有効打という認識と視点〜その1
デジタル空手武道通信のためのコラム(読み物)として書きました。長いので、本日と明日の2回に分けて掲載します。
興味がある方はデジタル空手武道通信・第61号の巻頭コラムで全文閲覧可能です。
【組手技能を獲得したければ】
先日、私の主宰する空手道場において昇段審査会が行われました。その総評で私は「攻撃が上手く、防御が下手なものは、まだ本当に上手くない」「防御が上手く(巧みで)、攻撃が下手な者は、まだ本当に上手くない(巧くない)」「攻撃と防御の両方が上手い者(巧みな者)が本当に上手い者(巧い者)」と述べました。
なぜなら、私は相手を攻略するには、打撃技の精度は当然のことながら、防御技と攻撃技の両方を活用する能力を高める必要があると考えているからです。その能力を私は組手技能と呼びますが、その技能の獲得は誰でもできることです。然しながら、その技能が必要だとの認識がなければ、その獲得の可能性は拓かれません。より端的に述べれば、組手技能を獲得したければ、先ず以って「攻撃法(術)のみならず防御法(術)の両面から修練を行わなければ技能は身に付かない」となります。
【戦術的修練】
然しながら、私のいう組手技能というものがどういうものなのかが理解できない人が多いのかもしれません。その証拠に、多くの空手流派の組手修練では攻撃法(術)の強化のみに注力しているのではないでしょうか。具体的には、攻撃技のスピード強化、パワーアップ、さらに組み手の際のスタミナ強化が主だと思います。もちろん、それらの修練は武道修練の柱となるものです。また、それらの修練は、武術の修練に付随する訓練的な要素であって、武道の核にある武術修練とは異なるものです。また、そのような修練ばかりを行えば、体力が全てだというような誤認をしてしまう可能性があります。本来の武道修練は、もっと戦術的なこと、技術的なことを習得するものだと思います。
私がいう戦術的修練とは、攻撃技と防御技の運用法を学ぶことです。そのような認識を前提にするからこそ、攻撃技の精度や技の活用のための技能が養成されるのです。
【他の打撃系格闘技の空手競技者の技能を比較した場合】
おそらく戦術的感覚及び打撃技の技能の面で、空手競技者とボクシングやムエタイ、キックボクシングなど、他の打撃系格闘技の空手競技者の技能を比較した場合、明らかに空手競技者の技能は劣ります。「そんなの当然だ」「ルールが違うのだから」というのは簡単です。また、攻撃技を制限・限定することで、独自の蹴り技が発達したという面はあります。その発達した打撃技を以って、空手は最強、すばらしい、と肯定するのは噴飯物だと思います。さらに言えば、事をそんなに簡単に片付けて良いものでしょうか。
客観的に眺めますと、他の打撃系格闘技は打撃技のルールにある程度の共通項があるので、技能の構成要素が共通しています。一方、空手の打撃技は、打撃技を当てない、あるいは当てても突き技による頭部打撃は禁じ手とするなどのルール設定により、技能が未発達です。もちろん、そのような組手ルールにしたのには、それなりの理由があることは知っています。その理由の最たるものは安全性の確保だと思います。そして、そのことにより格闘技系武術より老若男女に普及したかもしれません。しかし、そのことにより、武術としての感覚や技能が劣化しました。一方、防具空手や日本拳法などの防具を活用し、突きによる頭部打撃を認める流派には、武術としての感覚や技能が残っているかもしれません。
ここで私が言いたいのは、どの武術や流派が良いとか悪いとかではありません。私が述べているのは、武術修練として大事な要素とは、その格闘技術(殺傷力)を磨き高め、かつ、様々な局面において活用するための技能の養成という認識と視点だ、ということです。
もう一つ、空手の技能と感覚が武術として退歩している原因は、空手が現競技に囚われているからだと思います。また、そのルールの中での戦いに慣れすぎていることが原因です。多くの空手流派が「空手は武道だ」と謳っています。しかしながら、武道は武術の駆使という特殊な状況下における心身の運用と活用を核にするからこそ、その独自性と有用性がある、と私は思うのです。
また、その独自性を忘れては、スポーツよりも劣るものに堕落していくでしょう。断っておきますが、私はスポーツを肯定する立場です。ゆえにスポーツとしての空手も肯定する立場です。
一方、未熟なルールの中での勝利を盲目的に信じ、その勝利のために攻撃技のみに囚われている競技者の姿には、全体主義的社会における盲目的な視点と精神の抑圧を感じます(精神の解放性を感じない)。もちろん、流派の中での競技法は多様で良いとの立場ですが、然しながら、もし、競技者を数の面で増やし、社会的な影響を与えたいならば、そこには普遍妥当的な価値観がなければならないと思っています。これ以上述べれば、話が難しくなるのでやめます。
平たく言えば、空手には防御の意識と防御技能が未発達の競技者が多すぎます。私は、その傾向に対する対策として提言したいことがあります。それは、試合判定に「有効打という認識と視点」を加えることです。
もし、有効打が判定に加えられれば、当てる(攻撃)ことのみならず防御を考えるようになります。同時に、選手のみならず、審判、観客、そして愛好者に技能の優劣が理解できるようになります。また、その視点が加われば、空手競技に新たな価値観と魅力が付与されると思います。
一方、ダメージを与えて、相手をKOするという判定基準、また短い試合時間、かつ、限定された、これまでの競技ルールを継続していては、技能の養成は困難だと思います。せめてキックボクシングのように5ランドあれば、選手の技能は変わると思います。また、有効打を判定に加えることで、選手の防御技能が高まるのみならず、後述する攻撃技をより有効化する打撃技を当てるための後述する「作り」の意識と技能が生まれるのです。
【競技選手として駆け出しの頃】
ここで脱線して私が競技選手として駆け出しの頃の話をします。私は自分より攻撃力がある相手と戦う際には、相手の攻撃を絶対に被弾させないとばかりに「受け技」の稽古をし、戦いに臨みました。また、右手が負傷して臨んだ第18回全日本大会では、左手1本と足技のみで全て戦いました。負ける恐怖で2日間、ほとんど眠れませんでした。また、1試合ごとに「生き残った」と「次の一戦も命懸けで」と言い聞かせて戦い抜きました。その際、退き身や入り身、回り込みで位置取り、間合いの調節をしながら私は戦いました。また左右に位置取りをしながら戦う技能を使って戦いました。この位置取り、足使いの感覚は、高校生の頃、柔道の他にレスリングを経験したことが大きかったと思います。レスリングは接近戦ですが、フリースタイルは別です。タックルで脚を取ってくるので、瞬時に相手の動きに反応し、その技の防御を行い、かつ相手を崩し、さらに位置を変えます(バックを取ります)。
私は、レスリングの基本的な動き・技能に強いインスピレーションを得ました。空手とレスリングは競技が異なり、戦う技術も違うと思われる人がほとんどでしょう。しかし、そこが私と他の人の感覚が異なり、理解されない原因だと思います。その時、私はレスリングの技能に内在する原理の中にあらゆる戦い、当然、空手にも活かせる技能の原理があると直感したのです。つまり、私は技能に内在する原理を感じていたのです。幼い頃は、それを原理などとは考えませんでしたが、今は違います。それは戦い(格闘)の原理であり、そこから技能が生じ、また思想が生まれるのです。
【自分の攻撃のみを正確に被弾させる技術を追求】
長い修練の中で、私の戦い方は、攻め一辺倒の組手から、相手の技を受け崩し攻める、後の先とも言える戦い方に変化しました。言い換えれば、なるべく相手の攻撃を被弾(まともに受けないで)しないで、自分の攻撃のみを正確に被弾させる技術を追求すると言うものに変わりました。しかしながら、今持って、極真空手の世界で、そのような戦い方を目指している者はほとんどいないと言っても過言ではないでしょう。その根本原因を私は、極真空手が顔面突きを禁じていることではなく、有効打を判定基準にしていないという打撃技に対する認識、イメージの問題だ思っています。一言で言えば、攻撃技の判断基準が明確ではないと言うことです。
ここでいう攻撃技の判断基準の曖昧さは攻撃技の精度を向上させないだけでなく、防御技術を等閑にします。また、攻撃技を審判が明確に判定しないルールを利用して、打たれ強さを強化し、手数で優位を得ようという戦術が生まれました。その結果、一撃必殺を謳う空手の組手なのに、その打撃技には一撃必殺の切れ味は見えません。もちろん、直接打撃制の空手競技のKOシーンは破壊力を感じさせます。然しながら、理合のわかる人から見れば、相手の防御技技術が未熟なところに攻撃技が当たっていることがほとんどです。
【私が若い頃に師事した浜井識安先生や山田雅俊先生】
振り返れば、私は幸運でした。なぜなら、私が若い頃に師事した浜井識安先生や山田雅俊先生の指導法は、他の先生とは異なっていて防御技を攻撃技と一緒に教えてくれたからです。浜井先生の場合、まずは上段回し蹴りの当て方としてコンビネーション(拓心武術では連係技)を指導していました。同時に上段回し蹴りの防御技と反撃技(拓心武術では応じ技)を指導していました。そのような指導法は、当時、画期的だったと思います(極真会館では)。山田先生の場合は、まず門下生に下段回し蹴りを防御する「スネ受け」を指導します。そして相手に確実にダメージを与える堅実な攻撃技であるローキックを指導するのです。キックボクシングなら当たり前のことですが、当時の極真会館の空手では当たり前ではありませんでした。おそらく、山田先生は強力な下段蹴りの技を自分の得意技としつつ、その技の防御法も有していました。おそらく、下段回し蹴りの威力を知っていたからだと思います。その威力を知っていたからこそ、その防御技をセットとして修練に組みこみ、門下生が下段回し蹴りで負けないように、と考えたのでしょう。
浜井先生や山田先生の指導法の共通点は、攻撃技の有効性と同時にその技を防御することを教えること。また、その情報を理論的に門下生に伝えてくれることでした。当時、経験も知識も貧困な幼い私は、もっと豊富な情報や知識を欲していたのです。さらに、浜井先生は私に情報のみならず、さまざまな経験をさせてくれました。そのことが本当に幸運でした。ただ、誤解を恐れずに言えば、他流派に出稽古し、色々と学ぶのは、中途半端になるし、面倒臭いことが多すぎるので嫌いです。浜井先生の場合は、余計な世話をせずに、私に豊富な情報を与えてくれるだけなので、私の性格にはあっていました(私も出稽古はしますが、私は人見知りです)。
【ムエタイの選手は攻撃力のみならず防御技術も優れている】
もう一つ昔話をすれば、私は若い頃、大阪で1年間生活したことがあります。その時、山田先生の直弟子で後の全日本チャンピオン、故・大西靖人氏と同じアパートで生活していました。 当時、私より少し長の大西氏には世話になりました。良い思い出です。しかし、一緒に稽古しても、大西氏は山田先生直伝のその技を教えてはくれませんでした。山田先生の弟子である故大西靖人氏は強力な下段回し蹴りを得意技にしていました。私はその下段回し蹴りを稽古中被弾し、その威力を知り、懸命に防御技を考えました。大西氏は、私が防御法を聞いても教えてくれませんでした。いろんな技を直ぐに教えてくれた浜井先生とは違いました。おそらく、私をライバルだと認識していたのでしょう。懐かしい思い出です。私は、毎日、下段回し蹴りが脳裏から離れませんでした。あるとき、防御技が閃いたのです。その技を大西氏に伝えた時、大西氏が「苦笑い」をしたのを覚えています。しかし、悩んだ結果、大西氏の左下段回し蹴りは私の得意技にもなりました。そのような体験も新しい武道の修練法を考案するための良い体験になったと思っています。後に、その防御技術はムエタイでは基本的技術だったことを知りました。ムエタイの選手は年間に百戦以上も戦うので、相手の攻撃を被弾していては身体が持たない思います。それに加え、ムエタイの勝負判定基準が、膝蹴りやミドルキックをまともにもらうと有効打として判定するということもあると思います。また、テイクダウンも有効技(ポイント)として、判定に影響するようです。そのように判定基準がKOのみならず、有効打の競い合いという構造を有しているのです。私は、そのような判定基準(ルール)があるから、ムエタイの選手は攻撃力のみならず防御技術も優れているのだと考えています。いうまでもなく、ムエタイには打たれ強さもあります。
その二に続きます(明日)