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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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楽しめましたか?〜その3

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楽しめましたか~その3(前回の続きです)
~ピーク・エクスペリエンス!!


振り返れば、私は空手競技を楽しみたいと、長い間、考えてきたように思う。
私は競技選手時代、長く苦しんだ。その内容は、拙著「吾、武人として生きる」で書いた通りだ。

その苦しみの中、メンタルタフネスというスポーツ心理学の書物を始め、宗教、文学に至るまで、人間に関する幅広い書物に救いを求めた。そうして、セルフコントロールを徹底的に勉強した。

当時、私は10数種のキーワードを毎日、繰り返し唱和した。その中に「楽しむ」というキーワードがあった。

その時は、競技自体が楽しいという感覚には中々なれなかった。しかし、競技を楽しめるような心境にならなければ、長く選手生活を続けることができなかったのも事実である。私は、無理矢理、競技を楽しいものだと思い込もうとした(その辺は今回は詳しく書かない)。

また、高い集中力を得るには、リラックスした状態でなければならないということに気付いたのも選手時代である。

以来、長期的に競技を続けるため、さらに競技の質を向上させるには、競技を楽しむ気持ちが大切だと考えてきた。

世間には、競技は若い人達のすることで、中高年のすることではないという考え方もある。しかし、果たしてそうだろうか?中高年になっても、競技を通じ、新しい何かを発見したり、友人を作ったりすることは有意義なことではないだろうか。フリースタイル空手の目標の一つに、長く競技を楽しむということがあるのは、そのようなことを念頭に、フリースタイル空手は構想されているからである。

残念ながら、既存の空手競技ルールでは、真鍋さんがいうような「楽しさ」を獲得することは難しい。また、長く競技を楽しむのは困難だ。

なぜなら、ボクシングのような一瞬でKOできる攻撃とゴールが封印、制約されているから。また、柔道やブラジリアン柔術のように、倒し技や関節技が封印され、一瞬で技が決まることが少ない。ここで言う、一瞬で技が決まるとは、ラッキーで決まるような技を指すのではない。技が決まるまでのプロセスに理が備わっているかどうか、つまり「作り」があるかどうかと言うことを指す。

つまり、先述の真鍋さんが言うのと同様、ゴール(一本や勝利)へのプロセスが満足・納得できなければ、真の楽しさは生まれない。補足すれば、既存の空手競技はゴールが曖昧なのだ。

既存の空手競技のように審判の主観に頼る判定方法は、真の楽しさを生み出さない(多くの人は、空手は武道だからそれで良いというかもしれないが・・・)。

また、競技を長く楽しむという点では、打撃技の威力や戦闘(組手)に対する耐久力を競うような競技のあり方には、難があるのは明白である。

私流に、先述の真鍋さんの「楽しさ」についての考えを、考察し意訳と解釈を加えれば、以下のようになる。

先ず、「人間には、意志を持って行動することに快を感じる習性がある」。また、「自分の意志的行動が、自然の理法に適ったとき、そこに楽しさが生まれる」さらに、「自分の意志的行動が、様々な相互作用で、想像を超える結果を生み出す時、そこに感動、喜びがある」

補足を加えれば、人間には自己の意志的行動に抵抗するかのような他の意志が生起することがある。それを乗り越えるが如く、自己の強い意志を持って行動し続ける時、ある特殊な状態になるとの実感が私にはある。

人にもよるが、その状態を経験した人は、神の存在を感じることさえあると思う(私の場合はそうだった)。それは、スポーツサイキングの世界でいう、「ピーク・エクスペリエンス」と同一のものだと思う。

以上は、私流、人間心理の分析でもある。
(続く)


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