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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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不躾ですが…気分が悪い

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【不躾ですが…気分が悪い】

本日は気分が悪い。それは米国大統領選の賭けに破れたからである。賭けというと、不謹慎だが許してほしい。しかし、最後の最後で自分自身の中から「祈り」が湧出してきたので、良かったと思っている(なんのことか意味がわからないかもしれない…御免)。

 

今回の大統領選、理論的かつ直感的には、トランプが勝つと予想していたのに、木村太郎氏と橋下氏が、トランプが勝つと予想していたのを聞いて、私は直前に予想を変更し、トランプ氏にかけるのをやめた(私は世間の予想がトランプ氏に傾いていると早合点すると共にかけるのが嫌になった)。

 

【マスメディアも悪い】

マスメディアも悪い。ヒラリー氏が、こんなにも嫌われているのを報道していない(民主党も解っていない)。もしかすると、マスメディアもヒラリー氏同様、市民が嫌うべき対象、エスタブリッシュメントの一員なのかもしれない(しかし、それを自覚していないところがタチが悪い)。一方、トランプ氏に関しては、視聴率を稼げるからか、まさかアメリカ国民がトランプ氏を選ぶとは思っていなかったのか、取り上げ過ぎである。

 

私はトランプ氏がバカだとは思っていないし、有能だと思ってはいるが、やはり良くない。なぜなら、トランプ氏のような候補者が勝つと、勝つためには、どんなことを言っても良いと思う人が出てくるのではないかという危惧があるからだ(それも言論の自由、そして民主主義??)。

 

ここでは名前は挙げないが、どんなに政策面で良いことを言ったとしても、敵を罵倒したり、人格を貶めるような誹謗中傷を安易にする政治家、人間が私は嫌いだ(それを正直者だと思う者は相当に頭が悪い人間だ…御免)。また、勝てば官軍とばかりに、勝利を優先し、戦いかたを選ばない政治家、人間も嫌いだ。そんな政治家、人間の末路はしれている。

 

【一番心配していること】

私は今回、嫌悪感と共に一番心配していることがある。それは、将来ある若者が、トランプのような勝ち方でも勝ちは勝ちだという、そんな考えを容認していくことだ(もしかすると、これが民主主義の最終形なのだろうか…)。

 

振り返れば、世界中に16億人以上もいるイスラム教徒を、十把一絡げにして罵倒して良いわけがない。人間は同じ部分もあるが、一人ひとり異なる部分もあるはずだ。同じ面を大事にし、かつ、違いも生かしていくのが、これからの人類の方向性だと思う。

 

【グローバル化には賛意と疑義が半々】

また私は、グローバル化には賛意と疑義が半々だ。前提として、グローバル化は好むと好まざるに関わらず、拒めない流れだと思うということだ。もしそうならば、それを受け入れながら、地域の充実を図ることが賢明なあり方だと思う。

 

また、グローバル化の良い面を挙げれば、前時代からの懸念材料である、宗教や文化の違いによる衝突を回避する方法が創発されるかもしれないということだ。あくまで私の予測であり、妄想と言われるかもしれないが。

 

【マスメディアの関係者に言いたい】

蛇足ながら、マスメディアの関係者に言いたい。今回の結果は、マスメディアの人間が、視聴率こそが全てだというが如く行動した結果として、生み出されたことではないのか。

 

また、木村太郎氏に聞いてみたい。「職業的直感ではなく、本当は、民主党とヒラリー氏がいかに嫌われているかを、事前に知っていたんでしょう」と。また、「どうして、米国がそんな状況なのかを、もっと日本の人たちに詳しく伝えないのですか」。さらに「その米国社会の構造的問題、機能不全を伝えるのが、日本の国益に適うジャーナリストの仕事なのではないでしょうか」と。格好をつけて、職業的直感などと言わないで欲しかった(社会問題はもっと真剣に扱うべきだ…先輩に対し生意気御免)。とは言え、多くのジャーナリストがクリントン氏の勝利を予想する中、木村太郎氏だけがトランプ氏の勝利を予想していた(絶対と言っていたように思う)のは、大した眼力である。他のジャーナリストこそ、何をみていたのだというべきであろう。

 

【良い面が出てくる可能性】

だだ、トランプ氏が大統領になり、良い面が出てくる可能性がないとも言い切れないとも思っている(非常に楽観的と言われるかもしれないが)。

例えば、民主党政権の政策にもよくないものもあったと思うからだ。特に中東に対する政策はよくないように思うが…。 それらの政策がトランプ大統領の下で見直されることは、良いことだと思う。それを小池氏同様と言ったら、小池氏は気を悪くするにちがいない。しかし、変化が必要だということは、私の感覚にもある。そういう意味では、トランプ氏支持の米国民の気持ちがわかる気がする。今後、日本国民が気をつけなければいけないのは、自由貿易協定と安全保障関係の政策であろう。

 

政策等に関しては、これ以上は素人なので自信がない。もし、私が職業政治家か国際政治学者であれば、1年間で精査するだろうが(時間がかかり過ぎか)。

 

ともあれ、どんなに悪いと思われる変化も、良いことに転じるきっかけになると思うからだ。あとは冷静に向き合い、対応を熟慮するしかない。

 

しかし、気分が悪い。時間ができたら、資本主義と民主主義について勉強しよいう。そうでないと、納得できない。

【民主主義とは何なのか?】

蛇足だが、今回の大統領選、民主党も状況判断が甘すぎたのではないか。例えば、民主党がヒラリー・クリントン氏以外の候補なら、勝利していたのではないだろうか。一方のトランプ氏も大統領にまさかなれるとは思っていなかったのではないか。自分のビジネスの宣伝になれば良いと割り切っていたのでは?ゆえに大胆に戦えた。言い過ぎか…。楽観的に見れば、これからは大統領らしくなるかもしれない。有能な面もある人のようなので。しかし、真に志のある人間が勝てない民主主義とは、一体何なのか?以上、少し感情的になって書いた。反省…。

 

 

 

 


もし感謝を忘れれば…

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感謝 

 

11月6日、体調が少し良いので、書斎の整理をしていたら、メモ用紙が見つかった。そのメモ用紙には以下の言葉が書き記してあった。

 

「自分を信じ、感謝を忘れないこと」
「絶えず感謝を忘れなければ、八方拡がる」
「もし感謝を忘れれば、八方塞がる」
2001年12月29日に記す。

 

この年、若手起業家の集まりで、同郷の先輩との出会いがあった。
 

先輩といっても初対面である。私は、その人が何をしているのか聞くのを忘れた。
 

異業種交流の場なのに、職種を聞くのを忘れるとは、いつものことながら、ボケボケしている。そもそも、私は人付き合いが苦手だ。そんな私が、極真会が分裂後、独立独歩の道を選択し、これからは色々と学び、そして仲間を増やさなければと懸命だった時期である。

 

その人は金沢の出身で私より3〜4歳年上だったように記憶する。正直、怪しい感じだった。しかし嫌な感じの人ではなかった。むしろ良さそうな人だったが、私はすぐにアンテナが立つ(そのわりには、時々変な人が寄ってくる…特に若い時はそうだった、私のプライベートを知っている人には、お前のどこにどこにアンテナがあるのだと突っ込まれるに違いない)。言い換えれば、気難しく、人付き合いが下手だということだ。連絡先ぐらい聞いておけばよかった。

 

実際、変な人だった。初対面の私に前述の言葉を残し、その会合を一瞬で後にしていた。その後、その人とは二度と会うことはなかった。

 

狐につままれたような感じだった。その人は、同郷のよしみか、私にだけ、そんな言葉を残して去っていった。

 

私は、その通りだと思い、その言葉を忘れないようにと書き記したのだった。しかし、ここ数年、その言葉を忘れていたように思う。これまで感謝は当然の事だと認識している。しかし、感謝とは認識の基本である前に、心身の深奥から湧き上がってくる感覚ではないかと思う。最近、そのような湧き上がる感謝の感覚がなかったかもしれない。

 

いつか修行の旅に出たい。そして、心身の奥底から感謝の感覚が湧くようにしたい。

 

 

 

 

 

増田流・極真空手の中心的概念〜応じ/ 稽古日誌 11月17日

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空手についての雑記です。小難しいけど、掲載しておきます。うざいですね…御免。

 

【増田流・極真空手の中心的概念〜応じ/稽古日誌 11月17日】

 

 

だめだ。

上手く指導できない。

道場生を励まそうと道場に向かったはずなのに・・・。

色帯には優しくできる。しかし、茶帯以上になると・・・。

というのも、上級者が私の最も重要にしている理合を理解していない。

 

私が最も重要にしている理合とは何か?

それは「自他一体」の理合である。

その理合を子供にも解るように平たく表現した時、「応じ」となる。

「応じ」をさらに子供向けに言い換えれば、「受け返し」となる。そのように伝えれば、「ああ受け返しね…」と理解する道場生がほとんどだが、それでは浅すぎて、応じの概念が伝わらない。また、結局は「応じ」のみならず受けも返しの技も身につかないのが落ちである。

 

あえて混乱を招く言い方をすれば、応じを換言すれば、コミュニケーション、すなわち自他への応答と言っても良い。

 

本日の稽古時は、「応じとは相手の攻撃を防御し、間髪を入れずに反撃すること」と、私は道場生に、最低レベル(低い次元の考え方だが基本として認識しなければならないこと)の定義を伝えた。これまで何百回と話し、書いただろうか。それでも残念ながら,伝わらない。短気を起こせば、「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」という気分になる。実際そうしたいが、そこを踏み止まっている。なぜなら、増田が諦めれば、自分が信じた極真空手は単なる幻想、妄想で終わり、今後、どんどん質的低下が進むだろう。断っておくが、私の若い頃の極真空手が素晴らしかったと言いたいのではない。まだまだ、進歩、発展を続けていかなければ、極真空手に人生を賭けた甲斐がないと思うからである。さらに自分の中には、まだ身体で表現できる芸術的な能力があると信じているからだ。しかし、それを未だ表現できていないことの焦りが、心と身体を蝕んでいる。

 

実は、本日の稽古中に伝えた「応じ」の概念には普遍性があると思っている。例えば、ボクシングやレスリング、また柔道などの格闘技、さらにはサッカーやラグビーのボールゲームなどのスポーツまで通底する勝負の理合だと考えている。

 

少し脱線すれば、その理合感覚の萌芽は、勝利のため、非力で未熟な自己を最大限に生かす道を追い求めた過程にあった(詳しくは自著に記した)。私は、自身の仮説を試合を実験として証明しようとした。極真空手という競技とは言えないような特異な実験環境では、現出が困難な感覚であったが・・・。ゆえに極真空手の競技環境では失敗を重ねた。数十年も掛かけて日本一を認めていただいたが、御陰で、仮説が証明されない理由が明確になった。しかし、競技による修練では困難なことを100人組手で試した。その体験で極真空手の競技に足りない感覚が何であるかの確信を得た。しかしながら、それでも不充分である。格闘技術は多様であり、それらすべてに通底する普遍的な感覚を私は探求し続けている。その研究のプロセスにフリースタイル空手プロジェクトがあるが、その意義と成果を得るには、まだ時間が掛かりそうである。

 

「応じ」の話しに戻せば、先日のサッカーの日本対サウジアラビア戦を参照にして欲しい。サッカー評論家たちは、日本のカウンター攻撃が良かったと報じていた。私も見たが、カウンターとは本来反撃のことである。サッカーでいうカウンターとは、まさしく防御から間髪を入れない反撃のことを意味するのだと私は理解する。武道ではそれを応じ技というのだ。そして、さらに高いレベルの応じになると、クロスカウンターということになる。つまり、サッカーでもラグビーでも相手の仕掛け(攻撃)を時にブロックし、時にボールをインターセプト(奪い)、瞬時に相手の死角かつ自己に優位な位置を確保(奪取)しつつ攻撃を加えていくことが、最高の防御法かつ攻撃法なのだ。それをカウンター攻撃といい、応じと言っても良い。アスリート(競技者)は、そのような応じを行うために、フィジカルを鍛え、連携力(組織力・チーム力)を鍛えるのだ。さらに個別の技術(防禦技術・攻撃技術)を磨き、一人ひとりの心眼(予測力・洞察力)を磨くのである。

 

さらに補足を加えれば、そのような応じ(カウンター)の能力を身につけるには、そのような世界認識(大局観と戦略的視点)が必要である。そして、負けるのが嫌いで勝ちたければ、泣きながらでも、その能力を鍛え磨き上げるという意志を持ち、努力を続ける必要がある。

 

さて、私の稽古指導法では、組手稽古の基本を約束組手(組手型)による応じの型の反復から始まる。その基本の型をある程度理解してから組手稽古に入るのが、私の40年以上も続く組手稽古の基本形である。

 

約束組手は、長年の組手経験と研究で、100種以上あるが、本当にしっかりとやらなければと思う約束組手は数十種であろう。しかも、重要なのはその型の全体的な形(動き)では無くて、その動きを支えているような見えない技を体得する事である。その部分を認識する事が一番難しい。残念ながら、そこを認識している人間は一人もいないのではないかと思える位だが。

 

道場生は、約束組手であらかじめ、将棋の手筋のようなデータをインプットし、それを素に将棋やチェスのように組手稽古を行う。そしてその組手稽古によって応用変化的なデータべースを蓄積し(今話題の AIのディープラーニングのようなこと?)、かつその活用(判断と選択)の回路、システムのようなものを一人ひとりの身体に構築していくのが、私の組手理論である。また、現時点では秘密だが、実験中の理論と組手法がある。それはこれまでもそうだったが、すぐに真似されるので、伏せておきたい。ただ、その真意は、もう少し実験を重ね、その効果と再現性が保証できるようになったら、発表したいということである。

 

研究と発表のためには、まずは増田道場、研究科の開設だが、それと同時に優秀な生徒(研究者兼被験者)の確保が必要だ。

 

しかしながら、これまでも、蓄積してきたデータベースの10分の1も伝えられていない。その理由は、極真空手の組手法を堅守しなければと考えてきたからだ。また、そうしなければ、道場生が混乱すると考えたからだ。

 

ゆえに、私は独自で稽古するしかない。また、研究と優秀な人材の確保を目指し、なけなしの資金と労力を使い、ボクシングジムの経営までしたことも過去にはあった。その目論見は失敗したが、ボクシングというスポーツは素晴らしいと今でも思っている。また、それによって得られる身体感覚は武術に有用なものだと私は確信している。

 

私の極真空手は、空手の技術に様々な格闘技術を融合させている。だた、それを道場生に伝えるには組手法を変えなければ、困難だという現実に直面している。

 

その現状を打破するために、フリースタイル空手という組手法、スポーツを創出したが、資金不足などの理由により、休止状態である。

 

ただ面白い展開として、伝統空手がオリンピック種目になり、その流れで、フルコンタクト空手団体と伝統派空手団体の協調路線が敷かれた。私は、予てから寸止め空手の組手法とフルコンタクト空手の組手法の併立稽古を行うことが可能だと思っている。さらに僭越だが、少しだけ稽古方法を改良すれば、伝統空手の人気が高まる可能性があるとも思っている。

私は寸止め空手の経験者かつ理解者の立場で、そう考えている。

 

しかしそれには、教科書を作り直し、稽古法を変えなければならないだろう。現在は、伝統的な古い教科書を使い、稽古法は伝統式に増田流のメソッドを加えた改良型稽古法である。しかし、さらに工夫が必要かもしれない。因みに、私が伝統的な稽古を採用するのは、伝統を捨てたくないからである。

 

最後に繰り返すが、「応じ」の究極は、外部の刺激から自己を守ると同時に、その刺激を活用し、自己の最善の反応を引き出すこと。言い換えれば、他者の攻撃を弱体化、無力化、あるいは活用し、自己最高の攻撃を引き出すことである。

 

その概念からすれば、敵を必ずしも傷つけることが最高の攻撃(反撃)とは限らないのだ。敵と自分がお互いを承認し合い、自己を最高の位で浮き立たせること。増田が考える武道空手の究極の哲学がそれだ。

 

今、ものすごく息苦しい。誰も私の世界観を理解していないだろうと思うと。しかし、嘆くのは止そう。全ては妄想である。

 

ただ、私はその妄想が真理かもしれないと思っている。ゆえに、もう少しだと言い聞かせ、研究をしていこうと思っている。空手以外では、私の考える道理が当てはまるのがよくわかる。しかし、空手の世界の人たちはそれを認めない。問題はそこである。

 

 

2016/11/19 一部加筆修整

日誌2016/11/22〜時代の空気について

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日誌2016/11/22〜時代の空気について

 

 

今、テレビ朝日の橋本氏の番組を見ている。私はデーブ・スペクター氏に好感を持った。番組ではスペクター氏のコメントは少ない(遠慮しているのか、編集されているのかもしれない)。しかし、その少ないコメントからスペクター氏の人柄が理解できる。スペクター氏はトランプ氏を嫌悪している。一方の橋本氏や木村氏はトランプ氏を絶賛(に近い)していた。私は、アメリカ人であるが親日家のスペクター氏の考え方をもっと聞きたい。

 

番組では、いつも橋本氏の舌鋒が鋭く、他の人は遠慮しがちだ。おそらく橋本氏と口論になるからであろう。現在、多くの日本人がトランプ氏に歩み寄っている。「長いものに巻かれろ」は日本人の伝統的スタイルだ。もちろん、そのスタイルは悪い面ばかりではない。今回、トランプ氏が大統領になったのだから、仲良くするのは常識的である。国の代表である安倍首相の迅速な行動(訪米)は評価されるものだと思う。しかし、それを支える市民やメディアには、もっと多様な意見があっても良いのではないだろうか。

 

私は反論のための反論は好きではない。ゆえに臆見に基づいた主観論や推測ではなく、もっと事実に基づく論理的な意見が欲しい。勿論、主観的な市民の声も大切だとは思うが・・・。

 

大統領選、私はトランプ氏の当選を予想したが、直前にヒラリー氏を応援した。その感覚はマイケル・ムーア氏に近いかもしれない・・・(当然のことながら、アメリカ国民ではない私はアメリカ民主党支持者ではないが)。

 

現在、日本人はトランプ氏を評価し始めているが、そんなに簡単に掌返しをしても良いものだろうか。繰り返すが、国家を代表し、国の安全保障や貿易協定等、外交のトップである、安倍首相の立場では、次期大統領と仲良くする事は当然だし、その行動が迅速なのは悪いことではないと思う。

 

しかし、橋本氏がトランプ大統領の選出にあわせ、「有権者は馬鹿ではない」と断じ、かつ民主主義を絶賛することに関して、私はいささかの疑義がある。まず橋下氏には、有権者の見識を信頼しているようだが、それはどのような観点から言っているのか聞いてみたい。例えば、日本国の有権者の見識なのか、アメリカの有権者の見識なのか、全ての人達の見識が信頼できると言っているのだろうか。もしそうなら、それは他の国の選挙制度、有権者の中には、そうではない人達もいるということを含意しているのではないだろうか。それとも、民主主義のシステムを信頼しているのだろうか。そのシステムの中で、有権者(この場合、厳密には何を指すのだろうか)の判断は正しいと言っているのだろうか。

 

もし、すべての有権者の見識を信頼しているにしても、システムを信頼していても、またその両方でも、言わずもがなである。有権者は絶えず、情報を吟味し、考え方を修整しなければならない(なぜなら、考え方が全く変わらない人も変だし、変わってばかりの人も変だと思うから)。また、選挙制度も見直さなければならないと思う。ここで、こんなことを書いているのが虚しいが、選挙制度はいつかは変わるに違いない…。

 

正直に言って、私には現在の選挙制度や有権者の見識に疑義がある(自分の見識だって疑わしい…)。

 

現時点での私には、これ以上、民主主義を詳細に論じる知識はないが、その本質はシステムにあると考えている。ゆえに「有権者は時にして馬鹿にもなる」と断じたい。そして、そのような時でも国家として方向性を誤らないよう、かつシステムが機能不全に陥らないよう、システムを修正し続けなければならないと、人生経験上直感するのだ。

 

誤解を恐れずに言えば、我々国民の中には見識のある人ばかりではない。そのような市民によって政治家が選ばれ、その政治家が行政を行ない、その社会構造に問題が無いと思うなら、それは見えてないだけだ。また、何かによってバランスがとられているからで、政治家の力でバランスが維持されているのではないと思う。隣国は今、大統領の問題で大変な事になっている。私は、その問題を大統領一人の問題にしてはならないと考えている。つまり、政治家の問題にするのではなく、国家の統治機能のシステム論の問題、また市民(有権者)一人ひとりの問題、国家観にあると考えている。

 

今、日本人のみならずアメリカ人が、韓国大統領の例を他人事と一蹴しても良いものだろうか。おそらく、日本人は「我々の先人は優秀で、隣国とは違う」と考えていると思う。しかし、韓国のみならず日本や他国にも、組織の統治機能の問題があるはずだ。ただ、それらは真剣に考え、感じる力がなければ解らない事なのだろう。

 

組織の統治機能の見えない劣化や瑕疵が、見える形で現出するのは、明日かもしれないと思っている。また、その見えない問題を見えるようにして行くのがメディアの役割では無いのかと思っている。

 

私がここで危惧するのは、トランプ氏のことではない。日本人の楽観的思考パターンが心配なのだ。もちろんプラス思考は大切ではあるが、余りにも外にも内にも楽観的すぎるのではないだろうか。

 

 

終わり〜気が向いたら、続きを書き記したい。

 

話す時間は3分を超えてはいけない 〜その1

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2017年が始まり、あっという間に1ヶ月が過ぎた。

2016年初めは高田馬場道場の引越し、2017年初めは八王子道場の引越しがあった。毎年慌ただしい年末年始である。

 

私は、いつも変化を繰り返しているようだ。本当は変化したくない。また、早く安定したいと願っているのだが、安定するためにこそ、変化を繰り返さなければならないとも思っている。

 

【経験から得た極意】

さて、「不安定な状態から不安定な状態へと変化し続けながら安定を得る」とは、私が若い頃に好んだスキーと組手を極めたいと夢想し続けた経験から得た極意である。

 

ここでいう不安定な状態から不安定な状態へと変化し続けるとは、バランスを取るためにある状態からある状態への「間」を意識的に制御している状態だと、拙い表現力で記してみたい。その状態(間)は、安定を喪失した状態ではない。だが、安定を絶えず志向している状態である。その絶えず志向している状態を維持、制御している状態のことを安定といい、そのような志向性が制御不可能になった状態が安定を喪失した状態だと、私は考えたい。

 

更に言えば、たとえ安定を喪失したとしても、さらにその先に安定を求める働きが生じるようにも思う。例えば、人が懸命に生きるということも、そのような様相をなしているように思うのだ。つまり、絶えず安定を求めて転ぶが、また起き上がろうとする。逆に言えば、たとえ安定した状態だと思っても、そこに安住しようとすれば、そこは何らかの不均衡をもたらしていく。そんな風にも思うのだ。とはいうものの、そのような営みにも限界があるだろう。

例えば、人間としての終焉がそれである。つまりその状態は、もう人間的に変化できなくなった時である。そんなことを随分前から考えている。

 

同時に、自分のあらゆる認識を経験と思索により、絶えず刷新していくこと。そのような意識が必要ではないかとも考えている。私が自著であらわした 「拓真道」とはそのような生き方である。それは、自分の認識を絶えず変化、刷新していくことと言っても良い。

 

【組手修練会にて】

本日は府中で組手修練会があった。寒風の中、子供から還暦間近の黒帯まで、多くの道場生が集まった。

 

私は当初、組手の修練の指導には、まず理論の共有が必要だと考えていた。しかし・・・。

道場生を思い浮かべてみると、私の組手理論を理解しているものは皆無だ。それは私の責任だろう。理論を伝えきれていない。言い訳をするつもりはないが、フリースタイル空手という新しい競技法を作ることに時間を取られ、基本的な空手の組手法の指導とその指導理論の確立を等閑にしていた。いつものことだが「穴があったら入りたい(ドジな)」ような反省である(いつも金にもならないことを優先している)。しかも、その間にも私の拓真道は進行し、空手家と私の認識との距離が増してきているようにも思う。

 

だからこそ、これまでの空手観と共存できる、新たな次元を開拓しなければと考えている。学問の世界なら徹底的に批判するだろう。それも必要かもしれない。現実、神話的な間違った組手理論が定着している。とにかく、無粋で不器用な私は、自分を偽ることでしか、伝統的かつ幻想的な組手法の世界に、戻ることができないのだ。あえて補足すれば、私の組手法は、現役時代から、既存の世界からはみ出ていたとも言える。ゆえに「世界を刷新しなければ・・・」。それには、より普遍的な事柄を中心に据えることが必要ではないか。そんなテーマを抱えつつ、思索に挑んできた。

 

哲学、歴史、経済、科学、スポーツ、さらに映画などのエンターテインメントまで、あらゆるジャンルにそのヒントを求めた。まだまだ、勉強が足りない。思索も足りない。時間が足りない。目も悪くなった。また脚の具合が悪く、椅子に長時間座ることが辛い。そんな中、一つの刷新があった。それは、脳科学の視点を得たこと。7、8年前から気になっていた、創発という概念が、複雑系の概念であることを知ったこと。数学を全く理解していない私が、数学的な発想をしていること。また、私が幼少の頃から興味があった宗教や哲学の世界が、科学の世界と近づいてきているようだ(もちろんそうでない学派もあるが)。因みに私は、空手に関しても科学的な理論を重視している。私は、様々なジャンルから、新しい学びがないか、探している。ゆえに時間が足りない。賢明な人は、「増田はバカか」

「そんなことは無駄だからすぐにやめろ」というに違いない。しかし、小説家は「何かを書かずにはいられないから書くのである。また、「画家は何かを描かなければいられないから描くのである」。

 

かくいう私は、真を求めずにはいられないから、勉強するのである。とはいうものの、空手を教え、上達させるのが、私の仕事である。そのための前提として、世界(認識の網の目)の共有が必要なのだ。つまり、先述したところの刷新した世界を、道場生に認識させなければ活かしあいと共創のゲームは始まらない。

 

まずは、簡単に組手修練における要点を伝えようと考えてみた。まずは、ノートの以下のように書き記した。

 

 

①    単技を知る

②    単技の使い方を知る

③    防御と反撃の関係性(構造といっても良い)を知る

④    実践・応用とその検証(フイードフォワードとフイードバック)

⑤    多様な組手を知る(ルールの枠を越えた視点を持つ)

 

 

【話す時間は3分を超えてはいけない】

「全然だめだ・・・」「こんなことを話したら、理解させるまでに数時間がすぐにたってしまう」「子供たちはどうするんだ」私の脳裏に、「私が仕切るのはやめて、秋吉に任せようと」いう声が聞こえた。さらに「私がいない方が良い」という声が聞こえてきた。否、正確には、「私は、そこにいないが、そこにいるように意識させることがベスト」という考えだ。しかし、それを実現するにはどうしたら良いか、今はできないと思い直した。

 

私は、進行を師範代に任せようと思っていた。その中、まずは私も組手の輪の加わり、実地に組手の感覚を伝えようと思った。

 

しかし、「だめだ、これでは伝わらない」と直感した。人間は、自分に理解できるものしか理解しない。そして見たいものを予想しながらものを見るようだ。

 

私は、一旦組手の輪を外れ、考えていた。そして、「だめだ、絶対に伝えなければいけない」と直感的に思った。今ここで、このメンバーに私の組手理論を伝えなければ、また1年以上は遅れる(私の目標実現が)とも思った。

しかし、小学生も含む修練会である。「難しいことを言ってはだめだ」「話す時間は3分を超えてはいけない」など、キーワードが脳裏に浮かぶ。私の頭の中に電流が走る。

 

【人間は自分の理解できるものしか理解しない】

「人間は自分の理解できるものしか理解しない」当たり前のことじゃないかと思われるかもしれない。

「だからだめなのだ」と私は言いたい。

ある事物に内包される真理のような事柄を理解するときには、ある事柄とは別の事柄に置き換えたりしたレトリックを用いるのが効果的だと思う。もし、レトリックが的確ならば、人間はある事物を理解する際、自分の知識量が少なくても、直感的に理解する。それは、理論が理性で理解できなくとも、レトリックがイメージを喚起し、そのイメージが理性の代わりに感性の領域に働きかけ、理解したと錯覚させる(感性による理解)からではないかと私は考えている。更に言えば、真理と思われる事柄とは、実際は完全に言語化はできていないのではと思っている(仮に真理と言葉で断定している事柄があったら疑った方が良いようにも思う)。

 

例えば、「不安定の中から安定を得る」「変化の中から不変を掴む」というのもレトリックである。それを真理というには不十分である。しかし、その不十分だが、イメージでしか言い表せないことの中に真理があるようにも思うのだ。

さて話を、組手修練会の方の戻すと、私が伝えたことは簡単であった。

 

「組手の前に3分だけ時間をください」

「みんな、テニスを知らない人」「いない」「そうですか」「では、テニスは相手が打ち込んできたボールを受けて返よね」「そのボールを受けて返すのが組手なんですよ」

「だから、受けるだけでは、相手に点が入ります」

「ただ、ボールを受けて返しても相手コートに入っていなければ、だめです」

「わかりますよね」

「空手も相手の攻撃を受けて、しかも相手に正確に当てなければだめなんです」

「相手を攻撃するだけ」

「それは、壁打ちでもすれば良いんです」

「空手だったらミットやサンドバック練習かな」

「攻撃が効いてないから受けない」

「攻撃のことしか考えない」

「それは組手じゃないんです」

「先生は、空手でもないと思っています」と言ったところで「子供たちに、これは言い過ぎた」と反省した。

「それでは組手再開」。

すぐに反応がでた。多くの道場生が、攻撃だけだったのが、受けて反撃をするようになった。まだ体が動かない人には、声をかけて、技を限定し、受けて反撃をさせた。そして「それだ、上手いぞ」と励ました。

 

しかし、本当は言いたいことが。山ほどあった。私は、「真」を求めずにはいられないのだ。そんな状態であるから、相手とコミュニケーションが取りづらい。生徒を指導するという立場ながら、それではまずいと思っている。ゆえに、いつも自分にダメ出しをし、かつ歯を食いしばって自分の未熟さに耐えている。

 

このままではいけないという思いが、組手メソッドを構想させているのだと思う。その中身は、言葉の使用を極力控え、まずは実践(経験)を主にしたい。ただ、上達には修練の量と質が必要である。

 

その修練には、身体訓練のみならず、修練に関する多角度的な検証を含めた「思索」も含んでいる。

 

ともあれ、言葉をほとんど用いず、というよりレトリックによって、可能な限り単純化して伝えたことで、修練時間の確保(量)と理論の理解(質)が少し向上したようだ。

 

しかし、実はそんな簡単なことではない。その上達の構造を、理論化し、万人に効力のあるものとして確立するには、大変な労力が必要だと感じている。

 

【その先】

本日の指導には、「その先」がある。黒帯のひとりにその先を伝えた。

「テニスでは、フォアで返されたボールをフォアで返す、それがラリーの基本だと思う(テニスのことはテレビで見るだけなので正確には知らない)」。

「それを試合では、相手がフォアで返そうとしているところを、バックハンドでしか打ち返せないところにずらして(時間や空間を)返す」。

「つまり、相手が打ち返せない場所に反撃して得点するんだ」。

さらに

「相手がワンバウンドで打ち返すだろうと思い込んでいるところをボレーで打ち返し、相手の予測を外すことが、得点を得る基本手段となるんだ」。

「僕はそれと同じことを組手でやっているんだよ」と伝えた。

さらに、組手は下手だが、私のよき理解者である黒帯に、本日の感想を聞いた。

 

私はその黒帯に堰を切ったように組手理論を伝えてしまった。30分以上も話しただろうか。大変申し訳ないと思っている(本当はもうやめたい)。その人間には、私の理想をことあるごとに伝えている。しっかりと記憶にとどめて欲しいのだ。

その内容を、少しだけ記せば、「テニスが上手い人と下手な人がプレーすれば、下手な方はすぐに力み、疲れる。上手い人は絶えずリラックスしていて、無駄のない動き、効率の良い動きをするので疲れない」ただし「上手い人同士がプレーする場合、相手の裏を掻くような、心理的、身体的な「崩し合い」をするので、驚異的な身体的動作を必要とする場合があるが・・・」「僕は勝負を目的とする組手から離れ、相手と楽しむ組手を作り上げたい」「それには、組手を行う者が組手技と組手法を構造化できるような修練メソッドを作らなければならないんです」ここが難しい。大げさに聞こえるかもしれないが、特許を取れるような事柄なら、資金を集める。しかし、それは無理であろう。ゆえに家族と道場生を犠牲にしない範囲で、研究に人生を賭すつもりだ。ただし、身体が動かなくなったらやめるかもしれない。誰も付き合ってくれはしないだろうから。

 

その2に続く

 
 
 
 

話は3分を超えてはいけない  〜その2

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前回の続き

 

【ある黒帯に私の理想を語ったとき】

還暦を迎える、ある黒帯に私の理想を語った時のことである。その黒帯が言った。

「還暦を迎えても、年齢を重ねても、相手を痛めつける組手ではなく、相手と共に組手が楽しめるような空手が良い」。

「これからの時代、そんな空手が求められるに違いない」そんな風に言ってくれる、黒帯もいる。私もそう思う。私も老い、やがて人生を終える。しかし、若い人たちも同様の道を行くに違いない。そうだとしたら、老いて行く人がいつまでも身体を楽しみ、老いを含めた人生を、なるべく人の手を煩わせずに、味わっていける可能性を空手によって高めたい。そうなれば、空手の価値は、勝者、強者のためのものに止まらないだろう。そのためにこそ、その価値基準を刷新しなければならない。

 

例えば、私は勝者敗者、強者弱者というような二項対立的な価値ではなく、人生をより長く、深く「味わう」という価値があっても良いと思う。おそらく、「人生の長短や深浅も二項対立的では」と思われるかもしれない。ただ、ここで私が言いたいのは、多様な価値観があっても良いという事だ。当然、夭折された方の人生も悪いとは言わない。また人生を浅く捉えている人を悪いとも言わない。ただ、「味わう」という感覚が大切だということだけは言っておきたい。そこが、先述した二項対立的な価値観と私の価値観を分ける部分である。当然、私の思想や価値観を好まない人がいても良い。

しかし、これだけは提案したい。若い、鍛錬の時期、青年、壮年の責任とストレスの多い時期、それらを終えた人が、老年の時期を積極的に迎え、かつ楽しんで生きることができること。また、そのような可能性を拡げる努力が重要だと思う。

 

更に言えば、そのようなことを社会・国家が担保し、かつ支援する事が、若者に希望を与えることにつなげると思うのである。今後、高齢化時代がピークを迎える。是非とも、各界のリーダーがそのような思想を念頭に置いて欲しい。

 

私は、老年を間近にした、心友でもある黒帯の言葉に確信を得たような気がした。ゆえに、伝統的な空手道を尊重しながらも、新しい概念の空手道を私は創り上げたいと思う。

 

その空手道とは、相手と技術を活かしあい、高め合うような組手メソッドを中心とするものだ。それが拓真道メソッドである。補足すれば、拓真道は空手流派の呼称ではない。

 

さらに言えば、そんなメソッドを、自分の流派以外の空手愛好者にも伝えるのも良いかと思う。一回限りでも良い。それで相手の認識が変われば、斯界の発展につながるかもしれない。ただし、できれば少数、あるいは個人レッスンが良いと思っている。なぜなら、人によって上達の妨げになっているポイントが異なると考えるからだ。補足すれば、私は、組手が下手な人の根本原因は、その人の認識(認知)を繋ぐ全体の一部に生じた何らかの問題だと考えている。言い換えれば、網の目のような認識(認知の)体系全体の部分に生じた歪みが、問題となっているということだ。推測の段階だが、今後の研究課題の一つでもある。


余談だが、修練会を終えて、黒帯に感想を聞いた。
「テニスの例えは理解できた?」
「ええ。わかりやすかったです」
「師範はテニスをやられるのですか?」
「一度、師範とテニスやってみたいです」

私は、「ダメダメ」
「僕はテニスやったことないよ」
「錦織が好きでテレビで見るだけ」
「僕は全てに不器用だから、テニスなんてできないし、やる時間がない」とにべもなく答えた。

酷い先生だ…。

【蛇足ながら】
書かない方が良いと思ったが記しておく。どこかで言わなければならないだろうから。

これまでのフルコンタクト空手の試合や組手の形ではなく、それを言葉に変換し、意味の受け取り直しを試みれば、以下のようになる。
A「どうだこの技は効いただろう」
B「効いてないぞ」
A「では、この技はどうだ」
B「効いてない」
B「俺の技の方が効いているだろう」
A「全然、効いない」

B「お前、もう力が残ってないだろ」
A「まだまだ、お前こそ力が無くなってきてるだろ」
B「俺が強い」「俺が勝った」
A「俺が強い」「俺が勝った」


相手のうまいところが評価されず、打たれ強さやスタミナ、悪しき根性だけが評価される。組手の結果、主観的かつ感情的なしこりだけが残る可能性が大。
こんな空手を誰がやるのか?


拓真道組手メソッドでは

A「この技、どう?」
B「了解、打ち返すよ」
A「では、この技はどう?」
B「やられた」「君、うまいね」
B「今度は、僕の技だ」「どう?受けられるかい」
A 「やられた」「君もうまいね」
A&B「今度もう一回、組手だ」「次回は、もっと上手い技を出すぞ」「楽しみにしておけよ」

こんな風になる。

 
 

高田馬場道場・稽古指導

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高田馬場道場・稽古指導〜増田の近況報告


「気合入れて〜」「いち〜セィ〜」
狭い道場のせいか、気合が道場内に充満、反響していた。心身が引き締まる感じだった。

 

3月25日の土曜日、高田馬場で行われた師範稽古でのことである。

 

今回の高田馬場道場での師範稽古は、稽古後の懇親会も含め、全て黒帯・指導員の本間君の企画であった。懇親会も本間君の奔走でとても楽しい会になり、感謝している。

 

【頑張り屋さん】

思い起こせば、本間君は高校生の時に高田馬場道場に入門した。入門当初から稽古熱心な頑張り屋さんであった。彼は大学卒業後、名の知れた企業に入社。社会人となり、営業の仕事で福島と東京を往復しながら、空手を続けた。数年後、彼は会社を退社し、理学療法士の学校に通った。現在は、理学療法士の資格を取得し、理学療法士として病院に勤務している。おそらく、学資は仕事をしながら貯め、学校に通い、転職したに違いない。本当に頭が下がる。彼は自分の息子ほどの年齢だが、尊敬に値する本当に立派な男だと思っている。当日は、12名ほどの稽古参加だったが、わが道場を支えてくれている指導員のスネイド氏や坡場氏や手嶋氏、鈴木氏などの黒帯たちが集まり稽古の雰囲気づくりに協力してくれた。
 

【手嶋氏の存在】

特に空手歴が30年近くの手嶋氏の存在は、稽古に気を込めてくれた。稽古の中でも伝えたが、私は新しい稽古法を推奨、実践するのみならず、伝統的な稽古も大事にしている。要するに、私の道場の稽古方針は、伝統的な稽古と革新的(増田流)な稽古と車の両輪のごとく併立、機能させていくということだ。

ただ正直に言えば、短い稽古時間では、伝統的な稽古と革新的な稽古の両立は困難である。故に教本の制作と特別稽古や合宿講習会などの企画を検討している。兎に角、現黒帯のさらなる上達は必須である。まずは、一つの車輪である、伝統稽古をしっかりと行うことが重要であろう。次に増田流の稽古法を確立、伝授したい。そういう道場の状況下において、手嶋氏のような伝統的な極真会の雰囲気を有する道場生の存在は貴重だと、私は思っている(しかも飲み会のムードメーカーでもある)。

 

【私の近況】

さて、私の近況として、これまで膝の具合や体調が芳しくなく、リハビリ、調整等に忙しかった。現在は、8割程度の回復状況である。まだまだ悪化する可能性もあるので、もう少しの回復を望んでいる。今後も機能回復に全力を尽くしたい。

 

そんな中、今回の師範稽古&懇親会では、あらためて道場生から勇気をいただいたように思う。今後は、我が道場の黒帯の力を信じ、期待したい。そこから、道は開かれると思っている。

 

【自己の免疫力で治す〜漢方薬の考え方?】

話は変わるようだが、最近、風邪をこじらせ発熱した。病院に行くと、風邪は薬で治すのではなく、自己の免疫力で治すものだと、老年(失礼)の医師に言われた。私は異論があったが、自分の父親のような医師の雰囲気に好感を持ったので、「しょうがない。先生のいうことを聞いてみるか」と頑張った。

 

風邪の症状は長引いたが、その間に前から興味のあった、漢方薬の本のページをめくった。とても興味深く、今後、研究してみたいと思っている。漢方薬の考え方を増田流に意訳すれば、自己の免疫力並び生命力を高めることと、言っても良いと思う。無論、一度読んだだけで、確信はないのだが、「気の流れ」や「血流(血の流れ)」を体の症状(状態)から推測し、それを整えるというようなことだと思うのだが…。よく理解もせずに意訳など、生意気である。ゆえに漢方薬に関しては聞き流していただきたい。あくまで私流の直感的な解釈であり、記憶に自信がないので、もう少し漢方の本を読みたい。

 

現在私は、膝と血圧の不具合があることで、身体について様々な方面の情報を入れるようにしている。例えば、呼吸、姿勢、身体の動かし方、食物の摂取方法、運動と休養のバランスを含む生活リズム等などである。まだまだ勉強不足は否めないので、勉学に努めたい。

 

そうして、空手を通じ、心身に関する考究を続け、道場生の人生に貢献したいと考えている。キーワードは、「心身の調和」だ。増田流の武道では、それを「自他一体」というキーワードに置き換えても良いと考えている。

 

最後に、私の道場には、優秀な人材が少なからずいるようだ。これまで私は、道場生の職業等に興味がなかった(情報としては必要だと思っているが…)。なぜなら、道場では空手道の求道のレベルが大事で、俗(大事ではないという意味ではない)のレベルは道場では関係ないと思っているからだ。

 

私が基準とするのは、ただ求道に対するレベルである(増田武道では)。ゆえに、本当は先輩後輩もないと、私は思っている。とはいえ、私自身の求道レベルが高まったとは言い難い。また、ここ数年間の私は、健康面など、未知の悩みがあり、忙しかった(心を亡くしかけている)。遅れを取り戻すというと語弊があるが、これからは人の力を引き出し、さらにその力を結集し、我が空手道の水準を高めたい。

 

【先師に対する報恩】

また蛇足だが、大山倍達総裁が逝去されてから20年以上が経った。その間、極真会は分裂し、現在も混迷を続けている。他方、私は若い頃の好敵手、松井氏(館長)と和解した。詳細について語るには機会を待ちたいが、善い方向をイメージしている。私は、より多くの心ある極真空手家が和解し、協力し合えば、空手道による、より善い社会的貢献が実現されると考えている。また、それが空手道の社会的価値をより高め、先師に対する報恩となり、同時にみんなのためにもなると思うのだが・・・。

 

もう一つ、稽古後、新宿歌舞伎町の居酒屋(道場生の保護者の経営する居酒屋)で懇親会を行った。高田馬場道場は、駅のホームまで約3〜5分。そこから西武新宿駅まで約3〜5分。さらに、お店まで3〜5分。合計9〜15分ほどで懇親会場へ移動できる(新・高田馬場道場は電車を活用しやすい場所である)。

 

【たまには酒も良いな】

その日は、酒好きの道場生は嬉々として杯を重ねていた。そんな中、お付き合い程度だが、私もビールを少し飲んだ(懇親会で)。私は外では酒を飲まない(下戸(飲めない)体質なのと、外では判断力が鈍るのを避けたいからだ)。家で食前酒を飲むこともあるが、あまり体の具合が良くないので控えている。

 

今回、貸切の居酒屋で、「たまには酒も良いな」「みんな陽気になって…」という気分になった。

 

次は、みんなで温泉に入り、一杯やりたいと思う。

 

憲法記念日に〜交流試合を終えて

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本日、交流試合を無事終えた。実は、交流試合前、水面下で少々思案が必要だった。私は運営を任せている秋吉に、私なりの考えを述べた。その要点は、試合における、「安全性の担保」と「ルールの明確化」であった。

 

私は、極真空手における組手の安全性の確保について、これまでも気を使ってきたつもりだったが、絶対はない。先の栃木県立大田原高校の登山訓練による死亡事故は、厳しい言い方になるが、人災だと思う。

 

初めは、従来通りに試合の枠組みを組んだが、私は前述の2点を考慮し、試案を秋吉に提示した。秋吉は私の考えをすぐに理解し、それを受けて、非常に良い案を迅速に提示してきた。私はすぐにその案を了解した。なぜなら、非常に良い案だったからだ。その対応の結果かどうかは確定できないが、今回の交流試合は怪我も少なく、また重大な事故も起きずに済んだ。

 

その内容については記載しないが、根幹をなすのは、「安全性の担保」と「ルールの明確化」と2つの判断基準をベースに現行ルール(運営方法など)を改善し続けるということである。ここでいう「ルールの明確化」には、選手のみならず、運営スタッフ、保護者等の理解、納得を含めている。

 

あえて言っておくが、現場における組織運営には権威が必要だと思う。換言すれば、組織の中枢に権威という信頼感と合意が形成されていなければ、その組織は烏合の衆のようなもの、大事な時に機能しなくなるのは目に見えている。また、それを何らかの恐怖感によって代替するあり方は、私の理想とするところではない。更に言えば、権威の中枢に鎮座する主催者(主宰者)が、有無を言わさず、ルールを決めるというスタイルは、私の考え、趣味とは合わない。

 

私はいつもイベント中は、皆にIBMAルールの根底にある理念を納得させるために、脳をフル回転させている。そんな中、今日が我が国の憲法記念日だということ思い出していた。朝、新聞にさっと目を通しただけだったが、思うところがあった1日だった。

 

さて、相変わらず大仰な物言いだと思われるだろうが、私は人類における共同体の普遍的かつ理想的な形態は、立憲主義的になると思っている。その要点は、組織の運営方法の原則と同じだと思っている。つまり、構成員の安全を確保しつつも、自らの組織ルールを内側のみならず、外側の人たちにも納得(理解、適合)させるこであると思っている。もちろん、家族や小さな組織においては、立憲主義に対し、批判的な意味合いでの封建主義・家父長主義的なあり方が必然、必要である場合もあるかもしれない。しかし、友好団体等、外部の人たちを加えた、組織運営では、ルールの明確化が必要だと思う。

 

私の主宰する、IBMA、国際武道人育英会の競技ルールにも、前述したような考えを反映させている。補足をくわえれば、「伝統の継承」という柱を加えているということを挙げておきたい。

 

本日は、荻野審判長を頭とする、審判委員会のメンバーには、よく働いていただいた。少しずつではあるが、審判委員(審判資格者)に、私の考えが浸透してきていると信じたい。ただし、運営に一つだけ問題が出た。その責任は私にある。猛省したい。しかし、私に与えられた時間は、そんなに多くないと考えているので急ぎたい。大げさに聞こえると思うが、時間が充分にあるとは、私には、どうしても思えないのだ。難儀な性質だと、自分でも思う。しかし、先師が昇天してから早くも20年以上の歳月が過ぎた。その間、空手界が良くなったとは思えない。とはいえ、僅かだが良くなっていく兆しが見えている。しかしながら、様々な考えがあるに違いない。以上は、あくまで私個人の感覚、考えである。ゆえに、それを人に押し付けず、自らに問い続けたい。

 

最後に、本日は「国民主権」「平和主義」「基本的人権」を3本柱とする「日本国憲法」を記念する日だ。私は交流試合を終え、帰宅する途中、定期購読する朝日新聞以外の数紙を購入した。自宅で各紙に目を通すと、どの紙面も安倍首相の憲法改正案に対する意見で賑わっていた。

 

私はあえて、国民主権はルールの明確化、平和主義は安全性の確保、基本的人権は伝統の継承に置き換えたい。おそらく、基本的人権と伝統の継承とは異なると思われると思う。しかし、我が空手武道の伝統的精神には、基本的人権を尊重する精神が底流にあるのだ。もし、伝統的な極真空手に基本的人権を尊重しない部分があると客観的に見られるようなら、改良すれば良い。

 

ただ、あえて言うが、批判的に捉えられることが多い封建時代、その遺産の一つだと思われる武道、武士道にも、現代社会にも通用する基本的人権尊重の種子があると、私は考えている。補足を加えれば、神・仏・儒の3道と黄老思想をも包摂融合した、我が国の武道、武士道の精神の底流には、基本的人権の尊重の精神があると言いたい。もし、私に資金があれば、学術的に証明したいほどだ。

更に言えば、儒教の教えを重要視した、大山倍逹先生の精神にも、基本的人権尊重の精神があったと、私は思っている。また、その精神が師の唱えた武道精神の底流にあると信じている。

 

 


負け方〜道場生に向けて 

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負け方〜道場生に向けて 

 

【印象的だった道場生】

 5月3日の交流試合において、印象的だった道場生がいる。その道場生は、中学1年生のクラスで体力のある相手に一本負けを喫しながらも、試合終了後の挨拶で、「ありがとうございました」と大きな声で相手と握手をしていた。

 一体、どんな感情が彼の内面に溢れ出ていたのだろうか。私は、一本負けの直後、正々堂々と相手に「ありがとうございました」と礼を尽くすという経験は、彼の人生に必ず、見事な花を咲かせ、果実を実らせると、信じたい。また私は今、そのような経験(学び)を一人ひとりの道場生に持ってもらいたいと思っている。

 実は、私は道場生の交流試合の際、いつも苦心している。それは負けた選手にどのように満足してもらうかということだ。普通に考えれば、負けた者は満足しない。ただ、負け方にも様々あり、1回戦に負けるのと決勝で負けるとので感慨が異なると思う。また、判定で負けるのと1本負けとでも同様である。つまり、試合後の感覚(感慨)は一人ひとり、異なるのが本当だと思う。

 だが、ここで私が考えているのは、多様な感覚を繋げる普遍的な満足感の得方についてである。中には、満足感などいらない。負けると言うことは、不満足感を得ることであり、それに耐え、それを乗り越えることが、試合経験の目的だと言われるかもしれない。私は、そのような考え方も認めつつ、やはりある種の納得感とでも言い換えたら良いような、満足感を得ることが必要ではないかと思うのだ。

【プロの勝負の世界では】

 プロの勝負の世界では、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という。日本の武人、松浦静山の常静子剣談からの教えである。ゆえに勝負に生きる者は、徹底的に敗因を分析し、それを改善に努める。その考え方、対応の仕方は素晴らしいと思うが、我々が抱える、空手道場生は、勝負の世界に生きるものではない。また、空手の世界にそこまで厳しい勝負のルールがあるとは思えない。それでも、勝負の世界の厳しさの僅かでも体験することが、空手を行う意味だとするならば、反論はしない。

【試合体験における意義】

 しかしながら、私は試合体験における意義とは、頭で考えるだけではなく、体で感じること、その経験が全てだと思っている。人間の成長には経験が大事なのだ。言うまでもなく、人間はあらゆることを経験できるわけではない。だが、古今東西の人類のあらゆる経験を文化、文明という大きな樹及び森の果実を得るようにして生きている。つまり、私がここでいう経験とは、一人ひとりが自分の身体と脳を用い、感じ、創り上げていく小さな樹、すなわち自分という樹木の養分(栄養分)としての経験のことである。競技大会では、チャンピオンが至上の勝ちとされているように見えるが、私の主催する小さな競技大会は、一人ひとりが自分という樹を育てるための養分を得られる場としたい。

【子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)】 

 そのような気持ちもあって、交流試合前の挨拶が長くなった。3分以内という私自身のルールを破り、5分ぐらいと長くなった演説(挨拶)では、論語の言葉を引用した。私は、「子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」、「試合の意義は学びを深めること」だと、ぶった。しかし、いかに論語にある言葉の意味喚起作用とその内容が優れていても、その言葉自体、すなわち記号の意味が理解・共有できなければ、ただの雑音にしか聞こえなかったに違いない。

【学びとは】 

 私がこの言葉を使い言いたかったのは、「学び」とは人からの話、書物からの学習のみならず、「何らかのルールを基盤としたコミュニケーションと同義の経験が全て学びである」という定義が前提の上である。論語解釈では、学びとは、知識を得ることとしているが、私は、「学びとは経験のことだ」としたかった。補足すれば、経験の中には偶発的な体験も含まれるが、「何らかの知識を元に行動を選択すること」が含まれている。私はその全体を持って学びと考える。おそらく論語読みからは、勝手に解釈を変えるなと、お叱りを受けるに違いない。

【私の身体に意味喚起されるのは】

 私が論語を読み、私の身体に意味喚起されるのは、「経験がまず大事ではあるが、それを掘り下げ吟味しなければ、近視眼的な人間になる。また、物事について掘り下げ、よく考えても、絶えず自ら経験(何らかの知識を元に行動を自らが選択すること)積み重ね、それと照らし合わせなければ、独善的な人間になる」という意味だ。

【負け方】

 そういう意味で、冒頭に挙げた道場生のような負け方(経験)は、自分という樹に、「思いやりを育む役割を持つ養分」を与えるだろう。そして将来、素晴らし果実を実らせることに活かされるに違いない。一方、勝ちを得たとしても、その経験を深く掘りさげ、その普遍的な部分を活かしていこうとしなければ、自分という樹は決して見事には育たないだろう。また、負けという経験を恐れる生き方は、大切な学びの機会を逃していると言いたい。

【経験、学びを活かせば】

 繰り返すようだが、そのような経験(学び)を一人ひとりの道場生に持ってもらいたいと、私はいつも願っている。そして、勝っても負けても、その経験を善く掘り下げ、活かして欲しいと思っている。その先に敗者はいない。言いかたを変えれば、「どんな嬉しい経験も、活かさなければ、いつかそれは負ける種子となる。一方、どんな辛い経験も、活かせば、いつかそれは勝利を得る種子となる」ということだ。

【蛇足】

 いつものことだが、蛇足的なことを記す。あらゆることに改善点がありすぎて、ブログの更新などしていられない。しかし、今回のブログで取り上げた道場生のことは、なんとしてでも書きたいと思っていた。交流試合の後、すぐに我が故郷へ帰省したが、先の道場生のことの取り上げ方が閃いたので、「負け方」として書いた。

 

帰省は往復1000キロ以上の移動距離、一泊2日の行程であった。故郷、金沢での行動は、私を可愛がってくれた祖父母、そして苦労をかけた母の墓参り、身体が不自由な父と不器用が故に愛おしい妹に声をかけること。また、中学の時の柔道仲間と街に繰り出すのが定番である。そこに今回は、昔からの相談相手である友人と会うことが加わった。とても強行スケジュールだったが、私の帰省は煮詰まる頭の中のスイッチの切り替えに必要なことだと思っている。行きは朝6時に起き、ゆっくりと車を進ませた。途中、南アルプス、中央アルプスと山々の景観を楽しみながら、9時間以上かけた。行きは季節、快晴に恵まれ、日本の風土の美しさを再認した。2週間ほど前に北海道の道場を訪問したが、北海道も美しかった。「ああ、日本は本当に美しい」、そんな思いを強くした帰省だった。一方、帰りは6時間ちょっとで帰った。いつものことだが、スイッチの切り替えは、墓参りと実家で父の顔を見ることで終わっている。そして、スイッチを切ったら、スイッチをすぐに入れる。スイッチを入れた時、いつも思うことは、素晴らしい道場生がいる間に、もっと我が空手道を高めなければということである。

 

訂正:負けに不思議の負けなし〜という言葉は、中国古典ではなく、松浦静山の言葉だった。松浦静山といえば、常静子剣談だったと思う。常静子剣談は、私が敬愛する著述家の是本先生から、先生が意訳された原稿をいただいたことがある。また、その武道観は深く共感するものである。ブログを再読して、思い出した。一応、確認したい。御免。

 

 

 

 

大腸ガン

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   昨日からサイトに問題があり、その調整に時間が取られている。今私には、やり遂げたいことがいくつかあるが、身体の老化とそのケアに時間が取られ、思うようにならない。おそらく、私の同年代の人間のほとんどは、同様だと思う(中には健康な人がいるかもしれない)。

   なにげなくテレビに目をやると、大腸ガンの特集をしていた。私の仲間も癌でなくなったり、闘病している人がいる。癌は人ごとではない。みんな、健康に気をつけて欲しい。

 現在、ブログの更新は、体力の余裕があるときだけにしていが、私がいつも仲間の健康を祈っていることぐらいは書いておきたかったのでブログに向かっている。

 さてテレビでは、大腸ガンの検査は、検便や内視鏡検査で、比較的簡単にできるらしい。さらに、検査を定期的に行い、早期発見を心がければ、良い治療法もあるようだ。また、大腸ガンの予防(再発防止も含め)には、定期的な運動が効果的らしい。

 もちろん、病気の可能性は大腸ガンだけではない。繰り返すが、健康には、みんな気をつけてもらいたい。そして、みんな一緒に年を重ね、老壮青少、全ての年代が仲良くできるような社会づくりを目指そうではないか。

 

 蛇足ながら、私には、政治、経済、教育、また選挙制度、あらゆる社会システムに一家言ある。しかし、まずは足元を見て、しっかり歩いていけるようになってから、小さな発信を続けたいと思う。

 

 

 

人生について

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  私は幼少の頃から、自分の人生について、悩んできた。頭脳明晰ではないにもかかわらず、である。そもそも頭脳明晰でないから悩むのか…。とにかく、周りから愚図に見えたに違いない。否、気狂いと思われていたかもしれない(すみません適当な言い換えができません)。

 

 その悩みと苦しみは、私の性質にアスペルガー症候群の傾向があったからではないかと、考えている。詳しくは書かないが、幼少の頃、私には偏執狂的なところがあった。やがて、それは克服された(そう思っている)。

 

 その悩みと苦しみから、私が逃れることができたのは、極真空手に人生を賭けてからである。そして、いつも疎外感があり、人生に怯えていた私が、極真空手の長やその組織の有力な人達と交わるようにまでになった。上手な言い方はできないが、私にとって、極真会とは「家」のようなものだった。時に私に厳しかったが、同時に私を守ってもくれた。ある日、その「家」が崩壊した。私の心中には、私にとって「家」のような極真会を取り戻したいという思いが、ずっとある。今回は長くは書かないが、人間が社会を形成し、その中で生きて行くには、「家」が必要だ(社会自体も「大きな家」のようなものかもしれない…)。家族、家庭と言い換えても良い。そこには、「家」が自分を育て、かつ守ってくれるという事実がある。また、自分が生きた証があると思うのだ。

 

 さて、私は5月で55歳になった。そのぐらい生きていると、死というものがだんだん身近に思えてくる。まだ、死を恐れるような状態ではないが、私より若い人たちが亡くなるのを聞くと、次、私の番だとしてもおかしくない。

 

 振り返れば、幼少の頃から思い続けていることが、私にはある。それは、「自分がどんな状態になったとしても、自分は自分だと、胸を張れるような自分でいたい」ということだ。そのために、「自分とは何か」と問い続けている。その問いかけの応えの一つが、「家」を大事にするということである。さらに、そのために何をするかと、絶えず問い続けている。それが、私の生き方だ。

 

 話は変わるようだが、拙著「増田 章 吾、武人として生きる」に私の稚拙な詩を、数点載せている。その中に、「人生という試合場で」というタイトルのものがある。その詩は、「すべてのものがパートナーだと感じる日まで」と結んでいる。

 

 実は、その詩を書く前、私は一冊の本を読んでいた。それは、ビクトール.E.フランクルの「生きる意味を求めて」という本だ。

私の空手の「応じ」という概念は、古今東西の哲人の思想と自分の経験、そして、フランクルの示唆する世界観の影響もあったと、改めて思う。以下に、その本からの抜粋を載せておきたい。

 

 『人生は、日々私たちに問いを投げかけてくる。それゆえ、この記録はドラマチックである。私たちは、人生の方から問われているのであり、それに応えていかなければならない。言わば、「人生とは、生涯にわたる問いと答えとの繰り返し」である。そして、答えに関しては、生涯をかけて応えていくことだけが可能なのだ、と何度でも言っておこう。このように人生に対して「応えていく」ことこそ、自分の人生に対して「責任を持つ」ということなのである。

 

 永遠の記録は失われることはない。これは慰めであり、希望である。しかし同時に、修正することもできない。これは戒めであり、暗示である。過去からは何も取り除くことができないからこそ、どのような可能性を選択し、過去に保存するかは、私たち自身にかかっているのである。「修正することができない」というのは、「私たちに課せられた、この責任の重さを思い出しなさい」という暗示なのである。』出典: Viktor.E.Frankl   生きる意味を求めて(春秋社/諸富祥彦:監訳) 

 

 最後に、吉田拓郎の楽曲に「人生を語らず」というものがある。初めて聞いた時、「人生を語らず」と言って、十分に人生を語っているじゃないかと、私は「ツッコミ」を入れていたが、好きな楽曲だ。

 

 私も今、人生を語っているのではない。人生を生き切ることについて、思索を深めようとしているだけだ。どんな時でも自分とその人生を受け入れられるように…。55歳の誕生日、みんなの健康を祈りつつ。(以下の写真は、増田家の墓からの眺め)。

 

 

【蛇足】

 蛇足ながら、拙著、『増田 章 吾、武人として生きる」というタイトルは、私の希望では、「魂への刻印」だった。その希望は、拙著の内容が稚拙かつ未熟な構成だったのだろう、却下された。しかし、私は、自分のことを武人だと認識したことは、一度もない。むしろ、自由を尊重する、リベラルな人間だと認識していた。ただ、そのような人間が、「武人的な生き方」として伝えたかったのは、武人の思想に内在する、普遍性である。また、その普遍性とは、リベラルな私が追求した、「個の自覚」と「自我の超越」と言っても良いような、志向性である。いずれ、その辺をまとめたい。残された時間がないかもしれないが。

 

 

 

 

 

面白くないブログを読ませて「御免」

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アメンバー限定公開記事です。

私の好きな本〜6月11日、朝刊の読書欄から

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今日の朝刊(朝日)に井筒俊彦氏の「意識と本質」という本に関する記事があった。寄稿者は社会学者の大澤真幸氏である。

 

私はこの記事に嬉しくなった。実は、この本は出張にどの本を持って行こうかと、私が悩む時、必ず持ち歩く本だからだ。

 

さて、その辺を以下に詳しく書きたい。


私は子供の頃から本が好きである。成人し、経済的に余裕ができてから(家族ができ、現在は困窮しているが)、本を買い続けている。実は図書館を作り、そこで暮らすのが夢だ。家内は怒り心頭に達したこともあると思う。現在は諦めの境地だろう。おそらく、周りは、そんなに多くの本を全て読めるのかと疑問を持っているのであろう。確かに全ての本を読むのは難しい。しかし、精読するもの、斜め読みするもの、興味のあるところだけ読むもの、資料として買っておくもの、などなど、私にとっては全て必要なものなのだ。そして6割は読み、後の4割は、少しだけ読むか、資料としておいてあるものである。本当は、全ての本を精読するのが私の理想である。ゆえに、出張で電車や飛行機の中に缶詰状態になるとき、ここぞとばかりに本を読もうとする。その結果、カバンの中が本でいっぱいになることが多々あった。周りはその姿を笑った。さすがに私も経験を重ね、そんなに多くの本を詰め込んでも読めるはずはないと、考えを改めた。そして、何度も目を通す本を決め、その本の中から1冊、新刊を1冊だけ持ち歩こうと考えている。その何度も目を通そうと決めた本の一つが「意識と本質」である。

 

では、なぜ、この本に何ども目を通そうと考えたかである。その理由が大澤真幸氏の解説でよくわかった。以下に大澤氏のくだりを載せたい。

 

『こうした紹介から感じ取ってもらえるだろうか。本書を貫いている「普遍」への意志を、である。人類が蓄積してきたあらゆる知を総合して真理に迫ろうとする驚異的な野心。これに深く感動する』(大澤)

 

私は、20年ほど前、仏教や哲学、そして社会学等の本を多く読んだ。仏教は鈴木大拙に惹かれ、その著作や禅に関する著作を多く読んだ。哲学はドイツやフランスの哲学者の著作、社会学では、ニクラス・ルーマンの社会システム理論に惹かれた。そんな中、日本、中国、西洋の宗教や思想、さらには、インドとイスラム社会の宗教と思想など、すべてを東洋思想の中に包摂し、そこに内在する普遍性を探求しようとする井筒先生のこの著作に惹かれたのだ。

 

正直言えば、私は大澤先生(面識はないが敬意を表して、そう呼びたい)の見識には足元にも及ばないだろう。しかし、大澤先生が述べたことと同じことを感じていたのだ。

 

この本に関して、もう一つ話したいことがある。10年ほど前に、シリア人の松濤館空手の世界チャンピオンと知り合いになった。彼は奥様が日本人だった。それゆえなのか、日本語がとても上手だった。初対面では、非常に誇り高い感じがしたが、誠実かつフランク、かつオープンだった。とても話しやすく、一度、食事でもしながら、じっくり話をしたいと、私は思っていた。ある時、彼にイスラム文化の話を質問した(私は質問好きである)。その時私は、井筒先生の著作から得た、イスラム教に関する知見を伝えた。私は、この考えは井筒俊彦という先生の本から学んだと、その時に伝えた。そのとき彼は、「井筒という者を知っている」。「テレビで見た」。「彼のイスラム文化に関する見方(見識)は完璧だ」と言ったように記憶する。その後、私が忙しくなり、彼と会う機会はなくなり、現在は連絡先を紛失してしまった。その後のシリアの情勢を聞くにつれ、時々心配している。つまり、私が井筒先生の著作を何度も読み返すのは、現在の中東のみならず世界の情勢の本質について考える際、大いなる示唆を与えてくれると思うからである。

 

その後、井筒先生に対する、各ジャンルの専門家たちの異論を目にしても、井筒先生を私は支持したかった。なぜなら、井筒先生のような大きな視点で物事を観る学者がいないように思うからだ。つまり自己から世界を、世界から自己を、とでもいうような、包括的かつ個別的(特殊)な思索方法こそが、知的欲求を昇華させる、究極の姿ではないかと、私は思うからである。

 

私は頭が悪いにもかかわらず、その知的欲求として、「世界の構造とは何か、その中で自己とは何か」という問いを立てざるを得なかった。人類が数多繰り返してきた、分裂(対立)闘争の最中にあって…。

 

最後に大澤先生の言葉を繰り返したい。『人類が蓄積してきたあらゆる知を総合して真理に迫ろうとする驚異的な野心。これに深く感動する』

 

昨今は、「ポスト・トゥルース」の時代だと、言われているらしい。

 

だからこそ、私はこう思う。大衆迎合的で、目先の支持を求めるような思索や言説を行う学者、知識人は見たくない。そうではなくて、井筒先生のような、「より深い知の探求」を試みる学者の出現を、これからの時代、そして、この国から待ちたいと…。

 

 

 

 

不思議な夢を見た〜愚か者の夢

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【不思議な夢を見た〜愚か者の夢】

 

 

7月6日、私が時々気分転換に訪れる富士山麓の西内邸は、部屋数が多くかつ広い。また庭と周りの環境が素晴らしい。私は西内氏が大好きである。最近、家族を含め、誰も私の相手になってくれない(昔からか)ので、ずっと西内邸に行きたいと思っていたが、時間がなかった。今回、良いワインをいただいたので、一人で飲むのは勿体無いと思い、急だったが、西内氏に電話をかけた。珍しく、タイミングよく電話に出てくれて、突然の訪問を快諾してもらった。夜から向かい、一杯やった。普段私は、外では飲みたくない。お酒が弱いのと知らない人が大勢いるところで飲むことに嫌悪感があるからだ。また、家の近くで飲むなら良いが、それ以外では緊張感が高まる。その点、富士山麓は、とても安心できる場所だ。私は、飲める人から見れは、ほんの少しの量だが、この日は西内氏と共に飲んだ。

 

わずかな量だったが、私は飲酒するとよく眠れない。この日も眠りが浅かった。また、私は自分の部屋以外では眠れない性分だ。それが原因ではないと思うが、自分の片腕が捥げ、母親に、捥げた片腕を早く冷凍してくれと、催促している夢を見た。夢の中で私は、片腕を冷凍し、なるべく早く手術をしなければと考えていた。また、これから片腕になるかもしれないと、焦っていた。私は時々、夢を記憶しているが、今回の夢は、少し奇妙で不思議な感じのする夢だった。

 

7月7日、朝の早い、西内氏に遅れて起床した後、朝からパソコンに向かった。朝の清々しい気の中、久しぶりに頭が回転してきたように感じた。そこで、空手武道通信のアイディアを書き留めた。その内容は私の道場のサイトとフェイスブックにアップしてある。是非、見て欲しい。

 

実はこの日、数ヶ月前に急逝した、極真空手家の黒澤浩樹氏を偲ぶ集まりがあった。私は、その集まりの発起人に名を連ねていたので、サイト作成の作業を保留し、午後には東京に戻った。「黒澤浩樹を偲ぶ会」と掲げられた会場では、久しぶりに再会した、懐かしい顔が多く見られた。

 

 

このブログは、サイト制作に触発され、その番外編として書いたものである。そのサイトのメッセージの中、私の空手家としての立ち位置に触れた。私の空手家としての立ち位置は、「極真空手を最高の空手にする」ということと言って良いだろう(できれば、空手武道通信のメッセージと合わせて読んでいただくとつながる)。

 

さて、7月7日は七夕の日らしい。「黒澤浩樹を偲ぶ会」では、共に極真カラテの看板を背負った、松井章圭、七戸康博、岩崎達也、派閥を超え、多くの仲間が集まった。松井氏は昔から律儀な男だった。私は昔から、彼のそんなところを大好きかつ尊敬している。「黒澤浩樹を偲ぶ会」は岩崎達也氏と松井氏の尽力により主催された。私は松井氏の行為を素晴らしいと思っている。私は、黒沢氏のことを極真空手の一時代を共に背負った、「戦友」として讃えた。私は、たとえ過去に確執があったとしても、ここはラグビーのように「ノーサイド」として立ち振る舞うべきだと、考えていた。また、心からその存在に感謝できるような生き方をしなければならないと思っていた。同様に考えたかどうかは、わからないが、七戸氏は、遠く沖縄から参列し、参列者と共に、在りし日の黒澤氏を讃えた。大変、美しい光景だった。また、正道会館からは、角田氏が参列していた。私は角田氏が好きである。だいぶ前に数人で食事をしたことがある。そんなに親しい付き合いはないが、角田氏も律儀な人である。ここで断っておくが、私と黒沢氏はなんの確執もない。私は、形式張った付き合いが、面倒臭いがゆえに、人付き合いが苦手である。ゆえに、これまで多くの素晴らしい人との交流の機会を逃してきたかもしれない(その代わりに腐れ縁が多い?)。

 

もう少し松井氏のことに触れておきたい。最近、松井氏とは昔の関係性を取り戻し、口論ができるようになった。これまでは、立場の違いを考え、遠慮してきた。しかし、私は今、ここでいう「立場とは何か?」また「立場の違いとは何か?」を、自分に問いかけている。皆、本当にその意味を理解しているのだろうか。もちろん、人の立場を尊重することが、社会において必要なことぐらいわかっている。しかしながら、その意味を真に理解しようと試みれば、力の優劣、組織、勢力の大小、年齢の上下等の違いは、双方向で理解しなければならないのではないだろうか。反骨の性分の私からすれば、むしろ、上のものが下のものを、権力を有する者が権力のないものを、力のある者が力のない者の立場を慮ることこそが、立場を考えることの社会的意義だと思う。また、繰り返すがこれからは、双方向で立場を慮り、交流する。世界の平和を求めるなら、そんな考え方、スタイルがこれからの世界に必要だと思う。ともあれ、松井氏とは、そういうことも含めて、今後、若い時の幼稚な口論と異なる、高いレベルの討論、対話ができると思っている。上から目線だと感じるなら、御免。


 

「黒澤浩樹を偲ぶ会」は、たまたまなのか、何かの夢を込めたのかは、わからないが、七夕の日であった。この日、私は極真空手の価値を高める、そんな願いを込めた。

 

もっと「黒澤浩樹を偲ぶ会」の模様や追悼を書き記したいが、機会を改めてにしたい。

 

最後に、富士山麓で今朝、私が見た夢は、そもそも私の序盤の人生(幼い頃)が片腕でスタートしているということの暗示であると思っている。それを今の今まで、変わり者と思われながら片腕で必死に生きてきたというのが本当の姿だ。幼い頃からの片腕ゆえに、特に片腕に対する憧憬が強くなった。私は、いつか片腕を取り戻そうと頑張ってきたのだが、取り返す余裕もなかった。それが私の人生だ。見方によっては、私は諦めが悪く、執念深い人間に見えるかもしれない。同時にそのような生き方は、愚か者の生き方の典型かもしれない。私は、そう思いながらも、愚か者のままで生きてきた。そんな生き方しかできなかった。これ以上は、詳しく書かないと意味が伝わらないと思うので、このぐらいにしたい。

 

おそらく、7月7日に見た夢は、「お前には、昔から片腕がないんだ」「急がなければ、片腕が取り戻せないぞ」と、さらに「もう片腕なら片腕でも良いではないか」「いい加減、覚悟しろ」と、神様が、愚か者の私に囁いてきたんだと思う。

 

2017−7−8一部加筆修正

 

 


 

 

応じ(Ouje)とは何か?

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懸案事項として1年以上も、処理できず、保留にしていたことがことがようやく処理、具現化できそうである。

 

現在、そのため猛スピードで準備をしている(私は集中タイプで、乗ってくると寝食を忘れる)。

以前も書籍の出版時は徹夜をすることが多かったが、また、そんな気分になっている。だが無理はやめよう。体の具合が良くない。そういいながら、すでにかなり無理をしている。

以下は、ブログにもアップした原稿をリライトしたものだ。これから、理論と修練体系のまとめに向けて頑張りたい。

 

 

応じ(Ouje)とは何か?

 

応じとは「相手の攻撃技の効力を弱体化し、間髪を入れずに最大の効力を発揮する反撃を行うこと(優位性の獲得と創出)」です。

また応じは「後の先」という攻撃法の一種ですが、単なる攻撃のための戦術ではありません。それは、「後発制人(Gohatu Seijin)」という先達の教えの実践手段です。ゆえにより高いレベルの応じには、相手の攻撃を未然に察知する力(予測力)が必要となります。また応じの基盤として、位置取り、機会、技と技との連携などによる状況(局面)の支配力が必要です。

初伝のレベル(初段から二段)では、相手の攻撃を受けてから反撃する、受け返し(デイフェンス&カウンター)かできないかもしれません。しかし中伝のレベル(三段から四段)では、相手の攻撃を防御しながら相手を崩す。同時に崩れたところを攻撃する、「応じ」を目指してください。「応じ」の稽古の目指すところは、レベルの高いディフェンス&カウンター技の習得ですが、そこに止まりません。真に目指すところは、「組手における自他のリズムの調整→自他呼吸の調整→自他の変化の予測→自他の技の判断→自己の技の選択」というような感覚とそれを制御する能力を身につけることなのです。

 

さらに奥伝のレベルでは、相手の攻撃を防ぎながら攻撃する、より高次の「応じ」である交差法(クロスカウンター)を学びます。しかしながら、「相手の動きに未然に感応し、その動きを制していく」また「相手の動きと一体化し、争うことのない状態を保つこと」が奥伝の応じの目指すところです。より高いレベルの「応じ」を体得するためには、組手稽古の量が必要です。しかしながら、組手稽古をただ行なうだけでは、応じの感覚は身に付かないでしょう。組手型を含めた組手稽古は、相手の動きに対応する心身のセンサーと処理プログラムの構築手段です。多くの人が組手の勝敗に拘泥して、そのような構造に目を向けません。しかし、組手の勝敗に拘泥してはいけません。特に道場における組手稽古は、より高い意識で行うようにしてください。また、試合も単に勝つというのではなく、正しい理合の体得を目指すという心構えで行う方が良いでしょう。

※初伝、中伝、奥伝とは、増田空手の体系の中の技術(理論を含む)レベルの目安

組手型(KumiteGata)とは何か?

組手型とは、増田流・極真空手の稽古において、相対で行う型のことです。約束組手は組手型の基本形です。

組手型の稽古の仕方は、まず2人1組となります。次に、「受け」(攻撃側)と「取り」(応じ側)に分かれ、受けの攻撃に対し、取りが受けの攻撃を防御し、瞬時に反撃を行います。そのような形が組手型の最も基本的な形です。

組手型の稽古は、単独で行う稽古よりも、より実際の組手に近い形で攻防の稽古を行えます。また、組手型の稽古は、初心者で組手に慣れてない人でも、安全性を確保しながら、組手稽古の準備ができ、かつ、繰り返し組手型を稽古することで、体力がない人や不器用な人でも、時間をかけて難しい技を体得することができます。

もし「応じ(Ouje)」の技術がなければ

応じの技術は、相手の攻撃を防御するのみならず、反撃を瞬時にすることで、相手の連続攻撃を防ぎます。つまり、相手は的確な「応じ(ouje)」により、組手のリズムを狂わされ、攻撃をリズムカルに連続させることができなくなるのです。

もう一つ重要なことを言っておきます。もし「応じ(Ouje)」の技術がなければ、相手と技を出し合う組手稽古において、自分が怪我するのみならず、相手にも怪我を負わせることになるでしょう。

なぜなら、応じ(Ouje)の感覚がない人が組手を行うと、恐怖心が先に立ったり、すぐに感情的になったりして、絶えず体に力が入るからです。そうなると、思うように動けなかったり、無駄な動きをしてしまう可能性が高まります。つまり、組手で自ら怪我をしたり、相手の怪我を追わせたりする人は、「応じ(Ouje)」の感覚と技術がない人です。そのような空手は、極真会館増田道場の目指す空手ではありません。ゆえに、極真会館増田道場の道場生は、すべからく組手型を通じ、「応じ(Ouje)」の稽古を行ってください。

 

 

 


言葉で自己を鼓舞する

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2017年7月15日

 

デジタル空手武道通信を始めた。

教本作りとその資金を集めることが目的である。これで、難しい増田カラテを教える準備が整った。これまでの教え方は、中途半端すぎた。これからは、もっとストレートに哲学を教えたい。

そう言うと、初めからクエスチョンマークが出るに違いない。

しかし、冒頭に言っておきたい、増田カラテは哲学だと。

 

 

しかし、デジタルカラテ武道通信に至るまで、かなりの時間を要した。

 

にもかかわらず、「今回もみんなの心と頭には響かないかもしれないな」と弱気な声が聞こえてくる。

 

なぜなら、私の書くものは、英語の話せない私が、英語の文を読むようなものだからだ。

 

そんな感じのものは、見た瞬間に「はい、次!」という感じだろう。

 

 

そんな気持ちがわかるのは、今私は、時々英語と格闘しているからだ。しかし、私は、その内、英語が読めるようになると思っている。なぜなら、難しい増田カラテの学習法(メソッド)を構想しているからだ。この学習法ならば、難しい増田カラテをいつか多くの人に教えられると考えている。ただ、それを形にするには今しばらくの時間と労力が必要である。つまり、私の頭にある、その学習法の原理を応用して英語の学習法を考えれば、昔の数倍のスピードで英語がわかるようになると思っているからだ。

 

「英語を知ってから45年以上も経つのに、未だ英語がろくに話せない者が何を言うか」とお叱りを受けるに違いないが、今、私は英語に興味がある。なぜなら、英語の上達が空手の上達法の研究が空手の上達法(学習法)の研究に役立つと考えているからだ。

 

そして、そのような学習法の開発のためのワンステップが、実はカラテ武道通信であり研究科の開設だと言うことを、ここで言っておきたい。

 

私は自分を鼓舞する。「難しいことをやり続けよう」「これから数年先を見据えて」と…。

 

「ちょっと待て」「お前、今、何歳だ」数年先など考えている場合か。そう怒る、誰かの声が聞こえる。

 

でも、身内にはこう返したい。「何かを極めようとするのは、とても楽しいんだ」「ご飯を食べなくてもね」

 

全く、私は弱気で悲観的なのか、楽天的なのかわからない。

多分家族は、いい加減にしろと怒るだろう。

正直、ちょっとだけ、楽天的な気分になっているようだ。

 

以下は、武道通信の「言葉で自己を鼓舞する」という欄の創刊号の文言である。

 

これは、いつも本を読み、言葉で自分を癒し、鼓舞してきた、私の独り言だと思ってもらっていい。

 

 

言葉で自己を鼓舞する

疲れたら少し休み、そして、またやり始めることだ。その繰り返し、反復が大事である。その中から何かが見えてくる。その何かを見極めるんだ。

 

その何かがお前を救うか、お前を堕落させるかは、わからない。ただ、その何かが、お前の将来を決めるだろう。

生きるということの芸術家

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【生きるということの芸術家】

 

『我々は自然の恵みによって人間たる以上誰でも芸術家たることを許されている。

芸術家といっても画家とか彫刻家、音楽家、詩人という特殊な芸術家を言うのではない。

“生きるということの芸術家”なのである』

 

「禅と精神分析」小堀宗柏・訳/「鈴木大拙全集(増補新版第28巻232ページより引用)

 

 

私は肩書き等で人を観ない。芸術作品として観る。簡単に言えば、まず、その人の魂を観る。同時に生き方の技術を照らし合わせる。不遜ながら、超一流の経営者である、稲盛和夫氏を観たときも、優れた芸術品だと感じた。他方、名もない市井の人の何気ない佇まいに、芸術品を感じることもある。できれば、もう俗を捨てて、人を芸術作品として観て生きていきたい。それが、写真家を志した時の目標でもあった。同時に、そのような生き方こそが、増田流の「俗とともに生きること」でもある。

 

 

 

 

【蛇足】

 

以上のような雑な説明では、増田が何を感じているかはわからないだろう。

しかし、鈴木大拙氏も同様の眼差しを持っていたのではないかと、不遜にも感じている。

 

 

鈴木大拙は、幼少の頃の恩師の一人である永江輝代氏に「金沢が生んだ世界的思想家を知らないの?」と、西田幾多郎の名前とともに、だいぶ前に教えていただいた。

 

そこから、全ての著作とはいかないが、かなりの数の著作を読んだ。そして禅の思想にのめり込んだ。鈴木大拙氏の没後、高弟の古田紹欽先生が後を継いだ北鎌倉の松ヶ岡文庫に、私は手紙を書いた。そして私は、古田紹欽先生の承諾を得て、北鎌倉を訪ねた。その時、古田先生は、私に鈴木大拙先生の書斎を見せてくれた。庭に面した小さな部屋だった。そして、鈴木大拙先生が朱で返り点を入れた、臨済録の復刻版をいただいた。臨済録とは、禅宗の一つである臨済宗の経典である。武道家の心には、臨済の教えが、感応しやすいように、私は感じた。ただ、道元の体系だった教えも、私には興味の対象であるが。

 

実は、小学校3年生の頃、私は親鸞の本を読み、その感想文で表彰されたことがある。早くに夫を亡くし、信心深かった祖母が、私を可愛がり、よく寺院を訪れたこと。私の育った土地が、浄土真宗の信徒の多い土地柄だったことが、私の宗教心に影響していると思う。

 

また、私が鈴木大拙氏を好むのは、大拙氏に、禅のみならず、親鸞の教えをも包摂する、深い宗教体験と宗教理解があるからだろう。つまり乱暴に言えば、理屈を並べるのではなく、根底に人間としての深い体験がある。それゆえ、大拙氏の思想には、普遍性があると思うのである。

 

少し鈴木大拙氏について紹介したい。

鈴木大拙氏は、外国に禅を紹介した仏教学者である。今日の禅ブームは、北鎌倉にある名刹、円覚寺の釈宗演禅師の通訳として鈴木大拙がアメリカに同行したのがスタートのようだ。海外における禅の理解は、卓越した英語力を有し、同時に深い宗教理解を有する、鈴木大拙の存在と著作がなければ、成し得なかったとも言われている。その影響は、亡くなってから51年以上もたつ今日も続いていると思う。ノーベル賞候補にも上がっていたらしい。

 

 

 

 

 

 

 

心構えとも言える要素を技量に優先させたい〜研究科生の募集を締め切りました

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この内容は、私の主宰する空手道場のお知らせに掲載したものです。

 

心構えとでも言える要素を技量に優先させたい

 

8月2日(水)、IBMA極真会館・研究科生の募集を締め切りました。応募された皆さん、ありがとうございます。

 

現在、10名の応募があります。この方々には、簡単な応募動機などを、メール、あるいは面談にて審査いたします。研究科に応募された皆さんにおかれましては、今しばらくお待ちください。

 

研究科生は、大山倍達が創始した極真空手の原点に立ち返り、技術ならびに哲学を吟味し、さらにIBMA極真会館空手道として高めて行くというプロジェクトの同志でなければなりません。また、増田 章の膨大な体験と研鑽による、空手に関する情報を吟味、体系化し、さらに進化させて、斯界の発展に貢献せんとするための協力者です。

 

私はこのプロジェクトに残りの人生をかけています。もう、そんなに時間がありません。まず、1年間が勝負です。

 

私は誰よりも極真空手の未来に失望したくありません。ゆえに研究科生にも失望はさせません。その代わり、その志を審査させていただきます。

 

正直言えば、技量が高い方が良いです。私の手間が省けますし、より高いレベルに、早く到達するからです。しかし技量のある黒帯は、ほんの僅かです。

 

振り返れば、これまで40年近くも空手を人に指導してきましたが、伝えたいことの百分の1、また、本当に善い哲学、良い知識を伝えられていないとの思いがあります。

 

研究科のプロジェクトは、もし、伝えたいことが全て伝えられずとも、できる限り、その全てを吟味、体系化することを目標にしています。また、たとえ道半ばで人生が終わったとしても、必ず誰かが、私のあとを追いかけてくるとの確信を得て、行うことです。また、その誰かとの交信を想定して行うプロジェクトでもあります。

 

さらに言えば、現在、身体がダメになることを実感するからこそ、これまで以上に空手道の研究に対する意欲が高まっていくのを感じています。もう、くだらない争いごとに時間を奪われたくありません。私は理想の空手道を追求します。

 

断っておきますが、研究生が私と全く同じ考え方をする必要はありません。しかしながら、理想の空手道を追求するシステムとモデルをIBMA極真会館空手道を基盤に形にするのだという「志」だけは共有していただきたいと考えています。それが研究科生の共通項です。つまり、その人間の心構えとでも言える要素を技量に優先させたいと、私は考えています。

 

今後、研究科の二次募集も予定していますが、一次募集の人達に心構えができていれば、募集しないかもしれません。おそらく、数名を補充するかどうかだと考えています。なぜなら、すでに十分な人数だからです。もし人数が多いだけで、技量がないとしたら、研究科生の時間が奪われるだけです。来年、二期生を募集するようになれば、指導員やテキストが準備され、より多くの皆さんが参加しやすいようになるかもしれません(もっと審査が厳しくなる可能性もあります)。とにかく、すでに私も老骨の域ですが、研究科生の協力があれば、研究科プロジェクトの目的を実現できると考えています。

 

最後に、研究科に応募された皆さんに、繰り返し感謝したいと思います。私の志を、サイト等で理解してくれたのだと思います。

 

正式なスタートは9月からですが、8月中に研究科のオリエンテーションを行いたいと考えています。また、より詳しい研究科の設置の目的等について、空手武道通信でお知らせします。今しばらく、案内をお待ちください。

(増田 章)

研究科2期生募集予定:2018年8月

 

 

 

【追伸】

空手道に対する理想は、人それぞれあると思いますが、極真空手を基盤とし、その理想を追求する、増田 章の空手道を体系化する志のある人のために研究科を設置しています。故に、最低限の約束ですが、空手武道通信にアップする予定の膨大な内容、写真、映像、テキスト全てに目を通す者でなければ、すぐに退塾(落第)してもらいます。もちろん、道場生としては、仲良くやりましょう。しかし、研究科はそんな機関ではないのです。

 

より深く、より高く〜私の空手道修行の目的

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より深く、より高く〜私の空手道修行の目的

デジタル教本は、空手道の第一歩を踏み出した人のために製作しているのではありません(もちろん、空手道の初心者が活用すれば、絶大な効果があると思っています)。

デジタル教本製作の目的は、空手道の研究をさらに進め、その成果をアーカイブし、将来の承継者に核を引き渡すためにあります。

 

私は、空手道と言わず、道を求めるものすべて、先人の思いを掘り下げ、かつ吟味し、それを基盤につつも、時にそれを否定しなければならないと考えています。むしろ、否定できるものだけが、より高次化(高いレベル)することが可能なものだと考えています。

 

その真の意味は、物事や技術をより高次化するとは、あらゆる認識を自己の中で否定(更新)し続けることだと、私は考えているからです。それは、先人、先駆者の価値を否定することとは異なります。むしろ、先人、先駆者と常に向き合い、コミュニケートすることです。私は、大山倍達のみならず、情熱と誠意ある先駆者とは、死ぬまで向き合いたいと考えています。

 

さて、人間の求めるところは時代とともに変化するようです。また、環境の変化に対応することが、人間の使命だと思います。ゆえに私は「人間として変わらないもの(変えてはいけないもの)=不変のものも探求し、またそれを活かすものとしての普遍性を追求する」という目標を持っています。私は、そのような目標を目指しながら、自己を含め、人と社会により有益な空手道を創出したいのです。それが親、先人に対する報恩であり、私の目指す生き方であり、空手道修行の目的です。

 

IBMA極真会館空手道デジタル教本は、その目的に協力しつつ共に歩んでいく、同志の育成のためにも製作されています。「簡単な内容から抽象的なものまで」「根拠が確証されているものから確証されていないもの(研究科生のみ閲覧可)」まで掲載していきます。なお、根拠が確証済みのものはもちろんのこと、検証中のものこそ、本来アーカイブする価値のあるものです。

 

私は今、そんな思いで、膨大な資料、データ、過去の経験、稽古と向き合っています。

 

最後に、いつかは「生きるという旅」を終えなければならない時が、私にも来るでしょう。デジタル教本の製作は、2年間ほど前から始まったばかりです。始めたばかりの仕事も、私一人では、いつまでやるれかはわかりません。私は、「物事には全力で処する、ただし、やれる時に」というスタイルです。空手道を通じ、良き思い出を共有しましょう。是非、しばらく私とIBMA極真会館空手道にお付き合いください。(増田 章)

 

 

極真空手を「新化」させる

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極真空手を「新化」させる

 

 

私は道場生を空手に上達させ、さらに空手が一人ひとりの人生に不可欠のものになるようにと、高い理想を抱きつつ指導している。ただ、その高い理想が仇となり、逆の結果をもたらすこともあるかもしれないと危惧もしている。ゆえに最近の稽古指導は、プライベートレッスン(個別指導)の意識で指導をしている。その方が自身の研究にもなるようだ。まだまだ、指導方法は不十分ではあるが、稽古指導のフイードバックから稽古メソッド及び指導方法を研究することが、私のルーティンワークの一つとなっている。

 

【60歳の新しい黒帯が誕生】

そんな日々の中、私が教えているクラスで、60歳の新しい黒帯が誕生した。おそらく、黒帯取得までの道のりは、かなり困難だったと思う。よく頑張っていただいた。道場の主宰者として、大変ありがたく思う。さらに私は、その努力に低頭するとともに、本当に嬉しい。そして、これからも楽しく空手の稽古を共にしたいと考えている。

 

ここでその60歳の新しい黒帯について少しだけ書きたい。その道場生は、若い頃から野球をやられていたそうだが、とても股関節周辺の筋肉が硬い。おそらく、蹴りの練習を多く行う極真空手は辛いものがあると思われる。しかし、上段の蹴りが上がらない以外は、すべて器用にこなし、結構楽しそうに稽古をしているように見受けられた。

 

 

【稽古のやり方や意義を正しく道場生に伝える必要がある】

極真空手は、上段廻し蹴りを多く練習するところが良いところでもあるし、悪いところでもあるように思われる。もちろん、私は上段廻し蹴りの稽古を良いところだと考えている。しかし今、その稽古のやり方や意義を正しく道場生に伝える必要があると考えている。

 

それは上段廻し蹴りに限ったことではない。これまで私の道場で行ってきた、伝統技、組手技と多様な稽古内容を行う意義を、より正確に伝えなければならない。なぜなら、多様な稽古をただ行うだけでは、その効果を最大化できないというのが、私の考えにあるからだ。端的に言えば、多様な稽古を行うのには、増田が長年考えている稽古理論を踏まえなければならない。

 

その理論を道場生に伝え、空手の修練をより意義のあるものとしていくことが、私の切なる願いである。そのために、理論を深め、かつ高め、それを纏め上げたい。これから始める研究科と空手武道通信は、私の願いを実現するための手段だ。

 

さて、先述した60歳の黒帯のような人たちが長く極真空手を続けられるように稽古メソッドを創り変えたい。そして、個々人の可能性を広げ、人生を楽しんで行けるよう、空手をより進化させたい。そのためには、より汎用的でありながら、より個別的な対応をしていくことが重要だと考えている。しかし、一人ひとりに個別に対応しようとすれば、かなりの時間を要するだろう。

 

また真の事柄は面授でなければ伝わらない。しかし、面授を受けたからと言っても、「群盲、像を評する」と言っては、お叱りを免れないが、真が伝わっているとは思えない。だからこそ、提言したいのは、私が作る教本を先ず読み、空手に関する感度をチューニングしながら指導を受けていただきたいと言うことだ。

 

なぜなら、私には若い頃の遅れと老化に抗う、困難な毎日がある。つまり時間がないのだ(失礼ながら、皆さんも似たようなものだと思う)。ゆえに、出鱈目に進むのではなく、空手武道通信には、険しい山を登るガイドブック(教科書)のような役割をもたせたい。また私の幼少の頃、全盛期だったラジオのような役割を、今後もたせたい。ちなみに私の幼少の頃は、多くの者がラジオの番組で、音楽の素晴らしさを知り、それを我が物としたいと渇望していたように思う。

 

【私のいう「新化」とは?〜私の武道哲学】

最後に、私のいう進化とは、深化であり、新化と言い換えても良い。さらに「新化」とは、「一つと思える物事が、多様な物事の中に溶け込んでいくこと」。また「多様に思える物事が、一つの物事の中に溶け込むこと」でもある。そのような考えが、私の空手観かつ武道哲学であると言っても過言ではない。

 

(空手武道通信FromAkiraMasudaより)

 

 

2017−8−13:一部修正

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