私が参加する勉強会の2次会で、日本人が英語を上手く話せない理由についての話になった。
外国語大学で学び、海外で活動していた音楽家の仲間は、日本人は文法だとかに拘り過ぎると話していた。
私は、その意見に反対ではないのだが、あえて、文法は大事だと切り返した。また、日本人が英語を上手く話せないのは、英語を話す機会が少ないという環境の問題が一番ではないかと話した。つまり、日本人がもう少し英語を使う環境、使う必然性が高まれば、日本人は英語が上手くなると言うのが、私の意見だった。
少々脱線するが、音楽家の仲間は、文法より大事なのは“息”だとも言っていた。また、彼は“音”が大切だと良く言う。私は、息から音が生まれ、音から伝えたい本質が相手に届くということだと、理解するが、間違っているかもしれない。ここは、もっと詳しく聞いてみたかった。
私は、彼の意見を聞いて、「本居宣長」を思い出した。私は、本居宣長は、日本流、本質論の先駆けだと私は考えているのだが・・・。その核心的概念は、「もののあわれを知る」と言う事である。つまり、本居宣長のいう、「もののあわれ」とは、息を知ること、また、その音を見る事(全身で感じる)ではないかと・・・。(”音を見る”と表現するのには、意味がある。音が聞こえない人にも音があるのではないかと思うからだ。それは、リズムだと言っても良い。様々なものに差異があり、それはリズムを生む。それが音を生み出す。私はそう直観するのだが・・・)
話を戻せば、音楽家の彼は、日本人が英語を上手くならないのは、文法が英語と異なるという事のみならず、日本語の構造的に問題があると言う。
例えば、日本語は上下、身分の差をとても意識していて、本質という事が等閑になるというような事を言っていたように思う。さすが、外国語大学で学び、外国で生活していた芸術家らしい意見である。物事をより多面的に観ているように思う。
それでも、私は、武道で言えば型にあたる、文法を学ぶ事は無駄ではないのではと、意見を述べた。さらに、使う経験を多く持つ事が、必要なのではと。
なぜ、文法を学ぶ事に拘ったかといえば、私の武道哲学で言えば、技を言葉、文法を型に置き換えるからだ。つまり、言葉は、多元的な意味のない、単なる記号かもしれないが、文法は、そこに無限の意味を包含し、それを表現するためのルールである。つまり、無限の意味を創出する仕組みが文法なのだ。
又、日本語にはひらがなと漢字がある。漢字は多元的な意味を包含する言語だと思う。そして、平仮名と漢字の組み合わせにより、かなり複雑な意味体系を生み出す。私は言語学に関しては無知であるが、そのような複雑な構造を日本語は有しているように思う。しかし、そこを知ることが、最終的に自他に対する、より深い理解を得られる事に繫がると、私は考えている。
要するに、英語の文法と日本語の文法の両方を受け入れ、その差異を知る事が、英語と日本語の両方を自在に駆使するために、必要だと思うのだ。
付け加えるならば、その差異を感じる網の目をくぐり抜けていくものが、本質だと、私は考えている。
しかし、彼の意見は正しい。私は、言葉足らずだったと、反省している。
帰路、日本語と英語について、少ない知識を駆使し考えてみた。
周知の事だとは思うが、日本語は文法的に、結論が最後までわからない。一方の英語は、結論を始めに述べる。
例えば、「私は本を買う」という事を言いたいとして、日本語の場合、本をどうしたのか、最後までわからない。例えば、最後の「買う」が「読む」になれば、全く意味が異なってくる。一方、英語は、「I buy a book」で、始めに“買う”という結論を述べる。ゆえに、最後まで聞かないと意味が分からないという事がない。また、英語は、男性、女性を問わない。一方の日本語は、文や会話の中に、自分が男なのか女なのかを示している場合が多い。つまり、自分の身分を相手に伝えているのだ。それは、文の中に情報を多くいれることができる事と同時に多くの意味が入り込みやすいという性質を有することを示している。
そのような日本語の形式、性質が、日本人に異質な者とのコミュニケーションをおっくうにしているのかもしれない。また、本質的論議を苦手とする原因でもあるかもしれない。彼の言いたかった事はそういう事だったのではと考え直している。
補足すれば、日本語は余計な情報に振り回され、囚われ易いという事だと理解する。具体的には、男や女とか、お互いの身分を示す言葉が含まれて来るので、それに囚われ、フラットで忌憚のない意見を述べにくい。
最後に、彼の意見と私の意見の共通するところは、もっと日本人はフラットに他者と交流するべきだと言う事である。そして、そのためにも先ずは、自分(日本と日本人)を良く知る事である。
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日本人が英語を話せない理由?
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