は勝てる」と付け加えた。その後、学業の方が忙しくなり、道場に通えなくなった。

現実は、強い相手と戦えば、勝つ事は困難だ。しかし、身体全体で緊張や痛さなどを体感する事には、科学的な効用が見込めると思っている(脳科学などの領域?)。もちろん適度に行えばの話だが。ゆえに、私は息子に空手を続けて欲しかった。

【そこから身体を考えていく】
話を戻せば、私は息子の試合を見て以来、「試合をいかに体験してもらうか」また「空手をいかにして続けてもらうか」が重要なテーマになっている。

しかしながら、試合に勝つ事だけに意味を見出すようなあり方ではない。空手を通じた、様々な体験の中に貴重な意味を見出す事である。つまり、身体全体を使う事、身体で感じる事に貴重な意味を見出す事である。さらに、そこから身体を考えていくのである。言い換えれば、体験を掘り下げ、自分を再構築(創造)していく事だ。

【勝った体験よりも負けた体験からの方が、新しい発見がある】
最後に、私は、「勝った体験よりも負けた体験からの方が、新しい発見がある?」という事を伝えたい。その新しい発見は、正しく活かせば、自分を磨き、生きる力になるはずだと考えている。

これ以上は具体的には述べないが、また、負けた事を安易に考えず、しっかり掘り下げていくことだ。また、勝った事を安易に理解しない方が善い。

私は、性急に答えを求める性格だが、物事は、すぐに答えを出さない方が善いと思っている(もちろん、瞬時の判断は重要だが、次元が異なる)。できれば、時間をかけて問い続けていくことが良いと思う。そうすれば、負けたことや失敗の体験が、自分の良さを引き出してくれるのではないかと考えている。さらには、正しく自他と向き合えば、負けない。そして、勝てると思っている。

2015-5-7:一部加筆修正


「増田章の薪割り(まきわり)を考える」〜真っ直ぐとは何か?

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【「増田章の薪割り(まきわり)を考える」~薪割りは楽しい!】

富士山の麓に住むN氏宅へ遊びに行った。
N氏は昨年から山梨県に住み始めている。

その邸宅は、杉の木が生い茂る林の中にある。N氏は社員や友人を招いて、広い庭でよくバーベキューでもてなしている。N氏はバーベキューやストーブに使う薪(まき)を確保するために、家の周りの杉を切り倒し、薪(まき)を確保している。その杉は、N氏の土地の杉ではない。しかし、林の管理になるからと、地主はN氏に杉の伐採を許可しているのだという。

薪(まき)は、まず薪(まき)となる杉の木を切り倒し、さらに、切り倒した杉を薪(まき)用の長さ(丸太)に切断してから、しばらく乾燥させる。

さらに、乾燥させた丸太を、斧で薪用の大きさにする(叩き割る)のが薪割りだ。

私は膝の手術後、まだ松葉杖の状態の時、FKプロジェクトの話でN氏宅を訪問した。
その時、始めて薪割りに挑戦した。膝の術後なので、下半身を思うように使えない。ゆえに数回、試すにとどめた。初めての体験の感想は、「薪割りは難しい」という感じだった。しかし、身体の使い方の研究のため、棒を振っていたので、斧を使った薪割りはとても示唆に富むものだった。それから、半年以上が経った。

【薪割りは楽しい】
今回、薪割りに再挑戦した。私の膝は、まだ完全ではない。しかし、薪割りの中で閃いたことがあった。そのひらめきを確かめたくで、何度も何度も薪割りを行った。気がつくと1時間以上も薪割りをしていた。右手の握力を失うほど、熱中してしまった。「薪割りは楽しい」そんな感じを受けた。

先ほど、ひらめきというと言ったが、大仰だから思いつきと言っておこう。今後、その思いつきを検証してみたい。そんな趣味とも性癖ともつかないことをいつもやっている。しかしながら、私の中ではあらゆることが連係し融合されている感じがする。ここに、その思いつきを記しておく。


【一振りで薪を真っ二つにする】
ここで一つ断っておく。私の薪割りのテーマは、「一振りで薪を真っ二つにすること」である(なるべく太い丸太を)。どのようにしたらそのような薪割りができるかをテーマに、斧を振り下ろした。

始めに考えたポイントは、まず「薪のどこに斧を振り下ろすか①」。次に「どのように斧を振り下ろすか②」であった。

先述したテーマとポイントを念頭に薪割りを行った所、思いついたことを大まかに記したい。

まずは、丸太の中心からわずかだけ、自分よりに斧を当てた方が割れやすいということ。
次に、斧の振り下ろす際は、足腰を安定させ、腕にはあまり力を入れず、体幹の力(しなり)で振り下ろすことである。なぜなら、そのほうが軌道(斧の)がより安定し、斧のヘッドスピードが上がると思うからだ。

【真っ直ぐとは何か?】
さらに細かい点をあげれば、左手は斧の軌道を安定させるために重要だと考えている。正直言えば、私は左手(引き手)の使い方が悪いことを自覚している。この部分を習得するには、もう少し棒を振り続ける必要がある。

次に悩む点があった。それは、斧は丸太に垂直に当てるほうが良いのか少し引くのかということである。物理学的に?は、垂直に当てるのが良いと思うが、わずかだけ引くような感じが良いのかもしれないとも思っている。次回、確かめてみたい。


実は、私は自宅で鏡を見ながら、時々棒を振っている。その際、なるべくゆっくりとまっすぐに振り下ろす練習をしている。まっすぐに棒を振るのはとても難しい。少々脱線するが、私は、「棒振り」によって、そもそも「真っ直ぐとは何か?」を考えさせられた。私の直感では、「真っ直ぐとは自然の理法にかなっていること」である。近い将来、今の仕事が一段落したら、まとめあげたい。

話を戻せば、そのようにすると、下半身と体幹と腕(棒を持つ手)との運動連鎖がより意識される。また、肩関節から手の関節までを含めた腕全体のインナーマッスルの強化になると思っているのだが…。補足を加えれば、私には五十肩の症状があったが、棒振りを行うことで、症状が改善されたように思っている。

もう一つ重要な点がある。右手は、斧と丸太(対象物)が出会った時(ぶつかった時)、なるべく強く締めることができる方が良いのではということだ。もちろん、斧と丸太が出会う瞬間だけだ。長い間、握り続ければ、筋肉が疲弊する。これは空手の突きと共通点があると思う。

あえて言って多くが、薪割りは何回も続けて行う必要がある。1回の薪割りに力を使いすぎれば、すぐに薪割りの精度が落ちていくだろう(空手の突きも同様で、一撃必殺と人は軽く口にするが、一撃で刃こぼれや体力を消耗させることは、私の武道観とは相容れない)。

ゆえに、なるべく腕に力を入れずに、右手のみならず左手を協働させて斧を振り下ろすことが重要だと思った。さらには体幹を仲立ちとする、下半身と腕との協働が、斧の軌道の正確性と加速度アップの可能性を担保するのではないかと考えている。

薪割りについてのメモは、この辺にとどめておくが、斧の他に切り倒した杉の枝や、周辺の低木を処理するのに「鉈(なた)」も使って見た。

【鉈(なた)について】
少しだけ、鉈(なた)について記しておく。鉈を使うのも面白かった。
私は幼い頃、鉈(なた)は下手な使い方をすれば自分の脚などを怪我すると、父に教えられた記憶がある。ゆえに今回、左右に鉈(なた)を振り下ろしながら、鉈(なた)の軌道の先に脚をおかないよう気をつけて使った。

鉈を使ったのは、わずかの時間だったが、刃の当て方、振り下ろし方によって枝の切れ方が違う気がした。時間を作り、再度、研究と鍛錬のために山へ入ろうと思っている。

誤解を恐れずに言えば、私は古典的な武器にも興味があるが、斧や鉈など、実用品を使った武器術を研究したいと考えている。その延長線上に古典的武器の研究がある。私のテーマは普遍性だ。融通無碍の境地だ。

【最後に】
最後に、私は幼いころ、父とよく「たけのこ採り」に山へ行った。私は父の背中を見ながら、竹林や山の中を探索して遊んだ。また、山の斜面を空手の真似をして「三角飛び」や忍者(サスケ)の真似をして、竹林の斜面を上下に速く走って遊んだ(笑)。

N氏とのひと時は、そんな父の背中、父との触れ合いを思い出させるひと時でもあった。また、私は、普段子供の相手をしないダメな父である。だが、娘との思い出ができた。N氏に感謝したい。私は、N氏独特の感性が好きである。N氏は、私のような野暮で面白くもない男を大事にしてくれる。神に感謝したい。私は、N氏の奥方、家族、社員も含めて、N氏が幸運に恵まれるよう、心から祈っている。

自らを戒める〜心に響いた言葉/自戒2015年

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自戒2015年

20年ほど前、岡山で盟友の中川氏と食事をしようとしていた時のこと。お店のトイレで以下のような張り紙と言葉を見つけた。

私はその言葉に感銘を受け、店の主人に頼み、それをコピーさせてもらった。
以来、私の心の中に時々、以下の言葉が鳴り響く。


10年前までは、高田馬場道場のトイレにこの言葉を掲げておいた。
その時、一人の道場生がこの言葉に感銘を受けたと、私に告げた。

その彼が身体を壊し、数年間、私の道場を離れた。彼は入院等の理由で、一時退会しようとした。私は、彼の退会理由が闘病だったこともあり、「何かあったらいつでも電話していいよ」「つながっていよう」と伝え、退会を引きとどめた。実は、私が退会を引き止めるということは、ほとんどない。

数年後、彼は見事に身体を回復させ、道場に戻ってきた。おそらく、彼の心の中にも以下の言葉が鳴り響いていたと思う。また、彼は最近、引退後の夢を語った。彼の夢は、引退後、書道と空手の先生になることらしい(そこに接骨院も加わるかもしれない?彼は真面目な努力家タイプである。書道はすでに准師範の免状を持っているようだ)。

私は彼の夢の実現に微力ながら協力したいと思っている。そのために、空手理論と修練体系の確立などの空手道場の仕事を急いでいる。また、闇雲に組織やネットワークの拡大を図るなど、本末転倒だと思っている。否、私が嫌いなことだ(嫌いなことは長く続かない)。私は質の高いつながりを形成したい。
そのために私は、私にしかできないことを真剣にやる。


そして今、再び自戒したい。
「感謝」「甘えを捨てる」「外から(他者の眼で)物事を観る」「今を懸命に生きる」「格好をつけない」、全て私流の意訳だが、忘れたくない。






勝負を考える!〜将棋・名人戦第4局を考えた

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終盤が面白かったらしい。第73期将棋名人戦、第4局のことである。

勝負は行方八段が141手で投了。これで第73期・将棋名人戦は羽生名人の3勝1敗となった。名人戦は先に4勝したほうが最終的勝利となる。

前にも書いたが、私は行方八段と面識がある。ゆえに行方名人を応援する立場だ。一方の羽生名人も、八王子の将棋教室の出身ということもあって昔からファンのような感覚があった。
ゆえに今回の名人戦は注目していた。しかしながら、私は棋譜や棋士の考えていることなど理解できるほど将棋のことを知っているわけではない。

本日、帰宅後シャワーを浴びてテレビの前に座りチャンネルボタンを押すと、ちょうど名人戦の解説番組を放送していた( 15分ほどの短い番組、NHK・BS)。どうも縁があるようだ(将棋には)…。

番組内容は、終盤の解説のみであった。素人の私にも、対局が稀に見る、激しい終盤の攻防、寄せであったことが理解できた。その様子をボクシングのパッキャオとメイウェザーの試合みたいだと言ったら、ボクシングファンにお叱りを受けるだろうか。あるいは、将棋ファンには噴飯ものだと言われるだろうか。しかし、羽生名人の巧みさが冴え、また行方氏の闘争心には、見るものをうならせるものがあったということは間違いないと思う。

ここで、第4局終盤の私流の解説をボクシングを例に試みたい。第4局の終盤は、双方が巧みな防御技術を駆使しつつ一瞬の隙を衝いて、カウンター(反撃)を仕掛けているようだった。一手間違えれば、ガクッと膝が崩れ、そのままたたみこまれてしまうような終盤の戦いだった。そのような局面を両者一歩も譲らず攻撃をかわし、カウンター(反撃)を仕掛ける。双方、一手間違えば命取りのような厳しい寄せの応酬だった。また両者の厳しい攻撃と鉄壁の防御の応酬、その凄まじい闘争心は格闘技以上だった。さらに言えば、生方氏の針の穴を通すような「応じ(増田流の概念でディフェンス&カウンターのこと)」の一手は、絶妙だったように思う。しかし、その応じを見事に躱す、羽生名人の将棋の上手さが光った。

正直言えば、素人の私でもわかる展開というのは、果たしてレベルが高いのかどうかはわからない。また、将棋もまともに指せない私が偉そうに解説していることを大目に見て欲しい。色々と物事の本質を考え、それを書き記すブログは、私の趣味であり、精神安定剤を服用するようなことなのだ。

しかしながら、行方八段と羽生名人の対局は、本当に面白かったのではないかと思う。また、この対局は序盤、行方八段の方が攻勢だったようだ。それを羽生名人が防御巧みにしのいだという感じか(私は序盤の棋譜を見ていない)。さらに終盤も棋譜を見直せば、行方八段に勝機があったかもしれないと解説者がいうほど、接戦だったようだ(私はテレビで終盤の解説をみた)。

最後に、羽生名人がもう一勝すれば名人戦は終わる。

私の直観だが、終盤終始、守勢に回った羽生名人は、この対局を楽しんでいたのではないだろうか。一方、行方八段には攻め手が見つからなかったという後悔の念があるのではないだろうか。しかし、周りは行方八段の闘志に感動していたのではないかと想像している。また、今回の名人戦は、色々な面で面白い勝負になっているようだ。

7番勝負の第4局、1勝3敗の行方八段は崖っぷちに立たされた?否、私はこれからがが勝負だと考えたい。相手が崖に突き落とそうと、急ぐところを、逆に崖から突き落とせば良いのだ。そのように言えば、その道の達人達の勝負を「矮小化しすぎだ」とのそしりを免れないだろうか。

とにかく、私は行方八段を応援する。しかし、僭越ながら、勝負として考えるならば、相手に将棋を楽しませるようではいけないと思う。勝負師は相手をびびらせ、不安にさせなければならない。また、時には逆に相手を調子づかせるのもありだ。つまり、相手を欺き、騙し、同時に自分はそれを楽しむようでなければならない。私はだめ勝負師であるが…。

追記
後で新聞を読むと、この序盤は、羽生名人が積極的に攻撃を仕掛け、行方八段がそれに応じる形だったらしい(私は終盤の解説のみを聞いた)。また、生方氏が優位に進めていた対局のようだ。
残念だ。しかしながら、羽生名人が行方八段という好敵手と相対し、将棋を楽しんでいるのだと、私は確信している。


追?追記?
パッキャオVSメイウェザーのボクシング、羽生VS生方の将棋、その戦いに内在する創造性と普遍性。そんな戦いができる空手武道・競技を創りたいと私は夢見た…。また、そんな競技・勝負をしてみたかった。高い身体能力と闘志があったときに…。私が空手家でいる間、そのような意識が念頭からなくなることはないだろう。しかしながら、そんな空手競技は、まだない…。しかしながら、そのような創造性と普遍性は、競技(ゲーム性がなければ生まれてこない)でなければ生まれてこないとも言っておく。もちろん、競技だけが空手の全てではないことを理解した上で…。





コーヒーを飲んで!

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【コーヒーを飲んで!】

さあ、コーヒーを飲んで仕事をするぞ!

仕事と言っても、生活用品のみならず、たくさん溜まった書類や書籍の整理だ。

「断捨離、断捨離」と、呪文のようにつぶやいている。

私は今、本当に大事なものを明確にしていきたいと考えている。また我が空手道の完成に向けた仕事以外は極力さけたい。なぜなら、劣化する身体のケアに時間を取られる(毎日)。また理想が高いので、勉強をし続けなければならないのだ。

悩みの種は、周りが私の理想を理解できないことである。それは当然のことだ。一人ひとりに体験による情報量の差や感情的?好悪などの違いがある。また自分一人で生きているわけではない。ゆえに私の仕事は2つある。それは周りのレベルに合わせた仕事を徹底することと理想に挑戦することである。


周りのレベルに合わせた仕事とは、家族と協力し、良き家庭を築いていくようなことに例えられる。また、親として子供を育てるようなことである。そのような仕事は、好む好まざるに関わらず、責任を持ってやり遂げなければならない(家庭を持ったからは…)。

一方、理想への挑戦は、自己の内側から湧き上がってくる、理想を形にし、前人未到の境地を切り開くことである。それは、大いなる魂と共鳴し、自己の精神を解放することでもある。

平たく言えば、自己の内的世界を文学作品や芸術作品の創作に託すこと。また世界最高峰の山の頂に登るようなことか。私が極真空手の選手の時がそうだった(周りはそんな感じではなかったが…)。しかし、今は目標とする山が変わったということである。

そんな目標、挑戦を共有する者が大勢いるはずがない。ゆえに私は常に孤独だ。
時々、私の志に協力したいと人が訪ねてくる。だが、その中には詐欺師もいた。私はその人たちが好きだ。詐欺師も嫌いにはなれない…(愚かな男だな俺は)。しかし、もう阿保面で無駄な時間を過ごすような余裕はない。

断捨離だ…。

追記
昨日は秋吉と伝統型の教本の映像撮影を行った。秋吉も疲れただろうが、考えてみれば、その時間は師弟の稽古の時間でもある。我々二人は、まだまだ未熟だが、未熟であっても未完成であっても、前へ進むことが大事だ。もちろん、時には退くことも必要かもしれない。しかし、私の目標はほぼ固まっている。後はなるべく周りの理解を得たい。撮影後、すぐに映像をまとめ編集の方へ回した。。




夢への挑戦!〜空手に特化したクラウドファンディングサイト、フリードがオープン!

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空手に特化したクラウドファンディングサイト、フリードがオープン!


私の友人が様々な夢を持っている空手家を支援するサイトを立ち上げました。
私も数年前にFKプロジェクトを立ち上げましたが、大変な苦労をしました。また、現在も悪戦苦闘中です。しかしながら、夢を描き挑戦するという体験には、通常では得られない、貴重な気づきがあると思います。

誤解を恐れずに言えば、プロジェクトが成功しても失敗に終わっても、それは挑戦(人生)の負けを意味しません。挑戦者はすでに勝っているのです。

私は今後、友人が製作したこのサイトをコメンテーターとして応援します。また自身のプロジェクトを立ち上げるかもしれません。さらに夢に挑戦するあらゆる年齢、性別の空手家達をこのサイトと共に応援したいと考えています。

また近い将来、すべての空手家が家族だということを実感できるようになればと思っています。是非、皆さんこのサイトに注目し活用してください。


▼フリードホームページ
http://fd-freed.net/?p=1845
現在プロジェクト起案を行い、支援を募る方を募集しています。


【フリードの理念~増田 章】
心の中に芽生えた小さな夢・思い。
人は、その夢・思いを実現するための第一歩を進めます。

夢・思いを実現するための道。
失敗による失望。
他者からの嘲笑。また無視。
夢と現実のギャップ。
資金不足。

夢・思いを実現するには、多くの困難が立ち塞がります。
それでも夢を実現する人。
そんな人には共通点があります。
それは、支援者との巡り合いです。
そのような支援者との出会い、幸運に巡りあった人が、夢を諦めることなく実現します。

今、様々な困難と向き合いながらも夢を持つ人たちがいます。
その様々な困難の中で最も深刻なものが資金不足でしょう。

今、夢の実現に向けて頑張る人たちへ、ほんのすこしの気持ちを届けてみませんか。

その少しの気持ちが大きな力になります。またそれは、資金的な支援のみならず、夢の実現に立ち向かう心の支えとなるはずです。

皆さんが、空手に夢を持つ者の志に共感するならば…。
その夢を少しでも支えたいと思うならば…。

フリードでは、みなさんの夢を募集します。
フリードで夢を語りあう仲間を集めましょう。
フリードは、そんな夢を持つ人たちを資金的に支援するため仕組みです。







癌を考える

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道場生から写真が届いた。私の誕生日の御祝いをしてくれたらしい。みんなありがとう。さて、本日は岡山へ向かう新幹線の中、ホテルで末期の癌について考えてみた。


【癌を考える】

昨日、俳優の今井さんの訃報をTVで見た。54歳という年齢は、私とほとんど変わらない。
長年にわたり継続されてきたライフワーク的公演の準備中に病状が悪化したようだ。また、今井さんは本当の病状を最後の最後まで周りには知らせず、頑張ったように見える。亡くなる直前の映像からは、その無念さが痛々しいほど伝わってきた。また驚異的な責任感があればこその映像だとも思った。さらに末期の癌に対する今井さんは、最後の最後まで自分の責任を全うしつつ役者としても人間としても見事に散っていったように見える。


同時に、私や私の身内が、もし今井さん同様の状況だったらどのようにしただろうかと、考えざるをえない。

実は私の母も十数年前に癌で亡くなった。末期の癌およびその抗がん剤治療は、想像を絶するぐらい辛く、大変なものらしい。私の母も大変に苦しんで息絶えた。亡くなったのは、ちょうど極真会の分裂騒ぎの真っ只中だった。亡くなる直前は、運良くベットのそばにいることができた。しかし、私は母の闘病の姿をあまり見ていない。なぜなら、私は母と遠く離れた東京で生活していたからだ。私は母の看病を妹に任せていた。そのことにとても悔悟の念がある。人間として大事なことを忘れているんじゃないかと…。

母が癌で亡くなる前のことである。金沢に住む母は、東京に住む私に電話をかけてきた。

「お母さんはもう死ぬかもしれない…」「アキラ、助けて、助けて…」と受話器の向こうで泣いていた。母は99パーセント死ぬとわかっていたのに、生きている今にすがっていたのだと思う。また、息子の声を聞きたかったのだと思う。私は母に「大丈夫だよ、近いうちに会いに行くよ」「頑張って」と電話口で言うのが精いっぱいだった。

今でもその光景を忘れないが、仕事一筋で不器用な私の母は、夜遅く仕事を終えると、私とよく話をした。内容はよく覚えていない。母は私の話に合わせていたと思うので、人生論的なものだったと思う。私の父はそんな話を好まない。母もそんな話が好きだったかどうかはわからないが、よく話をした。祖母も私と話をしたがった。私はいつも調子に乗り話し込んだ。

母とはそんな感じの関係だったが、私は思春期の頃、父母に大変苦労をさせた。しかし、空手に全てを賭けて練習する私の姿を見て、母は安心し、同時に私との信頼感、そして母親としての自信を取り戻していったのだと思う(極真空手に感謝…)。

私には、「もっと母に会いに行って励ましたかった」「いつも近くにいたかった」という思いが強くある。やはり、家族とは近くにいるべきだとも思っている。

それ以来、私は亡くなる人を知るたびに亡き母のことを思い出す。
同時に、「なぜ、もっと会いにいけなかったのだろう」「なぜ、元気づけることが出来なかったのだろう」と愚かにも悔悟の念が湧いてくる。同時に、自分の不甲斐なさに苛立つ。あれから、早くも数十年の歳月が経った。光陰矢の如し、本当に月日のたつのは早い。後悔ばかりの数十年のだった。もちろん、その時その時で精一杯やったつもりだが、もっと深く考え、行動することができればと思っている。今回の今井さんの訃報を聞き、私は思った。これからは考えや行動を改めたい。また、後悔しない生き方をしたい(もっと変人になるかもしれないが…)。


さて、末期の癌への対応の仕方だが、延命をはかる医療ではなく、例え生きる時間が減るとしても、痛みや苦しみから自分を解放させる医療があるように思う。実際、そのような医療の話を聞いた。私は、そのような医療の本質を、「 人間として優しい気持ちで死なせること」と考えている。もちろん、治癒する可能性が高い場合は、そのような医療を試みることはいうまでもない。私が考えているのは、明らかに末期の場合だ。

私は、我々人間は、死というものに対して無力だと思っている。つまり、正確な予測が不可能でかつ制御不能であるということである。しかし、もし死という状況がある程度、予測できるのならば、私はこう考える。「なるべく優しい気持ちで死なせてあげること」また、「なるべく優しい気持ちで死ぬこと」が、人間とその社会の理想にかなっていると。ただし、その人がやれることは全てやっての上だ。勿論、やれること、やったことには個体差があるだろう。しかし、それは許容しようではないか。その個体差による神からの享受は、人間である間に得ているはずだから(良いことも悪いことも関係なく)。

私は今、自分のやれることを絞り込みたい。そうすることで、短い時間を有効に使える。また、有限な才能(乏しい才能)や時間が、思いを絞り込むことで、ある意味、無限にひらかれるのではないかと考えている。 また、それが人生の自由自在の扉を開けると思うのである

最後に、そのように考えていくと、死に方で辛いのは、受け入れる間もなく、強制的、暴力的な 力によって死を迎えることだろう。 言い換えれば、生命の自由を暴力的に奪わることだ。

癌で死ぬということは、そのような死なのだろうか?それとも…。





日誌6月7日

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日誌6月7日

脚が限界だ。手術をした脚がうっ血し膝が痛い。
これは膝の手術だけが原因ではないだろう。おそらく、2年前に手術をした静脈瘤の抜去手術の影響だと思う。下肢がしびれてくる。

そんな脚の状態にも関わらず、ここ数日の間、PCとにらめっこしていた。
計算してみると50時間以上の作業になる。大げさではなく、狂っている…。
いや、馬鹿者だ。

その内、25時間は無駄、失敗だったかもしれない。しかし、全て無駄ではない。また失敗をしたおかげで気づいたこともある。そう思わなければやってられない。

正直言えば、さらに失敗を重ねる可能性もある。今日は終了としよう。脚が限界だ。

今、全仏オープンのTVを流しながら、ブログを書いている。

実は、テニスには興味のなかった私だが、錦織の活躍で好きになった。
錦織は、あの細いからだでよく世界の強豪と戦っていると思う(僕は錦織ファンです。少しミーハーかな…)。


僭越ながら、錦織の類稀な技術の力であろう。その技術の土台は、持久力と対応力のように思う。対応力とは我が武道で言えば、「応じ」の力である。

応じの力を平たく言えば、相手の攻撃になるべく早く反応し、それを防御し反撃することだ。補足を加えれば、反撃は相手の予測を許さないことだ。

私は武術の攻防をチェスや将棋になぞらえるが、テニスはまさしくチェスや将棋だ。野球やサッカー、他のスポーツにもそのような要素がある。しかし、我が武道にその要素が見られないのはなぜだろうと思っている。ブラジリアン柔術などには、そのような要素があると思う。しかし、なぜ我が武道にはないのだろうか?

「スポーツにあって武道にない?」「それは武道だからだ」
私はそんな考えを論破したいが、それもバカバカしい。
「武術はルールがないから」「テニスや将棋は相手に直接接触しないから…」
何を言うか。ルールの本質がわかって言っているのか。そもそも、ルールがなかったら、何も考えられない。人間存在もないかもしれないのに…。

以前から私は、格闘技も武術も究極はコミュニケーションだと直感的に考えている。
その本質は、他者の力を吸収(利用)し、自己を創造していくことだと言っても良い。
だからこそ、他者の存在を尊重することが武術には必要なのだ。
その部分を社会的に応用していくと武道になる。

さて、早くその考えをまとめたいが、考証と書きおろしには、もう少し余裕が必要だ。

そして、我が武道の抜本的な改革が必要だ。おそらく、みんなからは疎んじられると思うが、どうしてもやらなければならない。このままでは自分が納得できないから…。

脚を休めるために、昼に近くの公園に行った。そこでおにぎりを食べた。
風が気持ち良かった。サッカーの試合があるせいで、本日は駐車場が有料だった。おかげで人が少ないのだろう。

新聞を広げて読んだ。30分でもそんな時間があるだけ良い。でも、ゆっくりと本を読む日が欲しいなあ…。

追記
人が大勢いるところは好きではないので、観戦はあまりしないが、私は野球やサッカーなど駆け引きがあるスポーツが好きだ。もちろん将棋も好きだ(できないが)。
また、テニスの全仏はすばらしい(おそらくウィンブルドンなども同じだと思う)。ファンの数のみならず、その質の高さや雰囲気の良さを感じる。空手の試合もそうあって欲しいが…。残念ながら、笑止、誇大妄想的な望みだろう。






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6月7日の日誌の補足

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アメンバー限定公開記事です。


BMSをつくる〜日誌/「応じ」の理合

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私は今、インターネットを使って、これまで稽古をしてきた武道、空手、格闘技の技と理論を体系化し、弟子たちに伝える準備をしています。岡山出張の前から今日まで、気が狂いそうになる瞬間もありましたが、ひらめきを得ました。

「私の空手はまだまだ未熟だが、3分の一も表現できていないし伝えられていない」
「私は自分の空手をさらに高めるために自分の分身をつくろう」
「大きな組織はいらない」「質の高い組織が必要だ」などと思いながら頑張る毎日です。

ただし、自分の分身と言っても、私のコピーという意味ではなく、私の志を繋いでいける同志という意味です。
また、大きな組織はいらないと言っても、質を高めるには、ある程度以上の組織力(体力)が必要です。また、外部から広く、優れた情報や組織を構成する人材などが得られなければ、ある一定以上の組織力の確保は難しいでしょう。また、昔から「一子相伝」と言いいますが、それでは組織の存続は難しい。また、バックアップ?をしっかりとっておかないと大変なことになる。

まずは、道場設立の原点に立ち還り、もっと私の考えをわかりやすく丁寧に伝えたいと思います(けれど、もう妥協はしません)。それが、時間を最大限に生かす方法だと信じています。そのためには、舌から血がにじむほど、我慢をし、耐えなければならないでしょう(特に父譲りの私の性格では…)。「一に我慢、二に我慢。三、四は辛抱」です。

また機械音痴の私ですが、少しはPCが使えるようになりました。しかし、まだ幾つかのPC関係のソフトの使い方を覚えなければなりません。

「無駄なことをするな」と友人や父の声が聞こえます。でも自分でやらなければならないのです。
それが一番早い。

仮の名称ですが、IBMA-武道人学院(BMS)です。インターネットに私の稽古してきた技の動画、解説、理論を全て記録していきます。それを道場生がPCのみならず、スマートフォンやタブレットで自由に閲覧し、武道空手の自習(予習、復習)をするのです。完成には数年かかるかもしれません。まずは、初心者が武道空手を学ぶのに役立つ内容にします。また同時並行的に難しい技も挿入します。早くしないと身体が動かなくなるからです。急がなければなりません。まずは分類法の考案と台割が急務です。実は、これまでもなんども構想を練ったことがあります。ゆえに大体できてはいるのですが、私には分類のセンスがないのです。

おそらく、生物学や言語学などの研究をしている一流の人が私の考えを理解できたら良い指導をしてもらえると思うのですが、私はアカデミックな社会につながりがありません(とても残念です)。ゆえに、ほとんどを自力でやらなければならないので、とてつもなく大変です。ゆえに自分の稽古と身体のケアを、めんどくさくても、しんどくても続けなければなりません。

それでも、実は少しだけワクワクしているんです(いつもの一時的な妄想かもしれませんが)。なぜなら、サイトに様々なコンテンツがそれなりに装飾を施され、整理されて陳列されたら…。
まだ会ったこともない仲間が現れるかもしれない…。なんて考えているんです。馬鹿だな(しかし、もう詐欺師はごめんです。金やうまみをぶら下げてくる人間はもう相手にしません…大丈夫かな~おめでたい男だからな~)。

また愛するわが道場生に私の人生をかけた武道哲学を伝えられることに期待があります。正直、今は伝わっていないと思います。私の期待が絶望に変わるかもしれませんが必ず伝えます。執念で…(笑)。愛しているから。

さて、以下はBMSのサイトページの挿入文です。どんどん挿入していきます。また、これまでの論文も整理してBMSのサイトに収めます。これで、どこにどんなものがあるか自分でも忘れないですみます。また加筆修正もし易いです。毎日、遺言状の更新をするようなものです(笑~笑えないか…)。



【応じの理合】

応じとは相手の攻撃技の効力を弱体化(防御)し、間髪を入れずに最大の効力を発揮する攻撃(反撃)を行うことです。応じの本質は「後の先」とも言い換えられます。

また「応じ(Ouji)」の本質は、相手の動きにより善く対応することです。我々は、相手と対峙する際、応じの意識を持つことで、相手をしっかりと観る習慣のみならず、自己と向き合う習慣が身につくと考えます。さらに相手の力や技を利用することで、技術を無限に応用、発展させていきます。

BMSでは、「応じ(Ouji)」を習得するための稽古方法として、組手型(約束組手)を行います。組手-型(約束組手)とは、2人1組で予め相手とかける技を決めておき、実際に攻撃、防御、反撃を行う稽古方法です。組手-型の稽古は、危険な武道空手の技を安全に稽古することができます。同時に繰り返し稽古することで、体力がない人や不器用な人でも、難しい技を体得する可能性がひらかれていきます。また相手と技を出し合う組手稽古において、防御法を知らなければ、恐怖心が先立ち、必ず力が入り、自分も相手にも怪我を負わせる可能性が高まります。

BMS(IBMA-BudoManSchool)では、武道空手の稽古の際、怪我防止という面のみならず、技の上達のためにも、「応じ(Ouji)」の理合を重視します。

また、自由組手(自由に技を出し合う実践的な稽古)の稽古の際には、勝ち負けという意識を持たないようにしてください。あくまでも組手稽古の基本的な心構えとして、「相手の技がよく見えるか」「応じ(Ouji)の力が身についたかどうか」という意識を重要にしてください。

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応じについて 草稿

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よりレベルの高い黒帯を育成したい。また武道人を育成したい。しかし…。
私は1秒でも早く、その目標実現のための実践プログラム(稽古カリキュラム)と一体化した理論を構築しなければならないと考えている。

しかし理想を追求するのは辛い。なぜなら道場性を満足させるには、私の理想は時に邪魔のような気がするのだ。では道場生を満足させるという理想をもてば良いではないかと言われると思うが、その通りだ。私はそのようにするつもりだ。しかし、そのためにはどうしてもより高度な抽象化とシステム作りが必要なのだ。

私は非力だが、もう少し頑張ってみたい。私の考えていることを整理するのにめどがついた。大体、500時間だ(サイト1ページにつき1、5~2時間を目安として)。それをアイディアで半分の時間で済ませたい(無理かな…焦らないほうが良いかも)。

以下は加筆修正した草稿である。まだまだ他の理論を書き足していくつもりだ。現段階では、今の道場性には難しいと思う。しかし、まずは自分の頭の中の整理をしたいのだ。その上で、易しく表現したページも制作しようと思っている(でも本来、高度な感覚を理論化、抽象化しているのだから、一般人には難しいのは当然なのだが…つまり高度な感覚がわかれば一般人ではない)。

私がこのようなブログをアップしているのは、黒帯の有志に協力と理解を仰ぎたいからだ。また空手に対するとてつもなく高い理想を持っているのが増田章だ。その気概を捨てるのなら、もう消えようと思っている(もちろん責任を果たしてから)。


【応じについて】

応じとは「相手の攻撃技の効力を弱体化し、間髪を入れずに最大の効力を発揮する反撃を行うこと(優位性の創出と把持)」です。

ただし、応じとは「後の先」とも言い換えられます。要するに、応じとは単なる防御ではなく攻撃なのです。また高いレベルの応じには、相手の攻撃を未然に察知する力も必要です。さらに応じには位置取り、機会、高度な防御技と攻撃技との連携など状勢の支配力(転じ)が必要です。

初伝のレベル(初段から二段)では、相手の攻撃を受けてから反撃する、受け返し(デイフェンス&カウンター)かできないかもしれません。しかし中伝のレベル(三段から四段)では、相手の攻撃を防御しながら相手を崩す。同時に崩れたところを攻撃する、「応じ」を目指してください。応じはよりレベルの高いデイフェンス&カウンターです。

さらに奥伝のレベルでは、相手の攻撃を防ぎながら攻撃する、交差法(クロスカウンター)の応じを学びます。しかしながら、「相手の動きに未然に感応し、その動きを制していく」また「相手の動きと一体化し、争うことのない状態を保つこと」が奥伝の応じの目指すところです。

簡単に言ってしまえば、「応じ(Ouji)」の本質は、相手の動きにより善く対応することです。我々は、相手と対峙する際、応じの意識を持つことで、相手をしっかりと観る習慣のみならず、自己と向き合う習慣が身につくと考えます。さらに相手の力や技を利用することで、技術を無限に応用、発展させていきます。

我々は応じを体得するために組手稽古を重視します。しかしながら、組手稽古は単なる勝負を競う手段ではありません。あくまでも相手の動きに対応する心身のセンサーとそれにより良く対応する心身のプログラムを構築するための手段です。ゆえに組手競技の勝敗に拘泥することなく、組手-型の稽古を通じ、正しい理合の体得を目指します。つまり稽古で重要なのは、合理的かつ普遍的な心身の働き・動きを体得することです。

※組手-型(約束組手)とは、2人1組で予め相手とかける技を決めておき、実際に攻撃、防御、反撃を行う稽古方法です。組手型の稽古は、危険な武道空手の技を安全に稽古することができます。同時に繰り返し稽古することで、体力がない人や不器用な人でも、難しい技を体得する可能性がひらかれていきます。また相手と技を出し合う組手稽古において、防御法を知らなければ、恐怖心が先立ち、必ず力が入り、自分も相手にも怪我を負わせる可能性が高まります。

BMS(IBMA-BudoManSchool)では、武道空手の稽古の際、怪我防止という面のみならず、技の上達のためにも、「応じ(Ouji)」の理合を重視します。

また、自由組手(自由に技を出し合う実践的な稽古)の稽古の際には、勝ち負けという意識を持たないようにしてください。あくまでも組手稽古の基本的な心構えとして、「相手の技がよく見えるか」「応じ(Ouji)の力が身についたかどうか」という意識を重要にしてください。

組手技とは

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製作中のBMSの草稿です。
まだまだ仕事が山積し息苦しいです。茶帯、黒帯の人に目を通していただきたいと思い、推敲せずにアップしました。



組手技の稽古

【組手技とは】
組手技とは大掴みに言えば、相手と組手を行うための技です。
しかしながら、BMSにおける組手稽古の目的は、技の優劣、勝敗を競うことではありません。相手との技の受け取り合いを通じ、技の本質をつかみ、技の体得と創出を目指すということです。さらに言えば、技の体得と創出を目指す過程において自己の能力を向上させることなのです。

【自己の能力を向上させる】
自己の能力を向上させるためには体験が重要です。しかしながら、ただ体験するだけではなく、技(行動)の目的を意識した体験が必要です。言い換えれば、ゴールを明確にし、そこに達するルート(手段)選択の精度をあげていくことです。同時にルート選択後の修正能力(バランス調整能力)を高めることです。そのためには、自己の行動を吟味し、同時に行動結果からのフィードバックを大切にすることです。

具体的には、組手稽古による自己(心身)からの発信・指令を吟味します。言い換えれば、フィードフォワード制御を吟味することです。同時に他者や心身(自己)からの返信・受信を吟味します。言い換えれば、フィードバック制御を吟味することです。そのような吟味を通じ、自己内部に構築された広義のコミュニケーションプログラムや回路を再構築していく作業がBMSの空手武道の稽古・修練なのです。



鍛錬やコンディショニングについては、組手稽古を行うための自己の基盤・環境を整えること。また技の効力を担保するもの考えてください。

【BMS(武道人学院)の目指す空手武道とは】
さらに言えば、BMSの目指す空手武道とは、組手という他者とのコミュニケーション手段を通じ、自己の心と技を磨くことと言えます。言い換えれば、他者との関わり合いの方法を学ぶこととも言えます。例えれば、言語がそうであるように、空手武道の技も同様なのです。ゆえに、まずは基本を習得し、法則を型から学び、それを応用するという体験が必要です。

最後に、BMSの組手修練は仲間との関わり合いを重視します。また究極的にはコミュニケーション能力の向上を要求するものです。そのコミュニケーション能力の向上のために「応じ」と「転じ」という鍵概念(組手理論)を設定します。


「応じ」とは、ただ一方的に相手を攻撃する行為ではありません。また一方的に防御するものでもありません。もちろん自我の中に閉じるこもるようなことでもありません。
応じとは、相手を受け入れながら、それに対し最善の対応を目指すことです。その核心は「転じ」の概念が指し示すところです。最善の対応は個々人、状況に応じて多様です。しかしながら、最善の対応に内在する普遍的な要素を探求し、最善の対応を為すための心身の基盤をつくるのがBMSの空手武道です。

2015/6/24修正

近況報告と黒帯と黒帯を目指す皆さんへ

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【身体(からだ)があることに喜びと感謝を感じながら…】

いつも私のブログを読んでくださる方に、近況を報告したいと思い、文字を打ち込んでいます。


ここ数週間、インターネットで武道空手を伝えるBMSの制作を急いでおります。
先日、道場生の和田さんに写真の撮影にお手伝いいただきました。和田さんありがとうございました。また、師範代の秋吉もありがとう。

さて、3人の共通する思いは、なんとかして武道空手を学ぶ楽しさ、からだを掘り下げる喜びを空手道を通じて伝えたいということです。同時に仲間と共有したいということです。


そのような思いを込めたBMSの制作は、作業に慣れても1ページに1~1時間半ぐらいかかります。30分ぐらいに短縮したいのですが、私と道具(機械)のスペックの関係上、手間がかかります。

もちろん、BMSの制作以外でやらなければならないこと、その他の諸問題の処理もあります。時間と体力がもっとあれば良いと思う毎日です。正直、しんどいですが、みんなも頑張って生きているのだと、自らを鼓舞し続けています。

以下は、私の道場生向けのメッセージですが、私の空手道に関する考え方のみならず、生き方だと思ってください。仕事が一段落ついたら、またブログをアップします。

お会いしたことのない方もいると思いますが、お互い懸命に生きていきましょう。身体(からだ)があることに喜びと感謝を感じながら…。


【黒帯と黒帯を目指す皆さんへ】

IBMA極真会館では、伝統技の理解と組手技の理解を黒帯(有段者)の必須と考えています。

私は伝統技と組手技は繋がっており、決して別物ではないということ。また空手道からより深い事柄を理解するには、両方のことを掘り下げる必要があると考えています。

さて理解するとはどういうことでしょうか?私が考える理解とは、黒帯自身の体認のみならず、体認したことを他者によりよく伝えられるようになることです。そこには絶対的な到達点はないかもしれません。

また言うまでもなく、自身が経験、体認したことを、言語などで他者に伝えるということは困難です。

しかしながら、先人、先達が探求、体認したことを大切にすることは、今を生きる者にとっても意義のあることだと思います。また、そこに稽古の本質があると思います。さらに、そのような稽古姿勢が、先人に対する報恩であり、自身のみならず斯界を発展させる鍵だとも思っています。

是非、黒帯は後輩の稽古姿勢(心構え)をそのように導く役割があると自覚して欲しいと、私は思っています。


今回の講習会は、これまでの講習会とは枠組みを新たにしています。
また初伝のコースにおいても、数回の講習の受講が必要です。なぜなら、一つ一つの技の意味をより深く理解し、さらにそれらのつながりを理解していく為です。まずは、以下に記載した問いかけや技名に関して、知識があるかどうかを確認してください。その際、BMSを利用することをお勧めします。

BMSはまだ試験運用期間ですが、講習会の予習として活用できるよう制作を進めています。

最後に、私が考える稽古とは、全体から一を、一から全体を受け取り直す作業とも言えます。言い換えれば、一つ一つの技を深く掘り下げ、そこから全体とのつながりを理解すること。そこから一つ一つの技の応用・発展(高次化)をめざすことです。その過程が「道」を目指すということではないかと思っています。

▶︎BMS(武道人学院)


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