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Channel: 増田 章の「身体で考える」〜身体を拓き 心を高める
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弱さから始まり弱さに帰る〜デジタル空手武道通信 第60号

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弱さから始まり弱さに帰る〜デジタル空手武道通信 第60号(リンク)

 

【5月の連休】

 

 5月は寒くも暑くもない、大変過ごしやすい季節だ。そんな季節だが、5月は身体の調子が悪かった。それゆえ連休中は読書三昧で過ごした。

 何冊か読んだ本の中で、3年ほど、本棚に寝かしておいた、分厚い哲学書がある。その本は最初に読んだ時、「難しい」と後回しにした本だった。それから、3年ほど経った。その本が、今読むと思いのほか理解できた。否、理解できる時だからこそ、再び手に取ったのかもしれない。また、本を読むとは自己の心が求めていなければ、内容を真に理解することは難しいのかもしれない。もちろん、すぐに読める本もある。だが、そんな本は時間潰しだろう。

 

 そん中、気晴らしに郊外に出かけた。名刹を周り、山の中や海辺を歩いた。好天に恵まれた。また、連休の最後にもかかわらず、人は少なかった。新緑の山中、穏やかな海辺にはしゃいだ私は、最後に坂道を走った。身体の故障で衰えた体力を取り戻そうとしたのだ。その時、肉離れを起こした。車中、座りっぱなしで、筋肉が固まっていたのだと思う。後悔は先に立たず。それから3週間ほど、大変だった。

 

 結局、あまり調子の良くない5月だったが、ついに私は還暦を迎えた。まだ身体は動くが、若い頃のようには動かない。衰えを遅らせようとは思ってはいるが、どんどん衰えていく。そんな自分の身体に対し、これまで大事にしてこなかったことを申し訳ないと思っている。これまで文句も言わずに私の要求に答えようとしてくれた身体には本当に感謝している。そんな思いを持ちながら、私は新しいステージに立とうとしている。ステージというと大仰だが…。

 そのステージとは、身体が衰える中、いかに身体を活かし、楽しむかである。正直に述べれば、そのステージで納得いく自己表現ができないかもしれないと思っている。言い換えれば、演じ切れるかはわからない。それでも、そのステージに登ってしまったというのが実感である。無理なら降りることもあるだろうが…。限界に挑戦するのが習い性になってしまった。

 

【弱さから始まり弱さに帰る】

 

 昔を振り返れば、若い頃の私は、より強くなりたいと考えていた。同時に強くなれると思っていた。そして強くなったと思ったこともある。だが、それは勘違いだった。

 今、私には「弱さから始まり弱さに帰る」という思いがある。弱いという自覚があることは悪いことではない。その自覚があるからこそ、拓心武道でいうところの「組手力」が形成される。また、自己の身体という道具を活かすことを意識できるのだ。

 「自己の身体を活かす」、そのためには「技」が必要だ。その技を作り上げる過程で、自己という存在を把握する。その把握の中に楽しさはあると思う。

 断っておくが、技の巧拙は気にしなくて良い。たとえ上手くなくても、自(我)と道具と他とコミュニケートし、その関係性を実感できれば良いのだ。

 なぜなら、技とは自己表現の手段であり、目的は自己表現であると思っているからだ。そして、たとえ自己表現の手段が拙くとも、他の自己表現を受け入れ、かつ、互いがより高次の自己表現を目指そうと思う心が大事だと思っている。しかしながら、他者のみならず自己の表現目的が曖昧で低次の欲求に基づく場合、問題が生じる。たとえば、その目的が恣意的であり、かつ、表現手段が暴力的である場合だ。そのような自己表現を受け入れすぎると、人間的成長自体が必要のないものとなってしまう。

 言い換えれば、自己表現の手段としての「技」の修練に意味がなくなってしまうということである。修練自体が、浅い次元の自己の欲求の充足で終わってしまう。断っておくが、かくいう私の自己表現の技は上手くはない。上手くないからこそ、いつも自己表現(技)のあり方を考え続けているのである。

 

 また、技が上手くなるには、技による自己表現を楽しいものと自覚できることが必要だと思う。ただし、その技が自他の関係性を活かすような理合を基盤とせず、ただ身体的な能力に依存するものであれば、問題である。要するに、私が技というのは、自他の関係性を活かすものであるからだ。もちろん、技を効果的に駆使するには身体的な強さがあった方が良い。言い換えれば、技を創り、駆使するにはある程度の身体的な強度が必要なことは言うまでもない。なぜなら、身体に強度がなければ、技の精度がわずかでも足りないだけで、自己の身体(基盤)が崩れてしまうからだ。だが、そこまでの技の精度を究めることは、私も含め普通の人間にできることではないかもしれない。それでも、武技(相手を殺傷する技)を用い、相手と対峙するなら、そのような精度を追求する覚悟を持たなければならないと思っている。

 そのような覚悟、技の核心を得るために、身体的な強さに頼ることは妨げになる。私はそのように考えている。ゆえに、身体的に優位にある時であっても、自己を弱く脆いものだと自覚し、丁寧に「技」を他に駆使することが大事なのだ。要するに、私は身体的な弱さを自覚することで技の核心が掴めるのではないかと思っている。

 

 若い頃を振り返れば、私は一撃でブロックを粉砕するような強さを求めた。だが、そのような強さは永遠には維持できない。たとえ一時的であっても、そのような強さを獲得することには意義があると言われるかもしれない。また、永遠に維持できるものなどない。そのように考える向きもあるだろう。しかし、自(我)と道具と他を三位一体とする「技」の追及と理想は、自己存在の本質の自覚につながると思っている。だが、自己存在の本質など、知らなくても良いとほとんどの人は思うだろう。だが、自己存在の本質とは、「他を活かすことができて、初めて自己を活かすことができる」という自覚、そのものなのだと思う。また、その自覚を得ることができた時、人間は自己を掴める。そんなふうに私は思っている。同時に、それゆえ人間は道具を作り、集団を形成し、主義(教義)を掲げて、自他の一体感を強めるのだと思っている。さらに、人間は集団の中で自己の立場を作り、そこを拠り所に自己を確認する。しかし、そのような一体感やあり方は、往々にして自己を疎外する。そのような社会のあり方、社会的自己形成のシステムは行き詰まっているのではないだろうか。また、その姿は、活かしあいではなく、エゴとエゴとの対立、殺し合い(否定し合い)のようにも見える。私が追究するのは、もっと根源的な人間のあり方に立ち戻ることである。

 

 

【サーフィンを例えに】

 

 おそらく、私の言っていることが全く理解されないと思っている。ならば、サーフインを例えに出したい。サーフィンは自己とボード(道具)と波(自然)とが一体となることを楽しむスポーツだ、と私は思う。空手の場合、道具を介在させていないように思っているだろうが、自己と身体を切り離し、その身体を道具として尊重することが大事だ。そのことを理解できるならば、自己を認識する「自」という心がボード(板)を媒介にして、波(自然)という「他」とコミュニケートし、自己の本体の自覚としての自他の一体感を得る。そこに本当の楽しさがあるのだと思う。つまり、サーフィンとは、「道具(他)」と「自(自我)」と「他(自然)」の一体感と同時に自己の本体の実感を得るための技能を追求することなのではないか。つまり、私の考える「他」とは、究極的に自然そのものなのだ。だが、人間と社会が自然ではなくなってきている。そこが問題なのである。

 断っておくが、私はサーフィンをしたことがない。故に、サーフィンが私の想像するようなものではないかもしれない。だが、私がサーフィンを行うとしたら、それを求めるであろうということ意味合いで理解してほしい。また、私が述べたいのは価値観の部分である。そして、私の新しいステージは、武術修練を通じ、その価値を体感することと言っても良い、それは令和時代に誕生した、新しい武道と言っても良いだろう。

 

 

 

 


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